犬も笑う物語

犬も笑う物語

第1章 すれ違い

「じゃあ奥さん運ぶ前に壁の傷とか一緒に確認して下さいね。廊下のここのクロスの傷、台所へ入るドアのここの欠け、それから・・・・・・」


 今日は、七月末の日曜日、東京郊外のマンションに住む夫婦が離婚をし、奥さんと長女が引っ越す日の朝のことだった。

彼らは、十年の夫婦生活で小学三年になる女の子がいる。それと三歳になるオスのシーズー犬が一匹。

奥さんの名前は離婚で、元の姓になった井田優子(イダユウコ) 三十五歳、娘も母親の姓になり、井田沙希(イダサキ)九歳。

主人の木田和也(キダカズヤ)三十六歳と、オスのシーズー犬、クッキーはここに残る事に。

 早朝から荷物の運び出しが始まった。食器棚は結婚当初の物だが、洗濯機や冷蔵庫は最近買ったばかりである。
テレビも買い換えたばかりだが、妻に持って行かれる。娘にやると思えば腹もたたないかと思ったカズヤであった。

 ユウコが
「カズヤ、早くサキを連れてってよ、約束したのでしょ」

「ああ、そのことなんだけど、昨日の晩に電話があってさ、朝の内に一時間だけ仕事が入ったんだよ、ユウコは何時ごろ向こうに行くの?」

「引越しの人が十一時半頃に出ますって言っていたから、テルが車でここに来て一緒に行くの。だから向こうでお昼しようって電話したわよ」

テルはユウコの幼なじみで、高校は別々の学校だったが、大学で再び一緒になる長い友人である。

名前は、中島照美(ナカジマテルミ)三十五歳、
ご主人は、中島武(ナカジマタケシ)三十六歳、
一人息子の勇人(ユウト)十歳がいる。

タケシはペットの葬儀社をしていて離婚したユウコは、以前からそこに勤めている。

タケシとカズヤは大学時代に知り合った友人で、積極的なタケシが合コンで知り合ったテルミと付き合う内に、
ユウコとカズヤを引き合わせ、二組ともゴールインということである。

カズヤが
「十二時前には帰るよ、その前に出るならサキを待たしておいて。サキと一緒にお昼ごはんを食べに行くよ。」

「なるべく早く帰ってあげてよ、向こうで片付けて、七時頃には向かえに来るからそれまでに帰ってきてよ。」

 ユウコは新居を教えたくないのでサキを迎えに来ることにしている。

今後の連絡も電話ではなく、用事がある時はメールでやりとりをする約束をさせられていた。
タケシの店には絶対来ないことや、テルミやタケシにも引越し先は口止めしてある事を昨日言われた。

カズヤは離婚後ストカーみたいな事はするつもりもないが、娘のサキのことは知りたい。もし、何かあった時は、
タケシならきっと言ってくれると信じていた。

そしてカズヤは着替えて九時前には出かけて行った。
 
カズヤの仕事は大学を出てからずっとIT関連の派遣と下請である。

IT関連と言えば格好はいいが、現実はホームページの作成や企業のLANの構築、クラッシュしたハードディスクのデータ回復、
インターネットに加盟したお客さんの初期設定などである。

今日もそんなインターネットに加盟したお客への初期設定が急に入ったのである。

しかし、カズヤが何故フリーターの仕事形態かと言うと大学時代にゼミで特殊情報処理論を専攻した時、教授の指導を受けながら、
作成したプログラムを完成させたくて大学で三年間没頭していた

あと二年で完成できるという思いで卒業後もフリーターをしながらプログラミングをしているが、十二年たった今でも完成できずにいる。

もう途中で投げ出す事ができず、今も続けるしかない状態である。

下請の仕事は出来高性なので、自宅でする事も多く、自由な時間が持てる事が、今も続ける理由である。

新婚当時、ユウコにも少し話したが、『夢見る夢男さんね、でもいいわ、生活費さえしっかり入れてくれるなら』と言われ、
それ以来カズヤはそのことを一切口にしなくなった。

 予定通り引越しの荷物は積み込みが終わり、ユウコの友人のテルミが車でやってきた。

ユウコは
「テルごめんね、休みなのに、タケシさんにも悪いわ。」

「いいのよ、お昼と晩ご飯両方作ってきたから、ユウトも朝からサッカーの練習で七時まで帰ってこないし」


 引越し業者が入ってきて
「それでは奥さん出発しますのでよろしいですか?」

「はい、じゃあ願いします」

クッキーを抱いて座っているサキに向かってユウコは、

「お母さんは、テルおばちゃんと車で向こうに行くから、お父さんも、すぐ帰ってくるからお留守番お願いね。七時には迎えにくるから」

「私もお母さんと一緒におりて、下でクッキーと散歩する。」

三人でマンションを出た。ユウコはテルミの車の助手席に乗り窓を開け

「鍵、首にかけている?それからお父さんすぐ帰るから、この辺りにいなさいよ」

「わかった」

引越しのトラックと共に出発して行った。

 サキはクッキーを下に降ろしリードで引っ張りながら

「クッキー公園に行こ、それ走れ!」

公園に向かった。

公園に、サキと同級生の女の子が二人いた。サキを見つけるなり

「サキちゃーん」

手を振って呼びかけてきた。駆け寄ると

「サキちゃん、夏休み終わると新しい学校に行くの?」

「うん、今日引越し、さっきお母さんが引越し屋さんと一緒に行ったの」

「じゃあもうサキちゃんとも遊べないね」

もう一人の女の子が
「クッキーちゃんの散歩?」

「うん」

「サキちゃん・・・クッキーを離して私達のどちらに行くかやってみない?」

「うん、やろう! やろう!」

女の子はそこから、三メートル程離れた。

サキもクッキーを引いて十メートル程行き、首輪からリードのフックを外した。

女の子二人は姿勢を低くして
「クッキー!おいで!おいで!」

声を張り上げたその時だった。
どこにいたのか、突然茶色の中型犬がクッキーめがけて走ってきた。

クッキーも気づき、あわてて逃げ出し、
サキは
「クッキー~!」「クッキー~!」


サキは叫んだが、茶色の犬に追われながら公園の外に走り去った。


先ほど茶色の犬に驚いて、悲鳴を上げていた女の子二人も

「サキちゃんおいかけよ」

三人でクッキーが出て行った方向から公園の外に出た。

公園の付近を捜しているうちに、サキは父親が戻っているかも知れないと思い出し、

「あのね、公園で待っていて、私、お父さん呼んでくる」

「うん」

サキは一目散に走って、自宅のマンションに戻りドアを開けるなり

「おとうさん!」

各部屋を覗き込んで

「おとうさん!」

呼んだがカズヤは、まだ帰っていなかった。この時部屋の時計を見ると十二時半だった。

サキが公園に戻ると先ほどの女の子が

「おとうさんは?」

「まだ帰ってなかった」もう一人の女の子が

「私、お昼ごはんだから帰らなきゃ」

「私も、ごはん食べたら探しに来るから」

話していると、女の子のお母さんの一人が公園に呼びに来た。

「あっ、ママだ、サキちゃん帰るね」

言い残し母親の元へ走り去って行った。
残ったもう一人の女の子も

「じゃあ、すぐくるからね。バイバイ」

公園を後にする友達の背中をながめるサキだった。

九歳の女の子が生まれて初めて味会う、深く大きな不安が襲ってきた。

頼る両親もいない。友達からも見捨てられたような寂しさ、クッキーが大変なことになったらという恐怖感。

サキは涙を必死にこらえた。もし、ここで誰かに優しい言葉でもかけられたら泣いてしまいそうである。

でも探して助けるのは自分しかいないという状況は過酷だ。
歩きだすとついに、大きな声は出さないが嗚咽が止まらなくなった。

少し遠くまで探して家に戻るが父親はまだ帰っていない。

今日は七月の末、炎天下で歩き疲れて戻ってきた。普段なら家に帰ると冷蔵庫に麦茶かジュースが入っているが、その冷蔵庫も今はない。

仕方なく水道の蛇口を開き、コップで生暖かい水を飲むしかない。部屋の時計を見ると二時前である。

 サキは家の電話のところに張ってある父親の携帯番号を見ながらかけてみた。『電波の届かないところに・・・」のアナウンス。

次に母親の携帯にかけると呼び出し音が、
「ああ、呼んでいる」

救いの女神、ドキドキする気持ちで出るのを待った。
しばらく呼び出し音を聞いていると、部屋の中から、

『ブーン、ブーン』と、音がしている。

呼び出し音を聞きながら隣の部屋を覗くと、クッションの上にお母さんのピンクの携帯が置いてあった。

呼び出し音が鳴っただけに期待した分、大きなショックに見舞われたサキであった。

サキが家にいる時、先ほどの女の子二人が公園に戻ってきた。

「ああ、サキちゃんいないね。きっと見つかったんだ」

「そうみたい。わたしもママと買い物に行くから帰るね」
二人とも公園から出て、帰ってしまった。

 そのころ父親のカズヤは、インターネットの初期設定のため。まだ、お年寄り夫婦の家にいた。

インターネットで孫と動画で通信したいと言うが、ウェブカメラがない。代金を預かり秋葉原まで行き、戻る電車の中であった。

心のなかで
『最初から言ってくれよな』

と思いつつ、サキのことが心配になり駅をから、家に電話をかけてみた。

ウェブカメラを買いに行く前にも家に電話したが、誰も出なかった。

丁度その時はサキがクッキーを探していた最中である。

呼び出し音が鳴るがでない。ユウコに電話しようとダイヤルボタンを押すが

「携帯に電話しないでと言っていたなあ、初日から約束破ったってうるさいからメール入れとくか」

メールで『サキ連れて行ったのか?』と送信した。

もちろん本人が見ることができない事は知る由もなかった。

 サキは頻繁に、外とマンションの往復を繰り返していた。

サキは引越しで母親が忙しかったので、朝から何も食べていない。

口にしたのは、先程の生暖かい水道水だけである。

夕方の四時頃家に帰ったサキ、炎天下でさすがに疲れ、ソファでつい眠ってしまった。


 その頃カズヤは、まだお客の家にいた。設定はとっくに済んでいたのだが・・・・・・。

そこのお宅の孫が家族で出かけていて、夕方の六時にならないと帰らないというので待たされているのであった。

そこの主人が
「木田さんでしたね。すみませんねえ、なにしろ年寄りですから、実際に孫とする手順を教えてもらわないと」

「いえいえ、私ならかまいませんので」
カズヤは心無くも返事した。

そこの主人が
「木田さんは電車でしょ。お酒は飲めるのですか。」

「はい」

「ばあさん! ビールとおつまみ持ってきて下さいよ」

そこの奥さんは
「あらもう飲まれるのですか?もう少しすればお寿司が届くのに待てないのですか」

「まあ、ぼちぼちやっていれば孫も家に着くさ。今日は木田さんに無理を言ったみたいなので、夕食でも食べていって下さい」

ビンビールと枝豆が目の前におかれた。ここのご主人には缶ビールの小と冷奴がおかれた。

ご主人がニコニコし
「私はこのビールを取り敢えず一杯飲んでから、後、夏は冷酒をチビリ、チビリするのが日課なのですよ。あーどうぞ どうぞ、遠慮なさらずに」

しかし、飲む前に少し携帯が気になり座卓の下で携帯を広げたが何の着信履歴もなかった。

「あいつ俺が遅いのでサキを連れて行ったのかな」

勝手な解釈で気が楽になり飲み始めた。


 一方、マンションのサキは二時間程眠ったところで目を覚ました。時計は六時を指していた。

まだこの季節、外は明るく、クッキーを探そうと、又、外へ出かけていった。

やはり最初に公園に行くがいるはずもなく、今まで探した近くではなく、思い切って少し遠くを探す事にしたサキ。


しかし、日が沈みだしたら一気に暗くなる事をサキは知らなかった。


 カズヤは、お客の家で届いたお寿司や仕出しをよばれながら、ウェブカメラでお孫さんと通信して喜んでいる老夫婦を眺めていた。

食事も頂き挨拶を済ませ、そこの玄関を出た時はすっかり暗くなり、時刻は七時であった。

駅に向かう途中で携帯を開くといつのまにか電池切れである。


「あれえ、いつ切れたんだ。」と思いつつ駅に向かうカズヤであった。


 ユウコは約束どおり七時少し前にテルミの車でマンションに戻って来た。

このままテルミにもう一度、引っ越し先に送ってもらう予定であった。

ユウコは玄関を開け中が真っ暗なのでまだ帰っていない事に気づき

「あーあ、ごめんね、テル、あのバカまだ帰ってないわ、あれほど七時までに帰ってきてって言ったのに」

「まあカズヤさんも、サキちゃんがユウコの所にいったら度々会えないので少し遅くなっているのよ。ああ!ユウコ携帯忘れたって言ってなかった?」

「そうそう、朝、荷物の整理をしていてどこかに置いたのよ」

「じゃあ、私鳴らして見るね」

「ああ、電話バイブにしているの、メールなら音がするから」

「それじゃ空メール送るね」

隣の部屋からメールの着信音が聞こえた。

ユウコは
「あった!あった!ありがとう」

テルミに礼を言いながら、メールの着信履歴を全て消去してしまった。

二人はソファに座りながらお互いの家庭の雑談をしながら待っていたが、

ユウコが
「遅いわね、ちょっと待ってね、カズヤに電話してみるから」

携帯を耳にあてがった。
「電波の届かない所とか言っているから連絡着かないわ」

テルミが
「レストランでご飯かも、もう少ししてから、かけてみたら」

「まったく役にたたないんだから」

と言って携帯を置いた。

その時ユウコの携帯電話がブーン、ブーンと振動をして着信を知らせた。

「きっとカズヤよ、怒鳴ってやらなきゃ」

無愛想に
「モシモシ!カズヤ今どこにいるのよ!」

「木田ユウコさんですか?こちら北関東警察ですが」

ユウコは不思議そうに
「えっ、はい・・・?」

「お宅で飼っておられる犬なのですが、こちらで保護しておりまして、首輪に鑑札とお宅の名前、電話番号が書かれていましので、
ご連絡いたしました。今からこちらに来て頂きたいのですが」

「あーはい、直ぐに伺います」


「それでしたら、身分を証明するものと印鑑をご持参下さい。一階の受付に言ってもらえば分かるようにしておきますので」

ユウコは電話を切ると。
「え~え、どういう事!そう言えば、帰ってきてクッキーがいないのに気づかなかったわね」

ユウコは、
「そう言えば、日帰りで出かける時、サキの友達で犬好きの子がいてさ、時々預かってくれるのよ、その子がきっと放しているうちにいなくなったのよ。
だってその子の家、警察に近い方向だもの」

「それならユウコ、警察で引き取ったらその子の家にも行ったほうがいいね、まだ探しているかも知れないし」

「ああそうよね」

二人は、マンションを出て警察に向かった。

 二人が出て五分後、サキはマンションに帰って来た。

部屋は真っ暗。明かりをつけてソファに座ると悲しさと寂しさ、不安感、言い知れない気持ちがサキに襲ってきた。

サキは、この日初めて大きな声を出して泣いたのであった。

まだその時カズヤは、駅を降り、マンションに向かっていた。

ユウコとテルミは十五分程で警察に着き、クッキーの引渡しの手続きを済ませ、サキの友達の家に向かっていた。

車の中でユウコは
「私達クッキーを家族として接しているじゃない。でも今、警察では遺失物の引渡しでしょ、テルの仕事でも亡くなったペットは、
産業廃棄物の扱いだし、なんかかわいそうね」

テルミが
「でも飼っている人がそんな扱いをしなければいいんじゃない」

話している間にサキが仲良くしてクッキーを預かってもらったことがある子供の家に着いた。

玄関のインターフォンを押すと

「はいどちら様ですか?」

ユウコが
「遅くに申し訳ありません。木田サキの母親ですけど、娘さんはいらっしゃいますか?」

「少々お待ち下さい」


母親が玄関に出てきて
「いつも娘がお世話になっています。娘は昨日から主人の田舎に行ってまだ帰ってないのですけど何か?」

ユウコは少し驚きながらも
「いえそれならいいんです。遅くに申し訳ありませんでした」

会釈すると

「あのう、娘さんがまだ戻られないのですか?」

「いえ、そういう事じゃないんです。どうもありがとうございました」

再度会釈すると急いでテルミの車に乗り込んだ。

テルミが運転席に座るやいなや、
「ユウ、どうだった?」

「取り敢えずここから少し離れましょ」

「そうよね」



近くの公園の横に車を止めた。ユウコは頭の中を整理しながら、カズヤの携帯に電話をかけたがつながらない。

言い知れぬ不安感がユウコを襲った。それにひきかえクッキーは安心したのか後ろの座席で幸せそうに眠っている。

 一方マンションでは泣きつかれたサキが又寝入ってしまった。そこにカズヤが帰ってきた。

カズヤはカバンを自分の部屋に置き、何故サキがいるのだろうと思いながら・・・

「サキ!サキ!」

目を覚ましたサキはカズヤの顔を見るなり又、泣き出した。

「サキごめん、ごめん」

落ち着いたところでサキの話を聞いたカズヤは、

「じゃクッキーをお父さんと探しに行こう」

サキとマンションを出て行った。

カズヤはサキに
「サキ、朝から何も食べてないって言ってたね、探しながら駅の方にあるレストランでご飯を食べようか。帰りに違う道で探して、
もし見つからなかったら絶対お父さんが見つけるからサキは心配しなくていいから」

歩きながら話していると公衆電話があった。

カズヤがサキに
「お父さん携帯電池切れで、お母さん心配してるかも、そこの公衆から電話してくるよ」

「サキ電話したけど、お母さん携帯お家に置いてあった」

「そうか、じゃかけても仕方ないなあ」
と言って歩きだした。

レストランに着くとサキは、多くの人の笑い声や、好きな食べ物でお腹を満たし、クッキーの事もお父さんが見つけてくれると約束してくれたので、
今までの事が嘘のように明るくなりこの世の春のような状態である。

人生はシーソーのように、今度はユウコが、不安地獄を味わっていた。

テルミも家に電話を入れ遅くなる事を伝え、ユウコに付き合うしかなかった。

二人はマンションに戻り、どういう事か頭を整理するしかなかった。



「ねえユウ、カズヤさんとサキちゃんが他の誰かに預けて行ったとは考えられない?」

「いいえ、他に預ける人っていないもの」

言いながらクッキーのドッグフードの缶詰を開け洋食ナイフでえさ入れに掻き出していた。

続けてテルミが
「それならサキちゃんが出かけるときドアを少し開けて行ったとか」

「ううん、さっき帰った時、鍵も掛かっていたし」

その時、家の電話が「ルルルルル」となった。

テルミが
「きっとカズヤさんよ」

ユウコが出ると
「もしもし、サキちゃんと同じクラスの坂下ですけど、サキちゃんいますか?」

「いえ、サキはお父さんと出かけてまだ帰っていないんだけど」

「ああ、そうなんだ、今日夕方公園でサキちゃんに会った時クッキーがいなくなって探しているって言っていたから、見つかったのかなあ
と思って電話してみたの。お父さんと出かけているんだったらいいです」

ユウコは
「坂下さんよね、クッキーは見つかったんだけど、夕方どこの公園でサキにあったの?」

「二丁目のハト公園で会った、サキちゃん帰ったら良かったねと言っといて、それじゃバイバイ」

電話は切られた。

テルミはユウコに向かって
「誰?なんて言ってた」

「良かったじゃないわよ、テル、私どうしよう」

半泣きになるユウコを見てテルミは
「どうしたのよ、なんて言ったのかはっきり話さないとわかんないでしょ」

ユウコをゆすりながら問いかけた。

  その頃、カズヤとご機嫌なサキは本屋に入り
「おとうさんこれ買って、サキ欲しかったのだけどおかあさんがダメって買ってくれなかつたんだもの」

サキが差し出した本は紐でくくられており、殆どが付録かオマケで本の内容は余り無いようなものであった。

ユウコがダメと言いそうなものだなあと思いながらも

「今日はお父さんが悪かったから、あと二冊位はいいよ」

「やったー、じゃあ奥の文房具もいい?勉強もするから」

カズヤは笑顔で
「サキ、誰に教わったんだ、そんな言い方」

サキは本を抱え文房具の売り場に走って行った。

マンションではユウコとテルミが二人で推測し、頭の中がグルグルになっていた。



ユウコが
「テル、ちょっと聞いて、今日はカズヤが昼ごろ帰ってサキと一緒に遊びに行くって。七時頃にはここに戻って、
私がサキをつれて家に帰るはずだったわよね・・・サキはカズヤが帰って来るまでクッキーを散歩しにいったわよね・・・
じゃあ何故クッキーが迷子になって、サキが夕方に近所の公園にいて・・・今、サキもカズヤもここにいないの、どうして?」

完全にパニックに陥っていた。

テルミは
「ユウ、あれから色々あって、カズヤさんに電話してないでしょ、かけてみたら」

「そうだ忘れていた、あれからもう一時間はたつわよね」

携帯にかけてみるが・・・
「さっき同じ、電波がとどかないか、電源がはいっていないって。テルどうしよう」


 テルミは
「ねえユウ、さっき行った警察に相談しに行こうよ、一応状況を説明して捜索願を出すべきか、どうするか。
その間にカズヤさんかサキちゃんがここに帰ってきたら分かるように、置手紙で帰ってきたらユウの携帯に電話するようにってのは、どお?」

「そうよね、それしかないわね」

「サキちゃんはユウの携帯番号知っているの?」

「ええ、電話番号、ここに貼ってある、えっ!、あっ!待って、着信履歴に不在着信が入っていたわ、それどころじゃなかったので確認しなかったけど」

言いながらユウコは携帯を操作し不在着信を表示させる。

「一時五十五分にここからだわ」

「家からだと、カズヤさんか、サキちゃんかわからないわね」

「いえ、サキよ、カズヤならいつも携帯からかけるもの」

また謎が増えた二人は、取り敢えず置手紙を書き警察に相談に行く事にした。

クッキーは置いて行くのでリビングの電気とエアコンはつけたまま、玄関のドアを開けたテルミが先に出て、ユウコも続いて玄関を出た。

第2章 新たな出発

ユウコが鍵を閉めようとしている時に、テルミが廊下の向こうから歩いてくるカズヤとサキを見た。

「ユウ、ュウ」
服を引っ張り呼ぶと
ユウコも廊下の方を見た。

もうそこまで歩いてきたカズヤに大声でユウコは
「カズヤ!何していたの、どういうつもり!」

「おいおい、大声だすなよ、かっこ悪いじゃないか」

テルミが
「ユウ、とりあえず中に入りましょう」

サキも廊下を笑顔で歩きながら、
『おかあさんと』と言いたかったが、
ユウコの大声に先手をとられ、なにも言えぬまま本屋の袋を持って部屋に入った。

部屋に入ると、クッキーだけは、尻尾がちぎれんばかりに振って出迎えてくれた。


 ソファにカズヤとサキが隣同士に座ると、ユウコがカズヤの対面に座りテルミもその隣にすわった。

クッキーはソファの上に飛び上がりサキにじゃれている。

「カズヤ、今まで連絡もとれずにどこに行っていたの! どうしてクッキーが警察に保護されて、サキが夕方に近所の公園にいたのよ! 
どうして二人で一緒に帰って来たのよ」

すごい剣幕で詰め寄ってきた。

「いや、俺だってユウコにメール入れたさ」

「そんなの、入ってなかったわよ!」

「いや、二時頃サキを連れて行った?って、入っているだろ」

「そんなの入ってないわよ」

ユウコは携帯のメールをチェックしながら言った。

それは、先程テルミが送った空メールと共に消去した事を自覚していなかったからである。

サキも気まずい雰囲気のなか
「おかあさん、クッキーは警察の人が見つけてくれたの?」

勇気を出して聞いてみた。

「そうよ、おかあさんとテルおばさんとで警察に行って引き取って来たのよ」

テルミは気をきかして途中で、外の自動販売機で缶コーヒーとジュース、お茶を買いに行き戻って来た。

ユウコの興奮も随分収まっており、カズヤとサキの二人から今日一日の出来事に聞き入っていた。

ユウコは
「結局カズヤは、お昼ごはんも食べさせていないし、遊びにも連れていかなかったっていう訳ね」

その後もユウコの恨み節は少し続き、カズヤも反論すれば長引くと思いあまり返事をしなかった。

ユウコは
「やっぱり別れてよかったわ、テル、遅くなって悪いんだけど私とサキを家に送ってくれない」

立ち上がるとサキの手をとり玄関の方へと進んだ。


テルミは気まずい思いのまま
「カズヤさんじゃあ」
軽く会釈をし、二人の後を追った

クッキーは行かないようにカズヤが捕まえていたのでソファの上から、首をかしげながら、帰っていく三人を眺めていた。


→→→ →→→

 ユウコとサキが引っ越してから一週間が経った。

まだ、カズヤの部屋には冷蔵庫、テレビ、洗濯機の必需品がない。

洗濯は自転車で、五日分をコインランドリーで洗っている。

冷蔵庫はタケシからキャンプ用の3電源のクーラーで飲み物を冷やしている。

テレビはパソコンにワンセグチューナーをつけて見ているが、画面を大きくして見ると画像が荒い。

取り敢えず自炊はしないので、コンビに弁当や外食で済ませ、生きていくには、何とかなっている生活だ。

クッキーは暇をもてあまし寝ているばかりである。

 一方ユウコは、サキの転校手続きを済ませ、学童保育に申し込んだが二学期からしか見てもらえない。


夏休み中、サキを家に残しているが、友人のテルミの旦那であるタケシの会社に勤めているので、自由はきく方だ。

タケシの会社は、ペットの葬儀社である。テルミの主人の中島タケシはお寺の次男坊で、現在そのお寺は長男が住職を継いでいる。

タケシの母はタケシが大学の時に亡くなっているが、前住職である父は今も存命である、数年前から正座ができなくなり、
僧侶が正座できないのではと長男に住職を譲った。


タケシは大学卒業後、大手のペット製品のメーカーに就職。販売の営業で、ペットショップ廻りをしていた時ペット霊園の不足を知った。

父親が住職を退いた時に、相談したところ、寺院の敷地に余裕がある事や、保健所の許可だけで良い事から千聖地程
(30センチ角×1000)を使わせてもらう事で了承してもらった。

千聖地といってもそんなに広くはない。そんな折り、交際していたテルミにも話しをした。

結婚して二人でやろうという夢を共有できた。

その後、タケシは四年間勤め結婚を期に独立するため退社した。

幸い土地の購入資金等の多額の投資資金は必要がなく、馴染みとなったペットショップや動物病院もたくさんあり、
寺院内の霊園という安心感もあって、そこからの紹介が、当初から順調に入った。


それでもパンフレットや送迎車、事務所経費等で資金が必要になり、親に頼りたくないタケシは、公的資金を申し込み三百万円の資金を借り入れた。
しかし、僅か一年足らずで返済した。

現在は法人化し、無借金の健全経営である。ペットの葬儀社といえば暗いイメージであるが、妻のテルミの発想で店舗はヘアサロンのように明るくおしゃれである。

現在この会社で働くのは、タケシとテルミ、ユウコ以外に四十過ぎのセレモニー部門の男性が二人おり、ペットの葬儀がない時は、
動物病院やペットショップ、スーパー、ホームセンターや企業の共済組合などで営業活動をしている。

三十前の女性社員が一名おり、セレモニーの受付や用品用具の調達を主に行っている。

タケシは社長として人手の足りない部門の全てを行っており、テルミは主に事務処理に追われている。

会社で働いているのはこの六名である。

 ユウコはサキが小学校に上がるのを期にテルミの誘いもあり、タケシの経営するこのペットの葬儀社「メモリアルフレンド株式会社」に入社した。

厚生年金や雇用保険、社会保険も加入しているため、サキはユウコの社会保険に入っている。

婚姻期間中から、フリーターのカズヤは国民健康保険と国民年金というわけである。

ユウコは会社で、主に霊園事業部の販売の営業案内である。

社長のタケシは実家のお寺を継いだ兄と最初は仲が良かったのだが、動物霊園が売れるにしたがい、徐々に折り合いが悪くなりだした。

そんなことから、タケシと顔を会わせたくないため、霊園や葬儀の用がある時には、ユウコに依頼する事が多くなっている。

セレモニー部門はいつでも待機して葬儀の準備やお迎えがいつ入るかわからないので、子供のいるユウコには対応しづらいため、
ユウコを営業部門としたのは、タケシとテルミの配慮といえる。

しかし、霊園の案内ではどうしても休めない時もある。

ユウコは、離婚をして引っ越し、新しい生活が始まり、サキを一人で育てるためにも仕事を頑張らなければと思っていた。

 今日は、老夫婦を霊園に案内し自宅まで送り届けて帰社したユウコであった。

「只今、帰りました」

「お帰り、どうだった?」
テルミが伝票整理をしながら言った。



「それがさあ、今日案内した高橋さんところ、マルチーズがまだ3匹もいるのよ、それでね、しつけが出来てなくて机や椅子の脚はかじるし、無駄吠えはするし。」

手のビニール袋を持ち上げながら
「家に上がったら大変、帰りに靴をはいたら靴の中にオシッコされているの。でも契約して下さったから知らん顔して車に乗って慌てて靴脱いだわよ」

「いや~、それは大変、一度家に帰る?」

「いいえ、時々あるのよねえ、平気よ、いつも変わりの靴と靴下、におい消しは積んであるから」

「じゃあ高橋さん契約して下さったね」

「もちろん、しかも後3匹いるから四聖地よ!」

「へえー、ユウコすごいじゃん、でも一聖地にお骨五つ入るって言わなかったの?」

「言ったわよ、でも四聖地で大きなお墓建てるんだって。テルミ、石屋さんからパンフレットと見積もり取っといてね」

二人で喜んでいると二階の事務所から社長であるタケシがおりてきた。

「聞こえたよ、おめでとう・・・今いける?テルミと一緒に打ち合わせルームに来てほしいんだけど」

ユウコはテルミに
「えっ!何かあったの?」

「何もないわよ、何かあるのはいつもユウのほうじゃない」

「それはまたどうも」

と言いながら、二人は上がっていった。

タケシの会社は大企業ではないので、会議室と呼ばず打ち合わせルームと呼んでいる。

六人用の白い会議テーブルが二つ向かい合わせ。椅子も両肘付のリクライニングシートが八つ、普段は余裕を持って座れる。

下請け業者などが来て大人数の時は折りたたみのパイプ椅子が十脚あり、しばしば慰労会をこの部屋で行い、酒盛りすることもある。

 そんな打ち合わせルームに入ると既にタケシが座っており、テルミがすかさずその横に座った。

ユウコはテルミの正面に座ると直ぐに

タケシが

「前々からテルミとも話していたのだけど、会社に入ってもらう時に役員でとお願いした件だけど・・・・・・」

 書類らしきものをめくりながら続けて。

「ユウコさんが、他人が入ったら後々面倒だからって云う事で役員にしなかったけど、これからはサキちゃんを育てていかなくちぁならないし・・・
役員になってくれれば利益を役員報酬としてユウコさんにもきっちり支払えるから。こちらも税務上なんの問題もないのだけど」



ユウコは、
「でも、後々揉め事の種にならない?・・・テルと私は小さい頃からの仲良しだし何かあったら困るじゃない」

テルミが
「前にユウコがそう言うから、弁護士さんと会計士さんに相談したの。するとね、今この会社の株式の八割をタケシが持っていて、
私が二割、株式会社は株主総会で株を沢山持っている人の方に議決権があって、幾ら役員会で決議しても最終的に重要な事は
株主の賛同がなければならないの。だからユウコは取締役に入ってもらうけど株は取得しないから将来揉める事は絶対にないのよ」

幼馴染のテルミの言葉に安心したユウコは
「じゃあ、そういう事だったらお願いするわ」


しかし、この事があとで大きな問題になる事を三人は知る由もなかった。

社長のタケシが
「それなら明日の昼すぎに臨時株主総会を開いて手続きをしようか、司法書士の高井先生にも来てもらって、書類を作成してもらおう。
ユウコさんは印鑑証明一通と実印を明日持ってきて。確か夕方でも印鑑証明取れたかな・・・テルミ?」

「ええ、六時まで取れるわよ。なんか登録すればATMみたいな機械で夜の八時まで住民票とかもいけるみたいだけど、
難しそうなので私は登録していないの」

テルミの言う通り印鑑証明が取れる事は分かったのだけど、余りにも急な展開に戸惑うユウコだが返事をした以上取りにいかざるを得ない。

今までならカズヤに聞いて返事すると言っていたが離婚した今は、自分で決断しなくてはならない。

いや、考えてみるとカズヤを理由に結論を延ばし、カズヤに聞かず自分で判断して返事した事もしばしばあったように思える。

ユウコは離婚して初めて、少しせつない気持ちになった。
 
翌日ユウコは、昼食をしてから印鑑証明と実印を持って一時頃に打ち合わせルームに入った。
とスーツを着た五十過ぎの男性がノートパソコンを広げて社長のタケシと打ち合わせをしていた。

ユウコはこの人が司法書士さんだなと思い、こちらを見たので軽く会釈し席に着いた。

タケシが「ごくろうさん。昨日言った物、持ってきてくれた?」

「はい」
手に持っていた実印と封筒に入った印鑑証明を机の上に置いた。

テルミがアイスコーヒーを四つお盆に乗せて入ってきて各々の前に置いた。

司法書士の男性はフレッシュも何も入れず一口飲むとそのコップを遠ざけてノートパソコンの横に黒の大きな手帳を置いた。


社長のタケシと司法書士が会話をしているが、ユウコには内容が全く理解できない。

暫くして司法書士が
「それでは奥さん、今の内容で宜しいですね」

「はい、主人にまかしていますから。」と返答したので、
ユウコはテルミも余りわからないのだなあと思った。

司法書士がユウコに
「印鑑証明を拝見できますか。」

ユウコは印鑑証明と実印を渡そうとすると、

司法書士が
「印鑑は、後程で結構です」
封筒から印鑑証明を取り出し広げた。

その後ノートパソコンを五分程打ち、USBメモリを差し込んでデータを移すとそのメモリをテルミに渡し、

「申し訳ないですがワードで三つファイルが入っていますので印刷をお願いできますか」と笑顔で頼んだ。

印刷待ちの間、司法書士は社長のタケシに

「株式会社設立の時におじゃました時から比べたら、大きくなられましたなあ」

お世辞を言いながらノートパソコンをバッグに入れ、朱肉やスタンプ台を机の上に並べた。

間もなくテルミが印刷したものを持って司法書士に渡すと、チェックしているようで一部をホッチッキスで閉じた。

司法書士が
「では、それぞれ捺印頂けますか」

社長のタケシが
「印鑑お渡ししますから、先生が押して下さい」

印鑑を二つ差し出した。続いてテルミも印鑑を一つ差し出したのでユウコも持ってきた実印を司法書士の方へ差し出した。

司法書士は軽く会釈して印鑑を手元に引き寄せた。司法書士が、
社長のタケシに
「会社の代表取締役印はどれですか?」

「こちらの方です」

「これが法務局に登記してある印鑑ですよね」

確認し社長のタケシがうなずくと、手際よく印鑑を押していった。

次に司法書士は
「それでは今、会社の印鑑と社長個人の印鑑を押しましたので、これはお返しします。えーと、これが奥さんの印鑑ですね」

同じく押し終わると印鑑をテルミに返した。次にユウコの時は何も聞かず捺印し押し終わると、

「お返しします」
印鑑ケースに入れフタを閉めて返した。ユウコはケースに入れる前にティッシュで印鑑を拭きたかったのだが、機会を逃し少し不満に思った。

全ての捺印が終わると司法書士が腕を伸ばし机の真ん中辺りで捺印した書類を一通り説明したあと。



「自筆で書いて頂く所がありますのでお願いします」

「社長さんはここと、ここにお名前を書いて下さい。奥さんは先に、ここへお名前を、ボールペンありますか?なければこれを使って下さい。」

ポールペンをテルミに差し出した。

「井田さんはこの一番下のここの部分に」

就任承諾書というのが手渡された。

その後社長のタケシやテルミが書いた書類がユウコに渡され署名し司法書士に返すと今度は、指で押さえながら再度チェックし

「はい、これで今から法務局に放り込んでおきますので、昨日お伝えした、印紙代と手数料はご用意して頂けてますでしょうか?」

テルミが返事をして封筒を差し出した。受け取ると机の下で中身を確認すると、カバンから領収書をテルミに手渡した。

そのまま席を立ち上がり、椅子を戻すと、
「それでは、ありがとうございました。」

「先生宜しくお願いします」
社長のタケシが立ち上がってそう言うとテルミが下まで見送りに行った。

社長のタケシが
「これでユウコさんも晴れてうちの役員だね」

「いえよく分かっていないのだけど・・・ところで昨日、臨時株主総会とかいうのをするって言っていたけど今からするの?」

丁度テルミが戻って来て
「何言っているのよ、ユウがさっき名前を書いた紙に臨時株主総会議事録があったでしょ」

「と、いう事は済んだの?」

社長のタケシが
「そうそう、我々小さい会社は形式だけ、まだ本当に集まっているから良いほうだよ。実際には集まらず、勝手に書類上集まって
賛成したと書いて申請する人も要るのだから」

ああそうなんだとユウコは思いながら印鑑を握って立ち上がり、

「それじゃ、下に行くね」
部屋を出ることにした。


 その頃カズヤは荷物の少なくなった部屋を眺めながら、
「一人で住むには広すぎるし勿体無いなあ。毎月十八万円の家賃は痛いなあ」

ブツブツ独り言。

台所には食器棚も冷蔵庫もなく、和室からタンスなどが無くなれば寂しさ満点の室内である。

まして、妻と娘の女二人の持ち物が無くなると、明るさに欠けてしまう。

カズヤが壁に掛けている服もグレイや黒色。余計に暗さを感じる。

クッキーは暑いのでフローリングに腹ばいになり一定時間すると場所を移動して暑さを凌いでいる。



カズヤが部屋の中を動くと目を開けてチラッと見るが、かわりがないようであれば、又、寝てしまう日々である。

 カズヤはパソコンで近隣の賃貸物件を検索してみた。

ヒット数が多いため検索条件を絞り込み表示させてみる。

新着情報で北関駅から歩いて十五分、新築未入居2DK保証金・敷金・礼金なし、手数料なし、家賃九万円、共益費三千円ペット
(小型犬、小動物に限る・猫不可)可能、駐車場各戸付き、委細面談の上、と書かれている項目が目に止まった。

「ああ、これいいかもなあ、なにせペット可能が少ないからなあ。えーと情報の更新日はと・・・さっきだな。しかしこの場所はタケシの店の
近くのような気がするけど、まあいいか電話だけでもして聞いてみるか。」


カズヤは念の為にそのページをプリンターで印刷をした。印刷したものを眺めながら、電話の子機を手にしているのだが直ぐに電話がかけづらい状況である。

しばらくして、意を決してダイヤルしてみた。

「ありがとうございます。こちらパワーハウスの森山と申します。私がご用件を承ります。」

「あのう、インターネットで見たのですけど、北関駅から歩いて十五分のペット可能のマンションなんですが、まだ空いていますか?」

「はい、先程アップしたばかりでまだ間取り図とかアップしていない物件ですから空いていますよ。当社が専属管理していますので鍵もございます、
ご来店頂ければお部屋をご案内させて頂きますよ」

「あ、はい、ありがとうございます。それと、車が無いので駐車場は要らないので、それだったらお家賃は幾らかお安くなりますか?」

「そういう事でしたら来店して頂ければ、家主さんと交渉させて頂きますが」

「そちらは何時まで営業されているんですか?」

「はい、朝十時から夜八時までで水曜日が定休日となっております。ただ、この物件は稀少物件ですし、明日は当社の定休日でして、
その間に他社で見られたお客様が申し込まれる可能性もあります。」

業者は続けて
「当初の費用が要らないのとペットがオーケーというのが魅力でいつまであるかは保証できませんねえ。もし宜しければお部屋だけでも先に見られてはいかがですか? 
お考えになるのはそれからでも良いじゃないですか。」

「でも見るだけになるかも知れませんよ」


「はい結構ですよ。内覧された方が全て契約して頂けるなら当社はもっと大きな会社になっていますよ、ハハハ」

「それじゃあ、今からでもいいですか」

「はい、結構ですが何時頃にお見えになります?当社の場所とかはご存知ですか?」

「はい、場所はインターネットで御社のページを印刷しましたので分かります。時間は大体、五十分か一時間程度で行けると思います。
ああ申し遅れました、私木田と申します。」

「はい、キダ様ですね。私、森山、木が三本の森、山・川の山の森山がお待ち申し上げております。お気を付けてお越しください。
ご用意してお待ちしております。ありがとうございました」

押し切られるように約束をしてしまったカズヤは出かける準備をした。

「この場所だったら、何か食べる処があるか?早めに行って食事でもするか」

早速出かけて、タクシーを拾い不動産屋の近くまで行き、店確認した。
まだ時間があるので喫茶店で軽く食事をすると、食後のアイスコーヒーを飲みながら、店のスポーツ新聞を読んだというか、眺めて時間を過ごした。

約束の時間になったので不動産屋を訪ねた。

ビルの一階でそれほど大きくないが、店舗の入り口のガラスにはたくさんの間取り図が貼り付けられている。

店内の壁も同様であった。カズヤが入り口のガラス戸を手前に引いて中に入ると、

「ようこそ、いらっしゃいませ。」
三人が声を揃えて言ったので少し戸惑いながらも、

「木田ですけど、森山さんはいらっしゃいますか?」

奥から小太りの四十過ぎのスーツ姿の男性が
「はい、私です。ようこそお待ち申し上げておりました。どうぞ」

カウンターの席を促した。カズヤが座ると後ろの書類ケースから、色付きの間取り図を一枚カズヤの前に置いた。

キーボックスの扉を開け、鍵を探しながら
「木田さん、直ぐにご案内させて頂いて宜しいですね」

「はい、お願いします」

「誰か、車を前にまわして」

「分かりました店長」

若いスーツ姿の男性が裏口から出て行った。

カズヤは『この人が店長なんだ』と思い、この人ならうまく家主と交渉してもらえ、家賃が安くなるかもと期待した。

今から見に行く物件を確認し終わった頃に、店の前に車が着いた。

「それではご案内致します」
店長の森山が立ったので、続いて表に出た。


店長の森山が助手席の後部ドアを開けてカズヤを乗車させた。

この座席なら社長気分なのだが、賃貸専門業者の車は、看板が大きく書かれており、この車も社名のパワーハウスはもちろん、
常時物件数万件以上とか、お部屋探しはまかせて安心とかの文字やデザインがカラフルに描かれている。

先ほど車を配車した若者は乗らず、店長の森山自身が運転席に座りシートベルトをした。

カズヤもシートベルトをしようかどうか迷ったが、高速道路以外は、いいはずだったと思いシートベルトはしなかった。

物件に向かう途中で、ちょうどタケシの店の前で信号待ちになった。ついユウコがいるか中を覗いてみた。

僅か十分程でそのマンションに到着した。

マンション内の駐車場に車を止め。カズヤは自らドアを開けて車から降りた。

店長の森山はわずか歩くとリモコンキーで車をキーロックした。

「こちらです」

玄関の方へ手を差し出した。

玄関で店長の森山は
「ここは、最近建てられたのですけど、オートロックじゃないですよ」

エントランスに入って階段を昇り始めたのでカズヤは

「あのう、エレベータはないのですか」

「はい、ここは三階建てですから付いていません。エレベータ一基で三千万円はしますから、エレベータがあればお家賃はもっと高くなりますし、
ここは共益費が三千円でしょ。私のマンションなんかエレベータが付いているから共益費だけで一万五千円ですよ。」

安さを強調しながらどんどん階段を昇っていき、三階の踊り場に着いた。

「眺め良いでしょう」

三階程度ではあまり変わらないとカズヤは思った。

左に折れて廊下を歩き、三戸通り過ぎた所で、店長の森山がポケットから鍵を取り出した。

カズヤに鍵を見せて
「ここのドアキーは、ピッキング対策でほら特殊でしょ、電子キーになっていますので無くすと高いんですよ。合鍵が作れないから、シリンダーごと交換すると、
キー三本セットと工賃で、十万円くらいかな」

開錠し玄関ドアを開けた。先に店長の森山が中にはいり

「ここは、たしかトイレだったかなあ」

独り言をつぶやきながら、トイレ内に設置されている電気のブレーカーのスイッチを上げたと同時に廊下の照明が付き、呼び鈴がピンポーンと鳴った。


店長の森山が
「さあどうぞ、ゆっくり見ていって下さい。」

話しかけながらビニールの黒いカーテンを開けていった。
 カズヤは、ふと新婚当時に、マンションをユウコと見に行った時の事を思い出した。

その時、ユウコは流しのレバー式ハンドルを上下したり、風呂場で湯沸し機のスイッチを押したり、下駄箱の大きさや、流しと壁のサイズを測ったりと
殆どカズヤの側にいなかった事を思い出した。

『あの時はユウコに浴室乾燥機があるということで、押し切られたなあ』

その時のユウコの言葉が

「赤ちゃんができたら、雨の日でもおしめが乾かせるし、ここがいいわ」

とか言っていたが、結局紙オムツばかりで、オシメを乾かしているところを一回も観たことがない。

取り敢えず今回は、間取りと設備を見てほぼ気に入った。

カズヤは店長の森山に

「お風呂とかトイレ、それに玄関など、すごく手摺がついていますねえ」

「そうですよ。この部屋はバリアフリー仕様ですから、段差もないでしょ。室内で車椅子が使えるように廊下の幅も広いですし」

「このマンション、全室こうですか?」

「いえ。実はここ家主の親御さんが入居される予定で造ったのですが先月亡くなられまして、最近までお元気で、三階でエレベーターなしでも大丈夫と言っておられたのに。
それで、急きょ賃貸に出してくれと言われまして」


隣室との壁際に行くと。

「お隣に家主さんが入られる二世帯仕様になっていましたので、急遽工事をしまして、流しは健常者用に取替えてありますので低くないと思いますよ。」

「ああ、そうなのですか。先ほど和室に非常ベルが壁の低い所にあったので何かなと思ったところでした。で、お電話でお伺いした駐車場の件なのですが」

「はい、分かりました。お部屋の方はもう宜しければもう一度お店の方へお戻り頂いてお話させて頂きましょうか」

カーテンを閉め始めたのでカズヤは玄関の方へ向かった。

バチンとブレーカーのスイッチが落とされた音がする。
間もなく店長の森山が出てきて玄関ドアを施錠した。

「では、参りましょうか」

階段を駆け下りて行った。車の所に来ると

「少しお待ちください、少し車を前に動かしますから」
車に乗り込みエンジンをかけた。車が前に移動して停止するとカズヤは来る時に乗ったところに自分でドアを開けて乗り込んだ。


店に着き、出かける前と同じ席に着くと店長の森山が奥に向かって

「車お願い!キーついているから」

先ほどの若者が今度は玄関から出て車に乗り込んだ。
 店長の森山は後ろのファイルケースから書類を取り出すと、

「それでは今ご案内させて頂いた物件の詳細をご説明させて頂きますね。お申し込みされるようでしたら、
先ほどのお家賃の件を家主様と電話で交渉してみますので、それでよろしいですか?」

「はい」

物件の所在地から設備、広さの説明を受けた後、
「お家賃が九万円、共益費が三千円、合わせて九万三千円になります。敷金や礼金、保証金といったものは全く必要ないのですが、
ペット可能住居という事で、出られた後に内装の全面改装費用が五十四万円程になりますが、ご契約後三年間ご入居して頂けば、
全て家主様がご負担されると云う事で、何の心配もございません」


続けて
「保証人様は要りませんが、保証会社の審査を受けて頂きます。審査が通れば、保証会社に三万円の保証料と三年間の火災保険料二万五千円、
入居時からの日割家賃と共に納めて頂きます」

「すぐ入居できるのですか?」

「はい、すぐ入居できますよ。駐車場の件を家主様に問い合わせてみますか?」

「あ、はいお願いします」

やや強引なセールストークとカズヤの主体性のなさの返事である。森山店長は奥の別室に入っていった。

暫くして店長の森山が、の部屋から出て来てカズヤの前に再び座り

「お客さん、家主さんに相当お願いしたのですけど、マンション内の駐車場だから外部に貸すことは出来ないし、あの辺りは駐車禁止の取締りが厳しいので、
マンションに来た来客の方もよく検挙されているみたいなのですよ。申し訳ないですね。どうされます。」

店長の森山が尋ねた。

カズヤは、返答を待っている間に頭の中では、今住んでいる所を退去した時、保証金の返金で家電を買う予定を考えていた。

案内までしてもらい、僅かなことで断る勇気もなく、又、次の物件を探すのも面倒だという思いが渦巻いており、

「じゃあその条件で申し込みます」と言った。

森山店長はすかさず

「ありがとうございます。でも、駐車場はあった方が良いですよ、あの辺りには駐車場の空きは殆どありませんし、
あっても駐車場だけでも三万円はしますから、それに来客の方も安心して停められますから」


書類を取り出しながら。

「えーと、それではこれが保証会社の審査申し込みです。ここに必要事項を記入して下さい。
明日結果がでればこちらからご連絡を差し上げますので、必要な物を揃えてお持ち下さい」

奥から

「森山店長電話です」

呼ぶ声が聞こえ書類とボールペンを残し立ち去っていった。『前は配偶者蘭に妻の名前や生年月日、
勤め先とか書いたけど、今はクッキーがいるけど書く欄は俺一人か』と思い一抹の寂しさを味わった。

丁度書き終わった頃に、の森山が戻ってきた。

「記入していただけましたか?」

カズヤが書類を差し出すと自分の方へ回転させ内容を確認すると。

「はい、大丈夫です。早速FAX送信して審査に廻しますので、結果が降り次第ご連絡いたします」

カズヤは立ち上がり
「宜しくお願いいたします。」

森山店長は先にドアの所にいき扉を開け

「本日はお疲れ様でした」と言って見送られた。

第3章 意外なお隣さん

「ねえユウ、タケシの飲み友達でさ、不動産屋の森山さんから、新物件でいいのが出たって、昨日の夕方持って来てくれたの、ちょっとこれ見て」

「えっ、どれどれ」

「ほら、小型犬のペット可能だし、端部屋じゃないけど家賃も安いんじゃない」

「あっ本当、場所もここからだと歩いて5分位ね」

「でしょ、離婚の時さあ、一刻も早く出たいからって、ろくに物件探しもしないで、今のところ決めたでしょ。店からも遠いし、駐車場も別に借りているんでしょ」

「あの時は仕方なかったのよ、でも、いざ住んでみると買い物は不便だし、サキの通学も時間がかかるし」
「ホラ、ここだったら今の校区と同じだし、歩いて3分ほどで、めちゃ近よ。タケシに言って部屋の中見せてもらう?」

「そうね、無理言おうかな」

「いいわよ、こんな事ぐらい、でも見に行く時は私も一緒よ、ユウが断りにくかったら私が言ってあげる、何せ紹介者だもん」

「ありがとう、それじゃあ、お願いね」

「OK」


その頃、カズヤは引っ越しを済ませ、退去した部屋の返還金を受け取り生活必需品や家電も、一応揃えていた。

 インターネットの光回線工事まで10日間ほどあるため、下請要員として、大阪の商社でシステムフロア内の新規システム構築の仕事に行く事にした。

 今日はその出発日である。1週間程度の出張のため、昨晩から支度をしていた。クッキーをペットホテルに預けようと見積もりするも、
6泊7日で、食事とトリミングがついて3万5千円と言われた。

 高いなあと思っていた時、先日、寿司をご馳走になった老夫婦のお宅に、パソコンがフリーズした事で、再度伺った時にその話をすると、
『うちでぜひ預からしてくれ』と老夫婦が言ってくれた。

 理由を聞くと、12年程飼っていたシーズー犬のオスを最近亡くしたという。毛色も茶色と白で、ぜひ預かりたいと言い、
家までのタクシー代をカズヤに渡そうとするが、さすがにカズヤは受け取れない。

 出張の火葬車で処理してもらったという、骨壷がテレビ台の上に写真と共に置かれていた。よく見るとクッキーによく似ている。

 カズヤもこの家なら大事にして貰えるかも、出張が長引いても大丈夫だろう。それに、無料で預かってもらえるのはありがたいと思った。

「本当に甘えても良いのですか?」

「ええ、木田さん。こちらこそ喜んで・・・なあ、ばあさん」

「そうですとも、木田さん是非うちでお世話させて下さい」

「もし、出張が延びても大丈夫ですか?」

「いや~、その方が良いですな、一日でも長くいられるなら。木田さんが引き取りに来ても帰さないかもしれませんよ。ハハハ・・・」

「それでは、お言葉に甘えて、来週の木曜日のご前中・・・10時頃から1週間ほどお願いできますか?」

「1週間と言わず、1年でもいいですよ」と満面の笑み


 そんな理由でカズヤは出張前に、老夫婦の家にクッキーを預ける事にした。


 電話でタクシーを呼び、出張用バッグとクッキーを抱いて乗り込んだ。いつものドッグフードの缶詰10日分を持参したので、
相当の荷物になった。ペットのキャリーバックもないが、到底電車では行ける荷物ではなかった。

 老夫婦のお宅に着いた。
 タクシーの運転手に
「4~5分待って下さい。その後近くの駅まで行きますので」

 タクシーの音を聞いた老夫婦が玄関から出てきた。
「木田さん、おはよう。おっ!かわいい子が来たな」

「無理を言ってすみません。」

「いや、この日をばあさんと楽しみにしていたよ」

「これが、えさなのですけど、重いので玄関の中に入れておきます」

 玄関に一緒に入ってき奥さんに、
「この缶詰の半分を朝に、残り半分を夕方にあげていまして。あとノミとり首輪は、新しい物に代えています。
今、飲ます薬はありませんので」

 外でクッキーを抱きながら、主人が、
「木田さん、上がってお茶でもどうですか?」

「いいえ、そこにタクシーを待たせていますから、バタバタしますが、失礼させてもらっていいですか」

「そうですか、では、戻られた時にまたゆっくりしていって下さい」

 会釈してタクシーの方に向かうと、老夫婦はニコニコと笑顔で見送った。



 ユウコの会社では、

「ユウ、先程のマンションの件だけど、今日、早速見に行かない?」

「えっ、急ね」

「こんなピッタリの条件ないじゃん。他の人に契約されたら悔しいでしょ。それと・・・ユウコが部屋を気に入ったら会社で契約して、
社宅ということでユウコに入ってもらおうとカズヤが言っているの」

「そんな、普段も私だけ優遇して貰っているのに、そんな事をすれば、他のひとに悪いじゃない」

「何言ってるのよ。ユウコは会社の役員なんだから。それに、社宅でも無料ではないのよ。一応半分は頂きますから」

「本当にそれでいいの?」

「もちろんよ」

 タケシが二階から降りてきた。
「おはようございます。今、テルミから聞いたんだけど・・・」

「ああ、社宅のこと?」

「ええ、他の人に何か申し訳なくて」

「いや違うんだよ。実はユウコさんに言い忘れた事があったんだ」

「何ですか?」

「この前、役員になってもらう時に、今までと何も変わりがないと言ったんだけど、登記後に色々手続きしている時に分かったんだけど、
役員になったので、ユウコさんの雇用保険は無くなってしまって・・・」

「どういうことかしら?」

「つまり、役員は経営者になるので、失業保険は貰えないということになるんだけど、その他の社会保険や厚生年金は今までどおりなんだ」

タケシは、少しバツが悪そうに、
「だからその分、何かできないかと思っていたので・・・」

テルミが
「タケシそうだったの、知らなかったわ!」

「この前、行政書士から言われて分かったんだよ」

「ごめんね、ユウ」

「いいよ、別に辞める気はないもの。」

「本当にタケシったら! ホラ、これで他の人に気を使わなくても堂々と社宅に入れるでしょ」

「気が早いわねえ、まだ見にも行っていないのに」

「もし決まったら、社宅の件は僕からみんなに話しておくから、遠慮をせずにテルミと見に行って」

「それでは、テル、見に行くとしますか!で・・・何時頃?」

「ユウ、今日の予定は?」

「今日は訪問予定なしで、事務処理だけよ」

「じゃあ、お昼ごはん食べてから行きましょ」

「でも、相手に連絡してあるの?・・・」

「そう、そこなのよ。タケシから電話番号を聞いて、1時に見に行きますって、返事しちゃったの」

「ユウ、私が行けなかったらどうするつもりだったの?」


「タケシが社宅にするって言っていたから、ユウが見に行けなかったら私一人で行かなきゃならなかったのよ」

「テルったら」

「まあ、今回は結果オーライね!何も問題なし!」

 ユウコも納得しテルミと一緒に内覧のため、昼食後に化粧直しをしていると、不動産屋の森山が店にやってきた。
 タケシと顔を合わせると、

「どうもー、奥さん用意できている?ナカちゃんは行かないの?」

ナカちゃんとは、中島タケシの飲み仲間での愛称である。

「俺が行っても決定権限ないから、山の神の女二人で行くそうですよ」

「だよね~」

「ところで森ちゃん、両隣の人はどんな人が住んでるの?」

「ダメダメ!今は個人情報保護法がうるさくて、それに免許制度の仕事だから、一切そういうことは言えないんだよ。ただ、普通の人だから安心して」

「そうだな。森ちゃんがおかしな物件持ってくるはずがないよね。ゴメン、ゴメン」

 森山は店の前に停めた車に、ユウコとテルミを乗せるとマンションの方へ走りだした。

 サキは、二学期から行く新しい学校の夏休みの宿題をしていた。昼ご飯は、ユウコが弁当を作ったり、
ユウコが一時帰ってきて一緒に食べたりをしているが、友達もまだできていないサキは暇でしかたがない。

 「あ~、暇だねえ。クッキーでもいれば良かったのに」

 サキの独り言である。ここはペット不可なので、クッキーはカズヤのところ残す事になったからである。

 あまりにも暇なので、サキはついに宿題も終えてしまった。もうじき6時になり、母親のユウコが帰ってくる時間だ。

「ただいまー」

「おかあさん、お帰り!」

「ああ重い、今日お米買ったから」

「お母さん、サキ宿題全部終わったよ」

「すごいね。そんなに早く終わったの」

「うん」

 ユウコは夕食の支度をしながら、洗濯や掃除機をかけた。

「サキ、お風呂場に行ってスイッチ入れてー、追い焚きのボタンを押して。緑色のボタンよ」

「うん、わかった」

 やがて夕食が出来上がり、母子二人の食事が始まった。



その時ユウコが、
「ねえサキ、夏休みまだ随分あるでしょ。宿題も終わった事だし学校が始まるまで、じぃじのお家に行く?」

「ずっーと?」

「ううん、5日ほどでいいのよ」

「サキがいたら、じゃま?」

「そうじゃなくて、今度ここを引っ越すの。でも学校は変わらなくて、家から3分で行けるところ。」

「うん・・・」

「それとね、今度はクッキーを飼ってもいいところなのよ」

「やったー!」

「でしょ、だから引っ越しの準備と引っ越してからの片付けをするあいだ、じぃじの家に遊びに行ってて欲しいの」

「わかった。クッキーとこれから一緒にいられるんだったら、サキ、夏休みは、じぃじの家に行く」

「5日ほどでお母さん迎えに行くから」

「いつ行くの?」

「あさっての日曜日」

「じぃじに電話した」

「会社から電話すると、『わかった』て」

 ユウコはテルミと部屋を見に行った時、すごく気に入ったので、その場で即決してしまった。
 タケシがすぐに契約すると、即入居できる状態ではあったが、サキの事もあり、引っ越しの日程が決められずにいた。

日曜日、ユウコは会社の車を借りて、サキを乗せ実家へと向かった。
サキの実家は、さいたま市の西部。まだ少し田園が残る静かな住宅地である。ユウコが小さい時に引っ越してきた時から
思えば随分住宅が立ち並んでいる。テルミの実家も近所にあり両親も健在である。

首都高速でよく来る営業範囲だが、仕事の途中で寄る事はなかった。

「ただいまー」

「サキ!来たなー」

 父親が出迎えた。母親も出てきた。

「ユウコお帰り。サキの着替えは持ってきた? サキは?」

「おとうさんのところ」

「お昼食べた?」

「ううん。いいの、帰って引越しの準備しなくちゃ。昼からテルミも手伝ってくれるから」

「テルミちゃんは元気にしてる?」

「うん。元気よ。 サキー! サキー!」

「なにー、お母さん」

「おかあさんもう行くから、じぃじとばぁばの言うことを聞くのよ」

 父親が
「何だ、もう帰るのか、お昼食べて行きなさい」

「いいの、今、お母さんに話したから」

「そうか、気をつけて帰るんだぞ」

「5日ほど、サキをお願いね」

「わかった、また電話しろよ」

「じゃあ、帰るね」

 親子の仲は悪くないが、サッサと片付けたいタイプのユウコはそそくさと帰って行った。



 引っ越し準備は、テルミの手伝いと荷物が少なかったことから、その日にすべて梱包し終えた。明日の午前中引っ越しである。

「テルミ、ごめんね。今日泊めてもらう事になって」

「何言っているのよ。エアコンも取り外したのに、暑くて寝られるはずないでしょ。布団だって袋に入れちゃったし」

「でも、なんだったら、実家に帰っても良いし」

「こんな事めったにないんだから。それにタケシが近所の居酒屋で
ユウトと先に席をとって待っているってメールが来たところよ。早く行きましょ」

 テルミにせかされたので、慌てて化粧用具と着替えを持ってでることにした。

 翌日、朝早くから引っ越しが始まり、マンションで片付けをしている時に、業者がエアコンを取り付けに来た
。続けてテルミの家に泊まるのも気が引けたユウコは、近くのスーパーで買い物をしてその日からそこでの生活がスタートした。

 火曜日の午前中、会社に行くと。

「あれ、ユウコ、今日は休むんでしょ」

「ええ、住民票の移動とか、公共料金とか今から手続きに。印鑑ここに置いていたので取りに来たの」

「どう、片付いた」

「昨日テルに手伝ってもらったし、もともと荷物少ないから。大丈夫、明日から会社出るね」

「片付けで大変だと思うんだけど、さっき動物病院からの紹介でペットの墓地を探しているお客さんがいるのよ。
FAXでお客さんの住所と連絡先を送ってもらったのでコピーしておいたわ、これね」

「じゃあテル、お客さんに電話して、明日直行で行ってもいい?」

「もちろんよ。頼んだわよ」


 ここは、動物病院にペットの墓地の相談をしたお宅である。

『ルルルル・・・ルルルル・・・』

「はい、山田です。ああ、メモリアルフレンドの方ですか、あ、はい、イダさん!昨日電話下さった方ですか?近くまで来ている。はい。
えーとそこからでしたら、左に郵便ポストがありますから、それを左に。ありましたか?曲がって2軒目ですので、表に出ますので、はい。」

「ここです。ここです」

「申し訳ありません。少し分からなくて」

「ああ良いですよ、車はこの中へ入れて下さい」

 車を停めるあいだ主人は待っていてくれた。その後ユウコがドアロックするのを見て、玄関の方に歩きユウコを自宅に招き入れた。



「分かりにくかったでしょ。この辺は住居表示がなくて、千何番とかで、しかも順番どおりに建っていなくてねえ。ここが1028番で裏のお宅が357番ですよ」

 ユウコは早速霊園のパンフレットを広げ、墓石や料金の説明を一通り終えた。

ご主人から
「そこは、最寄りの駅からどれくらいですか?」

「5分で行けます」

「ああ、それは有難い。私たちは車が無いので助かりますなあ。以前は持っていたのですが、年をとってから免許を返納したんですよ」

「そうですか、ご案内しますので宜しければ見学に行きませんか?」

「ああ、私は今聞いてここで良いと思うんだけど、うちのばあさんの意見も聞かんと、後でうるさいからのう」

「奥さんは今どちらに?」

「今、犬の散歩に行っているが、 あー、帰って来たようじゃ」

 奥さんが来るのを待っていると、小型犬が一目散に走って来た。ユウコは驚いたが、小型犬はユウコの顔をしきりに舐めようとする。

 奥さんが入ってきて、
「これこれ、クッキーちゃんだめですよ」

ユウコから離しにかかる

「あれ! えっ! 名前・・・クッキーって言うんですか?」

「そうですけど・・・なにか?」

奥さんが膝の上に座らそうとするが、もがいてじっとしていない。

「えっー。その首の鑑札少し見せて頂けますか?」

「あ、はい、いいですけど」

「あっー。やっぱり」

「どうかしました?」

「ええ、この首輪に縫い付けている鑑札の裏。見えます?」

「何か刻印のような・・・。めがね持って来ますね」

 奥さんが老眼鏡を持って戻ってきた。

「どれどれ。名前と電話番号・・・キダユウコ・・・090-・・・と書いてますねえ」

「そうでしょ。これうちの犬なんです」

ご主人が
「えっ!イダさん。これはキダさんから一時預かっている犬なんですよ。だから裏に奥さんの名前と連絡先が書いてあるのじゃあ」

 ユウコは運転免許証を取り出し、裏の変更蘭をご主人に見せた。

「ここ、見えますか?私、最近離婚をしてキダからイダに変わったんです。それと電話番号、昨日ご主人にお伝えした私の携帯電話の番号これですよね」

 主人も手元の老眼鏡を掛け免許証と控えておいた電話番号を見た。その番号を奥さんに渡し、奥さんがもう一度鑑札の裏に刻まれた番号と同じかを確認した。



「おじいさん、番号同じですねえ」

「珍しいこともあるもんだ」

 奥さんも気が抜け、手を緩めた隙に、クッキーはユウコの元にかけより、においを嗅ぎまわると盛んに顔を舐めようとしている。

「そうですか、あなたがキダさんの奥さんでしたか」

 ユウコは少しだけ離婚の話をした。前に住んでいたところがペット不可であることや、最近引っ越した所がペット可能なので、
クッキーを引き取る予定である事などである。

 そんな経緯から、親近感を持ってもらい、明日、二人を霊園の見学にお連れするため、9時にお迎えに行く約束となった。
購入をほぼ決めておられ、取り敢えず見ておく、といった感じである。



 会社に戻ったユウコは憤懣やるかたなし、といった具合である。

「ただいま、なに!あいつ!」

「どうしたのよユウ。お客さんとかあった?」

「お客さんじゃなくて、あいつよ! あいつ!!」
「あいつて、誰よ」

「あの、ばかカズヤよ!」

「カズヤさんがどうしたのよ?」

 ユウコはお客さんの家で起きた出来事をテルミに話した。

「でも、クッキーのおかげで契約できそうなんでしょ。よかったんじゃない」

「クッキーはいいんだけど、あいつのやり方が気に入らないのよ。出張にいくんだったら、クッキーの面倒見てって、言ったら良いのに。
ペットホテルに預けるならまだしも、赤の他人に預けるなんて。」

「まあまあユウコ、優しそうな人だったんでしょ」

「そうだけど、クッキーも私たち家族の一員なんだから、一言ぐらいあっても良いと思わない?」
  まだまだ怒りが収まらないユウコだった。



引っ越しの片付けも終えたユウコは、実家にサキを迎えに行き、マンションでの母子の新しい生活が始まった。

会社も大型スーパーも近くにあり、学校が始まればサキの通学も楽である。前の所より街灯も多く防犯面でも安心である。

道路ひとつ中に入っているので通行量も少なく、ユウコは本当に引っ越しして良かったと思っていた。



 何日か過ぎた頃、ユウコとサキが夕食中にそれは起こった。

『ドド~ン!!!』『ドスーーーーン・バリッ!!』

「えっ!!ちょっと・・・何?何?―――サキ!こっちにおいで!コッチ!」

 リビングの真ん中の壁が崩れたのであった。良く見ると壁はコンクリートでなく、石こうボードである。一緒に桟も折れている。

「お母さん!となりのお家、見えてるよ」

その時サキが
「あー! クッキーが入って来たあー」

 空いた穴の下からクッキーが飛び込んで来たのだった。

「えっ、何故? どうして・・・・・・」

 ユウコは、不思議そうに大きく開いた壁の向こうを見た。

「カズヤ! どうして、あなたがここにいるのよ?」

「ユウコ、君こそ・・・どうして?・・・」

第4章 ひとつ屋根の下

「カズヤ何やってんのよ!」

「わざとじゃないんだから、そんなに怒るなよ」

「怒るわよ!」

「部屋の中が真っ白じゃない!」

「さっさと片付けて、掃除してちょうだい。どうしてこんな事になったのよ」

 壁が壊れた理由は、カズヤの説明によると。懸垂とベンチプレスの付いた筋トレマシーンで、足にウエイトを付け懸垂している時、足が壁に当たり下の壁が壊れ、その拍子にマシンが壁際に転倒。カズヤ自体も壁に体当たりして転倒。両方の石こうボードと桟を破壊したと云う訳である。

 大きなごみ袋に石こうボードを更に小さく折りながら投入し、残っている桟に手を掛け

『ペキ! ペキ!』

「ほら、簡単に折れるだろ♪」

「どういう事、自分は悪くないって言いたいの」

「じゃないけど、安普請だったんだよ」

「取り敢えず掃除機かけるからもうやめて」

「はい、はい」

 ユウコとカズヤはそれぞれ自分の部屋に掃除機をかけ、濡れぞうきんで、床の拭き掃除をするのに1時間ほどかかった。
 壁は真ん中の一部を残し、上下に90センチ角の開口部ができてしまった。


「ユウコ、クッキーはそっちに行ってる?」

「ええ、サキと寝室で遊んでるわ」

「取り敢えず明日、大家さんに連絡して業者さんを紹介してもらから」

「そうして! 今日は、余っているカーテンでも吊るすから」

「何もカーテンしなくても」

「いやよ。カズヤの顔みたら腹が立つから」

 ユウコは、余っていたカーテンを画鋲で壁に留めようとするが・・・

「あー、固い、もう」

「手伝おうか? それとも、カーテンをくれたらこちら側に吊るそうか?」

「そっちはダメ、折れた桟が見えるし危ないでしょ」

「じゃあ、どうするの?」

「下の穴からこっちに来て、1分以内に取り付けて、戻ってちょうだい」

「はい、はい」

 カズヤは下の穴を潜り抜けユウコの部屋に入り、カーテンを画鋲で取り付けた。下が20センチほど空いているが、クッキーが行き来して喜んで走り回っている。

「おとうさん」

「サキか?」

「そっちに行って良い?」

「あー、壁の下はまだ木がササクレているから、玄関に廻っておいで」

ユウコが
「サキだめよ!」

カズヤが
「どうしてダメなんだよ」

「何でもよ、それと、もう話しかけないで」

 壁が壊された件と隣室にカズヤがいた事で、ユウコは明らかに動揺し、立腹している様子だ。


 一夜が明け、ユウコとサキの会話が聞こえていた。ドアの閉まる音がして、ユウコは会社に行ったようだ。
 

「サキ、いる?」

「いるよ、おとうさん」

 サキが、カーテンをめくり笑顔で下から覗いてくる。クッキーも後ろで尻尾を振っている。

 「サキ、お父さんは今から大家さんに電話して大工さんに来てもらうように頼むから、それが終わったらハンバーガー食べにいこうか」

「ヤッター! クッキーはお留守番だよ」

 カズヤが大家さんから聞いた工務店に電話する。昼一番に来るという事なので、サキを連れてハンバーガーショップへと出かけた。

サキは、ハンバーガーを食べながら
「かべ、直しちゃうの?」

「今日は、見に来るだけだから、直すのは、また今度かな」

「サキ、あのままがいい」

「あのままだったら危ないだろ」

「でも、クッキーも喜んでるし、サキ友達もいないし、夏休みもまだまだあるし・・・」

「そうか・・・実はお父さんも、サキにいつでも会えるから、あのままの方がいいんだけど、お母さんがうるさいだろ」

「う~ん」

 午後1時に電話をした工務店の人がやってきた。

「ああ、ここですか」

「幾ら位かかりますか」
「ここね、うちで施工したんだよね。お客さん聞いてません?」

「いえ、別に何も」

「新築当初は、この両方の部屋を二世帯のバリアフリーで造作してたんだけど、後から個別に改装をやり直しと言う事で、この部分は当初、ドアが付いていた所を壁にしたんですよ」

「二世帯住宅だったとは不動産屋さんから聞きましたが、この部分がドアだったんですか」

「だから、他の壁と一体となっていないので、衝撃が強いと壊れる事もあるんですが、どうして壊れたんですか?」

「あ、その筋トレマシンと私が体当たりみたいになっちゃって」

「この鉄の機械みたいのですか?」

 工務店の人が計測したり、壁を叩いたりと調べているようだ。

「ご主人、ちょっと見て貰えますか? 両方の部屋の床が後張りですから、床も取り外さないと・・・う~ん難しいなあ」

「費用は、幾らぐらい?」

「そうですね、きっちり見積もりしないと正確な費用は出ませんが、大工さんのメクリに二人、据え付けに三人、造作一人、材料費と・・・ざっと25万円位ですかね」

「そんなに掛かるんですか!」

「不細工に上から被しても、強度が出ませんし、壁が倒れて、もしけがでもされたら、うちも困るんですよ」

「少し、考えさせて貰ってもかまいませんか」

「ええ、結構ですよ、でもこのままでは危ないから少し処理しておいてあげましょう」
 工務店の人は一旦、車に戻って、材料と工具を持ってきた。床に透明の養生シートを広げながら、

「ご主人、ここの大家さんにはいつも退去した部屋の内装修理させて貰っていますので、これ位はサービスしておきますよ」

 手際よく、残りのボードと桟を全部撤去し、木製のドア枠をはめ込んだ。

「ピッタリでしょ。電話頂いた時に、もしかして、この部分かと思って倉庫に取っておいた以前の部材を持って来たんですよ。元々付いていた枠ですからピッタリなのは当たり前なんですけどね」

 笑いながら、片付けをしている。

「これで、壁と一体化していますし、床のコンクリートアンカーにも締め付けていますので、外れることはありませんよ」

「ありがとうございます、本当にいいんですか」

「はい、いいですよ。お宅が退去した時、工事で儲けますから」

 工務店の人はそう言い残し帰って行った。

奥の部屋でクッキーが出ないようにしていたサキが出てきた。

「おとうさん、ホラ、立ったまま入れるよ」

「お父さんだって、立ったまま入れるぞ」

 自由に行き来でき、新しい空間ができた事に喜ぶ二人だった。

 しかし、カズヤにとって悪夢の時はやってきた。ユウコが帰宅する時間である。

「サキ、ただいま」

「おかあさん、おかえり」
「あー、クッキーただいま」

 開口部から、顔を覗かせながらカズヤが
「お帰り♪」

「あら、これ何」

「あ、その事なんだけど、そっちに行っていい?」

「ダメ、入って来ないで」

「あ、そう、じゃあここで言うけど。今日大工さんに見て貰ったら25万程かかるそうなんだけど」

「カズヤさん払ったら!あなたが壊したんだから!」

「そんなんだけど、25万円はきついよなあ」

「私は、ビタ一文だしませんから」

「そう言うと思ってたよ」

「それで、如何したいわけ」

「俺としては、25万円貯まるまで、このままで・・・なんとか・・・」

「だめよ!これじゃ簡単に入ってこられるでしょ。私たち別れたのよ。赤の他人なのよ」

「それは、分かっているんだけど・・・」

「取り敢えず食事の支度をするから、後にして。それから昨日のカーテー吊っておいて。1分以内で!」

 やはり不機嫌になるユウコだった。肉料理なのか良いにおいがカズヤの部屋にも漂ってきた。カズヤは夕食の準備をしていなかったので、近所の中華料理店へと出かけて行った。


 カズヤが食事から戻って来ると。

「ユウコ、これ何」

「気安く、ユウコ、ユウコと呼ばないで!」

 ドア一枚分開いた開口部に、先程カズヤがカーテンを吊るしたのだが、そこにスッポリと机が差し込まれていた。

「あ、昔買った折りたたみの机か」

 ユウコは、カーテンを片方に手繰り寄せて、
「そうよ、これでも置かないと簡単に入って来られるでしょ」

「下は開いてるから、クッキーは通れるし、考えたね。でも、机の位置が俺の部屋の方に多くない?」

「当たり前でしょ、あなたが壊したんだし、こっちは二人家族よ」

『パサッ』カーテンが閉じられた。

犬も笑う物語

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3組に1組が離婚するこの時代。この夫婦もそんな1組だった。 しかし、この奥さんの友達と、ご主人の友達は共に夫婦、たとえ別れても友人関係は切れることはない、 切っても切れない他人の関係。 まして、二人の間に子供を授かったので、親子関係は切れる事はない。 赤い糸で結ばれるというが、その糸は切れたのだろうか?元来、赤い糸は見えないと言われている。 別れた夫婦に訪れる衝撃の出来事。まだ赤い糸は切れていないのだろうか? 別れたはずなに、前夫に近づく女性に嫉妬する前妻。結婚前からの夢を追い続ける前夫。 別れて初めて思う、子供の父親として、男手の必要性。 彼女はその穴をどうして埋めるのか?

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-25

Copyrighted
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  1. 第1章 すれ違い
  2. 第2章 新たな出発
  3. 第3章 意外なお隣さん
  4. 第4章 ひとつ屋根の下