周期の中の一日
あるところに二つの存在がありました
「あ、あ!あああ"ッ。あう。う、うう、っう。ぐす。うえええん。かなしい、ぐるしい、いたい。あ、ッう、うう・・・何か、だれか、うぇぇぇぇえええ。ないの、ない。やああああだああああああ。!!あああう。うぅ。うえ・・・えっく。うれしいいぃぃ。たーの、う、じ、ぃー・・・?」
夜泣きのような絶叫に彼はふう、と息をついて姿を見せた。
彼に怒りがあまりないのは、目の前の存在の錯乱はめったにあることではなく、また赤子のように泣きじゃくる理由を、彼は知っているからである。
それでも怒りがないわけではない。
おい、と彼が声をかけても、ぶつぶつと言葉をこぼしながら、目の前の存在はぼろぼろと大粒の涙をこぼすばかりだ。
彼とは対極の存在は視線を忙しなく動かしていた。
そしてそうすることで、何もない空間にさまざまなものが現れた。
木が生えてきたと思ったら、花束がいきなり出現する。かと思えばかわいらしいぬいぐるみがいくつもぽんぽんと現れる。そしてさらには関係のない犬や猫、鳥など生き物までもが出現して、異空間と化していた。
「あーっあっあっ。うわああーあああああんッ。かわいい。ちがう。かわいくない。にがい。おいしい。くるーじーぃー。ちがう!ちがっああああああ!あぅ、うぅぅ・・・」
そして異空間を作り出した目の前の存在は、泣き喚いてわけのわからぬことを言うばかりだ。
おい、と彼はもう一度目の前の存在に声をかけた。
「おい、うるさいぞ」
ぐすぐすと泣きじゃくる目の前のそれに、彼はあきれのようなものを混ぜてつぶやく。
しかしこうして苦言を呈したところで、目の前のそれ自身ではどうにうも収めようがないことを彼はよくわかっていた。
「う、うわあああああん。っく、う、えぐ・・・・・うぅ」
彼と対極の存在である目の前のそれは、白い。肌も髪も、ソレを構成するすべてはほかのものを拒絶するかのような白だ。
ただ、例外がひとつあるとすればそれは瞳の色だろう。
真紅では足りない。断末魔にこぼれる血を煮つめたような鮮やかな赤。
彼の目の前の存在は肌でさえも白磁の陶器のような色をしながら、瞳だけは血が透けたような色をしていた。
その赤い瞳から、彼と対極の男は、幼い子供がするように大粒の涙をあふれさせていた。
彼の目の前にいる存在は、彼と等しく人間ではない。
だが見た目だけは背の高い、それでいてひょろりとしたまるで針金細工のような人間の男のような姿だった。
そんな姿をした男が、泣くのである。
幼子のように、声を上げて。
なぜ、泣くのか。
その理由がわかるだけに、彼はどうしたものかと思案に暮れていた。
目の前の男がそうして泣くには、一応、理由がある。
彼にしてみれば果たして、それは理由というのかどうかさえも怪しい。彼にしてみればそんなものは理解しがたいことである。
だが。
理解、しがたくはあるのだが。
しがたくとも及ぶものでは、ある。
それだけに、彼は一向に表情を変えないまま、どうしたものかと思っていると。
「あ、ああああああーあーうーあうぅ、ぅ、うるさい。ウルサーイ!!!」
白い男は幼い子供のように、そういっておもむろに耳をふさいだ。
えぐえぐと白い血の気のない肌をわずかに赤らめて、男はまた関係ない言葉をぶつぶつと吐き出す。
長らく続く、悲鳴のようなものにあきあきした。
あるいは、何もかも拒絶しようとするその姿があまりにも哀れに見えたのかもしれない。
ともかく、耳をふさいだ男のその行為はさすがに見かねて、彼は深く考える前に体を動かしていた。
手を伸ばし、細い体に触れる。
そして白い男を抱きしめた。
そのとたん男は泣くのを止めた。
ああ、案外簡単に泣き止むものなのだと彼はぼんやりと思い、一方白い男は目を丸くしていた。
彼らは対極の存在であり、仲がよいかといわれると少々微妙だった。
お互いは相容れぬけれども、同じ創造主から生まれたもの同士。双子ではない。兄弟ですらない。性能には差があり、こなすべき役割にも差がある。
お互いは確かに違うもので、ねたましいや憎いといった感情もあれば、愛おしいと好きだと思う感情もある。
一言で互いの存在を表現するのは難しい。そうしようとするにはあまりに長い時間を過ごしていた。
けれど。
けれど、長らく存在してきた彼らにとって、お互いが特別なものであることは確かだ。
それは相反する感情を抱いた、名前の着かぬ激情に近かった。
「ひ・・・ひえい・・・」
と。
幼いころ一時期のように名を呼ばれた。
最近は久しくお互いに名など呼んではいない。緋影はたちはお互いに「対極」だとか「対の存在」だとかいった、存在名でしか呼び合わなかった。
とはいえそれでも、緋影の対となるのはすべてにおいてこの白い存在だけであり、白い男においても緋影は唯一無二の対極の存在だった。
ともかく、めっきり呼ぶことのなかった名を口にされ、緋影はぼんやりと対がこうなっている原因について思いをはせた。
それは。
それは今日、この日が。
命日だという、その日だからだ。
そう。
すべての頂点に立つ存在の緋影の対極。あまたの神の上位に立ち、人に認識すらされぬ超越的存在が赤子のように泣きじゃくる理由。
理由は、たった、それだけだった。
命日。
そんな、人間のような理由で、緋影の片割れはおかしいほどに泣いている。
そんな理由で、と緋影が呆れのように思ってしまうのも、このときばかりは仕方がないといえた。
緋影とその対極である白い男は、すべてから外れたものであり、その中心でもある。
その大きな矛盾ともいえる相反性を孕み、己の中に抱えながら存在しているのだ。人類という、彼らにとっては小さな存在が知覚することもない、大きな力の塊。それでいてなお、すべての事象。
それらを具現化した存在が彼らであり、ゆえに彼らはヒトのカタチこそとれど、人とは完全に異なる存在だ。
涙と流すなどということは、感情が一般人の塵ほどもない彼らにはほとんどない。ありえないというのに近いし、というよりも泣くなどという行為は不可能に近い。
基本的に感情などというものは、彼らが自分の存在を枠に閉じ込め、己の力の大部分を封じたところで一般的な人間には大幅に劣ったものしか持てはしない。
大きな枷を付けたところでまともな感情を持てはしないのだ。そういうことをよくわかっている緋影からすれば、己の対極的存在が泣きわめいているのはある意味異常だった。
そしてそんな存在が、〝命日″という、そんな理由で泣いている。
だから緋影にとって己の片割れのその状況は理解に苦しむものだった。
命日といっても、人間の定義する一年というものではない。そんなものに合ってはいなかった。
ただ、白い片割れの中には何かしらのルールに基づいた『周期』があり、その周期が巡ってくると、このような状態に陥る。
泣きわめくという彼らにとって異常な状況はそうそう訪れるわけではなく、緋影も前にこの状況を見たのはいつだか思い出せはしない。
目の前の、緋影が腕の中に収めた白い存在は、緋影がなぜこの片割れである男が泣くのか知らないと思っている。
だが、緋影は対局であるがゆえに、その理由も知っていた。
それはもはや存在しない世界の話だ。
いや、それは正確ではないな、と緋影は思った。
正確には、片割れは閉じてしまった、と『思っている』世界の話というのが、正しい。
そして泣く理由とは、そこで起こった出来事が起因している。
緋影とその片割れは、力の塊から概念として作り出された。
存在意義も、役目もあった。
白い存在と対極のものとして生み出された緋影だが、性能差でわずかに腕の中の存在より劣る。
だからだろうか、と緋影は思う。
緋影は己にどんな役目があるかを理解できていた。むしろ役目をこなした対価に得られる『力』をえなければ、存在が安定しなかった。
だが、緋影の対極は違ったのだ。
優れていた。
それも、すぎるほどに。
だからか。
この目の前の存在は―――。
己がどういう『モノ』かさえ、理解できていなかった。
創造主が、もちろん緋影もその対も自動的に発生したわけでなく作られたものなので創造主がおり、それが腕を折ろうが足を折ろうが、はたまたぐちゃぐちゃにしようが一向に構う様子がなかった。
緋影もまた人ではない。性能差でわずかに対の存在より劣るものの、それに限りなく近い存在であることは確かだ。
だから緋影は別に、グロテスクなことをされて気持ち悪いだとか、泣きわめかないのはおかしいだとかそういったことを言いたいわけではない。
この場合問題なのは、緋影の対に、身体維持、という概念がないことだ。
緋影とその対は、ある意味では究極的な完成形である。存在そのものが創造主によって生み出された時点で、すでに完成して完結している。
だから体に負傷を負うときに自動的に修復する。それは存在そのものを保つために、その完結性を保つために必要なことなのだ。
なのに。
生まれたばかりの対はそれらのことをまるで理解できておらず、そしてそれゆえに。
緋影を認識できていなかった。
だから、白い対極は当初一人で生まれてきたと思っている。
ともかく、創造主も予期していなかったであろうその事態に、しかし創造主は冷静に対応した。
創造主はそんな対に、『世界』をひとつ、与えた。
白い対によく似た、白い髪と赤い目のニンゲンがいる世界。
男と女、それぞれ一人ずつがいた、世界。
対は、そこで『神』として君臨した。
そして白い対が己の役目に近い『神』というものに理解が及んだところで、人間たちを創造主が殺してしまった。
女のほうは、創造主が目の前で殺し。
そしてようやく、生じたものがいずれ消えるという原理を、白い対は理解した。
己の役目と、存在意義を理解した。
内面ではどんな思いを抱いたのか、緋影にはわからない。
それは知る必要もなく、限りなくどうでもいいことだ。
ただ、緋影は思う。
白い対極は、それが純粋に悲しかったのではないか、と。
まったく憶測で、あたってはいないかもしれないがしかし、と思うのだ。
死というものが。
なくなってしまったことが。
ただただ、かなしくて。
悲しむ人々が、喪失に対してなぜ悲しむかを理解できてしまうからこそ。
腕の中の細く白い存在はたった1日だけ。
声を上げ。
何もかも外し。
涙を流す。
緋影にはまったく、理解に苦しむ。
まったく理解できないわけでは、ない。
その後、白い対はその世界を壊した気でいる。だが緋影は創造主の力を借り、その世界を残していた。
かつて、対が支配者だった世界。
白い神が君臨していた、その世界を。
とはいえ、その世界そのものもそうだが、人間二人も創造主が作ったものである。そう簡単には壊れない。
生命を止めてしまった人間二人は、肉体が腐ることもない。ただ捨てられた人形のように、永遠に存在し続けるだけだ。
だから、緋影は。
無駄だと、意味がないと知りつつ、多くの人間がそうするように、その2つを土に埋めた。
何の意味もないとわかっていながら、そんな行為をした。
「・・・ヒエイ」
耳元で呼ばれて、緋影の意識は目の前の存在に向かった。
「ヒエイ。ヒエイヒエイヒエイヒエイ、ひえい」
涙でぬれた声は執拗で、緋影は我に返る。
そして気が付けば白い存在を見上げていて、自分がいかにぼんやりとしていたかを知らされた。
「う、あう・・・ううう・・・・」
白く長い髪が視界を覆い、どうやら押し倒されたらしいと知る。
ぼんやりと見上げれば、赤い瞳は頼りなさげに揺れて緋影を見下ろしていた。
「ゼロ」
と、彼はようやく自分の対の名を呼んだ。
零はう、うと目を潤ませたまま。
「なあに?」
とやけに幼いようなしぐさで首を傾げた。
危なげにさえ見えるその姿に、かつては覚えなかった、気味の悪さを思い、緋影はのろのろと腕を伸ばした。
「ボクは、お前が大嫌いだ」
「私、ワタシは、君が、お前が、てめえ、だい、とっても、好き、ダヨォ?」
いつも通りのやり取りに、そうだな、と応え、そっと、肉付きの悪い頬に触れる。
「だからずっと、ボクだけはお前を殺すためにあり続ける。お前が消える」
そのときは。
「ぼくも、一緒だ」
この宣言は全く無意味だった。
消える時など来ない。
消える時は創造主の手によって遺棄されるその時に他ならない。
えぐえぐと泣く零を前につぶやくと、ぐすん、と鼻をすする。
零は緋影の言葉に同意するでも否定するでもなく、あおむけに寝ている緋影の左胸に頬を寄せて抱き着く。
離れる様子はなく、きょう一日くらいは好きにさせてやるかと、緋影は前髪を掻き上げた。
周期の中の一日