君の手を 第12章

 やりたいこと、やり残し、心残り。

 そんなものじゃない。そんなに深刻じゃない。

 ただ、ちょっと、気になるだけだ。だからもし、今すぐに連れて行かれたって構わない。

 構わないけど……。

 翌日、どうにもスッキリしない気持ちのまま学校へ行き、すぐに図書室に向かった。窓の外から早瀬さんがいるのを確認して、でもそこには入らず、すぐに離れた。なんとなく、同じ場所にいづらかったんだ。

 だから僕はサッカー部を見に行った。もう、見ないでおこうかとも思ったけど、やっぱり、気になる。西のこととかもそうだけど、何より、中野がどうなったのかが。

 サッカー部は基礎練の最中だった。僕はすぐに中野の姿を探す。……いた。いたよ。すぐに見つけた。普通に練習している。

 ユース、断ったんだろうか。僕はてっきり行くものだとばかり思っていた。元々ユース志向のあった中野がここに残る理由は無いはずだ。それなのに、あの時の話なんかまるで無かったみたいに、香川とも普通に接している。

(いいのか? お前、本当にそれでいいのか?)

 僕は釈然としないものを抱えながらその後も練習を眺めた。10時過ぎに竹中が来た。やはり、変わった様子は無い。中野に声を掛けたりもしない。本当に、本当に中野は断ってしまったのだろうか?

 その後も何も変わった様子は無く、普段どおりに進んでいった。あまりにも普段どおりに。もちろん、だからといって中野がユースに行かない、という理由にはならない。あれから二日経った。そのあいだに結論は出て、それが受け入れられて、それで普段と変わらないように見えるだけかもしれない。ユースに行くにしろたぶん、すぐには行けないからとりあえずまだここにいるだけかもしれない。でももし、本当に中野がユースに行かないんだとしたら――。そう考えると落ちつかない。

 どうやら僕は中野にユースに行って欲しいらしい。なぜ? さあ、理由はよくわからない。

 それに気づいたのは、ミニゲームが始まって少ししてからだった。中野がビブス組にいたんだ。ビブス組はサブのメンバーのはずだ。変わったのか、とも思ったが、違う。香川は何も着てないし、他のレギュラーメンバーもそっちにいる。西も。

 なぜ、中野がサブに? レベルを合わせるため? いや、いままでにそんなことした覚えは無い。それに、レベルを合わせるなら完全にシャッフルするはずだ。中野だけがサブ組にいるのは明らかにおかしい。

 ひとつ、仮説が浮かんだ。やはり中野はユースに行くんじゃないのか? だから中野をレギュラー組からはずしているんじゃないのか? もうすぐ、いなくなるから。そんな気がする。うん、きっとそうだ。

 鼻から息を吸い込み、天を仰ぎ、それから頭を戻しながら、ふー、と息を吐いた。ただの思い込みかもしれない。僕がそう望んでいるから、都合良く解釈しているだけかもしれない。それでも僕は確信した。中野はユースに行く。ユースに行かないはずないんだ。あいつは僕より純粋にサッカーが好きだ。あいつなら、もしかしたらプロにだってなれるかもしれない。

 うん。よかった。よかったよ。それでいいんだ。

 そのとき、ボールがこちらまで、浮かんでいる僕の足元まで転がってきた。

 ……。

 僕はスッと下に降り、ボールの前に立った。軽く右足を振りかぶる。そしてボールを蹴った。確かに、蹴った。でも、ボールは転がっていかず、そこに止まったままだった。僕は苦笑する。

 そこへ、中野が来た。中野は僕の足元にあるボールを取った。すぐに振り返り、それを蹴った。ポーン、と放物線を描きそれは飛んだ。そして中野は走り去る。僕は思わずその背中に声を掛けようとして、止めた。

 ミニゲームをもう少しだけ眺めてから僕は図書室へ向かった。


 桜の木の枝に座り、図書室の中を眺める。正午までは後10分もなかった。早瀬さんはやはり本を読んでいる。

 宙に浮いた右足を、ぷらぷらと前後に振ってみる。そばにある葉っぱを蹴ってみる。するりとすり抜けて少しも揺れはしない。

 …………。

 正午の鐘が響いた。今日は誰が来るだろう。弟くんか、長谷川さんか。誰も来ない、という可能性もある。むしろ、それが一番高い気がした。

 そっと図書室の中へ滑り込む。僕と早瀬さんを隔てていたものが無くなる。早瀬さんはもちろん僕が入ってきたことには気づかない。

 やはり、居心地が悪い。息苦しさを感じる。心臓をゆっくり握りつぶされているようだ。なんで? 昨日は平気だったのに。見ているだけで、同じ場所にいるというだけで、なぜこんな気持ちになっているんだ。

 5分経過。早瀬さんはまだ本を読んでいた。やはり誰か来るんだろうか。それなら、早く来てほしい。

 いっそ、一人で帰ってしまおうか。そのほうがきっと楽だ。でも、体は金縛りにあったように動かない。そりゃそうだ。本心ではここから離れようなんて微塵も思っちゃいない。

 早瀬さんから、目が離せない。

「結衣っ!」

 声と同時にバンッ、と大きな音を立てて扉が開いた。僕も、早瀬さんもビックリしてそちらを見た。そこには、膝に手を当て、ゼエゼエと大きく息をつく長谷川さんがいた。

「っん、ハァハァ。……よかった。まだ、いたーっ」

「まこちゃん……」

 長谷川さんは何度か深呼吸し、カウンターへ歩き出した。早瀬さんは、困惑したような、なんとも言えない表情でそれを見ている。そして、カウンター越しに二人の目が合った。しばしの沈黙。僕は二人のそばへ移動する。

「……そっちからは、来てくれないと思ってた」

 ぽつり、と独り言のようにつぶやいた。もしかしたら本当に独り言だったのかもしれない。
何か言いかけたのか、長谷川さんは口を開き、でも閉じた。その顔は怒っているような、泣き出しそうな、複雑な表情をしていた。

「どうして来てくれたの?」

 また長谷川さんは口を開きかけ、閉じた。怒り出してしまいそうな自分を抑えているように見えた。不用意な言葉でまた怒鳴り散らしてしまわないように。

「……どうしてだと思う?」

 それでもそこには怒気みたいなものが滲んでいた。早瀬さんの眉がキュッと真ん中に寄る。そして黙って首を振った。泣くかもしれない、と思った。

「ホントは、しばらく来ないつもりだったの」

「……うん」

「だから、しばらくは廉に行ってもらうつもりだった。……一人で帰すのは、その、ちょっと心配だったから」

「……うん」

「それで、昨日は、私ひとりで帰って。でも、気が付くと、考えてた。……結衣のこと」

 うつむいていた顔が上がる。反対に長谷川さんは気まずそうに視線を逸した。

「あの時のこと、何回も思い出してさ。その度に、考えた。何度も何度も考えたの。あの時言ったことは私の本心だから、撤回するつもりは無い。でも、あんなふうに、勢いに任せて言っちゃったのは、その、ちょっと大人げなかったというか、考えが足りなかったというか――」

 僕はこんなに歯切れの悪い長谷川さんは見たことがなかった。何事もあっさりと、クールにこなすイメージしかない。他人にどう思われようと自分の思うとおりにやる人だと思ってた。

「全然、結衣のこととか、考えてなかったっていうか、そういうのも、わかってたから、ホントは言うつもりなんてなかったのに」

 それがまるで、叱られる前に言い訳をする子供みたいになっている。

「だから、その、私も良くなかったなーって、思って」

「そうなの?」

「……うん」

 長谷川さんに、そんな態度をとらせることができる早瀬さんって、ホントどういう関係?

「でも、私間違ったことは言ってないつもりだから」

「……うん」

「だから、謝らないよ」

「……そっか」

 そっか、ともう一度小さくつぶやいて、長谷川さんをまっすぐ見て、少しイジワルな頬笑みを浮かべた。

「私も、自分が悪いとは思ってないから、謝らないよ。いい?」

 そのときの長谷川さんの顔を、なんと表現すればいいのか。いろんな感情を濃縮させて、それを青汁に混ぜて飲んだ後みたい? だった。

「……うん。わかった」

 それを聞き、早瀬さんは笑った。それを見てようやく長谷川さんも、ほっとしたように表情を緩めた。


 それから二人はいつものように並んで帰った。でも、長谷川さんはまだ少しギクシャクしていた。それに対し、早瀬さんはなんだか少しはしゃいでいるように見えた。

「あ、猫だ」

 校門を出る手前、桜並木の脇の垣根から猫が一匹出てきた。人に慣れているのか逃げようとはしない。それどころか早瀬さんたちに近づいていく。どこにでもいるような白と黒のブチ猫。だけど僕はその猫に見覚えがある気がしていた。

 早瀬さんの足元に来た猫は甘えたような声を上げ、彼女の足に擦り寄った。早瀬さんはうれしそうにしゃがんでその猫を撫でた。のどの下を触るとグルグルと気持ちよさそうにしている。

「……あの時の猫かな?」

「あの時?」

 早瀬さんは何も答えず猫を撫で続けた。それが気に入らなかったのか、猫はするりと抜け出しどこかへ行ってしまった。それを見送ってから立ち上がり、うつむいたまま寂しげに笑った。

「有沢君がね、撫でてるのを見かけたことがあるの」

 とたんに長谷川さんの顔が不機嫌になった。ついさっき殊勝な事を言っていたが、やはり僕の名前が出るのは気に食わないらしい。それもしょうがないかなって思うけど、こうも目の前であからさまな態度を取られるとさすがにムカつく。長谷川さんの様子に苦笑しながら、早瀬さんは続けた。

「この前の期末テスト期間中にね。帰ってたら、有沢君がいて。それで、妙にキョロキョロしてたの。周りに誰かいないか確かめてるみたいに。それがなんだか、これからいかにも悪いことをしますって雰囲気だったから、ドキドキしながら見てたの。そしたら――」

 そこでまた笑った。今度は堪えきれない、という風に。

「そしたら、垣根のほうに、寄っていくから、何かと思ったら、猫がいたの。その猫の前にしゃがんで、そっと手を伸ばして、撫でたの。うれしそうに、笑って。でも、猫はすぐに逃げて。有沢君、しょんぼりしてた。で、その後、たぶん私を見つけたんだと思う。あわててそこから離れて、帰ってったの」

 ……見られてた。やっぱり、見られてたんだ! しかも、それが早瀬さんだったなんてっ!!

 僕は顔から火が出るかと思うほど恥ずかしかった。早瀬さんはおかしそうに笑いながら眼の端をぬぐった。

「何も、逃げなくたっていいのにね。見られたって、全然大丈夫なのにね」

「……自分のキャラじゃないとか、そんなこと考えてたんじゃないの。どうせ」

「……そんなの、気にしなくたっていいのにね」

 僕はもう恥ずかしすぎて逃げ出したかった。逃げ出したいほど恥ずかしかったけど、でも、なぜかうれしくもあった。早瀬さんに、そう言ってもらえて、うれしかった。

 桜の葉がザワザワ鳴った。二人の髪の毛が乱れ、風が吹いているんだとわかった。軽くスカートを抑える仕草をかわいいと思った。

「今みたいに、思い出すの。ちょっとしたきっかけで。そのたびに、ああまだ好きなんだなーって、少しうれしくなって、その後、少し寂しくて、悲しくなる……。だからね、まこちゃんが言いたいこともわかるの」

 また早瀬さんは笑った。そして早瀬さんが笑うたびに長谷川さんの顔は険しくなっていく。

「やっぱり、忘れたほうがいいよ……」

 だが早瀬さんは首を振った。

「辛くなるときもあるけど、でも忘れたいと思ったことはないの。一度もない。むしろ、忘れたくないって思う。でも――」

 そのときの早瀬さんの顔を見て、僕は嫌な予感がした。

「思い出にしなきゃいけないのかな、とは、思う。そうしないと、いつまでもここに止まったままになっちゃうから……」

 うつむけていた顔を上げ、長谷川さんを、いや、僕を、み、た――?

「だから、ありがとう」

 その瞬間の、晴れやかな顔。まるで雨の後にそれを栄養にして咲く花みたいに、笑顔が咲いた。

「べ、別に、あたしは結衣が元気になってくれれば、なんだっていいよ」

 再び歩き出した二人を、僕は追いかけることができなかった。


 冬の雨の夜に、濡れながら誰もいない街の中をさまよっているような気分だった。どこに行こうとか、考えていたわけじゃない。でも気がついたら、僕は映画館の前にいた。まるで家にでも帰るように自然と足が向いていた。そう思うと笑えた。そのうち、ここは「出る」って噂が立つんじゃないかな。

 暗闇の中に身を預けると、少し落ち着いた気分になった。いかにも幽霊っぽいな、と思うと顔の筋肉がいびつに歪んだ。

 さよなら、を言われた気がした。

 あの瞬間、彼女に僕が見えていたわけはないし、あの言葉も、僕へ宛てられたものじゃない。でも、あれは別れの言葉だった。僕から、離れていくための言葉だった。

 僕を、思い出にすると彼女は言った。そうしないと、止まったままだ、と。

 それならいつか、僕についてふれられたとき、言ったりするのだろうか。安っぽいドラマか何かみたいに。「彼は私の中に思い出として生きている」なんて。

 ……そんなの。

 そんなの、何になる。……何にもならないよ。それに、それはもう、生きてない。終わってる。

 死んでるよ。そんなの。

 スクリーンには喧嘩をしている男女が映し出されていた。激しく言い争いをし、女のほうが男に掴みかかる。胸を叩く。そして、泣き出した。

 ……チッ。恋愛映画だったか。

 僕は別の、客が一番少ない映画に移動した。この前見た、どこの国のものかもわからない映画。このぼそぼそとしたしゃべり方は、もしかしたらフランス語かもしれない。

 ……僕は、嫌なのか。

 思い出にされるのが。

 早く忘れてしまえばいいと、思っていたはずなのに。

 それなのに、こんなにも気持ちが沈んでいるのは、それを目の当たりにしたからか。それとも、早瀬さんに言われたからか。

 ……。

 ……これで、いいんだ。……いいんだよ。……いいはずなのに。

 こんなにも気持ちが沈んでいる。

 なんで、何でこんなに――……。


 結局、僕はその日の残りを映画館で、そこで過ごした。膝を抱えうつむいて、ただ時間が過ぎ去っていくのを待った。もしかしたら死神が来るかもしれないと思ったが、姿を見ることは無かった。

 今日の上映を終え、人が出て行くのを見るのが心地よかった。誰もいない場所に独りきり。明かりも消え、完全な暗闇の中にあっても、少しも怖く無かった。それどころか、開放感さえあった。安心できた。僕以外には誰もいないというのが、こんなにも心休まるなんて。いよいよそちら側に傾いているのかもしれない。


 目が覚めてもそこは暗いままだった。僕が本当にそこにいるのかもわからない闇。このまま溶けてしまってもかまわない気がした。

 それなのに、しばらくすると明かりがついた。すると急に居心地が悪くなった。夜行性の動物がいきなりライトを当てられたみたいにあせった。広い部屋にひとりきりで、周囲に人がいないことが急に心細くなって外へ出た。

 外には人がいた。当たり前だけど、そのことにほっとしていた。時計に目をやると、9時前だった。あと一時間もすれば映画が始まる。またあそこに戻れる。そんなことを考えている自分に苦笑する。昨日から、苦笑してばかりだ。

 学校へ行く気は、全然湧かなかった。

 太陽の下は、思ったほど居心地は悪くなかった。昨日は日の光を浴びると蒸発して消えてしまうような気さえしてたのに。それでも何か、自分の居場所はここじゃないような、そんな感覚はあった。

 10時になり映画館が開いた。僕はすぐに入った。少し気持ちが回復したのか、映画を見てもいいなって気になっていた。ただ、あまり真剣に見る気はなかったから、アニメを見ることにした。そのアニメはテレビでもう何十年もやっていて、毎年映画化されている。僕も小さい頃はテレビで見ていたし、映画も何度か連れて行ってもらったことがあった。それこそ小学校の低学年以下の子供が見るようなものだった。

 だから何も期待していなかった。それなのに、この前見たハリウッド映画なんかよりよっぽどストーリーもしっかりしていて、たぶん、懐かしさもあったと思うけど、不覚にも泣きそうになった。くそっ。こんなつもりじゃなかったのに。

 こうなったら、残りの映画も全部見てやろうって思った。それで次に選んだのは、ポスターを見る限り、コメディぽい感じの、僕の好みに合いそうなものだった。

 客入りも上々で、さらに期待が高まった。面白いかな、どうかな、って純粋にワクワクしながら始まるのを待った。

 その人は、少しだけ落ち着かなそうにキョロキョロしながら、僕のいる位置から3列前の、中央からやや右よりの席に座った。チラッとだけ見えた横顔に見覚えがあった。まさか、とその後頭部を凝視した。やはり、間違いない。何度も見てきた後頭部だった。

(早瀬さんだ……)

 何で、こんなところに? ……いや、そりゃ、映画を見に来たんだろ。

 ……いやいや、そうじゃなくて。これは、偶然? もちろん、そうだ。偶然以外のなにものでもない。意味なんて、ない。

 でも、そんな冷静な見解を差し置いて、僕の頭に「運命」って言葉をちらつかせるには充分すぎるタイミングだった。

 あまりにも突然で、不意打ちだったから、心構えなんか全然できてなかった。する必要もないのに意識して、オロオロして、ギクシャクして、ドキドキした。不必要に周囲を見渡してみても、何も見つかるはずもなく、もとより何かを見つけるつもりでもない。まったく無意味な行為。もちろん、自分の格好とか、髪型とかを気にするのもまったく意味が無い。

 落ち着く暇もなく開始を告げるブザーが鳴る。明かりが消え、辺りに上映前独特の悶々とした静けさが渦巻く。それは夏祭りのときに花火が上がる数分前、もしくは流星群なんかを待つときに似た、これから始まるショーに対する期待が高まっていく時間。その期待が充満して、静かな興奮を促してくる。

 ただ、僕のこの気持ちの高まりはそれだけじゃなくて、むしろ別の要因が大きかった。その要因とはもちろん早瀬さんで、僕はレース前に興奮したサラブレットみたいに落ち着きがなかった。

 この薄闇にそういう効果があるんだろうか。それでも徐々に落ち着きを取り戻してきた僕は、一度大きく息を吸って、吐いて、そして彼女の後頭部を少しだけリラックスした状態で見た。

 すぐに、おかしなことに気づいた。早瀬さんの右隣の席が空いている。早瀬さんが座っている席は中段中央の、前が通路になっていて座席が無い最高の場所で、その隣ももちろん最上だ。そこが空いているなんてどう考えてもおかしい。

 そこで僕は閃いた。もしかしたら、早瀬さんは誰かと一緒に見る予定だったんじゃないか? その誰かとはおそらく長谷川さんで、その長谷川さんが何らかの理由で一緒に見られなくなった。早瀬さんが座っているのは指定席で、当然その隣もそうだから、チケットを買った後で何かあったと考えるならば、そこに誰も座っていないのもうなずける。まあ、そういう席は非常識な誰かに座られるのが常だけど、もしかしたらあまりにもいい席なので、逆にそういう人も座れないでいるのかもしれない。つまり――。

(そこにはもう誰も座らない?)

 そう思った瞬間体は動いていた。僕はその席の前に立ち、周囲を確認する。誰かが来ている様子はない。

(よし……っ!)

 僕はそこに座った。すぐ隣には早瀬さんがいた。でも、僕の意識はまだそちらには向いていない。まだだ。まだ誰かが来る可能性はある。少なくとも映画が始まるまでは気が抜けない。

(くるなくるなくるなくるなくるなくるなくるな……)

 僕はこのときほど真剣にカミサマに祈ったことはない。ただそれは願いというより呪いと言ったほうが近いものだっただろうけど。とにかく、その祈りだか願いだか呪いだかが効いたのか、ついに映画は始まり、僕は本当にその席を手に入れることができた……!!

 僕はようやく隣、早瀬さんを見た。映画とかどうでもよかった。スクリーンの光で薄く輝くその横顔にしばし見とれた。しばらくしてからその顔にメガネがないことに気づいた。初めて会ったときの顔。うん、そのほうが全然いい。髪の毛には小さな花柄のヘアピンがついていて、そのおかげかいつもは見えない耳の形がちゃんとわかった。福耳というほど大きくはないけど、ピアスの似合いそうな形のいい耳たぶだった。長いまつ毛。やっぱり大きな目。近くで見るとはっきりわかる――って、あれ?

 そう。僕は今までこんなに近くでまじまじと彼女の顔を見たことはなかった。それを意識すると、急に恥ずかしくなって目を逸らしてうつむいた。何を動揺してるんだ僕は!

 すぐに顔を見ることはできなくって、でもどうにか見ていたくて、彼女の足元に目が行った。少しかかとの高いサンダルのようなものを履いていた。でも、僕はそれより、彼女の足の甲が気になった。白くて、つやつやしていた。足の爪は半透明な桜色の貝殻みたいだった。細い足首と、ふくらんだくるぶし、柔らかくカーブしたふくらはぎが半分見えていた。僕はまた目を逸らした。全身が心臓になったみたいにドキドキして、このままじゃ身が持たないと思った。僕は僕を落ち着けるために、ようやくスクリーンに目をやった。

 スクリーンに映し出されていたのはどこかの外国の街並み。アパートから出てきた男を女がキスして見送る。明らかに英語ではなかった。たぶん、フランス語でもない。イタリアあたりかな? っていうか、これってもしかして、このまえの恋愛映画?

 同じアパートに住む男女。出会いを見てなかったのでわからないが、たぶん、女が困ってるところを男が助けたとか、逆に迷惑かけたとかがあって、その後同じアパートだとわかってなんとなくお互いを気にして――、とかじゃないの、どうせ。で、二人は互いのライバル会社に勤めているらしい。でもそのことをどちらも知らないようなので、今後の展開は見なくてもわかる。結末もどうぜハッピーエンドなんだろ?

 こんなの見たかったのかな? ちゃんと見てないくせにそんなことを思うのはどうかとも思うけど、でも、ありふれた恋愛映画って感じがするけど。

 やや冷めた視線で眺めていると、二人が週末に映画に行くシーンになった。ようするに、デートだ。

 ……ん?

 ……二人で、映画――。

 ……デートだな、どう見ても。

 ……デート?

 僕は、気づいてしまった。僕と早瀬さん。映画館で隣の座席に並ぶ顔見知りの男女。デートだ。これは明らかにデートだ。つまり二人は恋人同士だ。

 もちろんこれは僕の妄想だ。でも、偶然早瀬さんがここに来て、偶然その隣の席が空いていて、見ているものが恋愛映画。だとしたら、これはつまり、そういうことでしょ?

 ちらっ、と隣を見る。残念ならが早瀬さんの両手は太ももの上に重ねられていた。さすがにそう僕の願望通りにはいかない、ら、し――い?

 早瀬さんの右手が、ゆっくりとひじ掛けの上へ移動した。僕は思わずその手の甲と、早瀬さんの顔を交互に見た。早瀬さんは当然スクリーンに目を向けているし、ここに僕がいることに気づいてなんかいないし、ましてや僕の妄想を受信しているなんてこともありえない。

 でも、これって――、アレだよな? 映画館初デートでありがちな、初めてそっと手と手を重ねる的な、そういうイベントだよな? そういうことで、いいんだよな?

 ――もちろんそんなわけはない。でも、すべてが自分の理想通り進んでいく状況で理性を保つなんて無理な話だ。僕は妄想花咲く中二男子なんだ。自分に都合よく解釈して、何が悪い?

 そこまでの距離は約30cm。何も意識しなければ到達まで1秒とかからない。でも、僕の左手の初速は秒速1cmにも満たないものだった。女の子の手を握るのが初めてってわけじゃなかった。なのに、僕は情けないほど緊張して、強ばっていた。

 指先を少しずつ動かし横移動させる。すぐにイスの端まで到達した。そこで左手の動きが止まった。しばらく動きを止めた後、まるで体の緊張を解すようにその身を丸めては広げ、丸めては広げた。失敗の許されない任務の前の張り詰めた空気。後は勇気を出して飛びだせばいい。

 ギュッと、今までよりも強く握り締め、それを開くと同時にふわり、とその体が宙を舞った。着地点を横目で確認しながらさりげなくその上へと移動する。

 しかし、二つは重ならなかった。なぜなら直前で早瀬さんが自分の太ももの上に右手を戻してしまったからだ。それこそ僕の手から逃げるように、絶妙なタイミングで遠ざかっていった。

 肘掛の上に残された僕の左手。それを目の前に戻すときの気恥ずかしさ、後悔、失望。もう一度、次のチャンスに、という気は湧かない。後はもう、ふて腐れるだけ。はーあ。

 ……思った以上に落ち込んでいた。今までの、僕と早瀬さんの関係を運命付けるような偶然の数々は本当にただの偶然に過ぎなかったのだ。最後にカミサマに裏切られたんだ。

 僕は早瀬さんを見た。早瀬さんの表情を見た。えらく真剣な様子で映画を見ていた。そんなに面白い映画なんだろうか。

 その後の展開は、大体僕の予想通りだった。互いにライバル会社に勤めていることがバレて大喧嘩。女はアパートから出て行った。仕事先で顔をあわせることがあっても知らん顔。しかし1ヵ月後、突然男が女のアパートに現れる。今までの仕事を止め、別の仕事を始めたという。どうして、そこまで……。君が、忘れられない。好きなんだ! で、めでたしめでたし。

 B級以下の最悪のシナリオだ。ただ、主演女優は僕の好みだった。容姿とかじゃなくて、演技が、ね。でも、見どころはそれだけ。これじゃあ早瀬さんも退屈だったんじゃないかな。

 エンドロールが流れ始め、席を立つ非常識な奴らもいた。いくら面白くない映画だったとしても、それだけはやっちゃいけない。早瀬さんはジッとスクリーンを見つめていた。やがてそれも終わり、周囲が明るくなった。人々がすぐに立ち上がる中で、早瀬さんは余韻に浸るようにスクリーンを見つめたまま固まっていた。何で? そんなに面白かったの? 僕はちょっと失望した。

 早瀬さんはしばらくそうしていたが、不意にほう、と息を吐き、目を閉じ顔をうつむけた。そしてゆっくりと顔を上げると、視線を横に向け、僕を見た。

 どくん、と体の中心が鳴った気がした。

 だって、今にも泣き出しそうな顔だったから。

 それなのに、口元は笑っていたから。

 早瀬さんは立ち上がって、出口へと向かった。僕も慌てて立ち上がる。その後ろ姿を追いかけた。

 そんなはずはない、というのはこれまでの経験からも明らかだ。でも、さっきの表情。視線。明らかに僕に向けられていた。そんなわけないのに。でも、そうとしか思えない。

 声を掛けてみようか。名前を呼べば、振り向いてくれるかも。

「っ――……」

 でも、言えなかった。声が出なかった。だって、振り向いてくれないんじゃないかって思うと、できなかったんだ。

 結局、追いかけることも止めて、僕は黙って彼女を見送った。

 その後、駅ビルの屋上で僕はずっと考えていた。今日のこと。映画のこと。早瀬さんのこと。

 ……なんで、あんな顔してたの? あの時、何を、誰を見てたの?

君の手を 第12章

≪君の手を 第12章 完≫

君の手を 第12章

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-21

Copyrighted
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