Fall in fall
はらり、と葉が死んだ。
風に流されたそれは、ちょうど僕の目の前に落ちる。緑から黄へのグラデーション。そこには幾重にも死骸が重なり合い、そんな色相を見せていた。
一枚。また一枚。
目の前で大量の死が繰り広げられる。それは冬を越すための必要な犠牲なのか。それとも意味のない行動なのか。僕にはわからない。
この先にはずらっとイチョウ並木が続いている。この先には行ったことがない。いつもここで足を止めていた。興味もなかった。
死と生が隣り合うイチョウ。この木の下で会う約束をしていたからだ。いつも通り。古しいベンチに腰掛けて待つ。ぎしりと音を立てるそれは老いた父を思い出させた。
将来の夢は医師です。医師だった父との口約束。
なる気はありません。正直解剖でおなかいっぱいです。他人を針で刺すなんて真っ平だ。目標と行動が矛盾していると自覚しています。
治したい患者はいます。約束の相手です。僕が医師になる時期には死んでいるか、生きているか。そのどちらかしかありえません。子供の頃は体の弱い彼女を救おうと必死だった。
きりきりと軋む音と車椅子が来る。道の向こうからゆっくりと。その車輪でいくつもの死骸を踏みつけながら。醜い土のラインを描きながら。車椅子はベンチにの隣まで来ると止まった。
久しぶり、と彼女は言った。
「久しぶり。ごめんね、しばらく会えなくて。ほら、僕受験期だし、忙しくて」
嘘だ。なのに彼女は悲しそうに俯いた。
「ごめん。でも時間を見つけてきっと会いに来るよ。今日みたいに」
「ありがとう。でも、大丈夫なの?」
「良いんだ。君が良くなりさえすれば」
そうだ、と言葉を切る。
結局は彼女が良くなればいい。病気がすっかり無くなってくれさえすれば、僕は過去のしがらみから逃れられる。そして僕は言うんだ。『彼女の病気が治ったのだから、僕は医者にはならないんだ』ってね。
「どうしたの? いきなり黙り込んで」と彼女は言った。「本当は忙しいんでしょう? ごめんなさいね、無理させちゃって。私のお見舞いに来てくれてありがとう。顔が見れただけで十分よ。元気貰った。だから帰っちゃっても大丈夫」
催促する顔は笑顔だった。もう十分だと物語っているように見える。しかし、膝に置かれた手は違うとも言っている。固く拳が握られているんだ。
「それよりも君こそ大丈夫なのか? 来週手術じゃないか」
と話を変えると、彼女は硬直した。
「参っちゃうよね。成功する確率は五分五分だって」
語る瞳は暗い。彼女はそれ以降口を開かなかった。
しまった。失言だった。
体を震わす風が吹く。
多分、僕はもっと早く彼女に会うべきだった。友人として彼女を支えるべきだった。でも僕はそれをできなかった。その資格がないと思っていた。
手が凍えて震える。手先が死体みたいに冷たくなっていた。
彼女が僕の手に手を重ねる。彼女の手も冷たかった。
「金魚」と僕は言った。
「金魚が死んだんだ。君がまだ元気だったころに買った。少ない小遣いをはたいて買った奴さ。覚えてるかい?」
「ええ。金色の尾びれで、小鉢の中をすいすい泳いでいたわね。小鉢もきらきらして素敵だった。でも死んだのなら買いなおせばいいじゃない」
「いや、買わない」
どうして、と彼女は問う。
「買いなおせば皆金魚が死んだと分かるから」
「そう、誰にも秘密なのね」
「そう、秘密の金魚さ」
「他の誰かにとって金魚は生きている。でも私たちにとって金魚は既に死んでいる。そうしたいのね」
「でも誰にとっても金魚は死んだ。真実は変わらない。その事がどうしても僕を傷つける」
「真実は変わらなくても、観測する人が変われば事実は変わるわ」
「自然の法則はずっと変わらない。観測者が誰であれそこにあるのは計測の正確さだけだよ」
「あなたはそれで黙っていたのね」
僕は頷いた。
「金魚が死んだとあなたが言ったのは真実。忙しいとあなたが言ったのは真実。でも観測できなければ真実が事実であるかどうかは計測できない、でしょう」
「何のことだ?」
「あなた嘘言ってないかしら?」
汗が一気に引く。血の気もどこかへ飛んでいった。
去年の事だった。僕は学校に行かなくなった。そこで彼女の見舞いに行くあまりいけなくなったと言えばまだ恰好は付くのだが、そうではない。ただいけなくなった。結果留年した。新学年からは戻ろうと躍起になった。でも駄目だった。
僕を見るあの目! 目! 目!
軽蔑だろうか、嫌悪だろうか。視線が体にまとわりつく。皆が壁を作り僕だけが浮く。そう、幽霊のように。
ある程度人間は決められたルートを通る必要がある。絶対にだ。それを外れれば共感が出来ないからだ。いわゆる『あるある』が欠如する。
それのない不純物はヒトではない。人に似た何かだ。
そんなヒトモドキは彼女に会って何を話すと言うのだ。多分何もできやしない。
彼女に会うべきか。今でも迷っている。人生は円環に考えよ、と高僧は言った。確かに僕はいつまでも同じところで迷い、同じ結論を吐き出し続けている。
「私に会っても嘘ついて、それでいいの?」
「それしかなかったんだ」
「嘘は嘘でしか塗り固められないわ。そしてその塗装ははがれやすい――」
「知っているさ!」僕は吠えた。「だけど誰が僕を責める? そうでなきゃ生き延びられなかった。一回、小さな嘘をつくしかなかったんだ……。だけど一時の嘘は永遠にどこまでもついてくる。ずっと己を貫かずにそれを貫く。別のところで吐き出しても嘘をつくしかなかったんだ。誰が僕を責めるってんだ。君か? 父か――?」
「誰も。君の良心だけ」
「ならいいじゃないか。君には関係ない」
「罪の意識に苛まれて居続ける存在を知ってる? 幽霊っていうの。あるいは亡霊。彼らはそれに後ろ髪を引かれているからそんなありようを描かれているの」
「知ってる。そんなことは知ってる!」
「あなたは幽霊で居続けるの?」
僕は黙った。
考えを張り巡らす。僕はどうありたいのだ。彼女を見る。
「君は、どうしたい?」
え、と彼女は問い返す。
「君はどうしたいんだ?」
「私は……」
彼女は口を手で覆う。そして覆いを外して言った。
「私はどうにも出来ないから、運命に任せるしかないから、祈るしかない」
「どうしたいんだ? 希望を聞きたい」
「希望……生きたいか、死にたいか、私は選べない」
どうして、と僕は言った。
「生まれてこの方ずっとこうだった。病気がよくなったと思った翌日に死ぬほど苦しい思いをした。死んでしまいたいと願っても、死なずに生き延びることもあった。死んで楽になるのもいいし、生きて人生を謳歌するのもいい。どっちかって言えば生きていたいけれど、もう辛いのは嫌」
「辛いのは嫌か」
そう、と彼女は頷いた。
「辛いの、苦しいのは嫌。もう散々よ。夜に苦しみぬいて吐いたことがあったわ。そしたら気管に吐いたものが引っかかって窒息したの。気絶してしまえば気が付かないうちに生き死にが決まったのにそれさえできなかった……。ヒューヒュー鳴る喉も、心臓が拍動するたびに痛む頭もずっと、痛いのに苦しいのにずっと一晩中続いたわ。もう情けなくて涙が出てきたのよ。窓から日が差してきたころにようやく落ち着いて『ああ、今日も生き延びてしまった』とさえ思ったわ。もう嫌よ。生きても死んでも地獄なんて」
「なら死にたい? それとも生きたい?」
「一番嫌だったのは、傍にあなたがいなかったこと」と彼女はきっぱり言った。「どんなに苦しくても」
これだから秋は嫌いだ。生と死の間の季節だから。動的な夏と静的な冬の狭間。いつだって死の匂いがする。
僕も彼女も死の匂いがまとわりついている。彼女の言うように幽霊かもしれない。幽霊が幽霊たるゆえんはなんだろう。人と幽霊の違いは一体なんだろう。
死んだ葉が付いていた枝には、まだたくさんの葉が付いている。しがみついていると言い換えてもかまわない。ちょうど太陽が落ちかかり、空はまだ青い時間帯。幸運にも鮮烈に脳に焼き付く光景を目の当たりにした。
後ろの樹が影になっているのか、その樹だけが日に照らされている。それ以外の針葉樹や広葉樹は影役となり、まさに主役にスポットライトを当てるかのごとく、その樹が陽に照らされているのだ。
「もう、良いだろう」
彼女も頷く。
「もう、十分に頑張った」
僕はナイフを取り出す。彼女をちらりと見やった。穏やかな表情だ。
軍用ナイフのように強固なものではないが、十分に肉を絶つことは出来るナイフだ。鏡のように磨かれたそれをもう一度見た。一度銀色に光る刃を撫で、ため息をついた。彼女に近付くために立ち上がり、また座る。続いてナイフを順手でしっかりと持った。もう一度彼女を見やり、そして意を決して彼女の胸に体重を乗せて刺す。
吐息が彼女から漏れた。介錯に喉も掻っ切った。後は事切れる。
自然と震えない手にいら立ちを感じる。血に塗れたそれを思い切り心臓に突き立てる。何度も何度も刺した。怒りを鎮めるために何度も刺した。歯を食いしばって悲鳴を止める。だけど血液だけはどうしようもなく僕から離れていく。
ついでに喉も掻っ切った。意識が白く遠のく。力が入らずぶらりと頭が落ちる。
赤から黄、黄から緑へのグラデーション。それが鮮烈に焼き付いて離れない。
Fall in fall
存在がグレーの小説。
一時は大会用に考えていたが、色々不味いのでここに埋葬。
サリンジャーを半端な知識でリスペクトした結果がこれだよ!!
ナインストーリーは買ったので後はライ麦畑を捕まえます。
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