雨がやんだら(3)

 ここまでのことを話し終えると、花田博之は小さく笑った。
「なにか、おかしなことでも?」
「いや、その尾藤さんって方、変な……いや、面白い方だなと思って」
 博之の率直な感想を聞いて、思わず笑みがこぼれる。「……確かに、昔から変な男だったね」
 尾藤が私のこの言葉を耳にしたら、〝きみにだけは言われたくない〟と反論するに違いない。ただ、尾藤と博之は気が合うのではないか――ふと、そんなことを思った。おそらく尾藤は博之のような少年だったのではないだろうか。華奢で繊細な外見に包まれた、したたかな心を持った少年――
 博之はベッドに横たわる女のほつれた前髪をそっと直した。それからひとしきり女の額を撫でてやり、ぽつりと言った。「だけど……すごいな」
「なにが、すごいんだい?」
「もう初日から、〝オヤジさん〟のところへ行ったことまで、突き止めてるじゃないですか」
「だから言ったろ? こういうことをやってメシを食ってるんだって」
「そうでしたね。失礼な言い方でした……ごめんなさい」博之は素直に謝罪をした。
「ただ、パリに行ってるとかで、すぐには会えなかったけどね」
「そうなんですか? 僕が会ったときには、そんなこと言ってなかったのに……」博之はそっと目を伏せて続けた。「まァ、〝オヤジさん〟からすれば、僕には言う必要がなかったってことなんでしょうね」
「どうなんだろうね――」私は博之の問いかけをはぐらかして、窓の外へ目をやった。
 窓の向こうは、まだ五月雨に煙っていた。

   九

 〝ハリ校〟こと〈聖林学院〉の男子寮を訪れた翌日、朝食を採ることなく私は事務所へと出向いた。しかし、私の事務所がある最寄り駅に到着する頃には、前の晩に食らったボディブロー――〈ヴェルマ〉の〝カツスパ〟の効果も薄れ、かすかに空腹を覚えていた。どうやら、自分で思っているよりも胃腸は若いようだ。
 都心にあるせいか、日曜日には閑散とする道すがらのコンビニエンスストアで、ハムサンドとトマトジュースを購入して路地に入ると、私の事務所がある雑居ビルの前に、見覚えのあるトヨタ・センチュリーが駐車されているのが見えた。そのセンチュリーの助手席から、グレーのスーツを着たすらりとした背の高い女が降りてきた。
 森真砂子だった。バックミラーかサイドミラーで私の姿を確認したのだろう、真砂子は助手席から降りてくるなり私に向かって一礼して、慣れた動作で後部座席のドアを開いた。後部座席から降り立ったのは、今回の依頼人である林信篤だった。今どき珍しいベージュのマオカラースーツを身につけた林は、〈聖林学院〉の理事長兼学院長というよりも、古いハリウッド映画などで見かける華僑のようだった。
「おはようございます」林が右手を挙げて挨拶をした。先日、事務所を訪れたときのように大きな声だった。どうやら彼は地声が大きいらしい。
 私が目礼を返すと林は顔いっぱいで恐縮した表情を作った。「いやァ、昨日の夜は申し訳ない。どうしても断れない約束が入ってしまってねェ」
「いや、そちらには、そちらの事情もあるでしょうから……」私は雑居ビルの五階を指差した。「とにかく、立ち話もなんですから、どうぞ」
 ――日曜日だからいいようなものの、道端でこんな大声で話されるのは、堪ったものじゃない
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、林は「では、お邪魔させていただきます」と大きな声で言って、先頭を切って雑居ビルの中へと入っていた。真砂子は助手席のドアを小さく開けて運転手に一声かけてから、私を一瞥して林の後に続いた。その目の色を見る限り、彼女にとっても林は扱いづらい上司のようだった。
 大人三人が乗るには、いささか不安のあるエレベータに揺られて、五階にある私の事務所へと向かった。
 ふたりを応接セットに通し、申し訳程度の流しでパーコレータに水を入れて、火にかける。ここまでぶら下げてきたハムサンドとトマトジュースは、冷蔵庫にしまっておいた。
 応接セットの方から「お構いなく」と真砂子の声がしたが、聞こえないふりをした。彼らが顔を見せようと見せまいと、こうして事務所に来て最初にコーヒーを淹れるのは、私の日課なのだ。
 やがてパーコレータから、かすかにコーヒーの香りが漂い始める頃、今度は林が声をかけてきた。しびれを切らしているのだろう、口調にはトゲがあった。「本当に、お構いなく。私もこの後、予定がありますから」
「そんなに時間はかかりません。少しだけお待ちください」せっかちな理事長に答えて、パーコレータからコーヒーを注いだ。来客用のコーヒーカップを手にして振り向くと、そこに真砂子が立っていた。コーヒーを淹れることに集中していたようで、真砂子の存在に気づかなかった。危うくコーヒーカップを落としそうになる。
「わたくしがお持ちします」真砂子は事務的にそう言って、私からコーヒーカップをふたつ〝奪い取って〟応接セットに戻っていった。
 仕方なく自分のマグカップだけを手にして、彼らと向き合うように応接セットに腰を降ろした。
「どうぞ」と私がコーヒーを勧めるままに、林と真砂子がコーヒーを口に含んだ。
「いやァ……待った甲斐が、ありましたな。美味しいコーヒーです」コーヒーカップを置きながら林が言った。
 林の科白がお世辞であることは、林の隣に座った真砂子の表情が晴れないことから、うかがい知ることができた。私も一口飲んでみたが、やはり飲めた代物ではなかった。煮出す時間が短かったせいだ。これでは、味も香りもないただの黒い液体だ。コーヒーは後で淹れ直すしかない。
 このコーヒーのことはひとまず忘れて、本題を切り出した。「花田博之君の保護者なんですが……」
「ああ、花田君の保護者の件……その件なら、森から聞いています」
「私がいただいた資料には、彼の保護者として、花田浩二、恵子と書かれていますが……彼の父親は、下山文明という方のようですね?」
 林は真砂子をちらりと見てから、ゆっくりと不味いコーヒーをすすり、行儀良くコーヒーカップをソーサーに戻した。そして私、真砂子の順に視線を走らせてから、口を開いた。「ええ、そうですよ。下山文明さんは、花田君のお父さんです」
「そう……なんですか」林の隣で真砂子が呟いた。彼女は下山文明が花田博之の父親であることが事実とわかり、素直に驚いているようだった。
 私も多少は驚いたが、それ以上に、もったいぶった割には、あっさりと認めた林にいささかのいらだちを感じていた。「どうして、私がいただいた資料に、そのことが書かれてなかったんです?」
「書いておいた方が、よかったですか。言い方は悪いですけど、その必要はないと思いまして……」
「そんなことはない。花田君を見つけるためにも、出し惜しみをせずに、すべて教えていただきたい」
「そうですか……それは、申し訳ない」林が謝罪をした。言葉とは裏腹に、悪びれる様子は見受けられなかったのだが。
「学院長」と真砂子が声を高くして、割って入ってきた。「わたくしは、今仰られたことは、知りません。学院の資料にも記載されていませんでしたし、どういうことなんです?」
「森君、入学する際にだね、彼の身元保証人として……いや、保護者として花田浩二さん、恵子さんの名前が記載されているんだよ……これ以上のことを、きみたち学院の職員や教師たちに、つまびらかにする必要があるのかね」
「ですが、花田君と接するに当たっては、彼の家庭環境などを知っておかなければ……」
「彼の父親が下山文明さんで、しかも今は離婚をされていて、お母様に引き取られた形になっている。しかしだね、保護者のお名前はちゃんと記載されているし、身分も保障されている」引き下がらない真砂子に、林は険しい表情を隠さなかった。「それなのに、きみはそういう複雑な家庭環境の生徒だから、他の生徒とは接し方を変えなければならない……そう言っているのかね?」
「そういうわけでは……」真砂子が口ごもった。まだ教師の性質が抜けない彼女にしてみれば、〝痛いところ〟を突かれたといったところなのだろう。真砂子は唇を噛み締めて黙り込んでしまい、理事長である林は悠々とコーヒーを飲んでいた。
 あまり気持ちのいいものではない沈黙が、私の事務所に漂っていた。私はこの沈黙を破ることにした。私の稼業は教師ではないのだから。
「まぁ、花田君の保護者は、多額の寄付をしているそうですからねェ……」私は言った。「理事長としては、彼の個人情報をそうベラベラとは、しゃべれないでしょうなァ」
 林が険しい顔を私に向けてきたが、すっとぼけて話を続けた。私は学校経営などに関心はない。どうでもいいことだ。「さて、花田君なんですが……姿を消した当日、父親である下山文明さんに会いに行ったようです。これについては、複数の証言を得ています」
「それは、どういう意味ですかな」低い声で林が言った。私が口にした〝多額の寄付〟に関することについてなのか、博之が下山文明に会いに行ったことなのか――当然、後者のことだと判断して続けた。「私は下山文明さんに会わなければならない。そして今後、事と次第によっては、彼の保護者である花田浩二さん、恵子さんに、接触を図る必要も出てくるかもしれない」
 林はグゥっと喉を鳴らしてソファに背中を押しつけると、天を仰いで目を閉じた。膝に置いた右手の指をカタカタと動かす。理事長の頭の中では、様々な計算が行われているのに違いない。
「それと、花田君に関しては、隠し事をせずに情報を改めて送ってください」
 やがて指の動きを止めると、林はコーヒーカップを持ち上げて、口に運んだ。先刻、彼が言った〝美味しいコーヒー〟というのは、お世辞でもなんでもなく、彼は本気でそう思っているのかもしれなかった。
 林はゆっくりとコーヒーをテーブルに置いてから言った。「花田君を見つけるためには、しょうがありませんね。ただ、下山さんや保護者と会う場合には、条件が……」
「あなたが同席される……ということですか」私は林の言葉の後を継いだ。
「ええ。そうです。その場合は、私も同席させていただきます」
 ――花田浩二、恵子夫妻は、理事長である林にとって相当の〝上客〟のようだ
「それで構いません」
 そう答えると、真砂子が驚きの目で私を見た。
 私は真砂子の視線を感じていないフリをして言った。「ただ……林さん。あなたも、下山文明氏もお忙しいようですね。あなた方の予定に合わせていたら、時間がかかるばかりだ。ここはひとつ、私を信用していただけませんか?」
 真砂子が林の隣で、唇の端をキュッと上げた。林はその真砂子に気づかぬまま、再び右手の指をカタカタと動かし始める。
 彼が私を信用しているか否か――この依頼を継続する上で、重要なことだった。林が私を信用していないということであれば、私はこの依頼から手を引かなければならない。私にとっても〝上客〟を逃すことは大きな痛手になるが、この稼業では最低限のルールだ。
「あの――」口を開いたのは真砂子だった。
「なんだね」林は指の動きを止めない。
「学院長の予定が詰まっているのは、事実です。実際、今日もこの後、〈学士会館〉で……」
「だから、なんだね」指を動かしたまま、林が荒い口調で答えた。
 意を決して、真砂子が言った。「――わたくしが、お伴します」
 ようやく目障りな指の動きが止まった。そして、私の視線も真砂子に向けられたまま、止まってしまった。
「わたくしの方が、学院長よりも時間に都合をつけやすいですし……なにより、わたくし自身が、花田君のことについて、この目で確かめたいんです」
 少し間を置いて、林は小さく頷いた。「いいだろう。きみがお伴をして、ちゃんと私に報告してくれるのなら、そうしてもらえると、なにかとありがたい。教務課には、私から話を通しておくから」
「ありがとうございます」真砂子は、林に向かって頭を下げた。
「森があなたのお伴をする……これで、構いませんね」林が私の目を覗き込んでくる。
 林には信用されていなくとも、真砂子には信用されている――そう思うことで、妥協することにした。それに、実のところは、私とて〝上客〟を逃したくないのだ。
「わかりました……そういうことでいきましょう」
「よしッ!」林がポンっと手を叩いて、相好を崩した。「これで、今後の方針が決まりましたな」
 隣で真砂子が「よろしくお願いします」と一礼したので、私は目礼を返した。
 それから、林はコーヒーを飲み干し――やはり彼は味音痴なのだ――立ち上がった。慌てて真砂子も立ち上がる。
「きみは、もう少し残っていなさい。下山文明さんとの面会について、日取りだとか……彼といろいろ打ち合わせた方がいいだろう。ここからなら、〈学士会館〉まで歩いていける距離だし、そうしなさい」
 柔らかな口調の〝命令〟に真砂子が「かしこまりました」と答えると、林は金無垢の腕時計で時間を確かめて、右手を差し出した。「じゃァ、私はこれで失礼します。後のことはよろしく頼むよ」
 私は遅れて立ち上がり、差し出された林の右手を握った。林の手は見かけ以上に柔らかく、軽く握っただけで手を離した。
 林は束の間、戸惑いの表情を見せたものの、すぐに笑顔を作って真砂子が開けたドアから事務所を去っていった。真砂子が一度振り向いて「ちょっと見送りをしてきます」と言って、林の後に続く。
 慌ただしいふたりの背中を見送り、来客用のコーヒーカップとマグカップを申し訳程度の流しに落とし込んだ。ついでにパーコレータの中身を捨てて、新しくコーヒーを淹れ直した。ブックマッチで煙草に火をつけて、沸騰するのを待つ。
 やがて真砂子が戻ってきた。時間からして、一階まで見送りに行ったのだろう。彼女は事務所に私の姿がないことに気づき、申し訳程度の流しに顔を見せた。
「どうかお構いなく」肩をすぼめて真砂子が言った。
「いいえ。私が美味いコーヒーを飲みたいだけですから」
「そうですか……」
 パーコレータでコーヒーを淹れているので、火にかけてしまえば他にやることはない。私は煙草を喫うことで時間をつぶせるが、真砂子は手持ちぶさたのようで、肩をすぼめたまま立ちつくしていた。
「あちらで、お待ちください。昨日の〈ヴェルマ〉で飲んだコーヒーとはいきませんが、さっきのとは違うものをお持ちします」
 真砂子は小さくなったまま応接セットに戻りかけたが、振り返って言った。「あの……すいません。わがままを申し上げてしまって……お仕事の邪魔はしませんので」
「まァ……邪魔になったら、私からはっきりと言わせていただきます」
「それで、構いません。よろしくお願いします」
「ただ、ですね……」
「ただ?」
 私は携帯用灰皿に灰を落として言った。「下山文明さんですが、ここ一週間ほど日本を離れているようでしてね。しばらくは会えんのですよ」
「ああ、そうでした。雑誌に書いてありました。パリ……でしたっけ?」
「ご存じでしたか。まァ、私は〝若い人たち向け〟の雑誌は読みませんから、昨日の夜に知ったんですがね」
 真砂子が右手を口元に当てて、おかしそうに笑った。「じゃァ、すぐに下山文明さんに会いに行く、というわけではないんですね」
「はい。日程が決まり次第、森さんにお伝えしますよ……いや、理事長にお伝えした方がいいのかな?」
 一度伏せた目を上げて真砂子が言った。「いえ、わたくしにだけ、お伝えください」
「わかりました。では、そうします」私は煙混じりに答えた。
「よろしくお願いします」真砂子が深々と頭を下げた。「……では、わたくしは、これで失礼します」
「まァ、待ちなさい」私は短くなった煙草を携帯用灰皿に押し込んだ。「慌てて仕事に戻ることもないでしょう。せっかく美味いコーヒーを淹れているんです。さっきも言いましたが、一杯ご馳走しますよ」
 真砂子が左手首にはめた時計を見てから言った。「ご馳走になります」
 彼女の顔には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。

   十

 真砂子は新たに淹れたコーヒー――今回は我ながら上々の出来で、彼女も「美味しい」と言ってくれた――を飲んでから、〈学士会館〉へと向かった。私が煙草を二本喫う間に手にした有用な情報といえば、彼女が未婚であるということだけだった。
 彼女が姿を消してから、私はいくつかのことをした。ひとつは冷蔵庫にしまっておいたハムサンドをトマトジュースで流し込むことで、もうひとつは、林からもらった資料に記載された花田博之の保護者に電話をかけて、様子を探ることだった。
 博之は父親である下山文明を訪れた後に、現在の実家である千葉県にいる花田浩二、恵子夫妻の元に向かったまま戻ってきていない可能性を否定することはできなかった。資料には連絡先として、三つの電話番号が記載されていた。優先順位は花田浩二の携帯電話、花田浩二の自宅、そして最後が花田浩二の勤務先になっていた。
 私は迷わず花田浩二の自宅に電話をかけた。携帯電話では、一芝居打てないからだ。五コール目で出た相手には教材販売業者を装った――私にもそれぐらいの小芝居はできる。
 電話に出たのは、声の感じからして五十代前後の女だった。
「ええと、お宅には博之さんという高校一年生になる息子さんがいらっしゃるかと思うんですが……」
「まァ、いることはいるけど……博之なら東京の学校に通ってるんじゃないの? あたしは恵子からそう聞いてるけど?」
「あなたは、お母様でらっしゃいますか?」
「いいや。違うわよ。なんなの押し売り? あたしも忙しいのよ」
 〝博之〟〝恵子〟と呼び捨てにするからには、花田家の親族なのだろうか。「では、お母様はご在宅でらっしゃいますでしょうか?」
 少し間を置いてから電話口の女が答えた。「――え? お母様? お母様ねェ、まァ、なんていうのかな……」女が語尾を濁らせる。
「お母様をお願いできますでしょうか?」
「あのさァ、今この家の人、みんな出払ってるんだよねェ。あたし、留守番を頼まれただけだから」
 私は芝居を続けた。「あァ、そうですか。お留守番の方でしたか……」
「だから言ったじゃない。今、この家には、あたししかいないの。ね、だから、またかけ直してちょうだい。なんなら、あたしの方からかけ直すよう言っとくけど……」
「いいえ、結構です。また、改めてご連絡差し上げます」私は丁重に電話を切った。
 これ以上、くどくどと話を続けてもしょうがない。こちらの芝居がバレてしまう恐れもある。ともあれ、花田博之が現在、千葉県の花田家にいないことがわかったのは収穫だった。ただ、電話に出た女が花田博之の母親について口を濁したことが、やけに気になっていた。花田博之は、母親と一緒に写った写真について、同室の池畑という少年に、大事な写真だと告げている。そして、姿を消してしまう際に、その大事な写真を持ち出している形跡があった。
 カフェインとニコチンを適度に補充すると、花田博之の母親は桜樹よう子という元アイドルである、との確証が得られれば、私の気も晴れるだろうとの考えに至った。今の私は手詰まりの状況なのだ。なにもせずにいるよりはいい。
 私は事務所を後にして路地を出ると、行きつけの〈オリオンズ〉を背にして神田方面へ向かい、大型書店の前にあるビルまで二ブロック歩いた。一階の焼鳥屋の脇にある入口をくぐり、私の事務所のある雑居ビルより薄暗い階段を昇る。鳥の脂とタレの匂いの染みついた階段を三階分昇った先が、目指す〈荒神書房〉だった。私の事務所以上に商売っ気のないドアを、ノックもせずに押し開けた。
 ドアの向こうは本棚の迷路になっていて、その迷路に一歩踏み出してみれば、本棚の中身は――よくまあこれだけ集めたものだと感動すら覚える――女性芸能人に関する書籍やら写真集で埋め尽くされ、壁や天井には所狭しとポスターが張りつけられていた。しかも、そのほとんどが服を身につけていない。水着姿や下着姿、なかにはあられもない姿の女たちに見つめられながら、迷路の奥へと突き進んだ。
 途中、デニムのジャケットを羽織った小太りの男と、サングラスをかけた痩せぎすの男のふたり組と出くわした。どちらも私より年かさで、小太りの男が手にした写真集について、ふたりは寄り添ってなにやら語り合っていた。すれ違う際に、小太りの男が手にしていた写真集の表紙が目に入った。ある女優の若かりし頃のヌード写真集だった。今では、その女優は見る影もなく年老いてしまっている。
 ふたりとすれ違ってから、本棚の迷路を二回曲がって、私はようやく目的の男に会うことができた。男はレジスター代わりのノートパソコンを前に、読書にいそしんでいた。表紙に記されたアルファベットが見て取れた。当然のことだが、私にはなんと書かれているのか読み取ることはできなかった。
「〝教授〟」
 私が声をかけると、男は本から目を上げた。男の顔には、現実に引き戻された不満の色が色濃く残っていた。
「すいません。お忙しいところ……」
「ああ、あなたでしたか」声をかけたのが私だと認めて、老眼鏡越しに見える目から敵意が消えた。読んでいた本に栞を挟んで閉じる。
 彼は私の行きつけである〈やまだ屋〉の常連客で、何度か顔を合わせて飲んだことがある男だった。我が国の最高学府でロシア文学を教えていることから、私も含めた他の常連客や〈やまだ屋〉の女将からは、親しみを込めて〝教授〟と呼ばれている。もっとも、私は彼の本名を知らない。
 髪の毛を茶色に染めているせいで幾分若く見られがちの男――〝教授〟は、私よりもふた回りは歳上で、我が国におけるロシア文学の権威として、それなりの稼ぎはあるはずなのだが、どういうわけか、〈荒神書房〉で店番のアルバイトをしていた。
「あら、珍しい顔ですね」〝教授〟が青いフレームの老眼鏡を外して、柔らかい笑みを漏らした。
「ここでは、初めまして……ですね」
「そうなりますね。近頃、お店でお姿を見かけしないので、どうされたのか気になってたんですよ」
「すいません。ここのところ、小さい仕事が立て込んでまして……」
「そうですか。忙しいのはいいことです」〝教授〟は小さく頷いて答えた。
 私は〝教授〟が閉じた本を指差した。「ところで……なに、読んでたんです?」
「ああ、これですか。これは、スペイン語に翻訳されたマヤコフスキーの詩集です。ただねェ……どうもいけません。明るい太陽の下で話される言葉では、どこか味気なく感じてしまうんですねェ。これでは、単語の羅列に過ぎないように感じてしまうんです」味気なく感じてしまう自分を責めるかのように、〝教授〟は肩を落とした。
「だとすれば、寒い地方の言葉……例えば津軽弁で訳してみたら、どうなるんです?」
 〝教授〟は口をすぼめて笑ってから言った。「それは……面白い考えですね。ただねェ、私は東京生まれの東京育ちだから、津軽弁を使いこなせません」
「日本語に訳したものを、津軽弁を話せる人に書き換えてもらえばいいんじゃないですか?」
「それも、面白い考えです」〝教授〟は身を乗り出して言った。「あなたは、なかなかのアイデアマンですね……ウチの学生たちより賢そうだ」
「からかわないでくださいよ。単なる思いつきです」
「いいえ。なにかを思いつくことが、すごいことなんです」
「それに〝教授〟のところの学生さんより賢いのなら、こんな割の合わない稼業なんざ、やってませんよ」
「またまた、あなたはいまのご商売を好きで、やってらっしゃるんでしょう?」
 〝教授〟の言葉に、なにやら背中がむずかゆくなった。ロシア文学の権威でありながら、スペイン語の原書が読める人間の考えることはよくわからない。
「……ですけどね、私はこの国に産まれてよかったと思うんです。この国には、四季がありますでしょう? だから南国の文学も、北国の詩も等しく感じることができる……そんな国、他にはありませんよ。この歳になって、つくづくそう思います」〝教授〟はノートパソコンのそばに置いた子猫のキャラクターが描かれたマグカップに、口をつけてから続けた。「ところで、今日はなにをしに、ここへ?」
 私はここへ文学談義をしに来たわけでもなければ、写真集を買いに来たわけでもなかった。私は〈荒神書房〉に訪れた理由を切り出した。「〝教授〟に訊きたいこと……というよりも、この店で探して欲しいものがあるんです」
「捜して欲しいもの……どういったものになりますか?」
「桜樹よう子という昔のアイドルに関する本がここにないか、探してもらいたいんです」
「桜樹よう子……ですか。ちょっと調べてみましょう」〝教授〟がノートパソコンに向かい、ブラインドタッチでなにやら入力を始めた。私より慣れた手つきでブラインドタッチをする〝教授〟は好奇の目で、こちらを見つめていた。
 ――やっぱり、あなたも健全な男子ということですかな?
 そう言われているような気がした。私は難しい顔を作って、〝教授〟の視線を受け流した。まあ、私が健全な男子であることは間違いないのだが。
 〝教授〟がノートパソコンを操作する手を止めた。「一冊、写真集がありますね」
「どこです?」
 ノートパソコンのディスプレイを覗き込んだ〝教授〟が言った。「ええと、Cの三番だから……」
「――桜樹よう子の写真集が置いてある場所なら、俺たち知ってるよ」声をかけてきたのは、本棚の迷路を抜けてきた先刻すれ違ったふたり組のうち、小太りの男だった。
 私と〝教授〟の会話を、どこからか耳にしていたのだろう。私たちはそんなに大きな声で話をしていたわけではないのだが、これだけ静かな店内であれば話を聞かれてしまってもしょうがない。
「本棚の場所を教えてください」私は小太りの男に言った。
 小太りの男が、痩せぎすの男の肩を叩いた。「ああ……シロタニ、お前持ってきてやれよ」
 指名された痩せぎすの男――シロタニは「わかった」と答えて本棚の迷路に入っていくと、彼らはこの店の本棚の配置を熟知しているほどの常連だからなのか、すぐに戻ってきた。
「これですよ」シロタニが手にした写真集を私に差し出した。
 透明のフィルムでラッピングされた写真集の帯には、〝二十歳の決意。桜樹よう子、初の水着写真集〟と惹句が記され、表紙では髪の長い細身の女がオレンジ色のビキニ着姿で、こちらに微笑みかけていた。〈ヴェルマ〉のチエがスマートホンで私や真砂子に示した画像は、この表紙をスキャニングしたものだ。
 裏表紙に記された刊行年から計算すれば、彼女は私と同い歳だった。博之の母親であっても、決しておかしくはない。手渡された写真集からの情報で、判断できることはその程度のことだったが、初めて顔を拝むことになった桜樹よう子は博之の母親である、と私は確信していた。それは、桜樹よう子の目と博之の目が、瓜ふたつだったからだ。ただ、強い意志のようなものが感じられた博之とそっくりな彼女の目からは、表紙の彼女が微笑んでいるにもかかわらず、深い哀しみのようなものが感じられた。
 写真集を手にした私に、小太りの男が感心しきりに言った。「だけど、桜樹よう子を知ってるなんて、あんたマニアックだねェ」
「あなたは、彼女を知ってるんですか? どんな人だったんです?」
「まァ、知ってるけど……」マニアックな名前を出したくせには、当の本人についてなにも知らない私に対する不信感が、その口調ににじんでいた。
 私は咄嗟に一芝居打った。「実は、私がこの近所で仕事をしているということで、友人に頼まれましてね。ところが、私はこういうことには、とんと疎くて」
「あァ、そうなんですか」私の芝居で小太りの男の不信感は解けたようで、今度は彼の目が輝きだした。「桜樹よう子はねェ……売れなかったねェ。なんか中途半端だったんだよ。歌はそれなりに上手かったけど、あくまで〝それなり〟だからねェ」
「歌が上手いだけでは、ダメなんですか?」
「あのね。ものすごく上手いか、ものすごく下手かのどっちかなんだよね。そうすればさァ、それが〝売り〟になるじゃない。だけど〝それなり〟じゃァ、〝売り〟にはならないんだよねェ……」いっぱしのプロデューサーを気取って小太りの男が言った。「だからさァ、彼女のことなんか覚えてないヤツの方が多いんだよね」
「だけど、彼女が下山文明さんの奥さんだったって聞いたんですけど……本当ですか?」
「疎いとか言った割には、あんたも詳しいじゃない」
「いやァ、その友人から聞かされたものでね」
 小太りの男は、暑苦しい笑みを浮かべて言った。「あんたの友達って人は、相当マニアックだねェ。ちゃんと、仕事してる人なの? ダメだよ、仕事そっちのけなんてのは……」
「ええ、まァ……ちゃんとサラリーマンやってますから」私は存在しない友人をかばった。
「そうなんだ。それなら安心だ」小太りの男は、存在しない私の友人の境遇に満足したようだった。「うん。桜樹よう子はね、下山文明と結婚してたよ」
「へェ、今は下山文明さんって、独身ですよね。離婚したってことなのか……それって、何年前のことになるんです?」
「ええとねェ……」
 腕を組んで考え込んだ小太りの男の肩を、痩せぎすの男――シロタニが叩いた。「……あのさ、桜樹よう子ってさ、なんとかってバンドのヤツとつき合ってるって、噂もあったろ」
「そうだったな」腕を組んだまま、小太りの男が答えた。
「でさァ、よくよく考えたら、あのとき桜樹よう子って、子供がいたんだってな。よくやるよ」
 ――子供? 花田博之のことだろうか
 なにを想像しているのか、口元ゆるめているシロタニに私は訊いた。「お子さんがいたんですか。男の子なんですかね?」
「なんでそんなこと訊くの?」シロタニがゆるめていた口元を引き締めて、訊いてきた。
「お母さんが、アイドルやってたんですよね。女の子だったら、随分とかわいい子なんじゃないかな……と」
「疎いとか言ってる割に、ほんとは好きなんじゃないの」
 今回の芝居はまずかった。口元をゆるめたままのシロタニが私の肘の辺りを小突いてくる。
 この状況に耐えきれなくなっている私を救ったのは、小太りの男だった。彼は組んでいた腕をほどいて「思い出した」と言ってから続けた。「十二年前だよ」
「十二年前? そうだっけ?」シロタニの興味は、私から離れてくれたようだ。
「そうだよ、俺が東京に戻ってきたときだもん」小太りの男が私に視線を向けた。「それで、お前から桜樹よう子の話を聞いたんだぜ」
「そうだ、そうだ」シロタニが手を叩いて、声を上げた。なにかを思い出したらしい。「下山文明も、まだあの頃は売れてなかったからさ、スポーツ新聞の隅っこに載ってたんだよ。あんたは、覚えてない?」私に話を振る。
「十二年前ですか……その頃、私は仕事で海外にいましてね」相手を間違えているとは言えなかった。
「それじゃ、しょうがないね」小太りの男は、あっさりと私の嘘を信じた。
 私に話を振ったシロタニは、端から私の回答を期待していなかったようで、が嬉々として小太りの男に話しかけた。「でもさァ……別れた後も、事務所の社長の愛人になったとか、そんな噂もあったよな?」
「そうそう、あの社長さ、他にも女の子、喰っちゃってるんだぜ」と小太りの男。
「ほんとかよ? それ誰だよ」サングラスに隠れて見えないはずのシロタニの目が輝いているのは、容易に想像できた。
 どうやら、小太りの男もシロタニも桜樹よう子と私に興味をなくしてしまったようで、彼らの会話の中から彼女の名前が出てくることはなかった
 十年近くも前の噂話に花を咲かせるふたりを、〝教授〟は、研究室に紛れ込んだ出来の悪い学生を見るかのように難しい顔をして眺めていた。私は話を切り上げるべく、彼らの間に割って入るタイミングを計っていた。
 私と〝教授〟の存在を忘れて話し込むふたりのおしゃべりを止めたのは、携帯電話の着信音だった。小太りの男が、肩から襷がけにしたバッグからスマートホンを取り出す。彼は二言三言交わしてから、小さく「あのバカタレが……」と呟いて電話を切った。なにがあったのかは知らないが、難しい顔をしていた。
 小太りの男はスマートホンをバッグにしまい、難しい顔のまま〝教授〟に言った。「あのさ、訊きたいことがあったんだけど、また来るわ。ちょっと用事ができちゃってさァ」
「そうですか。忙しいのはいいことです」私のときと同じ科白を〝教授〟が返した。
「じゃァ、これで失礼するよ。あァ……」小太りの男が襷がけにしたバッグから名刺を取り出した。「今度、桜樹よう子の写真集を買ってこいって言った、あんたの友達を紹介してよ。一緒に来れば、いいじゃない」
 彼は半ば強引に名刺を私に握らせて本棚の迷路の中へと戻り、シロタニは「俺、名刺ないから。ごめんね」と言って、小太りの男を追いかけていった。
 しばらくして鉄製のドアが閉まる音がした。〝教授〟は、それを確かめてから口を開いた。「あれで、一流商社の部長なんですよ」
「そう……なんですか?」
「その名刺をご覧なさい」
 私は小太りの男から渡された名刺に目をやった。〝黒沢利夫〟という名前の他に、名刺には旧財閥系の総合商社の名前と部長という肩書きが記されていた。「どうやら、本当のようですね……」
 〝教授〟はなんとも言えない表情で頷いた後で、私に訊いてきた。「ところで、先ほど耳にしましたけど、あなたは海外にいらしたことがあるんですか?」
「嘘ですよ。私は、パスポートすら持ってません」
「あら、それは今どき珍しいですね」〝教授〟は目を丸くして、マグカップに口をつけた。
 ――大きなお世話です
 口には出さず胸の裡で呟いてから、私は手にしたままだった桜樹よう子の写真集をかざして言った。「……さて、私も事務所に戻ります。これは、ちゃんと戻しておきますから」
「いえ、ここに置いていってください。どうやら、あなたは趣味ではなくお仕事で、その人について調べているようだ。この本が売れてしまっては、お困りでしょう?」
「まァ、困るかもしれませんね」
「じゃァ、お預かりしておきます」
 柔らかに微笑んで右手を差し出した〝教授〟に、私は写真集を渡した。「お願いします」
 本棚の迷路に引き返し、〈荒神書房〉を出て階段を下ると、街には雨が降り始めていた。
 傘のない私は、事務所まで走って戻らなければならなかった。

 慌ただしく事務所に戻った私は、カフェインとニコチンの力を借りながら、頭の中を整理してみた。
 ――下山文明は、花田博之の父親である
 これは、〈聖林学院〉の理事長であり、学院長でもある林が認めている。
 ――下山文明は、かつて桜樹よう子というアイドルと結婚していた
 ――桜樹よう子と下山文明は離婚しており、彼らには子供がいた
 〈荒神書房〉のふたり――黒沢とシロタニの証言から推察すれば、桜樹よう子の子供が、花田博之である可能性は高い。となれば、下山文明とは別に、桜樹よう子に接触を図ることで花田博之を捜す手がかりを得ることができるかもしれない。
 デスクのパソコンを起動して、桜樹よう子について検索をしてみたが、彼女の現在に関してめぼしい情報は得られなかった。
 そこで、今度は〈荒神書房〉のように女性芸能人の書籍を専門に扱う書店を検索して、リストアップした。私の事務所周辺だけでも〈荒神書房〉の他に五件、その次に近い秋葉原駅周辺には、事務所周辺の三倍ほどの書店があった。それが都内全体となれば――検索結果に目がくらみそうになる。しかし、なにもせず事務所で尾藤からの連絡を待って、時間を費やしているぐらいなら、なにがしかの行動すべきだと自分に言い聞かせた。
 作成したリストをプリントアウトすると、喫っていた煙草を灰皿で消して、事務所を後にした。
 降り始めた雨はやむ気配をみせずに、街は我が国の誰もが好きになれない季節に移り変わろうとしていた。
 〈オリオンズ〉と〈やまだ屋〉のどちらにも寄らずに、この日は真っ直ぐに帰宅した。

   十一

 月曜日は朝から雨だった。
 事務所周辺の五件を手始めに、昨晩リストアップした書店を回っていった。月曜日の午前中だというのに、どの店にも〈荒神書房〉で出くわした黒沢やシロタニのようないい歳をした男たちが、肌を露わにした女たちの書籍や写真集を物色していた。中には明らかに仕事を抜け出したサラリーマン風の男もいて、これにはいささか驚かされた。
 書店の店員だけでなく、〝教授〟曰く彼ら〝健全な男子〟たちにも桜樹よう子について聞き込みをしてみたが、めぼしい情報を得ることはできなかった。
 それから三日をかけて虱潰しに歩き回り、リストの三分の一を消化して私が入手した新たな情報は、池袋にある書店で見つけた色褪せたアイドル雑誌に掲載された桜樹よう子のスリーサイズと、生年月日――やはり私と同い歳だった――と血液型だけだった。
 分厚い雲の下で街に灯りがともる頃、事務所に戻った私はパーコレータで淹れたコーヒーを片手に、デスクに腰を降ろした。残った書店のリストを眺めながら、溜まった疲労を煙草の煙にして吐き出した。疲労が溜まっているのも、すべてはあられもない姿の若い女に囲まれることに慣れていないこと――それも月曜日の朝から三日間もだ――と、〈聖林学院〉から花田博之に関する新たな情報が送られてこないせいで、無駄にエネルギーを費やしてしまったからだと思うことにした。
 尾藤から電話が入ったのは、私が時間をかけて煙草を喫い、マグカップのコーヒーを飲み干して、今夜は〈やまだ屋〉にキープしてある好みの胡麻焼酎――紅乙女で、身も心も癒されようと決心したときのことだった。
「調子はどうだ?」
 尾藤の第一声は、空模様とは正反対に脳天気で、今の私には耳障りに感じられた。「どうもこうも、ないね」
「あらまァ。随分と機嫌が悪いじゃないか」
「疲れてるんだよ。用件はなんだ。お前が思うほど、暇じゃないんだ」
「どうして、そういう口の利き方をするかねェ、きみは……」
「だから、用件はなんだ」私はなにかを言いたげな尾藤を制して言った。
「かわいくないなァ」受話器の向こうで尾藤が吐き捨てた。「まァ、いいや。きみにいい情報を教えようと思ったんだけど……明日にするよ」
「ちょっと待て」
「いや、今日はお疲れのようだしねェ……」
「だったら、早く言えよ」私はいらだちを隠さずに言った。
「きみは依頼料を日割で計算してるんだろう? だったら、明日にした方がいいんじゃないの。一日分だけど、依頼料が増額できるんだぜ。なんなら、来週まで待ったっていいよ」
「俺はそんな阿漕な稼ぎ方はしていない」
「なに……依頼人のためにも、一日でも早く調査を完了させようってわけ? そんなんじゃ、損するばっかりで、ビジネスの世界じゃ生きてけないぜ。少しは金稼ぐことを考えないと……」
「悪ふざけも、いい加減にしてくれ。用件を早く言え」
 私が口調を強めて言うと、尾藤の大きなため息とあからさまな舌打ちが聞こえた。
「冗談のわからないヤツだね、きみは……」尾藤がぼやいた。おそらく彼は受話器の向こう側で、あのドレッドヘアーのような前髪を撫でつけているに違いない。
「それで、情報ってのはなんだ?」私は煙草をくわえて、ブックマッチで火をつけた。
「あのね、下山文明さんなんだけど、明日には帰国するんだ」
「一週間ぐらい、パリにいるんじゃなかったか?」
「いやァ、それがね。下山さん、今度の日曜に地元の山梨でイベントを開催するそうなんだ。日本の食文化啓発キャンペーンの一環なんだけど……そこで、新しいアイドルグループをプロデュースされるそうなんだよ」
「アイドルグループねェ……日本の〝文化の神髄〟のご登場ってわけだ」
「そのとおり!」尾藤が声を高くして言った。珍しく興奮しているようだ。
 私は、先日の尾藤の科白を借用した。「世も末だね……」
「なに言っちゃってるの、きみは? 日本の食文化というものを、若い子たちに啓発するには、彼らに近いアイドルを使わなきゃ。オッサンたちが出張っちゃァ、ダメなんだよ。そういう発想がね、下山さんのすごいところだなァ……」
「おい……お前、この間と言ってることが違ってないか?」
「違ってなにが悪いの? 僕はね、日々成長してるんだよ。言うことが違うのは、成長の証なの。わかる?」
 どうやら尾藤は今回の依頼をきっかけに、なにがしかの稼ぎどころを見出したようだった。そうでなければ、ここまで態度を変えたりはしない。
「それで、金曜の午後に会えるようアポを取っておいたから……あ、あとね、車の手配も終わったからね。きみのところの大家さん、近所で駐車場もやってるでしょ。そこも、しばらくの間は使っていいことにしておきました。車は明日、ウチの若いのが持ってくから、よろしくね」
 車の手配以上に、駐車場にまで手を回してくれているのはありがたかった。この辺りの抜かりの無さが、尾藤がビジネスの世界で成功へと導いているのかもしれない。
「あと詳しいことは、さっき送ったメール、それを確認しておくように」
 私は「わかった」と答えて、パソコンのメールボックスを開いた。確かに尾藤からメールが届いている。
「それとな、桜樹よう子について、調べてみたんだ。メールに書いといたから、読んでくれ」
「ちょっと待て」私は尾藤から送信されたメールを読んだ。
 メールには下山文明との面会に関する詳細――時間は金曜日の十四時、場所は山中湖近くにある彼の自宅とあった――が記されていた。下山文明関連の記載が終わると、今度は桜樹よう子のプロフィールと経歴が箇条書きにして載せられていた。
「おい、桜樹よう子は芸名で、彼女の本名は〝花田洋子〟っていうのか?」
「なに、僕が間違ったこと書いてるって言いたいわけ?」
「そうじゃない。確認だ」
「そう、ならいいけど」受話器の向こうから、ロンソンのライターを擦る音が聞こえた。
 私はメールを読み進めた。桜樹よう子こと花田洋子は千葉県の出身で、高校卒業後の十九歳で芸能界にデビュー。デビュー曲のタイトルは『十六の決意』。〈荒神書房〉で目にした写真集に添えられた惹句〝二十歳の決意〟は、このデビュー曲にかけられているようなのだが――この経歴では、デビュー曲は『十九の決意』で、写真集の惹句は『二十三歳の決意』でなければならない。
 私は訊いた。「おい、彼女の生年月日だけどな……これ、間違ってないか?」
「ああ……それな。公式のプロフィールより、実際は三歳上みたいだな。まァ、年齢のサバ読みなんか、あの世界じゃよくあることだぜ」
「そんなもんなのかね?」
「そんなもんなんだよ」と尾藤。
 メールによれば、花田洋子が結婚をしたのは実年齢が二十七歳のときで、相手はやはり下山文明だった。八つ歳上の下山文明と結婚した彼女は、二十八歳で長男を出産。名前は非公表――
「おい、この息子の名前は、わからなかったのか?」
「お前な、〝天下の〟下山文明さんだよ。プライバシーってのがあるんだから……それに、息子の名前を公表しちゃったら、どうぞ誘拐してくださいって言ってるようなもんじゃないか」ゴロワーズの煙を吐く音の後で、尾藤は続けた。「あとね、息子の名前ぐらいは、きみが調べなさいよ」
 ――うるせェ。大きなお世話だ
 受話器を離して、口の中だけで毒づいた。とにかく、桜樹よう子の本名が〝花田洋子〟であるならば、彼女が花田博之の母親と考えて間違いはなさそうだ。さらにメールを読み進めた。気になる記述に、目が止まる。
「三十一歳のときに、別居って書いてあるよな。これって、離婚じゃないのか?」〈荒神書房〉のふたりは〝離婚〟と証言していた。
「その下の記事を読んでから訊きなさい」尾藤が答えた。
 メールをスクロールさせると、私も時折利用する新聞記事データベースへのリンクが貼られていた。リンクに接続して、表示された記事を読む。
 ――放送作家、元タレントと別居へ
 見出しにはそう書かれていた。記事提供元は越中島にあるスポーツ新聞社で、下山文明と桜樹よう子が別居したという事実だけが書かれていた。記事の長さからすると、いわゆる〝ベタ記事〟と呼ばれる埋め草のような記事に違いない。スポーツ新聞の片隅に掲載されていたと言った〈荒神書房〉で出くわした痩せぎすの男、シロタニの証言と符合した。
 私が記事を読み終える頃合いを見計らって尾藤が言った。
「記事には〝別居〟としか書いてないからさ、そのままを書いたんだ」
「実際、離婚はしてないのか?」
「知らないよ。でも、下山文明は独身主義者だって話だから、その後でちゃんと離婚したんじゃないの」
「確かに、そうかもしれんな」〈ヴェルマ〉で森真砂子が私に教えてくれたことを思い出した。
 メールはこの後、下山文明と別居後の桜樹よう子の動向は、不明と結ばれていた。私は訊いた。「これで、終わりか?」
「売れないアイドルだったからねェ……ああいう世界からいなくなったら、情報が極端に少なくなっちゃうんだよ」尾藤が答えた。「……っていうか、なにか? きみは僕の調査にケチをつけようっての?」
「そうじゃない。桜樹よう子が、なんとかってバンドのヤツとつき合ってたとか、いろいろと噂があったろ?」
「まァねェ……そういう噂は、あったみたいだね。事務所の社長の愛人になったとか。ただ、あくまで噂だからさ」
「どうせなら、それを調べて欲しかったな」
「なに言ってるの。僕は芸能記者じゃないんだよ。噂話がほんとか嘘かを調べるのが、きみの稼業だろ。甘えるんじゃないよ。図々しいなァ、きみは」
 私の稼業は芸能記者ではない。受話器の向こうにいる尾藤に言わせれば〝フリーランスの猟犬〟らしいのだが、そんなことで言い争う気はさらさらなかった。ここは尾藤に話を合わせることにする。
「仰るとおりですな……」
「わかれば、よろしい」尾藤が得意げな顔で頷いているのが、容易に想像できた。
「最後にひとつだけ訊かせてくれ。このリンクは、なんだ?」メールの末尾に〝オマケ〟として、動画共有サイトへのリンクが記載されていた。
「あァ、それね。それは……二十年ぐらい前なのかなァ、桜樹よう子がテレビで歌ってる動画があったんで、つけ足しといた。まァ、参考程度に見といてくれよ」
「わかった……それにしても、よくこれだけ調べ上げたな」
 鼻で小さく笑って尾藤が答えた。「どうせね、きみのことだから、あちこち無駄に歩き回る割には、手がかりひとつつかめませんでした……なんてことになってるだろうと思ってさ、僕の貴重な時間を使って調べ上げたの。言っとくけど、きみみたいに靴の底すり減らして調べるなんてのは、もう時代遅れなんだよ」
 この三日間の調査は、見事に空振りに終わっていた。図星を突かれた恰好の私は、奥歯を噛み締めて、尾藤の言葉に耐えた。
「〝持つべきものは友〟ってこと、なんじゃないのかなァ」尾藤が言った。
 受話器の向こうで、尾藤はニヤけているに違いない。調子に乗るんじゃないと釘のひとつでも指したいところだったが、尾藤の方が成果を上げているのは事実なのだ。
「……とにかく、お前にはいろいろと感謝してるよ」
「その言葉を待ってました。素直でよろしい。では、後はよろしく頼みますよ」〝我が友〟尾藤は、上機嫌のまま電話を切った。
 私は受話器を置いて、煙草をデスクの灰皿で揉み消した。煙草のフィルターには、歯型が残っていた。
 それからデスクの抽斗を開けて、先日受け取った森真砂子の名刺を取り出した。尾藤がセッティングしてくれた下山文明との面会時間から逆算し、待ち合わせの時間――落ち合う場所は三鷹駅前にした――を、名刺にあるアドレスに送信する。遅くとも、明日中にはメールを確認してもらえるだろう。仮に当日、彼女の都合が悪ければ、私ひとりで赴けばいいだけのことだ。
 森真砂子へメールを送信した後で、私は桜樹よう子こと花田洋子が映っているという動画へのリンクをクリックした。再生された動画は、当時のアイドルたちがいわゆる〝懐メロ〟を歌って点数を競い合うといった番組だった。動画の紹介文に記された放映日によれば、この番組は桜樹よう子が下山文明と結婚する一年前ほど前に放送されたもので、おそらくVHSテープで録画されたものを、この動画共有サイトにアップしたのだろう。画質も音質も、決して良いと言える代物ではなかった。
 桜樹よう子こと花田洋子が登場したのは、アイドルを名乗っていた若かりし頃のある女優が――〈荒神書房〉で、黒沢が手にしていたヌード写真集の女優だ――美空ひばりの『悲しい酒』を歌い上げた後だった。
 野暮ったい青いドレスを身にまとった桜樹よう子は、司会者と簡単なやり取りをしてからステージに立ち、〝懐メロ〟と呼ぶには古すぎる曲を歌い始めた。歌う曲が古すぎるからなのか、それとも実際の年齢が公式のプロフィールより三歳上であることを知ってしまったからなのか、ステージに立つ彼女は大人びて見えた。そして、少しかすれた彼女の歌声のせいで、曲調はどこか物憂げに感じられた。この曲は物憂げな曲ではないはずなのに――
 桜樹よう子が一コーラス歌い終えたところで、まだ曲の途中だというのに動画の再生は終了してしまった。どうやら世間のお目当ては、聞いているこちらが酒でも飲んでいなければ耐えられない『悲しい酒』を歌っているアイドル時代の女優の姿であり、〈荒神書房〉で出会った黒沢が言った〝それなりに歌が上手い〟桜樹よう子ではないようだった。
 私は事務所の窓をそっと開け、新しい煙草にブックマッチで火をつけて、雲に覆われた夜空を眺めながら煙草を喫った。
 気がつけば、動画で桜樹よう子が歌ったひと昔もふた昔も前の流行歌を鼻歌にしていた。
 私は物憂げに歌う女の動画が、不意に途切れたせいだと思うことにした。

 尾藤が経営する中古車販売店のスタッフは、翌日の昼過ぎに訪れた。
 あの因業ババア、いや大家が持ち主の駐車場で尾藤が手配した車と対面した。スタッフは十分ほどの間、届けられた車の運転に関して丁寧に説明をしてくれた後で、洗練された営業スマイルを残して去っていった。
 彼らの背中を見送ってから、すかさず尾藤に電話を入れたのだが、尾藤の電話は私の行動を見越していたかのように、すぐに指定時間内にメッセージを吹き込むよう告げるアナウンスへと切り替わってしまった。
 私は思いつくだけの罵詈雑言を、時間の許す限り留守番電話に吹き込んだ。

雨がやんだら(3)

雨がやんだら(3)

海を臨めるはずが、窓の向こうは五月雨に煙ってしまっていた。 ベッドに横たわる女の傍らに、その少年は腰かけていた。 私の今回の依頼は、彼を捜すことだった――

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-14

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