神風
耳慣れない音が、宮廷の中で鳴り響く。最近、唐(から)の国から入ってきた「琵琶」という楽器のお披露目会だそうだ。あまり、いい音色ではないな。おそらく、大和の人間が演奏しているのだろう。どれだけ楽器が優れていても、使いこなす腕がなければ、意味がない。それは、書物にも同じことがいえる。
藤原英麻呂は、目の前に山積みされた中国語の書物を1冊ずつ、ていねいに読みこんでいた。遣唐使が持ち帰った、貴重な文献ばかりだ。しかし、大和の国に悪い影響を及ぼすような物は、あらかじめ排除しなければならない。それが、英麻呂の使命だ。
先日は、いい仕事をしたと、自負している。問題となったのは、「孟子」だ。唐では、孔子たちが書いたものと並んで「四書」として、高い評価を受けている。しかし、内容を読みこむと、恐るべきものだった。
「民を貴しと為し、国家はこれに次ぎ、君を軽しと為す」
これでは、天子様の立場はどうなるのか。国家が転覆してもおかしくない思想だった。現に、唐では内乱が活発化して、「安心して暮らせない」という理由で、多くの知識人が大和に移住している。この奈良の都に、多くの唐の人間がいるのは、そのためだ。
唐と同じ失敗をしてはならない。英麻呂は、強い決意だった。
すぐに天子様に報告した。すると
「えー。そんなのが入ってきちゃったら、こわい。こわいよー。ぜーったいに食い止めてよ。頼むよぅ、ひでまろちゃん」と言われた。
予想された反応だ。少し、気がお弱い。まぁ、これが天子様のかわいいところでもあるのだが。
演奏会は、まだ続いているようだ。国際文化推進の担当者が「天子様が出席されるので、ぜひ見に来るように」という通達を回していたが、あえて無視した。ぼくには大切な業務がある。漢字が詰まった書物をペラペラとめくりながら、「孟子」のような危険思想がないか、チェックをしている時だった。
「英麻呂様。お客様です」
「取り込み中だ。忙しいと伝えてくれ」
「いや。でも、安部善(よし)足(たり)様なのですが」
「善足様?それを早く言え。お通ししろ」
安部善足といえば、この前、都にできたバカでかい大仏の建設費用を出した有力豪族だ。どんどん勢力を拡大する仏教界の中でも、かなりの力を持っていると噂されている。
「おう、英麻呂殿。お仕事中、すまんのう」
「いえ、善足様、今日もお元気そうで。都も桜が見ごろになりましたねぇ」
「あぁ。せやけど、うちのふるさとに比べたら、鼻くそみたいなもんやな」
また出た。だから、吉野出身の人間は、好かん。この時期になると、すぐお国自慢だ。たかが、桜じゃないか。と、思いながら鼻で笑うのをグッとこらえ、続けた。
「ところで、今日はどんな御用で?」
「あぁ、そうそう。その山積みになってる本。大変やなぁ、整理すんの」
「えぇ、まぁ」
「『孟子』、ある?」
一瞬、空気が止まる。
「も、『孟子』ですか?えーっと、えーっと。ないですねぇ。これまでも見た覚えがありません」
探すふりをしたが、明らかに手が震えているのが、分かる。
「いやね。儒教の四書のうち、3つはもう入ってきてるやろ。わしらも、もうすでに読んだんや。せやけど、『孟子』だけ、まだ読んでへん。そんな話を、唐から来たやつに話をしたら『それはおかしい』ってゆうんや。『もしかして、大和の国家が、ストップかけてるんじゃないか』って。わしは『そんなことない』ってゆうたで。大和の国家を信用してるさかいな。でも、まさかと思って、こうやって来たんや。まさか、やろな?」
英麻呂は、気もそぞろだった。意識は、背中の後ろにある本棚に集中していた。そこには、まだ世に出していない「孟子」がひっそり保管されている。
「私たちは民のために、全力で仕事をしております。唐からの貴重な情報をここで止めることなぞ、決してございません」
善足の視線が動く。キョロキョロと英麻呂の後ろに注がれている。そのたび、英麻呂は体を揺らして、「孟子」が見つからないようにする。
「今日のところは、帰るわ。また」
そう言い残して、善足はニヤリと笑って出ていった。
英麻呂はすぐさま、演奏会に出席している上司のところに向かった。
「なんだ、せっかくいいところだったのに」
「それどころじゃ、ないんです。孟子、孟子ですよ」
「モウシ?なんだそれは。新しい牛でも入ったのか」
「冗談を言ってる暇はありません。四書の『孟子』の存在が、安部善足にバレているんです」
「え?『孟子』はお前が危険思想だと言って、止めているはずじゃ」
「それが、善足が唐から移住した人と話している中で、気づいたようなんです。大和に入って来ていないのは、おかしいって」
「それはまずいな。会議だ」
演奏会は急きょ、中止され、緊急会議が開かれた。もちろん、天子様も出席された。
「というわけなんです」
英麻呂が、事の顛末を報告した。みんな、とても暗い表情になった。沈黙が続く。
「何か、いい方法はないのか。わしはこわい。『国家はこれに次ぎ』なんていう思想がはびこったら、わしの存在が二の次になってしまう。耐えられない」
天子様は、今にも泣き出しそうな顔だった。でも、誰からもいい案は出されなかった。
「一晩、考えさせてください」
英麻呂の言葉で、その日の会議は終わった。
英麻呂は気分転換をするため、町を歩いた。造成が、どんどん進む都。メインストリートである朱雀大路の道路わきでは、泥まみれになった男たちが、鍬で溝を掘っている。この前も大雨で、町が冠水してしまった。天子様が「早く、唐の長安のような、すばらしい都にしろ」とおっしゃったので、社会基盤の整備が急ピッチで進むようになった。「鶴の一声」とはこのことだ。
おっと。ぶっ倒れた男がいるぞ。そりゃそうだ。ろくな食事も与えられない。使い物にならなくなったら、ボロ雑巾のように、ポイ捨てだ。その男は、現場監督に引きずられていった。ムチでたたかれてもピクリともしなかった。
ポイ捨ての現場を、また目の当たりにしてしまった。つくづく思う。この時代に、貴族の家に生まれて良かったと。一般の家なら、自分もあの境遇だっただろう。考えただけでも、ゾッとする。
その晩。英麻呂は布団をかぶりながら、必死に対策を考えた。外は強い風が吹いている。こんな風では、満開の桜も早く散ってしまうだろう。
隣の部屋からは、何やら怪しい声が聞こえてくる。同僚が、使いの女性をつかまえて、良からぬことをしているのだろう。あぁ、気が散る。
「風よ、声をかき消しておくれ」
そう念じた瞬間だった。「ヒュー」という大きな音とともに、桜の花びらがはらはらと部屋の中に舞い込んできた。その時だった。
「風……風……、そうだ!」
次の日の会議で、英麻呂の案は、了承された。
「ひとまずは、それで乗り切ろう」
天子様の一言で、決まった。
翌日。早速、善足が再びやって来た。昨日の帰りと同じように、ニヤニヤしている。
「おう。英麻呂殿。今日も忙しそうやのう。そろそろ、孟子も届いたんじゃあ?」
「それがですね。善足様」
「どうした?」
「いろいろ調べましたところ、物騒なことがわかりまして。確かに、孟子は大和に持ち帰ろうと、数々の役人が挑んでいます。しかし、ことごとく、船が暴風によって、遭難しているのです」
「ほう」
善足は目を大きく開いた。
「一説によると、大和におられる八百万(やおよろず)の神々の祟りなのではないか。そういう情報も入っています」
「な、なに!」
「ですから、善足様もあまり孟子のことを重ねておっしゃると、八百万の神々の逆鱗に触れてしまうのでは。そうすると、あなた様の身にも……」
「もういい。わ、わかった。わしが言ったこと、誰にもいわんといてくれ。わかったか」
「もちろん。承知いたしました」
あせった顔で、宮廷を後にする善足の姿を、今度は英麻呂がニヤリと笑いながら、見送った。
「作戦成功だ」
英麻呂はふと、右肩に目をやった。そこには、1枚の桜の花びらが。サラッと払い、業務に戻った。
目の前の山積みされた書物から、新しいものを1つ取り出す。レ点、一、二点を使いこなして、翻訳していく。
英麻呂は今日も、大和国家のために、仕事をこなすのであった。
専制君主の時代に、民衆を危うくする国家や君主は変えるべきだとする孟子(紀元前372?-前289?)の主張は、革命的であった。その内容は、江戸時代に出版された上田秋成の「雨月物語」にも、記されている。それによると、孟子の考えは、天皇制の続く日本では危険な思想とみなされ、「八百万の神」が腹を立て、神風を起こして船を転覆させたため、「孟子」だけはたどり着かなかったとされている。しかし、実際には、平安時代半ばに渡来している。
(国語便覧より)
神風