Incarnation
Incarnation
―― 【名詞】
1 化身《神・霊・英知などの抽象概念が人間などの姿をとって現れたもの》人間化、肉体化、権化、具体化。
2 (前〔現・来〕世)《輪廻(りんね)転生思想で、人などがある姿・境遇などで過ごす一生》
わたしは、きっとここで死ぬだろうと確信していた。
階段をかけ上がる。
お気に入りの赤い靴は確かに靴擦れしやすいものだったが、いつもよりも痛く感じる。もしかしたら血が出ているのかもしれないが、その感覚は鈍い。
石造りの螺旋階段をドレスの裾を踏まないようにしながら登っていく。
わたしの部屋はこの先。ただ一心にわたしは部屋に向かっていた。
到着すると、わたしはいつもと同じようにガラスの扉を開き、バルコニーに出た。
カーテンが風に揺れる。
そしていつものように手すりに手をかけ、外の景色を眺めた。
小さい頃から何度も訪れたこの場所は私の一番のお気に入りの場所だった。
そこからの景色はいつだって私の心を癒してくれる。毎日の習い事に嫌になったときや、ひどく叱られたとき、わたしは決まってこの場所に出る。
屋根のないこの場所はわたしを雨や風からは守ってくれなかったが、それでもわたしは雨の日だって雷の日だって、辛いことがあれば必ずこの場所にきていた。
「...あの時はびしょ濡れになってばあやに叱られたっけ。」
ふいに独り言をつぶやいてみると、声が震えているのがわかった。そんな情けない自分の声に、思わず笑ってしまう。
平静を保とうと思い出した過去は、幸いその役割を発揮してくれた。少しだけ、手の震えが収まる。
わたしはもう一歩手摺に近づいて、外を見回した。
右手後方には見渡す限りの麦畑が広がっている。風にそよぐその光景はこの場所からが一番美しく見える。
視線を前に戻すと、そこにはわたしが生きてきた、町。いつも活気があって、笑顔に満ちていて。みんな幸せそうに毎日を生きていた。
街を一望できるこの城は、この街でも一番の高さを誇る建物だ。その全てを見渡せるこの場所は、わたしの家がこの国で力のある名家であるということを示していた。
夜中だというのに、ここからの景色は信じられないほどに明るい。
その城下からの光に照らされて、自分の着ているドレスの装飾が時折反射する。
今日は、お気に入りのドレスを着ていた。なぜなら今日は、この城で開かれた社交パーティがあったからだ。この日をわたしはずっと前から待ちわびていた。
桃色のドレスに黄色く縁取りがされ、白いレースがふんだんにあしらわれたこのオーダーメイドのドレスは、その一見子供っぽく見えてしまう配色とは裏腹に、どこか気品が溢れていた。
赤のヒールは父親からの贈り物で、先ほどから痛む足先も、今日のためのおめかしのお陰でなんだか気にならなかった。
足音が、聞こえる。
その足音はしだいに近づき、わたしの部屋の扉を開ける。
その姿はバルコニーにわたしの姿を見つけると、こちらに駆けてきた。
「なにをしているのですか!早く逃げてください!」
やって来た男は身なりこそいいものの、わたしに敬語で話しかけてきたことから身分の違いが窺える。
私は彼から目を離し、視線を下に反らした。
彼とは以前から親交があった。
長身ですらりとした姿で、一般的にいう整った顔立ちとは少しだけ違ったが、その碧眼の瞳に捉えられれば釘付けになってしまうような、不思議な魅力をもつ男性だった。
彼もパーティに参加していたのだろうが、その右手は腰に差した剣にかかっている。
私が振り返って再び城下を見ると、そこは火の海と化していた。
火の粉がここまで飛んでくる。彼はそれを私に当たらないように手で払った。
彼の指はそのままわたしの髪を撫でる。薄い栗色の巻き毛に触れられ、彼がわたしを見つめていることがわかる。
その視線に気づいていても、私は彼の緑色の瞳を見つめ返すことはなく、ただ目を伏せていた。
城下では住民の殆どが死んだのだろうか。死体以外の人影が見えない。
「逃げましょう。私があなたを守ります。命に代えてでも」
「...もう遅いわ」
言葉に出すと、一層恐怖を感じた。わたしはもう、きっと助からない。
「私はまだ貴女にちゃんと伝えていません。私は――」
「黙って。」
その言葉を口にしてはいけない。
私は、髪に触れていた彼の腕を掴んだ。
このときに、わたしはついに彼の目を見てしまう。案の定その瞳に捉えられて、目がそらせなくなった。
その瞳は城下の炎とは対照的に、緑色の輝きを放っていた。
怖さをまぎらわせるために、受け入れるために、今すぐに彼の胸に身を任せられたらどんなに良いだろう。
彼にたった一言で、この気持ちを伝えられたら。
部屋の外から聞こえてくる声と足音は更に大きくなる。
すると、部屋の扉が開け放たれた。
先ほど男が入ってきたときの扉の音とは違う。もっと無機質な、絶望を感じる音。
「居たぞ‼」
入ってきたのは3人の弓を持った男。一番右の男が最初に弓を放つが、それは私から大きく反れ、音もなく外に落ちていった。
わたしの隣に居た彼は後ろにわたしを庇うと、拳銃を取り出した。茶色の銃身に金色の装飾がされた、単発式の銃だった。
乾いた音のあとに鈍い音がした。彼が放った銃弾で一番左の男が倒れたのだ。
次に彼はわたしをしっかりと背中に隠したまま剣を抜き、右側に居た男に突き刺す。倒れ際に右側の男が引いた弓矢は、わたしのドレスのレースを割いた。
両側の仲間が倒れたにも関わらず、真ん中の男は無表情で弓を構えている。
その光景を眺めるわたしは、取り乱すこともなく何故だか落ち着いていられた。デジャブを感じたような気がした。きっとそれも、彼の雰囲気によるものだったのかもしれない。
彼は一瞬わたしに向いて、言った。
「逃げてください!逃げて!」
その時、風を切る音がして、わたしを守っていた碧眼の彼の、微かに息をのむ声が聞こえた。
その声に、彼が射られたのだと知る。
彼が傷を負いながらも反撃に出ようとしたとき、更なる足音が響いた。
その音は敵の援軍だった。ここから見えるだけでも4、5人はいる。
やって来た男らは一斉に弓を構えると、その先端をわたしに向けた。
碧眼の彼はわたしを庇うためその間に立とうとするが、その時に二人が、彼に向けて弓を射る。
膝をついた碧眼の彼が、声を絞り出して私に言う。
「お願いだ...逃げてくれよ...!」
その声は涙にくぐもっていた。
きっと、それが不可能なことを理解している。
こちらを向いた彼の、ちょうど心臓のあたりに弓矢が刺さっているのが見えた。
「もう、いいのです」
死を受け入れる準備は、最初からできていた。
私はもう一度城下町を見ようとすると、火の手がこの城まで広がっているのが見える。熱い。でも、それはきっとこの民と同じ。わたしだけが助かることなんてできない。
ただ麦畑だけが、夜だというのに眩しく黄金色に輝いていて、その明るさは最早不気味にすら感じられた。
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