practice(153)




 つむじが見える段差から,伸ばされた腕の先にさっき買ったポテトのかたまりがあった。
「んっ。」
 という程度でもぐもぐしている様子の背中の彼女は,それを僕にくれるらしい。しかしそれが何本なのか分からない。無難な判断でいけば,勿論一本だろう。良いキッカケにもするなら。でも僕は二本取った。取りやすいところが無かったから,ポテトを収めるケースをちょっと揺さぶって,それを手に持つ彼女に手伝ってもらった格好になった。塩がぱらぱら落ちていった。保温が効いていて,歩いて5分後でもアツアツだった。朝の冷えた空気の下で,ホクホクだった。お腹も空いていた。
「ありがと。」
 一口目を飲み込んでから言った。食べ続ける返事はなかった。食べ続けて待った。コンビニの袋がカサカサ開いて,ドンと置かれたお茶が現れて,キャップは一度も捻られていなかった。それの頭を摘まんで,ぶらんと勢いで落としそうになって,本体を掴んだ。泡が小さく固まって,隙間を作ってひとつは消えたのかもしれないけれど,あとは喉を通った。口の中に残る苦味は易しく,多分CMで『歌われて』いる通り。全部は一気に飲めない。
 旋回がぴーひょろろ,はしゃいでもっと後ろに去る。慎重に寝っ転がっても,階段の上からではそこまで追えない。もう,本殿の屋根を超えたあたりだろうし。
 素直に冷えた二本目をじっくりと咀嚼して,彼女の肩掛けカバンの色に目を落とす。水色の軽さ,デザインみたいに太く歪んだ文字が目一杯にバッジに描かれて,赤や黄色や茶色でカラフルに目立つ。マジックテープで簡単な閉め方が,ときどき開かれて,真四角の一枚のジャケットを見せる。
 借りる予定だった。テキストに挟まれて,バレないように口ずさむか。わざとらしく声を掛けるか。思い出すBGM。ぺりっと剥がれるマジックテープは,よく袖口長めのニットを巻き込んだ。



 雑誌の合間を縫うように,蛍光マーカーで線が引かれる。がたごとした厚いテーブルの上でするその作業は,順調に行われていく。キャップは閉められ,また読まれていく。すでに亡くなったミュージシャンの対談記事が組まれたそれは,その女性が,店頭においてバックナンバーで購入したものであり,今開いて読んでいるものの他に,マイナーな別シリーズものも含めて十冊ばかりが,椅子の上で待機している。これから待ち合わせまで,三十分強はある時間を入った喫茶店の片隅で過ごすと決めた女性は,真剣そうに,しかし楽しそうに指でやり取りを追い,キャップを開け,『きゅーっ』という音をさせて記事を切り取り,最低限のものを収めた筆箱から出した付箋紙を剥がし,書き込み,読み終えたところに重ねるように指で押して,貼る。カチッと閉められて,黒いアイスコーヒーがストローをころんとさせて暇しているのを,女性は見つけて飲みはするけれど,内側の上部にベルが備え付けられたドアを気にしては,すぐに手元に目を落とす。隣の椅子の背もたれに掛けられた薄手のコートに,冬場を凌ぐために使ってきたマフラーは長く乗せられて,さっきの十冊,丈夫な紙袋に入れられてあるものの他に,小さいものを隠す。
「買ったんだ?」
 と聞こえる別のテーブルで交わされる会話に,少し反応するような女性の仕草には,注文されたもの運ぶウェイターが重なった。熱々の湯気と匂いを嗅いで,注文をした男性のお腹がきゅーっと鳴った。時刻は山を登り始めたところ,外からも見える店内の様子の中で,男性と対面する,別の彼女がくすっと笑った。
 


 撮影に必要な器材を苦労して両手に持ち堪えながら,信号待ちをする二人には何の心配も要らない。額に汗を浮かばせながら,言葉もなく,じっと前を見て,ようやっと訪れた晴れ間を意地でも逃さないとばかりに,どこにも無いスタートラインを設定して,目配せし,動きやすいようにと同じショップで買い揃えたスニーカーの固い結び目を密かに揺らして,ぐっと足元に力を込める。点滅するまでの間,二人のストラップは踊っていた。そのキャラクターを知らない子供が不思議そうに,真後ろから,手を繋いで見ていた。

 

 長い長い境内を歩く。かたからかけない,水色のカバンと,軽いポリ袋。
「ほら,旋回。」
 と言っても,もう見えない。案の定,
「もう見えないじゃん。」
 というお言葉。



「すいません。」
「いえ,では,お願いします。」
 行き先の都合がいいということに加えて,事情を話し合ってみれば,先方を待たせてしまっているという点でも共に切迫した状況にあった。だからようやく停めることが叶った一台のタクシーに乗り込んで,彼が先に降り,彼女が最後まで乗り続ける。彼は運転手に,彼の目的地までの運賃を大体で教えて貰い,足りなかった場合のことも考えて,少し多めに彼女に渡すことにした。彼女は最初それを拒みはしたが,先に停めたのは彼女であったのだから,と聞くとすんなりそれを受け取った。では,と彼女がまた言った。それからしばらくタクシーは下手な渋滞に捕まることもなく,順調に走っているが,会話はない。後部座席の右と左に身を寄せて,それぞれ外を眺め続けている。段々と陽が落ち始めていることと,トンネルも少なくないということで,流れる光景を見ている後ろ姿が,自分の近い顔と写り込んで中々去ったりしない。彼はジャケットの襟元を整えたり,時計を付け直したり,髪を気にしたりすれば,あとは頬杖をつき,することがなくなった。彼女の方も,身嗜みを整えるという点で彼よりすることが多かったであろうが,開け閉めを何回か繰り返した革のバッグの金具を動かさず,後ろに束ねた髪を留めて,じっと見ている。互いにそっぽを向いたような形のまま,運転手がたまにする強めのブレーキに押されて,踏ん張ることを何気ない顔でするだけだ。三車線の真ん中で,右側車線の速い姿を忘れて,お喋りがあれば気にならない程度に調整されたラジオに,感度を上げている。音楽はじんわりと流れて,時刻はきちんと伝えられる。声だけのCMに入れば,ある歯医者の予約がしやすいことに加えて,特番の早口なお知らせ,眠気覚ましのガムの刺激に,肝心なことが聞き取れなかった電話番号が二度告げられる。ライトがだんだん増えて,番組がまた始まることを知らせる,短い音楽が入り込む。まだ着かない目的地のことは,考えていなかった。
 男性の方が伝える,渋滞情報が飛び込んできたのを知るまでは。
「こりゃ,良くないですね。」
 運転手もそう言い,ボリュームをひねって上げた。
 フロントガラスの向こうに広がる車の流れが,ゆっくりと,ゆっくりと落ちている。これが原因と思えないが,関係ないとも思えない。前方の車のリアガラスに吸盤とメッセージボードを掲げる人形の大きな胸ボタンまで,はっきりと見えてくる。『車間を守ってね』と可愛らしい文字で彼らに訴えてくる。
「大丈夫ですかね?」
 と彼女が前に身を乗り出して,運転手に向けた顔のままで,言った。
「どれくらいになりそうですか?」
 と彼も後部座席のシートから背中を離し,本人も気にするところを具体的に聞いた。
「およそではありますが,追加十五分。上手く抜ければ最低で,というところですね。」
 運転手はギアを入れ替えながら,素早く彼らに答えた。車はじっと進んで,すぐに停まった。
 後部座席のシートに背中から戻り,音にならない不安とため息の下で,彼は時計を振り回して,彼女はバッグの中から携帯を取り出して,何もせずに収めた。屈んで,ハイヒールの踵をいじる。夜の光景になりそうだった。
 彼女がぐっと戻って来る。横を向く。写る彼と目が合い,本当に彼の方を向いた。
「大丈夫ですか?」
 彼女は彼に聞く。
「そちらは,いや,そちらも,というべきですか。」
 彼は仕方なく苦笑いをした。
「怒られます。きっと。」
「僕もです。」
 それから車は進んで,また停まった。
 


 彼が彼女の言わんとしていることで,彼自身は気にしていることを運転手に聞いた。



 残り五分前。
 口の中で転がして,蛍光マーカーのキャップとともに,雑誌を仕舞い込んだ女性は喫茶店のカウンター席を丹念に拭いていた店員に声をかけて,空いたグラスを下げて貰い,代わりにメニューを持ってきて欲しいと伝えた。その店員は分かりましたと頷き,布巾をカウンター席に置いたまま,奥へと引っ込み,すぐに現れた。新しいお冷と,丈夫な感触を与えるメニュー。厚紙の頁を開いていけば,くたびれた見た目の,ところどころにも気付く。載っている食事も期待通りのもので,大きいお皿のピラフとか,トースト付きのナポリタンもある。それを喜ぶ女性は,座席側に控えて待っていた店員に声をかけ,その店員が伝票と鉛筆をエプロンの前ポケットに入れ,カウンター席に戻っていく間に,女性はメニューの隅々を見て,隅々を通り過ぎた。
 ドアの内側の上部に備え付けられたベルが鳴る。さっきの店員が顔を上げ,女性は顔を上げない。
 ソフトドリンクまで見た後,女性はテーブルに備え置きの,ランチタイムに関するお知らせに顔を向け,『平日限定』の文字に残念がって,またメニューの最初に戻った。一枚,一枚を丁寧に捲る。途中,手が止まったのは女性の食べたい物が決まったからで,手が動き出し,指で比較する仕草を見せたのは,待ち合わせの相手の事を考えて,その女性が珍しく迷ったからだった。
 あれがいいかな,これがいいのかな。
 口ごもるように,女性は迷う。甘いデザートまで頁をぱらぱらと捲って,しばらくして女性は決めた。さっきの店員を呼ぶ。
「これと,これを。」
 お願いします,と言い切れなかった女性は,店員の注文確認に応じながら笑みを浮かべようかと迷い,口元をきっとして,結局止めてしまうことにした。店員の会釈には応える。それでいいと思った。
 女性はお冷に口をつけ,コップを置き,窓の外を眺める。残り五分前。蛍光マーカーはでこぼこしたテーブルの端っこに寄せられ,付箋紙は女性のコートのポケットへ。長いレシートも一緒に。鏡も現れ,ちょっとして,かちっと片付けられた。
 両肘をついて,背筋を伸ばした女性は,もう一度外を眺める。すぐに戻って来て,店内を興味と散策する。扇風機みたいに回る大きな換気扇に,紐状の金具がぶら下がっていて,女性はかちかちと口にする。
 五分前。カラランと鳴る。



 頬杖をついた。欠伸が付く。


 




 

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-22

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