黒地の散文は笑えない
この街は灰色だ。
そして、そんな街の中で生きている俺は灰色を超えて限りなく黒色だ。いや、違う。黒色なんかじゃない。無だ。無色だ。存在が消えた俺に色なんて無い。
俺は真夏の強い日差しを浴びながらコンビニに向かう道中で、1人こんな事を考えていた。こんな考えが頭を巡る時点で俺はおかしいのかもしれない。しかし、そう思わずにはいられなかった。
朝日が部屋に差し込んでくる頃に寝床に入り、日が傾く頃に動きだす。そして、何をするでもなく時間を消費する。こんな毎日を過ごす俺はこの街にとって不必要な人間だと自分でも思う。
そんな不必要で無な俺が珍しくに日中からコンビニに向かって歩いている理由というのも、空腹で目が覚めたからという情けない理由だ。この頃、食事も不規則になっている。
こんな生活を送っているから当たり前かもしれないが、最近の俺は誰とも一口とも喋っていない。いや、店員との形式的な会話ならあるか。
何か溜息が出てきた。
やはり、俺は無だ。
普段、運動をしないおかげで体力がめっきり落ちている。そんな俺にこの日差しは辛い。歩みを止めて地面を見ると、俺の影がゆらりと揺れている。俺自身が無だから、俺の影も消えたくなっているのかもしれない。
なんとかコンビニに辿りついた。適当に弁当を選んでレジに持っていく。
「あ…、タバコ、94番で…。」
「94番ですね。」
「合計858円になります。」
「はい。あ、レシートいいです…。」
「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ。」
本日の会話終了。
冷房のきいたコンビニを出ると再び灼熱が俺を待っていた。灼熱な灰色の街。
ふらふらと歩いていると信号が点滅しているのが見えた。走る気力なんてない。俺は立ち止まって、交差点をぼんやりと見る。
信号がかわると同時に車たちが一斉に動き出す。慌ただしく回る交差点をぼんやりと見る。皆、この灰色の街で動く理由がある。それぞれの目的に向けて車を走らせる。
俺は小さく笑う。哀しく虚しいから笑い。
信号が再びかわった。俺は横断歩道を渡る。綺麗に舗装された横断歩道の上。
よく良く考えればこの横断歩道も誰かが作ったんだな。そう言えば俺が着ている服も、手に持つ弁当も、さらに言えば、その弁当を入れているビニール袋も。どれもこれも誰かが生み出したモノだ。どれもこれも、誰かが色をつけたものだ。
そんな事を考えていると、横断歩道を凝視する視点が合わなくなってきた。
「うわっ。」
突然、俺の口からそんな言葉がこぼれた。頭がおかしくなり、独り言を呟いたわけじゃない。誰かが俺にぶつかってきたためだ。
急いで視線をあげると、大学生くらいの年齢、容姿をした女性が目の前にいた。
「すみません。大丈夫でしたか。」
女性は申し訳なさそうに俺の顔を見てきた。
「あ、はい。」
「良かったです。ちゃんと前を見てなかったもので。」
女性は安心したのか、少しはにかんだ。
「いえ…。こちらこそすみませんでした。」
俺も頭を下げた。
女性も頭を下げる。そして、走り去っていった。
交差点の横断歩道上で僅か数秒のやり取り。
俺はその後の帰り道、少し歩調が早くなっていた。久々に店員以外の人と言葉を交わしたからか。久々に女性の笑顔が俺に向けられたからか。理由はいまいち、はっきりとしない。でも心が躍っていたのは確かだ。
なんだ、この灰色の街の中でも、無な俺でも心が躍る事はあるんじゃないか。そう考えていると、顔が前を向いた。
女性が綺麗なレストランにて端正な顔つきの男性と食事をしている頃、男は1人弁当をたいらげる。その顔には色が戻っている。それは、パソコンの画面が映し出す光を受けているからだけではない。
灰色のこの街に少しでも自分の色をつけるもの悪くない。その前に、無色な自分に色を取り戻さなきゃな。
俺はそう思いながら目を細めた。
*****
目の前に座っている彼は今日もスマートフォンをいじっている。小洒落たレストランの二人用テーブルで私と座っているのにだ。話題が無い。そうだ、さっきの話をしよう。
「ねー、さっきさ横断歩道で男の人とぶつかったんだよ。」
彼はスマートフォンの画面から目を離さない。そして、「へー」と気のない言葉が返ってきた。そんなに画面上のモンスターが大事か。負けてたまるもんか。
「それでね、その男の人ちょっと変なの。じっと横断歩道の白線を見つめてブツブツ呟いてるの。私ちょっと怖かったよー。」
「だから、謝って走って逃げちゃった。」
私は「あはは」と笑う。彼からのリアクションは無い。ついに無視かよ。心の中で文句を言いながらも何とか笑顔はキープした。まあ、頑張って笑顔を維持しても肝心の彼は画面のモンスターに夢中なんですけどね。
なんか溜息がでるや。
1人落ち込んでいると、食後のデザートが運ばれてきた。私の大好物、バニラのアイスクリームだ。ちょっと元気出た。
しかし、相変わらず会話が無い。カチャカチャとスプーンの音だけが響く。
「ねえ、アイス食べないの。早く食べないと溶けちゃうよ。」
アイスに目もくれず、スマートフォンに熱中する彼に声をかけてみる。
「…欲しかったらあげるよ。」
…別にアイスが欲しくて声をかけたわけじゃないんだけどな。二人で味の感想とか、そういう何でもないこと話したかっただけなのになあ。
「なら、お言葉に甘えてアイス貰うね。」
私は笑顔を作りながらそう言うと、彼のアイスも1人食べた。
いくら大好きなバニラのアイスクリームといっても二人分はきついや。思わず、スプーンが止まった。
”ねえ、何で私と一緒にいるのに、私に興味を持ってくれないの”
思わず口からずっと思っていた言葉がこぼれてしまった。さすがの彼も私の顔を見てくる。ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。
彼は真顔になって私の顔を凝視する。そして言い放つ。
「そういう、すぐ感情的になるところ嫌いだわ。」
え。
「最近、一緒にいてもつまらないし。何か飽きたっていうか。」
え。え。
「もう別れよう。」
え、何を言ってるの彼は。私は状況を把握するのに少し時間がかかった。
「そんなあっさりと別れようって…。本気なの。」
「本気。」
そして彼はもう一度、はっきりと言う。
「別れよう、俺たち。」
「私たちのこの2…。」
そこまで言いかけてやめた。彼にとって、私たちのこの2年半はこんなに簡単に終わらせることのできるものだったの。そう。そっか。
なんだか腹が立ってきた。
私は目の前に置いてあったコップを握った。コップの中にはいっぱいの水が入っている。そう、ドラマとかでよくみるあれだ。彼にこの水をかけてやる。もう知らない。
その時、さっき彼が言った言葉が私の頭をよぎった。
すぐ感情的になる私は嫌い。
そう。
私は強く握りしめているコップをゆっくりとテーブルに置いた。
「いいよ。別れよ。」
私は何とかその台詞を絞り出す。
そして、財布からお金を取り、彼の目の前に差し出す。
「さよなら。」
私はその夜、伸ばしていた髪をばっさりと短く切った。ベタだって言われるかもしれない。悲劇のヒロインに酔いしれてるって言われるかもしれない。
でも、そんなの関係ない。ベタってことはこれまで幾多の先輩達が同じ事をしてきているって訳だ。それに私はヒロインって柄でもないけど悲しい気持ちに包まれているのは間違いない。なら、先輩達がこの悲しみを乗り越えようとやってきたこと真似させてもらおう。
この夜からロングヘアーとは決別だ。
鏡を見ると、彼の好みだったロングヘアーの私はもうそこにはいなかった。
****
夜のホーム。男は全身に疲労感を纏いながら電車を待っていた。
「俺の人生ってなんなんだろう。」
そう呟く声に返事をする者は誰もいない。乗客もまばらな電車に乗り込み席に座る。体が椅子に沈みこんでいく感覚。そして、重く動かない。男は目を閉じた。そして、心の中で大きく溜息をつきながら、再び自問する。
「この毎日は何なんだろう。」
男の目が再び開いたのは、毎朝眠たい目をこすりながら向かう駅に着く直前だった。慌てて鞄を持ち立ちあがる。
やっとたどり着いた我が家は真っ暗だった。コンビニ袋を机の上に投げ、しわくちゃのスーツを脱ぐ。
ハンガーにスーツを掛けていると棚の上に置いてある写真立てが目に入ってきた。
そこには本当に自分なのかと疑いたくなるような笑顔を浮かべる俺と、俺に負けないぐらいの笑顔が咲き誇る女。俺の彼女だ。いや、正確にいえば元カノか。
彼女とは先日別れた。2年半も付き合ったわりにはあっけない終わり。でも終わりへの引き金を引いたのは俺だ。
学生の彼女。社会人の俺。
社会の荒波にのまれ溺死しそうな俺にとって彼女という存在はとてつもない負荷になっていた。好きだけどしんどい。正直な思いだった。
僅かな休日の時間は彼女に奪われる。そして、休日が終われば、終わらない仕事と上司の嫌みが待っている。この繰り返し。繰り返し。
誰もいない部屋でひとつ大きな溜息をつき、発泡酒をあける。
「あー、美味しくねえな。」
ふと時計を見ると、既に時計の針は0時を回っている。あと8時間もすれば俺は会社の椅子に座っているのか。そんな事を考えていたら憂鬱な気分になってきた。もう寝よう。
7時間後。俺は見慣れた駅のホームに立たされていた。誰に立たされているのかは分からない。すぐに俺はあくびと溜息が充満した電車に揺られて街に送り込まれた。
この日の社内は修羅場の雰囲気だった。ただでさえ忙しい月末。そこに予期せぬトラブルが重なりこんできたらしい。部長の血圧がぐんぐんあがっている。大人しくしておこう。
そんな俺の決意なんてすぐに破られる。部長が怒鳴り声で俺の名前を呼ぶ。
「いや、この仕事は課長の指示でして…。」
駄目だ。俺の言葉に聞く耳なんて持っていない。チラッと時計を見るとゆうに定時を過ぎていた。いや、定時なんて概念はここにはないか。
部長の意味のない言葉の羅列はしばらく終わりそうにない。俺は適当に返事をしながら心の中で歌を流すことにした。
エーデルワイス。
小学生の頃によく音楽の時間に歌わされたこの曲がなぜか心の中で流れた。
将来のことなんか何も考えず毎日精一杯遊んでいたあの頃。今も毎日を精一杯生きているのは確かだ。でも、あの頃と違って笑顔になれないのは何故だろう。何が違うんだろう。
部長の口が閉じると、俺は一礼して自分の席に戻った。隣の席の同僚が俺を心配してか一声かけてくれた。俺は笑った。でもそれは、あの頃の自然な本気の笑顔とは違う、精一杯の愛想笑いだった。
良き頃を回顧しだしたら終わりだな。そう思いコーヒーをグッと飲んだ。もう一頑張りだ。
仕事に取り掛かり始めて数十分後、ふと次の休日のことを考えてしまった。
次の休日は久々に時間があるし、どこか癒される場所に行きたいな。山。そう緑いっぱいの山に行きたい。さっき心の中に流れたエーデルワイスの世界のような。
再び心の中にエーデルワイスの軽やかなメロディが流れてきた。
そして、俺は決意した。次の休日まで耐えよう。頑張ろうと。
*****
「しかし、君もハゲたね。」
私の隣に立つ山田がのんびりとした口調で言う。
「見事に散らかったねえ。」
私が黙っていると山田は再び私をじろじろと眺めながら言う。ああもう。
「そうだよ。私はハゲたんだよ。でもこれは私の責任じゃないんだよ。」
そう、私がハゲたのは決して私に責任があるわけじゃないんだ。それは山田もよく知っているはずなのに。
「おいおい、人のせいにするのかい。」
山田はククッと小さく笑いながら小馬鹿にしてくる。私はそっぽを向きながら悪態をつく。
「どうせなら山田も私と一緒にハゲればよかったのに。せっかくの好機を逃しちゃって残念だったね。」
山田は一瞬黙り込むと、先程までの様子とは一変してしんみりとした表情を浮かべた。
「まあ、僕が君と同じようにハゲる日も近いよ。」
「山田…。」
「まあ、その日は近いといっても100年後か200年後か。はたまた300年後かな。」
そう言うと、いじわるな顔をする山田。この野郎。一瞬でもしんみりとしてしまった私の気持ちを返しやがれ。
私は1つ大きな溜息をつく。
確かに、山田が小馬鹿にしたくなるくらい私はハゲた。しかも、気がつけばあっという間に。これまでの私は自分で言うのもおかしな話であるけれど、他の者から人気があった。いつもみんな、私の元に集まり私の周囲はいつも騒がしかった。歓声や感嘆の声が響く毎日があった。
でもそれも昔の話。
すっかりハゲた今では誰も私の周りに寄りつかなくなった。みんな逃げ出した。
こんな状況がここ最近続いていては、さすがの私も溜息の1つや2つつきたくなる。
「ハゲることってこんなに辛いことなんだね。」
思わずこぼれた私の言葉を山田が拾う。
「君の場合は、ね。ハゲる前が本当に羨むぐらい生い茂っていたからね。それはそれは綺麗で艶やかで見る者に感動を与えるくらいに。」
「よしてくれよ、山田。」
「いやいや、嫌味とかじゃなく本当に昔の君は凄かったよ。特に…、あれは何年前だったかな。すごく君の人気が高かった時期があったじゃない。歌とかに詠まれてさ。」
「はは…、そんな頃もあったね。」
思わず感情のこもっていない虚しい笑いが出た。そんな人気があったのも昔の話。
「ああ、あの頃に戻りたいなあ。」
分かっている。いくら嘆いても光が当たり続けたその時にもう戻れないことは分かっている。
ああ、憂鬱だ。
山田は落ち込む私の様子をじっと見つめてしみじみと呟いた。
「時の流れってのは残酷だね。」
本当に残酷だ、この世界ってやつは。
*****
よく晴れたある日。人里離れたこの場所に集まる人々がいた。彼らの目の前には黒くなった斜面が広がる山がそびえている。
「今日は皆さんお集まり頂きありがとうございます。」
眼鏡に髭面の男が大きな声で喋り始める。
「遥か昔より天下の名山とうたわれたこの山が数年前の山火事でこのような状況です。」
髭面の男はそう言うと、焼け焦げた山を手で指した。
「少しでも昔の姿に戻してやりたいというのが私の願いです。」
「何年かかるか分かりませんが私は再びこの山に緑を取り戻したい。」
「皆さん、今日は宜しくお願い致します。」
髭面の男の掛け声で人々が散らばり、シャベルで地を掘り、木を植える。
皆、和気あいあいとした雰囲気で、それでも懸命に木を植えていく。
数年前まで無職で街をふらついていた男。恋愛に染まり、恋愛に生きていた女。会社に、社会に縛られて溺死しそうになっていた男。
不思議とこの場に集っていた。不思議な縁。不思議な運命。
最初は気まずかった。しかし、山に緑を戻す活動に共感したからこの場所に来た。来てみると、偶然にも再会した。それぞれ心に残る人に。ただそれだけ。
汗を拭いながら一生懸命に地を掘り、手を黒く染めながら木を植えていく。その中で、自然と会話が弾んでいた。過去のことなど忘れて。
そこには、黒い地の中に僅かに揺れる草のように小さく、でも、確かなものがあった。これから広がっていくであろう緑のように、3人の間にも新たな関係の息吹が感じられた。
*****
「おいおい、今日は珍しく人が君の元に集まっているじゃないか。」
山田が私に話しかけてくる。
「ああ、嬉しい限りだよ。」
私は微笑みながら返す。本当に、本当に嬉しかった。
「皆、良い笑顔をしているよ。」
「本当に嬉しそうだねえ。」
山田もフフッと小さく笑う。
「気分もいいし、久しぶりに一句詠んでみようかな。」
「君は詠う側じゃなく詠われる側だろう。」
山田の半場呆れたようなツッコミを無視するような私は一句詠いあげた。
「良き日かな、人が集まり笑顔、私も笑顔、こんな日々よ永遠に。」
「本当にひどい出来だねえ。それに、それは和歌にもなってないよ。それじゃあ、散文だ。」
今日は気分が良いから散文だろうがなんだろうが良かった。ただ私の元に人が集まり、その人達が楽しそうに笑う。それだけで、その光景を見るだけで十分すぎるくらい楽しい気持ちになる。思わず愉快な笑いがこぼれた。
山田はやれやれと言いながらニヤリと笑いこう呟いた。
「君の散文は笑えないよ。」
黒地の散文は笑えない