SS39 悪意なき脅迫

マラソンの最後尾を走る福井は、割れんばかりの声援を受けた。

「がんばれぇ!」
「あと十キロだぞ!」
 沿道を埋め尽くす老若男女が配られた日の丸の旗を振っている。歩道を並走する、あるいは自転車を走らせる子供の姿もちらほら見える。
 どちらもマラソン大会ならではの、すっかりお馴染みの光景だ。
 しかしコース上の福井には、彼らが声高に連呼する、邪気のない「頑張れ」の声援が苦痛で苦痛で仕方なかった。

「声援は力になる」そう答える選手は確かに多い。
 ここ一番の踏ん張りどころで背中を後押ししてくれる。観衆がいてこそ実戦という実感が湧いてくる。選手としての自分をアピール出来る格好のステージじゃないですか。
 考え方は人それぞれだから、否定する気は毛頭ないし、間違っているとも思わない。ただそれも時と場合によるでしょ、と福井は言いたいわけだ。
 特に今日みたいに海外の招待選手と争えば、普段は見せない愛国心に火がついて、いつも以上の声が乱れ飛ぶ。
 応援が熱ければ熱いほど背負う重圧も大きくなるが、それは期待の表れだから、しっかり目で見て耳で聞き肌で感じる経験は、きっと選手のメンタルをぐっと成長させるに違いない。
 だが一方で愛国主義の行き過ぎは、時に敗者に容赦なく、自ら挑んだわけでもないくせに理不尽な暴言を投げ付ける。
 それは感情移入の裏返しだと諦める選手もいるにはいるが、福井に言わせれば、高まるムードに呑まれて騒ぐ、お祭り好きの戯言だ。
 なぜなら”祭り”が終われば彼らは消える。一気に興味を失って、別の楽しいイベントにこぞって足を向けるじゃないか。
 彼らはまるで金属みたいに熱しやすくて冷めやすい、実に気まぐれな人たちなんだ。
 いや、言い過ぎた。
 思い起こせば、外から眺めていただけのかつての自分もそんな観衆と大差ない、ただのお祭り好きだった。
 だからこそこんな目に遭っているんだし、自身の軽率な行動を反省する機会にも恵まれた。

 いずれにしても、そろそろ帰ろうかとバラけ始めた人々の視線は福井の走りに向けられた。
 右へ左へよろめきながら、気力だけで足を運ぶランナーは一人大きく引き離されて、いつ倒れてもおかしくないボロボロの姿を晒しながらも、決して諦めることなくゴールを目指す。
 そこに不屈の精神を見付け出し、足を止め、身を乗り出した観衆は、ありもしない熱い気持ちに触発されて、お節介な応援魂を発揮する。
 すでにスタミナは底をつき、視界は靄が掛かって霞んでる。腕もまったく上がらない。
 それでも前進してるのは、前傾姿勢を危険と察した脳ミソが足を出すからに他ならない。倒れまい倒れまいとする本能が身体を押し出しているだけだった。
「頑張れ、頑張れ!」「もう少し!」
 牛歩のごとき歩みとなっても、激励、声援、拍手の嵐は鳴り止まず、熱気が熱気を加熱する。
 そこにはきっと悪意はないが、同時に福井を休ませない、善意の脅迫になっていた。
 もはや地面にしゃがむことすら、いわんや棄権など許さない、そんな空気が満ち満ちて、福井の腕に鳥肌を、背中にすっと冷たいもの上らせる。
 だから福井は裏切れない。もしも裏切るような行為をすれば、暴徒と化した彼らの口がきっと自分を罵るだろう。
 本当は息が苦しくして仕方がない。心臓も破裂する寸前だ。喉が渇いたし、足だって豆が潰れてずきずき痛む。
 早く家に帰りたかった。シャワーで汗を流したら、テレビの前でくつろぎながらゴールの様子を見届けたい。
 なんでそんな些細な望みが叶わない? なんでこんなツラい思いをしてまで、走り続けなきゃならないんだ?
 顔を上げても、遥か先まで誰の背中も見えない道路。
 いつの間にか駆け付けた白バイ隊の隊員は哀れな視線を時よりちらり。
 背後では後片付けが急ピッチ。
 赤いコーンを重ねて運ぶ作業を目端で捉えた時に、何もない平らな路面で躓いて、福井の身体はふわりと浮いた。
 瞬間上がった悲鳴はどよめきに。すぐに頑張れコールも収まった。
 朝から日射しのない今日は、アスファルトが熱を奪って心地よく、疲れた身体を癒してくれる。打ち付けたはずの肘の痛みも不思議とまったく感じなかった。
 これでいい。
 それが精魂共に尽き果てた福井が最初に考えたこと。
 力及ばず倒れた選手を責める人はいないだろう。
 これぞ誰もが十分納得出来る最高のラストシーンになったはず。それが証拠に固唾を飲んで見守る観衆からは誰の声も聞こえなかった。
 もっと早くこうすればよかった。
 ほっと安堵の息を吐き、同時に緊張の糸がぷつりと切れた福井はじきに意識を失った。

 ***

 出場選手を真似て選んだ上下のウェア。そこにコピったゼッケンを貼り付けて、コースの沿道を走ってたのはテレビに映る為だった。
 もちろん単なるお遊びで、「選手がコースを外れてる」なんて話題になったら面白い、そんな軽い気持ちで”企画”した。
 そんな福井が本当に”参加”する羽目になったのは、悪友の悪ふざけが原因だ。最後の選手が通過したのを見計らい、コース上に押し出されたのが始まりだった。
 路上に倒れ込んだ福井は頭を振って立ち上がり、そのままふらふらと角を折れれば、迎えたのは割れんばかりの大歓声。
 これは少しサービスしないといけないな。そんな遊び心がスタートの合図を撃った。
 込み上げる笑いをぐっと堪えて俯き加減。福井は膝を庇ってよたよたと走り出す。
 制止されたら逃げるつもりで、気を配りながらの快走はしかし、いつしか一キロを超えていた。
 皆自分に手を振っている。声を掛けて、旗を振る。
 なんで誰も止めようとしないんだ? 
 それは福井こそ最後尾のランナーだと思い込んでいるからだ。
 気付いた時は手遅れだった。
 若いだけが取り柄の福井に”終焉”が訪れるのは避けられない。

「俺は選手じゃないんだよ」
 喉まで出掛けた真実はついに口を突かないままに、福井はタオルに包まれた。

SS39 悪意なき脅迫

SS39 悪意なき脅迫

マラソンの最後尾を走る福井は、割れんばかりの声援を受けた。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-12

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