『歎異抄』を読んで

「祈りへの道」

『歎異抄』(梯實圓解説)本願寺出版社、二〇〇二年十二月。


 台東区の福祉施設で九月末からアルバイトを始めた。知的障害者が集団生活に慣れる体験をするために入ってくる寮である。入寮者に対する食事や歯磨きの介助のほか、居室清掃やトイレ掃除の仕事がある。仕事は単純で、どこまで真剣に向き合うかは個人に委ねられている。やるべき作業はあるものの、時間が過ぎれば仕事は終わるので、その対価としてひとつの仕事にどれだけの労力を払っているかは人それぞれ違う。
 仕事している時間、常に心の内にあって、息づいているのは大切に思っているひとの存在だ。そのひとを思いながら仕事に向かう。すると自然にひとつひとつの仕事が丁寧になる。手を抜けない。目の前に向きあう仕事が尊いものに思えてくる。そのとき私を動かしているものは私ではない。そのひとかと言えばそうでもない。私を動かすものはより大いなるもので、これこそ親鸞の言う「他力」なのではないかと思う。
 心に大切なひとを思うことによって「自力にとらわれた心を捨て」 、目の前の仕事を通じて「本願のはたらきに身をゆだねる」 ことができる。それはすばらしいことだ。
 忙しい今の時代にあっては何も四六時中座禅を組んで「南無阿弥陀仏」を繰りかえすばかりでなく、目の前に生じてくる縁にどれほど真摯に向きあえるかが、念仏の本意を指すと考えてもいいのではないだろうか。誰もがあまねく救いの道を歩むことのできる、それがただひとつの道である。
 歎異抄を読めば、そうした念仏の道ほど高き道は他にない。

—— 一 念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。(第七条)

 念仏をとなえる者に対しては、神々さえ敬ってひれ伏されるという。仮に念仏の本意が先に述べたようなことにあると言えるのならば、すべての人は目の前にある己の仕事に向きあうことによって、「かの土にしてさとりをばひらく」 浄土真宗の教えに沿うことになる。そこには何ものも念仏をとなえる者をさまたげるものはなく、神をも頭を垂れる高きところへの道が生まれる。
 高き道を行く者の前では、人間の価値観における善と悪の判断基準はまるで意味を成さない。「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。(中略)ただ念仏だけが真実なのである」 。しかしながら同時に、念仏をとなえるだけの他力浄土門は、「能力のすぐれた人が修める難行の道」 によるさとりとは違い、「次の世でさとりを開く」教えであることを忘れてはならない。「この世における善も悪もすべて過去の世における行いによる」 ものであって、自力で判断できるものではない。大切なのは「本願他力の信心」を持つことだ。それでいてこそ、「能力の劣った人に開かれた易行の道」 を行くことができるというのだ。
 つまり親鸞は、祈りという行為の世俗化を行ったのである。祈りとは何であるかを、念仏をとなえることの重要性を通じて人々に伝え広めたのだ。これによって、どんな者であっても、たとえ「文字の一つも知らないものでも」 、救いはあるのだということを示した。誰もが祈りへの道を行くことで、「浄土に往生してさとりを開」き、「縁のある人々を救うことができる」 ことを教えた。
 その思想は、宗教の教えの根本のものとしてあるのかもしれない。キリスト教でも、マタイ伝に以下のような言葉がある。「人もし我に従ひ来らんと思はば、己をすて、己が十字架を負ひて、我に従へ。己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ、我がために、己が生命をうしなふ者は、之を得べし」
 伝えられている要はひとつの道に通じている。「それぞれはそれぞれの場において、トポス=『自分に意味が与えられた場所』があり、そこでのダルマ=『役割』を果たすことで、全体とつながる」 という教えの道だ。それがまさに「自分のはからいをまじえない」 で「『おのずとそうなる』という」念仏の、祈りの行為の核心なのだ。
 これは人間に限った話ではないだろう。自力にとらわれやすい人間に比して、この世にある大抵のものは「他力」によってそこに存在していると言える。そしてそれぞれの役割をその場所で果たしているのである。
 坂口安吾は書いている。「忘れな草の花を御存じ? あれは心を持たない。しかし或日、恋になやむ一人の麗人を慰めたことを御存じ?」 と。

  *

 ある日施設で、中学生の男の子を一日介助した日があった。車椅子を押しながら、公園に散歩に行った。言葉が話せない彼は口に指を入れてよだれを垂らしつづけており、話しかけても何ひとつ反応はない。彼と隣りあって座りながら、陽のひかりを浴びて、公園を駆け回る子供たちの姿を眺めて。そうして何を考えるでもなく過ごしていたあの時間の中にも、念仏の本意はあった。少なくともそこに、祈りを捧げていた自分がいたことは確かだった。なにかしら、大いなるものに対する祈りを。

『歎異抄』を読んで

引用文献
マタイ伝第十六章第二十四-二十五節『文語訳新訳聖書』岩波文庫、二〇一四年一月。
中島岳志・若松英輔『現代の超克』ミシマ社、二〇一四年八月。
坂口安吾「ピエロ伝道者」『坂口安吾選集 第一巻小説1』講談社、一九八二年七月。

『歎異抄』を読んで

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-05

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