奴の顔が見たいよ

 渋谷の街は人々があふれ返り、皆はどこかしこに勤めていて幸せそうである。むろんそうではない者もいて、その一人が自分だ。失業しており、何の価値もない人間に思えてならない。けれども雑踏に紛れ込んでいると、寛いだ気分になれた。ここでは誰もが平等で、仮にも警察官が近寄ってきて、
「きみ、ちょっと待ちなさい。仕事をしているのかね」
 などと職質はしないだろう。外観だけでは悪巧みをするようには見えないし、見た目には善人だ――と、そのとき、見覚えのある人物と視線が合ってヒヤリとした。
「何だ、田原じゃん」
 中西順次だった。区立中学の同級生で、バスケット部でこき使われ、それを根に持っている。体力があり、粗暴な性格をしているので、歯が立たなかった。顔を合わせるのは卒業以来で、はずしたいところだが、歩道の端に寄って立話をした。
「仕事は何をやっているんだ」
「目下、あぶれているよ」
「就活しているのかい」
「やっているけど、見つからないな」
「俺の働いている印刷会社で、人を募集しているけど、勤める気はないか」
「いや……」
 田原博之は手を振った。いくら困っていても中西と同僚になりたくはなかった。会社は品川にある準大手で、メインは官庁の特許関係だから業績はいいらしい。資本金や職場の雰囲気をアバウトに話してくれた。拒んでいたものの、聞いているうちに訳もなく心が動いた。中学生の頃と違って、苦手な人間と対応する(すべ)を心得てきた。
「俺が上司に話してやるよ」
 長い間遊んでいるので猶予は許されない。家は大崎だから通勤に便利だし、部署は営業部だから現場の中西に気を使わなくてすむ。
「どうだい」
「面接してみようかな」
「条件が合わなかったら、辞退してもいいぞ」
「じゃあ、受けてみる」
「よし了解だ。すぐにでも履歴書を送りなよ」
 これから友達と麻雀をやるという中西は、立ち去り際に、半袖はいいけど、ネクタイをしてこいよと命令するように注意した。偉そうに――とむかついた。
 次の週の金曜日には出かけた。矢崎印刷は品川駅から十数分のところにあって、八階建ての建物は威容を誇っている。駐車場にはワンボックスカーや乗用車に混じってリムジンも停まっていた。午後、ミーティング・ルームに待機していると、白髪の混じった総務課長が現れ、手にしていた履歴書を開いた。電気メーカーや民間の調査会社のリサーチャー等々が主な職歴である。矢崎印刷は社員が120名ほどいて、給料は世間並み、試用期間は三ヵ月ということである。色々話を聞いた後からトドに似たずんぐりした課長が、
「何か質問はありますか」
「特にありません」
「一応選考させていただきます」
 笑みを浮かべた。よろしくお願いします、と田原は立って腰を折り曲げた。三日して採用通知が届くと、母の里子がよかった、よかったと喜んでくれた。ベッドに横たわると、俺もやっとサラリーマンに復帰できたから、これからは恋人やセックスフレンドをつくって楽しまなきゃと、何だか浮き浮きしてきた。
 お礼にスコッチのバランタインを贈ると、中西は当然のように無愛想な表情で受け取った。田原のことはよく話しておいたと恩着せがましい顔つきをした。また家族は何か言っていたかと聞いた。彼の名前を家では口にしたくもなかった。中学の頃の支配者のごとき態度は許していない。むろん、これからはそうはさせないつもりだ。といっても、怒りっぽい中西には畏怖の念がないわけではない。
 営業は第一と第二があり、田原は中小の出版社が担当で、さしあたり先輩と挨拶回りをした。仕事は原稿を催促したり、打合せをしたりするのだが、デスクワークより外回りが多いから向いている。押しは弱いが人の心をつかむのは巧みなほうだった。
 友人の柴村に就職したことをメールで知らせておいたら、家に電話をかけてよこし、中西のツテで入ったというのは、妙な縁だねと笑った。柴村も同じ中学の出身である。
「きみは中西を嫌っていたからな」
「でも、奴の親友の小倉ほどじゃない」
「小倉と言えば……」
 どういうわけか、柴村の家に電話をかけてきて、結婚や恋愛の話をしたという。小倉がモテるわけはないと田原は勝手に決めつけた。先日、ホラー映画を観ていたら川で溺れ、水の中に沈んでいくのを皆で冷やかしているというシーンがあった。死にそうなのが小倉に似ているので痛快な気分になった。田原は小倉の名前を伏せてストーリーを話し、こう補足した。
「他人の不幸を見て楽しむなんて、下等な精神だけどな」
「現代人はそれで自分の幸福を確認しているよ」
「うん、悲惨が好きだよな」
「社会はイケニエを求めているんだ」
 古代ローマでは、裸の男女を放り込んで、ライオンに食わせるショーがある。建前はライオンとの戦いだけど、国家は人々の不満のはけ口にしている。日本人だって、そういうのに飢えている。田原も人のことは言えない。ホームレスに二千円をくれてやったことがある。落とし物を拾ってくれたからで、六十年配の日焼けした労働者風はしきりに頭を下げた。悪い気分ではないが、憐憫の情は感心しない。クラス会の話も出たけれど、田原は関心ないね、とすげない返事をした。中三のときのクラスを憎んでいた。顔を合わせたくはないので、卒業したときは解放感を覚えた――柴村とは四十分ほど雑談をした。
 入社して半月が過ぎた頃、中西に飲みに誘われた。むげに断るわけにはいかず、渋谷の道玄坂にある魚菜という居酒屋に立ち寄った。ジョッキの酎ハイを頼み、乾杯して飲みだすと、腹に染みて食欲が湧いてきた。焼き鳥やガーリックグリルやアサリの酒蒸しなどを二人ともむさぶるように食べた。
「うちの会社、どうだい」
「いい会社だと思っているよ」
「お前、評判がいいぞ」
「最初が肝心だからな」
 世の中の慣例やエチケットを守って過不足なくこなし、むろん欠勤も遅刻もしない。新入りだから特に表向きのことは細心の注意を払っている。中西は女子社員と付き合う機会がないから、つまらんとぼやいた。現場の近くに眼鏡をかけた美人がいるだろう言うと、総務部長がきみの若さがほしいと迫って物したそうだ。
 好きでもない奴が相手だと、気ばかり使うが、酔ってくると薄らいできた。あちこちに女のグループが多く、誰に遠慮することもなく飲み食いしている。
「田原は彼女はいるのかい」
「ただのガールフレンドならいる」
「美形か」
「まあまあの容姿だ」
 大学時代のクラスの懇親会で再会し、名刺を交換してしばらく経つが、いつか誘うつもりでいる。中西はどうなのかと聞いてみたら、そんな気の効いた子はいない、けれど早く結婚したがっているようだ。田原は三十歳を過ぎてからと考えており、できるだけ自由の身でいたい。中西は妻が家にいたら、いつでもやれるから、いいのがいたら紹介してほしいと言う。心がけておくと適当に返事をしておいた。しかし、造作もさることながら、セックスアピールとか雰囲気がない。ましてや知的要素とは無縁で、村上春樹の本を読んでいると言ったら、作者の名前すら知らなかった。中西がふと切り出した。
「お前、さっきのガールフレンド、引っ張り出せないか。その子に友達を連れて来させるんだ」
「さあね」
「当たって砕けろだよ」
 田原は煮えきらない返事をした。中西と連れ立って行動するなんて、考えただけでも気が滅入る。
「いいから、誘ってみな」
「だけど、可能性はなさそうだぜ」
「やってみなきゃ分からんだろう」
 結局、電話をする破目になった。言いなりになりたくないが、ポーズだけでもいい。恐らく夏木さやかは主張の強い女だから、きっぱり断るだろう。スマホを取り出し、お互いに近況を話してから用件を伝えた。だが意外にもいい返事をしたので拍子抜けがした。彼女も気晴らしをしたがっているのだ。デートの約束は成立したと目で合図したら、中西はいやらしくニヤッと笑った。それから一矢報いてやった。
「中西は女と付き合ったことないだろう」
「バカヤロー、舐めるな」
「あるのかね」
「うるせえ」
 あるとは言わない。青春時代を灰色のまま過ごしてきて、あまりいい目に合っていない。多分、さやかのような女からも相手にはされないだろう。それを見るのも楽しみだった。女から見たらこんな男がカワイイ訳がない。金を払って風俗で性の処理していればいいのだ。三日後の土曜日の午後、渋谷で待ち合わせをすることにした。さやかの友達に期待し、うまくいけばめっけものだと思った。

 射精寸前の夢を見て目が覚めた。中年女の前で性器を露出してオナニーをしている夢だ。連中と会う日で枕許の時計を見ると十時過ぎだ。また時間はある。母の里子が用事をすませて戻ってきた。四階のフロア委員をしていて、署名は集めにいったのだが皆無関心だった。
「あの馬鹿女、余計な仕事をさせやがって」
 一軒おいた隣の沢井幸江(さわいゆきえ)が大崎第一住宅の共益費はだいぶ余っているから値下げをせよというのである。四階だけ署名運動をしたからといって、どうにかなるものではない。博之は押しの強い沢井が里子にやらせるのが我慢ならなかった。それでなくとも人のいい里子によく頼み事をする。父がいないから甘く見ているのだろう。母だって好きではないが、表に出さないだけだ。博之はこの手のことに過敏に反応するたちで、母の何倍も嫌悪感を抱いてしまう。いつだったか何かのお礼にザボンを三個くれ、それを包丁で切り刻んで捨てたことがある。見ていた母は何一つ咎めなかった。一時間後に留守の家に説明に行くと、大方その必要はないという返事だった。
「端の家の竹山さんが、凄い言い方をしたのよ。沢井の奴、余計なことをさせるわね。そんなの無視してもいいですよ、とね」
 竹山さんと沢井は前から対立しているようである。博之は竹山さんが頼もしくなり、沢井を嫌っているというだけで共感した。
 竹山家も同じように母子家庭で、日本舞踏を教えて生活している。どこか侠気(おとこぎ)なところがあって、しかし優しくて、挨拶をすると人懐っこい笑みを浮かべた。里子によると、竹山さんの友達だった沢井が夫を奪ったとかで絶縁関係になった。けれど沢井はデブで醜くくて竹山さんのほうがよっぽど奇麗である。母はそこが男と女の仲だと大人めいたことを言い、そして醜というほどではないと言う。博之は一歩もひかず、ひどいブスだと繰り返した。
 四十代後半の沢井幸江は一人暮らしで竹山さんの元夫とは完全に切れている。会社に通っていて、朝が早く、博之は寝床の中で毎朝靴音を聞いている。生活のために勤めを死守しているという強さが伝わってくる。博之にはそれが忌々しかった。まして、不倫をしたときては一層嫌悪感を募らせ、歩道ですれ違うと無遠慮に見てやり、挨拶は一切しなかった。午後から出かける用意をした。
 お義理を果たしてくるよと、体裁ぶって家を出た。実際は向こうのペースに巻き込まれているだけで、面白くなかった。待ち合わせ場所は渋谷のファッションビルの109。午後二時前に着くと、中西は薄地のオフホワイトのスーツを着てめかしこんでいる。そこそこに好男子に見えるから不思だ。田原はジーンズにユニクロ系の長袖シャツといういでたちである。中西は落ち着かない様子だが、田原も四人で何を語ればいいのか心もとなかった。さやかの友達がどんな女か興味があることは確かで、しかし時間通りに現れたのは一人だった。
「ごめんなさい、お友達に急用ができたの」
 すまなそうに言い訳をした。
 気にしなくていいよと田原は慰める。さやかは藤色の透けたトップスがよく似合っていて、見違えるように色っぽい。
「まずあんたら、自分で名乗ってよ。彼、中学時代の友人なんだ」
「中西順次です。よろしく」
「夏木さやかです」
「タレントさんのような名前だね」
「よく言われるわ」
 彼らは和やかな言葉を交わした。街には秋風が吹いていて、三人は物見遊山気分で歩き、中西はすこぶる機嫌がいい。通りかかりのカフェレストランに入った。入口近くにオークの木があり、切れ込みのいい葉を茂らせていた。観葉植物の近くのテーブルに座ると、中西とさやかは何故か華やいでいる。
「夏木さんは生保レディーをやっててね、主任なんだ」
「長いだけなの」
「頑張っているねえ。俺、保険に入ってもいいよ」
 雑な口調だが、嫌味がなくて、親しみがこもっていた。
「本当ですか」
「もちろんです」
「有り難うございます。近いうちにご説明にあがります」さやかはビジネスの口調。
 しょっぱなから気前のいいところを見せて、さやかを喜ばせた。営業というよりも気脈が通じていて、田原は軽い嫉妬を覚えた。そして変に黙ってサーモンサンドを食べ、紅茶を飲んだ。
「そのヘヤースタイル、いいねえ」と中西。
「これ、私も気に入っているの」
「そういうの、流行なの。すごく今風だね」
 ふくらみのある、短めのストレートで、如何にも渋谷の街にふさわしく見える。格好いいよ。センスあるねと中西はお世辞がうまい。田原は何か言わないと、自分だけがはずれてしまう。ひとまずトイレに行ってくると、中西達は会話を楽しんでいた。
「仕事は順調なの」
「月によっては違うわね。ないときはさっぱりなの」
「友達にも頼んであげるよ」
「ぜひ、お願いします」
「ところで、田原よ、夏木さんは一人でいるのは勿体ないよな」
「まあ何というか、美人だからね」
「そうだろう。俺と夏木さんというコンビはどうだい」
 その唐突な言葉を不自然に思い、しかし自信に満ちていて、さやかも同感したような面持ちである。
「あんた達、前世から知り合いみたいだな」
「そうみたい。私達、馬が合うのよ」
 さやかはさらっと口にし、中西は目を輝かせているのだが、半分はビジネスがからんでいる。そうでなければこんなにスムーズにはいくはずはない。けれどもその後も予想外の流れになった。田原にとってさやかは大学のクラスメートであるばかりか、ある意味それ以上の関係である。コンパの帰りだったかに酔った勢いで言い合いになり、公園に誘った。
「きみの論は、ひとりよがりだ、ただの主観でしかない」
「あなたこそ、何よ。色々言うけど、独自性がないわ」
「きみはメタファーが分かっていない」
「あなたは下手くそなのよ」
「それにブラックにも反応しない。第一、生意気だ」
 睨みつけると、さやかが妖しげに上気しているので、瞬間的に唇を奪った。長い間唇をからませた。それだけの間柄だが、あのときのことは忘れられず、何パーセントかは自分の女という意識がある。その頃と大分違ってきて、中西とのやり取りを聞いていると柔軟性が感じられる。
 さやかは客と急な打ち合わせがあると言って先に切り上げた。彼女がいなくなると、
 中西がいい女だとほめそやした。田原もバストラインを見ていてそそられ、サイズは八十五センチくらいかと口にしたりした。中西は会ったばかりというのに結婚を視野に入れて、付き合うつもりだと打ち明けた。トイレに行っている間に約束したというが、そんな短兵急な話は信じかねた。中西によると、さやかは今更遊びで付き会うつもりはなく、一日も早く身を固めて、安定した生活を望んでいる。どうやら本気のようである。中西も顔を火照らせながらいやに真剣である。条件よりはタイプなのか。
 仕事には慣れてきた。得意先には持ち前の善良げなヌーボーとした性格が好まれて信頼を得るようになった。外観と違って好き嫌いは激しくて、だが、めったに本心を表に出さないほうだった。同僚ともできるだけ歩調を合わせた。
 新生のカップルは、しばしばしば会っていた。野球を見に行ったり、ディズニーランドに出かけたりして、誰でもするような逢瀬を楽しんでいる。
 田原は何事もない日々を過ごしている。日曜日の午前、ウォーキングの帰りに小学校のある通りにマテバシイの街路樹に珍しい光景を見かけた。背の高さくらいのところに一株の茸(きのこ)が幹に生えていて、瑞々しくて、店頭に並んでいたら、おいしそうに見えるだろう。田原には気色悪くて、家に帰ってからもゾクリとした。イメージを追い払うようにパソコンを開いたら柴村からメートが届いていた。
《中西が正式に婚約したよ。きみが仲立ちをしたというから驚いた。またとないャンスに巡り会ったわけだね。有頂天になっていて、彼女は自分に惚れていると自慢していた。親たちはでき過ぎと呆気にとられているそうだ。お互いに好き合って結ばれるのが一番いい。二人が幸せになれば田原はいい役を果たしたことになる。
 最近、体力が衰えないように水泳を始めた。クラス会はうやむやになったから知らせておく》
 読み終わるとリビングの里子に中西が結婚するよと伝えた。大学のクラスメートを紹介してやったと話したら、そんな女性と合うのかしらと訝しげである。そして、中西に仕事を世話してもらって、結婚相手を会わせるなんて、おかしな巡り合わせだと感心した。母の里子も好きでもない人に勧められて、スーパーのレジの仕事をするようになった。

 何日かして、会社の廊下で中西に呼び止められた。彼は戸越に分譲マンションを見つけた。3LDKで新婚生活にふさわしくて、安くはないので貯金と親の援助で賄うらしい。披露宴もするのだが、親がどうせなら早いほうがいいというので、十一月に決めた。田原は何てたって功労者だからぜひ参加してほしいと頼まれた。彼は疎ましそうな顔つきをした。中学では柴村の他に小倉卓雄を招くと聞いたときは嫌な気がした。それは拒否反応そのものだった。同学年の中でもっとも嫌悪していて、先輩、後輩を含めてそのほうのナンバー1の存在だった。パン屋の倅で父親が病弱だったから、店は母親が切り盛りしていた。ひねくれた性格をしていて、人をいじるのが好きだった。むりやりにたばこを吸わされたり、柔道場に引張出されたことがある。田原の家が工場を経営していて、羽振りがよかったから妬んでいたのだろう。
《小倉の奴、死にやがれ》
 何度呪ったことだろう。夜寝るとき、木刀で殴ったりする妄想ををいつもした。中西が小倉と仲がよくてそのこと自体不満だと言うと前と違ってきた、彼は建設会社で働きながら大学を卒業し、苦労しているから人間もできてきたと言うのだ。田原の父は大学を出て二年目に亡くなった。工場は借金をこしらえて倒産したから、今では怨嗟の的にはならないだろう。
 前後してさやかからもメールが来た。思いがけない出会いに田原さんには感謝している。長い間、色々な意味で行き詰まっているときに一人の男性が現れた。ロマンの匂いがしないということだけど、私は現実路線を歩みます。彼は頼りになり、活路を見出すことできました。これからも色々とご迷惑をかけますが、どうぞお引立てください――
 いい気なもんだ、好きなようにしてくれと田原はひとりごちた。この頃の中西は血色がよくて、フェロモンのようなものを発し、それが気持ち悪かった。さぞかしフィアンセから吸い取っているのだろう。挙式の準備は着々と進めており、お互いの家族を引き合わせて結納もすませ、あとは晴れの舞台が待っているだけだ。田原にしたら早く面倒なことが過ぎていけばいい、小倉なんかと二度と会わなくてすむし、中西だって飲みに誘わなくなるだろう。そんなことばかり考えて祝福する気にはなれなかった。
そんなとき、一軒おいた隣の沢井幸江にアクシデントがあった。会社から戻ると里子がトピックをもたらすように伝えた。バイクにぶつけられて転んだ拍子にコンクリートの花壇の縁に当たり、腰を打ち、顔面が血だらけになった。
「凄い、凄い、誰に聞いたの」
「ライバルの竹山さん」
「敵の情報収集は早いね」
 顔は妖怪みたいで可哀相だから近くにいた竹山さんが救急車に付き添っていった。何故敵にそんなに親切にするのか、きっと心の底に何かあると博之は憶測した。竹山さんは心なしか浮き浮きしてたという。

 その日は大安吉日で嘘のような快晴だった。気持ちを引き立たせて五反田の簡易保険会館の式場に向かった。控室に行くと参加者がおめでたそうな無意味な会話を交わしていた。その中に唾棄すべき奴もいて、腕を組んで横柄そうに座っていた。知らぬふりをして空席に腰を下ろしたら、一分もしないうちに小倉が横に来た。
「よう、お久しぶり。元気かい。黙って通り過ぎることはないよ」
「偉くなったから分からなかった」
「偉くねえよ」
 挨拶に来るべきだと言わぬばかりだが、誰がこっちからいくものか。
「田原はなかなかのキューピットじゃん、俺もあやかりたいな」薄く笑った。
「自分で捜すんだな」
「何だね、就職と引換えに女を世話したわけだ」
「そういう言い方はないだろう」
「お前は優しい性格だからな」
 何が優しい性格だ!カッとなった。嫌味なところは中学の頃と少しも変わっていない。このまま会話を続けたいくないので、尿意を催したように立ち上がった。外に出て廊下の資料棚からパンフレッドを抜き取ってソファにかけた。目を通したが興味はなく、柴村を待ち侘びた。それにしても彼はいい奴だ、感情の揺れから逃れるように友人のことを思った。柴村は学校が終わると、よく砂場で走り高跳びの練習をしていた。長い脚が格好よく、高校に入ったらインターハイに出るのが夢だと話していた。あるとき、練習中に通りかかると、博ちゃんと呼び止められた。意外なことを打ち明けた。
「俺、小倉って好かんよ」
「俺も大嫌いだ。性格悪よな」
「二人で同盟を結ぼう」
「力を合わせて、あいつを破滅させるか」
「それ、面白いね。やろうよ」
 ジョークとはいえ心が(おど)り、それ以来友達になった。彼は陸上競技で鍛えているので腕力があった。休み時間に小倉が何か勘に触ったことを言ったらしく、取っ組み合いになり、たちまち柴村が机の上に押えつけた。小倉は圧倒されて柔道部員にしては見苦しい姿をさらした。なんだ、あいつ弱いなあ、小心者ということが分かり、軽侮の目で見るようになった。
 開宴間近になり、会場には参列者が厳粛そうに入っていく。披露宴の席では小倉の隣になり、直前に反対側の席に柴村が姿を見せた。
「早めに家を出たけど、車両故障があってね、焦った」
「どうしたのかと思ってね、そろそろ始まるよ」
 ウェディングマーチが奏でられ、スポットライトの中で見る新郎新婦は如何なく美男美女ぶりを演出している。
「わあーステキ!」
 タイミングよく賛美する女の声、司会者に促されて盛大な拍手。お義理だと手が疲れる。人々は微笑(ほほえみ)を浮かべて見守っている。ありきたりな一連の儀式がすむと、来賓や上司が次々とスピーチをする。やがて小倉が指名されると、肉饅のようにふくらんだ顔に偽善的な笑みを浮かべて一礼した。
「中西順次くんは勉強熱心で、しかもスポーツマンでした。つねに男らしく振る舞い、悪い生徒には睨みを()かしておりました。この度は縁があって、お二人は結ばれました。こんな素晴らしいことはありません。自分が幸せを掴んだような気持ちです。願わくは、私自身が花嫁のお隣りに座っていたら、もっと幸せです」
 ここで笑いをとった。それから新郎との思い出を語って終えた。勉強熱心とはうまくいったものだ。頭が悪いからいくらなんでも成績優秀とは言えない。スポーツマンというの中途半端だし、悪い生徒ではなく、弱い者イジメをして怖がらせていた。着席すると受けたかねと田原に聞いた。
「感動したよ」
「オブラートに包んで、持ち上げたな」柴村もからかった。
「それは、どうも」
 小倉は満足げにワインを飲み、悦に入ったような表情をした。
「俺らは食って飲むしかないな」
「そのうちに時間が過ぎるだろう」
 田原と柴村はすでに嫌気が差していた。そのとき、花嫁の友人が詩の朗読を始めた。
「二十一世紀の乾いた時代に、恋の狂い花が咲いた……」
 アーチストの草間弥生に似たオカッパ頭の女性である。
「異色の女性だね」
 小倉に話しかけられたが聞こえないふりをして、柴村のほうに顔を向けた。女は化粧をして飾ると化けるから魔性だ、そして小倉がえらく気に入っているけど、まさか邪心を抱いているんじゃないだろうなと囁き合った。嘘に満ちた光景にうんざりし、田原は以前に見た性夢の中年女を蘇らせて、アブノーマルなセックスをする妄想をした。
 ようやく二時間が過ぎた。二人は、引き出物を手にして駆けるように早足で式場を出た。とたんに元気が出てきて、新婚さんはどうにかうまくやるだろう、でも気の強そうな女性だな、いや、中西だって負けてはいないだろうと、そんな話をしながら帰った。
 一週間ほどして、中西は新婚旅行先のグアムから戻ってきた。あまり家庭のことには触れず、戸惑ったような照れ笑いを浮かべている。ハニムーンを楽しんでいる最中だからもっともいいときだろう。
 年が明け、寒い日が続いていて、山陰地方に大雪が降った。正規の社員に昇格してから季刊の定期刊行物を開拓した。上司からはよくやった、定期物は馬鹿にならないからねと褒められた。
 春がきても寒々とした陰鬱な天気の日が多く、そのせいではないが、中西もどことなく疲れた顔をしている。
 それからすぐに気候もよくなり、鬱から操になったみたいだった。そんなある日、営業の途中、飛び降り自殺の現場に行き合った。マンション前の路上に若い女が横たわり、息絶えていた。群衆が取り巻き、
「誰か救急車を呼んだのかしらん」と老女が心配している。
「もうすぐきます」と男の声。
 女はスカートがめくれあがり、白い生々しい大退部を剥き出しにしている。
「散々やったろう」
「そうだろうな」
 男どもがゲスな口調で囁いているのが聞こえ、エロチックな見世物に見立てている。家に帰ってその場面を里子に話して、しばらくしたらさやかが電話を寄越した。どうせノロケだろう、聞きたくもなかった。ところがいきなりこう告げた。
「私、別れるかしれないわ」
「えッ!」田原はトーンの高い声を立てた。「愛し合っていると思っていたけどな」
「私たち、何もかもちぐはぐなの。ぴったりこないわ。焼き餅焼きだし、ああ、もうイヤ」
 結婚して四ヵ月しか経っていない。受話器を持つ手に思わず力が入った。けれど関心を持ち過ぎないようにセーブした。家ではよく言い争いをするらしく、中西が会社で浮かない顔をしているわけだ。
「最初から、あんたらが、くっついたのが理解できなかった」
「だったら、そう忠告してくれればいいじゃないの」
 熱に浮かされていたから、黙っているしかなかった。
「私も冷静さを欠いていたのよ。だからこそ第三者のアドバイスがほしかったわ」
 夫は今でも好きだと言うけど、ついていけない。離婚したいのだが、反対するばかりで聞く耳を持たない。月日が経てば一緒になってよかったと思うようになると言うけど、そうはならないだろう。彼は中身がなくて、セックスだけは毎晩でしつこいといったらないと訴えた。そして別れるにはどうしたらいいかと聞かれた。知っている例を話した。
「彼の出勤中に荷物をまとめて家を飛び出してしまえばいい」
「あなたもそう思う?私も同じ考えよ。思い切って、やってみようかしらん」
 それくらいしないと諦めないだろう。彼女もそれしかないと納得し。
 さっそく四日後に実行した。兄弟を動員し、花嫁道具をまとめて業者のトラックで運んだ。
 中西は会社では一切口にしなかった。
 十日ほどしてやっと打ち明ける気になった。屋上に誘われて一脚しかないベンチに座った。そこから品川の街が見渡せ、遠くに高架線が走っていて車のきしむ音が響いてきた。
「帰宅したら、家の中がガランとしているんだ。すぐに察しがついたよ。あんなショッキングなことはなかった」
 驚き慌てている姿が目に浮かぶ。彼はジッポーでタバコに火をつけた。神経質に吸ってすぐに二本目を取り出した。
「あいつと別れたくない、何とか説得してやってくれないか」
「家を出てしまってからじゃ、遅いよ」
「いや、絶対に帰って来させるよ。世間体もあるしな。だから、人には秘密にしてある。俺、恥をかきたくないんだ」
 こんな情けない中西を見るのは始めてだった。いくら悲痛でも同情心は湧かなかった。しかも愛よりも世間体が優先しており、その利己的な理由を軽蔑した。
「一応話してみるよ」
 屋上から帰りながら返事をした。午後から営業に出かけた。車を運転しながら、中学時代のとんがった頭と表情の乏しい顔を思い出して寒々とした気分になった。一肌脱ぐつもりはなく、放っておけばいい。それにさやかの意思は堅く、翻意するようなことはないだろう。
 社内では離婚のことが伝播しだし、社員達は活気づいた。本人のいないところで噂をし合った。妻に愛想をつかされた、緒に住んで正体が丸出しになったんだよ、性欲が強すぎるのではないか――あんなに偉ぶっていたのに、今では打ち(しおれ)て、つい愚痴をこぼした。彼は口論になったとき、うっかり離婚してもいいぞと口をすべらせ、それに火がついた。本気で言ったわけではない。田原はこのときばかりは、お前は馬鹿だと罵ってやった。彼もそれを認め、再度気持ちを伝えてほしい、復縁したら報酬を払ってもいいとまで言う。よほど往生際の悪い男だ。こんな奴のために動く気はなかった。

 残業もなく会社から帰宅した。着替えをすましてからキッチンでコーヒーを飲んだ。母は紅茶をスプーンでかき混ぜながら話した。
「竹山さんによると、沢井さんが近々退院するんだって」
「意外に早いね」
「当分はリハビリするみたい。杖を突いて歩廊を行き来するんだって」
「リスクを背負ったね」
「そうね。少しずつ直していくしかないわ」
 ついでに性格を矯正していったほうがいい、エチケットも礼儀作法も何もない女だから。
「中西さんは、どうなったの」
「相変わらず決着がつかない」
「女が一旦こうと決めたことは無理よ」
「いつまでも、こだわって屈辱に(さいな)まれているよ」
 何日もしないうちに家に電話があって、里子が博之の部屋に子機を持ってきた。彼は風呂から上がってテレビを観ていた。
「小倉さんよ」
「あいつには用はない」
「聞こえるわよ。早く出て」
 受話器を耳に当てた。
「中西のことだけど……」
 ねっとりした口調だ。中西がさやかさんとの間を取り持ってくれというから、協力してやりたいという。
「そんなこと、知ったことじゃない」
「そう冷たいことを言いなさんな」
「興味ないんだから」
「誠意をもって訴えれば心は変わるかもしれない、友人としてやるべきことはやってやろうと思うんだ」
 田原はその陳腐なセリフに辟易した。
「それで、きみが間に入ったほうが信用されると思ってね。誤解や警戒をされなくないから」
「勝手に誘えばいいだろう」
「三人で会おう」
「お前も苦労人だな」
「彼女にじかに会って説得したいんだ」
「小倉は彼女が好きじゃないのか」
「友人の妻として尊敬している」
 田原は断ろうとしたが、しかし踏み止どまった。その刹那、閃くものがあった。田原はある考えを巡らした。同時に心の底にある忌まわしい記憶が沸き上がった。
「ウーッ、助けてくれ」
 柔道場で気を失いそうになったときの恐怖感である。今も憎しみが煮えたぎる――こうなったらチャンスである。
「そこまで言うなら協力してもいいぞ」
諄々(じゅんじゅん)(さと)したら、うまくいくかもしれないからな」
「分かったよ」
 大体の日時を聞いておいた。好意的な返事を装いながら、何か起こればいいと黒々とした感情が(うごめ)いた。
 さやかに伝えると、どういうわけかすんなり承諾した。相当鬱屈していて誰かと話したかったのかもしれない。
 その日、暖かい南風が吹いていた。待ち合わせ場所は新宿のレストラン前。先にいっていると、黒いブーツカットのパンツ姿のさやかが現れた。渋谷で中西と三人で会ったときと妙に似ている。物事はあの時から始まった。今度は状況は異なるが。
「へこんでいるんじゃないかいと気にしていました」
「ありがとうございます。平気ですよ」
「元気そうでよかった」
 彼らが親密そうに喋るのを聞いていて、田原は期待を込めて、
「二人でよく話し合うことだね」
 作り笑いを浮かべた。
「田原もお茶ぐらい飲んでいけよ」
「そうよ。付き合いなさいよ」
「残念ながら都合があってね。この際、小倉に任せるよ」
「ああ、承知した」
 小倉は指で合図した。彼らと別れてから頭の中でストーリーを考えた。二人はあんなに楽しそうだったから、うまくいくかもしれない、面白いぞ、田原は腹の中で呪いを込めた。

 桜が六分咲きになり、あれから半月経ったが小倉から何の連絡もなかった。説得はどうなったのか情報が入らないので、中西にもふくれ面で聞かれた。
「音沙汰なしだけど、奴はどういうつもりだ」
「俺も知りたいな」
「電話くらいくれればいいのに、誠意がないな」
「そうだよな」
 田原は別の結果を期待しているだけで中西がどうなろうとも、小倉が何をしようとも関係ない。
 それからしばらくして柴村と新宿のスタバでお茶を飲んだ。彼は真っ先に小倉が夏木さやかと付き合っていると知らせた。彼らは腕を組んで歩いているところを見たと、二人の級友から聞いた。どう見ても前の奥さんらしい。
「節操がないよ。モラルも倫理もあったものじゃない」
 生真面目な柴村は厳しい口調である。確かに怒り狂った元夫が知ったら何が起こる変わらない。
「中西はまだ何も知らないよ」
「もし分かっても、冷静に振る舞ってほしいよな」
「奴にしたら、そうはいかないだろう」
 柴村とは居酒屋で飲んでから別れた。
 田原は毎日営業回りをする日々が続いた。何事も起こらないのでいささか退屈していた。中西は鳴りをひそめているから、さやかを諦めたのだろうか。ところが会社の玄関先で話しかけてきた中西を見て、恐ろしくなった。顔が紅潮して鬼のような形相だ。
「頭にきたぜ。あのブタ野郎め」
「何を怒っているんだ」
「怒らずにいられるか」
 小倉がどうかしたのかと聞いてみた。
「中学の同学年の間で噂が広がっていると言うんだ。俺が寝取られたとな」「そりゃ不名誉なデマだな」
「こんなことってあるか。ただじゃすまないぞ。俺らは親友の間柄だ。もし本当だとしたら断固制裁するつもりだ」
 職場ばかりでなく、広く知れ渡るようになったわけだ。しかも離婚の原因がコキュということになっている。ますます雲行きが怪しくなってきた。二、三日過ぎてから仕事上のチェックをしていた。第二営業課はひっそりしていて、電話もなく、午前十一時になった。突如、社員が一人駆けこんできた。
「大変なことが起こった。中西が人を刺したらしい」
 それから騒然となった。血まみれのイメージが浮かび、田原も(おのの)いた。皆は相手は誰か、元の奥さんだろうかなどと言い合った。だが小倉に決まっている。午後になって少しずつ明らかになった。やはり被害者は小倉で包丁で顔を斬られた。社内は事件でもちきりだった。しばらく仕事にならなかった。しかし祝祭のように一騒ぎをすると、話し声はなくなり、沈静化した。
 会社では前代未聞の事件だった。中西が傷害で逮捕されたのは言うまでもない。
 さやかは何も言ってこず、こちらからも連絡もしなかった。ショックを受けて複雑な気持ちになっているにちがいない。
 あれから二ヵ月が過ぎて、また暑い夏が来た。ある夜、柴村が電話をかけてきた。彼の声を聞くといつだって人心地がついた。
「どうだい、元気か」田原が尋ねた。
「どうにかね。この間、お祖母ちゃんにせかされて、東京江戸博物館のモダンガールの写真展を観にいって来たよ」
「そんなシャレた婆ちゃんだったのかい」
「東京の田舎人だけど、憧れていたらしいよ」
「そうか。恰好いいな」
 それから例の事件のことになった。小倉は退院したが、頬に抜糸した跡が生々しく残っていて、田舎芝居に出てくるヤクザみたいだと笑った。誇張した伝わり方かもしれない。
「やっぱり、クラス会をやるらしいよ」
「もういい」田原は首を振った。
 傷ついた小倉を慰めてやろうという趣旨である。
「あいつ、そんなに好かれていたのかね」
「彼は同級生の気持ちが嬉しいと喜んでいたよ」
「心温まるね」
 他のクラスからも希望者がいて、二十人ほどの人が集まるそうである。とにかく顔は凄いらしく、皆は一見の価値はあるというのだ。無責任な同情と好奇心に充ちていて、連中はこういうのが好きだ。小倉は怪我をして見苦しい顔になり、中西は犯罪者になったなわけだ――田原は意地悪な笑みを浮かべた。電話の後、思い立って近くの図書館にいった。暗い道を通っていったので照明が煌々と照りつけた館内が別世界のように明るかった。

奴の顔が見たいよ

奴の顔が見たいよ

集団の見せ物を書いた。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-27

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