衒われの実

殻だから

 三時間目の授業は国語で、宿題の解説に充てられていた。作問に使われている文章は評論で、テーマは心身二元論。なんでこう小難しいやつばっかり選んでくるかな。先生の方にもカリキュラムだかなんだかよく分からない大義名分があってこの問題を解かせたんだろうけど、私達生徒の受け止め方なんてたかが知れてる。「次の試験範囲これかよ」とか、「本当にこんなの受験で出るのかよ」とか……そんなものだ。
 そうは言っても私達、受験対策シーズン真っ盛り。秋も深まっていよいよ大学入試まで余裕がない。だからまぁ、一応ちゃんとやるよ。やるけどさ……。先生が記述問題の解説をお経みたいに唱え続ける中、私は周囲に聞こえないよう小さく溜め息をつく。こんなもの、どうやって理解しろと? さっきはちょっとしたジョークのつもりで「お経みたい」だなんて思ったけど、あながち間違いじゃないような気がして笑えない。お経だって、宗派によっていろいろと違うんだろうけど一応ちゃんとしたありがたい意味があったはずだ。でも、「南無」の意味がどうのこうのなんて私達が日常生活を送る中では知る由もない。どんなにありがたくったって、使えて役に立ってなんぼ、でしょ? もう一度先生の言葉に耳を傾ける。うん、やっぱりお経だこれ。
 敢えてものすごくざっくり言わせてもらえば、この二元論って要は「肉体」と「精神」が別物だって言ってるんだよね? ……だよね。それはそうだろう。いや、脳のメカニズムとかは詳しくないから知らんけど。でも、個人的な意見を言わせてもらえばそんな感じなのかもなと思う。二元論、OK。解った、完璧。でも、実際に問題を解こうとするとそうは問屋が卸してくれない。
 右手に持ったシャーペンを、こっそりもう一方の手の甲に突き立ててみる。別に被虐的な趣味があるとかじゃなくて、ほんのふとした思いつきだ。身体って何なのか、心って何なのか……そんな考えを巡らせて真っ先に思いついたのが、身体は傷ついていなくても心が痛むの、みたいな情景だったから。逆に身体が傷ついても心は平気かな、なんて。
 授業中にこんなことをしてるなんて他の誰かに、例えば隣の席で退屈そうな表情を浮かべてノートに落書きしてる遊美(ゆみ)なんかに気付かれたらどんな反応をされるだろう。……引かれるかな。一応、自分でもかなりひねくれたことばっかりやってるなっていう自覚はある。もしかしたら、私はここまでやってみたけどそれでも理解できなかったんだっていう大義名分が欲しいのかもしれない。それで自分が得するわけでもないのに。
 今度は誰かに聞かれるかもしれないくらい大きくやるせない息を吐き、シャー芯の先が食い込んだ左手の甲に目を落とす。無意識に手加減してしまったのか思ったほど痛くはなくて、それでも痛みがあることには変わりなくて、結局身体が受けたこのダメージが精神と、それからもちろん肉体にどれくらいの影響を与えたのかなんてさっぱり分からずじまい。「ニクタイ」って、「セイシン」って何だ? ゲシュタルト崩壊してくる。
 こんな調子で、私は何かを理解しようとする時にはいつも、とりあえず形にしてみないと気が済まない。要は「百聞は一見にしかず」ってやつだ。良くも悪くも目から入ってくる情報にとことん従順で、一度でも目にしてしまえばたいていのことはそれで納得してしまう。遊美の言い草を借りるなら「理系っ子」ってやつらしい。
 理系科目に強いつもりはそんなにないけど、確かに観念的な哲学や理論は聞いていて頭が痛くなる。抽象的な話にしても、言葉の綾で煙に巻かれるより数字と記号で全部置き換えてしまう方がずっといい。いっそ、目の前で実験でもしてくれればいいのに。そうすればきっと理解できるはずだから。
 そんな風に思った、その瞬間――。

***

 ――消えた。
 暗転……と表現するには暗いわけでもない。明暗とは別の感覚。無理に言葉にするなら、目を閉じてまぶた越しに見る景色、みたいな感じか。声は出ない。耳が聞こえない。多分、目だって見えていない。それ以前に身体を感じられない。なんだ、これ。パニックがじわじわと私を蝕んでいく。
 そうすると、身体と切り離された「何か」になってしまった私はどんどんパニックに近づいていく。パニックに、文字通り侵されていく。なんだこれ。「私」って「何か」って、なんなんだ。
 ……精神、なの?
 形のある肉体のあれやこれやと完全に別物になってしまった、意識とか思念とか魂とか……よく分からないけどそういうやつ。今の「私」はあくまで精神だけの存在で、身体には手が届かない。と言うよりもその「手」すらないような。それでも「私」は確かに「いる」わけで。身体と精神がそれぞれに存在するような、そんな……二元論?
 いやいや、そんなことあってたまるか。哲学って言うのは形而上の話で、それって要はいくら真面目に議論したところで所詮は可能性をあれこれあげつらってるだけのことで、そういうのは普通に生活してれば何も関係ないはずのことで……。
 だったら、なんでただの高校生がこんな目に遭うわけ? 「私」の存在自体が形而上の「何か」になっちゃうわけ?
 嫌だ。
 冷静な恐怖がパニックに取って代わる。例えるなら、全財産をまとめて空き地に放り捨てたままその場を離れてしまったような感じ……でもないか。正直言ってそんな怖さじゃ比にならない。教室に置いてきぼりにされてるのは他でもない私の身体なのに。……どう、なってるんだろう? こんな怖さってそうそう無い。これに比べたら、緊縛に鞭やら蝋やらっていうプレイの方がまだマシかもしれない。自分の身に起きてることが現在進行形で分かるだけ、ずっとフェアだ。もし精神が肉体に戻れたとしても、その時まだ自分の身体がちゃんと形を留めている保証なんてどこにもないんだ。仮に意識が戻ったとしても、その時にはすでに棺桶の中で炎に炙られてましたなんてのは洒落にならないし、生きてたとしても気付いたらだっぷりと違和感の塊を抱え込んだお腹を膨らませてベトついた臭気の中に転がされていて素肌のいたるところに書き殴られた正正正正正……気持ち悪くなってきた。
 ところで今、私の心は気持ち悪いという思いで満ち満ちている。それで「私」はどうやらその心というか意識そのものみたいだから、いわば「私」は「心」で、「心」は「気持ち悪い」。よって、三段論法的に「私」は「気持ち悪い」が完成します。誰が「気持ち悪い」だ、ふざけんな。なんて、我ながらくだらないことを考えたわけだけど、そんなバカみたいなジョークを思い浮かべている間にちょっとだけリラックスできてしまう。人間って不思議。慣れって怖い。
 落ち着いたところで改めて状況を、今度は特に周りがどうなっているのか確認する。どうやら、目に見えるものなんてひとつもないこの世界も全部が全部「無」ってわけではないらしい。自分の知ってる感覚で説明しようとするとどれもしっくり来ないけど、それでも語弊を恐れず言えば、「光」のようにして感じられるものがたくさん広がっている。「まぶた越しに見る景色」の例えを繰り返すなら、太陽や灯りを透かして見た時のうすぼんやりしたオレンジともつかないちょっとだけ眩しいアレみたいな感じ。それはやっぱり私達の知っている「色」とは違うけど、どこか濃さや暖かさ、強さを感じさせてくれる。もしかしたら、これは他の人達の精神なのかもしれない。普通は見ることなんて出来ないはずのそれをこうして感じるのは少し面白くもあった。
 すぐ近くには、のっぺりとしていて沈み気味な倦怠感の塊。反対側に、やたらとチクチクする神経質な印象。それからふつふつとたぎる……。
 苛立ち?
 苛立ちのようだった。みんなとは少し離れたところに、放散されている苛立ちの塊がある。それを受けてか、辺り一面が興味に染まった。私のすぐ隣はどういうわけかかなり楽しげ。この楽しそうなのは、場所的にも能天気な気質的にもやっぱり遊美なんだろうな……。
 そうやって感情の海を眺めるうちに、「私」にもなんとなく起きていることの予想がついてくる。多分、怒ってるのは先生だ。理由はきっと、私の肉体から精神が抜けてるせいで居眠りしてるようにしか見えないから。クラスメイトは、滅多に授業をサボらない私の珍しく不真面目な態度に興味津々。先生に私を起こすよう指示されたのか、遊美は私の身体に近づいて……。遊美らしい楽しさの塊が一瞬で凍りついた。不安が一気に増大していく。遊美の中でも「私」でも。こうなると、大体のところは嫌でも見当が付く。私の身体、起きないんだよね? だって、「私」は身体(そこ)にはいないわけだし。
 先生が緊張感一色になって、ざわざわとした不安が周囲に伝染していった。中にはちらほらと好奇心を滲ませた塊もいる。
 誰かが、教室を飛び出していった。それもひどく慌てた様子で。そのあとにぽっかりと空いた場所は確か……土肥(どい)覇姫(はるき)の席があるあたりじゃなかったか。だとすれば、あいつは保健委員だから納得がいく。
 その後も、しばらくは感情の揺れが教室中をさざ波のように寄せては返していった。先生はいつの間にかすぐ側まで来ていて、普段見る仏頂面からは想像もつかないほどに心を波打たせている。そうこうしているうちに、駆けだしていった土肥が戻ってきた。行ったとすれば保健室か職員室なんだろうけれど、それを考えるとじりじりと嫌な感じが私を蝕む。どうか、どうか大ごとになってませんように。当然自分の身体のことも心配だけど、「私」はとりあえずこうして無事で「いる」わけで、今更焦るようなこともない。それよりもむしろ、変に悪い方向に解釈されて救急車を呼ばれたりしてないか、なんて方が気がかりだ。
 遊美と先生のいる辺り、要は私の身体が転がってる傍らだろうけど、土肥はそこまでやってきた。土肥が先生の正面に陣取り、やがて二人はその間にスペースを空けて並ぶとせかせかと移動を始めた。更に遊美ともう一人がその両端に付き、遠くへ去っていく。そんなパーティーのど真ん中には謎の空白。……あれ、私の身体、担架か何かで運び出されてる? そう直感して、私は慌ててその後を追う。
 遊美の席は窓際、つまり教室で一番左端の列で、私の席はそのひとつ右隣。そんなわけで、私の身体が廊下へと運ばれていく最中には感情の波が教室の左から右へとさざめきたっていった。それが、さながらスポーツ観戦なんかの時にやるウェーブみたいで結構壮観。なんて思ってる間に一行はクラスメイト達の海を離れ、廊下であろう場所を進んでいく。向かう先は保健室か救急車か。ここまではなんとか状況を把握できてるっぽいのが自分でも驚きだ。ただ強いて言えば、教室を出る時のごたごたでもう一人の付き添いが誰だったのか確認し忘れたのが悔やまれるけど。
 それにしても、私を運んでくれているのは本当にあの土肥なんだろうか……。本当にそうならいいのに。そう考えると顔が熱くなる……ことは今の「私」にはないとしても、自分が疼くような感じがした。その精神はとても心配そうで、怯えてすらいるようで、それはそれで大げさな気もするけど心配される方としては悪い気はしない。
 しばらく動き回ると、やがて一行はある場所で止まった。保健室、かな。他に人はいないみたいだ。先生が少しだけほっとしたような気色を見せ、保健室を出て行った。もしかしたら、保健の先生を呼んできてくれるのかもしれない。少し遅れて、同伴してくれたもう一人の誰かもその場を離れる。それから遊美も……って、ちょっと待て。まさか寝たきりの女子高生をあの土肥と、これまであんまり考えないようにしてきたけどどう見ても肉食系男子の土肥と、同じ部屋に放置する気か!
 全力で叫んでやりたいけど、「私」がどう足掻いたって今はめらめらしたりかっかとしたりが関の山。
 どうしよう。ああ、もう――!

心得

 ――うるさいチャイムが鳴っていた。三時間目が終わったらしい。
 ……というか、チャイムが聞こえる? 耳が、聞こえる。息もしてる。身体がある。目を開けると蛍光灯の明かりが必要以上に眩しい。光って手触りこそないけど物理的なものだったんだなぁなんて生まれて初めての感慨に浸ってしまう。
 見渡せばやっぱりそこは保健室で、独特のあの臭いが鼻をつく。私が動きたいと思えば手が足がうねうねということを聞き、それで、それでいったい……? いや、そんなことよりまず先にやらなきゃいけないことがあるんだった。
「遊美、待って!」
 身体をベッドから跳ね上げ、今まさに保健室を出ようとしていた遊美を止める。遅れてどっと汗が噴き出してきた。
「なんで出てっちゃうわけ!?」
「あ、おはよ~、理得(りえ)。えっと、何だったかなぁ……。あっ、そうだ、里山(さとやま)先生が保健の先生呼んで来るって」
 暢気だ。このクラスメイトは、いくらなんでも。私は頭を抱えて溜め息をつき、文句を垂れた。
「勘弁してよ。こんなとこで二人っきりにされるとか、もうだめかと思った」
「ごめんごめん。でも、それって土肥君がいるとこで言わなきゃダメなこと?」
 あ、失敗した。振り向けば案の定そこには微妙な表情の土肥覇姫が立っている。
「いや、その……」
 しどろもどろの私に、土肥は何も言わずただ怪訝そうな表情を浮かべていた。もうどう足掻いたって言い繕いようがない。うなだれる私に土肥はとりあえず無難な対応を決め込んだらしく、いつもより少しだけ固いトーンで「このままここで休むか?」とだけ言った。
「大丈夫。教室戻る」
「肩でも貸すか?」
「ううん、いい」
「そっか」
 沈黙が重い。遊美はひとり離れたところでいつも通りにこにこしてるけど、今だけはその笑顔さえ憎らしい。誰が何を切り出すわけでもなく、時間だけが過ぎていく。でも、何も言うことがないってわけじゃないんだった。うん、今のうちに言っとこう。
「ありがとね、いろいろと」
 土肥はきょとんとした顔で私を見た。普段は見せないそんな素朴な表情に、私もちょっとだけ戸惑いが滲んでしまう。何か言葉を返そうと思ったのか土肥が口をもごつかせ、私もつられて神妙な面持ちになって土肥の返事を待つ。だけど、そこにちょうどやってきた保健の先生に気付くと土肥は言葉にするのを呆気なく諦めて踵を返してしまった。
「じゃあ、俺、先に戻るから」
 それだけ言って、さっさと部屋を出て行ってしまう。何事もなかったかのようなその素振りに気が抜けて、さっきまで気付かなかった疲れがどっと押し寄せてくるのを感じた。半笑いの遊美に気遣われながらベッドを降り、保健の先生にひとこと大丈夫だと断って保健室を出る。先に帰った土肥の姿はもうそこにはなくて、私はそのことに安堵と落胆の両方を感じた。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、遊美が気の抜けるようなことを訊いてきた。
「ねぇねぇ、四時間目出る?」
「そりゃね」
「残念だなぁ。理得が休んでくれたら『付き添いです』って言って次もサボれたのに」
「また遊美はそんなこと言う」
 そんなやりとりをして笑いあう。そういえば、四時間目は何の授業だったっけ。何となく訊くと、遊美もうろ覚えだったみたいで少し目線をさまよわせた。
「えっとねぇ……世界史」
「思いっきり暗記科目か」
「だねぇ」
「ちぇっ」
 いつの頃からか、歴史の授業は嫌いになっていた。せっかくの偉人達の武勇伝が、端折られて淡々と並べられて味気なく押し込められているような気分にさせられるから。これって、私達と少し似てるような気がする。いろんな輝きを持ってるはずの精神が、肉体っていう殻に閉じ込められてるところが。別にそれが悪いことだなんて言いたいわけじゃないけど、身体で表せる嬉しさや悲しさには限界があって、それで心の鮮やかさが台無しにされてるような気がしてしまうのだ。それはやっぱり悲しいし、第一もったいない。
 でも、それでいいんだと思う。心に蓋をされて伝えられないことがたくさんあって、心の盾を構えて隠してることもいっぱいあって。不自由で。そうでなきゃ、きっと、やってけない。
「そういえばさ、保健室に行くときなんだけど」
「うん?」
「先生と土肥で運んでくれてたんだっけ」
「そだよ、土肥君だよ~。ヒュ~」
「そういうのいいから」
「わたしはほら、理得のことが心配で付き添いしてたんだよ。授業サボれるからとかじゃないよ? ホントだよ?」
 いや、どうせ先生がいないんだから授業は中断だったろ。なんてツッコミは抑える。
「それとさ、もう一人付き添いがいたでしょ。あれ、誰だったの?」
「……『もう一人』って?」
「いたじゃん、土肥のすぐ横」
「あれ? 気を失ってたんだよね……」
 あ、そっか。「私」は思いっきり周りのことを観察してたけど、みんなからすれば私って意識がなかったんだった。
「そ……それはともかく! あれ誰? 一応お礼言っときたいから」
「いや、だから知らないよ? そんな人」
 知らないって……。知らないもなにもアイツが歩いてたのは遊美の目と鼻の先だったのに。そんなはずない。だって、それならアイツは何だったって言うわけ? そんなの、そんなのって。
「理得……なんかいつもより怖いよ?」
 遊美が、不安そうに私の様子を窺う。私も、自分がひどく動揺してることはわかってる。
 遊美には見えてなくて、私には感じられた何か。身体はなくて、でもあのセカイでは鮮やかに泳ぎ回っていた何か。そんなもの、意識とか思念とか魂とか……よく分からないけどそういうやつしかない。ちょうど私がそうなってしまったみたいに。
 そっか、そういうことか。私達が知らないだけで、肉体なんて檻に囚われない自由な「何か」はずっと私達の側にいるのかもしれない。アイツはきっと、身体とはぐれてしまった私のことを心配してずっと寄り添ってくれてたんだ。
 ――さもなければ。
 偶然精神が抜け出てもぬけの殻になっていた私の身体を、アイツは……いや、何考えてるんだ、私。
「ごめん、遊美。なんか変な夢見てたみたい」
 もうすぐまた退屈な授業が始まる。私には、教室に戻ってみんなに好奇の目を向けられたり下手な気遣いをやり過ごしたりする気まずい時間が待ってるんだ。形而上の益体もない話なんて、構ってる暇はない。私はこの身体(せかい)だけで手一杯なんだから。

衒われの実

衒われの実

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-11-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 殻だから
  2. ***
  3. 心得