よこしまの所在
初めての投稿作です
「付き合ってるよ」
俺にとってはまるで意味のない言葉が、彼を深く傷つけたのは、言うまでもなかった。
彼女を知ったのはいつだったか、なんてことを思い出せばまるできりがない。彼女をひとつの固有の存在として認識したのかがいつかならば、なるほど、俺にだって記憶はある。
だがしかし。
そもそも高校が同じ時点で、彼女と出会う可能性は十割近い確立だろうし(とはいっても俺は正確な確立を出したわけではない)その十割近い確立の中で、仲良くなる可能性はとても高いといえるだろう。
だから、俺と彼女が出会って、くだらない理屈をこねあって、お互いがそばにいるという現在の状況でさえ、必然じみたものがあった。同じ高校という時点で運命という歯車は動き出していたといっても過言ではないからだ。
運命、なんていえば大げさで、彼女にいえば一笑してしまうか、独自の理論を展開するに違いなかった。もちろん、俺も運命は大げさであると思う。
ただ、何かしらの作用は働いていたと、俺はどうしても彼女と出会ってしまったことを特殊な出来事であったと、そう思いたいに過ぎないないのだ。
彼女がきれいで、かわいそうで、俺と似ているのに違ったから。
俺は、ただ彼女のそばにいたいと、生まれてからはじめて、家族以外の人間に、そう思った。
そう思ったことが、俺にとってはどうしようもなく異例なせいだろう。
俺はついつい、彼女との出会いを特殊なことに考えがちだった。
彼女との出会いは、別段特別なことではなかった。
クラスが同じでも、話したことのない女の子。
最初のうちは、そんな関係だったのだ。
ただ、俺は彼女にとってただのクラスメイトであっただろうが、俺にとって彼女はただのクラスメイトではなかった。というか、クラスメイトの誰にしても彼女は普通の存在ではなかったように思う。
別に彼女が特別劣っているわけでもない。
ただ、すこし、きれい過ぎたのだ。
これはきれい好き、主に清掃の意味で使われる言葉ではない。その点に関しては、彼女はまじめに取り組むが、常軌を逸した潔癖ではないし、掃除を面倒だとふつうに口にする。
あえていうなら、雰囲気だろうか。
たしかに顔立ちも、少し目を引くほどには華やかさがある。目鼻立ちははっきりしていて、彼女にはつけまつげは必要ないな、と思ったぐらいには彼女のまつげは長い。
いまどき染めることもない黒い髪は、色素が落ちることなく、墨のように真っ黒だ。そんな黒い髪は伸ばしっぱなし。彼女いわく『切るのが面倒だから、伸ばしている』だけらしいので、邪魔なとき意外、髪を変に飾り立てることもしない。
つまり、黒髪ロングストレート。
清楚を地でいく彼女は、基本的に穏やかだが、それゆえに異性との話題もほとんどない。あるといえば、幼馴染らしい男子と仲良くしているというわずかな話題だ。
クラスメイトの女の子たちは、彼女が異性と話すととても敏感に反応した。というのも、男子をとられるんじゃないかという、肉食のような女子たちの懸念と、おそらく勝てないことがわかっているからの嫉妬だろう。
男子にとっては憧れと好意の的。
つまり、彼女は目立っていた。
だから俺にとっては彼女は『有名な』クラスメイトだった。
そんな彼女と話すようになったきっかけ、俺が彼女を一人の個人として認識したのは夏休みだった。
夏休みだって、学校はあいているのである。俺はそれを積極に活用し、図書室の本を借りては読んで返すという行為を繰り返していた。
おかげで部活の顧問である体育会系教師陣には『文学少年』というわけのわからない認識までされてしまった。はなはだ不本意である。
なにはともあれ、夏休み。
炎天下、だらだらと汗をかき、俺は図書室へと向かった。
湿った空気はうっとおしくて、肌を湿らせる汗は非常に不愉快だった。それでも自分の汗ならば他人の汗よりはましだろうと、暑さでやられかけた俺の頭はわけのわからない納得をして、図書室に入った。
ガラリ、とあけた音に反応して、がたん、とする音。
なんだ、と少し目を見張れば、唇を切った『有名な』彼女が、ひどく興味のなさそうな目で、俺を見ていた。
その目を見てしまって、俺はすごく後悔した。
「あ、う・・・っ」
そんなうめき声を聞いて、俺の知らない誰かがあわててこちらに向かってきた。どん、と押しのけるように俺の肩にぶつかり、どこかに走っていく。
そんな動きにも反応できないほど、俺は我を忘れた。
彼女は、とてもあやしい目をしていた。
なんて目をしているのか、と場違いになじりたくなった。黒い、黒い目はもはやこの世すべてが嫌いだといわんばかりだ。何者にもひどく興味のなさそうな、興ざめしたような、いつもの彼女とは似ても似つかないほどの目をしている。
彼女は俺を呪うように、嫌いだといわんばかりに見つめ、唇に触れた。
指先に赤い血がつく。彼女はそれを確認すると、く、とのどを震わせて、にいと笑った。
心底疎ましいように、目を細める。その目は俺を貫き、やがて口元に傷を負ったまま、彼女は口を動かす。
「本を借りに来たの?返しにきたの?」
彼女らしい、言葉。
それはいつもの彼女にはらしすぎる言葉だったのだろう。
おっかない。
それが俺の感想だ。
しかし、俺はそのおっかなさに、苛立ちのように、けれどうれしくてどうしようもないような、矛盾を感じた。俺は俺の中か湧き出る思いが、自分でうまく処理できなかった。
矛盾を消化できずにため込んで、俺はわざとらしく冷静を装い、呆れたような顔をした。
「最初にそれ?口切れてるけど」
「・・・私は図書委員だから、職務に従ってるだけ」
そして俺は本を返して借りる前に、職員室に行って、彼女の手当てをしてもらった。
彼女もそれ以上を言うことはなく、つまるところ、俺と彼女の出会いはそんなものだった。
三日後、本を返しに行って、借りに行けば、今日も当番なのか、彼女は平然と受付カウンターに座っていた。
人気はなく、彼女は俺を見ると、らしくにっこりとした笑みを向けた。
あのあやしい瞳はどこにありはせず、なんだかがっかりとしたような、それでいて安心したような気に陥った。
「返却、お願いします」
本を差し出すと、はい、と彼女はきれいに笑う。
なるほど、この彼女の感じが人気が出る理由かと妙に納得した。
彼女には同年代の女たちが浮かべる、品質検査のような、品定めをする感情がない。その感情が視線に混じらないから、接しやすい。
俺はふと、唇の端にあとが残っているのに気づいた。
けれどもう、かさぶたはない。うっすらとしたあとが残るだけだ。
「傷、なくなったんだね。治るの早いな」
ぴたり、と彼女は動きを止め、じっと俺を見た。何か不可解そうな、それでいて不愉快そうにしているから、そのうちあやしい目になりはしないかと思った。
俺は期待をこめていた。
しかし、一向に動きはなく、落胆しかけたとき、見てないのという硬い声が向けられた。
「何を」
「なんでも?」
彼女が首をかしげるので、俺も首を傾げ。
「とりあえず、何も見ていないよ」
君なら見てたけど、とは口が裂けても言えなかった。いや、それは紛れもない事実なのだけれども。
俺は彼女に視線を向けるあまりほかのことを考えていなかったし、出ていった男のことも見えていなかった。
ふうん、と納得したのかしていないのか、彼女は目を伏せた。
「私さ」
てきぱきと作業をしながら、始まった彼女の独り言のような言葉に、うん?と続きを促した。
「委員会の先輩に、ちゅーされて」
「うん」
「無理やりだったから、相手の口元にかみついてやったんだけど」
「・・・うん」
ふ、と彼女の勇ましさにゆるみそうになる口元を抑えた。
彼女はふいと顔を上げ、ちっともあやしさのない、澄んだような瞳で俺を見つめた。
「やっぱりというか、なんというか、男子こわいね」
平然と。
あまりにも平然と言われて、俺はすごく腹が立った。
彼女は平然を装ったのかもしれなかった。けれど、たぶん彼女は傷ついているだろうと思って、彼女を傷つけた人に腹が立った。
喜ぶと思っているのだろうか、その人は。エロ本の見過ぎで頭湧いてるんじゃないのか、などなど、描写するには規制がかるような罵詈雑言がわいてあふれた。
異性の話題がない彼女なのだから、そういうことを歓迎していないことぐらい、馬鹿でもわかるのに。
そいつは馬鹿以下なのか、とわけのわからない怒りは、俺の中に横たわった。
「男?女?」
「・・・さすがに、女の人に告白されたことはないよ」
「女の人だったら、どうしようかと思って」
殴ったら圧倒的不利になりそうだ。でも男ならいいだろう。そいつ誰なんだろう、ぼこぼこにしよう、と心に決めていると、俺を見上げる彼女は不思議そうな顔をしていた。
「なに、どうしたの」
「いや、朝丘がどうしたの?」
俺の名前を知っていることに、目を丸くして驚きつつ、何が、と首を傾げた。
「女の人だったら、どうするの?」
ああ、とそういえば自分でもうまく相手に伝わらないようなことを言った、と自覚して、殴るの大変そうだから、と素直に答えた。
「不利になりそうだよね。あ、高里。そいつの名前は?」
え、と彼女が目を丸くするので、別に悪いようにはしないよと詭弁を並べた。もちろん、悪いようにはしない。二度とそんな気を起こさないようにするだけだ。
「何かするつもり?何もしなくていいよ」
なんで。
と、言いそうになって、俺は自分が腹が立つ理由を先に口にした。
「だって、高里そういうの歓迎してないだろ。無理やりは立派な犯罪だ」
彼女は目を丸くして、そして眉の端を下げた。今にも泣きそうに見えたけれど、彼女は泣かなかった。
「荒立てるのも、しゃくだし。朝丘にそう言ってもらえたから、いいよ」
私がそういうの好きじゃないの、わかってもらえてるみたいだし、と彼女は目を伏せた。
「朝丘がそういうってことは、わりとみんな、そういうふうに思っているのかな。だったら、いいな」
希望的観測でしかいえない彼女がかわいそうだった。
「まぁ、たぶん、なんてことないんだろうね。世の中にこれだけ子供がいるってことは、それなりにやられていて、普通、なんだろうね」
なぐさめる言葉ばかり口にして、なんてことないと、言い聞かせるしかできない彼女はやっぱりかわいそうだった。
なんてことないと押さえ込むのは簡単で、だからとっても苦しい。
自分の中で消化しようと努めることはいつまでもくすぶって、燃え尽きない炭みたいにちろちろと輝いている。ほの暗くて、とても愉快な気分になれない不完全燃焼。
「・・・ほんとうに、なんてことないの」
俺はそういって、席に座る彼女にを覗き込むようにかがんだ。
彼女は息をつめて動きを止めているばかりだ。
払いのけてくれると思ったのに、ちっとも動こうとしない。
「・・・よけないの?」
だから俺は近場で動きを止めて、彼女にそう聞いた。
「あさおかは、ヒトに触るの、きらいでしょう」
にい、と彼女が楽しそうに笑う。吐息さえ触れるような至近距離で見た瞳は黒曜石のようにきらめいていた。
ああ、あの目だ。
俺のことを嫌いだといわんばかりの、黒々とした瞳。そこに吹き荒れる感情は、少しも好意的じゃなくて、だから俺はそれに惹かれてたまらない。
「・・・よく見てるんだね」
と、俺はそれを否定しなかった。
「有名だから。朝丘の、ケッペキ」
そんなに有名かな、と今度は俺が笑う番だった。
たぶん、うまく笑えていないのだろう。
顔の筋肉が引きつれているような感触がした。とっさに顔に触れて確認したいような衝動に駆られて、やめた。
自嘲するようなその顔を家族にはやめろとたしなめられる。
やめろと言われたその言葉を思い出して、確認してしまって本当にうまく笑えていなかったらと思ってしまった。
す、と俺は彼女から離れた。
見下ろすようにして上から見た彼女は、ずいぶんと華奢に見えた。
彼女は少しだけ意地悪いような、何かたくらむような顔で目を細めた。
俺を見て、いっそ憐れむように黒い瞳を落ち着かせうそだよ、と言った。
「そうなのかなって、思ってただけ。誰にも言ってないよ」
はあ、と息を吐いて、がりがりと後ろ髪をかく。
「そうだよ。完全なケッペキかどうか、微妙だけど。ケッペキ気味だよ」
家族以外に打ち明けたのは初めてだった。
俺は他人に触れるのがいやだ。そこに好き嫌いは関係ない。基本的に家族以外にはひどく敏感で、触ることができない。
我慢すればたいていのことはどうにかなるけれども、人と触れ合った後、俺は気が狂うくらい手を洗う。
人とは違うこと、そして許せないもの、できないことがあることは、ひどく息がしづらい。そんなことを感じてしまうときがあって、俺はどうしようもないと思うのだ。
なんともないんだ、と思っても、俺の場合はどうしても許せない。
人間は不平等だね、と彼女は眉間にしわを寄せた。
俺を見上げる瞳はとてもあやしい色をしている。嫌うような、そしてやはり憎むようでいながら、きらめく目の中にあるのは何かと思う。
「もっとも、平等を掲げたら、人間は管理者によって家畜と化するしかないけど」
俺はそっちのほうがいいな、と自嘲気味に笑った。
「えさを与えられて、生産するだけだろ。必要以上に接触する必要がないんだから」
じわじわと上がる温度がうっとおしかった。なのに俺の体温は上がっているような気もするのに、少しも気分は暑くもなければ楽になりもしない。
「・・・生きにくそうだね」
お前に言われたくないよ、と俺は夏の暑さの中、苦笑しながら返した。
俺もそうであったけど、彼女もずいぶんと生きにくそうで、お互いを固有の存在として認識した日は、とても暑かった。夏の図書室に人の気配はなく、俺と彼女の間に漂う空気は、まるで大きな森の中で同じ姿の動物に出会ったような、ある種の同族意識だった。
そんな出会いをしてから、夏休みがあけた。
夏休みの間、あの図書室で俺と彼女は数回の邂逅を果たした。
人に触れない俺は受付カウンターの机の上に座り、本を読みながら、彼女とわけのわからない理屈を並べあった。
昨日見た、捨て犬の特集の話や、読んだばかりの本の話。
リサイクルがしっかりと行われているのかどうかなど、どれもくだらなくて、でも俺は議論自体が楽しかった。
だから、俺は夏休みが終わってしまえば、そんな理屈を並べあうこともなくなるのかと、少しだけ寂しい現実を受け入れた。
夏休みがあけて、彼女に視線が行くようになれば、彼女はよく幼なじみだとかいう男子と話していると知った。そのときの彼女ときたら、まるであやしいものなど何もありませんという顔をするものだから、俺ははたしてあやしい目をする彼女は本来の姿なのかどうなのかと、とつとつと考えていた。
俺と彼女のつながりは、夏休みで終わったと、そう思っていたのは俺だけだったと知ったのは、ある日の放課後だった。
俺は人と帰るのが好きではない。物理的接触が嫌いなのだから、なるべく人と関わらないようにするのは当然だろう。
そんな俺が、さて帰るかと教室を出たときだった。
「あさおか」
呼び止められて、俺は足を止めた。
振り返れば、俺の肩ほどしかない彼女が、帰り支度を済ませたのか、バッグを持って立っていた。
「どうしたの」
「一緒に帰ろう」
周りに残っていた数人のクラスメイトがひそひそとささやきだしたのを感じた。
しかし、俺はそんなことよりも、また彼女の目に釘付けになっていた。
あやしい目をしている。
ここ最近、眺めているだけではほとんど見ることのなかった、嫌悪の渦巻く輝くような黒。夏休みには会うたびに見ていた黒曜石の色を、懐かしく思う自分がいた。
俺を嫌いだとなじるような闇の色が、いったい何の用だというのか。
「・・・いいよ」
迷ってから答えを出すと、彼女は俺の隣にならんだ。ありがと、と上っ面だけはいかにも彼女らしい笑みを張り付けて、彼女は歩き出す。
俺も追うようにとなりを歩けば、彼女もそれに合わせた。
歩調が大幅にずれることはなく、まるで同じものが隣を歩いているようだ。
考えてみれば、俺もそうだが彼女も同族意識を抱いているらしく、同じようなものだと、近いものだと思うのは当然かもしれなかった。
突き刺さるような視線はたぶん気のせいだと思うけれども、その視線の中に俺は彼女の幼なじみを見つけてしまった。
彼女の幼馴染の唖然としたような顔に疑問を残しながら、俺は彼女とともに歩き去ることを選んだ。
すたすたと歩きながら、ねえ、とクラスメイトからだいぶ離れたところで声をかけた。
「なあに」
「どうしたの」
あさおかと帰りたかったから、と即答された俺は、眉根を寄せてしまった。
「半分冗談。・・・ほら、夏休みにいたでしょ、変態の先輩」
半分は本気か、と突っ込めずに、犯罪者の?と返すと、そう、とうなずいた。
「あのひとが、ストーカーしてるみたいで、あとつけられて困ってるから。協力して」
ふつり、と横たわっていた怒りが水泡のように上昇する。
「・・・名前教えてよ」
いや、と彼女に即答されて、なんで、と不満そうな声で抗議する。
「・・・あんなやつ、ほんと死んでしまえと思うぐらいには頭にきてる。頭にきてるだけに、ぶっ殺してとか言いそうになるから、イヤ」
「理由になってないよ。別にいいよ、俺」
殺しても、とは言わなかったが、彼女には伝わったらしく、馬鹿じゃないの、と肩をすくめられた。
「憎しみで人は殺せないよ。朝丘なんか特に、気持ち悪くて触れもしない」
やってみないとわかんないじゃん、と子供のように言うと、そうじゃなくてね、と彼女はとても優しそうな顔で微笑んだ。
煮詰まった黒い瞳が、とてもきれいに見えた。
黒くて闇のように瞳の中に詰まるものの正体を、俺は判った気がした。
それはたぶん、嫌悪ではないのだ。
「人を殺すときは、その人を愛していないと殺せないの。憎いくらい純粋に愛さないと、とてもじゃないけどできないよ」
苦笑とともに告げられた言葉は、大きな鐘のようだった。
どーん、と鈍い音を立てて、古びた大きな鐘が落ちてくる。まるで重い鉄の塊のような言葉に、俺は息が詰まる思いがした。
すべてを背負う覚悟がなければ、とてもじゃないけどできない。
そのことがわかって、俺は彼女を苦しめる人を殺せないと思った。
そして恐ろしい事実が目の前に差し出されたように見えた。だから俺は何も言わずに歩き続けた。
だというのに彼女は、
「ちなみに」
と、その事実を暴こうとした。
「私は朝丘なら殺せるよ?」
その一言はとても暴力的だった。さきほどか、それ以上にとても強い言葉は、俺を殴りつけて殺そうとしているように思えてしまった。
俺は彼女と違ったから、その事実を口にはしなかった。口にはしないだけで、俺と彼女はやはり同じで大差がなかった。
俺もたぶん、そうして暴力的な言葉を吐いてしまえるのだろう、と思わざるを得なかった。
「なにそれ、告白?」
俺の声は震えていた。
「そう、愛の告白」
そして彼女は俺の震えを理解しながら、平然とそういった。俺はその言葉を正しく受け取ってしまう自分が、このときばかりは憎かった。
俺は人に触れられない。
彼女は人が嫌いで歪んでいる。
だからこれは恋などではない。
もっと純粋で捻じ曲がっている、おそろしいものだ。そしてそれをお互いに持っているからこそ、俺はおっかないと思った。
こうして。
俺と彼女のつながりは再び復活した。
俺は宣言のような彼女の告白を聞いたまま。
彼女も特に深く触れることのないまま。
おかしな関係は継続された。
ストーカーはしばらくすると消えたが、俺は彼女のそばにい続け、彼女もまた俺から離れていかなかった。
それゆえに付き合ってるのかと聞かれたり、どこまでいったんだと邪推されるようになって、俺は何度も違うんだと叫びたくなった。
違う。
俺と彼女はそばにいたいだけだ。
お互いに依存とは違う、寄り添いのようなものをしているだけなのだ。同族に近い俺と彼女は、二人以外のその他大勢がいうことが理解できない。
とくに、恋だの愛だのと言ったものは特に。
理解ができない。
けれど、学生というやからは恋だの愛だのというのがたいそう好きらしい。誰も彼も、同じことばかりを繰りかえす。
男女が一緒にいることは特異なことなのだろうか。同じ人間なのに、恋などというものをお互いに持っていなければそばにいることすらできないのか。
理屈を並べあっても、それだけは解決が見えず、鬱々としていた。
だから俺はある意味追いつめられてもいたのだ。
そんな日々の、ある日。
俺がことさら疲れていた日だった。
「あ、朝丘って高里と付き合ってんの?」
それをいったのが、ただのクラスメイトであれば、俺もたぶん、そんなんじゃないよ、趣味が合うんだと言葉を濁しただろう。
しかし、よりによってその言葉を向けてきたのは彼女の幼なじみだった。
だからやさぐれて疲れた俺の心は、お前は彼女のそばにいたんじゃないのかと、なじりそうになって、その代わりに彼を傷つける言葉を吐いた。
「付き合ってるよ」
そう答えたのは気まぐれか、あるいはほんの少しの底意地悪い悪意だったのかもしれない。
あるいは俺も理屈をこねくり回しつつ、彼女のそばに純粋にいたいのだと主張したところで、恋などというものを彼女に抱いていたのかもしれない。
しかしそんな中でただ一つ言えることがあるのだ。
俺はこのとき間違いなく、疲れていた。
ずいぶん仲がいいと、付き合っているのかと冷やかしじみたことを言われるのにずいぶんと疲れていた。
そんなのではないと主張すれば、じゃあなんだと問い詰められる。
他人には関係ない。俺と彼女がどう関係していようが、他人に理解できるとは思えない。されてなどたまるか、とそのようなことが頭をよぎるぐらいには、俺は悪意に満ちていた。
「・・・え、まじ」
軽い口調で平素を装って聞いていた彼女の幼馴じみの彼、高橋氏は動きを止めた。
高橋の表情をなくした顔を見て、俺は少しだけ胸がすっとした。
そして他人を安易に傷つけてしまう自分が愚かしく、おかしかった。
俺は自分がとてもひどい人間に思えて、そのひどさを馬鹿にするように笑った。
「マジだよ。付き合ってんの」
そう、魔が差した。
俺は嘘をさらに重ね、そんな自分に罪悪感を覚えた。ひどく自分が汚いものに思えて、手を洗いたいとすごく思った。
同時に、なんてやつかと、俺はこんなこんなことができたのかと、悪行のような一連の空言をほめたたえる気分も生じた。
彼女はいい人だ。
俺に必要以上に突っ込まないで、俺に対してやさしくというのは語弊があるかもしれないが、ともかく明るく振舞ってくれる。
潔癖気味なことを無視するわけではない。そっと気遣いながら、それでも聞かずにいてくれるのだ。
それは俺にとってやさしさに他ならない。
そんな彼女を利用するように、嘘をつく。
罪悪感と同時に、やさぐれた心はいいじゃないかとなぐさめを囁く。
だれだって嘘をついて、だまして生きている。だから俺だって嘘をついていいはずだ、と。
だけど、ともなぐさめを取り払うように相反する思いもある。
彼女を巻き込んで、高橋を傷つけるような嘘をついていいのか。俺はともかく、彼女が被害をこうむる必要はないはずなのだ。
ぐるぐると思考が回っていたとき、がらりと教室の扉があいた。
「ごめんね、朝丘。待たせたかな・・・って、せーじ?」
たった今考えていた彼女の登場である。
「っと、いや、じゃーな、高里、朝丘!俺、帰るから!」
ああ、やってしまった。
俺は高橋を傷つけたのだと、はっきりと自覚した。
彼女が現れた時の、高橋の顔。そんなものを、見てしまった。
見なければよかった。俺は彼を盛大に傷つけた。
痛ましいような、苦しいような、悔しいような。
そんな、表情を。
一瞬して、そして気丈に笑った。
明らかに無理やりで、帰り方の慌て具合と言葉のむちゃくちゃなことからみても、もう避けようのないくらいに明白だった。
高橋は、彼女が好きなんだ。
ああ、俺はなんてことをしてしまったんだろうと、いばらのような罪悪感と自己嫌悪が足元に絡みつく。
「うん。じゃあね、セージ」
彼女はひらひらと手を振った。
俺もかすかに笑って手を振る。しかし、高橋のことは見れないままだった。
高橋を見送れば、教室には嫌悪にまみれた自分と彼女しかいない。
「ねえ、朝丘」
呼びかけられて顔を上げる。
彼女は無表情ながら、どこか気遣うような、ひどく優しい顔をしていた。
そんな顔で見ないでくれと思うのに、澄んだ瞳は変わらずぐろぐろとした煮詰まったような色をしている。
「せーじ・・・ってか、高橋に、なんか言われた?」
これで責めるように、あるいは品定めするような視線を向けてくれれば、俺はごまかして、自分の汚さに吐き気を覚えて終わるのだ。
ああ、この女もしょせん同じようなものだと、彼女に幻滅することだってできるのに、そうすれば邪推をされる必要もなくて、他人とかかわらずに済むのに。
彼女はどこまでも、おれに優しくて、ありようはきれいなままだ。
気遣うような、心配そうな色さえ瞳に映すから、俺は小さくごめん、とつぶやいた。
「たかはしに、おれたち付き合ってるよって、いった・・・」
ずいぶんと力のない声に、彼女は目を丸くした。
そのあと、く、とのどを震わせ、おかしそうに笑った。
「そんなに後悔するなら、言わなきゃいいのに。しつこかった?」
疲れてたんだ、と言い訳じみたことを言って、彼女が笑ってくれたことで、少しだけ心が軽くなった気がした。
彼女は目を細め、手をひらひらと振った。
「ねえ、あさおか。触ってもいい?」
どこを、と低い声で聴くと、触らせてくれるなら、どこでもいいよ、と彼女は実に軽い調子で言い放った。
触る。彼女が。人間が。
きたない。気持ち悪い。違う。彼女だ。人間じゃない。彼女は違う。
はあ、と息を吐き。
「手、なら、うん・・・」
俺は片手を上げた。
それでも一応はと口を開いておく。
「気持ち悪いっていうかもよ。あと、振り払うかもしれない。長い時間もむりかも」
わかってるよ、と彼女は苦笑した。
持ち上げた手に、おれよりも小さくて白い手がそろそろと触れる。
彼女の指先は、なんだか冷たいと思った。
夏休みが終わって、秋のはじめ。まだ残暑も厳しく、日中は日の光が痛いほど照り付けてくる。
だというのに、彼女の指先は気温なじまないほど、おれよりも体温が低めだった。
「ねえ、あさおか」
「いっそ、本当にしてしまおうか?」
俺は耳を疑った。目を丸くして彼女を凝視し、そして彼女は困ったように笑った。
「な、ん。なにが」
だから、と彼女は俺を憐れむように口元にかすかな笑みを浮かべた。
「本当に、付き合ってしまえばいいんだよ」
俺はわけがわからないとかいうべきだった。けれど固まってしまって、どうにも動くことを忘れてしまった。
「いいじゃない。私、言ったでしょう。あさおかのこと」
殺せるぐらいには、あいしてるよ。
ぞっとした。おっかない言葉だ。だけど、俺だって彼女が望むなら殺してもいい。
こうして彼女に触れるということはつまり、そういうことなのだ。
「恋なんか、してもいないのに?」
「そんなわからないものより、確かな純愛を選ぼう」
あい、と口にして、そうだよ、と彼女は微笑んだ。
「恋は邪なものなんだって。私は、朝丘に大切な人ができても、好きな人ができても、幸せを願ってこの手を放せる」
そしてそっと、彼女は手を離した。
選択を与えられた。
どうする?と示された言葉は、俺のウソを肯定するためで、俺を救おうとするかのようだった。
俺と彼女にあるものはどこまでも純粋だ。
彼女が願うなら彼女を殺してもいい。触れてしまった。しまえた。それが何よりも現実として俺を打ちのめす。
俺は泣きそうになりながら、彼女を見上げた。
「寄り添うだけで、いいんだよ。どうか、おれと・・・」
地獄を見よう?といえば、にいいと彼女は笑った。
生きることは地獄だ。俺も彼女も、生きることのむずかしさと苦しさをよくわかっている。
彼女は目を眇めて、その黒さに苦しみと憎しみを混ぜた、激情の色を宿した。
どこか薄暗くかげる彼女の闇の色は、やっぱりどうにもきれいに見える。
俺を取り巻く汚濁と嫌悪に似ていて、彼女の昏さと混ざってしまえば良いのにと思った。
「そういうから、私は好きよ」
こうして俺も彼女も、恋という邪の所在をつかめないまま、寄り添うことを確かな形にした。
よこしまの所在