practice(150)



象とネズミとの例を思い出す。確か,鼓動の打ち方と寿命の長さとの関係だったか,動きの素早さの認識にも,違いがあるとか。
三輪車のペダルがカラカラと回り,息子の寝息は耳元で温かく短く,合わせれば,息苦しくなりそうな速さだと思った。ズボンから伝わる厚手で,ずり落ちそうな気配を先に片手で直し,抱っこの中でびっくりした覚醒は,間を置いて,また,一定のリズムを吸い出した。歩いているオトナの身体を利用した,深呼吸で,起こしたりしないように気を使い,立ち止まり,灯りの下で青い標識を見て,似たような景色ばかりで作られている,幅の広い道路を行く。暗いなか,芝生は家の前に伸び,車庫はそれぞれシャッターが降りている。色の変わった街路樹の下に重なった葉は,さっと掃かれたように失くなって,土はよく見えない。冷えた匂いは,鼻の「とおり」を良くするようでいて,刺激をして,むずむずさせて,詰まらせる。停止した三輪車とともに,道の真ん中で,着せていた子供サイズの厚手でのパーカーの首元を,肌着もきちんと揃え,それから足を生地の上からさすり,三輪車後部の踏み台からは,乗っていた落ち葉の欠片を爪先で落とす。その時に小石も跳ねて,かちっと落ちる。それも拾えるぐらい,周囲の眠りは広がって,紐につながれたもの静かなフォルムが動じない。掴めるハンドルがそっぽ向いて曲がって,金属の部分が磨かれたように反射する。背後に近い街灯が照らす範囲は,にゅっと樹々の傘を避けて,こんなところにも届く。ところどころにあるマンホールもその恩恵を受ける。三輪車の陰に隠れて,ピカピカといえない重厚感に,隙間から見える表面に,管理している市の名前があった。アルファベットで綴られていた。それが長くなっていた。その模様も含めて,マンホールときちんと向くために方向を変えると,芝生を挟んで,道路側に面する家に面する。全体として消された電気と,窓はどこも開いていなかったけれど,二階の出窓のカーテンが捲られて,顔を出した小さい顔が,出窓のスペースに肘をつくのが見えた。もう一人,お姉ちゃんと思う子が,カーテンをさらに捲り,捲る前から動かしていた口を,さらに動かしながら同じ方向を見上げる。そのまま何かを交換して,しばらく口を閉じたまま,カーテンが勢いよく捲られた。大きい方の子がそのまま居なくなり,弟のような小さい子は肘をついたまま,こちらに気付き,また見上げる。両手で息子を抱き直して,同じ方向を見上げたら,はっきりと分かる天体もなく,目を凝らして発見したと思えた明かりもすぐに見失った。飛行機が通りかかるようなことはない,コースとしても時間としても。それは分かっていた。満ちる月は,道路の向こう側だった。屋根の上の世界。じっと見たために,瞬きをし,近くのそれにぐっと降りて,同じように暗い家の窓から,カーテンが動く窓へと戻る。小さい子はそこに居たけれど背中を向けていて,呼ばれたようにすぐに中へと消えた。椅子に登っていたような動きだった。厚い生地で,遮光が効いていそうな,カーテンと閉じて,出窓のスペースが平らになった。静かな,静かな佇まい。耳元の寝息が,意識の上に戻って来る。立ち止まり過ぎたと慌てて振り返れば,元の形のまま,紐をぶらさげて,三輪車はそっぽを向いていた。起こしたりしないように,近づいて,ゆっくりと膝を曲げる。
また,静かなフォルムが動けば,家々が過ぎ去って行く。


妻には電話で伝えておいた。
「明るくなるうちに,帰って来るよ。」



「冗談でもいいわ。この際。」
安堵の声と,風邪引かさないように,気を付けてという助言を残して,切った受話器を置いてから,母にはありがとう,もう行くよと言った。息子は眠そうに,母からこちらの首に手を回してきた。今度迎える誕生日にと,母が内緒で買っていた厚手のものが,こんな日に役に立つなんて。たった一人で,息子は母の家に着いたときの服は,後日取りに来ることにした。洗濯等を終えてから送る,という母の申し出は,こちらから今回のお礼とともに再訪問する約束によって,断ることが出来た。妻もそれには同意するはずだから,先の電話では言わなかった。妻はとにかく,安心していた。
「意地があるね。私に経緯を説明したときだって,一回も泣かなかったよ。初めての喧嘩かい?」
母は聞いた。
「いや,初めてじゃないよ。こうして家を出たこと以外は。驚いた。」
「かなり距離はあるからね。その乗り物でも。無事にたどり着いたことには,感謝すべきだ。私も,あんたたちも。」
ため息が漏れる。
「分かってる。」
「ならいい。」
母は紙袋を手にして,持って帰りなと,さっき息子と二人で食べた大きめのもので,ふたパック重ねた夕飯をぶら下げて差し出した。有難いけれど,と間を置き,持って帰れそうにないからと言って,具体的な期日をここ二,三日に設定することになった。明日はどうだい?と,当然聞かれたけれど,三人で出掛けるという約束を守るために,明日は使いたいと答えた。
「遠出,だったかい?」
「近くになるかも。」
それもいいさ,と母は頷いた。
見送りのとき,靴べらで踵から足を入れながら,自身の記憶を探っても,心当たりがなかったので,母に尋ねるとお前も大して変わらない,へそ曲げてそこの部屋に駆け込んでいたじゃないか,と呆れ半分で答えが返ってきた。そこは父の部屋で,兄の部屋で,かつての自室だった。駆け込んだりしていたのは一人歩きが出来るようになった時。迎えた父が結託して,二人して,決着が付くまで顔を見せない戦法を取った。腹を立てた母はドアの前に居座って,どちらかのトイレの時間が来るまでの間,夕飯もそっちのけで口喧嘩をし,出て来た後の三人は,車に乗って出掛ける。無言で食べながら,ぽつぽつと話し,無言で乗りながら,抱っこされ,父が車を戻すまで,先に降りた母と二人でそれを待っている。ほら,だいたい同じだろ?と母は眩しそうに目を細め,靴を履き終えたことを認めてから,抱っこしていた息子をわたす。足を引きずり,腰を屈め,蹴っ飛された形で角が曲がったカーペットを直した。身体を伸ばし,眠っている息子の髪を撫でた。
「最後まで,だんまりしていたのも,私かあんただった。」
様子を見て,母に聞く。
「家の中だろ。それ。」
「見えなきゃ,結局は一緒さ。そこに通じる廊下が長くなったようなもんだろ。あんたが場所にこだわるっていうなら。」
よく分からない理屈だった。母は確信していた。有難うのお礼をもう一度言い,父の愛用だった靴べらを見,母を見て,「じゃあ,」と言った。母は息子に靴を履かせることを終え,靴下をあげてズボンの裾を伸ばした。片手でスイッチのようなドアノブを押してから,肩で押し,半開きにし,紐を受け取って三輪車を『カラッ』と引っ張った。
「じゃあ。」
とは,もう一回言った。



微笑む。



芝生は家々の前面から伸び,幅の広い道路はなだらかな傾斜をみせて,それぞれ歩道に阻まれる。移されて来た街路樹は,太い幹をしっかりとし,季節の変わり目に合わせて色を変えず,枝に葉を残すものも混ぜられて,土はより暗くなり,カラカラと,道路の真ん中を三人が行き,息子の寝息は耳元から離れていて,ペダルは漕がれる。編み目が目立つ,黄色いカーディガンは袖を通されて,ボタンが開けられている。簡単な履き物はつんのめって道を擦る。
「夜が綺麗って,言えないわね。天体は反対の方ばかりを向いてるわ。」
妻はぼやいた。
「綺麗だったよ。向かうときは。」
そう言って,二人の姉弟を思い出して,そっちの方向を見ようとした。けれど車道を何度か曲がり,似たような景色ばかりの,家路に入って,そこを見失う。屋根まで降りて,もう一度上がった。
見つけた点滅は随分と遠かった。見慣れた気がする明かりは窓から漏れて,近かった。窓枠が影で落ちた比較的,平面な芝生を踏む。紐を離す。
ペダルが漕がれて,そのうち止まった。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-08

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