君の手を 第11章
ああ、間違いない。入った瞬間、わかった。ここは彼女の部屋だ。まぎれもなく。きっと、彼女が入っていくのも見ていなくてもわかっただろう。この清潔感。清涼感。
視界の隅でカーテンが揺れていた。白地に若草色のストライプ。夏の容赦ない熱は、この部屋にも例外なくとどいているはずだけど、ここにあるのは夏の小川や高原と同じ雰囲気。
揺れるカーテンの左側にベッドがあって、その枕元に真っ白な、なんなのかよくわからないぬいぐるみ(ペンギン?)があった。部屋の右奥には机があり、その右側の壁沿いに本棚がある。中央に丸いテーブル。その上に鏡があるのが女の子らしい。
そして僕は、初めて意識的にそこを見た。ずっとチラチラ視界に入っていたから、そこに早瀬さんがいるのはわかっていた。ベッドの上。そしてその瞬間、ゴクリ、と喉が上下する。
見た。見た瞬間、目が離せなくなった。
うつ伏せに寝っ転がって枕にうずくまっているその姿。少しめくれ上がったTシャツ。腰骨の上。背中。白い肌。背骨のライン上の窪み。その下の――。
あまりに無防備すぎる。また、喉が鳴った。ヤバイ。やばい!
どうしよう。どうしたらいい? そ、そうだ! 見なけりゃいいんだ。視線を逸らせ!
だが、いくら頭の中で怒鳴っても、体は言うことを聞かない。
そ、そうだ。目をつぶればいいんだ! 急いでギュッとまぶたを閉じる。
視界がさえぎられ、闇が広がった。落ち着け、とりあえず、落ち着け。
目の前に広がるのは闇。何も見えない。だが、その闇の中で次第に何かが形作られていく。まぶたを閉じる直前に見たもの。再現されたソレは、焼きつき、簡単には消えてくれなかった。写真よりも鮮明で、映像より性質が悪い。妄想が暴走する。まぶたの裏で動き始めようとしていた。やばい。このままじゃ、マジでヤバイ。
目を開けると同時に、いや、回れ右をすると同時に? と、とにかく目を開けても早瀬さんが視界に入らないようにした。早瀬さんの姿をどうにか背後に追いやる。
妄想の残骸が頭にちらつく。落ち着け、落ち着け、と頭の中で何度も唱えた。息を吸い、吐く動作を繰り返す。
落ち着け。これくらいのこと、どうってことはないはずだ。これくらいのことは、日常で、学校で、ちょくちょくあることじゃないか。……うん。あるある。制服とスカートの間から見える横腹とか背中とか、たぶん、あるはず。あと、ブラジャーの線。そ、そうだ! さっき下でそんなようなものが見えた時だって、なんでもなかった、じゃないかっ。そんなに特別、意識するようなことじゃない。大丈夫だ。やれる。少なくとも、意識してないフリはできるはずだ。
一度、深く息を吐く。そして、目をつぶった。まぶたの裏には、まだ残像が見える。でも、ほら、うん。大丈夫。やっぱり、大丈夫じゃないか。
目を開けた。それからゆっくりと体を回した。ベッドのほうへ。彼女はうつ伏せのまま。しかしTシャツはめくれていなかった。
力が抜けた。ちがう。残念だったわけじゃない。むしろ、ほっとしたんだ。ホントに。
視線を窓の外へ移動させ、ため息をついた。
……まったく、何をやっている? これじゃあ、のぞきに来たみたいじゃないか。ただの変態じゃないか! 死神に何か言われても、言い訳できないぞ。……いや、まあ、家に入った、この部屋に入った時点で言い訳できない状況だけど。でも、それはちゃんと理由が――。
そうだよ。僕は手掛かりを探しに来たんだ。何か、ないのか。
それはすぐに見つけられた。机の上の写真立て。そこに収められているもの。僕だ。ユニフォーム姿の僕がいた。まだ、これを着たことは一度しかない。夏休みに入る前の練習試合で来ただけだ。土曜日の午前中にうちの学校でやったから、多少ギャラリーもいた気がする。その中に彼女もいたのだろうか。そんなことする娘には見えないけど。それとも誰かに貰ったのだろうか。それもイメージと合わない。
どっちにしろ、こういうのはミーハーっぽくて正直好きじゃない。彼女はそういうんじゃないはずだ。それとも、それは僕の都合のいい妄想で、そこらの女子と大差ないのか?
……そんなに深い意味は無いのか?
ラブじゃなくてライクなのか?
ジッと写真を睨んだ。写真の僕は能天気な顔してうれしそうにはしゃいでいる。これは一点目が入った直後か? あのパスの感覚は今でもハッキリ思い出せる。僕が出したいタイミングで中野が飛び出してくれた。ドンピシャだった。あの気持ちよさは忘れられない。
……もっと。もっとあの時みたいな――。
音が触れ、思考が中断された。ベッドのスプリングがわずかに軋んだ音。振り返ると、早瀬さんが立ち上がってベッドの下方の壁際にあるクローゼットを開けたところだった。そこにある服の中から選んだものをベッドの上に置いていく。ピンクのストライプが入った白いシャツと黄色のTシャツ。それとベージュのパンツ。
……いや、ちょっと待て。何をする気だ?
服を選び終えた早瀬さんがクローゼットを閉じた。ベッドの脇に立ち、Tシャツの襟首に手をかける。
いやいやいやいや、ちょ、ま、待って!
僕は急いで後ろを向いた。振り向く瞬間、お腹の辺りが見えた気がする。背後で衣擦れの音が聞こえる。パサっとベッドに落ちる音。それが意味するもの。
……!? ……っ。 ……。
一度後ろを向いてしまったら、もう振り向く勇気は無い。勇気? ……いや、やっぱり勇気か。そうです。僕は意気地ナシです。ゴール前であまりにも有利な状況だと変に意識して硬くなる小心者です。
(でも、いま早瀬さんはたぶん下着だけ……)
……このままで、いいのか? 本当に? 女子が、早瀬さんがすぐ近くで着替えているのに、このまま、見ないでいいのか? 据え膳食わねば男の恥って言うだろう? この状況で見ない男はいないぞ? 無人のゴールにシュートするのを躊躇っているようなものだぞ? 外すのが怖い? バカ野郎。そんなのは外してから気にしろ。
それに、大丈夫。コレは誰にも怒られたり、白い目で見られたりしない。むしろ、当然だって言ってくれる。お前は悪くない。男なら当然だって。みんながうなずいてくれる。
……。
……よし。
いいか。3つ数えて振り向くぞ?
1、2、3っ!
振り向いた僕が見たのは、すでに着替え終わった早瀬さんだった。その姿は眩しく、僕の目に突き刺さる。
罪悪感だけが、残った。
パタン、と扉が閉まる音を聞くまで後悔と自己嫌悪を堪能し、それから彼女を追いかけた。階段を下りて一階に着くと、リビングから早瀬さんが何か言いながら出てきた。そしてそのまま玄関へ向かう。どこへ行くのだろうか。肩には大きなトートバッグを提げていた。外へ向かう彼女のあとをフラフラと付いていく。
玄関を開けた瞬間、何かに押されたように彼女はわずかに顔を引いた。だが、すぐに何事もなかったように歩き出した。どうしたんだろう? 後に続いて外へ出てしばらくした後に、ああ、と思い出した。セミの鳴き声が思い出させてくれた、日本の夏の蒸し暑い空気。クーラーのきいた室内から出るとそれが、むっ、と襲ってくるのだ。毎朝、扉を開けるときに感じていたこと。不快で、嫌だった。嫌だったな……。
少し離れて彼女の後を付いていく。ふわふわふらふら、彼女の背中を眺めながら。
早瀬さんは人より歩くのが少し遅い。それは僕が歩く速さとはぜんぜん違う。僕はいつも、出発点から目的地に向かっていかに速く着くかを気にしていて、風景なんてぜんぜん見ていなかった。でも、このスピードだと自然と目に留まる。道端の花や通りすがりの野良猫。落ち葉。空き缶。そこに視線を向けた彼女は、喜んだり、驚いたり、悲しんだり、愛しんだり、しているんだと思う。わずかに変わる表情から読み取るしかないから、本当は何を感じているのかなんてわからないんだけど。でも、きっとそうなんだろう。
すれ違う人が彼女に挨拶をする。ちょっとビックリしたように立ち止まり、それからあわてて挨拶を返す。そんな姿にすれ違っていく人達が微笑みを返す。好意的に。彼女が、好かれているんだとわかる。見守られている、そんな感じもする。なんとなく、わかる気がする。保護欲をかきたてられるんだ。守ってあげたくなる。
もっと、もっと彼女のことが知りたくなる。あの日泣いた理由だけじゃなく、彼女自身のこと。なにが好きで、どんなことで笑うのか。
……そういえば、本当に笑った顔を見たことがない気がする。何度か見た微笑みは、優しげだったけど、楽しそうではなかった。
ジッと見つめる彼女の後姿。黒髪が揺れている。ちらちらと見える白い首筋。やわらかそうな白い二の腕。背中。その下のズボンに包まれた形、とか。
チッ、と舌打ちが出た。本格的におかしい。気づかないうちに脳が腐ってきているんじゃないのか?
早瀬さんはスーパーの前で止まった。ようやく僕は彼女が何のために外へ出たのかを知る。なんだ、と拍子抜けする反面、そっか、と、どこかほっとしていた。スーパーの中に入る気にはならなかったので、入り口の上に浮かんで買い物が終わるのを待った。
ぼーっと、通りを行きかう人達を眺める。あまり大きなスーパーではない。こんなところに来る人なんて、近所に住んでいる人達ばかりだろうな。二十代後半から四十代くらいまでの女の人が大半で、男なんて数えるほどもいない。あと、子供も多い。子供だけの集団。夏休みだからかな?
十代の女子はあまりいない。たまにお菓子の入った袋を下げて出てくるくらい。早瀬さんもそうなのかな? たぶん、違う。きっと夕飯の買い物だろうから。忙しい両親の変わりに家事をこなす健気な女の子、というキャラクターが彼女には似合う。まあそれはあくまで僕の望む彼女の像に、なんだけど。
「はぁ」
僕はため息を吐いてみた。そんな気分だったんだ。ふとした瞬間に付きまとう虚しさ。それを演出するためのため息。そんなことをしたって虚しさが増すだけなんだけど。
ポ。
顔を上げた。見上げた空が見る見る曇っていく。降るな、と思った瞬間、ポ、と目の前に一筋。ビニールのほろの上に水滴がひとつ。ポッ。ポ、ポ、ポ、ポ、とそれが増え、そのひとつが僕の頭を貫いた。思わず手を当てて、確認した。もちろん、なんともない。穴は空いていない。でも僕は、ライフルか何かで撃ち抜かれたような恐怖を感じた。ひどく気持ち悪かった。
自動販売機の横のわずかなスペースに挟まるように身を寄せて僕は雨から逃げた。目の前の地面に弾ける水しぶきに当たらないように限界まで体を寄せた。それならばいっそ、店の中に入ってしまえばよかったのに、僕はなぜかそれをハナから除外していた。
急いで駆け込んでくる人、しかめ面で空を一睨みして走り去る人、やれやれ、といった表情で傘をたたむ人、さす人。楽しげに飛び出していく子供。彼女を待つ間に僕の前を通って行った人々。
早瀬さんが出てきた。驚いたように立ち止まり、空を見る。晴れ間は見えない。夕立のような降り方だけど、そうじゃないのかもしれない。傘、持ってるのかな? 大きく膨らんだトートバッグの中を探る。そこから折り畳み傘を取り出して、開いた。そしてそれをスッと掲げた。
なにをしているのだろう。すぐには歩き出さない。傘に雨粒がぶつかり弾けている。その感触が彼女の腕を震わせている。彼女は楽しげに、僅かに微笑んだ気がした。一歩を踏み出して、跳ねた水しぶきにビックリしている。靴が濡れた。少しだけしょんぼりした顔で歩き出す。そしてそのまま僕の前を通り過ぎていった。僕はそのあとを追いかけられなかった。
結局、雨が止んだのは夕方の5時過ぎだった。狭い隙間から抜け出し、僕は駅へ向かった。
駅前も雨に濡れていた。建物から出てくる人達は一度空を見て、安心したようにまた歩き出す。また降り出せばいいのに、と僕は思った。濡れてしまえ、と。
僕はそこに日が暮れるまでじっとしていた。駅ビルの屋上の縁に座り、じっと下を眺めていた。日が暮れてからもそうしていた。
スーツ姿の群れを見て、思い出したことがあった。
将来の話になると、「どーせサラリーマンでしょ」なんて言いながら、それだけは絶対に嫌だ、と思っていた。でも、やっぱりそうなるんだろうという気もしていた。満員電車に揺られ、上司に怒られ、部下からは疎まれ、取引先では渋い顔をされ、飲み屋でそんな奴らの悪口を愚痴る。そして家に帰ると母ちゃんに小言を言われ、子供からは「お父さん臭い、来ないで」なんて言われるのだ。
なりたいものとなれるものとのギャップ。それ対する漠然とした焦燥、不満、失望、そして微かな希望。
プロになりたい、って言ってたら、バカにされただろうか。そんなの、なれるワケねーよって。中野や、竹本はたぶん、賛成してくれただろう。サッカー部の連中もきっと笑わない。クラスメイトは? 姉ちゃんはどうかな? 母さんは? 父さんは、たぶん反対するだろうな。
でも、もし――。
そこで、苦笑いが漏れた。今更。今更そんなこと考えたって。
「よっ」
僕はチラッと声のしたほうを見て、すぐに視線を戻した。
「なんだよ。辛気臭せー顔して」
いつも、変わらないな。この人は。僕は体育座りした腕に力を込めた。
「……雨が降ったからです」
「ふーん」
気のない返事。そのほうが気楽だった。突っ込まれても困るから。
「映画館以来ですか」
それは確か、おとといだかその前だか。でも、ずいぶん久しぶりに会った気がした。
「そう、だな」
「今日も見てたんですか?」
「映画をってことか?」
「はい」
「そうだな」
「……飽きませんか?」
少し間があった。見上げると、口元が苦笑いしていた。
「他にないからな」
「娯楽、少ないですもんね、この街」
「まあ、それもあるんだが。……俺らは、見ることしかできないから」
見ることしか、できない。
……そっか。やっぱ、そうなんだな。でも――。
「死神なら、何か方法、知ってるんじゃないですか?」
「何の?」
「その……、ほら。触ったり、姿を現したり、話しかけたり――」
「無いな」
バッサリと切られた。「……無い、ですか」
「無い。できない。無理だ。死神でも、幽霊でも」
もしかしたら、と思っていた。そういうことができる方法があってもおかしくないと、期待していた。でも、仮にできたとして、僕はいったい何をするつもりなんだ?
「なぜそんなことを聞く」
当然の質問だと思う。でも、その答えは僕の中にもない。いや、あるにはあるんだろうけど、まだよくわからない。
「別に。なんとなくです」
それでこの人が納得するわけはないのだが、ふーん、と言ったきり追求はなかった。代わりに、
「何か、あったのか?」
「……何でですか?」
「いや、いつもと様子が違うから」
「……いつもの僕って、どんな感じですか」
「そりゃあ、もっと生意気で、何か言うと何かと屁理屈こねて反論してくる感じ」
……これ、もしかしてこの前のことを根に持ってるのか?
「……どんだけヤな奴なんですか、僕」
「あれ? 自覚無いの?」
……コイツはっ。僕は口にしなかったっていうのに。
「あなたも、相変わらずヤな奴ですね」
「そりゃあ、どうも」
笑って、少し照れてみせる。チッ。……ほんと、ヤな奴。
周囲の建物の明かりが少しづつ消えていく。ひとつ消えるたびにわけのわからない物悲しさが僕の心に積もっていく。ほら、また消えた。
「その後、早瀬結衣ちゃんとはどうだ?」
「どうって……。何もあるわけ無いでしょ」
「でも、覗いたんだろ?」
「なっ!!」
何でそんなこと知って――。いや、まさか、見てたっ?!
「やっぱりか」
しみじみと死神はうなづいた。「で、着替え? 風呂?」
んあーーーーーっ、もう!! 動揺した僕がバカだった。
「してねーよ。そんなこと。」
「嘘つくなよ。今、完全に図星って顔したろ」
「っ、してない!」
「なんだよ。別に隠すこと無いだろ? ムッツリか?」
「違う!!」
「じゃあ言えよ。どんなパンツ履いてた? ブラは何色だった? おっぱいは何カップくらいだっ――」
「うるさいっ、黙れ!!」
フヒヒヒヒヒヒヒ、と奇妙な笑い声を上げて死神が一メートルくらい下がった。
「怒んな怒んな。男なら当然当然」
「もう、帰れよ!」
「わかった。わかったから。悪かった。冗談、冗談だって。だから、その、蹴ろうとするの、止めてくれる?」
僕は構えをといた。ふう、と死神がわざとらしく息をつく。今度何か変なこと言ったら絶対一発入れてやる。
「でも、ま」と頭を掻きながら近づいてきた。
「やりたいことは今のうちにやっておけよ。そのときはいつくるかわからねーから」
――そのとき。……くそっ。急にシリアスになるなよ。どうしたらいいのか、わからなくなるだろ。
……。
……そのとき、か。
「……近いんですか?」
「さあな。でも、そんなに遠くでもないだろうさ」
残された時間。僕にできること。……何がある?
「ま、しっかり考えろ。できるだけ後悔しないように、な」
そう言って僕の肩を叩き、死神はすれ違って行った。振り返ったときにはもう姿が無かった。
僕は無意識に叩かれた肩を触っていた。
君の手を 第11章
≪第11章 完≫