前衛、バルトーク
バルトークの亡命。それは自国ハンガリーがドイツ・オーストリアの属国になった時点で決定的になった。そして母の死。それは、
「私の事は構わずお逃げ」
といっているような後押しがあった。
思えばそのころバルトークはヴァイオリニストのシゲティとジャズクラリネットのベニー・グッドマンのために「コントラスツ」を書いている。そして亡命の下調べとしてアメリカでこの「コントラスツ」をニューヨークで演奏した。バルトークの作品としては初演から好評で、母の死とともに亡命を決意した。
バルトークには傑作の森と呼ばれる時期がある。それは、ピアノコンチェルト第二番、ヴァイオリンコンチェルト第二番。弦楽四重奏曲第五番。「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」「二台のピアノと打楽器のためのソナタ」などなどを作曲した時期だ。
「バルトーク・ベラ」の名前は世界に響いた。しかし、それは一部の現代音楽ファン、プロ演奏家による賛辞であって、一般市民はシベリウスやストラヴィンスキーのある作品に現代を感じていた。バルトークは言う。
「私の作曲家としての作業は、古典に奉げられている。そして、私も古典とともにある」
バルトークは母に死なれて、葬儀にも出席しなかった。バルトークは、
「大好きなお母さん」
と母のことを語っていた。その唇が母のことを封印したのは必然であったろう。幼くして父を喪い、自分をピアニスト、作曲家と育ててくれた母。その母を亡くしてバルトークにはハンガリーにいる理由がなくなった。
私はタカーチ・シュベル。ハンガリーで弦楽四重奏のヴィオラパートを担当している。恩師バルトークの晩年の作品、たとえば、
「弦楽のためのディベルティメント」
「弦楽四重奏第六番」
は平明で、親しみやすいメロディーが頻出する。しかし、それは表面上であって、その姿勢は、
「コントラスツ」
にも一貫しているのである。
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彼のために私は弦楽四重奏曲第七番を依頼した。バルトークは六曲しかカルテットを書かなかったが、しかし実は第七番が完成していたのだ。バルトークは母のために弦楽四重奏の第六番を作曲したが、それは母のためのレクイエムであったろう。長い苦労をして、若くして亡くなった父の分までバルトークにピアノを教えた。
「シュベル。今回の曲(七番)はバルトークの結晶化を暗示する平明かつ戦争に対する独特の詩情に満ち満ちているよ」
第二ヴァイオリンのソーントン・サガシュは言った。その音楽はフォレのエレガントな
「ピアノ五重奏曲」
に触発された趣があり、トルコやサマルカンドの音階が彼独特の音組織によってハンガリーのオリジナル民謡と融合している。さて、われわれはこの第七番を弾くのだが、作曲家バルトークにも聞いてほしかった。バルトークはそれに賛同した。
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そのスコアはここにしか置けない音がつむいでおり、完璧なテクスチュアを持っている。数学的に作曲し、しかも音大の先生が喜びそうな音の配置になっているにもかかわらず、厳然とした音楽がそこにある。彼は、音楽にとって調性は必要?不協和音?といった低次元な言葉では語れない。彼の音楽は調性の世界だ。古典的な形式に深い楽想が秘められており、無調、不協和音など必要とあれば何でも使う。そこには音作りの明快なビジョンがあるからだ。
さて、われわれは二週間後に迫った音楽界で第七番を弾く。もちろんバルトークも出席。その栄誉が伴う音楽の夕べである。
1939年、彼の一連の傑作作品が演奏という形で回答されてきて、一種のバルトークブームがハンガリー内外でミネラルのように聴衆を元気付けた。これはヨーロッパの戦争と同時に彼に襲い掛かってきた。
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さて貴賓室でアールグレイ・ティーを味わうバルトークは、その当日。
「このカルテットは海なんだよ。作曲家は曲の説明をしないものだがね」
わたしは神の教示と伺った。そして、バルトークと曲のディスカッションをした。
「この曲はフォレの影響が見えますね」
バルトークは、
「結晶化なんだよ。勿論影響はあるが、作曲家にとって影響は芸術の基本でもある」
確かにそうであろう。まず自然、そして言語、さらに先人からの影響である。バルトークは他の現代音楽家と違い、影響をさらけ出す。それは音楽に自然を取り戻す至上の愛なのであった。古典との戦いを終わり、古典に身をさらけ出した彼であった。
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リスト音楽院小ホール。人の入りはいいほうだった。バルトークの音楽を知ってほしいと希求する私は七分通りの入りに少しは満足した。現代音楽を戦時下で弾こう、聴こうなどという危篤な人間は少ないだろうから、五分の入りならいいほうだと思っていた。
「先生、どうされました」
バルトークは、
「この作品は私が巨船に乗って、アメリカへ行くということなんだよ。碇を下ろした静けさが感じられないかな?」
「先生が亡命するという噂は聞いてきましたが、この曲でハンガリーの空気を振動できることに我々も名誉におもいます」
「そんな世辞は必要ないよ。君はヴィオラで中音域を支えてくれたまえ」
「はい、がんばります。至難な旋律もありますが、全体的に四番や五番より弾きやすくなっていますね」
「君のその言葉は撤回してくれたまえ、作品というものはモーツァルトのように聞きやすく弾きにくいものなのだ」
バルトークの音楽はちょっと聴けばすぐ彼の作品とわかる。それほど個性的なのだが、それは聴けば、理解できるといえるとはいえない。バルトークの作品はどちらかといえば緊張を強いられる音の群れだ。しかし、第七番を聴いて、弾いて、私は彼が結晶化させた音を信じ、バルトークがついに広く大衆に働きかけるその源がベートーヴェンに合ったこと、そしてフォレの創作との関連性を理解した。
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演奏が始まった。バルトークは中ほどの席に座り、鋭い眼力で私の目を射た。演奏は、一部の聴衆にのみ許される緊張感の張り裂けんばかりのモデラートの第一楽章、そしてフーガの第二楽章と続くが、ここまで分かった人間は皆無かもしれない。第三、第四楽章と曲は短い回想を終わって、コーダに入る。バルトークはその後の感想で、
「私の表現性を最大にまで引き出していました。高度で斬新な私の作品はスコアという形で残るでしょう。しかし、彼らほどの演奏は未来永劫ありえないでしょうね」
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この弦楽四重奏を聴いて、バルトークは、「本当に亡命を考えた。もう思い残すことは無い。自分の家も息子ベラとペーターも枢軸軍と戦っている。ディッタとアメリカの地にわたらなければ、私はヒトラーの手下になる。」
友人のコダーイは反対した。
「今必要なのは、君の音楽だ、もっと作曲し給え。ハンガリーのために」
「いや私は違う。ヒトラーに牛耳られているこの政権、この雰囲気が嫌いなのだ。私は実はユダヤ人登録することも考えた。しかしそれはユダヤの民に対する侮辱だ。音楽はこれからどうなるんだろう。たくさんのスコアが焼けて、ヒトラーはそれでプディングを焼いているというではないか?そんな国に私は愛を感じることができない」
「待て、ベラ。君は早まっている。ペシミズムなんだよ」
「長い仲だ。私も行きたくない。そうだ、地下にもぐろう。それができるだろうか?」
「私と一緒に行動すればいい。私は幸いハンガリー愛国集団「黒いチューリップ」の存在を知っている。君も参加してヒトラーを滅亡に追いやるんだ」
「そんなことが、・・確かに「黒チューリップ」の存在は知っている。しかし、私は見せかけの愛国心は否定するものだよ。私の音楽を聴いてくれただろう?それは農民たちの歌から敷衍した新しい音組織だ。農民に愛国心などあるものか。彼らは自給自足しており、政府の税もきちんと払う素晴らしいひとたちだ」
バルトークの言葉は絶対だった。後にコダーイから聞いた話だから本当のことだろう。
1940年。バルトークの離別記念コンサートが開かれた。ピアノはバルトークと妻で曲は自作とバッハ、モーツァルトである。古典にわが道をささげたぎりぎりの選曲といって良いであろう。
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私、タカーチもバルトークの船に同乗していた。亡命したい気持は同じであった。バルトークは長い旅を経てリスボンからアメリカに来た。私は、前もってポルトガルに滞在していたからバルトークほどの苦労は受けなかったけれどそれでもリスボンに来るまでは大変だったのだ。
そんな洋上、バルトークは船のサロンでピアノを見つけた。調律されているようだ。バルトークは絶対音感を持っているから、それが分かるのだ。バルトークが同じ船に乗り合わせていたとは思わなかった私は、病気でやせこけ顔面蒼白な彼を見つけた。
「バルトーク先生」
「おお、タカーチ君」
「私はヴィオリストですが、勿論ヴァイオリンができます。ここでは皆さんに先生のピアノ私のヴァイオリンで「ルーマニア民族舞曲」を弾こうではありませんか」
バルトークは私の提案に満足した様子で、
「よし弾こう。しかしこれは私の一時代を代表する作品だと銘記してくれたまえ」
ヴァイオリンケースを開けると。バルトークの目は生き生きとしてきた。
「ガルネリか、相応しい楽器だ」
バルトークはアップライトピアノのふたを開けると、
「格調高くやってくれたまえ」
と告げた。
サロンにはたくさんの客が集まり、二人のフォルクロアを聴き始めた。
バルトークフィナーレで鮮やかに終わったこの曲は19世紀音楽しか耳に入らない大衆をも魅了した。
すると、弦楽四重奏団だという人々が現れた。ブタペスト弦楽四重奏団だという。バルトークは自作の弦楽四重奏曲第七番に影響を与えたフォレの「ピアノ五重奏曲」を弾こうと提案した。
そこで、私は聴き役に回った。船は順調に航行しているようだ。北大西洋を航行する巨船。その中にバルトークはいた。
最初のピアノの分散和音から、ヴィオラが入ってくる。そして短調のこの曲が、バルトークの手にかかると素晴らしい趣をつむぎだす。私の聴いた中で、ピアノ五重奏曲の近代最高曲であろう。バルトークも楽員もソラで弾いている。その辺がもう膨れ上がった聴衆に大うけに受けた。フランス人フォレ、だからフランス難民の多いこの船で非常な感銘を彼らに与えたらしい。
終わって、
「妻のためにオーケストラ曲を作曲してください。亡き妻のために」
という委嘱があった。これが後の「オーケストラのコンチェルト」につながっていく。ブタペストカルテットは、
「先生の作品を弾きたい」
と言い出した。
しかし、不成功は明らかであった。 バルトークは、
「船上のピアニストはショパンかリストなどのサロン音楽がお似合いだ」
と語りだして、ショパンの練習曲「黒鍵」を弾き出した。そのタッチ、ショパンのエスプリ。バルトークはまだ重病人ではなかった。
*
ついにニューヨーク到着。十月十三日である。夕方、マンハッタンの摩天楼が姿を現した。バルトークの中で何かが音を立てて崩れだした」
「この喧騒の中私は生きられるだろうか?」
その疑問に輪をかけて、預けてあった荷物が無いというのだ。
「これが現実だよ。この全てが悪い方向に進んでいき、何もかもが破壊されてしまうんだ。ブダの教会も何もかもがだ」
私は先生に懇切丁寧に教えた。
「荷物は探し出される運命にあるのです」
バルトークはこの言葉に少しユーモアを感じたらしく、
「サハラ砂漠で1フォリント硬貨を探し出すようなものだよ」(ハンガリーの通貨)
「実は弦楽四重奏曲第八番の楽譜があるのだ。作曲家にとって魂を抜かれたような思いだ」
私はその言葉に異常な興味を持ち、
「絶対に探します。必ず。と請合った」
*
その後、数日してバルトークの荷物は見つかった。その中に、書きかけの弦楽四重奏曲第八番があろうとは私以外誰も気がつかなかった。バルトークは今、コロンビア大学に教授として迎えられ、民族音楽の研究に余念がない。しかも、八番目の弦楽四重奏曲を並行して進めていた。
1941年夏、カナダの別荘で彼はついに第八番を書き上げた。書き上げるのに一年数ヶ月と言う大作だった。ここにはネイティブアメリカンの民族音楽が反映されていることを断っておく。しかし、それはドヴォルザークのように民謡をそのままで扱うのではなく、いったん彼の音組織に照らし合わせ、それを生かした。だからこの五楽章からなる作品にいわゆるアメリカ民謡は出てこない。しかしボヘミアのドヴォルザークのような親しみやすさが感じられて、その音たちはアメリカでなく旧大陸の要素を持った後期バルトークの溜息のようなものが聞こえてくる。さらに面白い座興もあることを付け加えておく。
さて、私たちも音楽活動をアメリカで始めていた。カルテットの四人は別々の船に乗りながらも、息がぴったりとニューヨークのアパートをそれぞれ借りていた。われわれの名声はベートーヴェンの後期四重奏をここニューヨークで以前弾いてから確立しているし、バルトークも職を得て、各々順風満帆に見えた。しかしバルトークは原因不明の関節痛と食欲不振に見舞われ始めて、渋滞したその仕事は半年間の契約を言い渡されていた。職を得ることは多難だった。
そこにメニューインとの出会いが降って沸いたかのように訪れた。メニューインは若き天才ヴァイオリニストであり、その名声は不動のものだった。バルトークは彼の提案、ヴァイオリンソナタ第一番を作曲者本人にレクチャーしてほしいという言葉に従い、メニューインの演奏を聴いた。
素晴らしい演奏。ヴァイオリンもピアノも良く弾いたものだ。私の作品がこのように完璧に弾きこなされるのは数百年もかかってからだろうと思ったバルトークはメニューインと固い握手を交わした。その席で、若き天才は、
「自分のために無伴奏曲を書いていただけないでしょうか?」
と提案した。バルトークは、
「面白い提案だ、確かにこれは私の体を勇気付けるでしょう」
と快諾したのだ。
*
1943年、バルトークは自分の作曲家人生を明日のパンのために傾けていた。その中に、われわれのための弦楽四重奏曲第八番も含まれていた。そのころ、バルトークの様態は安定し、大作「オーケストラのコンチェルト」とメニューインの委嘱による「無伴奏ヴァイオリンソナタ」の初演が続々と行われた。彼は自分が今、どんな境地にいるのか良く分かっていた。それは三大Bにつながる四大Bの系列につながる存在。自分の作品群は後世にまで残り、自分もブタペストに帰って、作曲活動を続けるのだという思い。その思いが確信となってあり続けた。
そんなある日、私たちタカーチカルテットは最近名声を確立しつつあるバルトークの弦楽四重奏曲第七番をアメリカ初演した。アメリカ人にこの曲の真意が伝わるかどうか不安だった。もう「オーケストラのコンチェルト」と「無伴奏ヴァイオリンソナタ」でこの地の名声を確立しているのだが。終始緊張感に満ちたこの第七番をどう聴き手が受け止めるか。心配はその一点だった。
しかし、心配は無用だった。スクウエア小ホールでのこの夕べは、まず、モーツァルトの「不協和音」そしてバルトークの七番、最後にベートーヴェンのラズモフスキー第二番で締めくくられた。眼目はバルトークである。われわれは、まずモーツァルトを弾くべく、ステージに出た。するとそこにはバルトークとメニューインが居るではないか。中央の席に陣取って全ての音を聴き取ろうとするバルトークの絶対音感がそこに厳然として存在した。
「不協和音」が終わると、バルトークは拍手した。まず一安心。背中には汗をかいている。袖に戻ると、楽譜を渡された。なんと、それは七番ではなく、知られざる八番ではないか!うわさではバルトークは八番を完成していたといわれていたが、これはなんとも参った。現代音楽を耳の肥えた聴衆の前で初見で演奏するとは……。
「こんなことはありえない、何かの間違いでしょう」
と関係者に抗議した。ところが、
「バルトーク先生によると、この作品は初見で弾いて、そのアドリブ感、つまり「チャンスオペレーション」が大事なのだとおっしゃっていました」
そうか、最近の音楽にはそういう即興的なものも出始めていたなと私は思った。他のみんなもこの現象には頭を抱えていたが、即興が主体ならば、それもいいだろうとみんなの意見が一致した。
「皆さん、この音楽会のメイン、バルトークの第七番を演奏する予定でしたが、急遽、第八番に演目が変わりましたのでお聴きください」
聴衆はざわめいたがそれはすぐに止み、われわれはステージに出た。
ソーントンも第一ヴァイオリンのオザシュも、チェロのネーメトもやる気満々である。作曲家が初見でと指定した以上、我々の曲であることに間違いはない。世紀の大作曲家バルトークのただ一回だけのコンサート。勿論レコーディングしているから、この演奏が空前絶後であり、全ての版権は私からの提案でバルトーク自身とすることに皆が一致した。そして、演奏が始まった。
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演奏が終わると、我々は驚いて真理を見た気がした。休憩時間、みんな口々にその感動を語り合った。
「古典的なソナタ形式、変奏曲、ロンドで成り立っているが、この最終楽章、初見で弾けるエネルギーがすごかったな」
「僕は譜面をめくりそこなった。だが、君の助けで最後までいったよ」
「この作品は生への回帰だ。真にバルトーク的な音楽といっていい。しかし、先生もさらに未知の領域に足を踏み入れられたな」
「あそこの、と言うか69小節のところに「ぐちゃぐちゃと弾け」と言うのがあってあれがスリリングだったな」
「あそこは音符の指定もなく、「ぐちゃぐちゃと弾け」だったから面食らったけれど前後の小節からしたらあれがむしろよかったよ」
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観客席ではスタンディングオベイションで、作曲者をステージに押し出した、あまりにも感動したバルトークは自分が何処にいるかわからなかった。あのブダペストでの第七番の歓声よりも聴衆の耳は肥えている。祖の再生の歌を彼は聴いていたといえるだろう。
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バルトークの病は心も体も癒え、第九番の話まで持ちかけられた。後にバルトークは私と会って、
「あのときの演奏、実は録音を断ったんだ」
「第八番ですか?それはなんと!ではあの作品の楽譜も録音も破棄されたと」
「その通りだ、初見、初演だけの音楽、それは確かだ。私はそのためにネイティブアメリカンの研究をした。彼らの音楽は奏でたそれから消えていく。幻の作品と考えてくれたまえ。これは彼らへの鎮魂の歌なのだ。そして、全てはあの観衆の耳にのみ残る」
「分かりました。ではあの夜の出来事は永遠に消え去ると」
「そうだ、アメリカンは生き続けるが、彼らの音楽は奏でては消えていく幻のようなものだ。それを考えてみてくれないかな」
私はその真意を理解しかねていた。後日、バルトークは第七番の楽譜も破棄しているとのうわさが立った。私はただ、
「なぜなんですか先生」
と一人問い続けたが、その理由は明らかになっていない。なぜなら、1945年、音楽の源であったバルトーク自身が亡くなってしまったのである。したがって彼の四重奏は第六番までとなった。
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そして今、21世紀になって、科学技術が飛躍的に向上し、七番と八番の楽譜の再現を試みている。われわれは日本の東西大学で、脳の記憶から音符を取り出す作業に移った。大体の骨子や断片的な記憶はあるが、もっとオリジナルスコアそのものを脳の記憶部位からバルトークの七番と八番を取り出す作業。バルトークの息子さんのペーテルの快諾を得て、我々は、作曲家バルトークの最晩年の四重奏を再現しつつ、それをCDに残す、出版するという栄誉を頂きたいのだ。
今、私は脳の記憶部位に電極を当ててヴィオラや他のパートの記憶を取り出してもらっている。解析はスーパーコンピュータによる。いま、我々の生き残りはヴィオラの私と、第二ヴァイオリンしかいない。七番の解析は練習や実演で結構記憶していたので比較的簡単に済んだが、八番は難航している。この作業、実はもっと前からやっていたのだ。しかし、頭に電極をつけてコンピュータで解析すると言う技術は日本人が開発した。日本人はバルトークが好きで、私がコンピュータでの解析を行っていると知ってすぐに駆けつけてきた。だからこれは日本人にとって、バルトークファンにとって栄誉だし、だからこそスーパーコンピュータは世界一でなくてはならないのだ。
戦争という時代に生きて、傑作を書き続けたバルトーク。その存在はもっと一般大衆に知られてよい。最後に、このつたない文章は科学誌「ネイチャー」に掲載するためのイントロダクションであることを断っておく。人間の記憶力は、曲が蓋然性を持っていれば居るほど思い出せる。つまり、名曲は記憶に残りやすいのである。
そこで今、その結果がメールで届いた。宝石箱のようなスパコンはどのような結果を現すのか。皆さん楽しみは「ネイチャー」を見るまで取っておいていただきたい。
註。バルトークは六番までしか弦楽四重奏を書いていない。七番は断片しか残っていない。
その七番を知る人はバルトーク本人しかいない。
参考文献
ひのまどか 「バルトーク」
小倉朗 「現代音楽を語る
吉田秀和 「私の好きな曲」
岩城宏之 「楽譜の風景」
五味康祐 「音楽巡礼」
アガサ・ファセット 「バルトーク晩年の悲劇」
後日談
そして「ネイチャー」がSACD付きで発刊されると言う前代未聞の出来事が起こった。バルトークの「弦楽四重奏曲第七、八番」演奏はミクロコスモス弦楽四重奏団。私はこのレコーディングに立ち会った。スコアの作成は私と数人の関係者で秘密裏に行った。コンピュータのはじき出した楽譜と記憶をたどる作業。それに3年かかった。それが本物かどうかはやはり実演でと言うところだ。戦友の第二ヴァイオリンも心残りだろうが亡くなった。この曲を知る人は私と実演を聴いた客しかいない。タイタニックのローズみたいなもんだ。
感覚的では七番は聴きやすくて平明だ。それに対して八番はバルトークの初期のバーバリズムよりもっと前進してノイズのような第三楽章がすごい。バルトークがケージらに影響を受けたとしか考えられない。
おまけにSACDを使い、CDを使わなかったのにも意味がある。やはり、CDは音が良くない。どんなに高価なCDプレーヤーを使ってもCDと言うメディアはどうしようもない。CDプレーヤーは鉄クズでしかない。
「ミクロコスモス弦楽四重奏団」の若々しい演奏も良かった。しかし、私は実演で色々と口を挟んだ。
録音は東西大学の構内のスパコン室で行われた。不思議と音響もいいのだ。スパコン「武満」は楽章ごとにバルトーク近似度をはじき出し、私も意見を出すと言う作業だった。このシンプルな方法が一番いい。まぁ演奏する方の楽団はくたびれただろうが。
そしてDSD方式でレコーディングされSACDはネイチャーの付録として発売された。もちろん一部分ではあるが。皆さん、買って下さい。バルトークの遺産を。全部聴きたい方は、ディスクショップか通販でどうぞ。
この2曲の存在は巷間ささやかれていたが、「ネイチャー」の発売とともに世紀の発見とされた。老いぼれの私は質問ぜめを嫌ってスイスの村で余生を送ることとなった。ネットで検索すると、各国のカルテットがこぞって演奏している。SACDを通販で取り寄せた。もちろんあの、「ぐちゃぐちゃと弾け」もやっている。録音ごとに演奏は大きく違うが、チャンスオペレーションの部分はあそこだけではなかった。第一楽章の中間部や終楽章の冒頭部分もだ。随所にある。晩年のバルトークを退嬰的視する人はこれを聴いていただければ全く新しいバルトークを発見できるであろう。私が推薦するのはミクロコスモス弦楽四重奏団の演奏である。戦友でもあるから。
前衛、バルトーク