当たり前に来る明日 4
合同の体育が終わり、中等部三年生から高等部二年生までが一斉に自分たちの校舎へと向かう。
(あ、生徒会室に行かないと。先生に呼び出されてるんだっけ。)
授業を終え体育館から出てきた由希も、汗を拭きながら足早に移動する。
(昨日の今日だし、葵ちゃんは大丈夫だったかな。)
由希は、葵の昨日の戦いぶりを思い出し、残暑厳しい空を仰ぐ。すると、ふと翔の声が耳に入った。何となく気になり、声のした方向に目をやる。
そこには、他の生徒たちに紛れた葵と翔の姿があった。疲れた様子だが少しすっきりとした表情の葵と、そんな葵に嬉しそうに話しかけている翔。聞き耳を立てるなんて、あまり感心できない行動だとは思ったが、由希は思わず、翔の話す内容に意識を集中してしまう。集中すれば、雑踏の中でも意外と内容が聞き取れるものだ。
「――――いやぁ、びっくりしたよ。葵、なかなかセンス良かったんだな。この短時間で、未経験者なのに頑張ったと思うよ。」
翔は穏やかな微笑みを浮かべて葵に微笑みかけている。
(――――あぁ、なるほど。さっきの授業のことね。)
「ありが、とう、ございます……」
葵は、翔から目を逸らして、モジモジとした様子で返事をしている。
翔は、そんな葵の様子を見つめている。そして、昨日と同じように葵の頭の上に手をポンと乗せた。
「そんなに意識するなって。可愛いとは思うけどな~。」
そう言って爽やかに白い歯を輝かせる翔。言われた方の葵は、少し頬を染めてひたすらに焦っている。
(――――っ。)
――――何かが、由希の中で蠢(うごめ)いた。その感覚に、由希は少なからず不快感を覚える。しかし、この感覚は別に由希にとって珍しいものでも何でもない。日常の中で、日によってその程度の差こそあれ、感じているものだ。だからこれは、由希にとっては繰り返される日常のひとかけらに過ぎない。しかし、由希にとっては決して面白い感情ではない。
(何よ、翔。後輩ができたからって、あんなに――――)
そこで、由希は思考を一時停止させる。
(「あんなに」――――、何?「あんなに楽しそうにしないで?」それとも「あんなに後輩に優しくしないで?」それじゃあまるで私――――)
由希はただ、自らの中に蠢いた不快感を持て余している。とにかくこの場から立ち去りたい自分と、二人の様子が気になってここから離れられない自分とが、自分の中に確かに存在している。由希はどうしてよいやら、と心の中で溜息をつく。当たり前のことだ。いくら慣れているとはいえ、いくら慣れた自分の内面との対面であれ、人間がそのときその瞬間に出会う内なる自分自身とは、常に初対面なのだから。
(私、いつもならこういう迷い方しないのにな……。決断は早い方だし。)
そんなことを考えながらも、由希はずっと葵と翔の様子を窺(うかが)い続けている。
「この調子だったら、亜空間に入っても、昨日みたいに固まることもなさそうだな~?」
翔は、葵をからかうような、少し意地悪な笑いを向ける。
「あ、う。頑張ります……。」
葵は困惑しながらも、顔を上げて翔を見る。
「冗談だって。葵はもっとリラックスした方がいいって!まずはもっと笑わないとな!」
翔はカラカラと笑う。葵と翔の周りには、穏やかでいい雰囲気が漂っている。
(何してんのよ、私。これじゃあ私、ストーカーか何かみたいじゃ―――)
由希が、葵と翔から目を背け、立ち去ろうとして強く地面を蹴った瞬間。
「おー、由希ー!」
翔が由希に、ブンブンと手を振っているではないか。葵も、それに合わせて由希に向かって会釈をしている。
由希は、驚きのあまり声が出ない。
(最悪。もしかして、私がずっと見てたこと、気付いてた!?)
由希は、驚きと罪悪感とでその場から動けないで立ちつくしている。すると、あろうことか翔がこちらへ近づいてくるではないか。葵は、先輩同士でお話があるなら私は失礼します、と言って足早に去っていった。
(あっ……。)
葵が翔から離れた刹那のこと。由希は自らの胸の中に蠢いていたものがすっと消えていくような感覚を覚えた。そして、翔がこちらに向かってくることに、少なからず気持ちが動いている自分がいる。
(何よ私、これじゃあ、嫌な子じゃない……)
「由希、気付いてたなら声掛けてくれたら良かったのに。」
(――――!翔、気付いてたんだ。私がずっと様子を見てたこと。)
「あ、ごめん。何だか楽しそうだったから。」
由希は、精一杯平然と話す。その声はよく知る他人が聞いても、いつも通りだ。
「ふぅん、まぁいいや。先生が、今日の集まりは昼休みでいいって言ってたよ。由希にも伝えてって。」
「そう。ありがとう、翔。」
「うん。先生も急いでたからね。」
「そっか。」
ここで会話が途切れてしまう。今の由希にとって、沈黙はどこか気まずい。自分の中の消化できないていない感情が、沈黙によってより大きくなるのではないかとさえ思える。それでは由希も、葵のように去っていけばよいだけの話だ。しかし、自分から翔の元を離れたくないなんて妙なことを考えてしまう由希もいる。
(はぁ。もう、朝から何なのよ、私。今日の私は変。明らかにおかしい。)
由希は、完全に自分の感情を持て余している。そんな自分の様子に、内心でため息をついた。
(何か話さないと、何となく間が持たないし……。)
由希は、自分の頭の中から話題を探す。よく知った翔が相手だ。普段なら、特に意識しなくても、言葉が自然に口をついて出てくる。というよりも、由希は翔との会話でいちいち考えてから言葉を交わすなんて、いまだかつてしたことが無い。そう考えると、今の自分は翔から見ても相当おかしいのではないか、と思えてくる。それに、もし万が一、翔におかしさを気付かれて尋ねられでもしたら、それこそ答えられるような回答なんて持ち合わせていない。
(どうしよう、やっぱり何か話さないと……!)
気持ちばかりが空回るが、相変わらずこれといって話す内容が浮かばない。由希の頭の中に浮かぶのは、先ほどまで見ていた、いい雰囲気の葵と翔の様子だけだ。
「そういえば、葵ちゃんと、楽しそうに話してたよね。」
(――――あっ)
由希が我に返る。焦った余り、思考が口から漏れてしまった。しかし、後悔してももう遅い。
(今のは完全な自爆じゃない。しかも、終わった話題を蒸し返してどうするの……。)
どう言葉を繋いで良いか分からず、流石の由希もドギマギとしてしまう。
「うん。葵、やる気あるみたいでさ、今日の授業でも一生懸命だったよ。今朝だって見学に来てたぐらいだし。」
翔は、ぎこちない由希の様子には全く気付いていない様子で、会話を続ける。
「昨日の今日だっていうのに、頑張るよな。昨日転校してきたばっかりで、本来なら友達とか授業とか、そういうことにも適応していかなきゃいけないのにさ。偉いと思うよ。」
翔は、声のトーンを落として、話し続ける。
由希は、話し続ける翔の様子にホッと胸をなでおろしつつも、翔が話し続ける中身が葵のことだということに、何となく居心地の悪さを感じていた。翔は後輩のことを真剣に考えているのに、自分は何を考えているのか、と思い直しつつ、翔の話す内容に集中する。
「鈴野原学園(ここ)に転校してきたってコト自体、訳アリ確定だろ。それも、こんな時期だし。きっとそれなりのものを背負ってるんだよな。葵も。」
淡々と話し続ける翔。その顔にいつもの笑顔は無い。翔の瞳は、本気で他人を慮る真摯な瞳に変わっていた。ふいに翔が正面を向けていた目線を逸らした。由希がそれに気付いて、翔の目線を追うと、そこには進路情報が所狭しと張られた掲示板があった。気が付けば、もう高等部校舎まで一緒に歩いてきていたのだ。それだけではない。
(あぁ――――毎日“実態”に振り回されてばっかりだけど、もう私も高校二年生、季節は秋を迎えてるんだ……)
由希はふいに、考えを巡らす。
(この時期の三年生なら受験勉強まっしぐら、それとも、もしかしたら進路が決まっている生徒もいるかもしれない。私は来年、どうしてるんだろう。)
由希だって、来年度に迫る受験を見据えて、暇があれば勉強に取り組んでいる。“実態”との戦いの傍ら、参考書や問題集とも真面目に戦っているのだ。模擬試験にだって、できる限り挑戦している。
「僕たちは今まで受験なんてしたことないけどさ。葵はもしかしたら、ここに転校する前とか、高校入試ってヤツ?そういう勉強とか、頑張ってたのかなぁ?」
翔の呟きは、蒸し暑い廊下の隅へと吸い込まれていった。
一日の授業はあっという間に終わり、放課後を迎える。
『五時一〇分前です。中等部三年生、高等部の皆さんは、研究棟に集合してください。繰り返します。中等部…』
由希しかいない生徒会室に、耳に馴染むどころか、もう耳にタコができそうなほどに聞き飽きた放送が響く。放送が鳴り始めると同時に、由希の手は素早く机上を片付け施錠を済ませると、足早に研究棟へと向かう。ひとまず研究棟三階を目指す。“実態”の発生状況について情報を得るためである。
三階には、モニターや地図を真剣な眼差しで睨みつけている研究員たち、それを補助する生徒たちが低く囁くような声音で言葉を交わしている。その様子を、眺めるようにして突っ立っている男が一人。石田だ。
由希は、自分の視界に石田を捉えると、ふん、と鼻を鳴らす。
「今日こそ、脅威判定は正確なんでしょうね、石田さん?」
背後から聞こえた声に対して特に驚く様子も無く、石田が振り返る。
「あぁ、由希ちゃん。だいじょうぶだよ。昨日は悪かったね~。でも今日はバッチリだよ。豪華客船に乗った気でいてよ。」
石田は、特に悪びれる様子も無く、飄々と言葉を返す。その態度が、だらしのない声が、由希の感情を逆撫でする。
(ヘラヘラして何よ!実際に戦うのはこっちなのに!大体コイツと何年か関わってるけど、なんかこう、信用ならないし。)
「そうですか。では、船の舵をとる人間の腕に、不足が無いことを祈っています。」
由希は、目に少しの敵意を込めて石田を見据え、強烈な嫌みを含めて石田へと言葉を返す。
「ハハハ。頭が良い子は、切り返しもなかなか鋭いなぁ~。さすが生徒会長様だ。」
石田は、ヘラヘラとした表情を特に崩すことも無く、由希の言葉を受け流す。嫌みも何も、石田には全く響いていない様子だ。
(まるっきり、時間の無駄ね。)
由希は、石田とこれ以上話しても無意味と判断して、さっさと本題を切り出す。
「で、今日の様子はどうなんですか?」
由希はさっと気持ちを切り替える。声のトーンも、落ち着いたそれに切り替わっていた。
「えっとね、うん。今のところ、脅威D以上の判定の“実態”は無いよ。亜空間も、かなり小規模な感じだね。発生ペースもそれほどでもないから、いつも通りにやってくれればいいよ。もう、翔くんも葵ちゃんも、あと天音ちゃんも揃ってるよ。昨日と同じ部屋で待ってもらってるよ。」
翔の名前に、由希はピクリと反応してしまう。
それを知ってか知らずか、石田は言葉を継ぐ。
「翔くんと葵ちゃん、何やら仲よくなったみたいだねぇ?まぁ、俺としても、チームワークが良くなるに越したことはないから、嬉しいよ。中睦まじき若い男女、青春真っ只中のようじゃないか。ハハ。」
(コイツ、いちいち私の癇に触るッ!)
由希は、舌打ちしたい衝動をぐっと堪え、無言のまま三人の元へと急ぐ。由希は背中で、石田の頑張れ~、という間の抜けた声を聞いた。このまま振り向きざまに持っていた杖で石田の頭をぶん殴ってやりたい衝動に駆られた由希だったが、なんとかその衝動を押さえ、翔たちの待つ教室へ急いだ。
「今日向かっていただくのは、ここから北西に十七キロメートルほど離れた施設跡地周辺です。亜空間の規模は小さめで、脅威判定はEです。内部の状況はわかりませんが、できて間もない空間ですので、恐らくすぐに討伐完了するでしょう。それから……」
研究員補助の生徒の一人から、亜空間へ向かうにあたって必要な情報を聞く。由希と翔、天音はそれを慣れた様子で聞き、必要な情報を頭に入れていく。葵は、耳慣れない用語を含め、いまいち説明を飲み込めていないようだったが、必死に話を聞いた。そして、車に乗り込み現場へと向かう。助手席に乗るなり、翔は運転手と取りとめの無い談笑を始めた。天音は、相変わらずぶっきらぼうな面持ちで窓の外を見つめている。由希が隣に座る葵に目をやると、次第にその顔が強張っていくのがよく分かった。由希は、ふと自分が中等部の生徒だった頃を思い出す。
(私も中等部だったときに、初めてこうやって亜空間に来たんだっけ。緊張したけど、いっぱい先輩にフォローしてもらって……。それで、何とか頑張れたんだよね。今日は色々思っちゃったけど、今からでもきちんと先輩業をしないとね。)
「葵ちゃん、まだ二日目で緊張してる?大丈夫。今日は、脅威判定って言って、“実態”の危険度を大まかにランク付けした判定なんだけど、その中でも最低のEランクだから、昨日みたいな危険なことは無いよ。それに、私たちもちゃんと葵ちゃんのことを守りきるから、葵ちゃんは葵ちゃんができる範囲で、活動に参加してくれる?」
由希は、つとめて優しい笑顔で葵に話しかける。
「う、えぇ、はい……。」
葵の全身からは、明らかに緊張していますといったオーラが滲み出ている。その様子を見た由希は、そっと葵の汗ばんだ手のひらに、自分の手を重ねた。
「え、ぇえ?ゆ、由希先輩!?」
葵は、突然の感触に驚きを隠せない。思わず顔を上げ、由希と目が合った。
「亜空間に入って“実態”と戦えるのは、私たち選ばれた子ども―――正確には、素養のある18歳頃までの未成年だけ。葵ちゃんも昨日見たでしょ?私が沢山の光の球を操ったり、翔が人間では出せない速さで動いたりしたところ。それに、何より葵ちゃんも経験したよね。あれは、私たちがそれだけの素養があるからできることなの。地球の異常を、地球の力を借りて取り除く。それが私たちの仕事。私たちがあれだけの力を使えるのは、地球が私たちを応援してくれているから。だから、亜空間の中限定だけど、私たちは奇跡みたいな力を使うことができるの。だから、厳しい戦いに見えるかもしれないけど、滅多なことでは大事にならないの。だから、もっとリラックスして?大丈夫、大丈夫だから……。」
由希は、最後の辺りは自分に言い聞かせるように、目を閉じて、どこか祈るように口にした。葵は、言葉の上での理解は追いつくが、どこかまだ、ここではない遠い世界について聞いているような感覚であった。こんなに近くで聞こえる翔と運転手の話し声ですらも、離れた場所での会話のように思えていた。
しばらくして、停車する。由希は運転手に軽くお礼を言い、右手には杖を持って車を降りる。残暑は厳しく、夕方独特のむわっとしたような熱気が地面から顔へと吹きつけてくる。
「天音ちゃん、反応を見てくれる?」
「了解です。……かなり近いですね。」
天音は、手元の方位磁針型の簡易亜空間探査器へと目を落とした。針は天音の前方を指し示したまま微動だにしない。三人は、やや足早に針の示す方向へ足を進めた。葵もやや遅れて三人に追従する。
「それにしても、こんな場所が関東にあるなんてね。まだまだ知らない場所っていっぱいなんだ……。」
由希がそう思うのも無理はない。今由希たちが立っているのは、繁華街とは程遠い、寂れた住宅地だ。遠くには高い建物が見えるが、恐らくかなり遠い場所にあるのだろう。この辺りに見えるのは背の低い民家と、いくらかのアパート、空き地ぐらいのものだった。しかも、その民家もアパートも、ぱっと見ただけで相当年季が入っていることが分かった。由希は、しばらくそれらの古民家やアパートを見つめていた。
「早く見つけましょう。完全に日が暮れてしまいますよ。」
天音が、抑揚の無い声で由希に話しかける。由希は我にかえり、針の指す方向へさらに足を進める。そして、ほどなくして歩みを止めた。他の建物や看板には長い影があるのに、たった一か所、看板から影が全く伸びていない箇所。
「ここ。」
「さすが由希!早い!」
言い終わるが早いか、翔は持っていた剣をいつの間にか袋から出しており、空間を一閃、切り裂いた。裂け目からは、言いようの無い色に淀んだ闇が手招きでもしているかのようにその中でとぐろを巻いている。そして、翔は切り裂いた勢いそのままに、裂け目の中にダイブしていった。天音もそれに続く。
「あ、えっと……。」
翔と天音は、当たり前のように目の前の闇に飛び込んでいった。葵は、もう何が日常で、何が非日常になろうとしているのか、だんだん分からなくなってきていた。なるべく何も考えないようにしようと思えば思うほどに、葵の頭には様々な憶測が飛び交っては、自分でそれを否定するまで頭の中を反響し続けてしまう。今だってそうである。そう、この亜空間とやらは、どことなく際限が無いような気がして、もしここの闇が払われたところで、次には別のところに現れてくるのではないか、もしそうだとすれば、これはモグラ叩きゲームで、そのゲームのプレイヤーは……などといった考えが浮かんでくる。いや、この世の中に際限が無いなどということはありえないのだ、と否定してみて、葵の頭はやっと一応の平穏を取り戻すことができるのだ。
「大丈夫?葵ちゃん。」
葵は由希の言葉に、はっとする。
「怖いなら、手、繋ぐ?」
由希の白くすらりとした手が、葵の前に差し出される。葵はまたもやどうしてよいか分からず、由希の手と、顔と、裂け目をかわるがわるに見ることしかできなかった。由希は、ふっと微笑み、葵の汗ばむ手をふんわりと握った。
「大丈夫。私も翔も、天音ちゃんだって一緒だから。」
葵はそのまま由希に手を引かれるがままに、裂け目の中に入って行く。その光景はまるで、仲の良い先輩と後輩が、手を繋いで部活にでも駆けだしていくようだった。
「団体さん、ですね。」
亜空間内では、天音が呆れたように“実態”を見据えていた。葵たちの眼前には、もやっとした黒い霧のような塊が幾つも幾つも、視界に見渡す限り広がっていた。二百か三百かもっとそれ以上なのか、もはや葵が数えるのを諦めたくなるほどだった。しかし、葵が昨日感じたような「拒絶」の意思や、自分の身が危険にさらされているかのような感じは一切なかった。それに、昨日のように次々と“実態”が湧いて出ているような様子も一切無い。しかし、葵にとってはまだまだ異様な景色が広がっているのだ。由希の手を離し、剣を右手に構える。
その横で、翔は緊張感の欠片も無い声をあげた。
「うーん、流石に数が多すぎるなー。僕には向かない戦況だな。」
翔は少し困ったように笑っているが、切迫した困り感は一切ない。むしろ、余裕さえ感じられる。
葵は、そんな翔の余裕が一体どこからやってくるのか分からなかったが、彼の様子を見て一度目を閉じて深呼吸し、昨日のイメージを再現する。頭の中で何かが繋がったような感覚を覚え、目を開けると、自分を取り囲むようにして、十本ほどの光の剣が浮かんでいた。
「昨日より増えてる……。」
「おっ、葵。備えあれば嬉しいな、か。」
翔がニカッと笑って葵を見る。葵は、不意打ちの笑顔に思わずドキッとしてしまう。
「翔先輩、嬉しいなじゃなくって、憂いなし、です。」
葵はわずかに染めた頬を隠すようにして、左手を自分の口元にやる。
「あ、そっか。じゃあ俺、この間のテストやべーかも。葵って頭良いんだな……。」
そう言って、翔は葵の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「ちょっ、翔先輩、ここ、亜空間……!」
ここは亜空間で、尚且つ無数とも言える“実態”を目の前にして、翔は随分な余裕である。それを傍目で見ていた由希は、またも自分の中で何か黒いものが動いているのを感じていた。
(今は余計なことを考えちゃダメ、集中しないと。)
由希は、自分に言い聞かせて、魔術発動の為に力を溜め始める。しかし、思うように力が纏まらない。
(なっ、何よ、これっ……!)
いつもであれば、自分を軸にして、力が収束するのが分かるのだ。しかし、今はそれを感じることができない。
(いや、収束が感じられないんじゃない。実際に力が収束してない!……ということは、ここは拡散力場!?いや、でも、そんなはずはない。魔術初心者の葵ちゃんが問題無く発動できたわけだし……。どういう、こと……?)
由希を言いようの無い焦りが襲う。焦りで、声を出すこともままならないような状態に陥っていた。そこで、由希は先ほどから天音が全く動いておらずほとんど何もしゃべっていなかったことに気付く。天音は、唇だけをわずかに動かしており、そのくすんだ赤い双眼は“実態”の群れを静かにその視界に捉えていた。そして、唇の動きが止まったかと思うと、突如それまでに感じたことの無いような冷感が、三人の肌を突き刺した。
「っ!?」
何が起こったのか全く分からない葵は、体をぶるりと大きく震わす。対して翔は、特に驚いた様子も無く、変わらず悠然と構えている。
「――――終わり。」
天音がそう小さく呟くと、“実態”の群れの頭上高くに、幾つもの氷塊が現れた。しかも、離れた葵の目から見ても、一つにつき直径十数メートルはあるであろう大氷塊である。それがぱっと見ただけで三十以上はあるだろうか。いくら葵でも、あれが直撃した日には地球上の何であっても無事では済まないことぐらいは一瞬で理解できた。
「―――――行け。」
天音の低く呟くような声を合図にして、大氷塊は一気に“実態”の群れに向かって急降下した。轟音と共に葵たちの視界は一気にホワイトアウトした。葵は思わずぎゅっと目を瞑る。目を開けた時の光景は言うまでもない。ほとんど一瞬にして、“実態”の群れはその九割以上が既に消し飛んでいた。わずかに数十体が、こちらに向かって移動してきている。葵は、しばらく移動してくる“実態”を茫然と見つめていた。いつの間に移動したのか、既に翔は“実態”の群れを迎え撃つべく、駆け出していた。
「葵!そっち頼んだよ!」
葵は、翔の声でやっと我に返り、“実態”を正面方向に据える。葵に向かってきているのは、今のところ十体。葵は、光の剣の刃先を“実態”に向け、意識を研ぎ澄ませる。向かってきている集団の先頭をギリッと睨みつけ、狙いをつける。
「そこ!」
二本の光剣が矢のような速度を纏って直進する。光剣はそのまま先頭の“実態”を射抜き、剣と共に霧散する。葵は次々と光剣を放ち、“実態”に命中させていく。残りは三体、光剣は残り一本。葵は、剣の柄を強く握り締める。
「葵!落ち着いて!大丈夫だから!」
遠くで、翔の声が聞こえた気がしたが、今はそんなことを気にしてはいられない。意識を集中させ、最後の光剣を標的に向け、放つ。
「っ!?」
残り三体となった“実態”は突如、葵目掛けて突っ込んできた。無論、矢となった光剣は空中を斬り、やがて空間内に着地し、露と消えた。しかし、動転している暇は無い。葵は焦る気持ちを何とか抑え込み、昼間の体育の授業を思い出していた。
「やッ!」
一体目の“実態”を横薙ぎ一閃、そのまま体勢を立て直すことができなかったため、葵は一旦その身を攻撃進路横に翻しながら突進をかわし、一瞬の時間を稼ぐ。その隙に構え直し、二体目の突進にタイミングを合わせて剣を振るう。三体目は向こうから突っ込んでくる気配が無かったため、葵はその隙に光の剣を一本充填する。牽制として光剣を投擲するのと同時に、葵は地面を蹴り、最後の“実態”を斬り払う。葵が“実態”の消滅を確認するやいなや、目の前が白い光で塗りつぶされるような感覚に陥った。
気が付くと、葵たちは例の寂れた住宅地に立っていた。
「お手柄だよ、葵!二日目にして快進撃だな!もしや期待のエース現る、かな?」
「えっと……?」
「だから!葵が最後に倒したのが、亜空間の核だったってワケだよ!」
褒められているのは分かるが、言われている意味が飲み込めない。
「亜空間の、核、って、何なんですか……?」
本当は、昨日も耳にした言葉だったが、気にする余裕もなく、葵の中でそのままになっていた言葉のうちの一つが、改めて気になったので、戦いの直後ではあったが質問してみた。
「えーっと、だな、亜空間は、超物理的?あ、いや、超科学的?だったかな、まぁそんな空間でだな、極めて安定度が低い?そんな空間で、だから?基点となるエネルギーの―――――」
ここまで言ったところで、翔は激しく目を泳がせる。もちろん、こんなたどたどしい説明では、葵は理解しようにも全く理解できない。
「ごめん、天音、パス。」
早々に諦め、翔は天音にヘルプを求める。中等部1年生に助けを求める高等部2年生というのも、非常に情けないものである。一方の、思わぬパスを回された天音はというと、いつものポーカーフェイスを全く崩さずに言葉を紡いでいく。
「亜空間とは、高木先輩の説明にもあった通り、現代の科学では説明しきれない超物理的・超科学的側面の強い空間です。しかし、特殊な方法ではありますが、我々は確かに『空間』として観測することができている。したがって我々は、『亜』空間と呼んでいます。『亜』とは、こんな字を書きます。」
天音は、指で空中に『亜』の文字を書く。
「『亜』の漢字の持つ意味はご存知ですか?」
突然回答を求められ、慌てる葵。ふるふると首を振る。
「まぁ、『次位の』とか『準ずる』だとかいう意味です。他にも意味はありますが、このケースでは今言ったような意味でこの字を使っています。分かりやすさの為に砕けたような言い方をすれば、『空間っぽいもの』『空間のようなもの』とも表現できるでしょう。しかし亜空間は、普段我々がいる空間のような安定した空間ではありません。そのため、『核』と呼ばれるもの―――例えるなら、崩壊寸前の家を支える一本の柱を想像してみてください。『核』とは、そんなふうに、崩壊寸前の空間を支える存在です。多くは、“実態”に紛れていて、探すのは困難ですが、亜空間内には必ず『核』が存在します。その『核』を探し当て、消すことができれば、その亜空間は安定を欠き、崩壊・消滅します。因みに、私たちに課せられた仕事は、亜空間を消滅させることであって、“実態”の討伐そのものではありません。“実態”のを討伐することによって亜空間の『核』を破壊し、その結果として亜空間を消滅させることが目的です。やや早口になってしまいましたが、分かっていただけましたか。」
まるで、ニュースキャスターが原稿を読むような流暢な説明に圧倒され、葵は舌を巻いたが、ありがとう、と礼を述べる。昨日の戦闘で見せた達人級の弓さばきといい、先ほどの戦闘での氷魔術といい、亜空間についての説明といい、天音には隙が全く見当たらないことに、葵は心底感心していた。しかしその一方で、自分の妹と一つしか歳が変わらない天音が、ここまで「できた子」であることにどこかで引っかかりを覚えた。天音は相変わらず表情を特に崩すこともなく、どういたしまして、と返答した。そしてそのまま、車を待たせている場所へと歩き始めた。別に比べるものではないと分かってはいるが、年齢相応に生意気で分別の無い自らの妹、茜と比べると、葵は天音には些かの不自然ささえ覚えてしまう。そんな葵をよそに、翔はいつものように笑っている。
「ほら、天音も葵も大活躍したことだし、学園に戻ろう!」
天音の説明内容も、天音の隙の無さも、葵にとっては消化不良の感が残るものだったが、翔の声に弾かれるようにして、車の方へと歩みを進めた。
寂れた住宅地には、一人の少女の影だけがしばらく残っていた。
当たり前に来る明日 4