そして誰もいなくなる

いつも私は、今日が人生最後の日だと思っている。

その時男は言った。何かを言った。それが何なのか、私にははっきり聞き取れなかった。
たぶん名前だと思った。
親か、妻か、それとも子供の名前か。まさか自分の名前と言う事はないだろうが。
ひゅう、と言う魂が体から抜け出るような息をひとつ吐いた後、男の瞳は虚空を見つめた。
私は男の最期の言葉を聞き逃した事を、ほんの少し悔いた。連続ドラマの四話目を見逃したくらいの度合いで。
命の終焉を迎えた時のその人物の発する言葉を聞く事は、私にとってオプション的な楽しみのひとつだ。
はっきりと聞き取れなかった事は残念だが、名前と言う事は男の愛する人物である事は間違いない。
それがわかれば充分か。
私は呟き、心臓にナイフを突き立てられ、息絶えた男を後にした。

「はい、これ。今回の分よ」
女が私に茶封筒を手渡した。私へのギャラだ。一度の仕事につき百万円。この業界の相場が定かでないので多いのか少ないのかは判断できないが、わかるのはこの女は私以上のギャラを手にしている事だ。
何故なら搾取が彼女の特権であり、また趣味だからだ。
「ねえ。手際が良いのは認めるけど、ちょっとは依頼者の意向を含んだ殺し方にしてくれない?」
私は苦笑した。どうやら彼女はここがファミレスである事を忘れているようだ。
大胆なのか無頓着なのか、多くの人間がそうであるように、自分には危険は及ばないと彼女は信じて疑わない。
「ね?ただ殺しているだけじゃダメなのよ。付加価値をつけないと。他に仕事をもってかれちゃうわよ」
女性店員が怪訝な顔でこちらを見たが、彼女は関せずビールを飲み干し「おかわり」とその女性店員にグラスを突き出した。
昼間のビールは格別と言うわけだ。
ただ、水と同じ感覚でアルコールを摂取する彼女に、それがわかるとは思えないが。
「この間のレイプ魔だってあっさり殺しちゃってさ。あたしがどんだけ苦労して仕事とってきてると思ってんのよ。殺す前に目ん玉のひとつくらい潰しなさいよ。さんざん苦しめて殺してくれって言われてたのに。殺してやったのにあたしが頭下げるってどう言う事よ」
彼女の愚痴が始まった。やれやれと私は思った。
彼女は優秀なコーディネーターだが脇の甘さは否めない。常に酔っている彼女にまともな判断を求めるのも酷な話しかもしれない。
潮時だな。私は確信した。
彼女がトイレに立った。少し遅れて私も席を立ち、トイレに向かう。女性用トイレに迷わず入り、彼女の最期の言葉を聞いてトイレから出た。
「叛徒」
日本語に訳すと「裏切り者」だ。
私の事を言っていたならお門違いも甚だしい。私達は仕事で結びついている。信頼関係ではない。だがまあ、彼女らしい言葉だった。
彼女は少し思い違いをしていた。私の仕事をとってくるのは、何も彼女だけではないのだ。
私は依頼主に会う為に店を出た。報告とギャラの受け取りだ。私の横を、小さな子供を二人連れた若夫婦が入れ違いで入っていった。
ハンバーグ、ハンバーグ、と言う子供の歓声とコラ、静かに、とそれをたしなめる母親、その二人の手を引く父親。
絵に描いたような一般的な家庭の微笑ましい光景に、私の口はほころんだ。
あの母親がトイレに行くのは、食事が済んでからならいいのに。
私はそう願わずにいられない。

「Cheers for good work.By the way,Why it took so much time?」
平坦なねぎらいの挨拶の後に核心を突く質問をイワンは言った。
「やけに時間がかかったな?」なるほど、訳すと「彼女と何の取り引きをした?」というところか。
私は、Still had remaining liquor in her liquor bottles.と答えた。
彼女のボトルは底なしだと知っているイワンはフンと鼻で笑い、
「You have a compassion.」と皮肉たっぷりに心優しい私を褒めた。
そして私同様に心優しいイワンは「It might become fatal.」と私への忠告も忘れない。
その通りだ。
この世界では情けが命取りになる。
私達は今、在来線の電車内にいる。吊り革をひとつ空けてお互い携帯電話を耳に当て、電話の向こうに話すように会話している。
イワンは月初、この電車に一区間だけ乗る。それがこちらからイワンとコンタクトをとるほとんど唯一の方法だ。
イワンは国籍も年齢も不詳の英語、ロシア語、フランス語、ポルトガル語、アラビア語を操るコーディネーターだ。
イワンの中で世界の言語はこの五つであり、当然に極東のちっぽけな島国の言語は含まれていない。この国をアメリカの州と考えているイワンは、英語による会話を半ば強要する。
携帯電話を耳から離したイワンはそれを操作し始めた。私の報告の真偽を確認しているのだ。私はイワンにウソをつく愚か者ではない。そしてイワンもまた、報告を鵜呑みにする愚か者ではないのだ。
彼女が酒を飲めなくなった理由はわからないが原因は察しがつく。きっと彼女は虎の尾を踏んだのだ。酔った彼女は猫と虎の区別もつかなかったに違いない。
降車駅に着くとイワンは携帯電話をポケットにしまい、ドアに向かった。そして私の横を通り過ぎる瞬間、私のポケットにギャラを滑り込ませた。
私はその間も携帯電話を耳に当てて聖書の一節を朗読していた。別に彼女を悼んではいない。信仰深いイワンの指示だ。
イワンが降車してから三つ目の駅で私も降りた。トイレに入り、ポケットの報酬額を確認した。
ドルだった。
イワンはこの国の通貨にも興味はないらしい。
イワンのこの国に対する認識は、古代の神殿を思わせる堅牢さで揺るぎなく、私はある種の敬意を表しつつ、銀行へとその足を向けた。

「チッ。イワンのバカが。気取ってドル払いなんてしやがって」
銀行員の銀じいさんが悪態をついた。
私が口座を持つ銀行は、銀行法に則っていない銀行だ。もちろん、堂々と看板は掲げていない。
ここはとあるマンションの管理人室。銀じいさんの職場であり、銀行だ。もっと言えば、銀じいさんがいるところが銀行になる。
特攻隊員だった銀じいさんは戦後身ひとつで闇銀行を興した。文字通り、金にまつわる闇の中でじいさんは生きてきた。
戦中も戦後もこれまでずっと、じいさんは修羅場の中にいた。
すっかり頭はハゲ上ったが九十を過ぎているとは思えない若々しさでパソコンとソロバンを巧みに操り、表沙汰にできない金を処理している。
「ったく、とっとと国へ帰れってんだよ。なあ?」
じいさんは外国人、特にアメリカ人が嫌いだ。イワンがアメリカ人かは知らないが、英語をしゃべる人間はじいさんにはアメリカ人だ。
大袈裟ではなく、戦争で本当に何もかも失ったじいさんは、その恨みを今も持ち続けている。イワンと同様の堅牢さで。
以外にイワンと気が合うんじゃないかと私は思っている。
「入金したぜ。今日の為替レートで円に換算した。俺の手数料差っ引いてぴったり百万円だ。ったく憎ったらしい」
私は礼を言い、じいさんの好物の大福を差し出した。じいさんの目尻が下がる。
「おう。ありがとうよ。ちょっと待ってろ」と言って台所に行ってお茶を淹れて戻ってきた。足腰も実に達者だ。
私に椅子を薦め、大福の包みを空けた。
じいさんはズズッとお茶をすすり、
「なあ、あの姐さんに家族はいるのか?」と訊いてきた。じいさんはこの百万円が誰に対したものか知っているのだ。
じいさんは仕事も耳も早い。隠すつもりもないが。
私がわからない、と言うとじいさんは「そうか」と言ってお茶を飲み干し、急須からお茶を足した。
「別にお前を責めてねえよ。ホトケになったのは姐さんが悪かったんだ。どの道、酒浸りであの性格じゃ先は知れてた」
じいさんはポイッと大福を口に放り込み、
「俺が言いたいのは姐さんの口座だよ。本人があっちに逝っちまったから俺としてはキレイにしたいんだ。ホトケの口座なんて縁起が悪いしな。で、家族がいるならそっちに渡そうと思ったんだ」
私は少なからず意外に思った。銀行に口座を開設する際の契約では、本人死亡の場合はその口座は銀行の、つまりじいさんの所有になるからだ。
じいさんはこれまで契約通りに処理してきたはずだ。
私の疑問を察したじいさんは「姐さんとは付き合いが長くてな」とポツリと言った。
「お前は知らんだろうが姐さんは昔はあんなじゃなかった。酒は好きだったが節度があった。仕事だってしっかりしてたし、この世界の分別だってわきまえていた」
じいさんは節だった手を揉んだ。彼女をコーディネーターの一人としていた私は当然その辺は調べ上げていたが、あえてじいさんに無言をもって話しの続きを促した。
「おかしくなってきたのはイワンがきてからだ。普通だったら姐さんに仕事を回す連中がイワンに回すようになった。イワンがある事ない事言いふらして姐さんの地場をかっさらったんだ。おかげで姐さんはアル中になって挙句ホトケになっちまった」
声と体を震わせて語るじいさんを見て私はそっとため息をついた。じいさんの言っている事はイジメにあった孫を語る年寄りのそれだ。私達は学校にいるわけではないのだ。
それに関しては仕事をとられた彼女が悪い。イワンは当たり前の事をしただけだ。
それがわからないじいさんではないのに。
何故それを私に言うのだ。
「おい、お茶が冷めちまうぞ。飲めよ」
なるほど。
私はお茶をチラリと見てからじいさんをきっかり見つめた。
じいさんも目をそらさない。
じいさんは彼女を貶めたイワンを恨んでいる。そして彼女を奪ったヤツを恨んでいる。
つまり私だ。
この界隈での裏の金融取引を一手に請け負っているこの銀行で、ドル払いするのはイワンだけだ。そして彼女がいなくなってから最初にドルを預け入れた人物。それが彼女を奪った張本人と言うわけだ。
やはりじいさんは若い。彼女に恋をしていたのだ。そして叶う事のないその想いは奪った者への怨みに変わった。
やれやれだ。恋は盲目と言うが、この業界のルールもじいさんには見えなくなってしまったのか。
私が哀れんだ目で見るとじいさんの目がガッと見開き、食べた大福と一緒に血を大量に吐き出した。
そして低い断末魔の呻きとともに椅子からひっくり返った。
口を血と汚物で汚したじいさんはドッキリにかかった芸人のような顔で私を睨みつけた。
じいさん、私からの差し入れを無警戒に口に入れたあんたが悪いんだ。
私はじいさんに言った。
私達の業界は実に不安定で常に緊迫している。油断すれば待っているのは奈落だ。警戒を怠ってはならない。そして私はいつも、今日が人生最後の日だと思って生きてきた。
私はイワンとじいさんの確執を知っていた。そしてじいさんと彼女の関係も知っていた。丸腰でここに来るはずもない。
念のために仕込んだ毒が功を奏した。
じいさん、向こうで彼女と逢えるといいな。私は心からそう言った。
じいさんの呼吸がガス欠寸前の車のようになってきた。私が仕込んだ毒が全ての筋肉の動きを止めていく。
じいさんが何か言いたそうに口を動かした。じいさんの最期の言葉だ。私は聞き逃すまいと耳を澄ませた。
きっと彼女の名前だろうと思っていた私は言ったじいさんの言葉は意外だった。
「客人に茶を出しな」
そう言ってじいさんは彼女のところヘ逝った。
私はその言葉の意味をしばし考察する事になった。
誰かここに来るのだろうか。ここに来るのはじいさんの顧客だけだし、それは私の同業者だ。逃げも隠れもしないが、私がお茶を出す義理はない。
相手もここが看板を下ろしたのなら別の銀行に預けるだけなのだ。じいさんの銀行は一言で表せば金庫なのだから。
しかしじいさんが何の意味もなく言ったとは思えない。
と言う事は来るのは私の知り合いだ。そしてこの流れなら来るのはイワンだ。
やれやれ。私は首を鳴らした。どうやらじいさんは私に依頼をしたようだ。ギャラはじいさんの銀行をそのままいただく事にする。
得るものと同様、失うものも大きい。私は今日、二人の優秀な人材を失い、そしてもう一人失う事になる。
忙しい日だな。新たにコーディネーターを見つけなくてはならない。
何人かのコーディネーターが頭に浮かんだ頃、ドアがノックされ、入ってきた人物。
イワンだった。


おわり。

そして誰もいなくなる

読んで下さりありがとうございました。
このお話は「その時男は言った」が何となく頭に浮かび、そこから何となく物語を進めて、何となく終わってしまいました。起承転結はありません。あしからず。
ではまた逢う日まで。

そして誰もいなくなる

これはある男の一日を記した物語である。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted