実録 阪急電車

実録 阪急電車

この時期になると、本当に億劫になる。あと1分、あと1分だけ。毎日がそうだ。その葛藤が、午前6時から6時半ごろまで続く。
いつも、妻が先に仕度を始める。その気配を感じながら、6時半過ぎに
「もうこれ以上はダメだな」
とあきらめて、布団をたたみ始める。ひやっとした空気が身にしみる。
 しかし、この日は状況が違った。
 カーテンの向こう側が少し白んできているのに、妻の気配がない。まだ、時間が早いのだろう。ぼんやりと、そう高をくくっていた。右、左と体勢を変えながら、モゾモゾしていた。
 ふと、目が覚めた。あれからまた、時が流れたようだ。枕のそばに置いていた携帯電話をのぞく。寝ぼけた脳天に、電流が走る感覚を覚えた。
「午前7時9分」
 あかん。ぼくがいつも乗っている電車は午前7時ちょうど。それにはもう乗れない。次は7時7分。それも無理。次は14分。それも難しい。次は・・・21分だったか。それが、職場の勤務スタートに間に合う、ギリギリの時間だった。
 我が家から、最寄りの王子公園駅までは、歩いて7分ほど。走っても3分はかかる。着替えて、走って・・・。どう計算しても、厳しい状況だ。
 人生初の「寝坊による遅刻」を経験しなければならないのか。
 ぼくは割と、時間にはうるさい人間だ。時間を守らないやつなんて、社会人失格だと思っている。飲み会でも、連絡なしで遅れてくるやつの気が知れない。そんな自分が寝坊するとは、屈辱的だった。
 この失態を、妻のせいにすることはできない。毎朝、妻の気配に頼っていたのは、ぼく自身の甘えだ。そういえば、思い出した。2歳になる娘の調子が悪く、「明日は仕事を休んで面倒を見る」と、昨晩話していた。その記憶は確かだ。しかし、「朝はいつも通り起きない」とは、ぼく自身が理解していなかった。
 まだ、布団の中で娘と眠る妻を横目に、できる限りのスピードで着替えた。バタバタしているのに気づいたのか、妻が寝ぼけながら言った。
「大丈夫?」
 ぼくは即座に答えた。
「大丈夫じゃない」
 時計をはめて、家を飛び出した。いつもなら、ガランとした水道筋商店街を通るルートで駅に向かう。駆け足のまま、時計に目をやった。7時20分。ということは、タイムリミットの出発時刻まで、あと1分だ。ここから駅まで、走っても3分かかる。もうダメだ。覚悟した。
その時だった。
 幹線道路わきに、タクシーが1台止まっていた。ドアが開いている。客待ちをしている。何か急に光が見えた、そんな気がした。すかさず、飛び乗った。
 行き先を伝え、急いでいることを伝える。すると、運転手さんは法定速度を少しオーバーして、ぼくの人生に協力してくれた。ラッキーなことに、信号には引っかからない。スムーズに、駅に到着した。
 エスカレーターを駆けのぼり、改札に入る。そして、長めの階段を降りると、そこにはワインレッドのいつもの車両が悠々とした姿で、待っていた。
「助かったぁ」
 滑り込みセーフだった。
 ぼくはタクシーに乗って、最寄り駅の次の、六甲駅に向かった。その駅では、後続の特急列車に抜かれるため、若干の待ち時間がある。そのため、王子公園駅を7時21分に出発しても、次の六甲駅を出発する時刻は7時26分ごろだろうと、踏んだのだ。その見立ては、ほぼビンゴだった。特急に追い抜かれ、普通列車はいつも通り、出発した。
 気持ちは高ぶっていた。いつもの車両なのに、なにか感触がちがう。特に、シートがじんわり温かいような気がした。
 1駅、1駅。順調に職場に近づく。人生初の「寝坊による遅刻」を、奇跡的にリカバーできた満足感にひたりながら、携帯電話でニュースをチェックしていた。職場の最寄り駅である武庫之荘駅まで、残り3駅の手前まで来た、その時だった。
 第二の試練が、襲ってきた。
 これは、あかん。温かいシートがそうさせたのか。原因はわからない。でも、これだけは言える。もう、耐えられない。最悪のシナリオがよぎる。ぼくは人生最大の恥を、この車内で経験しなければならないのか。
 夙川駅に到着。ドアが開く。迷いはあったが、飛び降りた。もう遅刻は仕方ない。ほかの路線からの乗り換えの人に逆流する。サラリーマンと肩が当たる。
「すみません」
 相手からの反応は、ない。とにかく向かった、その場所へ。
 スライドドアが視界に入っていた。取っ手の下の部分が、青く見える。「空き」だ。勢いよく、ドアを開ける。閉める。すかさず、ベルトに手をあて、はずす。目では紙があるかを、確認する。しかし、ない。もういい。ハンカチでもなんでも、どうとでもなる。
 ぼくは、水のたまった、白いいすに座った。そして・・。
 「九死に一生」とは、このことだろう。もう恐れるものは、何もない。遅刻なんて、平気だった。適当な言い訳でも、考えることにしよう。気持ちはどんどん晴れ上がっていく。紙もいらない、と思っていたら、手の届くところにあった。きっと、神様からのプレゼントだろう。
 というわけで、第二の試練も、なんとか乗り越えることができた。
 そして、ご褒美がやってきた。その場を離れ、ホームに戻ると、次の特急が到着したところだったのだ。ぼくはそれに乗り込み、次の西宮北口駅で、普通列車と感動の再会を果たした。そして、1駅先の武庫之荘駅に、無事たどり着いた。勤務スタートの前に、滑り込むことができた。
「おはようございます」
 何事もなかったかのように、1日が始まった。試練を2つも乗り越えて、ぼくがこの場に立っているなんて、誰も知らないだろう。まぁ、知るわけがないし、言うほどのことでもない。さぁ、今日も1日、がんばるぞ。

実録 阪急電車

実録 阪急電車

ハリウッド進出か!?主演はトム・クルーズ。実現した際は、阪急沿線のみなさま、撮影でご迷惑をおかけします。

  • 小説
  • 掌編
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-31

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