廃色の鳥居~囲いの巫女と無名の思想家~上
『思想』とは、まさに字面通り、思うに想うことにある。
【序章】語り部は語るに落ちる
ある日の学校帰り。
指定の制服に身を包んだ少女、橘三咲は、いつもの通い慣れた通学路ではなく、まだ通い始めたばかりの不慣れな一本道を、スクールバックを片手に悠々と歩いていた。
両脇に幾重もの樹木が林立したその道は、どこをどう見ても自然の山道か獣道に少々人の手が加わった程度のもので、とてもじゃないが、いち女子高校生である三咲が闊歩するにはあまりに相応しくない道だった。無論、その点については三咲自身もなかなか思うところがあるようで、たとえば香水の匂いに寄って来る羽虫とか、羽虫とか、羽虫だとかに対しては一縷の例外もなく辟易していた。まあ実際はそれだけでもないのだが、目下、彼女にとっての差し迫った危機という危機は、香水に誘われた虫達の襲来であったらしい。払っても払っても寄ってきてキリがない。
だが結局のところ、胸の内でいくら不平不満を抱えていても三咲が足を止めることはなかった。それこそ自らの女子力が下がることなどどうってことないと言わんばかりに、ずんずんと足を進める。元から三咲は人一倍活発な性分ではあるのだが、それを差し引いても、どうやらこの先には、彼女が強く求めるなにかがあるようだった。
と、ここで初めて三咲の足が止まった。
鬱蒼とした木々がなおも勢いを増して生い茂る、やや混沌とした道の行き止まり。そのさらに奥の藪の中。そこに朱色の剥げた、灰色の鳥居が見えた。
少女は残る距離を一気に縮めようと、軽やかに駆けていった。
「こんにちはー。狭間さーん? おーい」
ひと気の感じられない境内に、三咲の快活な声が響く。
それにしても相も変わらず。境内の様相はそれはもう酷い有様で、最早侘び寂びなどという言葉で済むようなものでは到底なかった。腐葉土を苗床として育った幾つもの雑草が、あらゆる方向に伸び切っていて、本来なら趣を見せるはずの木々もここまで鬱蒼としていると、逆に窮屈そうに見えてくる。
なかでも神社の要たる本殿に至っては、あらゆる箇所に大小の風穴が空いていて、損傷の度合いも一段と激しかった。何故だか水の溜められた手水舎と、神社の関係者が事務を行う社務所だけが清浄に保たれているが、それ以外は説明するのも嫌になるほどの有様である。
それこそ誰が見ても人の住まうような場所ではないと、そう思うだろう。
「こんにちはー、狭間さんってばー!」
今度はやや声を張り上げてみる。ここの社務所にはインターホンが付いていない上に、戸の建て付けが悪いので下手に叩くわけにもいかず、呼び出す方法がこれしかないのだ。
やがて、社務所の入り口ががらがらと音を立てて開き、
「……ふぁーあ……」
くぐもった声と同時に、深緑がかった羽織に身を包んだ、鼠色の袴を穿いた男が姿を現した。
のそのそと現れた謎の男は、大あくびとともに玄関で雪駄に履き替えると、ぼさぼさの髪を掻きながら、如何にも眠そうな、かったるそうな表情で三咲の正面に立った。
「やっほー。元気にしてた?」
「…………」
男は両の瞼を擦りながら右へふらふら左にふらふらと、今にも倒れそうで危なっかしい。
そんな男だが、その顔かたちはまだ年若く見えた。それでも三咲よりは幾分か年上のようだが、とは言えあまり大差もないように見える。なんとも不思議な青年だった。
背丈もかなりある。筋肉質ではないものの、しかし非力といった感じは一切なく、むしろ壁の如き威圧感を醸し出していた。
そんな巨体と対面する、いち女子高校生の図。時代錯誤も甚だしい男の出で立ちと相まって、そのツーショットは大変奇妙なものを覚える。
「悪いけど新聞の勧誘ならお断りです――って、なんだ橘ちゃんか。よっす、久しぶり」
ここでようやく、男の双眸が三咲の姿をまともに捉え始めた。何度か目を瞬かせ、眠そうにうーんと唸る様には三咲も可笑しかったのか、堪えきれずに笑みをこぼす。
「もう。また、こんな中途半端な時間に寝てたんだ? ほんっと不規則な生活してるね。断っとくけど、あたしは新聞勧誘しに来たんじゃないからね」
「分かってるよ。しつこい勧誘なんかと違って、何万倍も嬉しいお客さんだ」
そんな風に言われてまんざらでもないのか、三咲の頬が僅かに緩む。
男の態度もさっきとはうって変わり、表情も穏やかなものへと変化している。
「上がりなよ。この間茶請けに丁度いいもん買ったんだ。食ってけ食ってけ」
「やったっ! それじゃあお言葉に甘えて……おっ邪魔っしまーす」
三咲の住まいがある地域を『町』とするなら、この寂れに寂れきった廃神社はそれとは異なった、山中に位置している。
橘三咲がこの廃神社、正式名称『三原稲荷神社』に初めて訪れたのは昨年の暮れごろ。高校受験を間近に控え、精神的にもいろいろと余裕を無くしていた、とある雪の日のことだった。
最初は受験勉強の合間、ちょっとした気分転換のつもりで外に出て。
山中へと続く、なんだか見慣れない一本道があったから興味本位で進んでみて。気がついたら何故か道から逸れていて、軽い遭難状態に陥っていて――。
やがて、しんしんと降り始めた細雪の中、涙目になりながらも諦めずに帰り道を探し続けた少女が、その途中偶然見つけてしまったその場所こそが――ここ『三原稲荷神社』こと通称、廃神社だったというわけだ。
そしてその際出会ったのが、出遭ってしまったのが――この神社に住み着いていた、まだ年若そうな青年。あの日ぜぇぜぇと白い息を吐きながら石段を上ってきた三咲を、訝しむように上から見下ろしていた、羽織袴姿の偉丈夫。
ぶるぶると捨て犬のように寒さに震えていた三咲を見かねた青年は、すぐさま暖かい社務所の中へと招いた。
招かれた三咲は、社務所の中にあった炬燵で冷え切った体を温めながら、今日ここに至った経緯について話した。話し終えると青年は「うーん。山ン中って言っても、ここから町まではほぼ一本道だから、普通は迷わないはずなんだがなあ……普通は」と、さも不思議そうに首を捻っていた。それを聞いて三咲は、青年に対する申し訳なさと、自身の方向音痴に対する気恥しさを覚えた。
それから数時間程度、その青年と他愛もないお喋りをした。見る限り、年齢も離れていなさそうだったので、くだけた調子で三咲は話を絡ませた。
最初は完全に三咲の独壇場で、自分の名前、年齢、町中に住んでいること。受験が辛くて、正直逃げ出したいと思っていることなど、それはもう自由に語った。
もちろん青年にもいろいろと質問を振ってみたが、曖昧模糊にはぐらかされるばかりでまともな答えは殆ど返ってこなかった。最終的に分かったことと言えば、彼が神社の関係者であるということぐらいのものだろうか。業界的には宮司代務者と言うらしい。本人曰く「おれはあくまで神社の宮司代務者であって、神職者ではない」そうだが、その辺の違いなど、三咲に分かるはずもなかった。正直どっちも一緒だろう、というのが、このときの正直な意見である。
だらだらとしたお喋りの途中、三咲はまだ青年の名前を訊いていなかったことに気付いた。慌てて教えて欲しいと懇願すると、青年は自らを『狭間』と名乗った。
『狭間』という名字もそうだが、名前に関してはご丁寧に字面まで紙に書いて教えてもらった。失礼ながらも「変わった名前だね」と三咲が素直な感想を述べると、「まあね。でもおれは気に入ってる」と返ってきた。紙に書いた自分の名前をまじまじと見ていた辺り、本当に気に入っているらしかった。
その日の夕暮れには、三咲の体力もある程度戻っていたので、帰りは一本道の終わりまで、青年に付き添ってもらいながら家路を辿った。一本道の終わり際、狭間は「一本道とは言え、この辺りは昼夜問わず獣も出る。もうここには近づかない方がいい」と釘を刺してきた。せっかく知り合ったのに、と不満を垂れつつも、その場はそっけなく返事をした。
翌日。三咲は大量の菓子折りやら果物やらを持って、もう一度改めて三原稲荷神社へと足を運ぶ。自分にとって狭間という男は、たとえ素性がよく知れない存在でも、助けてもらったことに変わりはなかった。だからどうというわけではないけれど、礼の一つぐらいはしておきたいと思ったのだ。
お礼をするにしても、まさか釘を刺したその次の日に来るとは思っていなかったのか、この早すぎる再訪問には狭間も大層驚いた。お礼を受け取っても彼は「懲りない奴だな」と少々苦言を呈していたが、結局のところこれ以降、橘三咲と狭間はお互いを名字で呼び合う程度には親しくなった。三咲も暇さえあれば神社へ遊びに行くという習慣が根付いてしまい、当初はそれを快く思っていなかった狭間も、ある一定の時期を境に諦めたのか、最終的にはなにも言わなくなってしまった。
そして、現在。
「あ~、美味しかったあ! ごちそうさまー」
社務所内。
本来であれば神社職員が事務的処理を行うための場所だが、狭間はここを完全に私物化してしまっているらしく、見渡せば木製の長机とそれに見合った座椅子、冊数の多さが目立つ窮屈そうな本棚や、衣装箪笥、掛布団に敷布団、挙句の果てには液晶テレビにパソコンにゲーム機、さらにはどう見繕ったのか、冷蔵庫やキッチンシンクに至るまでが完備されている。その他小物においても、見事なまでに彼の私物しか存在しておらず、元は事務的処理を行う場所であるなどとは毛ほども感じさせてくれない空間と化していた。
そんな中、三咲は長机の上に出された陶器の皿に手を合わせている。
高校生になって最初の春から、ようやく夏へと移行し始めた今シーズン。冷たいお茶と一緒に出された、これまたよく冷やされた葛餅は、三咲に恍惚と至福の時間をもたらした。もちもちとした食感を名残惜しそうに口内で思い出していると、
「口に合ったならよかった。中には食感が苦手って奴もいるからなあ」
狭間がお茶のおかわりを持ってこちらにやって来た。机に置かれた空になったマグカップをさっと手に取ると、狭間は並々に冷えた麦茶を注ぐ。そしてゆっくりとその場に腰を下ろした。
「あたしはぜーんぜん大丈夫。葛餅大好きだから」
「そうかそうか。久々に遠出して買ってきた甲斐もあったってもんだ」
「遠出? この葛餅、どこで買ってきたの?」
三咲は注ぎ足された茶に口をつけたあと、訊ねた。
「東京」
「東京! 昔修学旅行で行ったよ! ……って、えっ、まさかこれ買うためだけにわざわざ?」
「んなわけあるかよ。こいつはあくまで観光土産だ。浅草寺を見に行ったんだよ」
「他府県の人が東京観光に浅草寺とかはよく聞くけど……まさかそこだけ?」
「そこだけ。あとは一日中ずっと日比谷公園で暇をつぶしてた」
「……東京行って暇になるってあるのかな。せっかくの都会だったんだし、もっと買い物とかしてくればよかったのに」
わざわざ東京まで行って、公園で暇つぶしなんて。
見た目二十代前半の若者にしか見えない男の、一日の行動とは思えない。
無計画にも程があるんじゃなかろうか、と三咲は思う。
「東京と言えばさあ……ほら、最近いろんな意味で騒がれてる秋葉原とかー」
「アキバなんか行った日には帰れなくなっちまいそうだなあ。荷物が一杯で」
「手荷物便とか使えばいいんじゃない? この神社の住所書いて、旅先から送ってもらえば手ぶらで帰れるよ?」
「そういうの邪魔くさいから。いいや」
「邪魔くさいって……」
たかが手荷物便頼むくらいのこと。そう大した手続きをするわけでもないのに、と三咲は心の中で呟いた。
そんな彼女の内心などつゆ知らずとばかりに、狭間は依然として気の抜けた声で喋り続けている。
「まあ東京ぐらい、また気が向いたときにでも行き直せばいいさ。幸いにして、金には苦労してないし」
「嘘ばっかり。収入ないのにお金なんてあるはずないじゃん。ニートのくせに」
あまり声を大にして言うべきことでもないが、狭間は実質無職に近い。便宜上は宮司代務者という肩書きを前面に押し出しているが、その実態はなにも無いに等しい。それはこの境内の荒れ様からも、見て取れることだろう。そもそも彼が代務者を名乗っている、名乗ることができている理由については、三咲はなにも知らない。
そう考えると、多少は、狭間という男のお財布事情に対して、興味が出てくるというものだが、不思議なことに、彼の生活自体は境内の様子とは真逆で、困窮した様をまったく映し出さない。それは、この社務所に完備されている家具のバリエーションからも容易に窺える。
親の仕送りを頼りにしている様子もなければ、密かに働いているようにも見えない。彼は日がな一日中、この社務所に篭りっぱなしだ。これについては三咲も、予てからずっと疑問に思っていたことだが、なにか事情があるのかもと敢えて聞こうとはしなかった。
話の流れでうっかり口に出してしまったけど、もしかして琴線だったのかも。
今さらながら、言葉に詰まってしまう。
「うーん、まあ確かに収入は殆ど無に等しいが……それでも金はあるんだよ。こうして毎日、ぐーたらと寝て過ごしていられるだけの金は」
「なんか取りようによっては物凄く嫌味に聞こえるけど……それ、どういう意味?」
「ん。いやまあ、そんな大層な理由じゃない。今から丁度二年前ぐらいにやった宝くじで、運よく三億円当てたってだけの話だから」
「なーんだ、三億円かあ。…………って、えぇぇえええっ! 三億ぅ!?」
脆いガラス細工なら砕けてしまうんじゃないかと思う程の声量が、室内に炸裂した。
狭間は顔をしかめて、片耳を手で塞いでいる。
「……うるさいなあ、耳元でキンキン騒ぐなよ。そう驚くようなことでもないだろうに」
「驚くようなことだよ! どこ!? どこにあるの三億円!?」
「徳川の埋蔵金じゃあないが、ちゃんと然るべき場所に隠して……っていうか、知ってどうするつもりだ」
「あわよくば山分けなんて話にならないかなって」
「ならないならない」
一瞬にして一蹴された三咲はがくりと肩を落とし、口を尖らせた。
「けちー、三億もあるんだからちょっとぐらいいいじゃんかぁ……」
「けちー、じゃない。それに当選してからもう二年は経ってんだ。そう期待してくれるな」
「ちょっと待って、なんか嫌な予感する……え、ちなみに今の貯金の残高ってどれぐらい?」
「今はざっと、二千万」
「はあ!? たった二年で三億が二千万!? なんで? どうして!?」
「その金持って、ラスベガスのカジノに行ったんだ」
「はあ……」
「最終的には三日で露と消えたっけなあ。だから二年つっても、実質三日だな。三日天下。いやはや、やっぱ賭け事なんてするもんじゃねえよ。橘ちゃんも気をつけな。あっはっはっはっ」
またも三咲の肩が重く下がった。
と思ったら一気にずいっと、狭間に詰め寄り、
「笑ってる場合っ! 三日ぁ!? 三日で三億近く失ったっていうの!?」
思いの丈をぶちまけた。
どうやら感極まっているらしく、三咲の両目には薄く涙の膜が張っている。
「嘘でしょ! お願いだから嘘って言って!」
「嘘」
「えっ」
「――だったら、よかったんだが……」
「…………」
このとき三咲は生まれて初めて、茫然自失というリアクションをとった。
呆気にとられ、しばらく我を忘れて石像のように硬直した。
「あのなあ……おれの金なんだから、別になにをどのように使っても構わんだろ。ちょっとぐらい博打をしたっていいじゃないか。別に元を取れなくたっていいじゃないか。当の本人がそれで納得してるんだから」
「いや、そうだけど……確かにそうなんだろうけど……!」
それでも三億もの大金を二年間、それも実質三日で使い切るのは、ちょっと違うんじゃないだろうか。
ちょっとどころか、だいぶ。
「半分は残すとか、そうじゃなくたって、他にもっと有意義な使い道があるでしょうが!」
「使い道? そんなもんあっただろうか」
「この神社っ! これ見てなんとも思わないのっ」
三咲はガラガラと、縁側へ続く障子を開けた。涼しげな風や穏やかな日差しとともに、やはり人っ子一人見当たらない境内が目に飛び込んでくる。ここからは境内の様子が一望できるが、年柄年中、その様子は変わり映えしない。
鳥居はすっかり塗装が剥げ落ちていて、境内の石畳はことごとく割れていて、拝殿の鈴は今にも頭上に降ってきそうで、祀るべき神の座する本殿は風穴が空いていて――何度でも言うが酷い有様だ。
「苔だってあんなに生えて……草も伸びっぱなし……」
「あれはあれで、趣があって悪くない」
なおも食い下がる狭間。
「趣も限度を越えればただの廃墟っ! まともなのはここと、そこだけじゃないっ」
今居る社務所を指し、次に遠くの手水舎を示す三咲。
繰り返すが、この社務所は狭間にとって生活の場だ。
手水舎に関しては、彼が毎朝の洗顔時に使用しているとのことなので、比較的清浄に保たれているらしい。
「最悪鳥居だけでもいいから再塗装とか……」
「いいんだよ、これで」
「でも」
「いいんだって」
やんわりと、しかし芯のある語調で、狭間は言い切った。
瞬間、その超然とした雰囲気に気圧され、三咲は思わず言葉を失う。
狭間は今まで座っていた場所からゆっくり立ち上がると、三咲と同じく縁側の位置まで足を運び、並んで佇んだ。
閑散とした境内。やがては、完全に風化していくであろう風景。
それを眺める彼の口元は、不思議と穏やかそうに綻んでいた。
だが。
「ここはさ。もうとっくの昔に終わっちまった場所なんだ。だからこれ以上、手を加える必要はないんだよ」
唯一、その眼だけは。
その眼にだけは、三咲の与り知らない、彼の一面が反映されているような気がしてならなかった。
どこを見ているか分からない眼。
どこかは見ているはずなのに、どこも見ていないような眼。
それは深くて重い、底なし沼のような暗がりを秘めた瞳だった。
三咲はこのとき初めて、狭間という男に得も言われぬ『なにか』を感じた。それは刹那的なものであったし、なにより感覚的なものでしかなかったが、三咲は確かに『それ』を感じ取った。否、感じ取ってしまった。
その感じ取ってしまったなにかを、言葉で言い表すのはとても難しい。
恐怖でもなければ、悪意でもなく。さながらそれは邪なものでさえなかったように思う。
だがそれは間違いなく恐怖であり、悪意であり、邪なものに近い、『なにか』であったはずなのだ。
けれどその感覚を間近で感じ、自然と身体が強張ってしまったことから、なんとなくそれが『普通』の枠内に収まるものではないと分かった。
それだけは、三咲にも理解できた。
「――今のおれが宮司代務者としてできることなんてのは、この神社が自然と朽ち果てていくのを、最後まで見届けてやるぐらいのもんだよ。それ以外は……考えてみたが、なにも思いつかん」
「……じゃあ、やっぱニートみたいなもんだよね、狭間さんは」
「うわ、ちょっとグサッときた。いくらなんでも直球過ぎるだろう。まあ否定もしないし、肯定もせんが……いやはやしかし、ニートってお前……」
否定しないんだ、と三咲は呆れ果てる。このときにはもう、狭間の眼は普段通りの穏やかな眼に戻っていた。
だからこそ、と言うべきか。
彼があのような眼をした理由が、三咲には不可解だった。
冷静に考えてみれば、分かるはずもないことである。
確かに狭間とはそれなりに親しい仲だが、お互いの心の内まで知り尽くしていると言える程長い時間を共有したわけではない。それも元を辿ればたまたまの偶然が結びつけ、運よく助けてもらい、流れのまま知り合っただけの間柄だ。それ以外のなにものでもない。
「まあまあ、そんな耳が痛くなるような話はこの辺でやめにして――もっと楽しい話題で盛り上がろうぜ。ほれほれ、他の話題プリーズ」
それはやけに流暢な発音による、切実な「お願い」だった。
「なんかないのかよ、現役女子高生。青春真っ盛りのお年頃だろう? 浮いた話の一つや二つはあってもおかしくない。どうなんだ、好きな奴とかいないのかい」
狭間が縁側に座り込む。追うようにして三咲も腰を落ち着けた。
「あ、あはは……それが全然ないんだよねえ。他の子はその手の話題、結構進んでるらしいんだけどさあ。なんというか、あたしは興味が薄いのかな? まったく興味がないってことはないんだけど……今はまだ、ってカンジ」
「じゃあ誰かと付き合ったこととかは」
「……ない」
目線を逸らしながら、若干恥ずかしそうに三咲は俯いた。
「へえ、意外にも初心なんだな」
「そこはせめて純粋と言って欲しいかな……」
「橘ちゃんなら引く手数多だろうし、てっきり毎日、男をとっかえひっかえして遊んでるのかと思ってたよ」
「ちょっと、いくらなんでもそれは失礼! 心外だよ! あたしそんなことしてないもん! っていうか狭間さんの方こそどうなの」
「えー、おれか?」
「そうだよ!」
まさかその質問が自分に返ってくるとは思っていなかったのか、目をぱちくりと瞬かせる狭間。次いでおどけたように肩を竦めて見せたが、そんな誤魔化しは通じないとばかりに三咲は目を剥く。獰猛な闘犬のように低く唸りながら睨みつけている。
もうそれだけで人を殺せそうな勢いだ。
「あれだけコケにしてくれたからには、さぞ甘酸っぱい青春を送って来たんでしょうねえっ! 狭間さんはっ!」
「……おいおい、考えてもみなよ。こんな山ン中に住んでる引きこもり同然の男に、そんな春爛漫を連想させるような青春模様が微塵でもあったと思うか?」
「あっ、そうか。そうだよね、ないよね、あるわけないよね、ごめんね、なんか」
「即答……そこは少しでいいから否定してほしかった」
「だって言われてみればその通りかなって」
「橘ちゃんがいじめる……」
大げさにもガクリとうなだれる、自他ともに認める引きこもり同然の大男。
三億もの大金を三日で失ったというショックな過去を平然と語る反面、そのメンタルは意外にも繊細であるようだった。
コントのような会話にもそろそろネタが尽きはじめてきた頃、三咲は唐突に狭間の方へ体ごと向き直った。縁側に腰掛けている分、その細い両足はそれほど向き直れてはいなかったけれど、態度だけは十二分に示せていた。
真剣な面持ちである。橘三咲を知る者からすれば、「らしくない」と言われてもおかしくない程に。
少女は、ぐっとなにかを決意したような瞳で狭間を見た。
「どうした。腹でも痛いのか」
それに対する狭間の反応はやはりというか相変わらずというか、柳に風、暖簾に腕押しといった風である。
「知ってると思うけど、トイレならここの一番奥のどん突きに――」
「ねえ狭間さん」
ぴしゃりと遮る。
「さっきの話じゃないんだけどね。その……狭間さんは、恋をしたことってある?」
恋とは。
種の繁栄に続く材料というだけでは語れない、大多数の人間が、その短くも長い一生の中で、遅かれ早かれ体験することになる一大イベント。
三咲がまだ知らない、しかしいつかは知りたいと思うステージ。
狭間に訊ねた理由は至極単純明快。分からないものに対する不安を少しでも和らげたいと思った。ただそれだけだった。加えて狭間が三咲にとっての異性であるとともに、なんだかんだで恋愛経験は豊富そうなイメージがあったからだ。
そういう意味では、なにも訊ねる相手は狭間でなくともよかったのではないか? という壁にもぶち当たりそうなものだが、逆に言えば訊ねる相手が狭間だったからこそ、こんな不躾な問いかけもできるというものである。
かくして、三咲の読みは当たった。
「まあ茶化さず、真面目に言うなら――そりゃあ、あるさ」
同時に、こうも言った。
「けれどそのエピソードを面と向かって話す気はない。たとえその相手が橘ちゃん、きみであったとしてもだ」
残念ながら自らの恋愛経験を体験談として他人に授ける気はないらしい。口振りからすれば皆無である。
一応、予想はしていた。人間ならば思い出したくもない過去の一つや二つ、あってもおかしくない。恋愛なんてなおさら、その辺のトラウマの大多数を占めていると言ってもいいものだ。狭間もまた、その内の一人だったということなのだろうか。これについては、単なる推測に過ぎないのだけれど。
「…………とは言ったものの」
大きくごろんと縁側に背を預けて、狭間は続ける。
「橘ちゃんには『浮いた話の一つや二つはあってもおかしくない』と詰め寄っておいて、こっちのこととなればなにも語らないってのは、いささか不公平だわな」
まるで独り言のようにそう言った。
変なところで律儀な男である。
「だから、そうだな――代わりと言っちゃあなんだけど、この神社に伝わる伝説でも語ろうか」
「伝説?」
きょとんとする三咲。
寝ころんだ状態から、一気に体を跳ね起こす狭間。
「実はこの『三原稲荷神社』、それなりに古くてな。まあそれについては、見りゃ分かるというものだろうけど」
それについてはなんの異論もなく首肯する。
寂れていると言うべきか、はたまた荒廃していると言うべきか。表現には人それぞれ幅が出るかもしれないが、概ね古いという一括りには頷けるものがあった。
「要するに歴史があるってことだ。で、歴史があればそれなりにいろんな逸話とかも結構残ってたりするわけ。この話はその最たるものだな」
「へえ、どんなお話?」
「きみがまだ生まれる前の話だよ。それこそこの三原稲荷神社が、まだこうも古びていなかった頃の話らしい。おれも氏子連中からの又聞き程度だから、あんまり詳しくは知らないが」
そんなに面白くはないかもしれないけど、と狭間は一言前置いて、境内の拝殿を見据えながら悠々と語り出した。
涼しげな風が、三咲の頬を静かに撫でつける。
瞬間、脳裏にチラついたのは、狭間がこの神社を『終わってしまった場所』と評したことについてだった。
もしかしたらその意味が、この話一つに隠されているのかもしれない。
一度でもそう思ってしまうと、興味関心の渦は自然と巻き起こってくる。
「それは思想に憑りつかれ、己の本質から目を背け続けた一人の思想家と、誰よりも自由を望んでいた一人の少女との間に起った――」
最後の一節は、流暢に紡がれる。
「忘れ去られた恋の話だそうだ」
【一章】葵
世は江戸幕府が開かれて早くも百年。かつての戦々恐々とした乱世は見る影もなく消え去り、五代将軍徳川綱吉が、かの政策『生類憐みの令』を公布しておよそ二十年。関東を襲ったあの『元禄大地震』から二年余りが経過しようという頃であった。
ここは丹波国亀山の地。見渡す限りの田園、空を流れる大小様々な雲、照りつく太陽、そばを流れる大堰川と、日本の原風景そのものと言えるこの亀山は、京の都の後背地として全国的にもそれなりに知られた地域である。一見すれば辺境の片田舎とでも揶揄されそうな亀山だが、しかしながらその存在感はけっして薄くない。
歴史を紐解けば、足利尊氏が京都攻めの折に挙兵した篠村八幡宮があり、あの『本能寺の変』の首謀者と称される明智光秀が丹波国平定のための拠点として活用していたのもまた、この地である。農作物の出来の良さと量が期待できる肥沃な土地柄を引き合いに、古来より朝廷の財政基盤と囃されていて、徳川の御世となってもその重要度は変わらず、京に通じる山陰道の入り口にあたるとして、未だに国から重要視され続けている。
その男は。
そのぼろぼろの笠を被った汚らしい風体の男は、そんな亀山のとあるあぜ道を鼻歌交じりに闊歩していた。
男の顔は笠に隠れておりよく分からない。背丈は低くもなく高くもなく、全体的にはやせ形のようで、かと言って細すぎるということもなく、標準のような標準でないような、どっちつかずのようでどっちにも付いているような、そういうなんだか描写に困る風を醸し出していた。
また『汚らしい風体』とは言い及んだものの、身に着けているもの自体にはそれなりに価値がありそうだった。鴉の濡れ羽色の羽織に鼠色の袴姿。どちらも生地がほつれていたり、日に焼けたのか色落ちもしているが、元は値が張るものに違いない。そして腰には一刀の打ち刀らしき存在。柄の部分がやけに短く、脇差の類はない。確認できるのはあくまでこの一刀のみである。
しかしこの装いで、男がどの階層の人間であったかが判断できた。小刀の類ならば平民でも常備できるが、大刀だけはそうもいかない。
おそらくこの男は牢人なのだろう。別段珍しくもない。時代の波に押し潰された武士崩れの浮浪者など今やそこら中に溢れている。単にこの男もまた、その内の一人であるというだけの話だ。
ふと、鼻歌に興じていた牢人と思しき男が立ち止まった。視線の先には農道から外れた一本道、遠くを見やれば山中へと続いているのが分かる。
「たまには山も、悪くない」
呟いて、再び歩を進める。
時は宝永三年の花見月。
山桜が無尽に色づく、穏やかにして春麗らかな日のことだった。
◆
鬱蒼と生い茂る木々に両脇を挟まれた、この山中へと続く一本道は、地元住民も足繁く利用する山道の一つである。主に山菜取りや手頃な木材を見繕うためにこの山道を使う者が多いが、同時にここは、とある神社の参拝道でもあった。
名を『三原稲荷神社』と言う。稲荷神社と言えば『お稲荷さん』の愛称で知られた宇迦之御魂神を筆頭とした五柱を祀る神社だが、その総本山は言わずもがな、伏見にある伏見稲荷大社である。つまりここ三原稲荷神社は、いわゆる有名どころの分社にあたるわけなのだが――。
「あーもうっ。嫌になるわ……」
山道の行き止まりにある真新しい朱色の鳥居。その先には如何にも傾斜が激しそうな三十段程度の石階段が続いている。その階段の段の終わり。そこに彼女は腰を落ち着かせ、重いため息を吐いていた。
至るところにあどけなさを残した少女の姿は、この場所に相応しいと言えば相応しい巫女装束だった。和紙で結われた黒の長髪と、一点の曇りもない清廉な白を強調した白衣に濃色の袴が、まだ年若そうな少女を神職者たる階位にまで引き上げている。
少女の名は『葵』。
この三原稲荷神社に属する、ただ一人の『巫女』である。
「ホント、どうすりゃいいってのよ。この状況……」
男のそれにも勝るとも劣らない意志の強そうな瞳と、きりっとつむがれた口元から、初見でさえ勝気で気位が高そうな女と見受けられることが多いが、その実は外見以上の激情家。道理にそぐわないことはとことん気に入らないと進言する、女の身であることが惜しまれる程の豪気の持ち主である。
そんな彼女がらしくもなく俯き加減に独り言を洩らしているのには理由があった。
それは宮司という神職の長の不在。
数週間前、この神社の宮司たる翁が老衰でぽっくり他界してしまったのが事の始まりだった。翁は高齢だったので、死んでしまったことに関しては止む無しとしか言いようがなかったが、問題は引継ぎ。これまで翁がやってくれていたであろう、あらゆる事務処理、お金の工面。一口に言ってしまえば神社の運営についてだ。
が、しかし。
葵はなにをどうすればいいのか、それこそ右も左も分からない。完全に暗中模索にして、依然手つかずのままだった。身寄りのなかった翁の葬儀だけはなんとか済ませたものの、ここ最近、振り返ってみれば境内の掃き掃除しかしていないように思う。
このままではまずい。大変よろしくない。
そう思いつつも打開策は浮かばないままだった。他に葵自身が個人で頼れる者と言ったら、近所に住まう農家の一人息子、綴ぐらいのものだが、しかしそれはあくまでお米を分けてもらうために無理やり家に転がり込むという最後の手段なわけであって、神社の運営に繋がる糸口にはならない。
現実はやはり、八方塞がりなことには変わらなかった。
「はぁ……」
どうしようと嘆いても、それに答える者は誰も居ない。
――いつも通り、掃き掃除でもしてようかな。
静まりかえった境内を、ただ一人の巫女は寂しげに見つめていた。
昼の八つ時。唐突にからんからんと清らかな音色が響き、本殿の裏を掃除していた葵の手が止まった。
参拝客なのだろうが、しかしこんな中途半端な時間に鈴が鳴るのも珍しい。
綴かな、と葵は思ったが、すぐに違うと確信した。綴が来るとすれば、もう少し前か後のはずだ。この時間帯ならまだ稲作の真っ最中だろう。それに最近の彼は妙によそよそしく、神社に訪れる機会もめっきり減っている。
となると、よく山菜取りのついでに参拝していく、あの気のよさそうなお婆さんだろうか。でもあのお婆さん、最近腰を痛めて療養してるとか聞いたような。では、違う人だろうか。
いずれにしたってこんなところで熟考していても埒があかないので、葵はとりあえず拝殿の方へ顔を出してみることにした。
まあ、どうせ大した神社じゃないんだ、誰が来たって気取る必要もない。
そんな風に思いつつ、葵は長箒の柄を肩に乗せて歩き出す。本殿と拝殿はとても近しい位置関係……というか目と鼻の先であるのだが、さすがに本殿の裏から拝殿の真正面は直接確認できない。参拝客の姿を捉えたいならどうしても回り込む必要がある。
拝殿の隅からひょっこりと顔を覗かせれば、そこに参拝客は居た。丁度拝んでいる最中だったので、葵の姿にはまだ気付いていないようだが。
その参拝客の素顔は、笠を深くかぶっていてよく分からない。ただ、体格からしてその参拝客が男であるということだけははっきりしている。腰にはなんだか当然のように刀も差していることだし、服装も薄汚れてはいたが、元はそれなりに上物そうな羽織袴の出で立ちだ。
牢人、だろうか。
まあこのご時世、そんなに珍しいものでもないか。
葵はじっと男の様子を観察する。
拝み終えた後に拝殿へ向かって最後の一礼を済ませると、男はその場に立ち尽くしたままぼおっと正面を見ていた。顔は笠の影に隠れているというのに『見ていた』と表現するのは、やや不適切かもしれないが、その視線は間違いなく正面、つまり拝殿のどこか一か所に向けられているものだった。
一体なにを見ているんだろう、と葵が疑問に思うが早いか、牢人と思しき男はさらに拝殿へと体を近づける。続いてきょろきょろと周囲を見渡し始めた。明らかに挙動不審だ。なんだか嫌な予感が脳裏を掠めた葵は、男が見渡すのを止めた瞬間に、物陰からもう少し身を乗り出して、男のほぼ真横からその様子を窺った。
嫌な予感ほど、よく的中する。
羽織の袖から抜き出た男の両腕は拝殿の柵を越え、備え付けられていた木製の賽銭箱の上部へと伸びており、そしてその十指は、力づくで破壊せんとばかりに賽銭の入り口たる桟の部分を強く握りしめていた。
百歩譲っても、賽銭を入れているようには見えない。
「どっ……」
葵の顔が、怒りを筆頭とした複数の感情の色に支配され、
「泥棒――――!」
この日、丹波国で一番の怒号が、境内にこだました。
「うわっ!?」
葵の最大声量をまともに受け、男は跳ね退くように体を強張らせた。
その瞬間、バキッと木材の砕けた音が響く。
「あ」
「あ――――っ!?」
見れば賽銭箱の桟の何本かが、そのまま男の手中に握られている。
そして当の賽銭箱と言えば残念なことに、防犯性を失ったただの木箱と成り果ててしまった。
「あーあ……、やっちまった」
「…………」
「あ、いや、その、すまん。急に声かけられたもんだから驚いて……つい」
沈黙に耐え切れなかったのか、男の方から申し訳なさそうな物言いが聞こえてくる。意外にもまだ年若そうな声に一瞬呆気にとられたが、どうやら葵の感情の爆発は止まることを知らなかったらしい。
葵は声にならない声を上げながら、携えていた長箒を男の顔面に向かって全力で投げつけた。
それからおよそ一刻が過ぎた境内。
そこには依然として鬼のような形相を露わにした葵と、石畳の上で正座をさせられている男の姿があった。
笠を脱いだ男はまだ二十の前半といったところで、目元を覆う程ぼさぼさに伸びきった髪と無精ひげが酷く印象的だった。
「『路銀が底をついて、仕方なくやった』……ふぅん、動機はそれだけ?」
「残念ながら他に言い様がなかったりする」
「……反省しているのかいないのか」
開き直ったように言い切った男の頭の上に、先程投げつけた箒の穂先を振り下ろし、ぐりぐりと押し付ける。
「おいおいおい……まったく手荒な巫女さんだな。さっきもそうだ。初対面の相手に向かって全力で箒投げるとか正気の沙汰じゃない」
「賽銭泥棒がよくもまあ言ってくれるわね。このままお奉行様のところに突き出したって、一向に構わないのよ」
「そうか。それは困った」
言葉とは裏腹にまったく困った様子のない姿に苛立ちを感じて、またも長箒をバサバサと叩きつける。「目に刺さる、刺さるから」と喚く正座中の賽銭泥棒を見下ろして小さなため息を洩らしたあと、葵は疲れたように言った。
「あぁ……もう、いいわ」
「……えーと、なにが?」
「不問にしてあげるって言ってるの。でも次はないわよ。だから早くどこかへ消えて。わたしの気が変わらない内に」
――今は賽銭泥棒なんかに構ってる場合じゃないの。
葵は冷淡に言ってのけた。そう、今は一刻も早く今後の神社の経営と自分の身の振り方を考えなければならないんだ、とでも言いたげに。
もちろん未然に防がれたとはいえ、それが賽銭泥棒を逃がす理由になんてならないことは葵自身よく理解していた。賽銭箱が破壊された点に至っては未遂で終わっていないのだし、罪に問うことなど葵の証言一つでいくらでも可能だ。
だが目の前の男にこれ以上説教をしても、減っていくのは時間だけで、得られるものは精神的な疲労だけだと感じたのだ。それこそこんな牢人らしき人物一人を真人間にしたところで腹が膨れるはずもないのだから。
これからどうすればいいのか。どうやって生きていけばいいのか。こんな事態になっても葵の頭にはそれしかなく、それ以外の事柄に興味を持つ余裕など皆無だった。
よろめきながら男は立ち上がる。
「不問なぁ……まあ見逃してくれるって言うならそれはそれで有難いんだけどさ」
「なによ、文句ある?」
「いや、文句はないが……どうも釈然としないというか。ほら、たとえばさ。『見逃してやる』と言っておいて油断させて、実は奉行の手の者にこっそり連絡してるんじゃないかとか……巧い話には裏があるとよく言うし」
「そんな器用なことできるわけないじゃない。というか奉行の手の者に連絡って、なに? こんな山の中からどうやってあなたを捕まえてもらうようお願いするっていうのよ」
「え。あんた巫女なんだろ。そういう神通力的なものとか使えたりしないのか。こう、自分の声を遠くに飛ばして相手に伝える、みたいな術とか」
「で、き、ま、せんっ!」
言い切ってしまうのもなんだか夢のない話だが、事実使えないのだから仕方ない。
「そうか。じゃあ別段、見逃してくれることに裏はないわけか」
「あーもう、ないない。だから早く、どっか行ってよ……」
投げやりに手を横に振って否定する。後半はほぼ懇願に近かった。
「ふーん。まー、じゃあここはおとなしく好意に甘えておくとしようかな」
好意という勘違いも甚だしい解釈には口を挟みそうになったが、どうやら素直に立ち去ってくれるらしい。まったく、相手は曲りなりにも賽銭泥棒だと言うのにこの緊張感の無さは一体どこからやってくるものなのだろうか。鼻歌交じりにぼろぼろの笠をかぶり、のろのろと大刀を腰に差し直す牢人の姿を見て、葵はまず間違いなくこいつの所為だろうなと睨みつけた。
「何度でも言わせてもらいますけど、次に悪事を見かけたときには問答無用でふん縛って、お奉行様に引き渡しますから」
「そいつは怖い。以後気をつけるとしよう。ああ、あと、賽銭箱壊して悪かったな。弁償したいところだけど、生憎持ち合せがなくて」
男は本当に申し訳なさそうに笠の上から頭を掻いた。
賽銭箱と聞いて思い出し、またもげんなりするが、もうとやかく言ってもどうしようもない。今度、綴にでも頼んで直してもらおう。ぶつくさ文句を言われるかもしれないが、少しおだててやればなんだかんだでやってくれるはず。
「……うっし。それじゃあ縁があれば、またどこかで」
「縁ね。こっちとしては願い下げなんだけど」
「あんたからすりゃあそうだろうな。でもまあ世間ってのは、案外広いようで狭かったりするものだから」
なんだかとても不吉な宣告をされてしまったような気がしないでもなかったが、正直なにがどうあれ御免被りたいというのが本音だった。この際神でも仏でもいいから、この賽銭泥棒との縁だけはどうか取り付けないでくれと葵は切に願った。
牢人と思しき男が去り、長箒を物入れに片付けたあと、葵は拝殿の壊された賽銭箱を改めて見やる。
そして嘆息。
今日は間違いなく厄日だと、葵は独りごちる。
「それにしても変な人だったなあ……あの牢人、っぽい奴……」
なんと言うべきか、あの男には得体の知れなさがあった。初対面だから当然だと言えばそうなのだが、しかしそれを差し引いても、あの男から伝わってきた人柄はあまりに強烈だった。変に疑り深いと思えばなにも考えていなかったり、傍若無人かと思いきや、最後は本当にすまなさそうに謝ってきたり。
調子の狂う相手であったことだけは、唯一、確かなのだが。
――やっぱりとっちめてもらった方がよかったのかも。
とは言えここは人通りの少ない山中。奉行所に突き出すなんてのはもちろん、言葉の綾だったが、よくよく考えれば同心一人呼ぶのでさえも実際、難をきたしていたかもしれない。実は、結構危ない状況にいたんじゃないだろうかとも思えてくる。
未遂でも、犯罪者には違いない。
あっちは男で、こっちは女。
もしも力づくでこられていたら。
――やだやだ。やめよやめよ。
葵はぶんぶんと頭を振って、心内に灯った嫌な想像を打ち消す。今はあんな奇矯な賽銭泥棒のことを思い出すよりも、今後の身の振り方を考えることだけに集中しなければ。
しかしこうも追い詰められた精神状態でいい案など浮かぶはずもなく。
この日もまた無為にして無意味と思えるような一日が、音もなく過ぎ去るばかりであった。
【二章】思想家
いやいや、そんなまさか。
こんな予定調和はありえない。ありえて欲しくなどなかった。
目の前の光景に、葵は顔を引き攣らせて固まる。
――なんで?
心の中の動揺が、知らぬ間に口を介して外へと洩れた。
「なんで……」
――なんで『あいつ』が、あんなところで行き倒れてるの?
葵の視線の先には、水田の合間にある細いあぜ道でうつ伏せになったまま微動だにしない一人の男の姿があった。
そしてその出で立ちには見覚えがあった。若干薄汚れているが、質はよさそうな羽織と袴。道に転がったぼろぼろの笠。笠と同じく、道に投げ出された一振りの刀。
そう。まさに先日、不本意ながらも逃がしてやった、あの牢人と思しき男と特徴が一致するのである。
「……っ」
傍目からすれば無様なことこの上ないが、男は農道のど真ん中をその全身で塞いでしまっている。
道を迂回するべきか否か、本気で迷う。
絶対に関わりたくない。関わりたくないが、しかし、この男のためにわざわざ回り道をするのもなんだか癪に障る。
――いっそのこと、このまま脇を通り過ぎてみるのも一つの手かもしれない。
葵は極限まで息を殺し、足音を立てないよう細心の注意を払いながら男に忍び寄った。そしてそのまま、男の傍らを通り過ぎる。
起きる気配はない。
よかった、と安堵の表情を浮かべつつも踏み出す一歩。
その瞬間、右足首に細長いなにかが絡みついた。
「ひっ……」
おそるおそる目線を下に落とす。
草の合間から出てきたのだろうか。絡み付いていたのは一匹の蛇だった。蝮のような毒々しい外見ではない。体色や模様などからして、おそらく縞蛇だろう。無毒で性格もおとなしい種だ。
だがこの場合、それが何蛇であろうと蛇には変わりない。
くりくりとした瞳と目が合うと、蛇は赤い舌を覗かせながら足元より這い上がってきた。
ぞわり。
全身の肌という肌が粟立つのを覚えた。
「う、うわああああっ!? ちょっ、このっ」
右足を振る。とにかく力任せに振る。
それでも蛇は離れない。どころか振り落とされまいと余計にしがみ付いてくる。
「あーもうっ、しつこい!」
と、お互い必死の攻防を続ける中、不意に葵の上体がよろめいた。
不安定な片足立ちの体勢、当然と言えば当然である。
「あっ、うわあっ」
後ろ向きに二、三度よろめいたあと、どすんと尻餅をついた。
その勢いで蛇は前方へと放り出され、葵は奇しくも難を逃れた形となった。
蛇は一瞬鎌首をもたげると、その後ずるずると道の端に消えていった。
「いったぁ……なんなのよも――」
しかし一難去ってまた一難ということわざがあるように、葵もまた次なる局面に身を置いていた。
葵が尻餅をついた場所。それはけっして地面などではなく、
「うっ、げほっ……重い」
「あ……」
図らずもそこは、行き倒れた男の上。葵は男を完全に下敷きにしていたのだった。
「ごっ、ごめんなさいっ! これはけっしてわざとじゃなくて――って、誰が重いよ! 誰がっ!」
周囲に音が響くぐらいの強さで男の背中を叩きながら、葵は大声で喚き散らす。
「体重なんてここ何年か量ってないけど……だからって重いだなんて言われる程増えた実感はないわよ! たぶん!」
「いってぇ……」
「ちょっと! 聞いてる!?」
「わ、分かった……ちゃんと聞いてるし、訂正する。あんたは軽い。けっして、重くなんかない。だから頼む。早く、早くどいてくれ……」
あらゆる意味で満身創痍と成り果てている男の懇願は、まさに悲痛の一言に尽きた。第三者からすれば少女が男を屈服させているようにしか見えないだろう。
葵はぶつぶつと文句を呟いてから男の背中を降りた。降りるのと同時に、男がふらふらと起き上がってこちらに向き直る。
目元にまでかかったぼさぼさの黒髪と無精ひげ。やはり先日の、賽銭泥棒未遂犯である。細かく言及すれば、賽銭箱を破壊した罪も含まれるのだが。
「おや。どっかで聞いた声だと思えば……この間のおっかない巫女さんじゃないか」
しまった、と葵は今さらのように後悔する。
慌てて顔を隠したところでもう遅い。
「な、言った通りだったろ。世間ってのは広いようで狭いんだよ」
葵は茫然と、したり顔の男を目の前にしていた。
ああ、どうやらこの世には神も仏も居ないらしい。
葵の信仰心は脆く崩れた。
「今日はアレだな。巫女姿じゃないんだな」
葵の小袖姿を見て男は言う。
明るくもそれほど華美な印象を与えない、今の時季を匂わせる薄桃色を基調とした色合いが、まだあどけなさの残る少女の姿に調和している。葵もお気に入りの一張羅だ。
「てっきり巫女ってのは四六時中あの姿でいるもんだとばかり思ってたんだが……違うのか」
「あれは仕事の時だけよ。あんな格好でその辺うろついてたら目立って仕方ないわ」
「ふーん。あ、でも巫女の中には『歩き巫女』なんてのもいるだろ。ほら、全国を旅しながら祈祷とかして生計立ててる奴」
「一昔前はむしろそっちの方が多かったみたいだけどね。わたしはちゃんと、あの神社所属の巫女ですから」
「違うのか」
「違うの」
とは言え実際は、どちらの方がいいかなんて一概に言えることではないだろう。
歩き巫女なら特定の神社に縛られることもないため、ある意味では自由奔放に全国行脚の旅路に臨めるが、その分、女の身一つで世を渡り歩くことの危険も当然付きまとってくる。中には勧進や祈祷どころか、体を売って生計を立てる場合もあるとのことだ。安定性には欠けているかもしれない。
なら神社に所属している者の方が安定しているのかと問われればそういう話でもない。こちらはこちらで祀るべきものが明確に存在する以上、信仰を集め、事務的な処理をこなし、神社を維持する必要がある。これはこれで大変だ。現在葵が直面している問題でもある。
「というか、そんなことはどうでもいいのよ。それよりも――」
立ち止まり、男を睨みつける。
「一体、いつまで、付いてくる気?」
そう、この男。何故だか先程の農道での一悶着からずっと付いてきているのだ。本当はさっさと逃げたいところだが、これから先のことを考えるとあまり体力を浪費したくない。なので仕方なくこうして、大して盛り上がりもない雑談に身を投じていたのだが、それもそろそろ限界だったのだ。
しかし当の本人はそんな葵の苦悩などつゆ知らず。如何にもぼけっとしたように、
「さあ」
と返答しただけだった。
「さあ、って……」
「まあ強いて言えば暇だからかなあ。そう、暇なんだ」
暇だから。
それが彼の現状における、たった一つの行動原理らしい。
けどだからってどうして自分に付いて回るんだ。もういろいろと勘弁してくれ、と葵は心の中で息巻いた。
「わたしは暇じゃないんですけど……今から町まで買い物に行く気だったし」
このことに関して嘘偽りはない。背負ったこの竹の大籠こそがその証拠だ。神社にため込んでいた食糧がそろそろ尽きそうだったので、城下町の方へ繰り出そうと前々から計画していたのだ。
まあその計画も、残念ながらこうして出鼻を挫かれる形となったわけだが。
「ふーん、そうか。でもこっちは暇なんだ」
どうやらこちらの迷惑を考える意思はこれっぽっちもないらしい。それはこの傍若無人さから嫌でも窺える。なにを言っても無駄という標語を易々と受容するのもどうかと思うが、この場合それ以外に合う言葉が見つからないので仕方ない。葵はある種の諦観の境地に至っていた。
「あと補足すると、今ものすごく腹が減っている」
「そうでしょうね。なにせ、行き倒れていたんだものね」
「そう、要するに腹が減ってるんだ」
「…………」
「腹が、減ってる」
ちらちらと横目でこちらを窺いながら、男は壊れたような棒読みで何度もそう言い続けている。
なにが言いたいんだこいつ、なんでここまで空腹を主張するんだ、と考え始めたところで、葵はその意図に気が付いた。
「あなたもしかして――わたしになにかタカろうとか考えてない?」
主にごはんとかごはんとかごはんとか。
時間的には朝晩どちらにも重ならない、中途半端な時間ではあるが。
――こいつ。もしかしなくても、そのためだけにわたしに付いてきてるんじゃ……。
「うん」
無駄に素直な本音に、葵はまたもすっ転びそうになった。寸でのところで踏み止まることができたが、正直ぎりぎりもいいところだ。葵は食い気味に睨みつけるが、当の本人は自覚がないのか、突っ立ったまま疑問符を浮かべてこちらを見ている。
「さっきから飛んだり跳ねたり転んだり、忙しない奴だな」
男はなんだかとてもかわいそうなものを見る目で傍らに佇んでいた。
「まったくよねー……一体誰の所為かしらねぇ……!」
「さあ」
「あんたの所為だ! あんたの!」
翼の代わりに腕を広げ、あたかも荒ぶる鷹の如く激昂する葵。
一方、未だに葵が青筋を立てている原因がよく分かっていない様子の男。
この二人の対比は最早比較にならないぐらいに温度差がある。
「まあ細かいことは気にするなよ。ほら」
「なによ、この手は」
「籠だ。持つよ」
「いいわよ。別に」
まだなにも入ってないから重くないし、と葵は言ったが、男は頑なに譲らなかった。
「まあまあ。いいからいいから」
「はぁ。……はい」
背負っていた竹籠を下ろして渡す。
よいしょ、と男は背負うも、立ち上がった時に若干ながらふらついていた。竹製である上に空だから、重いどころかむしろ軽いぐらいのはずだが、なんだか危なっかしく感じるのは気の所為だろうか。
葵の心配をよそに、男は。
「さて。とりあえず町に行って、その買い物とやらをさっさと済ませちまおうぜ。飯はその後でも構わないからさ」
しれっとした顔でそう告げた。そして再び、歩行を再開する。明け透けとも取れるその物言いに「ん?」と葵は一瞬だけ考え込んで、はっと気付いた頃にはもう遅かった。
竹籠はすでに男の手中にある。奪還は少し難しそうだった。
「しまった、わたしの馬鹿――って、なんで結局ごはん奢る話になってるの!? それどころか付き添いすら認めてな……だからっ、話聞きけよこぉぉらぁぁぁっ! 籠返せぇぇぇっ!」
道中、葵は何度も何度も竹籠を取り戻そうと苦心したが、町に到着するまで、それは終ぞ叶うことがなかったという。
丹波亀山城を起点とするこの城下町は、年中人通りが多く活気に満ち溢れている。人通りが多い理由は先にも述べたように、京の都への出入りを繋ぐ山陰道が存在しているからだ。それを見計らってか、旅行者を歓迎する旅籠も手広く展開されており、順じて茶屋や煮売り屋、居酒屋など、その他様々な店が軒を連ねている。
その内の一つ『天山醸造』と書かれた店の前で、少女、葵は腕を組みながらうんうんと確かめるように頷きながら、小声でなにかを呟いていた。
「えーと、あれも買ったし、これも買った。それでこのお醤油に、お味噌っと……うん、これで終わりね。必要なものは全部買えたわ」
醤油を溜めた木製の小樽、味噌が入った壺を前にして、指折り数えながら、葵は隣に佇む牢人と思しき男に報告する。
買い出しはこの店を最後に、無事、終えたようだ。
「…………そうか、そいつはよかったな。しかし、それ、どうやって持ち帰る気だ」
涼しげな葵とは正反対に、男はぜぇぜぇと辛そうに肩を上下させ、立っているのもやっとだと言わんばかりの表情をしていた。
それもそのはず。今の男は背中に巨大な竹籠を背負い、さらに両手とも、荷物で完全に塞がっている状態なのである。まさに手一杯といった感じで、ちっとも余裕が見られない。
しかしそこへ続けざまに、葵の無情なる一言が突きささった。
「そんなの、あなたが持つに決まってるじゃない」
この横暴さを通り越した躊躇のない一言には、これまで飄々としていた男も青ざめる。
「お――おいおい、冗談だろ。さすがにこれ以上は持てないって」
「ほら、その手の二つ貸しなさい。で、籠下ろして」
一旦、両手の荷物を葵に手渡してから、身をかがめて竹籠を下ろす。大根や芋などの野菜で、すでにぎっしりと詰められたそこに、小さいとは言え、醤油樽や味噌壺を入れる隙間は見当たらない。
早く詰めて、と葵の視線に急かされながらも、男は首を傾げる。
「いや、ムリだろこれ。入れる余地がねえよ。むしろどうやって入れたらいいのか……」
「――あー、もう! 使えないわねっ。こんなのはこうして、こうやれば――」
再び手荷物を男に突き返すと、葵は籠を自分の方へと引き寄せて中身を整理した。まず一番下に醤油樽と味噌壺を置き、その上にてきぱきと野菜類を並べていく。最後にごぼうを無理やり隙間に押し込んだところで、手荷物を残して、その他の荷物は完全に竹籠にまとめられた。おお、と男が唸り、拍手を送る。
葵はじとっとした両目で男を見やると、
「ほら。背負って」
と促した。
男は枯れた返事とともに、今度は手荷物を持ったまま、器用にも竹籠を背負って立ち上がった。
案の定。重さが増していたらしく、「ぐけぇ……」とみっともない声が上がった。
「ぐおぉ……空腹な上に、今はあんまり力が入らない時間帯なんだよ……まったく、勘弁してくれ……」
「あらそう。じゃあご飯のハナシは、なかったってことでいいのね」
「まあこの程度の荷物くらい、どうってこともないかな」
途端に生まれ変わったように態度を改める男。その急変ぶりがおかしくて、葵はちょっとだけ口元を綻ばせた。
――この分だと結局、奢る羽目になりそうね。
葵自身、なんとなくそうなってしまうのだろうなと予想はしていたものの、いざこうなってしまうと、男に対する自分の折れっぷりが情けなく感じる。先日はあれだけ警戒していたというのに、実に生温い対応だ。繰り返すが、相手は未遂とは言え賽銭泥棒であり、故意でないとは言え、その賽銭箱の一部を破壊したような奴である。
本来なら馴れ合うどころか、断固拒絶するのが普通であるはずだ。ひっ捕らえて奉行所に引き渡すところまでいけば、なお良かったことだろう。
なのに今。葵はそんな者と談笑なんかしている始末。
男が勝手に飯目当てで付きまとってきて、情けなくも竹籠を奪われて、仕方がないからそのまま奢ってやる代わりと称して荷物持ちに採用したとか、そんな経緯を被せてみても。
この状況はなにかおかしいような。
相手の調子に巧く乗せられているのではないかという感は間違いなく、ある。あるにも関わらず、見過ごしているのは、単に。
――単にわたしが、お人好しなだけなのだろうか。あるいは、流されやすいのかも。
「うーん、それはそれで自分に腹が立つような――」
「なにが?」
ぽつりと洩れ出た独り言に、気付けば男が関心の目を向けていた。
「なんでもないわよ。お夕飯にはまだ早過ぎるけど、せっかくだしわたしもなにか食べようかな~って、思ってただけだから」
葵はそっけなく答えた。ちなみにこの時代は朝晩の一日二食が基本である。これが朝昼晩の一日三食と四民平等に広がるのは、まだ当分先の話だ。
「どうせ食べるのなら蕎麦がいい。蕎麦が食べたい。近くにねえかな」
「はいはい、お蕎麦ね。丁度行きつけの店がこの小路の先にあるわ。そこでいい?」
「うん」
そうして二人は歩き出した。目指すは城下町の中でも比較的大通りに面した蕎麦屋である。
当初、男の足取りはおそろしいまでに鈍く、その歩調に合わせるのに一苦労したが、自分は手ぶらで相手は荷物持ちなだけに、指摘するのは気が引けた。
けれど一応、くぎを刺しておくことだけは忘れない。
「荷物持ちに免じてお蕎麦ぐらいは奢ってあげるけど、その代わりこの荷物、ちゃんと最後まで運んでよ? 途中で逃げたりとかしたら承知しないからね」
「分かった分かった。善処するよ」
「善処」という発言にいささか不安になってくるものだが、まあこんなことでやいやい言っても仕方ない、と葵はここでも寛容な精神を保ち続ける。
しかしこの男、ついさっき行き倒れていた割にはだんだん元気になっているような。
まるで牛歩のようだった足運びも、気のせいかずんずんと力強くなっている。最初はあれだけ「尋常じゃない重さ」だの「力が出ない」などとぼやいていたのに、全て嘘だったかのように余裕の表情である。普通は逆ではないのだろうか。
そんなことを考えながら、葵は空を見やる。
雲一つない快晴。太陽は真上だ。
「……ああ、もうそんな時間だったのか。だからか」
並んで歩く男が、不意にそう呟いた。
それはとても小さな声で、葵が聞き逃すには充分な声量だった。
二人は小路を過ぎて大通りへと出る。
目指していた看板は目と鼻の先にあった。
葵御用達の蕎麦屋、『春鶯』。
ここ数年の内にできたばかりの店だが、のどごしの良い細麺と鰹の風味を利かせた出汁が、早くも人気を博しており、町内の一部では店の名にちなんで、『新進気鋭の春鶯囀』などと謳われている。誰が名付けたのかは不明だが、雅楽における四箇之大曲を冠したものであるだけに、店主も悪い気はしていないとのことだ。
店内はそれほど広くもないが、その分掃除の手に困るということもないようで、常に十全な清掃が行き届いていた。建物内はスギ(だと思われる)を扱った簡素な造りで、至る箇所に季節の花々が生けてあり、机もまた、木目が鮮やかな一品がいくつも置かれている。
極めつけは壁に掛けてあった絵だ。桜にとまった鶯が描かれた、春一色を連想させる一枚である。この店の由来も、案外これにあるのではないかと、葵なんかは来るたびにそう思っている。
前までは翁と一緒に、何度か立ち寄ることがあったこの店も、翁が体調を崩してからはまったくだった。こんな形で来ることになったのは不本意だが、けれどもそういう別の意味では、この牢人と思しき男にも感謝しなければ――。
と、葵も先刻まではそう感慨にふけっていたのだが。
今はかなり、訪れたことを後悔している。
「やっぱ、蕎麦は細いのが一番だよな、ぐ」
「……………………」
机の上へ無造作に積まれた大量のざるに目眩がする。しかもそれらは全てが全て、綺麗に空だ。蕎麦のひとかけらも残ってはいない。
「麺そのものはコシがあって、出汁もなかなか洗練されてる。空きっ腹だったとは言え、こんなにうまい蕎麦食ったのは初めてだ」
「…………あ、あぁ、そう……よかったわ、ね……」
いや、よくない。全然よくない。こっちからすれば、こんな悪目立ちこそ初めてだ。時間的には少ないとは言っても、客からは明らかに奇異の目で見られているし、店側の何人かも完全に引いてしまっている。そりゃそうだ。
なによりこの蕎麦の代金は、一体誰が支払うというのだろうか。
たしか蕎麦は、一人前が八文だったはず。
この山を見るに、二、四、六、八、――駄目だ、これ以上は数えられない。否、数えたくない。葵は現実と向き合うのを、このときばかりは拒んだ。目を逸らす。
――どういうことこれ? いや冗談抜きで。本当に。
厠に行こうとちょっと席を外していただけだったのに、帰ってきたらこの有様だ。厠に使った時間などたかが知れている。なのにいつの間にか、この惨状とも言うべき山が形成されていたのである。
ちなみにおかわりを許した覚えはない。
「あんたには感謝してるよ。まさかこんなに奢ってくれるとは思いもしなかった」
こちらこそ。まさかこんなに奢る羽目になるとは思いもしなかった、と心の中で毒づく。
どころかこれは慮外もいいところだった。葵は行き倒れの空腹具合を舐め切っていたのだ。人智を超えていると言っても過言ではない。
空腹、行き倒れ。
そう言えばこの男の素性について、まだなにも知らないことに葵は気付いた。牢人ではないか、という推測でこれまで接してきたが、証拠はただ一つ、今は立て掛けてある一振りの大刀だけである。それ以外はまるで不鮮明だ。
この際、根掘り葉掘り訊いてみるのもいい。少なくともその間、空のざるが増えることはないだろう。
葵はなるべく平静を装いつつ、席に着いた。
「ねえその、あんたってさ。見たところ牢人って風だけど」
「ん?」
「実際のところ、どうなの……?」
葵の問いかけに対し、男は咀嚼していたものを一度呑み込んでから、「ふむ」と箸を湯呑みの口に置いた。葵も同様に、箸置きへと移す。
「牢人。まあそう見えるだろうなあ。確かに昔は、一国一城の主に仕えていたこともあったよ。こいつはそのときの餞別だな」
と、隣に立てかけている自らの刀を指して言った。
牢人とはなんらかの理由で主家を失い、浮浪と化した元武士のことを言う。
広い意味の「浪人」と違う点は、まさにその本人が、元は武士や侍であったというところだろう。一国一城の主に仕えていたというのが事実なら、この男も昔はそれなりに安定した暮らしを営んでいたのかもしれない。
「最初は手本通りに武士をやってたが、そいつもだんだん合わなくなってきてな。政策なんかも、『こうすれば上手くいくだろう』って案を、思いつく限り偉いさんに進言したりもしたが、やれ体面だの前例がないだので、まるっきり取り合ってくれなくてさ。だからやめたんだよ、自分から」
「やめたって、そんなあっさりと?」
「そうだ。幸い、根無し草は元からだったもんで、終わりは実に楽だったが」
「で、でも家族とか……親とかはなにも言わなかったの?」
「その家族や親とやらが、そもそもいないからなあ」
親がいない。家族がいない。孤児というやつだろうか。
この時代、珍しくはない、が。
「生まれはどこ?」
「さあ、忘れた。どこだったかな」
とぼけたように頭を掻く男。
「自分のことでしょ」
「自分のことだからだよ。だからこそあんまり憶えてないんだ。なにしろ『あの頃』は、今よりもっと落ち着きがなかったから」
「不安定だったってこと?」
「そ。まあ今も大して変わらんが」
と、肝心な『あの頃』とやらのことについては殆ど触れずに締め括る。
なんだか煙に巻かれたような気分だ。これは境内で出会ったときもそうだったが、彼はゆらゆらと陽炎のように掴みどころがない。そのくせふらふらと隙だらけのような、わけの分からない奴だ。「不安定」という表現だけは、的を射ていているような気がするが。
「ふーん、いろいろと込みいってるのね」
とりあえず表面上、葵はそのように流しておくことにした。
「……それで? 牢人としてうろついてるうちにこの亀山に辿り着いて、よりにもよってうちの神社の賽銭を狙ってくれたってわけ?」
「ああ、全国津々浦々を気兼ねなく旅してたんだが、丹波国に入る辺りで路銀がなくなって、それで――」
結局、いくつもの神社の中でも、何故わざわざ『三原稲荷神社』を狙ったのか、という疑問については判然としなかった。だがおそらく、考えられる一番のものとしては、まずあの神社に、人の入りが少なかったことが挙げられるだろう。ただでさえ山道の奥にある極まった神社だ。悪事を働くにはうってつけである。
もちろん、単に葵の運が悪かった可能性も捨て切れない。
それはそれで残念過ぎる理由ではあるが、しかしそれは相手も同じである。図らずも、賽銭泥棒は未遂に終わってしまったのだから。
しかしもう一段階熟考してみれば、こうして食にありつけたのだから、男の悲願は遠回りながら叶ったとも言っていい。
そして結果、葵はタカられてしまったのである。
葵はこめかみを押さえながら、ため息を吐いた。
「はぁ……ほんと悪縁ね、これは」
「あんたにとっちゃあ、そうなるんだろうな」
茶が入った湯呑みを手にして、ぐいっと一気に啜る男。
どうしてここまで他人事な調子であれるのか、謎である。
謎と言えばもう一つ。
「そういえばさっき、一国一城の主に仕えていた頃もあった――って言ってたわよね? そのときはどこにいたのよ」
「安芸国だ」
安芸国。丹波からはそれなりに距離がある。
――そう言えば安芸の厳島神社って、あの清盛入道が深く信仰していたんだっけ。
厳島神社の名は高名なので葵も知り得ていたが、安芸国に対する印象と言えばそれぐらいだ。
「あれっ、でも今までの話から察するに……安芸国はあなたの生まれ故郷じゃないのよね?」
「おう。あくまで一時期に身を置いてたってだけだ。それに元武士と言っても、どちらかと言えばあのときは、『思想家』としての面が強かったから――」
「しそうか?」
耳慣れない言葉だ。
それを問うてみると、
「『思いに想う』と書いて、思想。そして『思想家』。いわゆる物事に対して独自の考え方を持つ者のことだ」
「……それって説法するお坊さんみたいな?」
「いや、坊主とは根本的に違うな。見ての通り、ちゃんと髪はある」
大仰な言い方をするからなんだと思えば、根本的に違う部分ってそこかよ、と心の中で突っ込みを入れながら端正な眉根を歪めた。
無言で呪詛を送り続けていると、男は「まあ今のは冗談」とおき、
「そうだな……たとえば仏教は、元を辿れば釈迦という一人の『宗教家』が伝えた教義だ。そしてその教義とは、釈迦本人がその長きにわたる修行によって見出したとされる『真理』を軸とした――要は釈迦の価値観そのものだな」
なにを分かりきったことを、と思いながらも葵はとりあえず頷いて見せる。
仏教の本筋についてそれほど詳しくはないが、そんな彼女でも、釈迦という、かつて実在した遠い国の人物が仏教と呼ばれる一つの宗教の開祖であり、浄土の世界観を広く巷間に広めていたことぐらいは心得ている。どころかそれは、曲りなりにも神道に属する葵でなくとも、最早誰しもが知り得る一般常識と言ってもいいものだ。学の無い者でも釈迦の存在は頭に残る。
ゆえに教義についても同様だ。釈迦が自らに課した苦行の先に視た、本来あるべき人の姿や世の在り様、つまりは真理を知ったその境地にまで達することこそが、仏教に邁進する信徒ら全ての最終目標だと聞かされるだろう。
それすなわち、解脱であると。
「解脱に至った釈迦の悟り――つまりは彼一個人の価値観こそが仏教の教義。この教義に共感し、さらには自分もありがたい教えにあやかろうと、まるで蟻が集るかのように列を成すのが信徒。そしてこれら信徒によって生まれる一連の集合体こそが『宗教』だ」
男は語る。ときたま皮肉が飛び出すが、意外にも宗教の本質を捉えられているようだ。淀みなくすらすらと出てきたことには感服する。
しかしそれはあくまで釈迦という宗教者と、仏教という名の宗教について論じたに過ぎない。『思想家』などという、学の有る者ですら満足に聞いたこともないようなものの詳しい説明は、まだ漠然としか成されていないのだ。
わざわざ仏教――ひいては宗教について一通り述べたということは、その前置きが必要だったと窺える。もしかすると宗教家と思想家を比較して、それらの違いを露わにしようとしているのかもしれない。
かくしてその読みは、熟練のやぶさめが如く見事に的中した。
「で、ここからが本筋。宗教と思想、並びに宗教家と思想家の差異について。まず第一に、宗教には必ず神秘性があるな」
「しんぴせい……?」
「そう。人間以上の存在である神仏などを教義に持ち込んで崇めること。それは仏教だけじゃなく、全ての宗教に通じる原則だ。そしてこれこそが宗教家と思想家の、明確でいて決定的な差異」
神秘性。それについては巫女である葵にも十全に関係してくる分野だ。
それにしてもあまり突き詰めては考えていなかったのだが、つまりは自分も、平たく考えれば宗教家に当たるということなのだろうか。いずれにせよ、神職者としての認識の薄さが葵の心に去来したことは言うまでもない。
「神秘性を土台とした宗教家に対し、思想家は自らがこうだと思った理論や信念、主義なんかを語り、突き詰めては啓蒙したりする。なにについて考えるかも個人の自由だ」
同じようで違う。近いようで遠い。
重なるようで、重ならない。
「そんなものなの? それが違い? それが、思想家?」
「うん。まあ、これは持論だがな。だから間違ってるとか言われても、そんなことは知らん」
「知らん、って……」
また随分ばっさりと言い切るものだ、と葵は思った。
だが思想家がどういったものであるかは、程々に理解した。
「つまりはあなたも――なにか、『これ』っていう思想を持っていると……そういうことになるわよね」
「そういうことになるのかな。もっとも思想家に限らず、大概の人間はなにかしらの『思想』を持っているとは思うが――」
牢人と思しき男――もとい思想家は、そう言及した。
葵は、その特別深くもないような科白に、一般人との明確な差を感じ取った。確かに人は皆、口には出さなくとも心の中になにかしらの思想は持っている。それは事物を判断するための基準となったり、ときにはそれで悩むこともあったりする、邪魔なように思えて、必要な材料だ。同時にそれは、個人個人の人生観を映し出す鏡とも言い換えられる。しかしそんな鏡を、いちいち大々的に触れ回るなど、普通は有り得ないことだ。
思想家は臆面もなく自分の理論を、信念を、主義を掲げて公表する。
それはおそらく、誰にでもできることではない。ことによっては批判も受けるだろうし、嘲笑の的にもなる。
仏教はまだいいのかもしれない。仏教における釈迦の説法は、あの釈迦という『ありがたい存在』が背景にあってはじめて価値が生まれる。逆に言えばそれは、釈迦という存在が生きていようと死んでいようと、広く世の中に知られている限りは、不滅であるということなのだから。要は認知度と信仰の度合い。仏教に限らず他の宗教も根本はそこであり、さらには神秘性こそが物を言う。
しかしどれほどの真意を突いていようとも、思想家の思想は突き詰めれば、所詮一個人の喚きに過ぎない。ある程度の名声があれば話は別なのだろうが、少なくともこの目の前の男は、そんな部類の思想家ではなさそうだ。
なにせ路銀がないからと、賽銭泥棒を画策するが失敗し、挙句の果てに行き倒れていたような男である。
「結局のところ、思想家ってのは職業でもなければ役職でもない。人間の、一つの在り方だと思ってくれればそれでいい」
そう言っておきながら、
「まあ昔は思想家であることを利用して、論客やらご意見番やらの役に就いていたこともあった。最後は自主退職だったけど」
と、彼は続けた。
どうやらそれが、さっきの城仕えのときの話に繋がるらしい。
「……ところで。さっきからやたらと外が騒がしく聞こえるが、今日はなんか催し事でもあるのか?」
「えっ」
長考していたのであまり気にならなかったが、耳を澄ませてみると、確かに町の喧騒がいつもよりもにぎやかしく感じられた。どころかこれは、喧騒にしても騒がし過ぎる。なにかあったのだろうか。
「ただの見世物ですよ」
呆れたようにそう告げたのは、この店の売り子だった。葵にとっても初見の人物で、切れ長の双眸で、鼻筋も通った綺麗めの女である。しかし今は眉間に深いしわを寄せて、実に不機嫌そうだ。
売り子は机の上にうず高く積まれた大量の空のざるを難儀だと言わんばかりに見上げ、片付けようか片付けまいか逡巡したのち、諦めたように窓の方へと視線を投げつつ言った。
「この通りの先にある寺で、大の男どもがお金を賭けて腕相撲してるんですよ。本当に下らない……」
「賭け? 腕相撲?」
思想家の問いかけに、売り子はさも忌々しそうに、
「なんでも、取り仕切っている二人組に参加料を払って、その二人相手に腕相撲で勝ったら、相手方の今まで集めていた分の参加料が、全額賞金として支払われるらしいですよ」
と、一度に答えた。しかも下らないと言う割にはよく知っている。
その後、「馬鹿らしい」だのと散々に吐き捨てながら、結局大量のざるは一つも片付けないままに、無愛想な売り子は奥へと消えていった。
あまり現実を直視したくない葵としては、このいつ崩壊するかも読めないざるの山は一刻も早く片付けて欲しいものだったし、これでは無条件で売り子の愚痴を聞かされたみたいで居心地も悪かったが、如何せんざるの量が量なので強く咎めることもできなかった。
なので葵は強硬に、新しい話題へと路線を変更することで、現実逃避を敢行する。
「にしても腕相撲ねぇ……しかも賭けって……賭け事はご法度のはずでしょう?」
「そのはずだが……ただ、場所が場所だ。寺は他所と違って比較的取締りが緩い。それだけに境内で賭場が開かれるなんてのはよく聞く話ではある」
「仮にもお寺なのに……」
売り子程じゃないが、葵も実に、呆れたように頬杖をつく。
「そんなもんだよ。全てがそうではないだろうが、今は坊主も平気で酒や女に溺れる時代だ。それに――」
「それに?」
「『賭け』――と、これだけなら誤解もしやすいが……あらましを聞くに、富くじや丁半博打のような単なる運や壺振り任せのものとは違うみたいだ。なにせ腕相撲となると、主催者側がなんらかの不正を仕組んでいない限りは完全に実力勝負だからな。その点においては、従来の賭け事とはまた趣向も異なってくるのかもしれない」
「……つまり、これは賭け事のようで賭け事じゃないとあなたは言いたいわけ?」
どうにも屁理屈のように聞こえてならない。
「そこまで断言する気はない。けど、咎められたときの言い訳程度にはなるかもしれないって話さ」
思想家はおどけたように肩を竦めた。葵はやはり得心がいかないらしく、不満そうに口を尖らせる。
「いずれにしても、面白い催し事だとは思うよ。勝負の内容についても、挑戦した人数によっちゃあ得られるものは倍どころじゃない。要約するに、その二人組に勝てばそれまでの参加人数分の参加料が手に入るんだろ」
「話を聞いた限りではそうなんでしょうけど……なんか胡散臭いわよ」
何故だろう、違和感を覚える。大盛況なのは金が絡んでいるからだろうが、それ以前にその二人組のやり口が気になって仕方ない。
そういう意味では葵もまた興味を持ち始めていた。残念なことに、当の本人はそのことをまったく自覚してはいないようだが。
「なんにせよ食後の暇つぶしとしては最適だ――そんなわけで、ちょっと観に行ってくる」
思想家は「ご馳走様」と手を合わせ、笠を被り刀を持って席を立つ。そして軽やかな足取りで、そのまま店を出て行ってしまった。
突然の出来事に、葵はしばし唖然とする。彼はなんの躊躇もなく、当たり前のように彼女を置き去りにしたのである。
「ええっ!? ちょっと! まだ支払いも終わってないのに――」
と、そこで。机に積まれた、目も眩むような大量のざるが再び目に入った。何度見ても、総数を数える気を失くしてくれる、葵にとって最悪の光景である。
しかし今度は、新たに真っ青になる事態が視界に飛び込んできた。
これまで思想家に背負わせていた大量の『荷物』。それらはまだ依然として、机の下に残されたままだった。
「ああっ、しまった……!」
彼が飛び出したことで、荷物の運び手がいなくなってしまったのだ。男手一つでやっとのものが、まさか葵に運べるはずもない。
――待って。もしかしてあいつ、これを見越して逃げたんじゃ……。
あくまで推測に過ぎないが、そう考えると合点がいくのもまた確かだ。男にしてみれば飯にありつけた時点で、すでに目的は達成している。その後も葵に付き合ってくれるかどうかは、本当に彼の気分次第なのである。
けれども葵にとってはそうもいかない。あの男が荷物を神社まで運んでくれないと、非常に困るのだ。
とにかく。追いかけなければならない。
だが追いかける前に、まずはこの蕎麦の精算だ。勢いのまま同じように出て行って、無銭飲食と勘違いされてはまずい。
「あのー! すみませんっ」
「はいはいはい……おあいそでよろしいですか」
気だるげな対応とともに奥から現れたのは、やはり、先程の売り子だった。自ら「おあいそ」とわざわざ皮肉った物言いで訊ね返してくるだけに、この無愛想な感じは、存外、彼女特有の持ち味なのかもしれない、と葵は疑う。
――今のままでも充分綺麗だけれど、にっこり笑えばもっと美人に見えるのに。もったいない。
「あら? お連れ様の姿が見えませんが」
「さ、先に店を出ましたっ」
「では、支払いはご一緒で?」
「はい、一緒で。……あの、それと……ちょっといいですか……?」
「はあ。なんでしょう」
「この荷物……、ほんの少し! ほんの少しの間だけでいいので、そちらで預かってはいただけませんか? 本当に、すぐ戻ってくるので……!」
頭を下げながら両手を合わせて、精一杯懇願の姿勢をとる。しばらくして、恐々と売り子の顔を窺ってみると、案の定。
それは、あからさまに嫌そうな眼差しだった。
「……お客様、申し訳ありませんが、ここはあくまで一介の蕎麦屋であって、荷物の預け屋などではないのですが――」
「は、はい」
あまりの剣幕に、自然と涙目になる葵。なんなのだろう、この二、三人は殺めてそうな目は。とてもじゃないが、一介の蕎麦屋の売り子とは思えない。こんな怖そうな人が、どうして接客なんかやっているのだろう。
そんな失礼千万極まりない感想を胸中にて述べる葵に対し、売り子は諭すように言う。
「一つ二つならともかく、あの量の荷物となると場所を取ります。なにより私は、この店において奉公の身に過ぎません。この店の主人がいない今、あまり無茶を言われても困ります」
真っ当な論だった。この蕎麦屋『春鶯』の店内は、元よりそれほど奥行きがない。限られた空間を上手く切り盛りして、できるだけ客側に提供できるよう努力しているのだ。そこにあの量の荷物となると、売り子の女が渋るのも頷ける。
おまけに売り子は、自分はあくまで奉公人でしかないと断言した。さらにこの『春鶯』の主人も、彼女の言によればどうやら出払っているようである。自分一人の判断で勝手なことをしてよいものかと、彼女自身も迷っているらしかった。
「ごめんなさい。でも、どうかお願いします……」
無心になって頭を下げた。売り子の女に迷惑をかけることを承知の上で、それでも一人では運べない現状を鑑みて、忸怩たる思いを噛みしめながら、葵はただただ頭を下げ続けるしかなかった。
売り子の女は腕を組み、最初はやや考え込んでいる様子だったが、やがて諦めたのか、物憂げな顔をこちらに向け、言った。
「…………仕方ありませんね。少しの間だけなら、うちで預かりましょう」
「……! あ、ありがとうございま……っ!」
「その代り。一刻も早く戻ってきてくださいよ。私も、面倒事は嫌いなので」
「はいっ」
「では精算へと移りましょうか。ええと、まずざるの数が……二、四、六――」
葵の中で売り子の印象がぐっと変わった瞬間だった。心の底では、やれ無愛想だ、怖い人だ、とぼやいていたが、蓋を開けてみれば実に融通の利く心優しい女性である。やはり第一印象や二言三言の会話では、その人となりを知ることなど到底できないのだな、と葵は悟ったようにしみじみと思いながら、銭差を取り出したかけたそのとき――。
信じがたい現実が襲いかかってきた。
「まず、ざる蕎麦だけで七十三人前になります」
それを聞いて、一瞬、全身に冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。
次いで、耳を疑う。
――七十三人前、ですって?
「……冗談ですよね? 他のお客さんのとかが、一緒に混ざっちゃってません?」
「いえ、間違いございません」
どこを掘り起こしても、葵は一人前しか食べた記憶がない。
売り子の言を信じるのだとすれば、七十二人分の蕎麦をあの男は一人で平らげたと言うのか。
そんな馬鹿な、有り得ない。いくら空腹だったとは言え、そんなの規格外もいいところだ。一体どこにそんな分量が入ったと言うのだ。皿蕎麦のようなものではけっしてなかったというのに――。
葵が食べた分も含めて、計七十三人前。
ここのざる蕎麦は一杯八文。
――七十三人前?
壊れたように葵は反復する。
「そこに加えまして、うどんの山菜ごはん付き定食が三十五人前なので――」
「はっ……えっ、ええっ!? 待ってください! 定食!? 一体なんの話ですかっ!?」
今度こそ、間違いなく記憶の海に無い。
そう、これもまた葵の記憶には無いだけで――つまりはそういうことらしい。
振り返って自分たちが座っていた席と机を見やれば、天井に届きそうな程に積まれたざるの山の近辺に、なるほど確かに定食用と思しきお盆やお椀がいくつか重ねてあった。葵が座っていたところからは絶妙に見えない位置に、である。
「うどんの山菜ごはん付き定食は一人前三十二文です。そこに先程のざる蕎麦の分を足すと――しめて」
――千七百四文になりますね。
合計にもびっくりだが、最早ここまでくると、うどんもあったんだあ、そうなんだあ、とかそういう雑念の方にばかり意識が向いてしまう。どこか夢見心地な気分だが、いっそのこと夢そのものであればどれだけよかっただろうと望んでみるも叶わない。
七十三人分改め、百八人分。
千七百四文。
無論、この額には九六銭の概念が適用される。九六銭とは一文銭が九六枚にも関わらず、百文相当として取り扱うことができるというこの当時の慣例である。ゆえに当時の百文差とは、百枚の一文銭をまとめたものを表すのではない。実質九六枚分しか紐の通されていない一まとめを、百文分と見なしていたのである。
つまり正確には千六百四十文払えばそれでよいのだが、しかしそれでもこの値段だ。最早有り得ないなんてもんですらない。こんなのは異常だ。いくらなんでも人間の内臓機能的に限界があるだろう。あの身体に百人分を越える量が納まっているなどと誰が信じられようか。いや、信じられない。
信じられないが、しかし、どうにもそれをやってのけたらしい彼は、果たして人間と定めてよいのだろうか。まず胃袋は尋常ではない。実は餓鬼かなにかの類だったりするのではないのだろうか、と疑う間もなく、売り子が半ば放心状態の葵に声をかけた。
「不服なのでしたらもう一度器から数え直しますが、結果は同じだと思いますよ。百八人分のお食事で、合計――やはり千七百四文になります」
異常事態を目の当たりにしても、それでも売り子は冷静に繰り返した。あるいは冷酷ともとれるかもしれない。
本当、売り子の鑑である。こちらとしてはまったく嬉しくない。
「どうしました。顔が真っ青ですよ」
「えー、えっとそのぅ……あはははは」
これで顔が青くならない奴など居ようものか。
それでもできる限りの笑顔を振りまいて、なんとか心の動揺を誤魔化せないだろうかと挑戦してみたが、どう見繕っても愛想笑いどころか引きつった笑みしか生み出せない。
「こちらとしては予期せぬ大繁盛といきたいところです。なので、『払えない』とは、言わせませんよ」
売り子の目は妖しげに、爛々と輝いていた。
しかし今の葵には払えない。ただでさえ大量の買い物を済ませた後だったのだ。たかが二人分の食事に、まさかここまで金がかかると誰が予見できただろうか。
背筋を、つぅ、と冷や汗が走る。
「ぶ、分割払い! 分割払いとかって……」
その発言は、葵にとって最後の悪あがきだった。
それに対して売り子の女は、
「はい。それにつきましては」
これまでと同様、無愛想な面を崩さず絶やさず継続しつつ。
「了承しかねます」
きっぱりと、そう告げたのだった。
【三章】佐伯 徳助
葵が一目散に向かった先は、亀山城古世門から程近い古世横町にある、腕相撲が行われているとされた寺だった。名を『寓名寺』と言い、かつて城下で起きた大火によって焼失したものの、檀家たちによる強い要望もあって、数年ののちに修復、再建された寺院である。
さて、そんな寓名寺だが、今や門前にはすでに結構な人だかりができていて、一種のお祭り状態にあった。その人波のせいで、中の様子は非常に分かりづらい。まさかこの足を止めている者全てが腕相撲をするに及ぶのかと葵は勘繰ったが、さすがにそんなことはない。元よりここは、商人や旅人が多く行き交う大通り。人が多いのはいつものことである。
とは言え、人が集まっているのもまた確かなようで、その腕相撲が行われている一角だけはいささか密度が違った。それを構成する大半は、暇を持て余した見物人だと思われる。
この中にいるのだろうか、あの思想家の男は。
仮にいないのだとすれば、彼は本当に逃げたということになる。そしてその可能性は、けっして低くはない。むしろ十二分にありえる行動だ。彼が空腹を満たした時点で、葵に付き添う理由はもうどこにもないのだから。
荷物を神社まで運んでもらうという約束も、葵の一方的な取り付けに過ぎない。別段、守る義理はないのだ。
「……っ!」
葵は奥歯を強く噛みしめながら、人波に分け入る。その形相は必死の一言に尽きた。
――もう、どこにいんのよあいつ!
あの後、葵は売り子の女相手に土下座までして支払いを待ってもらうよう哀訴嘆願した。人目も憚らずに行われる葵の哀願の嵐に、遂には売り子に「すっかり悪役ね」と言わしめ、その願いは聞き入れられることとなった。まあその条件として、今日から明日の晩にかけての間に代金を支払うよう勧告を受けたのだが。
――お代の件は……今日はもう持ち合せがなかったけれど神社に戻れば翁の遺してくれた分があるし、そこから引くとして、問題は……。
そう、今この場においての問題は一つ。
あの大荷物たちの運び手がこのまま消えてしまうこと。
これについては断固として阻止すべきである。
――ただでさえ無理を通してもらってるのに、これ以上あのお店に迷惑かけられない……。
あの大荷物たちが今もなお、『春鶯』の一席分の余地を占めていると思うと、正直胸が痛い。
ゆえに葵は、血眼になって男を捜す。ときには人にぶつかったり、押し返されたりしながら、寺の門前だけでなく周辺の小路にまで当たりを付けて、懸命に走り回る。そうしなければならない義務があった。
しかし見当たらない。どこにも見つけられない。同じ道を何往復もした所為で息が切れ、やがては立ち止まる。
盛況な通りとは正反対に、いつの間にか葵の心は挫けそうになっていた。
――だめ。探さなきゃ。見つけて、あの荷物を運んでもらう。
そこまでが、ご飯を奢る条件だったはずだ。
記憶を確かめるように呟いてから、もう一度腕を振って駆ける。
不意に。忙しなかった両脚に乱れが生じて、大きくもつれた。
そして躓く。感触としては石ころかなにかだろうが、それで充分だった。
「あっ」
そのまま勢いを殺せずに、上半身から前のめりになっていく。一度ここまで体勢が崩れてしまえば、修正は効かない。地面との接吻は避けられそうにない上に、それも随分と派手に行ってしまうだろう。接吻どころか、このままだと前歯を折る。
葵は諦めたように目を瞑った。
「うおっ、と」
が、突如がくんと体に急制動がかかった。
気付けば両胸の辺りをなにかに支えられている。おそるおそる瞼を開けばその先は堅い地面ではない。
「こらこらこら。危ないでェ、お嬢ちゃん」
腕だ。誰かの腕に抱きとめられている。
「走るときは前を見るだけやのうて、足元にも気を配らなアカン。ただでさえキミ、そんな走りづらいカッコしとんねんから」
流れるような上方言葉でそう諌めたのは、小奇麗に月代を剃った本多髷の男だった。歳は軽く見積もっても二十の後半といったところだろうか。黎明のときを反映したかのような深い群青色を基調とした着流し姿で、口元には女物だろうか、雁首の長い朱塗りの煙管が光っている。
煙管の男は顎をしゃくりながら気っ風の良さそうな笑みを浮かべた。はっ、と葵は我に返ったように、抱きとめられていた腕の中から一歩後ずさった。そのまま背筋を正し、頭を下げる。
「あ――すみませんっ、あの、わたし急いでて、それで――」
「そうみたいやなァ。でもやっぱ気ィつけな。今かてボクが咄嗟に受け止められたからよかったものの、転んで顔なんかぶつけたら大けがやで」
「そう、ですね……ごめんなさい」
――なんか今日、謝ってばかりのような……。
また一つ、心の中でため息の種が増える。これもあれもなにもかも思想家の所為だ。彼が突飛な行動を取らなかったら、こんな疲労と焦りで足元がおろそかになるなんて事態は起こらなかったはずなのに。
「ふむ。とは言え――こないな雑踏の中やったら、前を見ようが足元見ようが、はたまた女の尻を追っかけていようが、そう大差あらへんのかもしれんけどなァ」
「そうですね。女の尻――って、はいいっ!?」
思わず声が裏返った。聞き間違いだろうか。今、なにか不穏な一文が紛れ込んだような――いや、聞き間違いなどではない。
何故か身の危険を感じた葵は、己が身を庇うように両肩を抱く。
「ひゃっひゃっひゃっ。冗談や、じょーだん。そう身構えんでもよろしい」
どうやらからかわれたらしい。葵はかあっ、と頬が熱くなるのを感じた。反して男の方は子供のように出し惜しみなく可笑しがっている。
客観的に見ても、目の前の彼は如何にも優男といった風で清潔感もあり、第一印象としては素直に良いと思える部類の人間だろう。女受けもよさそうだ。
けれどもその本質は、存外人を喰ったようなものなのかもしれない。少なくとも葵はそう感じた。どこか道化じみていて胡散臭い、とも。
それでもこの場で表すべき態度はすでに決まっている。これ以上謝るのはくどいだけだ。次はきちんと礼を尽くさなければ。
「あの、助けてくれてありがとうございました」
「んん? ああ、ええよ。手が出たんは偶然みたいなもんやし。それに、図らずも役得やったわけやしな」
「役得?」と、葵はその部分だけを拾って反芻する。
「あれ、気付いとらへんかった? キミを受け止めたときにな、こう、むにゅっと柔い感触が――」
「……!?」
怪しい手付きを前に、ばっ、と葵は身構えた。最早頬が熱くなるどころの状態ではなかったが、その防御姿勢は彼女の意思を反映したかのように強固なものだった。
振り返ってみればあのとき、葵は両胸を中心に抱きとめられていた。前のめりに倒れかけていた身体を支える箇所として、その位置は適切だっただろう。だからそのような身体的接触が起こるのは無理もないこと。納得はできなくもない。
ただ、それを「役得だった」とまで言ってのける必要はなかったはずだ。しかもわざわざ擬音付きでその感触を表現するなど、厭らしいことこの上ない。本人はからかっているつもりなのだろうが、葵本人にしてみれば屈辱の二文字である。
服の上からではあるが、嫁入り前の乙女の柔肌を弄んだ罪は重い――、と沸々と怒りが込み上がる。が、そこは仮にも恩人である。ぐっと感情を押し殺し、あくまで表面上は笑顔を絶やさず、葵はこの男の側から一刻も早く離れることを決意した。
「と、とにかく、ありがとうございました。では――」
足早に逃げ出す素振りを見せた葵に、男は「え」と驚いたように声を上げ、
「なんやもう行くんかいな。淡泊やなァ。もうちょい話しに付き合うてくれてもええやん」
と、名残惜しそうに言った。
葵は毅然として、
「わたし、先を急ぎますから」
と目を伏せた。
たとえ淡泊であろうがなんであろうが、こんな優男を装った軟派男にいつまでもかかずらっていては、いよいよもってあの思想家の男を見失ってしまう。
言うだけのことはもう十全に言ったのだし、と自分を納得させて葵は煙管の男の側を通り過ぎた。そして再び駆け出してしまおうかと考えていた、その矢先。
「…………ひゅー。いやー、やっぱ大坂とはまたひと味もふた味も違って、こっちの女はなかなかつれへんなァ。まったくおっかなびっくりやで。うちのも似たようなとこあるけど、これはとっつきにくくて敵わん敵わん」
「そりゃあ、初対面の人間にあんな調子で絡めばそうなるのも無理はないだろうな。相手からすりゃあ、それこそあんたの方がおっかなびっくりだったろうに」
「そうかなァ……あんなん挨拶みたいなもんやけどなァ」
背後から、とても気を取られる『会話』が聞こえてきた。
声の片方は、わざわざ振り返ってみるまでもなくさっきの煙管男だ。しかしもう一方の声は、どこか聞き覚えがあるような――。
喧騒の中であるにも関わらず染み入ってくる会話に、葵はやや離れた地点でしばし石像のように硬直して耳をそば立てる。
「女の尻や胸の感触云々の話を、女相手にするのはどう考えたってないだろ」
「やから挨拶やって。ボクらかってさっき知り合ったばっかやけど、いつの間にやらもう仲良しやんか。これもあのときボクが、ぼけーっと道に突っ立って腕相撲観とったキミに、『おはようさん。今日も朝日が眩しいなァ』と挨拶せェへんかったら、そもそも築かれるはずもなかった間柄やで」
「そうだったそうだった。あのとき『いや、もう昼過ぎだから』とつっこみ返さなけりゃ、こんな七面倒な関係は築かれるはずもなかったんだった」
「イジワル言うなや。さっき団子奢ったったやろ」
「だから言ったけど、さっきしこたま食ったんだって。それをあんたが『腹いっぱいだけど捨てるの勿体ない』とか言って無理やりよこしたんだろ。あれは奢ったとは言わない」
「そうやったか? いやァ、過去はあまり振り返らんタチでなァ」
「これからは多少なりと振り返ることをお勧めするよ」
「いちいち細かいやっちゃで。さすが、『しーそーかー』とやらはちゃうなァ。まァ、それがどういうもんなんかはまったく知らんけど」
ある種の舌戦ともとれる両者の勢いに忌避感を抱かざるを得ないが、しかしそれすらも霞んでしまうようなある一言が耳に残った。
――しーそーかー?
「知らないくせによくもそんな知ったような口を利けるよなあ。あと『しーそーかー』じゃない。『はーらーみーた』みたいな言い方するな。『思想家』だ」
般若心経か、と煙管の男が噴き出したところで、葵は猛然と振り返る。そしてその姿をじっと観察し、間違いなく『本人』と確信した段階で、つかつかとその人物の前に躍り出た。
静止。緊張のときが流れる。
「……ん? さっきの……ああ、よく見ればあんたか。この人混みじゃ人相が分かりづらくてな。随分と遅かったみたいだが蕎麦の支払いは済んだのかげっぶうっっ」
全て言い終わる前に、葵は思想家のみぞおちに比類なき一発の拳を叩きこんだ。たとえ女の一発でも、急所を突けば腕っぷしの強さ弱さは殆ど関係ない。今や思想家は地にうずくまり、そのあまりの鈍痛に身を震わせている。そしてその突拍子もない出来事に、隣に立っていた煙管の男もまた、戦慄していた。浜に揚げられた魚のように口をぱくぱくさせている。
だが葵は容赦しない。ここが大通りであることなど忘れたように、思想家の胸ぐらを掴んで無理やり立たせた。次いで、彼の顔を自分の間近まで引き寄せる。前髪に隠れて分かりにくかった目元が、はっきりと見て取れるところまで。
眼と眼が合った。
意外にも意志の強い眼をしていた。強そうな、ではなく、強い眼。何故かそう断言できしてしまう。どんな不条理にも屈しなさそうな、どんな逆境をも覆してしまいそうな、そんな、瞬き一つない両眼。
けれどもやはり、現状においては関係ない。葵はゆっくりと口を開いた。
「ねぇ、思想家さん? あなた今『随分と遅かった』なんて仰いましたよね。逆に訊いてみたいんですけど、じゃあどうして、遅くなったと思います?」
「さ――、さあ……見当もつかない」
丁寧な物言いだが、明らかに怒気が混じったそれである。いつもは飄々と掴みどころのなさそうな思想家もこれは堪らないとばかりに目線を逸らした。
が、それを見越していたように、葵は思想家の顔面をがっちりと両手で固定した。目線を元の位置へと無理やりに矯正する。
「そ。じゃあ質問を変えましょうか……。思想家さん? 改めて言うまでもないことだけど、わたし今すううっごく怒ってるの。どうしてか、分かる?」
「…………ざ、」
ざ、と彼はつっかえて。
「……ざる蕎麦を七十二人分も頼み続けていたから?」
「それもそうだけど――っていうか、ちゃんと数えてたんだ……」
「あ、分かった。うどんと山菜ごはん付き定食をこっそり頼んでいたから――」
「それもそうだけど! なによりもっ! わたしと荷物を置き去りにして逃げたからに決まってんでしょうがあぁぁぁっ!」
葵の憤慨を、道行く人々が各々に見やる。
「――でもやっぱり百八人分ってなによ!? 頭おかしいんじゃないの!? むしろ胃袋おかしいんじゃないのっ!? あなた本当に人間ッ!?」
「百八人分? ああ、足したのか。あれ、でもあんただって一人前食べたんだから、正確には百七人分で――」
「うっさい! 揚げ足取るなッ! 大体なんであんな馬鹿みたいな量を――!」
「いや……だって、あんた奢ってくれると言ってたから」
「限度ってもんがあるでしょ!」
「あるのか」
「あ、る、の!」
「なんだなんだ」「もめごとか?」と二人の動向に大勢が好奇の目を向け始めるが、彼女の怒りはどうにも止まりそうにない。
この一連の流れにおいて完全なる静観を決め込んでいた煙管の男も、周囲の突き刺さるような視線をさすがにまずいと思ったのか、恐々としながらも口を挟んできた。
「ちょ、ちょっと落ち着きィや御両人。キミらにどんな事情があんのんか知らんけど、『夫婦ゲンカは犬も食わない』なんてことわざもあるぐらいやし、それこそ痴話ゲンカなんて犬どころか猫も杓子も食わへんやろ。な? 言い争うにしても、せめて場所を移して――」
「はぁ? 誰と誰が御両人? 夫婦ゲンカがなに? どころか……痴話ゲンカですってぇ……」
怒髪天を衝くとは、まさに今の葵を表現するために生まれた言葉なのかもしれない。葵はぎろりと煙管の男を睨みつけ、食ってかかった。先程助けてもらった恩は消え、今にも拳が飛んでいきそうだった。
煙管の男の仲裁はまるで意味を成さない。どころかそれは、火に油を注ぐような行為に繋がってしまったらしい。にじり寄る様は鬼女と遜色ない程、鬼気迫るものがある。煙管の男は両手を耳元の高さまで上げて「降参」の意を示し、首を横に振るとともに制止を促した。
まさしく顔面蒼白である。
「わたしとこの人が、そんな関係に、見えるとでも?」
「ちょっ……ちょお待ち! 待ちや! 暴力はアカン! アカンで!」
思想家を右腕一本で押さえながら、もう一本の腕で煙管の男を同様に押さえる。
両手に花ならぬ、両手に枯れ枝――、とでも言い得て妙な構図が出来上がっていた。
「誰と誰が夫婦よ……誰と誰が……」
「い、いやいや、それは単なる言葉の綾っちゅうもんで――って、あーもうなんやねんこの娘! めっちゃ怖いやんけ!」
誰に助けを求めるでもなく煙管の男が哀れに喚いた、そのときだった。
大衆が大きくどよめいた。まるで打ち合わせでもしていたかのように、皆が皆足並みそろえて「おお……っ!」と感嘆の声を上げたのである。続いて、「おい、これで何人目だ?」「五十人を越えた辺りまでは憶えているが……」「あんなんどーせ八百長や。そうに決まっとる」「それにしたってまともじゃないわよ」などの囁きが散り散りに生まれていた。
怒り心頭に達していた葵も、周囲のどよめきに思わず興味がそちらへ移る。単純と言えば単純だが、それは他の二人の男たちも例外ではなかった。
「え、なにこの盛り上がり様……」
怪訝そうに呟く。
「だから腕相撲だよ。今面白いことになってるからな――というか」
そもそも腕相撲の場所を頼りに自分を探しに来たのではないのか、と思想家は呆れたように眉をひそめた。
頭に血が上っていて、そんな経緯もすっかり忘れてしまっていた。
「一応、弁明させてもらうけど――今この場に居る理由は、純粋にあの腕相撲を観たかったがためだよ。だから、あんたとあんたの荷物を店に置き去りにしたつもりはこれっぽっちもない。ちゃんと『腕相撲』を観に行くとは言ったはずだ」
彼は続けて。
「つまり逃げるつもりは一切なかったと。そういうことだ」
「…………」
葵も内心では薄々感づいていた。この男を、こんなところで見つけてしまった時点で。
本気で逃げるつもりだったら、こんな町中にいつまでも居座っているはずがない。町を出ないにしても、再び葵と出会わないよう上手く雲隠れするような手法を選ぶ。
だがそんな素振りはまったくなかった。煙管の男と一緒に居たことでそれは証明される。その時点で否が応でも、逃げる意志などなかったと認めさせられる。
「細かい説明もせずにさっさと店を出たことについては悪かったよ。すまん」
さらにはそこに、あつらえたような謝罪の意を重ねてくるのだからなお始末が悪い。この思想家の傍若無人な振る舞いが全ての原因であることは明らかなのに、同時に思想家に対する葵の『信用度の薄さ』を問われているような気がしてならない。彼が口にした、「店を出たことについては悪かった」とはそういういう意味だろう。逆にそれ以外のことは、思想家を信じきれなかった葵の早とちりでしかないと、遠回しにそう言及しているのだ。正直なところ、信用度もなにもまだ出会ったばかりな上に、どうお膳立てしても『良好』とは呼べない間柄に一体なにを求めるのかとも言いたいが――。
言いたいが。しかし。
卑怯だ、と葵は思った。下手にぶん殴ってしまった手前、これ以上突っかかれば旗色を悪くするのは火を見るより明らかである。
これ以上怒っても意味はない。余計にこじらせる上に、疲れるだけ。
だからもういいじゃないか、言い争うのは面倒だ。
思想家の眼は、そう訴えているようだった。瞬き一つなく見据えてくる、その眼が。
「…………ふんっ」
釈然としない。できるはずもない。
けれども葵は、思想家を掴んだその手を緩めた。どっとこれまでの疲労が押し寄せてきたのである。怒りの炎も、一旦通り越してしまえばあとは燻るだけでしかなかったようだ。
一方、思想家は涼しい顔で締められていた襟元を正す。その動作がまた非常に憎たらしい。
「あのー、なんやお取込み中のところ、悪いんやけど……」
依然として、葵に胸ぐらを掴まれた状態にある煙管の男が訊ねる。
「ボク、普通に巻き込まれ損やんな?」
その問いに答える者はいなかった。
それからおよそ半刻が経った頃。動線上にあった団子茶屋の縁台で心と体を落ち着かせながら、葵はここに至るまでの経緯をつらつらと思想家に説明していた。だいぶ冷静になれたおかげか、実に順序立てて話すことができた。
思想家が店を飛び出し、慌てて後を追おうとするも荷物のことで足を止めたこと。店の売り子になんとか荷物を預かってもらうようお願いしたこと。食事代を払おうとしたところで払うことができず、またなんとか支払いを待ってもらうよう頭を下げたこと。
そこから先の展開は――言わずもがなのことなので意図的に省くとして。
事情を聞いた思想家の反応は「うーん」と微妙なものだった。
「あのとき、ちゃんと『腕相撲を観に行ってくる』とそう言ったはずなんだがなあ。あれでは説明不足だったか」
「説明不足というか……言ってから外に出るのが早過ぎなのよ。戻ってくるとも言ってなかったし……てっきり逃げたのかと」
「だからどうしてそうなるんだよ。逃げるわけがないだろ」
「はぁ?」
逃げるわけがない、と断定したような物の言い方に思わず語気が荒くなる。葵にしてみれば「思想家が逃げたのでは」という疑いの余地があったからこその行動だったわけで、それをあっさりと「ありえない」と断じられてしまうと立つ瀬がなくなってしまう。一体どんな論拠を基にした解なのかと勘繰っていると、その答えはなんでもない、葵本人が口にしていた『条件』に基づいたものだった。
「あの大荷物をあんたの住む神社まで届ける。そこまでが――あんたが昼飯を奢ってくれる条件だったはずだ。だから逃げるなんて選択肢はどこにもなかったさ。たった今言われて気付いたぐらいだ」
思想家はどこまでも真剣そうに言い切った。それだけに嘘偽りのようにも思えず、葵はつい歯噛みしてしまう。
こういう部分があるから憎めない。憎み切れない。
苛々が募る。
「まァまァ、お互いになんや行き違いがあったっちゅうことでもうええやないか。そこら辺で折り合い付けようや。いちいち疑っとったらキリないでー」
訛り言葉が達者な煙管の男は茶を煽りながらけらけらと笑う。先刻、流れとは言え酷く突っかかってしまっただけに、葵の心は彼に対する申し訳ない気持ちでいっぱいだった。こうして同席してもらっているのも、まさしく彼に対するお詫びの気持ちに他ならない。
「おっと、お嬢ちゃんにはまだ名乗っとらへんかったなァ。ボクは佐伯徳助っちゅうもんや」
佐伯徳助、と煙管の男はここにきて初めて名乗った。
「葵と申します」
「葵ちゃんね。葵御紋やないけれど、なんや高貴なええ名前やなァ。よろしゅう」
「よろしゅう」と、関西版の挨拶とともに差し出された手にはあえて応えず、葵は「あの、佐伯さん……」と紡いで、
「わたしたちの下らない諍いに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」
謝罪の言葉を述べた。
目を瞬かせながら佐伯は差し出した手をゆるりと引っ込める。
「それどころかわたし……貴方にまで掴みかかって、その、はしたない真似を……」
「あァ、別に謝らんでもええて。路上で悪目立ちしてもうたんはちょっとかなわんかったけど、もう過ぎたことギャアギャア喚いてもしゃあないしなァ」
「あの、本当に――」
「せやからもうええて。それ以上はしつこいだけやで? 相手がええと言うとんねんからそれはもうええんや。そこだけは素直に甘んじとき」
「はい……」
佐伯という男の、癖があるも穏やかな諭し方に、じわりと目頭が熱くなる。厭らしいだけの軟派男だと勝手に決めつけていたけれど、その実はとても器の広い男のようだ。たった今、それが証明されたように思う。
今回の件ではっきりした。どうやら自分は、二言三言の印象でその人柄を決めつけに走るきらいがあるらしい。これからは佐伯さんに倣い、もっと広い心で他人と接するよう心掛けていこう、と葵は密かに誓った。
思想家との諍いにも一通りの帰着を見出せたところで、葵はもう一度、蕎麦屋『春鶯』で起きてしまった事態について触れる。ようやく本筋に戻ってこれた。最早遠回りなどという表現では形容できない程に時間がかかったように思う。
「荷物はお店の方に預かってもらってるんだけど、それもあくまで一時預かりだから――早く取りに戻りましょう」
店を飛び出してからもう随分と時間が経っている。さすがにもうのんびりとしていられないと思想家の袖を引いて促した。
「取りに戻るのは構わない。けど支払いの件はどうするつもりだ」
「明日の晩まで待っていただけるようお願いしたから大丈夫よ」
それこそ土下座までして取り付けた約束である。とても苦い思い出だ。
「じゃなくて、払えなかった分のお代は今後『どうやって払うのか』という話さ。千七百文となると相当な額だろう。原因を生んだ張本人がこう言うのもなんだが、そんな費用、それも明日の晩までになんて、一体どうするつもりなんだ」
それは翁の――と言いかけて言葉に詰まる。
生活する上で必要不可欠な食糧については、近隣に住む氏子らによる神社への奉納品(米や野菜、酒など)を頂戴しているので食いっぱぐれることはない。が、その他の私物や身の回りの生活用品などは全て翁の遺してくれた金銭によって賄っている。無論、使うことを咎める者はいないが、使えばそれだけ残りは少なくなる。残りが少なくなるということは、それだけ『なにかあったときのため』の『備え』が少なくなるということだ。
千七百四文。その額を軽く捉えるか重く捉えるか、そんなことは思考するまでもない。
とは言えそれでも、払う他に道はない。この現状こそが、その『なにかあったとき』に該当するのだから。葵は「まあなんとかなるわ。大丈夫よ」と気丈に振る舞う。
と、そこで。二人のやりとりに耳を傾けていた佐伯が紫煙を燻らせながら訊ねる。
「さっきから気になっとったんやけど、キミらの言うその蕎麦屋ってどこの蕎麦屋のこと言うとんの?」
「『春鶯』っていうお店です」
「春鶯――んん? あ、もしかして『新進気鋭の春鶯囀』か?」
「ご存じなんですか?」
「そらァ、この辺では評判の店やからなァ――どうや、美味いやろ、あそこの」
「おう。蕎麦麺は喉ごしもさわやかで、うどんはコシがあって良し。つゆもまた麺に沁みてこれまた良し。味はもちろん、文句なしの絶品だ」
思想家が同調する。葵もうどんは食べていないが、蕎麦の味なら以前から何度も味わってきている。
そしてどうやらその口ぶりから、佐伯もまた『春鶯』をこよなく愛する客の一人だと分かった。店の評判だけなら誰もが耳にしているが、食感や味までは口に放り込んでみないことには確かめられないものだ。
佐伯は続けて。
「そうやろそうやろ。おまけに――あの店には目も覚めるようなべっぴんさんがおるからなァ」
べっぴんさん、と聞いて真っ先に想起したのはあの無愛想な売り子の姿だった。無愛想で威圧感があって、正直恐ろしかったあの女性。そのことを佐伯に伝えると彼は呵呵大笑した。
「ひゃっひゃっひゃっ! 怖いときたか! そうやろうなァ、常に仏頂面やもんなァ、あの娘。ボクも時々からかうんやけど、返ってくる反応が毎度毎度どぎつくて大変でなァ」
その光景がやけに鮮明に浮かんでしまうのは何故だろう。佐伯に対し、まるで生涯の天敵を前にしたかのように睥睨する彼女の姿が思い浮かぶ。まず彼女にとって面倒な客であることは違いない。そう見方を変えれば客に対してあのような姿勢を貫くのも止む無しなのでは、と思えてくるのだから不思議だ。もっとも彼のような客にからかわれてああなったのか、からかわれる前からすでにああだったのか。鶏が先か卵が先か、その真相は藪の中だが。
「けどなァあの娘。笑ったときはもっとべっぴんさんになるねんで。ボクもまだ数えるぐらいしか見たことあらへんけど――でもやっぱり」
笑顔の方がよう似合っとる、と佐伯は、やはり訛り口調でそう告げた。しかしどれだけ想像を膨らませてみても、佐伯の言う売り子の笑顔を、脳内で思い浮かべることは終ぞ叶わなかった。どうやら思いの外、売り子に対する苦手意識は大きいものであったらしい。
嫌な自覚である。
「おっと横道に逸れたな。しかしなんや、よりにもよって春鶯かいな。ふぅむ、それはちぃとばかし……」
「どうかされたんですか?」
「あァ、いやいやコッチの話。気にせんといて。――と、まァ、それなら……」
佐伯徳助は半跏思惟が如き体勢を組んで、ちょいちょいと二人を手招く。朱色の煙管を咥えた口元は、先刻よりもほんの僅かに歪んでいた。見る者が見れば、それが彼の悪だくみを思いついたときの顔だと気付いただろうが、生憎この場に、佐伯の人となりを知る者はいない。
「これはボクの提案なんやけど――どうやろう。ここは一丁、葵ちゃんも例の腕相撲に参加してみるっちゅうんは」
「腕相撲、ですか?」
唐突に打ちだされた一言に、葵は困惑の色を隠せない。
今さらながら、腕相撲とはどういう了見だろう。どういう意味合いで、彼はなにをわたしに勧めているのだろう、と熟考するがいまいち判然としない。
「如何にもあの娘が言いそうなことやけど、そうは言っても今日明日で千七百文ちょいをポンと出すのはツライやろ。やったらもういっそのこと、腕相撲にでも出てみて、一攫千金狙ってみたらどうや~、とそういうこっちゃ」
「どうしてそうなるんですか……」
「どうしてって……噂によれば、取り仕切っとる二人組に連チャンで勝てば、それまで参加しとった人数分の参加費が支払われるらしいやん。これを逃す手はないと思うけどなァ」
佐伯の言は、奇しくも売り子の説明と重なるものがあった。
腕相撲を取り仕切る二人組に参加料を払い、またその者たちに腕相撲勝負を挑んで、続けざまに勝利すれば大金を得る。あの無表情な彼女から、すでに聞き及んでいたことだ。
「な? 試しに出てみたらどうや?」
「そんなこと言われても……」
「さっきあれだけボクら二人を怪力乱神とばかりに振り回したんやからそんぐらいなんとでも……」
「…………」
「――というのは冗談やけど」
本当に、怪力乱神が如き力を振るってみせようか、と葵は酷くねめつけた。一方佐伯は、ごほんごほん、とわざとらしく咳き込んでいる。思想家にしろこの煙管の男にしろ、自分の周りに現れる男は、どうしてこうも危ない橋を自ら渡りたがるのだろうと、烈火の如き怒りを禁じ得ない。
「しかし一考の余地はあると思わんか。所詮は賭け事やさかい、額は知れとるやろうけど、それでも勝てば小金持ちぐらいには成り上がれるはずや。上手いこといけば明日の晩どころか、今日中に店へ支払いに行けるかもしれん」
「だから、それは『勝ったら』の話でしょう。その二人組っていうのがどんな人たちかは存じませんけど――でもこんな催し事を取り仕切る以上、腕っぷしが強い人たちであることはもう確定じゃないですか……」
さっきのあれは怒りに身を任せたがゆえの力であって、普段はまごうことなく女人の身にして、か弱く脆い、と葵は力説する。鍛え抜かれてもいなければ、しなやかさを持ち合せてもいない。歳相応の女子の、下手をすれば平均を下回るかもしれない腕力や握力が通用するはずがないだろう。自分自身を客観的に鑑みたがゆえの結論だ。正鵠は射ていると、葵は確信していた。
「ほーほー、そうかそうか。やったら葵ちゃん、キミやのうて隣の彼に戦ってもらうっちゅうんはどうやろ」
佐伯は視線を僅かにずらして、目で思想家を指し示す。当の思想家はなにやら物思いにふけっているのか、食事代の話以来黙りこくったままだった。代わりとばかりに、葵は大いに反論する。
「これやったら問題ないんちゃう?」
「だから、どうしてそうなるんですか!? 問題なんてむしろ大ありですよ! この人、見た目よりも力無いですし、第一……」
第一、こんな傍若無人で自由奔放な男が、自分の言うことなど聞くはずがない。荷物持ちを促した際は食事をダシにすることで協力を得られたが、この一件に関しては動かせる術がない。彼を動かせるだけの、旨みを持っていないのだ。
まあ、たとえなにかしらの旨みがあったところで、さほどの価値すらもなかったであろう。仮に思想家を腕相撲に挑戦させたところで、結果は惨敗を喫するに違いない。彼が空腹で行き倒れていたことを差し引いても、荷物持ちのときの姿を見るに、とてもじゃないが肉体派ではなさそうだ。頭脳派だと言われる方がまだ性に合っていると思う。
「……結局、勝たないと無駄なんですよ。変な可能性に賭けたって、そんなの無意味なだけです」
「いいや」
否定したのは思想家だった。
「無駄でも、無意味でもないぞ」
「はぁ?」と調子の外れた声を上げる葵。
「二人組に勝てば大金を得られる。なら簡単だろ。勝てばいいだけのことなんだから」
あまりの単純思考ぶりに、しばし絶句。この期に及んでなにを言い出すのかと思えば――。
簡単? 勝てばいいだけ?
「うん、実にいい案だ。代金の件も解決するし」
それができたら苦労していない。そんな風に気軽に言える程の力があるなら、もしくはそんな自信があったならば、あんな無駄だ無意味だなんて喚くものか。難しいからこそ、ここまで言い聞かせるように理由を述べてきたのに、全て水泡にされたような気分だ。
意地になった葵は頭を振って、
「な、なに言ってるの? 無理よ。勝てっこない」
と言い切った。しかしやはり、思想家が反駁する。
「いいや勝てる、絶対に」
「勝てない!」
「勝てる」
「だから――」
「無理じゃない」
思想家に対する苛立ちが急速に肥大化する。そしてやがては、彼を攻撃する形となって会話に現れた。
攻撃と言うべきか。それとも煽ってしまったと言うべきか。
あるいはこのとき踏み止まっていれば、この後に起ってしまう『事件』を目撃することもなく、思想家の奇異にして非現実的な『思想』に振り回されることもなく、さらには彼女自身の人生も、様々な危難苦難はあれど、そこそこ凡庸でまだまだ相応な形に終われたのかもしれなかったが――しかして起こるべくして起こるものというのは確かにこの世に有るようで、葵もまたその存在に気付くことなく、そして知る由もなく、知っていればけっして告げなかったであろう煽り文句を、このときばかりは声高々に、臆面もなく口にしてしまったのだった。
「もうっ、しつこいわよっ。大体、そういうのは実現させるだけの力がないと説得力ってものが――」
と、言い終える前に後悔の念は押し寄せた。自分が口にした科白を彼がどう受け取り、どのような反応を示すのか、これまでの流れから容易に想像がついてしまったのである。
だが時すでに遅し。
「心配しなくても、力の有無についてはこの賭け仕合で証明してみせるよ。そして見事勝ってみせる」
思想家は茶屋の縁台から跳ねるように飛び降り、刀を差し直して向き直る。
「よし、そうと決まれば善は急げ。さっそく向かって、一戦……いや二戦ばかし交えるとするか、ね――」
発して、思想家はさながら疾風迅雷が如き勢いで駆け出した。人混みに紛れ、棒となり点となり、やがては影の一片すらも彼方に見失ってしまう。
「あ――」
春鶯のときの再来である。もっともあのときとは比較にならない程、葵が固まっていた時間は長かった。佐伯徳助がぽんと肩を叩かなければ、それこそ永遠に止まっていたかもしれない。
「ええんかァ、追いかけんでも。あない言っといて、ほんまは逃げたんかもしれんで。彼が居らな困るんやろ?」
はっ、と我に返って後を追う――前に。
袂から残り少なくなった銭差を丸ごと取り出して佐伯の手に握らせた。
「これっ、ここのお代ですっ。ではっ!」
どたどたどたっと、粉塵を散らしながら憤怒の形相で、今度こそ後を追う。
自分が蒔いた種だけに、なんとしてでも彼を止めなければ――。
【間章】語り部の語り草
「ストーップ」
橘三咲は、左手を狭間の前に突き出し、「ちょーっと待った」と制止を促す。
突拍子もなく語りの流れを断たれた語り部、狭間は、「ん?」と疑問符を浮かべて、声の主を見やる。
「なんだよ。まだこれからだってのに」
飽きたのか? と問う狭間に三咲は首を横に振り、「そうじゃないけど、ちょっと気になったから……質問」と自身の腕を組みながら答えた。やがてその質問の中身を整理し終えたのか、三咲はその端々をぽつりぽつりと洩らし始めた。
「まずこの『腕相撲』についてなんだけどさ。こんなこと本当にあったのかな?」
三咲の問いにしばらく沈黙したあと、狭間は静かに目を閉じて「さぁ?」と曖昧に返した。
「あったのかもしれないし、なかったのかもしれないし」
ぼんやりとした返答しか来ない。
なので今度はもう一つの謎をぶつけてみる。
「……あと、この時代に『思想家』なんて言葉あったの?」
「どうだろうな。ただ、『思想』という言葉が日本で確立されたのは明治の頃らしいぞ」
「…………ちょっと……狭間さん……?」
「そう睨まれても。おれはただ、この神社に残ってる話をそのまま語ってるだけだから」
あくびをしながら、悪びれもなく弁解する隣の青年。
三咲は口をへの字に曲げながらも「こういう記録とかって、どこかに残ってないの?」と打ち出した。
「ほら、図書館とか……あとは文化資料館? とかに」
図書館なら、大学などにあるのも含めれば、亀岡市内には幾つか点在している。文化資料館については、亀岡駅から程近いクニッテルフェルト通りという、亀岡の姉妹都市の名が付けられた道の沿いに静かに佇んでいる。記録があるとすれば、無難だがやはりこれらの施設を当たってみるのが妥当なところだろうか。
「腕相撲に関しては、昔調べてみたことがあるよ。ちなみに、この時代の丹波亀山藩で、『寓名寺』という寺院においてこの腕相撲勝負が行われていたとされる史料は――」
どこにもなかった、と語り部は明言した。
「そもそもこの寓名寺という寺院自体、あったかどうか定かじゃないんだ。現存していない上に、藩の記録にも一切出てこないし」
「えええー……じゃあこのお話って……」
――全部嘘っぱちなんじゃないの?
三咲の容赦ない物言いに、狭間は「所詮は伝説だからなあ」と元も子もない科白で臨んだ。
「一つ言わせてもらうなら――こういうのは楽にして聞いた方がいいと思うぞ。嘘かほんとかを探るのも大事だが、物語として最終的に楽しめたか否かを問う以上に大事なこともないだろう」
伝説を追って歴史の真相を確かめる――それはそれで重要なことだ。今ある教科書の中には、そういった口承を経て、後々発見された歴史の新事実もある。
だが結局のところ、伝説は伝説だ。中には本当かどうかも分からない、曖昧で不確かな、与太話と差し替えても大差のない話題だって含まれる。伝説なだけに幻想的でもあるのだ。ある程度は場所や時代背景が明示されるも、それらを土台として展開された世界観には、摩訶不思議で奇妙奇天烈なものが当然のように居座っている。幽鬼や妖怪の類が跳梁跋扈していたなどという非現実的な内容が盛り込まれることなどしょっちゅうだ。むしろそれが物語の華として持ち上げられる要素にもなる。
中身は非現実的だが、実在する土地が舞台であるだけに、どこか現実味も感じられる。ゆえに聴き手はその曖昧さに興が乗りつつも、乗れば乗る程、そこに現実性をあてはめようとするのだろう。おかしなことではない。これはこれで、咎められるようなことではけっしてないのだ。
けれども考えてみれば、いささか無粋ではあるのかもしれない。
「もっとも、これはおれの勝手な言い分だがね」
「……ううん。そんなことないと思う」
当の本人は自嘲気味に言ったが、彼が伝えんとしていたことにも一理あるのでは、と三咲は寛容にも共感の意を示していた。
最終的に楽しめる物語であったか否か。
狭間の言う通り、それを問うことの方が、聴き手としての本分であるような気がする。
「ごめんね。なんか、野暮ったいこと訊いちゃって」
「いやいや、なにが野暮なもんか。きみが疑問に思った事柄自体は、別段おかしなことじゃない。要は細かいことはあまり気にしてくれない方が、こっちとしても語りやすくて助かるってだけのもんさ。……それにな。この伝説が、必ずしも嘘八百であるかどうかはまだ分からないぞ」
「えっ?」
「例を挙げるなら、さっきの『思想家』についてもそうだ。確かにこの頃、こんな言葉はない。けれどそもそもおれたちが定義付けている思想家と、この物語の思想家がまったく同じ意味合いのものであるとは限らないじゃないか」
同じ字面であっても、その中身が同じかどうかは怪しい。
どうやら狭間はこう言いたいようである。
「ま、たとえ橘ちゃんがこの物語を一から十まで嘘だと判断しようと、おれは一向に構わない。語り部はただ語るだけ。これを聞いてどう感じ、どう想おうと、それは聴き手の自由だ。でもその結論付けはなにも今じゃなくたっていいだろう? 全てを聞き終わってからでもいいんじゃないか?」
「そっか……うん、それもそうだね」
――続き。聞かせて?
花のように微笑みながら、三咲は物語の続きをねだった。
舞台は再び、立ち戻る。
【四章】腕相撲賭け勝負
汗ばんだ胸元を押さえながら、息も絶え絶えに辿り着いた頃には、もう幾分か人の波も掃かれてしまっていた。これは好機、と葵は一足飛びで敷居を跨ぎ、境内へと踏み込む。
寓名寺、本堂――の真正面。無遠慮にも、石畳の上に置かれた木製の丸机と胡床を囲むようにして、町人や百姓、さらには武士と思わしき者までもが寄って集って歓声を上げていた。昼間程ではないにしても、まだむさ苦しいと感じるぐらいの熱気はある。
果たして思想家は――居た。一歩退いた後ろの方から様子を窺っていたようだ。
葵は駆け寄って、力無くその背中を押した。
「おお、っと」
「はぁっ、はぁ、はぁーっ……足、はやいって、ば……」
「なんだ巫女さんか。結局付いて来たんだな。ああも無理だのなんだのと言ってたくせに」
「……違う、連れ戻し、に……」
「そんなことよりほら、もう次の仕合が始まっちまうらしい。否が応でも、挑むのはこの仕合より後になりそうだな」
「…………」
「巫女さんは、まだ仕合もまともに観てないだろ。仕合を観るなら、もっと前に行った方がいいと思うぞ。あんた背が低いからな」
仕合を観てからぶん殴って連れて帰るか、このままぶん殴って連れて帰るか。迷いに迷ったが、ここは前者を取ることにした。息が整うのに時間がかかりそうだったからだ。ついでにやけになったからでもある。
思想家の言に従ったわけではないが、休憩ついでに葵は少しだけ観戦してみることにした。
人と人との隙間を縫うように移動し、前の方へと身を乗り出す。最前列とはいかなかったが、それなりに観戦できる場所を確保することができた。
勝敗を二分する舞台では、先程も確認した丸机を境に、左右対称で二人の男たちが立ったまま睨みを利かせていた。互いに互いを牽制し合っているのか、双方とも視線は外れず、泳がない。
葵からして右手の男は、浅黒い肌で、とにかく上半身の盛り上がりが凄まじかった。太い首に、分厚い胸板、肩口からは丸太のような両腕が伸びていて、まるでそこに樹齢何百年という一本の巨木があるかのようだった。不敵な笑みを浮かべており、また、野性じみた瞳がぎらぎらと戦意を灯している。
対する左手の男もまた、右の男程ではないが筋骨隆々な男だった。頭を丸く剃り、法衣を纏っていることから、おそらく僧侶だろうと推測できる。全体的に引き締まった体躯で、突出したところこそ見当たらないものの、調和のとれた印象が見受けられた。その表情からは氷のように冷え切った静謐さを覚える。
どちらが挑戦者側で主催者側なのかいまいち分かりづらい図式だが、ここが寺院である点を考慮するなら、たとえばこの左手の僧侶が主催者側で、右手の巨漢が挑戦者側――という見方ができなくもない。主催者は二人組と聞いている。双方ともにこれだけ睨み合っておいて、まさかその当の二人組、という線は可能性としてさすがに低いだろうし、やはりどちらかが挑戦者で主催者なのだろう。しかしそう考えると、二人組の片割れとも呼ぶべき主催者がもう一人、どこかに居るはずなのだが――。
「はいはいごめんなさーい、通して通してー」
対称にして対照的な両者が相対する中、突如場違いな程に快活な声が境内に響き渡った。
「お待たせしちゃってごめんさいねぇ。ちょっとお色直しに行ってたものだから」
人波を割って、のんびりと現れたのは女だった。金の刺繍が至る箇所に入った豪奢にして華美な着物に身を包み、ばっちりと化粧を決めたその艶やかなる立ち振る舞いは、さながら遊女のそれだった。
「やっと帰ってきやがったか。相手を待たせるたぁ、いいご身分だな」
女の挙動に対してぶっきらぼうに苦言を呈したのは、葵から見て右手に位置する巨木のような巨漢である。
「仮にも主催者が、そんなぞんざいな態度で立ち回るのかよ。挑戦者であるこのオレへの礼儀がなってねぇぜ。礼儀がよ」
主催者、と聞いて葵は困惑する。
いやいやまさか、この女が主催者で、しかも迎え撃つ側だとでも言うのだろうか。
あんな細腰の女が、あの巨漢を?
「まあまあそう怒らないでよぉ。これでもトばして帰って来たんだから」
女は猫なで声でにこやかに応じた。声色が、またなんとも色っぽい。そしてなぜだか会場が歓声に湧いた。男衆が口々に発する「こっち向いてくれ姐さぁぁん」「たまんねぇぜ姐さぁん!」「おれと契ってくれぇぇぇ」等の声援は、いつの時代も変わらない、見目麗しい異性に対する人間の『お約束』――であるのかもしれない。
ただ、巨漢の男は違ったようだ。
女を射殺さんばかりの目付きで、さも不満気に口を開く。
「……糞女が。てめえの場合、トんでやがるのはアタマの方じゃあねえのかい」
「糞女、ねぇ……」
あからさまな罵声を浴びせられて、女の表情が、す、と陰りを帯びたものに変わる。口元だけはにこにこと微笑んでいるが、一部分、目はまったく笑っていない。
「まったく酷い言い草ねぇ。そんな日に焼けた肌して、あんたこそ糞でも全身に塗りたくってんじゃないのー?」
「……いい度胸だが、大概にするんだな。それこそひねり潰されたくなかったら、だ」
「そっちこそ、後で吠え面かかないでよねぇ。あたし等に負けて、とっととおウチにお帰りなさいな。筋肉達磨さん?」
筋肉達磨――と評された瞬間、くすくすと忍ぶような笑いが周囲に生じた。
「このアマ――言わせておけば……」
「なぁに? 文句があるなら――」
「そこまでだ。双方ともに、心を鎮めよ」
最後に発したのは僧侶である。低音だが、深く耳に染み入る声だった。
「罵詈雑言に任せた諍い程、醜く、見苦しいものはない。これだけ観客も多いことだ。大人数の前で延々と恥を晒し続けるなど一利もあるまい。この程度の理屈、そなた等であれば熟考せずとも理解できるはずだ」
一息に言ってのけるも、呼吸は乱さず口調は穏やかなままで、あくまでも両者を諭すことを第一としているようだった。その病的なまでに落ち着き払った姿勢と、心の芯にまで言い聞かせるような独特の話術は、さすが仏道に帰依する者という印象を受ける。
拈華微笑。
仏の道に通ずる者であれば、彼の表情を、あるいはそんな風に表現しただろうか。
「それに――わざわざ口を使って言い争う必要もない。闘いの場は、すでに整っているのだからな」
「……ちっ。なんだ上から偉そうに。んなことは生臭坊主に説教されるまでもねぇよ。……おい、女」
「はぁい?」
巨漢は女を指さした。
「オレは相手が女であっても手を抜くつもりは微塵も無ぇ。先の宣言通り、ひねり潰してやるから覚悟しな」
「うふ。当たり前よぉ。手を抜かせたまま、勝たせるつもりなんてないわ」
促され、両者は丸机の側に用意されていた胡床に腰掛けた。どんちゃん騒ぎにあった見物人たちも、このときばかりは静まり返る。
僧侶は両者の佇まいを確認したのち、懐中から小型の銅鑼を取り出す。そして深く息を吸い込んで、喉元を震わせるようにして口上を放った。
「ではこれより。第六十四番目の腕相撲勝負を執り行う――双方、手を」
巨漢と女は机上に肘をついて、ともに右手を前へと突き出した。そしてがっちりと握り合う。もっともこの時点で、お互いの差は歴然だった。梅の枝にも似た細腕に、真白くきめ細かい女の手と、その岩石をも鷲掴むどころか、そのまま砕き割ってしまいそうな分厚い手の平とでは、勝敗の行方など誰が見ても一目瞭然。世に云う、火を見るよりも明らか、というやつである。
「ひょろい腕に、ちいせぇ手だなぁ。ま、女に生まれたことを呪いな」
「あまり女女と見くびらないことねぇ。女には女なりの、ねちっこい立ち回りってもんがあるんだからぁ」
一つに固められた拳の上からさらに僧侶が右手を置く。左手には首から下げた銅鑼を叩くための撥を握り締めていた。
「いざ尋常に」
撥が振り上げられ、
「勝負――!」
◆
ごぉぉぉんと開始の銅鑼が響く。
途端、机上で重なり合った拳と拳が軋み合った。巨漢も女も、のっけからがちがちと歯を打ち鳴らせている。
そしてそれらを発破に、内から外へ連鎖して歓声の渦が巻き起こった。皆が皆、勝負の全貌を見届けようと身をよじり、一人一人が熱を張り上げる。膨大な熱気が充満した境内の雰囲気は、転瞬にして異様なものと成り果てていた。
「う、ぬ」
「……っ、うっ」
意外にも、勝負の流れは拮抗状態に持ち込まれた。両者の拳は最初の地点から右にも左にも傾かぬまま、ただただ当事者たちのうめき声が聞こえてくるばかりである。口ではなんと言っても、場を盛り上げるためにあの巨漢が手を抜いているのでは――と思いきや、そうではない。
「こんの、糞アマぁ!」
本気で歯を食いしばり、本当に万力を込めて倒しにかかっている様が、拳に浮き出た血管の数で窺い知れる。彼は間違いなく全力だ。なのに中空で重なり合った拳は震えるばかりで、倒れる気配がない。
「ぎ、ぎぎぎぎっ」
一方、遊女と見紛う女の方はと言えば、巨漢よりもさらに全身全霊を尽くしているようだった。呼吸は激しく乱れ、額には玉のような汗がいくつも浮かび、せっかくの化粧は早くも崩れ始めている。正直一杯一杯といった感じだ。
「おらあっ」
巨漢の勢いが増し、ここでようやく流れが変わった。進行は緩やかだったが、じりじりと徐々に、しかし確実に、女は劣勢へと追いやられていく。
「ぐうぅぅぅぅぅっ!」
女は獣のような唸り声を頼りに踏ん張り続けた。そのおかげか、傾きつつも再び拮抗状態に戻る。
しかしここからがまた長かった。女の粘り強さは他に類を見ない程しつこく、手首や腕の故障などなんのそのとでも叫びそうなぐらいに必死で、常に倒れるまい倒れるまいと執拗に食らいついては持ち堪えた。
だが、それもやがては限界が訪れる。
その細い腕は、最早なにをされずとも、がくがくと痙攣に苛まれているようだった。
それでもなお、
「ひひひっ」
女は笑っていた。
往生際が悪い、などという段階はとうに通り越している。
ここまでくると不気味だ。得体の知れない、言わば恐怖に通ずるものがある。この遊女と見紛うような魅力を携えた女も、今この場においてだけは、さながらばさら髪を振り乱した鬼女のようにも映った。
「いい加減にしやがれぇ! しつけぇぞ、くそっ!」
それを裏付けるかのように狼狽した声を上げる巨漢。
力の上では圧倒的に優位なはずなのに、なのにどうしてこうも気圧されるのか。分からない。目の前の女の力などたかが知れている。勝敗が決するとするならば、一瞬のはずだった。なのにこの女は未だ食い下がっている。この女に未だ、食い下がられている。
不本意にもその眼前の女性に筋肉達磨と称され、さらには挑発もされ、充分にはらわたが煮えくり返っていたこの男だが、今は見るからに当初の気勢を殺がれているようだった。
否、この現在ですら、殺がされている真っ最中のようだった。
「うらああっ!」
「う――!?」
散々に体力を奪われながらも、それでも女の異常なしぶとさに呑み込まれなかったのは、さすがに筋力差があり過ぎたから、なのだろうか。
開始から幾分かの時が流れ、巨漢の男はついに女の拳を組み敷いた。
大多数がこの結末を予想していたとは言え、「当然の結果だ」と誰一人呟かないのは、それだけ女が健闘したから――であることはもう疑いようがない。
巨漢は自らの額に浮き出た汗を拭った。勝者には月並みな拍手が送られる。なかには女を心配するような声も上がっていたが、基本的には巨漢を支持した者が多かった。
「はっ、はぁー、はぁ……」
「…………」
荒く肩で息する女とはまた違って、巨漢はまるで悪い夢にでもうなされたような、疲れ切った面持ちだった。こうも筋骨隆々の自分を、勝敗はどうあれ力勝負でここまで疲弊させたこの女が、まだ信じられないといった様子だ。まさに面食らっている。
「お見事」
背後から投げかけられた一言に、巨漢はやや遅れて反応する。
「これで一つ、そなたの力量の程が示された。次は是非とも拙僧と勝負していただきたい。拙僧に勝利すれば、これまで我々が勝ち取ってきた六十四人分と、そなたの参加料を合わせた合計金額を賞金として手渡すことを確約しよう――」
僧侶は涼しげに、文面でも読むかのように滔々と述べた。
そして――、
「それとも――ここでお止めになりますかな」
これもまた、挑発だった。
「馬鹿を言うんじゃねぇ……賭けに勝つのはこのオレだ……」
休む間もなく男はいきり立ってみせた。それは、空元気以外のなにものでもなかった。
僧侶は机に疲れ伏した女に歩み寄ると、労うようにその背中をぽんと叩く。
「ごめーん……負けちゃったわぁ」
如何にも精根尽き果てた感じの声が返ってくる。
「いや、これでよいのだ。――合図を頼みたいのだが、いけるか」
「はいはぁーい、お任せぇ」
のんびりとした言葉遣いとは裏腹に、颯爽と立ち上がっては僧侶と巨漢の、両者の間に移動する。
「けほっ、こほん……それではそれではー、続いて第二仕合へと移りたいと思いまーす。双方、位置についてぇー、よぉーい――」
◆
それからしばらくして、会場には再び拍手喝采の嵐が吹き荒れた。あまりの大音声に「ひっ」と畏縮した葵の肩へ、後ろから最前列まで詰め寄ってきた思想家が悠々と手を置く。そうして二度驚いた葵を、たしなめるように彼は囁いた。
「な、面白いだろ」
思想家の口元は無邪気に綻んでいる。
他方の葵は、全力で首を横に振った。
女を倒した巨漢と、それを迎えた僧侶の一騎打ち。巨漢が勝てば、大金が手に入る緊張の一勝負。
にも関わらず、決着は一瞬だった。
女の合図によって火ぶたを切った瞬間。一も二もなく巨漢の拳は、その屈強な腕から半身までをもひっくるめては豪快に、机へと叩きつけられていたのだ。
なにが起こったのかも分からず、茫然とした巨漢の男を尻目に、僧侶はただただ当たり前のように相手への一礼をするのみで、最初は観客すらも、そのあまりの決着の速さに驚くどころか置いてけぼりを喰らっていた(当然、葵もだ)。やがては、僧侶が勝ったのだということが周りに浸透し始め、またも勝者を讃える声援等がなされたわけだが――。
それにしても、この差はなんだ。さっきの泥仕合とは比べ物にならない。
呆気なさ過ぎるのだ。一仕合目はまだしろ、二仕合目の僧侶の勝ち方には疑念を抱かざるを得ない。
そう思うのはどうやら葵だけではなかったらしく、それは如実に、観衆のざわめきへと現れていた。
――やはり、イカサマじゃないのか。
風に乗って運ばれてきた会話の節々には、明らかにあの主催者たちへの不信感が上乗せされたものも混じっていた。
「聞けばこの賭け仕合は、朝っぱらからやってたらしいんだがな」
だがそんな風評などお構いなしに、思想家は言う。
「今この時間に至っても、あの主催者二人組を倒して賞金を得た挑戦者は、まだただの一人も出ていないらしい」
「……!」
僧侶の口上を信じるならば、此度の仕合は六十四番目。
あの巨漢は六十四番目の挑戦者。
そして六十四回の勝負を通して、あの主催者側に立つ二人は、二人組としてはまだ一度も勝負に負けていないのだと――伝聞を鵜呑みにするならば、そういうことになる。
――そんな、無茶苦茶な。いくらなんでも……。
「普通は数回でも腕相撲なんかやり続ければさ。如何に二人組と言っても、どっちかには必ずガタがくるもんだろう? 腕やら手首やら指やら……疲労は確実に溜まる。まず疲れないなんてことは有り得ないし、いつかは必ず負けるもんだ」
――なのにあいつらは、延々と勝ち続けている。
葵の心意を代弁するように、思想家は語った。
思い返せば春鶯でこの腕相撲勝負の概要を聞いたときから、なんとなく妙だとは感じていたのだ。
腕相撲でいくら二人組だと言ったって、疲れもすればいつかは必ず限界も来る。立て続けに挑戦者が現れた場合、いつかは主催者側が圧倒的に不利となるのは自明の理だ。参加料を取っているということは、利益を得ようとは考えているはずである。だがこの、二人を負かしたらそれまで集めていた分の参加料を全額勝利者に明け渡すというのは――いくらなんでも釣り合っていないのではないか。
事実、此度の六十四番目第一仕合の結果を鑑みても、あの遊女と見紛う女はかなりの体力を消耗していた。今はただただ満面の笑みで勝利を迎えたことを喜んでいるが、仕合後の彼女の疲れ様は本物だったと思う。
顔色一つ変えていない僧侶については正直なんとも言い難いが、六十四回もの勝負をくぐり抜けているのなら、彼もまた同義であろう。どこかに疲労の兆しはあるはずだ。
ゆえに、あの二人組が疲弊していないはずがない。
だとすればなおのこと、彼ら主催者側が自分たちの敗北をまったく考慮していないように思えてくる。それは利益を考える上ではあまりにも、無鉄砲と言うか、無策と言うか――。
「確かに。とてもじゃないけど、普通だとは思えない……」
なにか、必ず勝利するための秘訣でもあるのだろうか。どんな相手でも、何度戦っても勝ち続けられる、そんな秘訣――。
勘繰れば勘繰る程、現実味がない。それこそイカサマや八百長といった線の方が、よっぽど現実的であるような気さえしてきた。
だがこの数秒後。
「んー。しかしあれはどう見てもイカサマじゃあないな。無論八百長でもない」
葵の心の考察は、またも全否定されるに至った。
「えっ」
どういう意味なのか、と不満げに眉根を寄せる葵など気にも留めず、思想家は遠くを見ていた。
境内の中央とでも呼ぶべき決闘の場。
そしてあの二人組を。
「イカサマじゃないって、なんでそんなこと……証拠もないのに」
「んなこと言い出したら、それこそイカサマしてる証拠だってないだろう」
「それは……」
その通りだけど、と恥ずかしげに葵は呟く。ただ、このまま引き下がるのは癪な上に悔しいままなので、小競り合いで負けた分をもみ消すが如く、
「……じゃあ、あなたには見当が付いてるって言うの? あの人たちの勝利がイカサマでも八百長でもないって、断言できるだけのものが」
と、無理に繋げた。口だけは達者なこの男も、このような唐突な返しには対処できまいと彼女なりに策を練ったが末の発言だったが――。
「まあね」
実にあっさりと、彼は頷いてみせた。
「とは言え、こんなところであいつらの必勝の秘訣をぺらぺらと喋ったところで、事態が好転するわけでもない。だから詳しい解説はのちほどってことで、まずはさっさと賞金を頂くとしようか」
賞金を得ることは、彼の中ではすでに基本事項の部類にあるらしい。思想家はすたすたと場内までの地を、一歩、また一歩と踏みしめた。
迷いのない歩みだ。そのいち行動にさえ、傍若無人で自由奔放な彼の性分がひどく浮き彫りになっているように感じられる。賞賛するつもりは毛頭ないが、ここまでくればいっそ清々しくも思えた。
けれども今回、葵は是が非でも、彼の歩みを止めなければならなかった。
思想家の行動の、真意を問うためにも。
「待って」
葵は思想家に前へと立ちはだかる。両腕を広げた、通せんぼの形だ。
果たして思想家は足を止めた。場内へ行く程人混みが厳しくなる状態で、こうもどんと正面を塞がれては進むに進めなかったらしい。また、眼前の葵を押しのけてでも前進しようとする程、鬼畜でもなかったようだ。
思想家は苛立つわけでも、文句を言うでもなくその場に留まり続ける。なにも言わない代わりに、葵が自分を留めた理由を述べるのを待っているようだった。
期待に応える形で、葵は再び口を開く。
「……分からないわ。理由を教えてよ。あなたが勝負に挑む理由を」
直球だった。けれど葵は問うことに躊躇しない。
だって彼には、動機がないではないか。こんな賭け事に身を投じるだけの動機がない。
ならば一体、なんのために?
「理由なんて有って無いようなものだよ。単なる気まぐれだから」
「え……?」
思想家からはなにも読み取れない。目元が前髪に隠れていて表情が読みづらいから――というのもあるだろうが、それ以前に感情の機微がまったく伝わってこないのだ。
だからだろうか。葵には思想家が言わんとしていることの意味がさっぱり分からなかった。彼の行動原理への理解が追い付かないのではなく、そもそも理解することができなかったのだ。
代わりに、自身の内側に再び灯り始めた感情だけは、容易に認識することができた。
これまでのものとは比較にならない程の憤りの波。
しかし今の葵の心情を責めることなど、誰ができようか。
こんな状況下で、あんな風に言われてしまっては。
気まぐれだなんて、そんな身も蓋も無いことを言われてしまっては――、
「なに、それ……」
彼女でなくとも、堪忍袋の緒が切れるというものである。
「じゃあなに――わたしは今、あなたの気まぐれ程度の行動に付き合わされてるってわけ?」
冗談じゃない! と明確な怒りをぶつけた。
「あなたがそうやって好き勝手なことばかりするから、わたしは――!」
熱を帯びた葵の怒声は、再度生じた周囲の歓声によって否応なしに掻き消された。
どうやら口論している間に新たな挑戦者が現れたようで、それに伴って、六十五番目の勝負が始まってしまったらしい。
だが葵の眼はそちらへ向かない。思想家への憤懣をそっくりそのまま、本人へとぶつけることにのみ意識を集中していた。
「今回の件だって――元を糺せば全部が全部、あなたの所為なのよ? 分かってるの!?」
「まあ、程々の自覚はあるよ」
「だったら……!」
「でもこの『気まぐれ』が、今のあんたを助けることに繋がる」
被せるように、それでいて畳み掛けるように。
「それだけは間違いない」
と、思想家は言い放った。
葵は、戸惑いの色を隠せない。
なんなんだ。なんなんだこの男は。
無茶苦茶で、無軌道で、無遠慮で、そしてなによりも、自由奔放で――。
けれどもそれは、他人の迷惑など考えない、都合など知ったことじゃない、ただただ自分の思うがままに振る舞うだけの――自分本位で身勝手極まりないものだ。
――わたしには、許されなかった生き方だ。
そういった意味で彼は、自分とはまったく違う。根本的に考え方が違うんだ、と葵は実感した。あるいはこの差異こそが、彼の言う『思想家』という在り方に繋がるのかもしれない、とも。
――でもだからって、容認はできない。呑まれたらだめ、流されてもだめ。わたしはわたしの考えを通さなきゃ……。
すぅ、と一度だけ深く息を吸い込んで吐く。ほんの少しだけ落ち着いた頭で、葵は思想家をしっかりと見据える。
「あなたが今すぐやるべきことは、わたしと一緒に春鶯へ戻って、あの大荷物を運び出すことよ。それ以外にない。代金はわたしがどうにかするから、勝手なことしないで」
はっきりと淀みなく自分の中の譲れない部分を伝える。
眉を寄せた葵の表情は険しく、突き刺すような科白がまた、それを大いに助長していた。
しかし彼もまた、譲らない。
「あんた言ったよな。『元を糺せば全部が全部、あなたの所為だ』って」
今日一日だけではない。それこそ初めて出会っときから、葵はずっと、この思想家の勝手に振り回され続けている。ゆえにこの一言は、葵の心境を強く反映したものだと言えよう。
「なによ。間違ってるとでも言うつもり?」
「いや、その認識で間違ってない」
「……なにが言いたいの……話を逸らさないで!」
「まあ聞きなよ。――つまり、あんたは今の今まで振り回されてきたってことだ。それも大方、損を被る形で」
葵が今まさに思っていることを、彼はそのまま口にする。
賽銭箱の破壊、そして今回の暴食代。
あらゆる意味合いで、葵が受けた被害は大きく、思想家の罪は重い。
「あんたが振り回されているという現状については、なに一つ変わらないよ。あんたにしてみれば、この今でさえ無理やり付き合わされているわけだからな」
「…………」
「だから変わるとすれば、それは結果だ」
不思議と、その一言には力があった。
「あんたはこれまで大損してきた分、これから一山大儲けするのさ」
偶然にも六十五戦目の仕合が終わったのは、この科白のすぐ後のことだった。結果はまたしても、主催者側の勝利に終わったらしい。
次に起こるは、通算六十六戦目の腕相撲賭け勝負。
挑戦者は得体の知れない、見た目牢人と思しき一人の男。自称、『思想家』。
そして事実上、本日最後の仕合となったその一戦は、観客も、主催者側も、そして葵の予想さえをも大きく裏切る、『行き過ぎた結果』を招くに至るのだった。
結局のところ、葵は思想家の勝手を止めることができなかった。仕合を観てからぶん殴ってでも連れて帰るという当初の目論みも、雲散霧消と成り果てたのである。
自分本位で自由奔放な彼の行動を許したわけではない。だが自分が許そうが許さまいが、どっちにしてもこの男は止められない。本能的にそう悟ってしまったのだ。
――ほんと……自分の流されやすさが嫌になるわ。
心の奥底で自責するも、言葉を返す者も慰める者もいない。そして今さらなにを毒づいたところで、思想家はすでに挑戦の場へ躍り出ている。
初め、人と人との垣根を越えて、ぬっと現れた思想家を前にして、主催者である女は小首を傾げ、またもう一人の僧侶は無言でじっと、その姿を見据えていた。彼らにしてみればなんの前触れもなく、突然、眼前に汚らしい風体の男が現れたのだ。そのような反応を見せるのも無理はない。
しかしその辺りは、さすがに六十五戦もの勝負を執り行った主催者たちである。二人組の内、まだ比較的人当たりのよさそうな女の方が、「もしかして……挑戦者の方ぁ?」と間延びした声で訊ねてきた。思想家が首肯すると、女は朗らかに笑って僧侶を呼び付け、これまでの者たちと同様に挑戦の機会を与えたのだった。
そして、現在。
「それじゃあ六十六番目の挑戦者さん? この仕合の決まり事についてはご存じかしらぁ?」
二人組の片割れである、遊女を彷彿とさせる女が、髪を掻き上げながら慣れた口振りでそう投げかけた。どこか艶っぽいその仕草を前にするも、しかし思想家は一切揺れることなく、素っ気ない対応をする。
「知ってるよ。要はあんたら二人ともどもを腕相撲で倒せば、賞金が手に入るんだろ? 単純明快な上に、簡単だ」
大胆不敵にも程がある挑戦者の発言に、女はぽかんとしたのち、すぐさま可笑しそうに噴き出した。
「アハハっ、単純明快ねぇ……でも簡単ではないと思うわよ――ねぇ?」
と、僧侶に目配せする。
「ふむ。ともあれ闘う気力も充分――ならば我々としても相応の態度で臨むべきだろう。が、その前に」
僧侶は含むような笑みを浮かべた。
「まずは参加料として三十五文銭、きっちり払って頂こう」
参加料、と聞こえて葵は絶句する。
そうだった。すっかり失念していたが、この腕相撲に挑むためには参加料という名の賭け金が必要なのだ。それが三十五文だとは知らなかったが、いくらかの金銭が必要だということは、春鶯で食事をしていたときから耳にしている。
が、それを払うだけの財源はすでに枯渇している。
手持ちは全て、先程の茶屋で佐伯徳助に握らせてしまった。
文字通り、葵の手持ちは零である。
気まずそうに口をつぐみながら、葵は思想家へ顔を向ける。思想家もまた、首だけ振り返る形で葵を見ていた。図らずも視線が交差する。
「悪い。三十五文銭出してくれ」と、無言で訴えてきているのが分かる。だが出せと言われても出しようがない。葵は「無い。無いのよ」と必死に首を横に振ってその実情を示した。
すると思想家は僧侶へと向き直り、
「すまん。今は持ち合せがないらしい。後払いで頼む」
恥も外聞もへったくれもなく、そんな科白を口にしたのだった。この状況でもあの調子とは、まったく肝の据わった男である。
しかしそれを聞くやいなや、僧侶は露骨に顔をしかめた。
「拙僧もあまり守銭奴のようなことを申し上げたくはないが――この腕相撲勝負は挑戦者の賭け金があって意義をより濃くするもの。ゆえに参加料は前払いでなければ困りまする」
「そうよそうよ。決まりは守ってもらわないとね。第一、後で払ってくれる保証なんてないじゃない。今払えないんなら挑戦は取り消しだわ。残念だけどねぇ」
女の一言が止めを刺し、取り巻く観客たちもまた、肩透かしを食らったようにがっかりした声を上げる。葵もなんだか少しだけ、残念な気持ちになった。
だがこればかりはどうしようもない、仕方ない。そんな風に諦めかけた瞬間。
「三十五文? なんやそのくらい。ボクが代わりに払うたるわ」
その声は観衆のざわめきを裂くようにして響き渡った。
軽快な足取りで中央へと現れたその人物は、本多髷に群青色の着流し姿、極めつけには朱色の煙管を燻らせる伊達男、佐伯徳助その人だった。
――佐伯さん!?
葵は驚きに目を丸くする。
「やァやァ、シソウカくん。奇遇やなァ、こんなところで」
「あんた……」
袖から銭差を取り出した佐伯は、「ほい。べっぴんさん」と言い値分を女へ手渡す。女は佐伯をしばらく訝しみながらも、銭の枚数を数え始めた。
「ひぃ、ふう、みぃ……どうする? 和尚?」
僧侶もまた、佐伯という男の深慮を探るような目で見たのち、答えを出した。
「……ふむ。しかしこちらとしては、誰が払おうと現物を納められた以上、断る理由はない。通常通り仕合を行おう」
そいつは重畳、と佐伯はおどけたように言う。
「ほな、シソウカくん。ボクは葵ちゃんと一緒に観戦してるさかい、精々頑張りや。あれだけ大見栄きったんやから、あっさり負けたらさすがに承知せェへんでェ~」
ひらひらと思想家に後ろ手を振った佐伯は、とっくに場所を特定していたらしく、葵の元へと寸分違わぬ道筋で辿り着く。
「やァやァ葵ちゃん。ご機嫌麗しゅう」
「佐伯さん……! なんで……」
「なァに、そもそも話フッたんはボクやし。こんぐらいはせんとなァ」
「でも、お金……」
「ええよええよ。返さんでもええから、気にしんとき。ほんに気にするべきは、この仕合の行く末や」
と佐伯は豪放に呵々大笑した。
「あのシソウカくんが如何にして闘い、如何にして勝つかはボクにも分からん。ここはひたすら、見の一手やで」
◆
一度は消えかけた歓声の火が再燃する。
「ああもお膳立てさせられちゃあ、負けるわけにはいかないか」
こうなったからには徹底的に勝たせてもらう、と挑戦者は息巻いた。
「決まり事についてはすでにご存じのようだが、念のため。仕合内容は主催者である我々と挑戦者殿との、計二回に分けた腕相撲勝負。挑戦者殿が我々二人に連勝すれば賞金を手にでき、反対にどちらか一方にでも負けてしまえばその時点で終了だ」
「ああ」
「では準備はよろしいか? 挑戦者殿」
その気迫に負けず劣らず、僧侶は勝負の流れを促した。
「よければこの女子から先に、闘ってもらうことになるが」
赤い舌をちろりと覗かせて、女がずいっと前に出た。このときでさえ、誘うような魅力が全面から滲み出ている。この色香になびかない男はこの世の者ではないだろう。
「ああ、そのことだけど」
「……?」
「まずはあんたから先に闘ってくれよ。坊さん」
名指しを受けて、僧侶は僅かに眉をひくつかせる。
「別に構わないだろ?」
「あのねぇ挑戦者さん。言っておくけど和尚は私なんか目じゃないぐらい強いわよぉ? 初めは私で慣らした方が、堅実だと思うけれど」
「そんな話はどうでもいいよ。坊さんが初戦の相手で構わないかどうか、それだけを訊いてるんだ」
「…………」
「それともなにか、不味いことでもあるのか」
「いや、よかろう」
「ちょっと、和尚~?」
「なにを慌てることがあるのだ。決まりの中にも、順番については特に明示していない。挑戦者殿がそうしたいと言ったところで、問題はなにもなかろう」
もっとも、と僧侶はやや否定気味に、
「順番を入れ替えたところで、そう大きく結果が変わるとも思えんがな」
と一瞥した。
「そいつはどうだろうな」
挑戦者もまた、強気な姿勢を取った。
対峙した両者はこれまで同様、丸机を境とし、それぞれ備え付けられていた椅子に腰掛ける。「合図を頼むぞ」と僧侶が呼びかけると、まだ納得のいっていない様子の女が、紐付きの小さな銅鑼を首から提げた。
これで準備は整った。いつでも始められる。
「では、腕を前へ」
両者とも、右腕を前に出す。
「肘は机の中央へ。けっして浮き上がらせないように」
「分かった」
互いに肘を支点とし、握手にも似た形で拳と拳を重ねる――と思いきや。
挑戦者は手の平を開いたままを維持し、重なった僧侶の手を絶対に握ろうとはしなかった。怪訝そうに窺う僧侶に対し、
「ああ、これか? 自分で言うのもなんだけど手汗が凄くてさ。手を開いたままの方が余計な力も入らないし、あんたも掴みやすいかと思って」
「つくづく変わった男だ」
僧侶はその開いた手の平を、程々の力で握る。
「では、合図を」
「ごほん――それではそれではー、これより第六十六戦目第一仕合を行いたいと思いまーす。位置について、よぉーい……」
「待った」
突然の制止に、勢いよく振り上げたばちを取り落す女。ばちを拾い上げ、すぐさまキッ、と待ったを掛けた張本人を睨みつける。が、本人は素知らぬ顔だった。
間を外されたのは僧侶も同じだったようで、その涼しげな表情には、ほんの少しだけ暗雲が立ち込めていた。
「……なにか?」
僧侶が訊ねるも、相手はがしがしと頭を掻きながらのんびりと応じる。
「すまん。もう一つ訊こうとしていたのを忘れてた。あんたは普段、右手と左手、どっちで箸を使ってる?」
「利き手はどちらか、ということですかな。どちらかを選べと仰せられるのならば、それは右でございまする」
「右か。じゃあこの勝負は、左対左でやろう」
挑戦者は一度中央に置いた右腕を引っ込め、反対の左腕を場に出した。
「『左同士でやってはいけない』、そんな決まりもなかったはずだよな」
「……如何にも」
誘いに乗った形で、僧侶も左腕を前へ突き出す。
挑戦者の左手はまたも開いた状態に落ち着いていた。その手の平に、僧侶は先程よりも強い力を込める。その力の度合いは当事者同士にしか伝わらないため、端から見ても非常に分かりづらいが、たとえるなら充分に実った林檎を易々と握り潰せる程度の強さである。常人であればこの時点で、まず軽い悲鳴の一つや二つは洩れることであろう。あるいはそのまま戦意を喪失する状態にまで陥りかねない。
だが思惑に反して、挑戦者の表情は一切変化しなかった。これには僧侶も驚いたが、やはり外面には出さず、同じく無表情を貼り付けた。
「今度こそ準備はいいかしらぁ? 皆そろそろ苛立ってるから、二度目は勘弁してよぉ?」
女が再び張り裂けんばかりの大声で口上を述べる。
その最中、挑戦者にしか聞こえない程に小さな声量で、「しかし、舐められたものだな」と僧侶が呟いた。
「利き手ではない左腕相手なら勝てるとでも見込まれたのか? それとも左腕の方が自信がおありか? いずれにしても浅慮なものだ」
挑戦者は、あくまで無言に徹している。
「確かに拙僧は右利きだ。左ではない。しかし利き手ではないからと言って、必ずしも『左の力が右よりも弱い』とは限らぬだろう。ただでさえ六十五人もの人間を相手取ってきたのだ。その中に、左利きの者が一人も居なかったとでも思うたか?」
やがて女が口上を終え、「よぉーい……」とばちを持つ手を高々と上げた。
「拙僧の左が右と同等か、もしくはそれ以上の力を有しているとは何故考えぬ。何故、疑わぬ――」
始め! の声とともに勢いよく銅鑼が打ち鳴らされる。それとほぼ同時に僧侶は仕掛けた。なによりも『開始の速さ』を重視したこの一動作は、たとえ事前に知られていようとも合わせることが敵わない程に鋭く、一瞬のものだった。
疾風迅雷の速攻。これこそが、並み居る力自慢の猛者たちをもあっさりと屠った僧侶の技量であり、通算六十五戦もの勝負における必勝の秘訣の内の一つである。その真髄は相手の力が注がれるよりも遥かに速い打点で一挙に叩くという一点のみ。
圧倒的な速さが、力量の差を無視する。
事実、あの筋肉達磨と称されていた巨漢は、あの筋肉量にも関わらず、僧侶の速さに後れを取って敗北した。もっともその背景には、あの遊女と見紛う女の技量もあるにはあったが、勝負を決定付けたのはやはりこの僧侶の力であったのだ。
ゆえに僧侶は、自分の実力を一切疑っていなかった。眼前の挑戦者が自分たち二人組の『戦法』を見破った上で、自らを初戦の相手とし、女を後回しにしたのかどうかは定かではない。しかしいずれにせよ、やることは同じだ。全力で相手を叩き潰すことには変わりない。この勝負もまた、瞬きする間もなく決着がつくだろう。これまで通り呆気なく、味気なく、そして揺るぎなく。赤子の手を捻るように。
驕りではない、当然の結果として、僧侶は自身の勝利を確信していた。
だからこそ。
「な……!?」
だからこそ、驚愕に目を瞠る。
――う、動かない。否、動かせない!
全身全霊の力を込めた『開始の速さ』。その起点となる左腕がまったく、動かせない。上腕から前腕へ、さらには手首や指の一本一本に至るまで、あらゆる箇所の筋肉を最大に使用しても、眼前の男の開いた手は、微動だにしなかった。
「ぐっ、莫迦、な」
びくともしない。てこでも動かない。さながら石像かなにかを相手取っているような錯覚に陥る。
「ぐうぅ――!」
ここまで力を込められて、何故こんなにも耐えられる? 何故ここまで力が通じない? 今までの相手なら――いや、今までの相手でなくとも、普通ならとっくに腕を倒されているはずなのに。
自分は今、一体なにと闘っているのか。
そんな疑念が、僧侶の頭を支配し始めたとき、これまで無言だった挑戦者が口を開いた。
「あんたの速さは凄いよ。さらに言うなら、あんたら二人組の『戦法』は凄まじい。これをイカサマだなんて言う奴は、そいつこそどうかしてる」
まるで褒められている気がしないその間にも、僧侶は全体重を乗せて挑み続けている。だが依然として相手の腕は倒れる気配すらない。
手汗を滲ませ、唸りながら顔を歪める僧侶の姿に、最早当初の静謐さは微塵も残されていなかった。
「けどそういった戦法云々が、そもそも意味を成さないぐらい強い相手ってのもこの世には居るんだよ。だからここで手も足も出なかったことを恥じる必要はない。けっして、あんたが弱かったわけじゃない――」
「……!」
「ただ単純に、相手が強過ぎただけのことなんだから」
雰囲気が変わった――と身構えたのも束の間。
「あんたの左腕」
挑戦者は僧侶の左腕を見て、言った。
「多分、もう二度と使い物にならなくなるんだろうけど――」
なんだ、なにを言ってる? なにを――。
「まあ運が悪かったとでも思って、諦めてくれ」
挑戦者は開いていた手の平を折り込むようにして、僧侶の手と重ねた。互いに互いの親指を握り込むようにして組まれる、腕相撲の本来あるべき状態に、ここでようやく落ち着く。
が、その瞬間。僧侶の親指からぼきりと小気味の良い音が鳴った。見れば自身の指が、あらぬ方向にひしゃげている。
何故、と問う間もなく、次に僧侶が味わったのは、得体の知れない力で横倒しに引っ張られるような感覚と、先程よりも大きななにかが潰れた音、そして。
自分の腕が、完膚なきまでに殺されてしまった感触だった。
【五章】強弱両極論
衝撃とともに訪れた轟音に、葵は激しく動揺する。
両者が雌雄を決する場であった木製の丸机は真ん中から真っ二つに裂け、欠片という欠片が辺りに散らばっている。原型を留めていないその損傷具合を真に受けて、一体どんな力の使い方をしたらこうなるのか、という疑問もさることながら、けれどもこの会場に集まる者たち全員が絶句しつつも目を剥いて注視している場面は、そこではなかった。
皆の視線が向けられた先にあったのは、右と左に両断された木片に挟まれた形で立ち尽くす、一人の思想家と。
「ぐがああっ、あああっ……!」
呻き苦しみながら地に這い蹲る、僧侶の悲惨な有様だった。
僧侶の左腕は、肘の可動域の限界を大きく越えてより外側へと力を加えられたようで、時刻になぞらえるなら、午の九つ時の位置に指先があった。つまり腕相撲時の肘を立てた状態から外側へ、縦の半円を描くようにして一気にねじられてしまったのである。今はもう、肘から下はただぶら下がっているだけのように思えて仕方がない。さらにはその指の一本一本に至るまでが、叩きつけられた衝撃の所為なのか、あるいは別の力によるものなのか、全部が全部別々の方向を向いていた。
地獄の苦しみだろう。それも死に地獄ではなく生き地獄だ。
全体的に歪な形状となった僧侶の腕を見て、葵はその惨たらしさに口元を覆う。隣に佇んでいた佐伯も、その光景に困惑しているようだった。
「赤子の手を捻るように、なんてことわざがあるけれど――」
「あ、ぐ……おぉっ」
「こいつはどうも捻り過ぎちまったみたいだな」
「和尚っ!?」
血相を変えた相方の女が、首から提げていた銅鑼を脱ぎ捨てて駆け寄る。駆け寄って僧侶の塩梅を見るも、すぐさま自分が処置できる範囲を越えていると悟ったらしい。
「こんな、酷い……! 早く医者に――」
女は自分に言い聞かせるようにそう呟き、激痛に蹲る僧侶の懐に入って、負傷した左腕とは反対の右肩を起点に肩を貸し、無理やりに彼を立たせた。
だが。
「待ちなよ」
行く手を阻むように、思想家は立ち塞がった。
「次の相手はあんただろう? 早く準備を整えてくれ」
「な、っ……」
「聞こえなかったか? 早く闘う準備を整えてくれと言ったんだ」
ゆるりと紡がれた一連の言葉は、この惨状を作り出した者が発した言葉だとは到底思えない程に他人事で、それでいて途轍もなく冷淡なものだった。
あまりに強烈なその一言に、場の空気が弛緩する。血気盛んな観客たちですらなにも言えない。
こんなの、異常だ、と葵は戦慄する。
かねてより変な人だとは思っていたし、感じ取ってもいた。しかしまさかここまで――。
「さあ、早く」
まさかここまで。
他人に対して、傍若無人に振る舞える人だなんて、思いさえしなかった。
「早く、ですって……!? 和尚をこんな状態のまま放っておくことなんて、できるわけないじゃない!」
「知らないよ、そんなことは。あんたらの都合なんて知ったことじゃない」
「……邪魔よっ、そこを退きなさいっ」
「退かないよ。挑戦は、まだ半分しか終わってないんだから」
公言通り、彼は一歩も譲らない。
それどころか逆に、一歩詰め寄った。
「なにを躊躇ってるのか知らないけれど、早く医者に診せたいのなら、あんたが早く勝負を終わらせればいいだけのことじゃないか」
「あたしが……?」
「そうだよ。勝負の後のことなんてお互い知ったこっちゃないんだし。それにどうせなら――」
さらに力強く、畳み掛ける。
「あんたら『二人仲良く』医者にかかる方が、二度手間にならずに済むだろう」
「く……!」
「……待てっ!」
声を絞り出したのは、満身創痍の僧侶だった。
「待て、椿……逸るな、逸るんじゃ、ない」
ここで初めて、女の名と思しきものが明らかとなった。
女、椿を宥めて、僧侶は浅い呼吸のまま顎を上げる。
「見事だ。挑戦者殿――」
「…………」
「拙僧の、否、『我々の』負けだ」
すぐに賞金を手渡すことを、僧侶は流れのまま確約した。
境内が騒然とする。何故なら僧侶は自分の敗北だけではなく、二人組としての敗北をも認めてしまったからだ。つまるところそれは、主催者側である僧侶たちの仕合放棄に他ならない。
真っ先に異を唱えたのは、椿だった。
「な――なに言ってんのよ和尚っ!? あたしはまだ闘ってないわ! なのに負けを認めるなんて、そんな勝手な――!」
「勝手なのは百も承知、批難も当然。だが……許せ」
鬼気迫る勢いだった。
「それでも、お前のたおやかな腕には代えられん」
諭すような口ぶりに椿は「う……」と呻く。次に彼女は「決着はついた。締めは頼むぞ」と僧侶に促され、静かに俯いた。
しばしの空白を設けたのち、椿は脱ぎ捨てたまま放置していた銅鑼を拾いに動く。拾い上げる際、彼女は僅かに逡巡する様子を見せるも、やがては、ごん、ごん、ごーんと三回に亘って強くばちを打ちつけた。
「第六十六番目の勝負は――挑戦者側の、勝利です――またこれを持ちまして、この腕相撲勝負への挑戦を締め切らせて頂きます――ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました……」
口上を述べ、椿はぎりっと奥歯を噛むやいなや、寺内の奥へと走り去る。
不思議とその場で異議を申し立てる者はいなかった。ただ依然として、場内はざわめきに包まれたままだった。それだけ前代未聞の出来事なのだと理解できる。
「おい。あいつ、あんた放って行っちまったけど大丈夫か」
遠くに消えた椿を見送った思想家が、僧侶に問う。
額に玉のような汗をいくつも浮かべた僧侶は、空元気にも口角を吊り上げて答えてみせた。
「なに、あれは強い娘だ。そう易々と自暴自棄にはならぬ。おそらくは、新たに賞金を入れる袋の一つや二つ見繕いに戻ったのだろう……銭差しにするとしても、なにせ、銭の枚数が多いからな」
「ならいいや。腕は?」
「どうだろうな……不思議なことに、だんだん痛みが薄まっているような気さえある。なるほどいよいよもって、そなたの言う通りになるのやもしれん」
「ふぅん、そうか」
「……一つ、訊ねたいことがある」
暢気そうに虚空を眺めている思想家を見て、僧侶は確かめるように訊ねた。
「そなたは、拙僧と同じ人間か?」
その質問の答えは、実にあっさりと返される。
「いいや、違うよ」
「この賞金は、店に着いたときに渡すよ。巫女さんが持つには結構な重さだからな」
蕎麦屋『春鶯』へと向かう道すがら、思想家は肩に担いだ大袋を指して、そんなことを口にした。
けれども葵は、それを拒否する。
「渡してもらわなくて結構よ。その賞金はあなたが手に入れたもので、わたしのものじゃないんだから」
「おいおい、今さらなに言ってんだ。そういう流れだったろうが」
「流れなんて知らない。第一わたしはそんなもの望んでないわ……それにあなたこそ、路銀が無いとか言ってたじゃない……」
路銀が無かったから、神社の賽銭箱を壊したのではなかったのか。
「そうだけど、こんなには要らない。なあ、あんたもいい加減意固地になるなよ。この金を今一番必要としてるのはあんただろう。貰えるものは貰っておけばいいじゃないか」
「…………」
なんだか借りをつくるみたいで嫌だ、というのが本音なのだけれど、当然そんな子供じみたことを易々と外に出せるはずもなく、最終的には渋々思想家の言葉に甘んじた。
思想家が起こした事態を、思想家自らが勝手に解決した。結末としては、それ以上もそれ以下もない。だから本来、葵はなにを思わずともよいはずなのだが――。
――奢ろうとしていた手前、代金はわたしがどうにかするって言ってた手前……なんだか、格好つかないじゃない……。
安い自尊心だと自分でも思う。ただ思想家に気遣われている現状がどうも気に食わない。けれども、もしものときの備えを使わずに済んだのもまた事実。
ううう、と葵は低く唸った。これ以上細かいことを考えると、思想家どころか自分でさえも嫌になりそうだ。たまらず、別のことに頭を切り替える。
「結局……賞金っていくらだったの? 結構入ってるみたいだけど」
「大体、二千五百文ぐらいになるそうだ」
じゃらじゃらと銭同士が擦れ合う音が聞こえる。
二千五百文、と耳に残って、彼の後ろに続いていた葵は疑問に思う。
挑戦料は三十五文。百文に届かない場合は九六銭の概念はない。なのでこれについてはぴったり三十五文分払わなければならない。
思想家が六十六人目の挑戦者なら、大体――。
――あれ、おかしい。
「……なんか、思ったよりも多く貰ってない?」
計算が合わない。三十五文の六十六人分だとするならば、ざっと――二千三百文辺りに落ち着くはず――残りの二百文近くは、一体どこから捻出されたのだろう。
「多い分については、一人目の挑戦者を釣るための分も含まれとるんちゃうか?」
葵の隣を歩いていた佐伯徳助が、自身の口元に添えられた朱色の煙管に手をやりながら会話に混じる。
「一人目を釣る? えっと、それはどういう……」
「あの腕相撲賭け勝負の旨みは、主催者二人組に連勝すれば、それまでの挑戦者の挑戦料がそのまま賞金になるっちゅうところやった。けど最初の一人目はそれより前がおらへんわけやから、その旨みにはありつかれへん」
「あっ、言われてみれば」
「主催者側にしてみても、そもそも客が来んかったら儲けにならん。やから最初から、増えていく挑戦料とは別の分があったんやろうと考えられる」
もっともこれはボクの推測やけど、と最後に佐伯が付け足した。
そこに思想家が、
「推測はいいんだけどさ。あんたはあんたで、一体いつまで付いてくるつもりなんだよ」
と、厳しくも的確な突っ込みを入れた。正直なところ、当たり前のように隣を歩いている佐伯に対して、葵もまた近しい感想を抱いていただけに、思想家の物言いを責めることができない。
だが佐伯は、そんな突っ込みにもからからと笑いながら応じる。
「キミら春鶯に向かってるんやろ? ボクも同じところに用事があんねん。やから好きでキミらに付いて回ってるんちゃう。単に向かう先が同じなだけや」
「用事ってなんだ」
「ちと早いけど夕餉代わりに蕎麦と酒の一杯でも洒落込みつつ、売り子のお姉ちゃんと楽しくお喋りでもしようかと思ってなァ。ひゃっひゃっひゃっ」
夕餉の蕎麦よりも酒よりも売り子の女にちょっかいを出そうとしているのがあからさまに透けて見えて、うわぁ、と葵はたじろいだ。楽しいお喋りだなどと佐伯は言うが、楽しいのは佐伯一人だけではないのだろうかとも思う。やはり、売り子の女に煙たがられる佐伯徳助の図が、葵の脳裏に浮かんだ。
そんなところで、いつの間にか蕎麦屋春鶯の看板が視界に入った。思想家を捜索していたときはいっぱいっぱいで気付かなかったが、春鶯と寓名寺との互いの距離はそれほど遠く離れてもいないらしい。振り返ってみれば、別段角を曲がることもなくここまでずっと真っ直ぐだった。
「おっ。まさしく噂をすればなんとやら」
佐伯につられて店の軒先に視線をやれば、どこかで見た人影がそこにあった。
いやいやどこかで見たどころか、それは件の売り子の女その人であった。おそらく普段以上の仏頂面と思しきその表情に、早くも葵は恐怖した。
――い、行きたくないっ。
店の暖簾まであと少しなだけに、余計にそう思った。
まず真っ先に、荷物を取りに戻ることが遅れたことについて頭を下げる必要性を葵は感じていた。本当は今すぐ逃げ出したいぐらいの衝動に駆られていたが、現実とはやはり向き合わなければならないこともあるのだと、最終的には一種の諦観の境地に至った。
固唾を呑み、葵は先行して恐る恐る距離を詰める。さすがに気付いたらしく、売り子がじとっとした目付きで、こちらを捉えた。
「え、えへへ……どうも……」
まずは笑顔! とにかく頑張って笑顔! と心の中で意気込み、手もみしながらさらに近付く葵。しかし端からすれば、それは実に不自然極まりない光景で、百歩譲っても効果が期待できそうだとは思えなかった。
案の定。
「お、遅くなってすみま――」
「遅い!」
「みっ!?」
びくり、と葵の小さな背が跳ねる。
「あれから何時間経ったと思ってるんですか? 一刻も早く戻ってきてくださいって、私言いましたよね? 私は貴女の『すぐに戻ってくる』という言葉を信用したから、あの大量の荷物を預かったんですよ?」
捲くし立てるような怒涛の攻めに、怯えた猫のように体を縮こまらせる葵。
「貴女は、この程度の約束すら、満足に守れないんですか?」
「ご、ごめんなさいぃ……」
遂には涙腺が決壊した。貼り付けた笑顔は無残に剥され、泣き顔に変わった。
「泣いたって容赦はしません。謝るだけなら誰でもできます」
「まあそう言ってやるなよ、売り子さん。この巫女さんは、あくまで振り回された側に過ぎないんだから」
後から物腰柔らかく思想家が割って入る。しかし。
「ああ、居たんですか。――申し訳ありませんが、貴男に至っては論外です。分を弁えてください。というか、気安く話しかけないでください」
「…………」
清々しい程にばっさりと一蹴された。思想家でさえ封殺されるこの時点で、葵は自分に救いがないことを実感し始めていた。
そんなとき。
「気持ちは分からんでもないけど、もうその辺にしといたってや、お冬さん。シソウカくんはともかく、それ以上は葵ちゃんがかわいそうや」
思想家の後ろに続いて、佐伯徳助がゆるりとそう述べた。
佐伯の助け舟に支えられたような気になるも、同時に飛んでくるであろう売り子の怒声が怖くて仕方ない。葵は肩を竦めて目を瞑った。
だがいつまで経っても売り子は声を張り上げない。堪らず目を開ける。彼女の表情に変化はない。けれども葵を糾弾していた際より、少しばかり落ち着きを取り戻した様子だった。何故? と驚く葵。だがより驚かされることになるのは、彼女が発した次の科白だった。
「あら、お帰りなさいませ。『旦那様』」
静かに頭を垂れる売り子の姿を目の当たりにして、葵は一瞬呼吸が止まる。
「今日はもうお戻りになられないかと思いましたよ。また市中を遊び回っていたんですか?」
「いやはや、お冬さんには隠せんなァ。まったくもってその通り!」
「その通り――じゃありません。二、三人で店を切り盛りするこっちの身にもなってください」
「ひゃっひゃっひゃっ! キミは有能やからつい、な」
「おだてても許しませんよ」
「ま、待ってください!」
葵が横から入って、その会話を切る。そして自分の心に生じたたった一つにして最大の疑問を、たじろぎながら両人にぶつけた。
「あの、今、旦那様って……?」
まさか、いやいやまさか、と葵は自分の心に浮かんだ答えを何度も拭おうとする。
「おお、そうやったそうやった。ほな、もう一度挨拶しとこうか。改めて、ボクはこの蕎麦屋『春鶯』の『店主』を務める天下一の色男――佐伯徳助や。以後、よろしゅうな」
自称天下一の色男は、煙管に手をやりながらやはり胡散臭そうな雰囲気を絶やさず、「ひゃっひゃっひゃっひゃっ!」と面白おかしく呵々大笑して店の暖簾をくぐっていった。お冬と呼ばれていた売り子の女もまた、心底呆れたような顔をつくりながら彼に続いて行く。残された二人は茫然と彼らの後姿を見送ったまま、さながら狐につままれたかのようにその場で硬直していた。
明るみとなった佐伯の正体に対し、葵がこれまで以上に驚愕の声を上げたことは、最早言うまでもない。
「千七百四文、確かに頂戴いたしました」
「ご迷惑を、おかけしました……」
店主、佐伯徳助に誘われて、葵と思想家がおずおずと店の敷居を跨いでから少し経ち。ようやくにして昼の食事代、千七百四文を支払い終えることができた。二千五百枚近くもの一文銭が納められた賞金袋の中から取り出し数えるのは、まさしく最後の最後に立ちはだかった苦行であったが、それも今となっては過去の出来事である。
この一区切りに半日の時間をかけたのかと思うと、達成感に押し潰されてしまいそうになる。もっとも実質的な経緯からすれば、この支払い分を稼いできたのは葵ではないのだが、それでもなにも思わない程、彼女は無感動な人間ではいられなかった。
「荷物のことですが、勝手ながら奥の方へと移させて頂きました。あのまま日当たりの良いところに放置するわけにもいかなかったので」
どうやら葵が買った食材や調味料などが痛まないよう、配慮してくれていたらしい。女手一つで一気に運べる量でもないので、何度かの手間をかけてくれたのだと思うと、本当に、下げた頭が上がらない。
「葵ちゃんもお冬さんもそのぐらいにして、ちょいと座って落ち着こうや」
佐伯徳助が四人掛けの席へと手招きする。思想家に至っては、すでにその場でくつろいでいた。
「特にお冬さんなんか、ボクがおらへんかった分、昼間からずっと働きっぱなしやろ?」
「そうでもなかったですよ。お店は昼の段階で閉めましたから」
売り子の女改め、お冬は変わらぬ無表情でそう告げた。佐伯は驚いたように目を丸くする。
「えっ、なんでェな?」
「ええ、それが昼頃に予期せぬ上客がお見えになりまして――なにせ百八人分、計千七百四文分もお召しになられたものですから……用意していた一日分がすぐに底をついてしまったんですよ」
「あァ、そういう……それは、えらい災難やったなァ――」
「ええ。山のような器の数を数えるときなどは本当に――計算も面倒でした」
店側の皮肉を余すところなくひしひしと身に受けながら、葵は思想家の隣に腰を下ろす。店にしてみれば大繁盛なんだからいいじゃないか! と物申すだけの勇気は、残念ながら葵にはない。このときだけは、まるで皮肉に堪えていない思想家を羨ましいとさえ思った。
ちなみにお冬だが、彼女は彼女で「腰を落ち着けたいのは山々ですが、明日の仕込みがまだ済んでいないので。お話でしたら、皆様方でごゆるりと」とだけ捨てて、奥へ消えてしまった。お冬が居つかなかったことに、葵は何故か安堵してしまう。
「……にしても佐伯さんってこのお店の人だったんですね。……人が悪いですよ。なんで隠してたんですか」
「そんなん、キミらの驚く顔が見たかったからに決まっとるやろ。特に葵ちゃんは、ええ反応やったで」
そう言って小さな笑みを零す佐伯。むぅ、と葵は頬を膨らませた。
「本当にびっくりしたんですよっ。しかも店主さんだなんて……」
直後、自ら振った話題に「あれ?」と疑問符を浮かべる。
翁がまだ体調を崩して動けなくなる前は、ことある毎にこの春鶯に立ち寄っては蕎麦を食べていた。それこそ『新進気鋭の春鶯轉』と巷で渾名され始めたときから、この店の存在は知っている。
にも関わらず、葵は佐伯の姿をこれまで一度も見かけた覚えがないのだ。どころか記憶にあるここの店主は、五十は越えた白髪交じりの男であったような気がする。まず、目の前の男とは重ならない。
これはどういうことだろう、と葵はそのことを佐伯に話してみた。すると佐伯は気っ風の良さそうな笑みで、
「あァ、実はボク二代目やねん。葵ちゃんの言うとる人は、ボクの親父や」
「お父様ですか……」
「そうそう。まァ、一年程前に病でぽっくり逝ってしもうたんやけどなァ」
それを聞いて、しまった、と葵は軽率な質問をしたことを後悔するも、見越したように佐伯が「構わん構わん」と手を振った。
「ボクは親の死に目に立ち会うとれへんしな。親父が死んだんを知ったんは、お袋が寄こした便りでや。当時のボクは大坂で自由に楽しく暮らしとったんやけど、便りの内容が内容やし、さすがに無視するわけにもいかんか、とこっちに戻ってみたら、やれ家業を継げやの身を固めろやの五月蠅いこと五月蠅いこと……」
「当然ですよ。旦那様はずっと遊び歩いておられたんですから」
店の奥から、主人に対して容赦のない毒を浴びせるお冬。なんだかんだ言って聞いているらしい。
だが彼女からの小言は慣れたものなのか、佐伯は怯まずそのまま続けた。
「そんなわけでしゃあなし、ボクがこの店を継いだんや。まァ正直なところ、いつか継がなあかんことは分かってたんやけど……まだ日が浅い所為か、戸惑うことも多々あるわ」
しかしそれでも、現実は見据えなければならない、と佐伯は言い放った。それはちくりと、葵の胸に突き刺ささる科白だった。
大好きだった翁を喪ったとき、葵は激しい悲嘆に呑まれて、しばらくは飯もろくに喉を通らなかった。優しかった翁を思い返す度に涙が溢れ、ときには一日中嗚咽を洩らしながら過ごした日もあった。
翁の死からもう数週間が過ぎている。けれどもまだ、ひと月は経っていない。果たして自分は、現実を見据えられているのだろうか――。
自問自答。けれども未だに、答えは見えない。
「……よっしゃ。辛気臭い話はもうここいらで終いや。次はキミの話を聞かせてくれんか?
シソウカくん」
「ん?」
突如焦点を当てられても、しかし平静は失わず、思想家は泰然自若とばかりに構えていた。
そんな彼に一切合切遠慮せず、佐伯徳助は強く問い質す。
「先の腕相撲賭け勝負。瞬き一つせんと、一部始終を観てたつもりやった。けどそれでも、あのときのキミがとってた一連の行動が勝利にどない結び付いたんか……ボクには終ぞ理解できへんかった」
「…………」
「そしてなにより、闘う前からすでに勝利を確信していたかのような口振り――あの自信はなんやったんや? どこにそれだけの根拠があった?」
佐伯の詰め寄りように乗る形で、葵は静かに同調する。そう、葵も仕合後からずっと考えていたのだ。けれども佐伯と同じく、結局は判然としなかった。
相手はすでに六十五戦もの闘いを勝ち抜いた猛者たちだった。なのに思想家は勝利した。なにか、勝ちを得ただけの理由があったはず。大口を叩けるだけの、理由があったはずなのだ。
「よかったら、話してくれへんか?」
「別に構わないよ。どうせ問い質されるんだろうなと思っていたから」
――詳しい解説はのちほどってことで。
腕相撲に挑む前、思想家がそんな風に言っていたことを葵は思い出す。
「でも話すなら、先に相手のことからになるぞ」
「相手って、あの二人組のことよね」
葵の言葉に思想家は頷く。
「そもそもどうやって、あの僧侶と女は、六十五戦もの勝負を延々と勝ち続けることができたのか――その勝因を語らずして解説は難しい。だからまずはそこから話したいと思う」
必勝の秘訣とも呼ぶべきなにか。イカサマなのではないかとさえ揶揄されたなにかが、あの主催者たちにあったことはもう疑いようがないだろう。腕相撲で二人組だとは言え、六十五戦もの数を勝利し続けることなど尋常ではない。不可能とさえ言っても、けっして大げさな表現ではないのだから。
その秘密が明かされる。彼の言う全貌が、今暴かれる。
「話し始めに。なによりも念頭に置いてほしいのは、あの二人組はとにかく『相手をまともな状態で闘わせないこと』に長けていたってところだ」
「まともに闘わせない……?」
「そう。もう少し具体的には『挑戦者を疲れさせて勝つ』だな」
『相手をまともな状態で闘わせないこと』、『挑戦者を疲れさせて勝つ』。
これだけの解説ではまだ要領を得ない。引き続き、葵は聞き入る。
「実際の流れとしては、まず最初に女が挑戦者と闘って、勝てそうな場合はそのまま勝つ。勝てそうにない場合は、できるだけ勝負を長引かせて泥仕合に持ち込む」
「泥仕合? どうしてそんなこと……」
「相手を最大限に疲れさせるためだよ。自分個人の勝敗云々よりも、とにかく相手の体力をある一定奪うこと。あの女は、これだけに重きを置いていたんだ」
「疲れさせて……どうするの?」
「次の僧侶へ繋いで、素早く確実に潰してもらう。いわゆる速攻だな。女にしつこく粘られて疲労を持ち越しているところに、僧侶からの速い攻めを食らう羽目になるんだ。挑戦者にしてみれば、感覚の落差が大き過ぎて非常にやり辛い」
そしてその疲労と落差がゆえに敗北してしまう、と思想家は締め括った。
「これが六十五戦もの勝負を勝ち抜いた必勝の秘訣にして、あいつら二人の『戦法』だ」
「なんか思ってたよりも地味……なような……」
葵は口をへの字に曲げる。
「地味だよ。でもその分、挑戦者や観客に仕掛けが気付かれにくい。必勝の秘訣が、まさかその程度のことだなんて思いもしないだろうからな。代わりにイカサマだの八百長だのとは疑われちまってたが」
――しかしあれはどう見てもイカサマじゃあないな。無論八百長でもない。
これもまた、挑戦前に思想家が呟いていたものだ。あれはどうやらそういう意味だったらしい。
「とは言え、効果はてきめんだった。一番顕著にそれが出たのは、あの六十四番目の仕合のときだな」
「ああ、あの筋肉達磨とかって渾名されてた人……」
六十四番目の挑戦者。上半身の盛り上がりが凄まじい、丸太のような両腕を誇る巨漢の男。通称『筋肉達磨』。思想家の解説を踏まえた上で振り返ってみれば、確かにあの仕合には、二人組の『戦法』の効果が如実に発揮されていたような気がする。
女、椿が圧倒的に不利な立場でありながらも粘りに粘ってしつこく喰らい付き、弱ったところを次点の僧侶が瞬時に仕留める。戦法としては、やり辛さを追求した部類に入るのだろうか。
「けど、あんな大柄な人を相手にして泥仕合に持ち込ませるって……いくらなんでも難し過ぎない? あのお坊さんの方がそれをやるならまだ分かるけど……女の人が、それも自分の何倍も力があるような相手に、ああも長引かせられるものなのかな……」
女人の身である椿があそこまで善戦できたことについて、葵はどうも得心がいかない。
「その辺りは根性での粘り強さだけじゃなくて、相手の力を上手く逃がしたりだとか、自分にとってより最適な拳の組み合い方だとか、肘を置く位置だとか、女個人の細かい技巧も関係してくるよ。あとは、闘いへの姿勢なんかも」
「姿勢?」
「女は無理して勝たなくてもいい。攻めなくていいんだ。基本的に、持ち堪える姿勢のみを貫いていればいいんだよ。相手の倒そうとする力に打ち勝とうとすればそれを上回るための力が必要になるが、持ち堪えるためならただひたすら踏ん張ることにだけ力を使えばいい」
勝つためにはやはりどこかで攻めなければならず、相手との力のぶつかり合いが必然となってくる。そうなるとどうやっても筋力差で劣る椿には分が悪い。
だが始めから大して攻めなくてもよければ、無理をして勝つ必要がなければ、その分精神的な重圧も少なくていい上に、耐え忍ぶことにのみ集中できる。そこに長引かせるための技巧を駆使すれば、たとえ力で劣っていても泥仕合には持ち込めると思想家は説いた。
「いずれにしても、口で言うのと実践するのとでは別物だけどな。強さにおいて目立っていたのは僧侶だったが、実質、必勝における一番の立役者はあの女の方だったというわけだ」
さらなる補足として、僧侶が速攻を用いる理由には、女との落差によって相手を翻弄すること以外にも、その疾風迅雷が如き見た目の派手さによって、周囲の目から椿の異質性を悟らせない役割もあったそうだ。僧侶は僧侶で、注目を一手に引き受けていたらしい。
どこまでが真実でどこからが思想家の推測なのかは分からないが、如何せん彼は、勝利してしまっているだけに耳を傾けざるを得ない。確かにあのとき、勝負の強さにおいて会場で誰よりも観衆の視線を集めていたのは他でもない僧侶だった。
「まあ、あの六十四番目に関しては、挑戦者のガタイがガタイだったから、内心肝を冷やしてたとは思うぜ。だからああも『糞』だの『筋肉達磨』だの言って相手を挑発してたんだ。頭に血を上らせて、積極的に闘わせる意欲を引き出させ、少しでも体力を使わせて、疲れさせるために」
「……あれ? でもお坊さんの方は女の人と筋肉達磨さんの言い合いを止めてたような……まさかあれも、戦法の内?」
「ああ、挑発もやり過ぎちまったら、ただの喧嘩になるからな。程々にやってたんだろう」
――全ては、確実に勝つために。
挑発すらも技巧の内、なにもかもが作戦の内。それが事実なら感服する。勝利への執念が尋常ではない。
気付かれないぐらいに地味で、一見すれば効果すら疑わしい程の『戦法』。だがそんな風に思ってしまった、否、そう思わされてしまっている時点で、すでに術中――か。
葵は椿に対する認識を改めた。今となってはあの蠱惑的な性格でさえ、相手を油断させるための罠だったのではないだろうかと勘繰ってしまう。僧侶もだ。彼は彼で、椿が疲弊させた相手を違和感なく引継ぎ、確実に屠っている。
穴はないのか、と思いきや、しかしそんなことはなく、二人組の戦法を何度も思い描く内に、一つの壁にぶち当たった。
「これ、相手も疲れるんだろうけど……やっぱり自分たちが一番疲れるんじゃない?」
必勝法を扱うのはいい。だがそれを扱うのが人間である以上、この疲労という部分から抜け出せないのは、主催者もまた同じなのではと葵は感じた。特に椿の疲労度は相当なものだろう。自分が勝てそうにない場合、泥仕合に持ち込まなければならないのだから。
「だって、六十五戦よ? 相手より先に自分たちが倒れるわよ……」
「一応、何度か休憩は挟んでたみたいだが」
表面上はお色直しってことになっていたな、と思想家は言及する。
「特に僧侶は、女の調子をかなり気遣っている様子だった」
「いやいや、それでも腕とか手首に疲労は溜まるって、あなたも言ってたじゃない……」
「そこだよ。その点が、二人の凄まじいところさ」
傍若無人な彼にしては珍しく二人組を評価しているようだった。
「驚くべきは、あの二人が用いた戦法はどこまでいってもただの戦法で、けっして策略なんかじゃないってところだ。奇抜なやり方ではあるが奇策って程考えられたものでもないし、自分たちの疲労を軽減してくれるようなものでもない。当然、不正も皆無だ」
疲労の面に関しては、軽減どころかむしろ助長させてしまっている。椿は泥仕合に持ち込む分、普通に闘う以上の疲労を溜めることになるし、僧侶も僧侶で速攻に全力を注がなければならない。そうなってくると二人とも、下手をすれば挑戦者たち以上の疲労感を味わっていたことになる。
「だから巫女さんの言う通り、二人組の方にも疲労は確実にあったんだ。けれども実際は、そんな事実なんてまるで無視したように延々と勝ちを得ていた。これがどういう意味だか分かるか? つまりあいつらは、『戦法』による多大な疲労を抱えたまま、しかしそれでもなお、六十五回もの勝負に勝利し続けていたと――そういうことになるんだよ」
最大の勝因は戦法そのものではなく、その戦法を連続して扱える程の、彼らの異常なまでの『持久性』だった。
そこまで聞いて、思想家が凄まじいと語った意味を、葵はようやく理解した。と同時に、鳥肌が立つ。つまるところ、要するに……。
「じゃあ結局は、単純に、あの二人の実力によるものだったって……ことなの……?」
「そう、戦法はあくまで戦法。最初から正々堂々、己の肉体のみでしか闘ってない」
唖然とする。
ここまで理詰めで説明されて、まさか最後のオチが『単に二人が凄かったから』だったなんて、これはいよいよもって開いた口が塞がらない。
いや、それを感じさせる予兆はなんとなくあった。大体、毎回泥仕合に持ち込むだとか、毎回速攻で倒すだとか、普通の人間がそんな戦法を六十五回も繰り返せるはずがないのだ。それこそそんな無茶を可能にするためには、可能にするだけの実力が身に備わっていなければならない。彼らにとってその実力こそが、まさに『持久性』だったということなのだろう。さらにはそこに、僧侶の速攻や椿の技巧も加わるのだろうが――結論としては、彼らは自分たちの持久性に絶対の自信を持っていたからこそ、この戦法を選ぶことができたのだ。この戦法は、彼らの実力なくして扱えるものではないということが分かる。
「で? その凄まじい二人の戦法を前に、キミは一体『なにを』したんや?」
これまで静観していた佐伯が核心を突く。
「つまるところ、キミの相手は化物じみた体力を持っとったっちゅうことや。でもキミはそんな連中に勝ったんやで。もうそろそろ説明してくれてもええやろ」
佐伯徳助は思想家の顔から目を逸らさない。しかしなおも視線の先の人物は、怯まず臆さず浮世離れした雰囲気を醸し出したまま、要望に応える。
「あいつらの戦法を打ち崩すのは簡単だよ。闘う順序を入れ替えてやればいいんだ。つまり、僧侶を先にして、女を後にすればいい」
その順序で初戦の僧侶さえ降せれば、勝負はほぼ勝ったも同然だと思想家は言い切った。が、葵はいまいち理由がはっきりしない。どういう意味だろうと頭を悩ませている内に、彼がその理由を明らかなものとし始めた。
「大体からしてあの戦法はな、順序が守られていなければ殆ど成立しないんだよ。女が疲弊させて僧侶が決める。この一連の流れが守られて初めて、効力を発揮するものだからな」
女の次に僧侶がくる、この形式が絶対。逆に言えば、この形式を壊してしまうだけで、二人組の戦法は簡単に瓦解する。
「順序が変われば、女の力を借りることができない。効力は半減し、僧侶はまともな状態の相手と、『まともに闘わなければならなくなる』」
「なら今度は反対に、坊さんの方が粘って長引かせて、べっぴんさんに決めてもらうっちゅう方法を取ればええんやないか?」
「そいつは無理だ。たとえ僧侶が粘ったとしても、次点の女に決定力が無い。女は粘ることにこそ特化してるが、相手を打ち倒す程の膂力は持っていないんだよ」
粘るための力と、相手を倒すための力は別物なのだと、思想家は述べる。
「だから僧侶は先になった時点で、これまで以上に素早く確実に仕留めようと躍起になる。何故なら挑戦者は今までとは違って万全な状態である上に、仮にも自分が負けてしまえば後は女次第になるからだ。とすれば分が悪い」
順序を入れ替えるだけで、ここまで内容が変わってしまうものなのかと葵は思う。これまでとは違い、僧侶の余裕がなくなってしまっている。
「僧侶は自分の実力を疑いこそしないものの、知らず知らずの内に焦るだろう。そうすればあの思い切りの良さも自然と封じ込められる。あとはその隙を――」
突くだけだ、と思想家はさも簡単そうに言い放った。
葵はうーんと唸ってから、そこへ被せるように、
「……でも不思議じゃない? 順序の入れ替えだなんて、あなたじゃなくたって誰かがやりそうなものでしょ? だったらどうして最初から、順序を固定しなかったんだろう……」
あらかじめ腕相撲の『決まり事』に、『闘う順番は必ず女が先で、次を僧侶とする』の一言でもあれば、自分たちに不利な状況はそもそも訪れなかったはずだ。なのに何故あの二人組は、たったそれだけのことを定めなかったのだろうか。
「理由としては大きく三つある。一つ目、それでも勝つ自信があったから。二つ目、下手に順序の固定を口にしてしまうと、怪しまれる恐れがあったから」
一つ目の自信云々に関しては本人たちに直接訊いてみなければ分からないが、二つ目については素直になるほど、と感心する。決まり事について説明するごとに、順序の固定についてを口にしていれば、もしかしたらそこに必勝の秘密があるのではないかと、挑戦者や観客たちに不審を抱かせてしまうかもしれない。
では、三つ目は?
「三つ目は、そもそも定める必要がなかったからだ」
「どういうこと?」
「決まり事を定めていなかったとしても、どうせ挑戦者たちは女を初戦の相手に選ぶ」
「どうしてよ」
「挑戦者には野郎しかいないからだよ。女と僧侶の二択なら、そりゃあ僧侶より女を選ぶさ。下手に僧侶と先に闘って負けでもしたらそこで終わりだし、だったらせめて女と確実に一戦交えたいってハラになるだろ? 美女の手を握りたいと思わない男はいない」
「…………」
――男って、最低。
葵はじとっとした目付きで、そう吐き捨てた。
「なんにせよ、二人組は客層までちゃんと熟知したってことだ。腕相撲に参加する奴なんてのは基本、力自慢の男ばかりってことをよく分かってた。男の性質を推し量った上手いやり方だと思うよ。まあこれも、女がいないと使えない手だけどな」
やはりここでも、椿の重要性は揺るぎないようだった。同時に、会場における椿の人気沸騰ぶりに納得がいった。本当に、残念な説得力だと思う。
所詮色気か、色気なのか。
男ってけだものよね、そういうことしか頭にないのかしら、と葵が物憂げに毒を吐いたところで、佐伯がふっと笑みを零す。
「いやいやまだや。肝心なところがまだ聞けてへん」
これまでの佐伯徳助の印象とはまた違って、それはさながら蟒蛇が天敵の大鷲を睨みつけるようときのような、酷く鋭い瞳だった。
彼が何故そんな目をしているのかは定かではないが、葵は思わずごくりと生唾を呑み込む。
「というかシソウカくんはまだ、ボクの質問に答えてへんやろ。これまでのは単に二人組の戦法と、それに対する対策法を語ってくれただけや。けどそれもあくまで対策法であって、キミが必ず勝てた理由にはならん」
まるで挑発するかのような物言いだが、思想家は一切動じない。
「第一キミが順序を入れ替えてべっぴんさんを後にして坊さんを先にしたところで、坊さんが滅法強いことには変わりがあらへんやろ。けどキミはいとも容易く潰してみせた。それも一瞬でな」
「…………」
「ボクが最初から一貫して聞きたかったところはそこやねん。キミは明らかに勝負の前から絶対的な勝利を確信しとった。あれは相手の戦法を知っていたから、その対策法が分かっていたから――だけではないんやろ?」
佐伯徳助は繰り返す。
「キミは一体『なにを』したんや?」
蒸し返すような佐伯の問いに、思想家はしばらく押し黙った。良くも悪くも(基本的に悪いが)、即断即決即実行的な彼にしては、珍しく長い空白だったと思う。葵はなにを口出しできるわけでもなく、ただただ彼の回答を待った。
その間、考える。
思想家が僧侶を降した瞬間。この刹那の時間を、葵は目に捉えることはできなかった。途轍もない轟音とともに、気が付けば僧侶は砕け散った木片の中に呻き伏していたのである。これについては佐伯もまったく同じ感想だった。どころか下手をすれば、会場の誰一人としてその瞬間を目にしていないのかもしれない。
対戦相手の、僧侶でさえも認識できなかったかもしれない。それ程までに速く、力強い決着だった。
ゆえに疑問は解消されない。
あれもまたなにかの対策法による結果だったのだろうか? しかしどうにも、あの僧侶を倒した瞬間だけは、戦法に対する対策法とは別の『なにか』だったのではないかと思えてならない。
思案するも答えは見つからず。
そのときだった。
「『強弱両極論』」
静かに、たった一言。
――キョウジャク、リョウキョクロン?
なにかの呪文だろうかとさえ思うその単語に、葵は眉をひそめる。佐伯徳助もまた、馴染みのない言葉に目を細めた。
「あれは強弱両極論という、一つの思想によって生まれた結果だ」
思想、と紡がれて、葵は僅かに身を乗り出す。
「キョウジャクリョウキョクロン……」
他方、佐伯徳助はその単語を呟きながら顎に手をあてて熟考していた。が、さっぱりといった様子だ。
「それは一体、どういうものなんや?」
だから佐伯がこのように投げかけるのもまた、当然の帰着だったと言えよう。特にこのキョウジャクリョウキョクロンなるものについては葵も初めて耳にする。だから同様に知りたくなった。『それ』は一体どういうものなのか、と。
二名に注目され、思想家は淡々と、先程の腕相撲のときと同様に解説へと入り始める。
「自分が持ちうる思想だよ。唯一無二の」
「シソウ、ね……ボクはそもそも、そのシソウっちゅうもんがよう分かっとらへんねんけどな――」
「そういやあんたには、思想のことについて詳しく話していなかったな」
巫女さんには少しだけ説明したが、とこちらを見てくるも、葵は伏し目がちだった。確かに説明こそされたが、その本質を掴めているのかと問われれば正直怪しい。というか、話の内容自体もう忘れてしまった。
そんな葵の心境をなんとなく察したのか、思想家は「まあいいや。知らない奴もいることだし、おさらいも兼ねて」とぼりぼりと髪を掻きながら告げた。
「思想とは、物事に対する独自の考え方のことだ。そして思想家とは、自分がこうだと思った思想を突き詰めたり啓蒙したりする者のことを指す」
「……要は主義主張のことかいな。自分はこう思っとる、こういうヤツや、みたいな」
「そんなところだな」
「なるほど。で、シソウカはそれを持ち、突き詰める者、か……」
たったそれだけで、佐伯はあっさりとあらましを理解したようだった。元より利発そうな雰囲気を漂わせているが、やはり見かけ倒しではないらしい。なんとなくしか理解していなかった自分のときとは大違いだなと葵は思うも、今回でようやく本質を掴めたような気がした。
簡潔に言えば、『自分が思っていること』なのだ。その日常的に世の中に対して『思っていること』が、つまるところ思想であるらしい。
「しかし分からんなァ……それがあの腕相撲の結果にどう結び付くんや? ただの考え方やろ?」
「その通り。思想は本来、個人の思考の在り方に過ぎない。持っていたところでなにかをもたらしてくれるようなものでもない。本来ならな。けど自分は生まれながらにして、ある特異体質を持っていた」
「特異体質?」
「心に思っていることが本当になるんだ――なにかしらの思想を掲げた場合、その思想が自身の体を通して、現実に影響を及ぼす」
たまらず葵は訊ねた。
「どういうこと……?」
「たとえば『自分はこの世の誰よりも強い』と思い込めば、本当に強くなれるってことさ。逆もまた然り。『自分はこの世の誰よりも弱い』と想い込めば、その通り本当に弱くなれる」
「…………!?」
驚愕に、目を見開く。
「強弱両極論は、まさにそれに近いやり方でつくった代物でな。こいつは自分の実力を、常に『強さ』か『弱さ』かの両極端に定める思想なんだ」
「常にってことは……今もなの?」
「ああ、今は『強』の状態だ。『強』になると、どんな存在よりも強くなれる。相手がどれだけの力自慢だろうが、策を練ってこようが、化け物だろうが関係ない。勝負においては、まず絶対に負けることはないだろう」
「じゃあ今回のは……」
「強弱両極論の『強』の力を利用したんだ。だから戦法云々を抜きにしても最初から勝てるだけの自信があったし、積極的に勝負に挑んだんだよ」
俄かには信じ難い話だった。信じろと言う方が無茶な話である。こんな与太話、本気で言っているのだとしたら気が触れているとしか思えない。思っただけで、想っただけで、それが現実になる? そんな不可思議有り得るわけがない。
――正直現実味がない、けど……。
けれども葵はすでに見てしまっている。僧侶との一戦を、脳裏に焼き付けてしまっている。その所為か、安易に否定するという選択肢は自然と遠のいていった。
それに、どこか得心のいく部分もあった。初めて出会ったときから感じていた、思想家の得体の知れなさ――その正体がこれだったのだ。この思想が、この特異体質が、この思想家を異質な存在たらしめていた――そう思えば思う程、気持ち悪いぐらいにその不可思議を受け入れられるような気がしてならない。
――やっぱりこの人、普通じゃなかったんだ。
内に抱いた感想は、実に素直なものだった。
――キョウジャクリョウキョクロン、きょうじゃく、強弱かぁ……。
「弱くもなれるのよね」
「正確には『なってしまう』だがな。『弱』の状態になるとどんな存在よりも弱くなる。ちなみに昼前に巫女さんと再会したときは『弱』の状態だった」
「それって、行き倒れてたときの……」
「というか『弱』の状態になったから、行き倒れちまったんだけどな」
なるほど、合点がいった。確かにあのときの思想家は、異様な程元気がなかった。空の竹籠を背負っていたときもどこかフラフラとしていたし、そこに食材を積んでからは歩くのさえままならなかった。単に空腹だからだと思っていたが(もちろんそれも要因の一つだろうが)、根本的に肉体そのものが弱体化していたらしい。
しかし、昼前が『弱』の状態であったのなら、一体いつ『強』の状態に切り替わったのだろう。腕相撲に挑むときにはすでに『強』だったことは確かだが。
「強弱は半日ごとに強制的に切り替わる。『弱』から『強』になったのは、太陽が真上にあったときだ」
つまり、この春鶯に入ったときか。
「あのときにはもう切り替わってたんだ……」
いや、そうか。だからあのとき、時間が経つごとに思想家の調子が良くなっていったのか。振り返ってみれば、この強弱両極論に思い当たる節がいくつもある。賽銭箱を破壊されたときも、おそらく彼は『強』の状態だったのだろう。そうでなければ素手なんかで桟を握り潰せるわけがない。百七人分の蕎麦や定食を食べ切ったのも、暗にこの思想が関係していたのかもしれない。
「基本的に『強』の次は『弱』、『弱』の次は『強』って具合に変動するんだが……たまにどちらか一方が長く続くこともあってな。自分でつくっておいてなんだが、面倒な力だよ」
聴けば聴く程、化外の力だ。一体どういう原理でそんな不可思議が、それも思想家においてのみはたらいているのか――まるっきりわけが分からない。
「……最後にもう一つだけ訊いてもええか」
しばらく黙りこくっていた佐伯がここで、口の端に咥えた煙管を傾けつつ訊ねた。
「キミ、あの坊さんと闘うときに、指開いたまましっかり組み合わんかったり、右腕でやろうとしてたんをわざわざ左腕に変えたり、なんやいろいろしとったやろ。あれはどんな意味があったんや?」
「ああ、あれは勝敗には直接関係ないよ。指を開いたままだったのは、勝負が始まる前に相手の指を握り潰さないようにするためだ。『強』の状態だと、力の加減が一切できないからな」
「左腕に変えたんは?」
「あの僧侶への配慮だよ。利き手を潰されたんじゃ生活に支障が出るだろう。だから相手の利き手とは逆の腕で勝負したんだ。仮に女とも闘っていたら、同じことをしていただろうな」
「よう分からん気遣いやな」
「それだけあの二人組のやり口は賞賛に値するものだったからな。かと言って、手を抜くことはできなかったし、したくなかった。落としどころとしてはあれが精一杯だったよ」
今の科白ではっきりしたが、やはり思想家はあの二人組を高く評価していたらしい。もしかしたら、葵や佐伯の及びもつかないなにかを、あの二人組の背後に視ていたのかもしれない。
なんの根拠もないが、ただただそんな風に物思いにふけっていると、ぷっ、と噴き出した。そして大げさにも腹を抱えて大笑いに及ぶ。
「ひゃっひゃっひゃっひゃっ! あれだけやっといて『落としどころ』やなんて――いやはや恐れ入ったわ、シソウカくん。生まれてこの方二十八年、それでも世の中の大半は知ったような気になっとった。けれどもまだまだわけの分からんことは往々にしてあるもんなんやなァ……ええ気つけになったわ」
「わけが分からなくて悪かったな」
「いやいや……別に貶しとるわけとちゃうねん。ただボクは、シソウカくんが勝つとはこれっぽっちも思っとらへんかったんや。腕相撲に参加することを勧めたんも、キミらになにかを見出していたからでもなんでもあらへん。ちょっと唆しただけのつもりやった。まァ、自分の店への支払いがツケられとることを知ったときは、勝って欲しいという気持ちも芽生えたけどなァ」
「…………」
「やけど、まさかほんまに勝つとは思わんかった。せやから誤解せんといてや。要は三十五文払って観ただけの価値はあったなァと、そう言っとるんやさかい――」
佐伯徳助はそう締め括ると、静かに煙管を口から離した。
ともあれ思想家がとっていた一連の行動の理由については、これで補完された。
僧侶と女の戦法、六十五戦もの勝負における必勝の秘密。
だが今回語られた話の中で一番強烈だったものは、それすらも歯牙にかけなかった彼の思想だ。
思ったことを――想ったことを現実に反映できるという特異体質。それに伴う、両極端な強さと弱さ。
――この人は一体、何者なんだろう。
全ての謎が氷解したようで、しかし実のところなに一つとして解けたものなどなかったのではないだろうか。
少なくとも葵はこのとき、そう感じたのだった。
それからまたしばらく話し込んだのち、葵はそろそろ帰路に就かなければならないことを佐伯徳助に告げた。
大荷物が敷き詰められた竹籠を軽々と背負い、新たに中身の減った賞金袋を両腕に抱えた思想家を連れ、葵は店の外へ出る。その後に、佐伯とお冬が続いた。
どれだけ話していたのだろう。通りに人の姿は数える程しかない。
いつの間にか日も沈みかけている。
「まだ明るいとは言え、直に暗ぁなるやろう。お冬さん、灯り」
「はい。すでにこちらに」
火の灯った提灯を一つ、お冬は両手に提げていた。
「さすがはお冬さん。準備万端やな」
佐伯徳助は提灯を受け取ると、葵の前に差し出した。
「ほれ、葵ちゃん。一つ持っていき」
「え、でも……」
「灯りがあって悪いことなんか一つもあらへん。ええから持っていき」
半ば押し付けられるように渡された提灯のつるをそっと掴む。ぼんやりと照らされた足元を見ながら、葵は自身の指先にほんの僅かな熱を感じた。
佐伯たちの心遣いが温かい。じんわりとした感覚が、葵の胸中を席巻する。
「ありがとうございます。佐伯さん」
「礼なら点けてくれたお冬さんに言いや」
佐伯にしたように深く頭を下げると、お冬は静かに「どういたしまして」と、凛とした声で返した。
「そう言えば、葵ちゃんはどこに住んどるんや。ここからは近いんか?」
「えっと、ここからは少し離れたところにある三原稲荷って言う神社です」
「神社?」
「はい。実はわたし、その神社の巫女をやってまして……」
三原稲荷神社における、ただ一人の巫女。この肩書きは、葵という一人の少女を表す上で絶対に欠かせない部分である。もっとも巫女らしいことと言えば、まだ境内の掃き掃除ぐらいしかまともにしていないが。
「なるほど。シソウカくんが巫女さん巫女さん言うとったんはそういうことか……三原稲荷神社なァ……憶えとくわ」
「よかったらぜひ参拝しに来てください」
「そこについてはお互い様や。またウチの蕎麦をよろしゅうな」
「はいっ」
佐伯徳助とお冬に見送られたあと、葵と思想家は城下町を離れて、山中にある三原稲荷神社への帰路に就く。町から離れれば離れる程、当然のことながら人気は少なくなっていった。
帰路の道中、周囲に田んぼが続くあぜ道にて。葵は自分よりほんの少しだけ後ろを歩いている思想家の気配を感じながら、独り言のように呟いた。
「散々な一日だったけれど……でも、よかったかも。佐伯さんたちにも会えたし」
右手に提げた灯火に、あの二人の優しさが残っている。
――二人とも、とても良い人達だった。
その言葉を拾った思想家が、やや遅れて葵に意見する。
「売り子はともかく……店主はそう簡単に信用しない方がいいぞ」
え、と思想家の言い方に疑念を持って葵は立ち止まり、そして振り返った。思想家も同様に歩みを止めてその場に留まる。相変わらずその表情は分かり辛いが、普段よりなんとなく厳しい顔をしているような印象を受けた。
「信用しない方がいいって……佐伯さんを? どうしてよ?」
「だって胡散臭いだろ、あの店主」
一体、どの口が言うのか。
「…………わたしにしてみれば、あなたの方がよっぽど胡散臭いと思うけどね」
「それはないなあ」
彼は棒読みで言い切った。
「あ、り、ま、すっ!」
葵は語気を荒げたのち、ふん、とそっぽを向いて再び歩を進める。思想家もその後に続いた。
佐伯徳助が纏う雰囲気にも独特なものはある。女には軽薄でからかい癖もあり、どこか道化者のような立ち回りを演じているような気がしないでもない。葵も初めて佐伯と顔を突き合わせたときは、彼の言動を不審に感じていたものだ。だから佐伯を胡散臭いと思う心は、けっして間違いではないだろう。だが佐伯のそれなどまだまだお茶目で済む程度の範囲だ。大体、葵は数々の温情を掛けてもらった身の上である。出会ったときならいざ知らず、今の状態で佐伯に対して悪印象など抱けるはずもない。
思想家の持つ傍若無人さ、身勝手さ、そして摩訶不思議ぶりの方がよっぽど胡散臭い。
特に、思想の件に関しては。
「……最初はあれだけ理屈っぽく解説してたくせに。最後の最後になによあれ。そんなわけの分からない力を使ってたとは思いもしなかったわ……!」
「ああ、思想のことを言ってるのか。いいじゃないか、それも含めての実力だ」
「だとしても殆ど反則みたいなものじゃない。そんな便利な力――」
「便利なんかじゃないよ」
葵の後に続きつつ、思想家は明確に否定した。
「尋常ならざる思いや想いを核とした思想は、一度つくってしまえばなかったことにはできない。けっして消えることはないし、消すこともできない。所有者は永遠に、自分が持つ思想の影響をその身に受け続ける」
「じゃあ、あなたは……」
「これから先も、ずっと強くなったり弱くなったりの日々だろうな。強弱両極論は常に発動している思想だから、余計にそうなるんだろう」
永遠、という単語に葵は驚くも、歩きながら反論の構えを見せた。
「でも強いときならなにも問題はないんじゃない?」
「そうはいかない。あんたも目にしただろう。『強』のときは自分の力があまりにも強くなり過ぎてしまう。勝負ごとでは必ずと言っていい程勝てるが、一切加減はできない。必要以上の損傷を相手に与えてしまうんだ」
「加減、ねぇ……」
「それこそこうして一歩一歩足を踏み出すのだって、実は相当な技を用いている。じゃないと地面を踏むごとに地割れが起こるからな」
「いやいやさすがにそれは――」
「やって見せようか?」
「…………やめて」
おそらくは本当にそうなってしまうのだろう。葵は本能的に察した。
察して、しまった。
――仕合を観ていなかったら、また違ったんだろうけど……。
しかしながらあの壮絶な決着を一度目にしてしまっている以上、安易にハッタリだと決めつけることもできない。
「じゃあ『弱』のときなら……」
「『弱』の状態ではあまりにも弱くなり過ぎてしまって、まともに立つことさえままならなくなる。常にふらふらだ。弱過ぎて、勝負ごとにも必ず負けちまうしな」
「……なんか思ってたよりも面倒なものなのね。あなたの力って」
あまりにも行き過ぎた強靭さと脆弱さ。便利な力のように思えたそれらは、どうやら葵が考えていた以上に制御も融通も利かない代物らしい。偏りの極致とでも言うべきだろうか。やはり思想家の得体の知れなさは、そこから来るものであったようだ。
――過ぎたるはなお及ばざるが如し。
そう間に挟むように呟いたあと、思想家は。
「本当はここまで望んじゃいなかった。程々でよかったんだ。ここまで両極端なものになるなんて想像もつかなかった」
しかし一度つくってしまったものはもう二度と消せないのだと、繰り返す。
「けど消すことはできなくとも、変えることはできる。考え方が変われば思想もまた変異するんだ。自分の頭の中にある凝り固まった固定観念を変えられれば、あるいは……」
「思想を変えるってそんなに難しいことなの?」
「難しいな。自分が取り扱う思想は、ただ思うだけでは生まれない。それが世界の真実だと心の底から一切疑わず、他者の価値観を押しのけてでも断言できる程にまで思い込み、追い込んで、ようやく発現するものだ。変えるのは容易じゃない」
それでも、と彼は繋ぐ。
「変えたいんだ。両極端じゃない、行き過ぎることのない強と弱。強弱に折り合いをつけた――」
声に明らかな力が篭る。
「中間の状態に」
行き過ぎた力をその身に宿した男は、どこか哀しげだった。
中間。
それこそが、この思想家の目指す境地なのだろうか。
「……正直わたしには想像がつかないけどさ。自分を変えたいって思う心は、きっと悪いものじゃないわ。誰だってそういうものだと思う。だから――」
葵は足元を照らす仄かな灯りに目を向けつつ言った。
「……なれるといいわね? いつの日か、あなたが目指す、あなただけのものに」
茜色のあぜ道も終わりに近づき、いよいよ神社に続く一本道へと差しかかる。
ちょっとした買い物のつもりが、まさかこうも波乱を呼ぶことになるとは思いもしなかったが、そんな一日にもようやく終止符が打てそうだ。
終止符、か。
――そう言えば……まだ満足に訊いていなかったことがあったっけ。
この刻限に至ってまで葵の脳内に引っかかっていたのは、先の腕相撲賭け勝負において、思想家があまりにも躊躇なく勝負に挑んだこと。まさしくその理由そのものについてであった。
葵が詰問した際、かの思想家は、全て『気まぐれ』なのだと答えた。自らが勝負に挑む理由など有って無いようなものなのだと。その『気まぐれ』が、多額の蕎麦代に喘いでいた葵を救うことになるのだと。
結末としては、それはその通りになった。賭けに勝ち、資金を得たことで蕎麦代は無事に支払われ、葵は危機を脱した。その危機も、元を糺せば思想家が原因ではあるが、それについてはこれ以上掘り下げたところで意味はない。何故なら結局は、思想家の手によって熾された火種は、無事(葵的には無事だったと言えないが)本人の手によって鎮火されてしまったからである。巻き込まれた点については癪だが、しかしながらこれは認めざるを得ないことだ。
だが葵はこの『気まぐれ』という言葉だけは、どうしても素通りさせたくなかった。葵に許容外の蕎麦代を負担させてしまったことに対し、思想家が罪悪感を感じたから賭けへ挑んだと言うのであれば、特別疑問に思うことはなかった。動機としては明確で筋が通っているからだ。
けれども彼は、気まぐれだと言った。動機を問うた葵に対して、そんなものは有って無いようなものだと一蹴した。
何故かは分からない。しかし自分でも驚く程に、そんな風に言われたことが気に食わなかったらしい。
山道に入りかけたところで葵はぴたりと再度立ち止まった。先程よりも急な制止に、思想家は歩幅を見誤ったのか、三、四歩分、葵より前方へと進み出たところで同様に止まる。今度は思想家が振り返る形となった。次いで「ねぇ、思想家さん」と呼び付ける。
「佐伯さんじゃないけどさ。最後に訊いていい?」
「なにを訊くつもりなのかは知らないが、別に構わないよ」
思想家が応じた瞬間、葵はすぐさま言葉を切り出した。
「どうしてあなたは……あのとき勝負に挑んだの?」
「なにを言うかと思えば……だから言っただろう。理由なんて有って無いようなものだって。ただの気まぐれだよ」
まったく同じ科白を繰り返す思想家。
それでも葵は追及を止めない。
「本当に? 本当にそれだけなの? 他に理由は、ないの……?」
「他ってなんだ」
「たとえばわたしに負い目を感じていたからだとか……」
賞金を渡されたとき、真っ先にそれをされた理由を考えた。なにか意味があるのではないか、もしくは裏があるのではないのかと。
理由がなければ人は動かない。
それが世の常なのだと、葵は信じ切っている。言うなればそれが、葵における思想だった。
「んー……まあ、あんたには諸々の件で迷惑かけたとは思っちゃいる。賞金を渡したことについてはそれがあったからで間違いはない。でもわざわざそれのために腕相撲へ挑んだわけじゃないよ。やっぱりただの気まぐれだ」
「どうして……分からない……」
「分からないのはこっちの方だ。あんたこそ、なんでそんな些細なことにこだわるんだよ」
「それは……」
分からない、それすらも。
自分が思想家のなにを気に食わないのか。一体なにに、もどかしく感じているのか。
しかしそれを考える前に――。
葵の視界は大きく揺さぶられた。
「あっ……!?」
突如、喉元を絞められるような圧迫感とともに、後方へと引きずられる。佐伯から渡された提灯が手から滑り落ち、丁度思想家と葵の間にぐしゃりと潰れた。
一瞬だけ離れた足が再び地に着いたことを感じ取り、葵は反射的に閉じてしまった目を恐る恐る開く。やがて自分を襲う圧迫感の正体を目にしたとき、耳元で。
「そのカネは、本来オレが手に入れるはずのものだったんだ……」
と、囁かれた。
聞き覚えのある声だ。けれどもそれは葵に対して向けられたものではなかった。
その悪意は。
「賞金を、寄こせ」
明らかに、眼前の思想家へと向けられたものだった。
倒れた蝋燭の火が障子紙に移り、提灯は地面の上で小さく燃え広がった。
――この人、六十四番目の!
今の葵では満足に確かめることは難しかったが、それでも僅かに頭を逸らして、自分を襲う脅威の主を瞳に捉えた。
下から顔を見据えた形となったが、思想家の言に違わず、その主はまさしく昼間の腕相撲賭け勝負にて主催者側に敗北した六十四番目の挑戦者。筋肉達磨と貶されていた、あの男だった。
上半身の盛り上がりが凄まじく。丸太のような両腕を持つ巨漢の男。
どうやら自分は、その筋骨たくましい左の前腕で喉を押さえられつつ、手元に引き寄せられているらしい。自分の置かれた状況を把握した葵は、懸命にもがいて抵抗した。
「このアマっ、おとなしくしやがれ!」
「ッ……!」
失敗だった。さらに喉元を絞められ、悶絶する。
――苦……しい……。
「おいッ、そこから一歩たりとも近付くんじゃねぇぞ髭面ぁっ! この女はカネと交換だ! てめえが持ってるんだろう!? あぁ!?」
巨漢は唾を飛ばして叫ぶ。
「確かに賞金はあるよ。この中に」
どかっ、と思想家は背中に背負った竹籠を地に降ろし、その中に賞金が詰められた大袋があることを指し示す。
荒々しさを前にしても、やはり思想家は臆することなくいつもの調子で臨んでいるようだ。
それどころか。
「しかし驚いた。まさか後を付けられてたとは思いもよらなかった。あんた力技よりも忍ぶ方が向いてるんじゃないか」
「だ、黙れ」
まだ相手を挑発できるような余裕さえあるらしい。
「こんな町中から外れた場所でようやく姿を現したってことは――余程、人には見られたくなかったらしい。そんな巨体でこそことご苦労なこった。その上、人質ときたもんだ。お里が知れるな」
「黙りやがれぇぇぇッ!」
激昂した巨漢は空いた右腕を、力任せに近くにあった一本の樹木に打ち付けた。軋むような破壊音とともに、近辺の鳥がぎゃあぎゃあと鳴いて飛び立ってゆく。
けっして、脆い類の樹木ではなかったはずだ。しかしながらそれは、打たれた箇所からみしみしと小気味の良い音を発し、やがては幹の真ん中から上半分が折れ、葉と葉を擦れ合せながら倒れた。
刻下、自由を奪われている身である葵は、自分の眼前に倒れ込んだ樹木を目にして、「ひっ……!」と慄いた。見かけ倒しではない。この巨漢の力は伊達ではないのだと、脳に刷り込まされる思いだった。
鼻息を荒くする巨漢は、わなわなとその巨体を震わせながら喰ってかかる。
「あんな決着……オレは認めねぇ……! 認めねぇぞ! てめえみたいなひょろい体躯で、あの生臭坊主を倒せるわけがねぇ!」
このオレでさえも勝てなかったのに、と後に続くようだった。
「なにかしらの裏があったに決まってる! いや、絶対にそうだ……! てめえはあらかじめ、あの勝負に一枚噛んでやがったんだ! 元々あの主催者側とグルだったんだろッ!? そうに違いねぇ!」
「と。自分に言い聞かせるも、人質は取らずにいられないし、そうやって間合いを外さずにはいられない。言ってることとやってることが随分と違うな」
「うるせぇッ! 黙れ黙れ黙れ――!」
葵を捕える腕により力が込められた。喉元がこれまで以上に絞まって、葵は遂に呻き声さえも上げられなくなる。目じりに自然と、涙が溜まった。
「つべこべ言わずにさっさと言う通りにしやがれ! こいつがどうなってもいいのか!?」
「その人がどうなろうが、こっちとしては別にどうでも……」
なにを言い出すんだ!? という目で葵は思想家を睨みつける。その精一杯の怒気が届いたのか、「……やっぱりどうでもよくはないか。酷く恨まれそうだ」と考えを改めたようだった。
「よくよく考えてみれば、まだこの荷物を運び終えていないしな。おい、あんた」
「あぁ!?」
「賞金を渡せば、人質は返してくれるんだろうな?」
「まずはカネだ。カネを寄こせ」
思想家は竹籠の中から賞金の大袋をむんずと掴んで引っ張り出すと、体の前に掲げた。「そこから投げろ」と巨漢が命令し、その通りに従う。放り投げられた大袋は僅かばかりの弧線を描いたのち、相手の足元へと落ちる。巨漢はすかさずそれに近付くと、口を縛っていた紐を器用にも空いた右手一本で解き、中を確認し始めた。
辺りが暗くなってきた所為だろうか。それとも元よりこの場所が、山林の生い茂る日向の限られた獣道であるからだろうか。今にも消え入りそうな、潰れた提灯の残り火がやけに明るく輝いて見える。
巨漢が文銭を確認している間も、葵の拘束が緩む気配はない。
――分からない。わたしは、どうすれば……。
目の前で着々と進んで行く事態に、どう対処すればよいのか分からない。
頭の中が真っ白になりそうになる。血の気が引いて、なにも考えられなくなってくる。
――だめ……落ち着かなきゃ……。
弱気にだけはなりたくない。
このままを、最後までなにもしないままを、自分は享受したくない。
一瞬でいい。一瞬でも、この剛腕の力が弱まれば――。
その隙さえ、生まれれば。
「おい、……これはどういうことだ?」
巨漢が眉間にしわを寄せる。
「計算じゃあもっとあるはずだ。三十五文の六十六人分――軽く二千文はあるはずだ――なのにどうしてこれだけしかねぇんだ……?」
「あんたが一体いつから付け回してたのかは知らないが、賞金ならそこにあるので全部だよ」
「くそっ、どこかに隠してやがるな!」
「ならもう少し金の音がするはずだが」
竹籠を揺らして見せる思想家。当然、金の音などしない。するはずもない。
賞金の殆どは『春鶯』で蕎麦代をきちんと支払うことにのみ費やした。巨漢が言うだけの金額はもうない。
「分かるだろう。もう使っちまったんだよ。でもいくらかはまだそこに残ってる。十二分に大金だ。それで我慢してくれ」
「…………」
「さあ、今度はあんたが行動を起こす番だ。さっさとその人を自由にしろ」
そういう話だった。だから賞金を渡した。だからこそ思想家は、賞金を渡してくれたのだ。
しかしその思いは、
「いや、やっぱり駄目だ。女は返さねぇ」
簡単に裏切られる。
「話が違うな。賞金を渡せば人質は返してくれるんじゃなかったのか?」
「満足な分が得られていれば、の話だ。この分じゃあ、満足だとは到底言えねぇなぁ」
巨漢は下卑た笑みを浮かべながら「だからよ」と、葵の頬に自分の顔を近付けた。
「たった今、こいつを売っ払って少しでも足しにしてやろうかと考え付いた。まだまだガキ臭さが抜けてねぇが、しかし見た目は悪かねぇ」
顔を背けようとするも、男の腕がそれを許さない。
「むしろそそるってなもんだ。それこそカネにする前に一発遊んでやるぐらいにはなぁ――」
そう言って、べろりと舌なめずりする。
葵には恐怖しかなかった。
男に対する根源的な恐怖。いや、この場合は本能に忠実なけだものに対する恐怖と言うべきだろうか。普段は強気に振る舞う葵も、このときばかりは勝手が違った。
――いやっ、ぁ……!
葵の心は、すでに嫌悪で埋め尽くされている。しかし声が出ない。最初のときのように、全身で強く振り払えない。恐怖に駆られ、いつの間にか葵の体は像のように硬直していたのだ。
――弱気にだけはなりたくないって、そう誓ったばかりなのに……。
耐え切れなくなった葵が行き着いた先は、瞼を閉じることによる一種の逃避だった。そこには一縷の光さえなく、ただただ一面と闇が広がるばかり。
だがそのとき、葵は肌で感じ取った。目を開けずとも、はたまた耳を塞いでいたところで流れ込んできたであろう、実に感覚的なモノを、葵は余すところなく実直に捉えていた。
そのモノとは、すなわち。
「できればこいつは使いたくなかったんだがなあ。仕方ない――」
この巨漢による恐怖などとは比べ物にならない程の。
苛烈にして、悪辣にして、けっして並ぶことなど許さない――、
「今からは、あんたを斃すことだけを考えよう」
行き過ぎた強者だけが持ち得る、絶対的な『強さ』だった。
右足を大きく一歩前に踏み出し、左半身は置き去りにしつつ相手からやや手元を隠すような形で、最後に帯びた刀の鯉口に左手を添える。鯉口は切らず、一方の右腕は脱力してぶらりと宙に垂れ下がっている。
抜刀術。
刀法の中では言わずと知れた、刀を抜くと同時に敵を斬り伏せる妙技である。その特異性から、実戦を想定した剣術とは別の技術として考えられており、中にはその必要性さえも疑問視する声もあれば、反対に『近距離間における刀法の究極形』と評定する声もある。
瞼を開けた葵の視界に飛び込んできたのは、この抜刀術の構えをとった思想家の姿だった。先程の棒立ちの状態とは違い、足幅を前後に大きく開いているためか、足腰を中心とした力強さが感じられる。これが、瞼を塞いでいても吹き付けてきた『強さ』の正体なのだろう。目の当たりにして、余計にひしひしと伝わってくるものがある。
常日頃、そういったものとは無縁な葵でさえもこれなのだ。対峙している巨漢の男が、身震いしないはずがない。
だが巨漢は、さながら己に憑りついた怯えを振り払わんとするが如く、眼前の相手に対して強い言葉を投げかけ始めた。
「へっ、なにをするかと思えば……居合だと? 元武士だろうとは睨んでいたが、いささかおつむが足りねえようだな」
「…………」
「この距離を見やがれ! これが刀の間合いか? 一体どれ程の間がオレとてめえにあると思っていやがる!」
こればかりは巨漢の言う通りである。
おおよそ四間といったところだろうか。この間合いでは、なにをどうしたところで刀が届く範囲ではない。二、三歩分を一気に踏み込んでもまだ、その切っ先さえも掠ることはないだろう。
さらに言えば思想家がとった抜刀術とは、元来奇襲及び被奇襲時の反撃の際に用いる技である。密閉された場所や相手との間が近距離であれば話は違っただろうが、木々が立ち並び、相手との距離も離れたこの現状では、その本分を尽くすことは不可能だ。使うべき場所でもない。
ゆえに虚仮おどしか、と巨漢は詰るのだ。
なにせ巨漢にしてみれば、この距離を保ったまま相手に近付かず、且つ近付かせなければそれでいいのだから。
そして近付かせないだけの材料は手元にある。
「一歩でも近付いてみろ! 女はただじゃ済まさねえ! はったりじゃねえぞ、おい!」
「うっ……!」
そうして、葵はまたも苦しめられる。
思想家も動かない。否、葵を人質にとられている以上、迂闊に動けないのだ。
じりじりと距離が開いていく。その度に賞金を引き摺る巨漢の口角も吊り上がってゆく。
このままだと連れ攫われてしまう。
けれどもどうしようもない。どうすることもできない。現状を変え得るだけの力がない。
――いつもこうだ。いつも、いつも……。
自分の思い描いた通りにいかない。周りに流され、縛られ、振り回され、気が付けばいつも最悪の事態に身を置いてしまっている。
もう、嫌だ。
――……翁っ……!
縋り付きたくなる者の名を心中にて叫ぶ。
殻に閉じ籠る。
心を閉ざす――。
「なぁ、六十四番目の挑戦者。最後に一つ答えてくれよ」
不意に、声を拾った。
「あんたは普段、右と左のどちらで箸を握ってる?」
この状況になんら関係しない質問だった。だが思想家は、その問いに対する返答を無言という形で待ち続ける。
「右だが……それがどうしたってんだ?」
巨漢の男も戸惑う様子こそ見せたが、述べたところでなにが変わるわけでもないと思ったのか、普通に回答した。
「そうか。あんたもあの僧侶と同じ右利きか。でもまあ、あんたの場合は――」
独り納得したように思想家は刀の柄へと手を掛ける。
瞬間。
「利き手を潰したところで、特に問題はなさそうだ」
ぞくり、と葵の背中を悪寒が走った。
巨漢もまた感じたのだろう。左腕で葵を拘束したまま、さらに後方へと飛び退く。
一方思想家は、すでに鞘から刀身を抜きつつあった。
――でも、間合いが――。
今、巨漢が飛び退いたことによって、葵たちと思想家との距離はさらに遠のいた。距離を詰めるのには時間がかかる上に、詰めたところで葵という人質がいる。
「はッ! 刀でも投げようってか!?」
葵の頭の上で巨漢が吠える。
事実、そうでもしなければ切っ先がこちらに届くことはない。
だからこそこの男は、煽りつつも強気で臨んでいるのだろう。相手が本当に飛刀に及んだ際、すぐさま躱せるように。あるいは人質を盾にできるように。
いくら思想家が『強弱両極論』なる化外の力を保有していると言っても、その力が届かなければ意味はない。
視界が揺れる中、葵はそう思っていた。
そう思っていたのだ。
鉄拵えの鞘から抜き放たれた、『それ』を目にするまでは。
「えっ……」
――あれは、かた、な?
一抹の疑心を胸に抱いた、そのとき。
周囲に三度、雷鳴の如き爆音が響き渡った。
「がッ――!?」
「きゃあっ」
突如として巨漢の足がよろめき、その場で膝をついた。右手で持っていた賞金を取り落とすと、葵を捕まえていた左手で右の前腕を強く押さえ始める。やがて押さえつけた腕からは、降り始めの雨のようにぽたりぽたりと粘性のある赤い滴が落ちていく。
血だった。紛れもない、人血だった。
なにが起こったのかまったく分からない。だが葵は唐突に生まれたこの隙を見逃さず、一気に思想家の下へと駆け寄った。あれほど恐怖に苛まれていた全身が、まるで嘘のような韋駄天ぶりだった。
「くっ、くそ――くそォっ!」
巨漢の額にはじわじわと脂汗が滲み始め、顔色は青く、苦痛に呻いている。
「……なんなんだてめぇ! 一体なんなんだよ! それはァ!?」
歯を剥き出しにして吠える巨漢。駆け寄った葵も、恐る恐る『それ』に視線をやった。
思想家が手にしていたのは刀ではない。
鞘から抜き放たれていたのは、鞘の長さとは到底釣り合わない程に短い、黒光りした鉄製と思しき細い筒だった。その全体像に刃の要素は欠片もない。いや、持ちどころまでは確かに刀の柄巻だ。しかし鍔元から先、つまり本来ならば刀身にあたるべき部分が、丸ごとその筒にすり替わっているのだ。
片手でも扱えそうな筒の先には穴が空いており、そこからは小さく煙が立ち昇っている。
「見ての通り、鉄砲だよ。刀と見せかけた『仕込み鉄砲』だ」
――鉄砲!? これが!?
鉄砲。
戦国の乱世、この日本に流れ着いた異人たちによりもたらされたもので、のちに戦の場でも多大なる性能ぶりを発揮し、戦略の幅を二重にも三重にも広げたと言われる、弓矢に次いで生まれた、遠距離からでも敵を殺傷たらしめる火器だ。
間近で本物を目にしたのはこれが初めてだったが、おおよそどのような武器であるのか、ということぐらいなら周知のものとしてすでに知り得ている。
だが葵がこれまで人づてに聞き及んできた鉄砲と、思想家が扱うこの鉄砲の外観がまるで重ならない。刀と見せかけた鉄砲だなんて、暗器そのものではないか。明らかに正規のものではない。
それに従来の鉄砲は弾込めから発射に至るまでに中々の時間を要するもので、一発撃つのでさえいちいち手間を掛けなければならない代物だと聞く。そのため速射連射は難しいのだとも。
しかし銃声は確かに三回――それも連続して聞こえたものだった。
「こいつの弾丸の最大装填数は一度に四発。それも『四発まで一気に連続して』撃つこともできる。命中精度はそこそこ。弾込めにも苦労しない優れものだ」
計四発が弾丸の最大装填数。ならばあと一発、あの筒の中に残っているということになる。
仕込み鉄砲を携えた思想家は、一歩、また一歩と痛みにもがく巨漢に近付いていく。
「あ、有り得ねえ……そんなモンが出回ってるわけが――」
「出回っちゃいない。なにせこいつはお手製だからな。世界に一つしかない」
巨漢の前まで辿り着くと、思想家は真っ先に賞金袋を回収した。しかし巨漢はまったく動かない。被弾箇所は右腕だけであるにも関わらず、立ち上がる気配がまるでない。
肉体以前に心が折れてしまっている――そんな状態のようだった。
「ちなみに弾丸も特別製でな。こいつは体内に侵入すると、貫通することなく被弾箇所に留まりやすくなるよう仕上げてある。あんたの場合は筋肉があるからなおさらだろうな。肉が分厚いから、向こう側まで弾丸が突き抜けにくい」
その剛腕が逆に仇となったな、と思想家は続けて、銃口を、蹲る巨漢の頭に突きつけた。
「……! なにをするの!?」
葵がその行動の意味を問う。
「なにをって、止めを刺そうかと」
巨漢の男に対して、なんの感慨もないような口ぶりだった。唯一、冷やかさのみが伝わってくる。
真っ向から批判はしたくなかった。この巨漢の男がやろうとしたことは到底許せるものではない。賞金だけならまだしも、葵自身でさえ危害を被ったのだ。気持ちの上では、葵も穏やかではいられない。
けれど、もう充分だ。もう充分痛めつけた。心も折った。相手はすでに戦意を喪失している。
なにも殺す必要はない。これ以上は――、これ以上はやり過ぎだ。
しかしそれを無視したように、彼は鍔元に光る引き金に指を掛ける。
「やめっ――!?」
反射的に葵は叫ぶ。
が、それには及ばず。
「……と、思ったが」
思想家は自ら鉄砲を遠ざけた。
「なんか気が乗らなくなってきたなあ……」
髪を掻きながら気だるげに告げる。
「…………やっぱりやめた。別段理由はないが、あんたを殺すのはやめる」
そのあまりにも急な心変わりに、殺しを止めようとしていた葵は餌のお預けを喰らった魚のようにぱくぱくと口を開閉させている。
葵だけではない。命を握られていた巨漢の男もまた、唖然としながらその科白を口走った本人へ視線を向けていた。それが真意であるのかどうかを、疑り深く探っているようだ。
けれどもそれらの眼差しなどまるで意に介さず、彼は暢気に言った。
「よかったな。あんた運がいいよ。『強』の状態で止めを刺さなかった敵なんて、そうそういるもんじゃない。誇っていいぞ」
どこか上から目線の物言い。しかしそれだけでは終わらなかった。
ただし、と思想家は言葉の手綱を緩めない。
「見逃すのはこれが最初で最後だ。さすがに次は無い。仏の顔は三度までとはよく言うが、生憎こっちは仏じゃないんでな。このことを機に、もしもまた、今回みたいにちょっかいを出してくるようであれば……」
威嚇とばかりに、仕込み鉄砲を前面へと掲げてみせる。
「そのときはもう関係ない。誰が見てようがどこにいようが、こいつに残った最後の一発が、あんたの脳天をぶち抜くことになるだろう」
黒々とした銃身からは無機質さしか感じられない。なのに葵は直感した。
思想家は、本気だ。
次に巨漢がなにかを仕掛けてくるようなら、躊躇なく、容赦なく、それでいて無感動に、この巨漢の男を殺そうとするだろう。言った通り、誰が見ていようがどこにいようが関係ない。
そして、殺す。それを実現させるだけの力が彼にはある。圧倒的に一方的に相手を屠る、『強弱両極論』の『強』。思想の、力が。
ゆえにこれはハッタリではない。本気で言っている。それが如実に分かってしまう。
葵は、それがたまらなく恐ろしかった。
「分かったらとっとと消えなよ。というか、早く逃げた方がいい。もう少ししたらやっぱり気が変わるかもしれな――」
と、最後まで言い終わる前に、飛び跳ねるようにして巨漢の男は逃げ出した。心を折られても、戦意は失っていても、もしかしたら逃げる隙だけは密かに見繕っていたのかもしれない。そう疑わざるを得ないぐらいに清々しい逃げっぷりだった。
「……なんだ、てっきりもう一度かかってくるもんかと思ってたんだが……本当に逃げちまったな。まさに脱兎の如しだ。あんな図体のくせに兎のようだとはちゃんちゃらおかしいが」
拍子抜けしたように思想家は息を吐き、その途端、葵はその場に崩れ落ちた。
「おい、どうした」
「…………こ、腰が抜けちゃったみたい」
どうやら緊張の糸が根こそぎ切れてしまったらしい。足腰にまったく力が入らない。
「お願い、しばらくこのままで……」
自分でも驚くぐらいに憔悴し切った声だった。思想家はなにも発することなく葵の近くに歩み寄り、立ち尽くす。
程なくして、彼は緩慢な手付きで仕込み鉄砲を鞘に納めた。一度銃身を隠してしまえば、やはり一振りの日本刀にしか見えない。
「それにしてもまさか、鉄砲だなんてね……」
「仕えていた城を抜けるとき、餞別とばかりに手近にあった鉄砲と刀をかっぱらったんだ。で、それらを基にしてこいつをつくった」
先にも述べたように、従来の鉄砲では速射連射は難しい。撃ち手の練度をどれだけ高めたところで、その性質上、弾込めから発射に至るまでの時間にどうしても限界が生じる。ゆえにかつての動乱期の戦場では、常に鉄砲部隊へ多くの人員が割かれていたのだ。
だがこの仕込み鉄砲は違う。一度の最大装填数が四発というのも充分驚きだが、さらに弾丸を間断なく連射できるのだと言うのだから恐ろしい。おまけに鞘から抜かない限り、そもそも鉄砲だとバレない。こんなものが世に出回っていたらそれこそ歴史が様変わりしてしまうだろう。それぐらい、革新的な代物だ。
「こんなのどうやってつくったのよ」
「なんとなく。適当に」
「……そろそろ突っ込む気力もなくなってきた」
もういい。この思想家が出鱈目なのは今に始まったことじゃない。こういうのは諦めが肝心だと葵は心に念じた。
それよりも、と仕込み鉄砲をしり目に、ぽつりと問いを投げる。
「どうなるのかな……あの人」
曲りなりにも撃たれたのだ。急所でこそなかったが、重傷には変わりない。
あの出血量を鑑みるに――、
「まあ、止血が遅れれば血が足りなくなってお陀仏だが……運よく生き延びたとしても、あの右腕はもう満足には振るえないだろうな」
思想家によれば、発射された三発の弾丸は、全て巨漢の右前腕に狙いを付けて撃ち込んだのだそうだ。しかもその弾丸は、彼の説明にもあったように、向こう側まで貫通することなく対象の体内に留まり続け、内部から肉を腐らせていくという効果を高めた特別製らしい。
「あの巨体だ。生命力はあるだろうさ。傷の処置次第じゃ生き延びる未来もある。だが仮に生き延びたとしても、片腕は潰した。『警告』もしてる。余程の馬鹿じゃない限りは、この先復讐なんて行動には及んでこないだろう」
余程の馬鹿じゃない限りは。
この言葉がやけに耳に残るも、そのまま「ねぇ」と佇む男に訊ねる。
「あの人のこと、どうして殺さなかったの?」
「なんだよ。殺して欲しかったのか?」
「そんなわけないでしょ! でも……っ」
途中までは完全に止めを刺す流れだった。引き金に掛けた指を、あとほんの僅かこちらに引くだけで、結果は劇的に変わっていただろう。
なにか殺しては不味い理由が有ったのだろうか。いや、もちろん人が人を殺すことは、たとえどのような理由が有ろうと基本的に不味い。今回は襲われたという経緯があるが、かと言って、おいそれとやっていい行為でないのは大前提だ。
けれども勢いとしては、間違いなくあと一歩というところだった。その一歩を踏み止まった理由が知りたい。必ず理由が有るはずだ。
「どうしてと訊かれても困るな。理由なんて有って無いようなものだ。殺す気がなくなったからとしか言えない」
葵の問い掛けに対する返答は、やはりあっさりとしたものだった。あっさりし過ぎて、かえって納得がいかなくなる程に。
ここで怯みたくはなかった。続けざまに言葉を浴びせる。
「…………じゃあ、わたしを助けたのは? あなたがわたしを助けた理由は――?」
葵は捨てきれなかった。理由がなければ人は動かないという、自分自身が持つ絶対の価値観を。
それに思想家にとってはある意味好機だったはずなのだ。葵が巨漢に捕えられた段階で、彼女を見捨てて逃げ去るという選択肢も存在していたのだから。なのに彼は見捨てなかった。
だからこそ訊ねる。些細なことでも、何度でも、理解ができないから訊ねる。
どうして、と。
「あんたが幾度問おうと、返す言葉は同じだよ。自分にとって、なにかをする理由なんてのはいちいち用意してあるものじゃない。そのときしたいと思ったらするし、したいと想わなかったらしない。すでに着手していた事柄でも、その気が無くなったら途中で止めるし、逆にどうでもいいと考えていたことでも、その気が芽生えれば一転して全力を尽くす――それがこの思想家の在り方だ。賽銭泥棒も荷物運びも腕相撲も、あんたを暴漢から助けたことだって、突き詰めれば自分がそうしたいと思ったからしたまでのこと」
彼はそのように述べた。
返す言葉が同じならば、つまりはこれも。
「……じゃあこれも、『気まぐれ』だって言うの……?」
「そうさ。なんだ。ちゃんと分かってるじゃないか」
思想家は朗らかにそう言ってのけた。一方、葵の背筋には冷汗が這う。
この男は確かに口にした。殺す気がなくなったから殺さなかったのだと。つまるところそれは、あのまま殺す気が持続していたならば殺していたのだとも置き換えられる。人を殺すことでさえ、彼にとっては取るに足らない気分次第の物事なのだ。
全ては気まぐれ。理由など有って無いようなもの。葵もまた、思想家の気まぐれで助けてもらっただけに過ぎなかったのである。そこに特別な動機など欠片もない。あろうはずもない。
本格的にぞっとする。人間性を疑う。いや。
人間ではない、別のなにか。
そこまで思わせる程に、彼はあまりにも両極端だった。思想の件も相まって、よりうすら寒いものを感じる。
しかし何故だろう。そんな存在を前に、葵は眩しくもないのに目を細めていた。不気味だと感じているにも関わらず、怖れているにも関わらず、なのに葵は、思想家の挙動から目を離すことができなかった。
地を焦がしていた提灯の炎は、誰に看取られることもなく、いつの間にか消え失せていた。
【六章】葵と思想家
夜の帳は下りていく。
不動の草木も、樹液に蠢く虫も、木々の合間を羽ばたく野鳥も、悠々と脚を伸ばす獣も、皆が皆、夜を受け止め、その恩恵に与る。闇が満ちゆくその様を邪魔立てする者などいようはずがない。
ところが今夜は違った。調和の取れた奥深き夜の風情に、突如として不協和音が走る。
猛然と草木を掻き分け、ばきばきと枝を踏み鳴らしながら、山肌を転がるように疾走する一つの影。唯一その影だけが、この暗闇を忌々しく睨み付けていた。
――ちっ! ここにきてこの暗がりかッ! 運がねぇ……!
人影は、丸太の如き両の剛腕を持つ巨漢の男だった。上半身はまさに筋肉の塊。そんじょそこらの力自慢ではない。猪とでもまともに渡り合えるのではないかと思ってしまう程に、鍛え上げられた肉体をしていた。
彼はその誇るべき剛腕をもって、自らの障害となる木々の枝葉を粗雑に薙ぎ払う。力任せに、滅多矢鱈に彼が突き進んだ後は、さながら暴風が通り過ぎたかのようだった。
しかし巨漢が使うのはあくまで左腕のみである。利き腕と思しき右腕は、常にだらりと垂れ下がっていた。その右腕は薄い手ぬぐいのような布地で覆われているため、端目からは確認できないが、布の下には、赤黒く焼け焦げた犬の目玉大の穴が三つばかり空いていることを、当の本人は嫌という程理解していた。
三つの穴からは、すでに尋常ではない量の血液が零れ落ちていた。巻いてからしばらく時は経ったが、それでも血流を完全に止めることは難しいようで、その証拠に、当初真っ新だった手ぬぐいは最早取り返しがつかない程に紅く染まり切っている。
当然、激痛も止むことはない。焼けるような痛みが、延々と男を苛んでいる。時折ううう、と苦しげに唸るのも、その傷口からやって来るものが原因だった。
このまま放っておけば、この傷を通して男の命は着実に終わりへと向かうことだろう。いや、まさにこの現段階が、その最中なのだ。音も無ければ合図も無いが、その死期は、間違いなく背後にまで忍び寄ってきている。
巨漢もそれを十全に心得ていた。だからこそ今、一刻も早くこの鬱蒼とした山を抜け、ここよりは清潔で安全な町中へと辿り着き、医者の下に駆け込んで治療に専念することだけを視野に入れてひた走っているのである。
――糞ッ、糞ッ、糞がァっ!
とは言え、内に滾る念を抑止することはできなかった。
冷静になれない。むしろ時を追うごとに感情の度合いは増してくる。それは結果として、すでに大量の血を失って満身創痍である巨漢の体を動かすための力にもなっていた。
――あの野郎、絶対に許さねぇッ――。
心中で吠える。憎悪に身を委ね、彼の怨敵を呪い殺さんとばかりに吠え続ける。
第三者的に観れば、彼の憤りはただの逆恨みだ。他者が得た賞金という名の財産を、気に入らないからという理由で強奪しようと目論み、実行に移したがあえなく返り討ちにあった。ただそれだけのことで、この巨漢はただそれだけの愚か者でしかない。
だがそんなことは本人にとって関係がなかった。本人にとって、あの牢人と思しき男は憎き仇でしかなかったのだ。
牢人が発した殺意は、頭にびっしりとこびり付いていて取れそうにない。心を折られる程に吹き付けられた威圧感もまだ憶えている。
けれども憎悪の念はそれ以上だった。
自分を殺すだけの力はあったはずなのに、『気が乗らなくなった』などという、ふざけた感覚で見逃される。一人の人間として、男として、こんなにも屈辱的なことはない。
そしてなにより再起不能の傷を負わされたこと。この事実が重要だった。
――次に出遭ったときがてめえの最後だ! 必ず、必ず――。
考え無しに、狂ったように巨漢は叫ぶ。
――殺してやる――!
そのためにも、まだ死ねない。
巨漢の男は決意した。傷を癒し、生き延びて、そしていつの日か復讐を果たす。この筋骨溢れんばかりの隻腕で、あの牢人を縊り殺してやるのだと息巻く。
自分の腕を潰した男の『警告』を忘れたまま、真性の愚者は道なき道を突き進むのだった。
◆
三原稲荷神社に続く山道は、一層闇色に包まれていく。茜色の空などとっくの昔に過ぎ去っていた。
葵にしてみれば歩き慣れた道だが、それでも灯りを失ったのは痛手だった。なによりあの提灯は借り物だったのである。ゆえに後日、お礼の品と合わせて、ちゃんと持ち主の元に返すつもりでいたのだ。それだけに悔やまれる。親切心で貸してくれた佐伯徳助とお冬に対し、葵は心から申し訳なく思うのだった。
神社に着くまでの時間と道のり。前にまったく進めない程の暗がりではないものの、やはり慎重にならざるを得ない。自然と歩みは遅くなる。
最中、葵はずっと考えていた。そして遂に答えに辿り着く。
どうして自分はあんなにも、思想家の『気まぐれ』という科白に噛み付いていたのか――。
それは、この思想家の在り方があまりにも自分とかけ離れていたからだ。人を人とも思わぬ傍若無人ぶり、両極端な思想、その思想に基づいた化外の力とも言うべき強さと弱さ――そしてなにより、その自由奔放ぶり。
そう、葵の瞳には自由に映ったのだ。
両極端な思想に苦しむその姿でさえ、状態によっては右にも左にもなれるという自在ぶりが反映されているようにしか感じない。そんな風に、葵は勝手に結論付けてしまっている。
彼女には許されなかった。
周りに流され、縛られ、振り回されてきた毎日。その世界において、自らの意思は常に蔑ろにされる。過去の自分は、まさしく籠の中の鳥だった。
ただそれも、翁と出会ったことで少しは変われたような気がしていた。強気で男勝りな性格もまた、自分という人間の一部分なのだと、翁のおかげで気付くこともできた。
けれども翁が死んで、身寄りを失って、また独りぼっちになったとき――ふと懸念が生じた。
結局は同じなのではないだろうか。
変わったような気がしているだけで、きっかけをくれた人間がいなくなってしまえば、自分はまた、過去の自分に立ち戻ってしまうのではないだろうか。
なにをすればいいのか分からず、なにもしないまま、なにもできないままを享受する過去の自分に。
実際、翁を喪ってからの落ち込み様は尋常ではなかった。彼女を良く知る者でさえ易々と近付き難くなるぐらい、彼女は悲嘆に沈み切っていた。食事も喉を通らず、また寝床から立ち上がることでさえ苦しかった。翁との楽しかった思い出の中に心を置いては、一日中悲しみに暮れるだけの日々を送っていた。
神社の運営とこれからの自分の生き方を考え始めたことなんて、ここ最近のことである。それも心境の変化を見出したからではない。生きていく上でいつかは考えざるを得ない壁だったから無理やり頭を巡らせていただけだ。当然、そんな姿勢でなにかが思いつくわけもない。思考はあくまでぼんやりとしか機能していなかった。
涙が止まったところで、なにをすればよいのか分からない。究極的にはこれに尽きた。仕方がないから、翁が居たときから欠かさず続けてきた境内の清掃に務めるも、やはりなにかが見出せる気配はなかった。
そんなときだ。この思想家が現れたのは。
しかも賽銭泥棒などという、葵にとって絶対に見過ごせない相手として。
けれどもそんな得体の知れなかった男は、かつての葵が心の底からこうありたいと望んで欲していた理想に近しいものを持っていた。
その理想とは、自由に生きること。
道理に縛られることなく、自分勝手に、自分本位に生きていくこと。
――わたしは、そんな思想家さんを羨んでいたんだ……。
自由に生きる者に対する羨望。それこそが、思想家を疎ましく思わせていたものの正体だったのだ。
気付けば三原稲荷神社の朱い鳥居が目前にある。
神社の石段を上り、一足先に境内に立ち入った葵は感慨にふける。やっとだ。やっと帰ってこれた。
「よっ、こいしょ」
遅れて、思想家が現れる。賞金袋も含まれた、沢山の荷物が詰められた竹籠を難なく背負い、地を踏みしめている。
「こいつはどこに運べばいい?」
彼は竹籠を指して言う。
あそこに、と葵が指示した先は社務所と呼ばれる建築物だった。本来であれば神職者たちが事務に精を出すための場所なのだが、今は葵が生活を送るための居住空間と成り果てている。もっとも翁が居たときから、その構図は変わっていないのだが。
社務所付近に荷物を固めさせ、葵は建物の縁側にすとんと腰掛ける。「あなたも座ったら?」と促すと、思想家もまた素直に板敷部分へと体を落ち着けた。
見上げれば、夜空にぽっかりと月が浮かんでいた。月はその清閑たる眩さをもって、近辺の山々を僅かながら照らしている。遠目だが、照らされていたものの中には幾重にも群れを生した山桜があった。月光に導かれた桜色は昼間程はっきりとは見えなかったが、ぼんやりとしたその不明瞭さが、かえって幻想的な趣を醸し出していた。
そう言えば今は桜が見ごろの季節だったな、と今さらのように思い出した葵は、その光景に目を奪われつつ、ふぅ、と息を吐き出す。
長い長い一日だった。
賽銭泥棒との嬉しくない再会から、仕方なく妥協し、その結果大変な迷惑を被り、延々と振り回され続け、最後の最後には命すら危うい状況にまで発展した。
誰が何と言おうと、最悪の一日だったに違いない。
「思想家さん」
「ん?」
「思想家さんは、これからどうするの?」
「そうだな。この亀山に入ってまだ日は浅い。もうしばらくは、この土地の風情を楽しもうかと思ってる」
「ふーん……その間の寝泊りとかは?」
思想家は間髪入れず、
「野宿一択。旅籠に泊まるだけの金はない」
と、恥ずかしげもなく言い放った。
金銭を持っていないことなどすでに知っている。しかしだからとこんなにも自信満々に野宿だと回答されても困る。しかもそんな困窮した状態であっても、あの賞金の余りをくれだのとは一言も口にしないし、受け取ろうともしない。呆れてものが言えなくなるとはこのことだ。
葵は背中を丸め、膝の上で頬杖を突く。
そして、告げる。
「…………ちょっとの間だけなら、うちに居着いてもらっても構わないわよ?」
「え?」
思想家は顔だけを勢いよくこちらに向けた。
「それ、本当か」
「ええ。さすがにタダでとは言わないけどね。居候なんだから、最低でも炊事洗濯掃除ぐらいは手伝ってもらうわよ。今日みたいな買い物の荷物持ちなんかもね」
丁度、男手が欲しかったのだと葵は呟いた。
「飯は出ないのか?」
「あのねぇ、うちは宿屋じゃないのよ……」
飯、と聞かれて昼間の惨事を思い出し、青くなる。
「でもまあご飯の件は……わたしが裁量した分で我慢するなら出してあげないでもないわ」
こうでも言っておかなければ、寝静まっている間にこっそりと食糧に手を付けられる危険がある。さすがに蓄えていた糧食まで残らず空にされてはたまったものじゃない。それならばまだ、朝晩の二食分を自分が徹底管理した上で提供してやった方がマシというものだ。
「あとあなたがうちに居着ける期間だけれど、これはこっちが決める。それこそあなたの素行が目に余るものだったり、これ以上泊めるのが難しいと判断した場合は――有無を言わさず、即刻出て行ってもらうわ」
もちろん、追い出されるよりも前に思想家が出て行く分に関しては、止めるつもりはないことを付け足しておく。
なるほど、と彼は納得したように手の平をぽんと打ってから、一瞬も迷うことなく結論を出した。
「分かった。その条件で頼む」
「そう」
「しかし気になるな。なんでまたこんなわけの分からん男を泊めてやろうだなんて気になったんだ? 巫女さん、あんたは……」
「ええ。わたしはあなたのことが嫌いよ」
それこそ大が付くぐらいに。
「けど一応、命を助けてもらったからね」
たとえ先程の事態が、元を糺せば思想家が勝手に挑んだ賭け勝負によって引き起こされたものなのだとしても、その部分だけで彼の見方を決めたくはない。巻き込まれた事実も、助けてもらった事実も、全て等しいものとして受け止めたい。
「それにまた、今日みたいに行き倒れてるあなたを発見したくはないし……」
無視して放置したいところだが、どうにも体裁が悪いような気がする。
だから、というのも一つの理由にはなるが――。
「……でもどうかしらね。こんなのはただ貼り付けただけの理由なのかも……本当のところは、自分でもよく分からないわ。ただ――」
葵は一度瞼を閉じる。
「なんだか今は、気分が良いの」
最悪な一日。
しかし不思議なことに、奇妙な新鮮味も感じられた。考えてみれば、この思想家に出会わなければ、佐伯徳助やお冬と親しくなることもなかったのだろう。あの腕相撲賭け勝負についても同じだ。あんな催し事を、足を止めてまで観戦する時間など生まれなかったかもしれない。
淡々と送り続けていた毎日から、一時的に切り離されたような感覚。
非日常的な、と言い換えてもいいかもしれない。とにかくその感覚は、同じことをただ繰り返していただけの灰色の日々に描かれ足された――新たな色だった。
それはあの桜のような、綺麗な色ではないのかもしれないけれど。
けれどもその色は、葵の意識になんらかの変化をもたらすものではあったようだ。
「もしかしたらこれが、あなたが言うところの『気まぐれ』ってやつなのかもね」
意趣返し。
縁側から離れた葵は、そのまま二、三歩前に進み出でて、くるりと舞うように振り返る。夜月の白光を背に受けたその様は、夢か現かと疑ってしまいかねない程に美しく、それでいて儚くも見えた。
「そう言えば、まだ挨拶もろくに済ませてなかったっけ。改めて――わたしは葵よ。この三原稲荷神社の巫女をやってる。あなたの名前は?」
「生憎、名乗りたくとも名前を持っていないもんでね」
牢人のような風体の男もまた腰を上げ、葵の真正面に立った。
「だからこれまで通り――思想家とでも呼んでくれ」
葵は静かに頷いて、了承の意を示す。
「……あぁ、そうそう。一つ言い忘れてたわ」
じろり、と葵の目付きが鋭くなった。
「もしも寝込みを襲うようなことをすれば――問答無用で容赦なくぶっ飛ばすから。もちろんここからも追い出す。これだけは憶えておきなさい」
念のため釘を刺しておく。
「安心してくれ。こちとらそういった方面には興味がない」
「……本当でしょうね。信じるわよ」
男の言葉を信じて警戒を緩める。
そして、彼女は静かに微笑んだ。
「よろしくね。思想家さん」
この神社を今後どのように存続させていけばいいのか。そして自分はどのような道のりを歩んでいけばいいのか――見当もつかない。
依然として先は見えず、瞼の裏に浮かぶのは得体の知れぬ闇ばかり。
しかし予感がした。なにかが変わる。なにかが変わっていく。好転ではないかもしれない、道理に則ったものではないかもしれない、だが確実に、変化は訪れる。
そんな予感が、した。
【終章】語り部の独白
「終わり」
しばし沈黙が支配する。
「…………ええっ!? ここで終わり!?」
「イエス」
それは無駄に流暢な「イエス」だった。
ところ変わって現代。場所は京都府亀岡市のとある山道の先に存在する、通称『廃神社』こと三原稲荷神社の――その境内。より正確には社務所の縁側。
神社の宮司代務者である青年が語る伝説に終始耳を傾けていた制服姿の女子高生、橘三咲はその横暴とも言える終わりっぷりに不満を洩らした。
「えーっと……これって一応恋のお話なのよね? 恋愛要素とか一つもなかったけど……っていうか、どう聞いても物語的にはまだ始まったばかりのような……なのに終わりって、ほんとにどういうこと?」
不満を通り越して混乱してくる。
「いやあ、語ってやりたいのは山々だが……しかし、今日はもう遅いからな。ほれ、もう真っ暗だろう」
「あ……」
集中し過ぎていたのだろう。気付かぬ内に日は沈んでおり、狭間が言った通り、周囲はもう充分に深い闇色に染まっていた。
「続きはまたいつかな」
「う、うん……って、あれ? 今何時?」
制服の上着のポケットからスマートフォンを取り出して急いで確認する。ここに来たのは学校が終わってすぐ――午後四時半ごろだったはずだが……。
「うわっ、七時過ぎてる!?」
どうやら自分は二時間半以上も狭間の話を聴くことにのみ没頭していたらしい。この集中力を勉強や部活に活かせられたらどれだけいいか――などと自嘲しつつも狭間に告げた。
「ごめん狭間さん! あたしもう帰るね!」
帰ったらすぐに晩ご飯の準備をしなきゃ、と三咲は慌ててスクールバックを手にした。今夜は久しぶりに父が単身赴任先から帰ってくる日なのである。あの父のことだから、店で食べてくるようなことはしないだろう。近場のコンビニでカップ麺かなにかを買ってきては、細々と済ませようとするに違いない。
――……お父さんの分も作ったら、どうせまた『父さんなんかに気を遣わなくてもいいよ』なんて言うんだろうけど……。
けれども放っておけるわけがない。幼少の頃に母親を亡くしている三咲にとって、父親は唯一の肉親であり心の拠り所だ。だからこそこちらに戻ってこれたときぐらいは、体のためにもバランスがとれた栄養のある食事を取ってほしいと、娘心にそう思っているのである。
それだけに気ばかりが急く。そこに狭間が待ったを掛けた。
「送るよ。女の子が一人、灯りも無しで山道は危険だ」
「ありがとう。でもいいよ。子どもじゃないんだし、一人でも帰れるから」
「いかんいかん。特にこの神社近辺は夜になったらよく鹿や猪が運動会やってんだ。この前は猪五頭、鹿十頭ぐらいが狂喜乱舞していたっけな」
「…………前言撤回。やっぱり狭間さんも付いてきて……」
虫が寄ってくるぐらいの障害ならまだしも、獣に襲われるのはさすがに御免である。ここは素直に狭間の意見を受け入れることにしたのだった。
懐中電灯を手にした狭間が先行し、三咲はその後に続く。
「そこ、石あるぞ。躓くなよ」
「うんっ」
ときたまこうやって指示してくれる。日頃は変人の二文字を冠する男だが、このようなときはしっかりと他人を思い遣る心もあるようだ。三咲が狭間のことを気に入っているのも、こういったそこはかとない一面に由来している。
しかし一般道までほぼ一本道とは言え、こうも暗いと気を張っていても足元が危うく感じる。野性の運動会こそまだ目にしていないものの、やっぱり狭間の言に従っておいて正解だった、と三咲は安堵の表情を浮かべた。
ついでに思い出す。
――神社の伝説によれば……この道でもいろいろとあったんだっけ。
腕相撲勝負にて主催者側に敗れた巨漢の男が襲ってきたとされる道。しかも話を聞けば聞く程、巨漢の動機は逆恨み以外の何ものでもないというのだから始末に負えない。おまけに思想家から賞金を奪うために女の子を人質に取るだなんて――卑怯にも程がある。
――お話は始まったばかりだから、これからなにがどう発展していくのかなんてまだ分からないけど……でもこれだけは言える……。
あの葵という女の子は、運に見放されているとしか考えられない。それこそ憐憫の情をも覚える。
狭間の語り草を思い返してみれば、それはもう散々なものである。育ての親を亡くしてまだ悲しみも癒え切っていない頃に、あんな謎を極めたような思想家と絡む羽目になったのだから。なのにどうして――。
そう、どうして彼女は、この思想家の男に温情をかけてやる気になったのだろう。
本編においても葵の動機はややぼかされた形に終わってしまっていただけに、三咲も不思議に感じていたのだ。
その辺り、語り部である狭間はどう思っているのだろうか?
「ねぇねぇ狭間さん。さっきの話なんだけどね」
「んー?」
「その葵って女の子は……どうして思想家さん? を泊めてあげようと思ったのかな?」
あれだけ振り回され続けた上に、相手は尋常ならざる力を有する者である。普通はもう金輪際関わりたくないと思うはずだ。
「おれも初めてこの伝説を聞いたときは橘ちゃんと同じ感想を抱いたよ。でも全貌を知って後々深く考えてみれば、そうおかしなことでもないのかな、と」
こいつはおれの推察だが、と狭間は一言置いて。
「多分、彼女は興味を持ったんだろうな」
「興味?」
「ああ。思想家という、狂逸な在り方をする人物に興味を持って――そして、惹かれた。何故だか分かるか?」
「……?」
「自分とはまるで違う存在だったからだよ。真逆なんてもんじゃない。そもそも根本的に異なる存在だった――だから、間近で観察したくなったのさ。自分の手が届く範囲で、そいつが本当に、かつての自分が欲したものだったのか否か――確かめたくなっちまったんだろう」
どのような境遇を経て、葵という一人の人格が形成されていったのかは、まだこの時点では不明だ。狭間の物言いから察するに、もしかしたらその内容は、これより先の物語で語られることになるのかもしれない。
だが間違いなく言えることがある。彼女はなにかに縛られていた。そして同時に、そんな自分から脱却したいと――そう、強く切望していた。
身体的なものなのか、精神的なものなのかは分からない――しかし彼女は、間違いなくそこに自由を願っていた。自由に生きる自分を夢見ていた。
その夢を、思想家の在り方と重ねてしまったと言うのだろうか。
「さあね、そこまでは知らない。言ったろ? こいつはあくまで推察だよ。推察に過ぎない」
狭間はただただそう呟くだけだった。
獣に遭遇することなく山道を抜けた二人は、やがて一般道へと出る。三咲の住まいまではまた少し歩くことになるのだが――先程と違って灯りもあれば人気もある。ここから先の道程には一抹の不安もない。
「ありがとう。もうここまででいいよ」
「そうか。気を付けて帰れよ」
「うん。狭間さんもね。鹿はまだおとなしいけど、猪は怖いんだから。くれぐれも気を付けるように」
「へーへー」
その如何にも彼らしいだらけ切った返事の仕方に三咲はくすりと笑って背を向けた。一歩、二歩……と狭間の元から離れていく。
「橘ちゃん」
再び狭間の声。三咲は僅かに振り向く。
「気兼ねなく、またいつでも遊びに来なよ。橘ちゃんなら大歓迎だ」
少し遠目ではあったが、狭間はいつにも増して穏やかそうに見えた。
その穏やかさに負けじと、こちらは有り余る快活さをもって返す。
「うん! またね! 狭間さん!」
スクールバックを持った手をぶんぶんと振りながら、意気揚々と我が家を目指す。帰ったらすぐに晩ご飯の支度だ。自分の分と、そして父の分。
父は喜んでくれるだろうか。いや、きっと喜ばせてみせる。
純粋で堅固な想いを胸に秘め、橘三咲は、さながら夜風を切るようにして、亀岡の町を駆け抜けて行った。
◆
三咲を見送ったのち、羽織袴姿の青年は悠々と神社へ引き返した。
途中、一本道を横切ろうとする何頭かの鹿の群れに遭遇したが、こちらに害意がないのを察知すると、皆、跳ねるように横断し、夜の闇へ紛れて行った。
狭間が神社に辿り着くのにそう時間はかからなかった。なにせ申し訳程度に人の手が加わった一本の獣道を、ただひたすらに進んで進んで進んで進むだけの道程だ。ものの数分もしない内に、塗装の剥げた灰色の鳥居が懐中電灯の先に浮かび上がった。
石段を上がって神域に入る。
灯り一つない境内。しかし、不思議と幽かな明るさを感じた。先程は気付かなかったが、どこからか穏やかな光がもたらされている。
空を見上げた。視界に飛び込んできたのは、水面に墨を零したような夜空と、そこに散りばめられた満天の星々だった。そしてそれらを纏めんとばかり中央を陣取るのは、中秋の名月にさえ優るとも劣らない、真円をそのまま象ったかのような満月だった。あまりの大きさと美しさに、さしもの狭間も釘付けになり、しばしその場で棒立ちとなった。
観月に身を置くその最中、青年は思いを巡らせていた。
果たしてどこまで。この伝説を語ることができるのだろうか。
この物語を、どこまで橘三咲に明かしてもよいものか、と――。
うーむ、と腕を組みながらその境界線を模索するが――すぐにその行為を止める。
別に、構わない。この物語を最後まで話すか話さないかは、その時々の心持ちに委ねればよい。どうせどちらを選んだところで、自分が損得を被るシチュエーションになどなりはしないのだから、考えても無駄である、と。
ふぅ、と脱力して空から目を離した狭間は縁側に目をやる。次に本殿を、拝殿を、手水舎を、社務所を、順番に眺める。さながら、在りし日の幻影を追うかの如く。やがてその視線は最後に、虚空へと落ち着いた。
その眼は、橘三咲が感じ取ってしまったものと同じ。
どこを見ているか分からない眼。どこかは見ているはずなのに、どこも見ていないような眼。
深くて重い、底なし沼のような暗がりを秘めた瞳だった。
けれどもそんな自らをまるで嘲笑うように、狭間はすぐさまその両眼に瞼という名の蓋をして、
「メシの準備でもするか」
と、柔らかな笑みを浮かべながら、誰に言うでもなく彼は告げた。
この日最初で最後の独り言だった。
三原稲荷神社の巫女たる葵と、化外なる力をその身に宿した無名の思想家。この二人の物語は、かねてより京の都の守り口であったこの亀山の地を舞台として紡がれる。
少女と男が出会ったことでなにが変わり、結果どのような事態が巻き起こってしまったのか――それを語る者は、もうどこにもいない。
そう、ただ一人を除いては。
(了)
廃色の鳥居~囲いの巫女と無名の思想家~上