光の欠片
プロローグ
あなたが、歩くたびに、微笑むたびに、私を見つめるたびに、
私じゃない誰かを見つめるたびに、そう・・・、何をしていても、
あなたはいつも、光の欠片を散らしていく。
桜の花びらのように。
わたしは、ただその光の欠片を拾い集め、胸の中のポケットに、
そっと仕舞い込む。
決して色褪せる事も無く、輝きを失うことも無く、想い出とは
言いたくない。
あなたは決して気付かないだろう。
わたしが拾い集めた、光の欠片に。
1.出逢い
5月。
大学の構内にある、中庭。
大学の敷地内でもほとんど人に知られてない場所。
千冬は今年は春、入学してまもなく、桜の花びらに誘われるように、
この中庭にやって来た。
中庭の中心から少しずれた場所に、大きな桜の木が一本だけ在る。
時間があると、千冬は桜の木の下にある、ベンチで本を読んでいる。
今日も誰もいない。
千冬はコンビニで買って来た、新製品のパンと野菜ジュースを食べている。
(新製品って言葉に弱いな、普通過ぎる私。新製品ってなってるけど、
この前食べたパンに粒マスタードを足しただけじゃない。でも結構いけるから、
良いか。)
千冬がパンをパクついていると、後ろからふいに声が聞こえた。
「美味しそうだね」
パンをくわえたまま、振り向くとそこには、男性が一人ニコニコしながら、
立っている。
「え、あ、はい・・・。」
千冬はしどろもどろになりながら答えるのが、精一杯だった。
(え?何この人、すごく綺麗な人。やだな、劣等感、感じる)
「1個貰っても良い?」
千冬の答えを待たずに、男性は3個入りのパンの1個を取る。
パンをパクついている姿の無邪気な感じに、思わす千冬は微笑む。
「良かったら、もう1個どうぞ」
「え?ほんと?ありがとう!」
(笑うとこの人、可愛い)
「ん?あ、ごめんね、朝から何も食べてなくて、君が美味しそうに
パンを食べてるのを見てたら、ついね」
「いえ、良いんです。」
ふいに、少し離れた場所から別の男性の声がする。
「おーい、斉藤~、練習始めるぞ」
「悪い、今すぐいく」
「あ、君、1年生?」
「はい」
「そっか、俺は3年、じゃあまた。」
その男性は、建物の方へ少し長めの髪をなびかせながら、走っていった。
(あれ?今何かキラキラしたものが、舞ってる。何だろう)
少し離れた建物の中から、さっきとは別の声が斉藤に呼びかける。
「おまえ、どこ行ってんだよ、探したぜ」
「いや、ちょっとな」斉藤がが笑いながら答える。
(友達かな、良いなぁ。私、人見知りだから、中々・・・。)
千冬は小さく溜息をつく。
2.練習
四方向を建物に囲まれた、中庭のような場所。
四つの建物は建てられた年代も、それぞれ高さが違うものの、あまり高くはない。
この場所は、大学の中でも、曰く付きの場所と一部の人間から、思われていて、
人がほとんど寄り付かない場所である。
斉藤達の組むグループは、誰にも邪魔されずに、ギターの演奏と歌の練習が出来る、
数少ない場所である。
ほとんど使われない、古い空き教室を使ったり、晴れの日は、外だったり。
(こんな場所に他に人がいるなんて、思わなかったな)
斉藤はギターをケースから出しながら、中庭の方を見る。
「どうかしたか?」本多は同じように外を見る。
「あぁ、さっきあそこの桜の木の下に、女の子がいて」
「え?女の子」秋山は少し驚いた声で聞き返す。
パンを貰った話をする。
「たぶん、一年生だと思うけどね、はい」
斉藤はギターを本多に差し出す。
「おい、チューニングぐらい自分でしろよ~」
「お前がやったほうが、調子良いんだよ、な!お願い!」
「もう、仕方ないな」本多はギターを受け取る。
「本多は斉藤に甘いな」と秋山も苦笑い。
「で、その女の子可愛かった?」
本多は、チューニングしながら斉藤に聞く。
「うーん、たぶん可愛かったと思うけど」
「アイドルの、高橋優子ちゃんみたいな感じ?」
本多は興味津々で聞く。
「どうかな、ちょっと違うような」
(あんな、素直な感じの子がこいつの餌食になるのはダメだ)
「そっか、でも一度会ってみたいな~、ほい、出来たよ」
本多は斉藤に、ギターを渡す。
「ありがと」
「でさ~斉藤君」
「嫌だよ、俺だって、さっき初めて見かけただけだし、名前も知らないんだから」
「マジか?おい、今から行って来い、名前くらい聞いて来い」
本多は斉藤をけしかける。
「そうだよ、パン貰っておいて、後でお礼したいとか何とか言えるだろう」
秋山まで加勢する。
「え~!」
もう一度外を見る。
「あ、もういないわ。ほら」
桜の木の下のベンチを見ると、もう誰もいない。
3.エンジェルたち
千冬はキャンパスを一人で歩いている。
周りは他の学生が騒がしく、歩いたり、走ったりしている中。
千冬のいる空間だけ、まるでバリアが張られているかのように、
周囲に溶け込めないでいる。
斉藤は、ジュースの自販機の前で、そんな千冬の姿を追いかけていた。
「おい、どうした?」
秋山は斉藤に声をかける。
「あ、いや・・・。」
口ごもる斉藤を黙って見る秋山。
視線の先を探って行くと、
「あぁ、あの娘。ふーん。」
「今は無理だよ、ほら、どこで誰が見てるかわからないし」
斉藤は千冬を目で追いながら、秋山に言い訳がましく言う。
「まぁそうだな。オマエのエンジェル達が、潜んでるからな」
秋山は苦笑いしながら、斉藤に肩に手を置く。
斉藤は、ギョッとした顔で秋山を見る。
「きっと、またあそこで会えるさ。うん。」
まるで自分に言い聞かせるように、呟いた斉藤。
秋山をほったらかしで、スタスタと歩き出す。
(どうしたんだろう、いつものパターンじゃないな)
秋山は斉藤の後姿を見送った。
4.雨の日の図書館
(流石に、雨だし来てないよね)
6月に入り、雨の日が増え始めてきた。
千冬も色々忙しくて、2週間ぶりにこの中庭に来た。
桜の木もすっかり緑の葉が生茂り、晴れていれば、
居心地の良い、木陰を作っていただろう。
(図書館に行こう、返す本もあるし)
歴史ある建物の3階に、第一図書館がる。
ここはエレベーターも無いから、あまり人が寄り付かない。
本好きや調べ物がしたい学生が、数人いるくらいだ。
受付で本を返却して、ゆっくり本棚の間を歩く千冬。
「川崎さん」
後ろから千冬の名前を誰かが呼ぶ。
とっさに振り向くと、薄暗い図書館内に
光が浮かび上がる。
「え・・?」
「これ落としたよ」
差し出されたのは、千冬の学生IDカードだ。
「すみません。ありがとうございます・・・。」
「あ・・・。」千冬は驚いたように、目の前の姿を見つめる。
斉藤は本を数冊抱えニッコリして「やっぱり、この前の子だ」
「図書館の外で待ってるよ」斉藤はそう言って、
スタスタと受付に向かっていった。
千冬はその後姿を見送りながら呆然としていた。
(ハッ、いけない、ボーッとしてる場合じゃない)
斉藤は既に図書館から出て、廊下に立っていた。
「あれ?本は借りなくていいの?」
「はい、返しに来ただけなので」
「そっか、じゃぁ外に出ようか」
5.窓の外の雨
千冬は足早に、図書館を出て斉藤の後を追いかける。
(あれ?いない・・・。)
廊下に立ち止り周りをキョロキョロとしたが、斉藤の姿は見えない。
千冬の耳には、静かな廊下に響く窓の外の雨音だけだった。
耳を澄まして、足音や声が聞こえないか、何か音を探すように、
廊下を静かに歩き出す。
階段の前に差し掛かった時に、不意に目に飛び込んできた光に、立ち竦む千冬。
「ごめん!驚かすつもりはなくて・・・。」
斉藤は戸惑うように微笑む。
「あ・・・いえ、その」
千冬はそのまま黙り込む。
「ここは声が響くから、取り合えず外に出ようか」
千冬はその言葉に、ただ頷くだけだった。
「少し暗いから気を付けて。節電だとか人があんまり来ないとかで、
灯りが付いてないんだ。晴れてると、そこそこ明るいんだけどね」
「はい」
斉藤の穏やかな声に聞き入っていると、階段を踏み外しそうになる千冬。
「きゃ!」
「大丈夫?」
振り向く斉藤の腕につかまる。
「ご、ごめんなさい、あの・・・ちょっと鳥目っぽくて・・。」
千冬は急いで、斉藤の腕を離す。
「あは、そうなんだ、なんだっけな、ビタミンの何かが足りてないとかね」
「そうかも・・・です」
「じゃエスコートした方がいいかな」
斉藤は千冬の手を取り、階段を降り始める。
あまりにもさり気なく、手を取られたので、されるがままに手を繋いで一緒に、
階段を降りて行く。
一階に辿りつき、水浸しの中庭が見える。
「もう大丈夫だよね」
斉藤は笑って、手を離す。
「すみません、私鈍臭くて」
千冬は斉藤の手の温もりを惜しむように、ぎゅっと手を握り締めた。
「ちょっとくらいドジな方が、可愛いよ、って慰めにはならないか、ハハ」
斉藤の言葉に赤くなる顔を隠すように、千冬はうつむく。
「あ、そうだ、この前のいきなり、パン奪ってしまって、謝ろうと思って」
(そっか、そうだった、あの時こんなにも綺麗な男の人がいるんだって思って、
驚きの方が先で)
「いえ、全然、気にしないで下さい」
「名前も言ってなかったよね、俺」
そう言って斉藤は、ポケットから学生カードを出して見せた。
(斉藤俊弥、文学部、英文学科)
「サイトウさん・・・。あ、私は、」
「さっき学生カード見たから、川崎えっと」
「チフユです、千の冬と書いて」
「素敵な名前だね」
と言いながら斉藤の視線はあちこちに飛んでいる。
千冬は斉藤の視線の行方を追いかけながら、
「どうかしたんですか?」
「いや、どっか座れるところ無いかなって」
そうは言いながら本当は、エンジェル達がどこかに潜んでいないか、
心配だったのである。
6.天使という名の悪魔たち
不意に、斉藤の携帯のバイブが響く。
「出なくて良いんですか?」
斉藤はちらっと、画面を見る。
「出たほうが良いみたいだなぁ・・・。」
「はい、え、あ、そうだな、うんわかった」
手短に電話を切り、千冬に向き直り、
「せっかくやっと会えたのにね、呼び出されたよ、友達に。
もう行かないと。」
「あの・・・」
千冬は思わず、斉藤を呼び止める。
「私、ここに、この中庭によくいるので・・・。」
「うん、そうだまた会えるね」
千冬にとっては特別と思える笑顔で、
斉藤は微笑んだ。
「もう行かないと、またね」
軽く手を振り、急ぎ足で長め髪をなびかせ、薄暗い建物の中に消えていった。
そして、またあの光の欠片を残して。
千冬は思わず、その光の欠片をつかまえようと手を伸ばした。
ぎゅっと握り締めた掌の中には、斉藤の手の温もりと光の欠片が
残っているようだった。
(くそ、なんなんだ、図書館に通いつめて、やっと会えたのに)
「本多くん、なんか凄い形相でやって来たよ、我等の大スター様が」
秋山は茶化して、本多に耳打ちする。
「ありゃま、ほんとだ」
斉藤はムスッとしたまま
「で、何?」
「ほら、あれ」
と本多が指差す方向に、数名のデビル・・・いえエンジェルたちが、
斉藤たちを遠巻きに見ている。
「オマエの怒った顔見て、あそこまで逃げたんだけどね」
秋山はどっちに同情しているのかわからない顔で言った。
「オマエが、ずっと図書館に引きこもってるからさ、どうしたのかって、まさかね、
本当のことは俺の口からは言えないし」
本多は俺だって迷惑してるんだって顔で言う。
(そういえば、ここ数週間ファンサービスしてなかったか、って)
「俺にもプライベートはある!」
「スターは辛いよね~」と秋山はまた茶化して斉藤に嫌味を言う。
「うるさい!ほら練習するぞ!」
斉藤は練習場所に向かって、一人で雨の中を傘もささずに歩き出す。
「どうしちゃったの?斉藤君ってば」
と後ろから真っ赤な傘をさして、秋山と本多を呼び止める女性の姿があった。
「陽子さん」
「久しぶりっすね」秋山は破顔して言う。
7.太陽の陽
松田陽子は、秋山、本多、斉藤が組んでいるバンド『ブラネッツ』が所属している、
サークルの先輩である。
現在4年生であるため、就職活動の真っ最中だ。
とはいえ、バイトの関係で内々定はもらっているので、むしろそのバイトが忙しいようだ。
「どうしたの?斉藤君は」
「もうすぐ夏ですからね~」
本多はニヤニヤしながら、秋山と陽子から少し離れる。
「春が過ぎ、夏が来れば、暑いですよね」
「まぁそうね」
怪訝な顔で二人を見る陽子。
「俺たちが言うと、勝手に言うなって怒りますからね、アイツ」
秋山は、苦笑いで言う。
「じゃ直接聞くわ」
そう言って、スタスタと斉藤が向かった方向へ歩き出した。
「一緒に行かなくていいのか?」
本多は秋山を小突く。
「いや、良いよ別に。それよりほら、エンジェルたちも動き出したから」
「あの娘たちがいたら、ややこしいからな」
「止めに入るか」
数名の女子学生を呼び止める二人。
斉藤はいつもの練習場所で、一人ギターを練習している。
扉が開く音が聞こえ、
「おい、遅いぞ!人を呼び出しておいて・・・。」
「あ、陽子さん・・・。」
「久しぶりに来たら、なんだか荒れてるわね、まぁ珍しいことじゃないけど」
「別に荒れてなんか・・・。」
斉藤はひたすらギターを弾くのに集中している振りをしている。
しかし、間違いだらけで、おまけにチューニングがずれている。
「まぁまぁ落ち着いて、ね」
「アイツら、なんか言ったんですか?」
斉藤はやはりまだ、切れ気味に陽子に突っかかる。
「本多君と秋山君?ううん、何も聞いてないわよ、斉藤君が判り易いだけ」
とニッコリする。
8.天使協定
斉藤は、大きなため息をつく。
「俺って、人を好きになっちゃダメな人間なんですかね・・・。」
陽子は、斉藤の過去の恋愛を思い返した。
半年前、同じサークル内の一つ下の女の子と、良い感じになりかけた途端、
斉藤のファンから嫌がらせを受けて、その女の子はサークルを辞めることになった。
「あなたのエンジェルたちの愛は大きくて、深いのよね」
「俺の愛は、広く浅くって・・・それを求められても」
斉藤は雨上がりの空の光が差し込むガラス窓を、チラッと見る。
本多と秋山がやってくるのを見つけた。
「勝手に天使協定とかって決めて、俺の欲求不満を解消させましょうって、
一体何なんだろう」
「あぁ・・・。あなたにも選ぶ権利があるって事ね。でも選び放題じゃないの。
斉藤君のファンって綺麗な子多いし」
「うーん、そうなんですけどね。でも虚しくなるんですよね・・・。」
「好きな子でもいるの?」
「え?いや、まだ好きなのかどうか、わからないっすね」
陽子は斉藤の戸惑う表情を見つめ、あら結構本気かもねと思った。
ドアがガタガタと開く音がして、
「ほんと、ここのドアってうるさいよな」
「ちょっとコツがいるんだよな」
「この前斉藤なんか・・・」
「俺がどうした?」
むっとした顔で本多と秋山を睨む。
「いや何でも無いよ、ハハハ」
立ち上がろうとする陽子を目で追いながら秋山は、
大きな声で笑う。
「そろそろ帰るわね、練習のお邪魔しちゃ悪いし、
じゃまたね、みんな」
長い髪をなびかせながら、陽子はガタついた、ドアを閉めて、
部屋を出て行った。
9.ためらいの初夏
千冬は自分が真冬生まれだから、夏が、暑い夏が得意じゃないと思っている。
日傘に長手袋、長めのスカート。
こんな恰好をしていると、どこのお嬢さんだと思われることもしばしば。
おまけに、大学に通うために、居候している母方の祖父母の家は、この辺では
そこそこ、大きな家である。
祖母の晴子が玄関先で、
「千冬、水か何か持ったのかい?」
「あ、忘れた」
「ほら、これ」と晴子は、千冬にスポーツドリンクのペットボトルが入った袋を手渡した。
「ありがとう、おばあちゃん」
「気を付けて行ってくるんだよ」
「うん、行ってきます」
祖父母の家から大学までは、電車で一駅なので、自転車通学でも構わないのだが、
一人っ子で、一人っ孫の千冬は周りから過剰な心配をされて、自転車は危ないから
禁止されたのである。
時間的に言えば、自転車で通った方が早いのだが。
(そろそろバイト探さないと・・・。お母さんは過保護なのかスパルタなのか、わかんないよ)
昨夜、千冬の母の恭子から珍しく電話があり、
「千冬、アルバイトくらいして自分のお小遣いくらい稼ぎなさいよ」
(何突然、意味わかんない)
「あ、うん」
「あんたへの仕送り分は小遣いまで含まれてないんだからね」
「そうなんだ・・・。」
「おじいちゃんからお小遣い貰ってるだろうけど、だめよ」
「そうだね」
母親には逆らわない方が良いという事は、既に18年間で学習済みである。
色々考えている内に、千冬は駅に着いた。
(あれ?なんだろうこの人達は)
女性A「確かこの駅で見失ったのよ」
女性B「で、どっちに行ったのよ」
女性C「こっちだと思うんだけどね」
女性A「追いかけたんだけど、見失って」
(誰か探してるのかな、でもこの辺細い路地が多いから、初めてだと
分りにくいかも)
女性B「今日は講義があるから、ここから電車に乗るならもうそろそろ、
来るころだと思うのよね」
女性C「斉藤君ってそんな真面目だったけ?」
女性A「あは、そうだよね・・・。」
(斉藤・・・。まさか偶然かな、あ、ヤバイ電車がもうすぐ来る)
急いで改札を抜けて千冬はホームに向かった。
10.虹色の笑顔
千冬は午前中の講義が終わり、例のごとくまた中庭の、
桜の木陰で、真剣な顔をして薄い冊子を読んでいた。
桜の緑の葉がサワサワと柔らかい風に吹かれ、
光と陰を千冬に、映し出す。
どこからか、ギターと三声のコーラスが聴こえて、
千冬はページをめくる手を止めた。
(素敵な曲だな・・・。なんだか私のためだけって感じ。
なんて・・・・ね。)
数曲続いた後、静かになったと思ったら、不意に千冬の前に
影が出来た。
千冬はハッとして、顔を上げると、そこは逆光のに浮かび上がっているにも
関わらず、光り輝く斉藤の姿があった。
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」
「あ、いえ・・・。もしかして歌っていたのは斉藤さんですか?」
「うん、俺と他に友達、3人で」
「すごく素敵な曲だなと思って、聴き入ってしまって」
「ほんと、嬉しいな」
斉藤の笑顔がまた一段と光り輝く。
「隣に座ってもいい?」
「は、はい、もちろん」
「あれ、今日は本じゃないんだ」と千冬が手にしている、薄い冊子を見る。
「バイトを探してるんです、でも中々良いのが無くって」
「条件が厳しいのかな」
「私はなんでも良いんですけど」
「そうなんだ」
(お嬢様の後学の為の、アルバイトなら、まぁ難しいだろうな)
「実は母から、自分の小遣いくらい稼ぎなさいって言われて、仕送りしてもらっている身としては、
逆らえませんよね」
「一人暮らし?」
「いえ、祖父母の家に居候してます」
「おじいちゃんやおばあちゃんの条件が厳しいって事かな」
「そうなんです」
「良いところが見つかると良いね」
「はい」
「あ、そういえば、今朝駅で、斉藤さんかもしれない人を探している女の人たちを、
見かけましたよ」
「マジ?!駅って?どこの?」
「大学前の一つ先の公園前です。駅の改札出たところで、この辺で斉藤さんを見かけたから、
追いかけたけど、見失ったって言ってましたよ、斉藤さんって他にいるかもしれないですけど」
「たぶん俺だわ。その斉藤って」
(マジかよ、あの駅でも見られてたか、しばらくあの駅は使えないな)
「どうかしましたか?」
「あ、いや、ありがとう、教えてくれて」
「大学には電車で来てないから、良いんだけどね」
「おい、いつまで喋ってんだ」
秋山が中断しに来た。
「ごめんね~せっかく話してるのに」ニコニコしながら、本多が割って入る。
男3人に囲まれた千冬はすっかり萎縮してしまう。
「わかった、わかった、練習に戻るよ。じゃ、バイト見つかるといいね」
と斉藤は、右手をヒラヒラさせて、バイバイって歩き出す。
3人の後姿を見送って、ペコリと軽く千冬は頭を下げた。
11.後ずさる気持ち
「なぁ、斉藤くーん」と甘えた声で、肩をもみながら、本多は後ろから呼びかける。
「・・・・・・・」
「無視かよ」
「・・・・・・」
(こいつの、こういう態度で話しかける時は、ロクなことがない)
無視されてもめげずに、本多は斉藤に話しかける。
「さっきの子、可愛いね~、ねぇねぇなんて名前?」
「さぁ」
「知らない訳が無いよね~」
「さぁ」
「さぁって福原愛かよ!そういう態度なら、もうチューニングしてやんないからな」
斉藤は一瞬ギクっとしたが、ぐっと我慢して
「いいよ、別に。自分でするから」
「え・・・」
本多は思わず、斉藤の傍から離れて、近くにいた秋山に
「おい、今の聞いたか?え?あいつ自分でチューニングするって」
秋山は斉藤の横顔を見ながら、
「マジみたいだぜ」
本多に諦めるんだなと言った表情で肩をすくめてみせる。
斉藤は不器用そうに、一生懸命ギターのチューニングをしている。
他のグループのメンバーの一人がたままた、通りかかり、その斉藤の姿を見て
「うわ、珍しい!斉藤、何やってんだよ」
「いいだろ、たまには!」
斉藤はキレ気味に、相手に言葉を投げつける。
「大雨にならないといいけどな、明日」
(くそ、みんな、なんでそこまで言うかな)
「出来たか?」
秋山は痺れを切らして、斉藤に聞いた。
「あぁ」
「じゃあ、練習始めるか」
本多に声をかける。
ギターを弾き始めると、ワンフレーズ目から、調子っぱずれの音がして、
「斉藤、貸せよ、ギター」
「うぅ」
斉藤は唸って、ギターのネックを握りしめたままでいる。
「そんなんじゃ練習になんないし」
斉藤は無言で立ち上がり、ギターを抱えたまま、空き教室から飛び出そうとする。
ガタついた扉が中々開かなくて、扉をガンと蹴飛ばして、思い入り扉を開けて、
走り出した。
唖然とする、本多と秋山。
12.滴のキラメキ
千冬は講義が終わり、いつもの場所、中庭にやってきた。
校舎に囲まれた、四角い空は雨雲に覆われている。
(やっぱりお祖母ちゃんの言うとおりね、雨降りそう)
そう思った途端、大きな雨粒が音を立てて落ちてきた。
(あれは、斉藤さん?)
雨の中でもどこか光を放つ姿に目が引き寄せられる。
桜の下のベンチにギターを抱えて、雨に気づかない様子だ。
千冬は急いで、斉藤の元へ走り出す。
「斉藤さん!」
「え?」見上げた顔に雨の滴がキラキラ光る。
「えっと・・・あの・・風邪ひきますよ。それに楽器濡らしたらだめなんじゃないかと・・・」
千冬は斉藤の姿を直視できない感じで、傘を差し向ける。
「うわ、ヤバ!」
斉藤はいきなり立ち上がったから、千冬の傘を飛ばしてしまう。
「あ、ごめん!」
千冬は驚いたが、
「斉藤さん、早く濡れない所へ行って下さい!」
雨脚はどんどん強くなってきて、叫ぶように千冬は言い放ち、傘を取って、
斉藤の後を追う。
斉藤は濡れたギターを抱き抱えたまま、立ちすくむ。
「これ使って下さい」
千冬はタオルを差し出した。
「でも、君の方が雨に濡れて・・・」
「ギターでも体でも良いから、先に拭いて下さい」
千冬の有無を言わせない感じに、斉藤はたじろぎ、
「うん・・じゃ・・借りるよ」
千冬はポケットからハンドタオルを取り出して、濡れた髪を拭きながら、
斉藤の様子を伺った。
13.水色の溜息
「とても大切なギターなんですね」
「うん」ただひたすらギターを拭く斉藤が、なんだか幼い子どものように見える。
「アルバイトして初めて買ったギターだから」
「そうなんですか、そうですよね、何か目的があってバイトしたほうが
良いですよね」
「そう思うよ」
「はぁー、でもその大事なギター濡らすとは・・・、でもなんとか大丈夫そうだ」
「君が声をかけてくれなかったら、致命傷だったかもしれない。俺は風邪くらいで済むけどね」
ガタガタと音がして、部屋の扉がいきなり開く。
「あ、やっぱり雨だよ、明日じゃなくて、今日降ってる」
本多はニヤニヤしながら、秋山に向かって喋りだす。
「ほんとだな」秋山はちらっと、斉藤と千冬を見ながら、
「でも、ほらすぐ止みそうだよ」
四角い空には雲の切れ間が出来て、桜の葉を照らし始める。
「じゃ、私そろそろ帰ります」
「ありがとう。これ・・・」
タオルをどうして良いかわからないような顔をしたので、
「あ。良いです、そのタオル、粗品でもらった物だから、雑巾にでもして下さい。
じゃあ、失礼します」
と千冬は3人に向かって、お辞儀をして薄暗い廊下に消えていく。
斉藤はギターを抱えて、フラっと部屋に戻り、ギターをケースに戻す。
手にしたタオルを見つめているのを本多は、
「貸せよ、それ」とタオルを奪い取るようにして、
「洗ってきてやるから」
「うん」
「おまえ熱でもあるんじゃないのか、早く帰った方が良いぞ」
秋山は諭すように言う。
「うん」
斉藤はギターケースを持つと、ゆっくりと開けたままの扉を抜けて、
部屋を出ていった。
14.迷路への案内
翌日、いつものように秋山と本多は空き教室で、雑談しながらギターの練習をしていた。
「斉藤、どうしたんだろう」
昨日洗った白い薄っぺらいタオルが、ハンガーにかけられて窓から入る風に揺れている。
「さぁ、講義をさぼるのはいつもの事だしな、練習に遅刻するのもそうだし」
秋山はそう言いながら、気にしている本多の横顔を見た。
「電話かメールでもすれば?」
「そうだな」と本多はスマホを取り出したら、
「お、メールが着てた」
「斉藤からか?」
「うん」
<昨日は、ごめん。今日もごめん。風邪ひいてダルイ。休む>
本多は斉藤からのメールを秋山に見せて、
「だってさ」
「あ!アレンジ済んだ楽譜渡さないと」
「でも、今日バイトだろ?」
「そうだった!」
「どうしようか、早く渡して練習させないとダメなのにな~」
「まぁ一日くらい良いかな・・・。」
「おい、本多あれ」と廊下の窓から見える人影を秋山は指す。
ドン!ガタガタ、ガシャ!
いきなり扉が開いて、二人の男性が顔を出す。
千冬は立ったまま、声も出せずに、驚いたままだ。
「ごめんね~驚かして」と、ニコニコしながら本多は千冬に話しかける。
千冬は何を言ったらわからない様子で、二人を見つめる。
「お願いがあるんだけどね」ソフトな声で囁くように、秋山は千冬に、
満面の笑みで、話しかける。
「な、なんでしょうか・・・。あ、今日斉藤さんは・・・?」
「そうそうそれなんだよ。あのさ、あいつ風邪引いちゃって」
「え?そうなんですか?」
「うん、で、単刀直入に言えば、これをさ斉藤に届けて欲しいんだよ」
クリアファイルに入った紙を見せられる。
「これは?」
「今度ミニライブがあるんで、早く練習しないといけなんだけど、あいつはさ~」
「おい、本多そんなことは良いから」
「そうだった、また余計な事を言うところだった」
秋山が後を引き継ぎ、
「とにかく、今日渡す筈だった楽譜なんだけど、俺たちバイトでアイツん家にいけそうにないんだよ」
「で、代わりに持っていってもらえないかなぁ~なんてね」
15.迷路の途中
「え?」千冬は二人の顔を見つめ返す。
「あ、今から用事があるとか?」本多は慌てて聞き返す。
「えっと、そういうわけじゃないんですけど」
「大学から結構近いんだよ、ちょっとわかりにくい場所にあるんだけど」
そう言いながら、本多はスマホの地図アプリを見せて、
「ほらこの場所」
「あのぉ・・・」
「何?」秋山がじっと顔を見る。
「良いんですか?だって、これ個人情報っていうのじゃないかと思って、私みたいな
見ず知らずの相手に、教えてもいいのかなって・・・。」
「あぁ、大丈夫、君ならきっと!」
(う~ん、何の根拠があってそんなこと・・・。)
千冬は困ってしまった。
(でも場所を教えられた以上は、引き受けるしか無いのかな・・・。
困ってるみたいだし)
「わかりました、家に帰る途中ですし」
「おぉ~良かった!ありがとう!」大袈裟に喜ぶ本多。
「あいつには連絡入れておくから」
その間に秋山は、住所と地図を書いて千冬に渡す。
「出てこなかったら、郵便受けに入れておいたらいいからね」
「わかりました。」
「そうだ、ちょっと待って」本多が千冬が行きかけるのを呼び止めて、
「いまみ屋って知ってる?」
「はい、老舗の和菓子屋さんですよね」
「うん、あそこのね、プリンを買って持って行ってくれる?はい」
と言って、本多は千冬に千円札を一枚渡す。
「3個買えると思うし、よろしくね」
「わかりました、お釣りはまたー」
「良いよ、少ない駄賃だけど取っておいて」と秋山は言う。
「おいおい、人の金をなんだと思って!」
「今度お返ししますね」と千冬は思わず笑ってしまった。
「まぁいつでも良いよ、じゃあ頼むね」
「はい、行ってきます」
16.迷路の先に
千冬は帰り支度を済ませて、
中庭を抜けて第一図書館の入っている棟を裏手の門を抜ける。
(歩くなら、裏からの方が早いのよね)
大学前の大きな通りをしばらく行くと、いまみ屋が見えてきた。
千冬は言われた通り、プリンを3つ買う。
店のおかみさんが、千冬を見て声をかける。
「あら、確か鳥越先生のところのお孫さんよね、えっとなんて言ったかしらねぇ」
店の奥から、一人の青年が顔を出す。
「お、チーちゃんじゃないか」
「こんにちは、あ、お久しぶりです」
「そうそう、千冬ちゃんよね」
「はい」とにっこりほほ笑む千冬。
「そうだ、先生が言ってたよ、アメリカに行く前に、孫がうちの大学に入るんだって」
十四代目(仮)の青年は、和菓子職人らしからぬ風貌であるが、中々腕は良いらしい。
長髪の茶髪姿をあらためて、母親であるおかみさんは見て、
「相変わらずでしょ、この髪」
「職人さんの恰好じゃなかったら、バンドやってる人みたいですよね」
「でしょ、そういうの目指してるわけよ」とハハハと笑う。
奥から十三代目が「おい、ヒロキ!何やってんだ」
「あ、呼ばれた、じゃまた寄ってよ」
「はい」
「ごめんね、急いでたんじゃないの」
「あ、そうだった。じゃ失礼します」
千冬は「ありがとうございました」という店からの声も聞かずに、
足早に通りに出た。
いまみ屋から数メートル先に、左へ曲がると、自転車がやっとすれ違える程の、細い路地があり、
10メートルほど進むと、更に左へ曲がる路地が続く。カクカクとしたジグザグの道をどんどん進む。
(この辺ってホント楽しい。ユウ兄ちゃんとよく一緒に遊んだな)
兄ちゃんとは言っても、千冬の母方の叔父である。
(うーん、この先からはちょっとよくわかんないな)
と秋山から渡された地図を取り出した。
17.梅雨の晴間
斉藤は、部屋のベットの上で、ウトウトしていた。
(せっかく久々の晴れなのに、熱出してぶっ倒れるなんて・・・。)
手の中のスマホが突然鳴り響く。
「ん、なんだ本多か」
ぼんやりと、しながらメールを開く。
その文面を見ながら、
<アレンジした楽譜をいまみ屋のプリンと共に、お届けします。素敵な笑顔を添えて>
(うーん。何だコレ)
(あ、またメール、今度は秋山からだ)
<さっき本多が送ったメール、届けるのは例のあの子だから、よろしく>
「え?マジ」
(ってあの子って?まさか!)
斉藤は慌てて、そこら辺にある、Tシャツやデニムを引っ掴んで着替えて、
素足にスニーカーを引っかけて、ドアを開けながら、
「あっと、鍵はどこだ」
バタバタとしながらようやく、アパートの階段をドダドタと降りて行く。
大通りに出る、入り組んだ路地を小走りになりながら、
ようやく、道に迷ってウロウロしている千冬を見つけた。
「あ、斉藤さん」
少し息を切らした斉藤が、
「ごめん、あいつらが余計な事頼んで」
「帰る途中だったんで、それは別に構わないんですけど・・・。」
「けど?」
「斉藤さん、なんだか住んでいる場所を知られたくないのかなって」
「あ・・・。うーん」
「そうだ、風邪引いたんですよね、これ頼まれてたんで」
と千冬はいまみ屋のプリンの入った袋を差し出す。
「あっと、いけない肝心なのはこっちでした」
千冬バッグからクリアホルダーを取り出して、楽譜を手渡した。
「ありがとう」
少し疲れた笑顔を見せた斉藤に、千冬は
「私そろそろ帰らないと、じゃあお大事に」
と足早に斉藤から離れようとする千冬の手首を掴んだ。
18..薄明光線
千冬にとってそれは永遠とも感じられた、わずか数秒。
初めて会った時とは違う瞳だけど、何故か、前にも一度、
見つめられたような瞳に少し戸惑った。
「あ、ごめん」斉藤は千冬の手首を離し
(もっと触れていたかったのにな・・・なんて)
「あんまりこの辺うろうろしてると、また見つかっちゃいますよ」
「そうだね、じゃぁ本当にありがとう」
「はい、じゃお大事に、さよなら」
細い路地を消えていく千冬の姿を見送る斉藤。
千冬は振り返りたい気持ちを抑えて、大通りまで急いで歩く。
斉藤は足取り重く、アパートまで戻り部屋に入るなり、
無意識にプリンを食べ始める。
(そういえば、腹減ってるな、やっぱりいまみ屋のプリンはウマイ)
「ん?」
(そういえばこのプリン代って?まぁいいか、大学で会った時に返せばいいか)
開け放たれた、窓から見える雲の切れ間から、太陽の光が降り注ぐ。
柔らかな夕暮れの色で空を染め始めて。
千冬の顔をぼんやりと思い出しながら、何故あの時引き留めたのか、
その時の千冬の顔をどこかで見たような気がした。
プリンの味と共に。
19.宵待ち月
その頃、家路を急ぐ千冬も朱鷺色の空を見上げていた。
薄い白い月が浮かんでいるのを見つけると、斉藤に掴まれた手首の辺りが、
熱を帯びてきて、そっと自分の掌で手首を包み込んだ。
(風邪が早くよくなりますように)
白い月が輝きを増す前に、そっと千冬は祈った。
「ただいま~」
庭で花の手入れをしている祖母に声をかける。
「おかえり」
「あら、手ぶらね」
「何?」
「いまみ屋に寄ったんじゃないの?」
「あ、うん、買ってきて欲しいって人から頼まれただけだから、
また今度買ってくるよ」
「へぇそうなの、お友達?」
「うん、そんな感じ」
「今度紹介しなさいよ」
「え?」
にっこりほほ笑む祖母に千冬は無言になる。
(やだ、お祖母ちゃん、何か勘違いしてるかも、いや勘違いじゃないか・・・。さすが鋭い)
「ハハ、そうだね、また今度、でも同じ大学の人だから恐縮するかも、ここに連れて来たら」
祖父は千冬の通う鷹道学院大学の教授である。
今は一年という期間限定で、アメリカの大学からよばれて、客員教授ということで、不在だ。
20.サルビア
すっかり日も暮れた、その日の夜。
晩御飯の後の一服ならぬ、一杯の紅茶を千冬の祖母は欠かさない。
まだ千冬は、紅茶の入れ方を祖母からは認めてもらってないので、
練習中である。
真夏の気温が高い時でさえ、熱い紅茶である。
「今日は何にしようか」と、千冬は紅茶葉が入った缶を、
棚の前で、選びながら祖母に聞いた。
「そうね、今日は千冬の好きなのにしてみたら」
「うーん、アールグレイかな・・・。」
「なんだか疲れているみたいね」
「え?あぁそうかも」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、薬缶に入れる。
ガスレンジにかけて、沸騰する間に、ティーポット、ティーカップ、
ティーソーサー、茶漉しなど用意する。
基本的にストレートにで飲むため、スプーンや砂糖は必要ないが、
練習のため、それも用意する。
「ティーポットカバーを忘れているわよ」
「あ、ほんとだ」
練習の時は高価な食器は使わないけれども、普段使いとはいえ、
それなりの値段はするのである。
慎重にティーセットを食卓ではなく、小さなテーブルに運んで、セットする。
「今日はこれ入れてみたら」
そう言って祖母は蜂蜜の瓶をテーブルの上に置いた。
千冬は瓶を手に取り、
「へぇ、サルビアなんだ、珍しいね」
「お隣さんに頂いたいのよ」
蓋を開けると濃厚な甘い香りがする。
21.黒蜜
「あ、そういえば、わたしがいまみ屋に行ったの知ってるの?」
晴子は面白そうに微笑んで、一口紅茶を飲み
「ネットワークって言うのかしらね、今時は」
「え?」
「まぁね、時々知らなくても良いことを教えてくれる事もあるけどね」
「そっか・・・」
(人の目があるから、自分の行動には気をつけなさいって事か)
「あれ?」
「どうしたの?」
「黒猫が通った気がして」
「黄色い首輪してた?」
「うん」
「じゃお隣の、田上さんちの猫ね」
千冬はリビングの大きなガラス戸を開けて、庭に目を凝らす。
しばらくして、呼び鈴が鳴り、晴子はインターホンに出る。
「はい、あらまぁ、今も話してたんですよ、今開けますから、
庭に入って来て下さい」
晴子は玄関を開錠して、客を庭に招き入れた。
「夜分にすみません、うちのミッちゃんがお邪魔してないかと・・・・」
「こちらさっき話してた田上さんよ」
晴子はチ冬に挨拶するように促す。
「こんばんは、ミッちゃんって・・・猫ちゃんの名前ですか?」
「あらま、そうねいきなりミッちゃんって言われてびっくりするわね」
「本当は黒蜜って名前なのよ」
「素敵な名前ですね」
「そうでしょ、実は鳥越先生に付けて頂いたのよ」
「お祖父ちゃんが?」
祖母の顔を見る千冬。
22.金色の瞳
「ミッちゃんは、まだ小さい時にね、この庭に迷い込んできたのよ。
調度ね、先生の客員教授の話が出て、家じゃ飼えないからどうしようって思ってたの」
祖母の晴子は祖父の事をいつも先生と呼ぶ。
「でね、田上さんが飼っていた猫ちゃんを少し前に亡くして」
「そうそう、こちらから猫ちゃんの鳴き声が聞こえてきてね、あの子が戻って来てくれたんだと思って」
田上さんは少し目を潤ませている。
「亡くなったあの子は真っ白な子だったけどね」
庭の奥から、猫の鳴き声が聞こえた。
「ミッちゃん、ママはここよ!出てきてちょうだい!」
田上さんの呼びかけに答えるように、鳴きながら、
金色の瞳が近づいてくる。
黒蜜、ミッちゃんは一言
「みゃ」と短く返事をするように鳴いて、
座っていた田上さんの腕の中に納まった。
「ほんと、ごめんなさいね、お邪魔してしまって」
「いえいえ、いつでもどうぞ」
晴子と田上さんは、二人で話しながら玄関へと向かった。
千冬は、暗くなった空を見上げて、金色に光る月を見つめた。
23.歪む月
その頃、斉藤は貰ったプリンを一つ食べ終えて、もう一つ食べようか思案中だった。
テーブルの上にはアレンジされた楽譜が置いてある。
せっかく持ってきてくれたんだから、目くらい通さないとな。
楽譜を取り上げて、まだ少し熱のある目で、音符を追いかける。
その歌詞を軽く口ずさんでみたが、書き上げた時点では、
最高の出来だと感じていたが、今の心境ではどうも違うような気がしてきた。
熱のせいかもしれない。
明日また見て、違うようなら書き直すか。
少し開けた窓から入る風に、楽譜が少し揺れた。
窓の隙間から金色の三日月が見える。
熱で潤んだ瞳に、月は揺れてほんの少しだけ歪んで見えた。
24.Happy Monday
午前中の講義が終わり、千冬は秘密の中庭を抜けて、図書館へ向かっていた。
斉藤たちの練習場として使われている、教室から話し声が聞こえた。
気温が上がってきて、教室の窓や扉が開け放たれていて、風が通り抜ける。
そっと千冬は教室を覗き込む。
すぐに本多は気が付いて、
「あ!金曜はありがと~。道に迷わなかった?」
「ちょっと迷っちゃいました。」苦笑いをする千冬。
「迷ってたら、すぐ斉藤さんが来てくれて」
「へぇそうだったんだ。」
「あ、そうだお釣り、返さないと」
千冬は封筒にお釣りとレシートを入れて、本多に手渡す。
「いやいやご丁寧に」と本多は受け取る。
「お使いの駄賃だと思って、返さなくても良いのに」秋山は笑いながら、
封筒を本多から取ろうとする。
「おいおいせっかくー」
本多は言葉を切って「あれ?そういうえば名前聞いてないよね」
「俺たちも言ってないし」秋山も口添える。
「そうですよね、私カワサキチフユって言います。」
「俺はアキヤマヒロシ、こいつはホンダコウジ」
「チフユちゃんか~どんな字書くの?」
「おい本多、おまえいきなり馴れ馴れしい呼び方するな」
「いえいえ、大丈夫です、あ、千に冬って書きます」
「素敵な名前だね」
「斉藤さんにもそう言われました。あ、あの斉藤さんは?今日も・・・。」
「あいつは午後からの講義を受けてから後で来るよ」
「じゃあ、もう風邪治ったんですね」
本多は嬉しそうに微笑む千冬の顔を見ながら、
「今から、図書館に行くんじゃないの?」
「そうでした、本を返しに行かないと」
「また後で寄ったら良いよ、斉藤には言っておくから」
「そうします、じゃあ失礼します」
足早に千冬は教室を出いていった。
25.あなたのそばにいるだけで
千冬は図書館に本を返しに行った後、桜の木の下のベンチに腰掛ける。
新しく借りた本をなんとなく広げるが、耳は斉藤達が練習している歌を追いかけている。
風が木漏れ日を揺らすように、千冬の心も最近いつも揺れているようだ。
三人の重なり合った歌声にいつしか、うとうとし出して、本が手から滑り落ちる。
落ちた本の音に千冬ははっとし、
(気持ちよくて居眠りしちゃった)
ゆっくりとした動作で、落ちた本を拾い上げようとすると、
「なんだ、起きちゃったか」
と声がして、千冬の落とした本を持っている、斉藤の姿があった。
「さ、斉藤さん・・・まさか、ずっと見てたか」
「まぁ、5分くらいかな」
「そうですか・・・」段々声が小さくなる千冬。
(うわーーーーめっちゃ恥ずかしいんですけどー)
「練習終わったんですか?」
「うん、さっきね。」
「後で、寄りますって言ったのに、えっと、すっかり・・・」
斉藤はニコニコしながら、
「はい、これ」と本を千冬に渡す。
「ありがとうございます。」
千冬は受け取った本を大事そうに胸に抱きかかえた。
「あ、もう、あの、風邪は大丈夫ですか?」
「うん、この通り、すっかりよくなったよ、きっといまみ屋のプリンのおかげだね、ありがとう」
「いえ、私はただ本多さんに頼まれただけなんで・・・」
斉藤に見つめられて、落ち着かない気持ちで千冬は視線を逸らす。
斉藤は千冬の読んでいた本を見ながら、
「上村夏樹かぁ、そういや最近読んでないなぁ」
「この本すごく売れたから図書館になくて、やっと借りられたんです」
「そうだよな、なんか賞取ったり映画化されたりすると、図書館とかにないよな」
26.あなたの歌が聞こえた
「たくさん本を読まれるんですね」
「うん、昔の言い方だと活字中毒ってやつかな」
「だから、あんなに素敵な歌が作れるんですね」
「え・・いやぁそれほどでも・・・、いつも他の二人から駄目だしばっかりだよ」
「文章とか詩とかとは、違いますよね、歌になるには曲と合ってないとって感じですよね」
斉藤は、この子は文学的な話になると、饒舌になるんだと、意外な一面を知った。
千冬は斉藤が一瞬黙ったのを感じて、
「すいません、わかったような口きいて・・」
「純粋に、歌が良いって言って貰えるのが一番嬉しいよ、
こんなルックスだとさ、良い事ばかりじゃないんだよね」
「え・・・?」
目を伏せた斉藤の横顔を、見つめる。
(ビジュアルに惹かれる女の子は多いかも・・・、私だって・・・)
「ごめんよ、変なこと言って、コメントし辛いよね」
力なく微笑む斉藤にどう言えば良いのか、真剣に悩む千冬。
お世辞やその場限りで、取り作った言葉じゃなくて、今自分がどう感じているか、
心からの言葉を斉藤に伝えたいと思った。
「私、斉藤さんの歌も素敵だし、ルックスも素敵だと思います。
最初にルックスに惹かれたとしても、歌が良いって人もきっといると思います。
だって、私がそうだから・・・。」
(何言ってんだろう、私)
「ありがとう」
たった一言、柔らかい微笑みで斉藤は、千冬の気持ちを受け取った。
(うわ~~~~ヤバイ~~~どうしよう~~)
千冬は心の中でパニックを起こしているが、表情が固まったまま、
斉藤をひたすら見つめたままだった。
「大丈夫?」心配そうに千冬の頬をツンツンと、突く。
「え!わっ!」
「目開けたまま失神してるのかと思ったよ」
「で、ですよね・・・」力なく笑う千冬。
(マジで気失ってたかも・・・)
27.言葉にしたい天気
「斉藤君、可愛い女の子を苛めちゃダメよ」
二人が振り返る先に、両腕を前で組んで、半ば仁王立ちのように、
立っている女性がいる。
「陽子さん!違うよ!苛めてなんか・・・」
狼狽える斉藤を尻目に、陽子は千冬を見る。
「あら・・・」
「斉藤君、彼女ちょっと借りるわね」
陽子は千冬の腕を取り、ベンチから引きはがすように、古い校舎の奥へと、
引っ張っていく。
「え~~」
遠ざかる斉藤の抗議の声を無視して、
「ごめんね、いきなりじゃわからないわよね」
「は、はい・・・」
斉藤には声が届かない古い教室の中に、陽子は千冬と連れ立って、入っていた。
「鳥越先生のお孫さんでしょ?」
いきなりの問いかけに、千冬は無言で相手を見つめ返す。
「実はね、先生のアメリカ行きの壮行会の時にね、写真を見せてもらったのよ」
「私のですか?」
「そう、孫が同じ大学に入学するんだって、そりゃ嬉しそうに仰ってたわ」
「そうだったんですか・・・」
(お祖父ちゃんったら、私には自分の孫だと言わない方が良いって言っておいて)
「その場をすごく楽しんでおられて、お酒も入って、気分も良かったからじゃないかしら。
あ、でも心配しないで、写真を見たのはその時隣にいた、私だけだから」
少しほっとした千冬は安堵したのか、緊張が和らいだように見えた。
「その時にね、あなたは田舎から出てきて、都会の生活に慣れてないだろうから、
もし何かあったら宜しく頼むって仰られてね」
「すみません、祖父が酔っていたとはいえ、そんなことを言って」
「ううん、良いのよ、先生には色々教えて頂いて、お世話になったから、
何か恩返しが出来ることは嬉しいわ」
28.風を追いかける
「私の両親がね、大学の近くでカフェをやってるのよ、
鳥越先生はうちの常連のお客様でね」
「あ、そう言えば祖母がコーヒー入れるの苦手だからって、
家ではほとんど飲まないって、もっぱら喫茶店だって言ってました」
陽子はうんうんと頷きながら、
「私もね、店を手伝ってたんだけどね、色々忙しくなって、
新しいアルバイトを探してたのよ」
「単刀直入に言うとね、あなたのお祖母様が、この前お店に来られて、
アルバイトの話をしてたら、あなたをどうかって事でね」
「え・・・。あ、でもサービス業は苦手だし・・・。」
「断るのは、うちの店に来てからにしてみない?」
「そうですね・・。」
「じゃ今から来てよ」
「あ、はい。」
古い校舎の薄暗い廊下を陽子が千冬の腕を取って、歩いていくのを、
ぼんやりと中庭から斉藤は見つめた。
「陽子さん!どこ行くんですか?」
斉藤の呼びかけに、笑いながら、手を振り
「すぐわかるわよ~じゃあね~」
まるで風のような人だなと、千冬は陽子を追いかけるように、
歩いていた。
29.桜の実が熟した時
古い学舎から出て、正門を抜けるまで、何故か他の学生が振り返ってまで、二人を見ているのは、
陽子と千冬が女以外で共通点が無いせいだと千冬は感じていた。
こんな田舎臭い私にカフェのアルバイトが勤まるのだろうかと、千冬は不安になった。
陽子の長い髪が動く度にふわっと揺れるのを千冬は見て、私には似合わないんだろうなと、少し悲しい気持ちになった。
大学を出て、塀沿いに10分ほど歩いて行くと、見覚えのある建物が見えた。
「あなたも来たことが有るでしょ」
その店はカフェというより、昔ながらの喫茶店に近い造りをしている。
光の欠片