イルカの忘れ形見

イルカの忘れ形見


 天に巣を作った棚雲の切れ目から夏の光が宝剣となってばら撒かれ、青い海に鋭く刺し込み、黄金の柱が至る所に創造された。まるでハワイ神話の海神、カナロアを召喚するような、幻惑的な光のビジョンである。
 光は、やがて視線を集めるだろう。
 カウアイ島の白砂の浜の人々の顔ぶれをご覧に入れよう。潮干狩りをする健全な精神を持った平和主義的な家族連れ、ハワイアンタトゥーを彫りこんだ素肌を惜しげもなく見せびらかしながらナンパに明け暮れる淫靡な若者たち、桃色のビーチパラソルの影の中で人目を憚らず熱いキスそして抱擁を交わす男女たち、黒布に身を包んだモロッコ人の教えを受けサンドアートに興じる子供たち……かれらは海の清涼な空気を吸うことすら忘れ、光の柱に眼を奪われるだろう。
 かれらは明晰な感動を表明するだろう。
 素晴らしい光だ/グリーンフラッシュよりも珍しい光の射し具合じゃないか/ねえ、アナタ、蟹まで光を見てる気がしない/砂の城を作ってる場合じゃないよ、あの光を見てごらんよ/はるばる日本から観光にきてよかったよ……これら同価値の言葉たちは光の地位を押し上げるだろう。
 だが、光の柱に眼を奪われるのは人間だけだろう。光を引き立たせているのは、紛れも無く青い海だろう。
 一頭の老いた海豚、ノーマンの心中を覗いてみよう。
 ワシの住む世界で最も高貴な色は青である。逆さ虹の懸かる類稀な空の清冽な青よりも、ハワイ諸島に住む褐色の肌を持つ人間の眼の青よりも、星月夜に降る流星のように煌いている青、その青さを人間とワシらは海と呼び、畏敬の念を抱き、慕ってきた。だが、今、広大無辺の海は既に青い墓場でしかなかった。青全体は師であるが、その弟子である荒々しい潮騒が、一の波から二の波へ、三の波からやがて百の波である百重波へ、そして千の波である千重波へ変わる時、ワシの身体は病める時も健やかなる時も欠かさず愛し続けた漣へと変わり、一筋の光も射さぬ深海へ運ばれ、怪魚たちの餌になるだろう。
 かれは腹部に刻まれた無数の古傷、宿敵のホホジロザメの牙につけられた膨大な傷が疼くのを感じ、歯軋りしていた。歯の擦れる甲高い、笛のような音を鳴らした後、生命活動が停止へと向かっていくという予感を苦々しく飲み込んでいった。
 飲み込んだ予感は静かな心音に鞭を打ち、
 ――海の奏でる旋律すら、幽かにしか聞えぬ。
 クラゲのように、泡のように、波に攫われるかのように体は軽くなっていく。
 ――何じゃ? 何者かに掴まれている感覚がある。
 幻視なのだろうか。ハワイ神話の魔法と冥界を司る神、カナロアがノーマンの前に立ち塞がり、烏賊の十本の腕と蛸の八本の触腕を差し伸ばしていた。ノーマンの肉体は、スパイクのような棘付きの吸盤でがっしりと固定され、一切の身動きを封じられていた。
 ――四大神の一柱、カナロア……これが噂に聞く海の知らせというものか。
 ノーマンは正面に聳え立つカナロアを見て、死の階段を登っていることに気づいた。死の階段を一段登れば生の重さは一段軽くなる、もう一段登れば、もう一段軽くなる。死の階段の始まりであり、生の場所であった一段目を振り返ってみても、既に暗影に変わっており、底が見えない。死が着実にいざりよっていたのであった。
 カナロアが口を開く。
 ――ハワイの海に棲む生物が死を迎える時……余の領地たる冥界へと魂が運ばれていく……余が直々に下界へ降り立つことは滅多にない……貴様は海豚として五十年という長い歳月を生き抜いた……珍しいほどの長寿だ……その生き様への褒美と思え……海の知らせを受け取れる者は限られている……
 カナロアの厳粛な言葉を聞いたノーマンは、死を明確に意識し、生を再び振り返った。
 他の海豚たちは十年と生きられずに死ぬ者が多い。ワシはかれらの何倍も生を享受し続け、海と触れ合ってきた。だから笑って和やかに海へと還っていくのも悪くはない……と普通ならば思うところだがまだ死ぬには早い。孫の海豚アクアスカイに<あの日の約束>を伝えていない。
 ノーマンの目が、漁火のように熱を帯びた。
 ――ありがたき御言葉、見に余る光栄でございます。しかしカナロア様、ワシは冥界へ行く前にやるべきことがございます。ワシの寿命はどれだけ残されているのでしょうか。
 ――おまえの命は黄昏が海に没する時、同時に消えるのだ……
 死への案内は、正確な時刻を告げた。海を吹き渡っていた風が収まり、夕凪がやってきた。黄昏のゆらゆらとした光がノーマンを照らし出している。
 ――カナロア様、ワシの命は黄昏が海に没する時までとおっしゃいましたな。すなわち夜が訪れまではワシに生の猶予があるということですな! どうか、どうか、時間を与えてはもらえませんか!
 ――よかろう、断る理由もない。海が暗闇になったとき、また貴様の元に現れる。
 カナロアは霧が晴れたように姿を消し、ノーマンの元から去っていった。
 ――ア……と……イよ。
 不明瞭な呟きとともにノーマンは胸に閉まっていた狭間の記憶を開き、海に誓った。

 ――あの日の約束を今こそ果たそう。

      *

 ノーマンは<あの日の約束>を果たすため、孫の海豚アクアスカイの元へと泳いで行った。巨大漁船の騒々しいスクリュー音が鳴り響き、遊覧船は白い水尾を曳いていく中、陽が燦々とふりそそぎ、海面はコバルトブルーからエメラルドグリーンへと姿を変えていく。ハワイの海は見る角度に応じて、孔雀の羽模様のように違った笑顔を振りまいていた。
 上空ではカウアイ島の名物海鳥、オオグンカンドリが我がもの顔で飛び交っている。二メートルに達する漆黒の翼を広げながら悠々と舞う佇まいは、その名の通り空を飛ぶ軍艦である。
 海面では、三日月型の瞳を持つアクアスカイが無邪気に遊泳していた。アクアスカイは空を見上げると、豪放磊落な風格をみせるオオグンカンドリを見つけ、じっと眺め始めた。すると、自分も大空へ飛び立とうと決心したかのように、大きく体を弾ませ、水しぶきをあげて跳躍した。太陽の光を浴びた水玉は静謐さに満ちたサファイアに生まれ変わり、アクアスカイの華麗なジャンプを彩った。気持ち良さそうにジャンプを繰り返す。
 アクアスカイが海と空を行き来する光景を後ろから眺めていたノーマンは、自分の若かりし頃と重ね、目に小粒の涙を溢れさせる。
 ――ワシもよく飛び跳ねたものだった。若さとはこれほどにも素晴らしいものだったのか。可愛い坊主の元気な姿はワシにとって、冥土の土産そのもの。いや、それよりも、早く約束を果たさねば。
 ノーマンがそう思っていると、アクアスカイは背後に気配を感じとったようで、すっと振り返り、
「あれ? じいちゃん!」
 アクアスカイは気持ち良さそうに泳ぎながらノーマンの元に近寄ってくる。
「へへへ。俺のジャンプ、上手くなったよね」
 アクアスカイはジャンプに夢中で昂奮気味であったせいか、ノーマンの瞳に浮かぶ憂き世の涙に気付いていない。
「そうだな……」
 どうやって孫にあの日のことを伝えようかと悩むノーマンに、アクアスカイも子供ながら、異変を感じたようだ。心配そうに、ノーマンの顔を覗き込む。
「じいちゃん? 今日のじいちゃん、変だよ。泣いてるの?」
「うぅむ……」
 ノーマンはろくに相槌も打てないまま沈思していると、視界の端でダークブルーの羽を持つ珍鳥、ナイトヘレンの死骸がさざなみに任せて漂っているのを捉えた。
 ――こうなる前に、坊主に自分の想いを。何より、坊主の両親の想いを。だが、坊主はまだ幼すぎる。しかし、坊主の成長を待つ時間はワシに残されていない。言葉で伝えるには無理があるじゃろう。
どうすれば? どうすれば伝えられる?
 ノーマンは苦心した末に、
 ――言葉は坊主に忘れ去られるかもしれない。ならば、想いをメロディに乗せて伝えればいい。たとえ今は意味がわからなくとも、大人になる頃には、こちらの意図をきっと汲んでくれるはずじゃ。
坊主を信じるのじゃ、ノーマンよ。 
「坊主」
 重い口調で告げると、ノーマンはどこまでも続く碧き地平線に想いを馳せながら、
「これからワシが唄う物語を、決して忘れてはならんぞ」
 アクアスカイはノーマンの只ならぬ熱意を察したようで、戸惑いながらも、首を大きく縦に振った。
「ありがとう」
 そう言って、ノーマンは二人の同胞の顔を思い浮かべた。二人と共有した時間が鮮明に蘇り、命の残り火を燃やし尽くすかのように全てを唄に込める。珊瑚礁よりも美しい声が、アクアスカイの耳を突き抜け、海全体を震わせた。


 母なる海を忘れし者達。
 アクアリウムは水の監獄。
 意志を持つ者、持たぬ者。
 扉は願う者に開きけり

イルカの忘れ形見

イルカの忘れ形見

掌編 10枚 形式:三人称

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-26

Copyrighted
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