practice(151)






男がベンチをぎしっと軋ませ,女が睨んで立ち上がった。おかげで木陰は少し元に戻る。チチチ,と鳥が気を使い続ける。ハイヒールを動かさない女が維持する鋭い視線は,男が近付くために利用した手を置いているところで,緑色した木の板とともに縫い付けようとする。逆光も受け,男は困ったような笑みを奥の引き出しから見せて,慣れた形で口元に浮かべ,女はそれに冷水をかける。軽くなったペットボトルが,中身を残したまま捨てられたゴミ箱の一部がガラッと音を立て,バランスを崩した。仕事に真面目なために,それを気にした公園の清掃担当者がその様子を見ようと持ち場を離れたところで,被っていた帽子のつばを深くして,ベンチからは決して見えないであろう,関係者の誰かと挨拶を交す。それから,何も言わずに去ろうとする女。その気配を察して,男は何も構わず身を乗り出し,細くて「か細い」と褒めたこともあるはずの手首を掴んだ。笑みはすぐさま色と姿を変えたはず,潤んだ瞳は後から来る。男は振り切られても構わない,なんて取れる力加減を知っている。女はそれを知っている。機先を制された格好になった女は,だから何も起きていなかったような素振りで横目を一度閉じ,ベンチと木陰と風の動きで,風景と化した男を見直す。それから背中を向ける清掃員を,眠った様子でからからと通りかかるベビーカーと女性を同じ時間を過ごす人と捉え,信号待ちの気分で男が漏らす言葉を聞き,とても優しく両手を添えて,男が掴む手の指を一つずつ解いた。見つめ合う目と目と,手。ベンチの端に座り,女は男の手に自身の両手を押し付けたまま,男に向かって口を動かし,男が何かを期待するまま,頑丈なロープで見えないように,ことば巧みにスニーカーとベンチの脚を縛り上げた。男はほっとしたような表情を浮かべ,息を樹上に吐き出し,恐らくは上手くいったというようなきらめきを木漏れ日に消し去って,女の方を向き,言葉を続けた。女はおそらくその後で立ち上がり,ハイヒールをコツコツと鳴らして,この公園自体も去る。その頃には清掃員も別のエリアに移動できるようになり,ランニングに励む若い別の女性が,ベンチの前でターンし,走って来たルートを逆に辿る。男もそこには居ない。着の身着のままで飛び出して来たパーカーの裾を伸ばして,糸くずをつまんで捨てて,ジュースを買いに行こうかと考えたまま,足を組み,手を伸ばしに伸ばして,男は顔を上げる。小銭はしっかりと持ってきて,ポケットに阻まれ,くぐもった男の携帯電話のタイマーが鳴り,ロープの結び目が予定通りとばかりに解けた,男のスニーカーが地面を踏み,ボタンを押してタイマーを消した男の指が,電話帳を開いて通話先を探す。しばらくベンチの近くを離れず,無邪気な鳥が一足先にと戻って来て,枝を踏む。男の意図も徐々に,徐々にと外に向く。スウェットの長い姿,たまたま掛かってきた着信を取り,何度かの確認ののちに,明るい声で名前が呼び交わされる。会話が始まる。チチチ,とさっきより大きい声とリズムに満ちる合いの手から,ベンチに落ちる木陰は緊張感を失くし,傾きを大きくして公園の足場にまでかかり,男の姿は小さくなる。公園の奥,帽子を被りたがらない女の子が,興味を見つけて,よたよたとした小走りでたどり着き,座椅子の部分を両手でぺちぺちと叩くのは,まだ先になる。その間にはデリバリーのバイクが違反承知で公園内を通り過ぎて,アイスクリームを持っていた男の子と父親がひどく驚いていた。それを落として,泣いていたのはお姉ちゃんだったと,その妹と思われる子が母親に一所懸命話をする。
微笑みを見せる,ポートレイトの写真撮影を練習していた女性のカップルの隣で,アシスタントをする彼たちが芝生を踏んづけ,重たそうな道具を担いでいる。
シャッターの切れ目が続く。


老人の男性が脱いでいたジャケットをゆっくりと羽織り,追い付きそうな,ひとりの女性の姿をぐっと目を細めて,認めた。段々と大きくなり,しっかりと踏みしめる音も聞こえてきた。相変わらず,影は目一杯に伸びている。見えにくかった顔も具体的に特徴をみせ,見慣れた声も届き,
「座っていても,構やしませんよ。」
と言われ,男性はむぅ,と多くの反論を抱え釈然としないような返事を低く唸らせ,反抗するようにしばらく立ったままでいたが,わざとらしく,女性の方が立ち止まって一息をついたために,ベンチの埃をさっさと払い,ハンカチを使い,手を拭い終わってからジャケットのお尻を気にしながら,ゆっくりとベンチに座った。低く強くなった日差しと,歩き始めていた女性の姿がぐっと重なり,ふっと離れ,男性の肩に手を置きながら,空いた隣に座っていく。女性は有難う,とは言わないお礼をすまなそうに言い,男性は「構わん。」と言ってみて,むぅ,に近い喉の動きを感じながら,ベンチが軋む小さな音を拾った。
「ふぅ,」
と女性が息を吐き,「綺麗ですね。」と男性を見ずに言った。
「うむ。眩しいが。」
「ええ。でも,それは言いっこなし,ですよ。」
むぅ,と言わせた女性の叱責が,しっかりと男性に伝わり,二人の間に無言を生み出し,温かい暖色の明かりに目立っていった。風がコソコソと,地面の上を隠れていった。
同じところを向いていた。
「今度,孫たちを連れて,来るそうですよ。」
男性にそう伝える,事実より遅れて,女性は男性を見た。男性は思うより強い声で,「知っている。」と,言い放っていた。
「あら,そうでしたか。」
女性が込めた,惚けているようなニュアンスに,気付いている男性はからかわれてたまるかと,ふんっ,と鼻を鳴らした。
「部屋は,狭くないのか。あれで。」
「大丈夫でしょう。」
女性は言った。
「シングは?足りないんじゃないのか?」
寝具,と正しく言い直して,女性はしっかりと続ける。
「大丈夫です。買い足しました。」
男性は言う。
「駐車場は?空きは無いぞ。」
「電車で,来るそうです。何だったら,ヨシが送るとも。」
それを聞いて,男性はふんっ,と腹立ちを表す。
「日頃顔なんか見せないわりに。姉思いだな!」
「そうですね。」
束ねた後ろの髪を,ゆっくりと直し,女性は言った。むっ,と用意していた言葉を,ぐっと飲み込まざるを得なくなった男性は,お腹をさすって,髪を掻いた。
女性は聞いた。
「お許しになってはいるのでしょう?」
そう聞かれて,男性は正直に驚いた,そういう顔をしてしまった。
「なら,いいのでしょう。心配事は尽きませんし。」
「むぅ,」
と呻いて,男性は座っているベンチの前を向いていた。今度は言葉にしなかったが,見ていた光は眩しく,瞬きを繰り返して,誤魔化していた。残像は,像があったことを明かす土台のあちこちに,現れたことを男性は見ていた。周りを囲む緑の芝生に,からであることが分かる,蓋の要らないゴミ入れに,奥の自動販売機,走れる幅広い園内の道にと,男性は視線を,置いていった。そこに,誰も居なかった。
ベンチがぎっ,と軋む。女性は特に何もない,すぐ手前の,道を見ていた。
指先が動く。
「名前は,こうだな?」
男性は一人ひとり分,描いていくように動かす。塗ったように,青い雲に,書きすぎた苗字は二人目から止めて,あとは略した。読みと漢字に隔たりがある,最近の名前に違和感が残るのを,男性は感じた。音はカタカタで添えた。舌が,もつれる気がした。
「どうだ?」
書き終わり,男性は聞いた。隣から,顔を向けていた,女性は言う。
「どう,と言われても。確かめようがないですよ。たたでさえ,こうなのですから。」
女性の目があえて細まり,さっさと開いて男性を見る。男性は,それを見る。指先は止まったまま,土台のことを指し示す。恥ずかしさはそれを,さっと引っ込めようとした。
女性は言う。
「でも,当たっては,いるんじゃないですか。」
女性は一度,そこで言葉を切って,羽織りものの裾を整えて,続けた。
「あなたは分かるものしか,書けませんから。」
男性はそれから,三女の呼び方を聞き出され,女性は口ごもって,何回か,練習をしてみたが,上手くいかなかったために,はっきりと,口にしなかった。そのために男性も女性も,黙ってしまった。足をトントンとするように,暗闇が広がるまで,ベンチは二人に時間を与えた。去る時,男性がゆっくりと先に立って,後から女性が,ゆっくりと立った。
距離は変わらなかった。



ちかちかと街灯がケンカして,パッと点き,緑の色が四脚で佇む。道に沿って,左右に続き,よるが遠のき,曇りが動く。晴れ間から光が射し,忘れ物が見当たらない。



早朝,足を広げて踏ん張りを効かせる,片足の太腿の下敷き上で手帳サイズのノートが汚れ,字がガタガタになり,文が続いて,ペンが走る。薄い茶色のロングコートの肘が擦れ,待機する厚い黒カバンの底についている凸部分が,逆さまになって木の板の要所要所に接着し,隙間を避け,かちゃかちゃと揺れる。愛称で呼ばれることが多いこの若者が,白んだ空と,仕事終わりの街灯の間で生前に祖父から譲り受けたよれた革靴と紺の靴下を履き,合わせ,頭から読み直して,気になった箇所に訂正を加える。白くなりそうな息が,ぼんやりと消え,短い間隔で吸い込まれる度に,若者の鼻を刺激して,むずむずとさせる。鼻声は次第に確固たるものとなり,若者は,口を開けて息をしなければならなくなった。が,ペンを走らせる若者はそれも気にならず,喉の奥を唸らせて,舌の付け根で遊ばせる。
「細い,いや,か細い…,手を掴む。」
チチチ,とその日最初の鳴き声が頭上に訪れ,次第に大きく,また,じゃれ合う雰囲気を醸し出す。枝が揺れ,数を減らし,すぐにまた戻って来て,地面に下り,跳びはねる。お腹を空かせたように,啄ばむ様子をみせるのが,背後で昇る明るみを避けて,人が居ない側のベンチの下にひょっこりと入り込む。


細い,細い枝が啄ばまれる。



胸のあたり,同じ高さの座椅子の部分を両手でぺちぺちと叩き,女の子は手の平を不思議そうに眺めて,手を叩き,座椅子を叩き,面白がって満面に微笑む。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-12

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