それは昔、起こるはずだった
祭りにて
蒸し暑いような、うだるような、何かが溶けてしまうような夏である。僕はいよいよ夜空へと変わらんとしている夕空を見上げ、そして、そのまま夕暮れを見た。夕日は海に溺れるようにみるみる沈んで行くが、すこしでも目を離すと、また海上へと浮き上がっている様にも見える。そうやって僕を楽しませながら、夕日は確かに少しずつ沈んで行く。そして、ぽんぽんぽんと、太鼓の音が聴こえた。僕は足を動かした。少し急がなければならないかもしれない。
太鼓の音が大きくなる。一緒に、僕の鼓動も大きくなる。全ての音をかき消すように、大きなチャイムが空いっぱいに広がった。これはこの町が午後五時を迎えた瞬間で、僕は友人達との約束に遅れてしまったことを意味する。急がなければ、もしかすると置いてかれてしまうかもしれない。
祭り会場へと急ぐ僕の眼に、ふと見慣れない色が入ってきた。灰色とわずかな緑の街角に唐突な黄色。電柱の下にひっそりと立っている。
何となく足を止め、よく見てみると、真っ黄色な菊であった。
無機質な電柱の根元を彩るように咲いている菊、それが生けられたガラス製のビンには小さな紙片が貼付けられている。
八月五日午後三時頃に起こったひき逃げ事件に関しての情報をお待ちしています。連絡先は……。
最近、この付近では交通事故が多いという話を、母だったか、父だったかから聞いたことがある。いや、兄だったかもしれない。それとも学校の先生だったか、僕はつま先を電柱に向かってそろえ、両手を合わせて、小さく合掌した。電柱に供えられた菊は湿った潮風に吹かれ、花弁を揺らして答える。ここで起こった事故のことは何も知らないし、ましてや故人のことなど欠片も知らない。しかし、自分が住んでいるこの小さな町で、不慮の出来事で人が死んでいる事実、それが何となく両手を合わさせた。
祭り会場である海浜公園に近づくにつれ、人々が色めき立っているのが分かった。中には早々とお面を被った集団も見受けられる。最早時間すら気にしなくなってしまった僕は、往来を行く人々を観察しながらのんびりと歩いた。気がつくと太鼓の音も随分近づいていて、飛び跳ねている子供達にぶつかりそうになった。
突然、肩を叩かれる。
「遅刻じゃん。」
びっくりして振り向いた僕を、おもしろがるようにして、諸見里が立っていた。
「おどかすなや。」
僕は驚いてしまったことをごまかすように、諸見里の厚い胸板を少し強めに突いた。彼は胸を抑えて痛がってみせた。
「大袈裟過ぎんだろ、急ごうぜ。」
「どうせ遅刻だけどな。」
遅刻常習者である諸見里にとってこの程度は問題にならないらしい。
「何してたの?」
僕は少し考えて、諸見里を一瞥した。僕は寝過ごしたとかなんとか適当な理由を付けて、少し足を速めた。
「寝過ごしたって、もう夕方だぜ。」
最早アフロと言っても良いぐらい伸びすぎた天然パーマの髪を揺らし、彼は笑う。良く日に焼けた頬に汗の玉がいくつも流れていく。
「お前は何してたの?すごい汗かいてるけど。」
「俺はバイトだよ、そもそも遅れるって連絡してるからな、俺は。」
「連絡?誰に?」
僕はふと、先ほどまで意識の及ばなかった自分のスマートフォンのことを思い出した。先ほどチャイムがなって、何十分程経っただろうか、心配した友人から着信が入っていてもおかしくない。
「喜屋武に、あいつ絶対遅れないじゃん。」
なぜか誇らしげな態度の諸見里を尻目に、僕はスマートフォンを取り出した。
十七時五分、十七時十分、十七時十五分、十七時二十分、十七時二十五分、着信は全て喜屋武からのもので、きっちり五分間隔で掛けてきているのが、彼の性格を表している。そして、六度目の着信が入り、時刻が十七時三十分であるということが示されていた。
八月だというのに、背中が冷たくなる。
「本当にゴメン!もうすぐ着く!」
唐突に電話口でそう詫び、非難の言葉が聞こえないようすぐに切って、僕は駆け出した。後ろから諸見里が慌てて追いかけてくる。
「絶対キレてるぜ、あいつ。」
「いいから、走れよ。」
夕日は半分以上海に飲まれた。
「そもそも今日って、誰が来るんだっけ?」
横に並んだ諸見里に、軽く息を切らせながら話しかける。彼はその気になれば僕などささっと置いて行けるくらいの脚力を持っているのだが、僕のペースにぴったり合わせてくれている。
「俺とお前と喜屋武と、中里だったかな。」
「四人だけ?他にも誘ってんのかな?」
「知らない、少なくとも俺は誰も誘ってないよ。」
祭り会場に着くと、あまりの人ごみに僕と諸見里は歩くことを余儀なくされた。サンダルを鳴らしながら走る子供達に何度かぶつかられ、僕たちはようやく集合場所である入り口横の公衆トイレに到着した。
「遅すぎだろ。」
喜屋武が一人ぽつんと佇んでいた。メガネの奥のその眼は冷たい光を放っている。
「俺は遅れるって、今朝、連絡してたじゃん!」
喜屋武は右腕に巻かれたデジタルの腕時計を差しだした。
「お前、三十分遅れるって言ったよな、今、何時よ?」
無機質な数字が十七時三十七分を示した。無駄な言い訳は相手を余計に怒らせるだけだ。
「本当にゴメンな、喜屋武、焼きそばとか何でも奢るよ。」
素直に謝罪した僕に、喜屋武は何か言いかけたが、呆れたようにため息をついた。
「まぁそれで許してやるよ、中里よりはマシだろ。」
「中里は?来てないの?」
諸見里が尋ねた。彼の顔には明らかに安堵の情が浮かんでいる。喜屋武はそれに気づいていないようで、もう一度ため息をつき力なく言った。
「彼女と回るってさ、さっき連絡来た。」
今日は八月八日、ある偉人を讃える為、この町唯一の祭りが開かれる。もっとも、その偉人を讃えようなんて思っている人間がこの会場に存在するのかはわからない。少なくとも僕は違う。娯楽が少ないこの町で活力溢れる高校生が楽しむには、こういったイベントを積極的に活用するしかない。
祭り会場の海浜公園は防波堤を横目に見る埋め立て地で、毎年襲来する台風の日には、波の粒が舗装された道路にまで降り掛かることもある。およそ高さ五メートル近くはある巨大な防波堤は、様々なグラフィティが至る所に描かれている。もちろん自治体による創作物ではない。もっといえば違法行為の結果である。ぐちゃっとした英単語の羅列や、歪に描かれた人間、天然記念物の鳥が無味乾燥なコンクリートの塊を無作法に彩っている。
そのなかでも眼を引いたのは、防波堤の底辺から頂点にまでいっぱいに広がるグラフィティである。幅はおよそ三メートル程だろうか、その四方をほぼ隙間無く小さな「眼」が描かれている。眼は様々なスタイルで描かれており、劇画調の眼から少女漫画風の眼、中には今にも立体となって僕達の前に浮かび上がってきそうなリアルな眼もある。僕はそれらを一つ一つ見ながら、横でタバコをふかしている諸見里に声をかけた。
「良く描けるよな、あんなの。」
「グラフィティか?暇人かヤンキーしかやらんだろ、あんなの。」
「暇ってだけでこんなの描けないだろ、良いからちゃんとみろよ。」
気のない諸見里に少し苛立を感じ、僕は強い調子で言葉を返した。それほどまでに、眼の集団は何かを引きつける、不思議な魅力があった。
諸見里と僕は防波堤の眼をしばらく並んで眺めた。
「すごいだろ、こんなの一人じゃできないって。」
諸見里は返事もせず、防波堤に向かってすっと歩いて行く。そして、一つの「眼」を指差して、タバコの灰を落としながら言った。
「俺、この眼、見たことあるな……、何処だったかは思い出せんけど。」
諸見里が指差した眼はえらく簡素な「眼」だった。上部にまぶたを示す弛んだ曲線が描かれており、それにアルファベットのUがぶら下がっている。まぶたにあたる曲線にはまつげなどの装飾は一切施されておらず、デフォルメが過剰すぎて、数多に広がる他の眼に囲まれていなければ、それを眼と認識するのは難しいかもしれない。
「漫画じゃない?4コマ漫画とかにならあるかも。」
諸見里は首を横に振る。
「そういうので見たんじゃなくて。」
彼は「違法物」を軽く拳で小突きながら言った。彼の拳は先ほど僕の眼に留まった少女漫画風の「眼」のすぐ横を叩いた。
「なんでこの場所にあるの?っていう感じのところで見た。」
僕は少し、頭をかしげた。つまり、諸見里はこの極限までにデフォルメされた「眼」を、どこか違う場所で、更に言えば、この防波堤のように眼が描かれているのが不自然に思えるような場所で見かけたということだ。
「学校、とか……?」
また首を横に振られた。
「いや、もっとなんか……。」
「タバコ吸うな。」
なんとか思い出そうとしている諸見里の頭を、細く白い手が叩いた。びっくりした諸見里がタバコをぽとりと口から落とす。
「アホ喫煙者。」
いつのまにか喜屋武が屋台から戻ってきたらしい。手にはいくつか荷物が増えている。
「一声かけれ、そしたらちゃんと消したのに、」
「喜屋武、なんか買ってきたの?」
喜屋武は少し困った顔をし、袋の一つから慎重に何かを取り出した。
「これ、誰かいる?」
赤い、小さな金魚がポリビニール袋の中で泳いでいた。
歩く男
玉になった汗が止めどなく額から顎へ流れる。俯くと、コンクリートに小さな染みができた。
朝からの作業は終わり、今は昼休憩に入ったばかりだ。今朝買っておいたコンビニ弁当がロッカーにある。腹も空いている。しかし、昼休憩はまだ始まったばかりでロッカールームは大混雑になっているだろう。汗臭い男達が集う6畳半の部屋を想像すると、午前中から動かしっぱなしの筋肉が骨を失い、まるで古いゴムのようにだらしなくなってしまうのだ。
ロッカールームを増やせば良いのにと、いつも思う。そんな金銭的な余裕がこの現場に降りてきていないことも知っている。だから、此処でこうべを垂れ、人々が戻ってくるのを待っている。稀に気の利く誰かが、鍵の具合がおかしい俺のロッカーをこじ開け、弁当を持って来てくれることもある。本当に稀なので期待はしていない。
もう少し、あと十五分程度待てば、混雑は嘘の様に消えてしまうが、空腹と疲労を抱えた俺の身体は、この15分がやたらと長く感じてしまうのだ。
作業ズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、下部の丸ボタンを押す。中央にでかでかと現在の時刻が表示された。12時35分。まだ5分しか経っていない。あぐらをかいた太ももの上に携帯を置き、随分汚れた作業ズボンを見つめる。最後に洗ったのはいつだったかを俺は思い出せなかった。
「お疲れさん。昼飯食わないの?」
顔をあげると、頭にタオルを巻いた男が所在無さげに立っていた。
「食べますよ、部屋が空くのを待ってるんです。」
「部屋?」
男は少し首を横に傾げる。薄い口髭が日の光を反射した。
「ロッカールームのことです。大分、混んでたんじゃないですか?」
「ああ、なるほどね。」
相手は短く返事をしながら、俺の隣にあぐらをかいた。
「さっきちょっと行ったんだけど、人がいっぱいで戻ってきたよ。」
人懐こい笑顔見せながら、顔を左右に振る。どうやら待つことにしたらしい。腹を空かしながらただ座り続けるのも辛かったので、俺は内心喜んだ。
「今日入ったばっかりなんだよ、この現場。」
俺が働いているこの現場は、あまり人の変動がない。怪我や病気で欠員が出た時や募集を出すくらいだ。先週、高所作業に当たっていた連中が何かしら騒がしくしていたのをふと思い出した。
「名前聞いても良い?ちょっと心細くてさ。」
「九重です。9つ重いでここのえです。」
男は木場と名乗った。歳は35と聞いてもないのに教えてくれた。
「九重君は結構ここ長いの?」
話しながら木場はコンクリートの地面をコツコツと二度拳で叩いた。さっき作った汗じみはもう乾いて消えている。
「半年くらいですね。木場さん、この仕事長いんですか?」
「大きい現場に入るのは久しぶりかな。いつもは一人でやってる」
それは昔、起こるはずだった