顔を覚えない男
森途君っていうやつは、むかつく男だ。
どうしてかっていうと、あいつ、俺の顔をちっとも覚えないんだよ。本当に、何度会っても覚えないの。
俺は彼と、俺の弟の結婚式で出会った。花嫁が彼の妹で、その子がヴァージンロードを歩み行くあいだ彼は、向かいの親族席で一番泣いていた。眉を下げ、目を細め、ほろほろ涙を流して妹を見守っていた彼は、潤んだままの目を不意に真向かいの俺のほうへ向けた。それが俺と彼との視線の合った最初の時だった。ま、すぐに妹へ視線を戻してしまったんだけどね。
次に会った時、これは結婚式から間もない頃、俺の弟の紹介で俺と彼とは再会した。弟は嫁さんのかおりちゃんを紹介したかっただけだそうだが、かおりちゃんがなぜだかお兄さんまで連れてきた。それが彼、森途君だった。(後で弟が嘆いていたんだけど、このかおりちゃんって子は、たいそうなブラコンらしい……)
俺たちはカフェで、俺と弟はコーヒーを、かおりちゃんはミルクティーを、森途君はメロンソーダを飲みながら、それぞれ自己紹介をした。森途君はかおりちゃんと同じような、能天気そうな表情をしていたが、その顔だちは彼女とは違ってシンプルだった。それはかおりちゃんが化粧をしているからっていうのもあるだろうが、鼻が高く、頬っぺたが膨らみ、眉もシュッと整えているかおりちゃんと比べると、なんだかやはりぱっとしない、しょんぼりした顔つきに見える。ただ、あの目だけは彼女と同じで好奇心で生き生きと煌いていたし、そして彼女とは違い、はだけた額が広く、丸いのが好印象だった。
三度目に会った時、森途君は俺の顔を忘れていた。
四度目、この時も、彼は俺を認識しなかった。あれ? おかしいな? その時、初めて俺はそう思ったよ。
五度目、俺たちが出会ってから初めての年越し、これも、親族の集まった食卓で、彼は俺の顔を思い出さなかった。困った顔をして、俺が名乗ると、ああ、町風さんか、優斗くんのお兄さんだね、とか言って、俺の弟は下の名前まで覚えているくせにね。
この時になるとさぁ、俺だってもういらいらしていたよ。俺は、自分で言うのもどうかと思うが、イケメンなんだよな。そこらのやつらとは顔が違うわけ。それなのに、覚えないってどういうこと? 平凡な顔のやつらと同じように見えてるってこと? もう、信じられないよ。だから、今度こそは覚えてもらおうと、その時は森途君に付きっきりでおしゃべりしていたよ。それでもだよ。彼はまた、やらかしたんだな。森途君は次に会った時も、俺を忘れていた。いや、俺自体を忘れていたわけじゃない。忘れているのは顔だけだ。俺が誰で、一緒にどんな話をしたかっていうのは、ちゃんと覚えているんだ。でも、その「俺」っていう彼の中の存在と俺の顔とが、俺が名乗るまで結びつかない。それで俺も火がついた。だって悔しいじゃないか。後でかおりちゃんから聞いた話だと、森途君っていうのは俺だけじゃなくて、家族以外の人の顔をなかなか覚えないらしい。でも、俺は家族じゃないか? 優斗の顔は覚えておいて、どうして俺の綺麗な顔を忘れるんだ、こら。どうして。
それで、まず何をしたかっていうと、本を買ったよ。心理学の本でね、俺はそれを携帯して読みまくった。一度なんかは電車でその本を読んでいると、まったく偶然に森途君に出会ってしまって慌てたよ。まぁ、彼のほうは俺の顔を見ても、それが俺だって気づいていないんだけどね。でもこっちが気がついた時には、俺をじいっと見ていたんだよ。つり革につかまって、ハードカバーを左手で持つ俺を、不思議そうな顔して。だから俺は慌てて本を隠して、森途君のほうへ寄っていったよ。そしたら彼は驚いてしまって――そうだよな、知らない人を見ていたら、いきなりそいつが自分のほうへ向かってなまじり上げて来るんだもんな。びくびくして、俺を見たよ。「す、すいません、不躾に」ぺこりと頭を下げた。でも、その物言いが逆にむかつくんだよな。そうだろう? やっぱり森途君てば、俺に気づいてなかったんだよ。他人だと思っているんだ。だから俺は「森途君、」と話しかけてやった。「また忘れているな。俺だよ。かわいいかおりちゃんのお婿さんの、お兄さんの、透さんだよ」
「町風さん」
森途君は目を一度見開いて俺を見た。それから、ああ、とため息を吐いた。
「良かったです。知らない人を怒らせてしまったかと思った」
怒っているんだよ、まったくもう。だが、俺はそれは言わなかった。
「何を読んでいたの? 僕なんだか、僕が好きな顔した人がいるな、と思って、君をじっと見てしまったんだけども。ああ、お兄さんだったんだね」
俺はその時、ちょっと衝撃を受けた。頭の後ろのほうをカチンと殴られたようになって、ちょっとの間めまいが消えなかった。でも、当然なんだよ。俺はイケメンなんだから。よつやく気づいたの? 森途君。だがくらつくようなめまいは、なかなか消えなかった。
俺は森途君の文章も読んだよ。こっちは何の気なしに、ただ暇つぶしでね。彼はとある地方紙で文化欄を書くのが仕事だ。現代美術紹介だの、いまお勧めの小説だの、俺にとってはそんなの、あってもなくても同じだがね、でもまぁ、息苦しい見出しの列のなかその欄だけがほわほわしていて、ほっと息がつけるのは間違いない。
心理学の本によると、人がよく覚えていることっていうのはだいたい三パターンあるらしい。
まず、何度か反復したこと。これは俺、もう何回もやってるよな?
それから、とても嫌いなこと。最後に、とても好きなこと。
まぁつまり、痛烈な思い出ってことだ。考えてみれば、当然だ。だがとても嫌なことっていうのはなんだろう? 彼は嫌いなものがあるだろうか? かおりちゃんなら知っているかな。それから好きこと……好きなこと……ええと、遊園地?
俺は遊園地が大好きだ。遊園地が嫌いな人間はいないと思っている。そうだ、間違いない。森途君だって好きなはずさ。だって遊園地が嫌いなやつなんか、この世にいるわけないだろう。そうそう、ようし、一緒に遊園地に行って思い出を作れば、森途君だって喜んで、容易に俺のことを忘れまい!
そうして俺は森途君を遊園地に誘った。
弟の優斗はそれを聞くと、兄ちゃん、突然いったいどうしたの、と呆けたような顔をしていたし、かおりちゃんはずるい、私も行く、私もお兄ちゃんと一緒に遊園地へ行く、と聞かなかったが、俺は決めたんだ。俺は森途君と二人きりで遊園地へ行く!
幸いなことに、森途君も仕事の都合がとれたようで、俺たちはその次の月のとある日曜日、男二人で某遊園地へ遊びに出かけた。
「町風さん」
意外なことに、その日は彼、俺のことを一発で認識したよ。まぁ、当たり前なんだけど、その日約束してたのは俺しかいないんだからね。だけど俺はそのことに気を良くして、ほほくとして、その日いっぱい大いにはしゃいだ。彼女はいない俺だけど、もしいたら、こんなもんなのかなってくらい、あのね、正直、楽しかった。我を忘れて遊園地を満喫してはいたけど、彼に対するサービスは忘れなかった。ソフトクリームも奢ってやったし、荷物も持ってやった。疲れたようにしてたから、多少やりすぎとは思ったが、ベンチへ座らせて肩だって揉んでやったんだ。どうだ。これだけやってやったんだ。もう忘れまい? ね?
一緒にお化け屋敷に入った。ジェットコースターも乗った。パレードも、プラチナ城の夜の花火だって肩を並べて見たぞ。あとはもう、俺、何したらいいか分かんないよ。痛烈に記憶に残る……俺を、森途君の記憶にきちんと残らせるために……キスでもしてみる? 俺は森途君の肩を掴んで――もちろん、優しくね――振り向かせた。そう、夢のようにライトアップされたプラチナ城の花火の前でさ。不思議に胸が高鳴ったよ――男なのにね! 普通に俺より背の高い、年上の、男なのにね。しかし、その時は夜のロマンチックな遊園地の、音と煌きの魔力のせいで、そんなことは気にしていなかった。でもね、考えてみれば、滅多なことをして嫌われるわけにはいかないじゃないか。それじゃ、本末転倒なんだから。だから結局、なにもしないで終わったよ。森途君は突然俺と向き合わされ、また突然俺がしょんぼりして肩を離したので、いくぶん訝しげにしていた。
「町風さん、さっき僕にキスしようとしたんじゃない?」
帰りの暗い車内で、助手席の森途君がいきなりそんなことを言うので、俺はびっくりして声を上げるところだったよ。バレていた? いや、でも、誤解なんだよ、森途君。キスしようっていったって、そういういやらしい思いはないんだ。本当だよ。
「そんなことをしなくてもね、僕はもう君をちゃんと覚えたよ」
お?
俺は助手席をちらっと振り返った。森途君の黒いあの目が、夜景の色んなライトをきらきら映していた。覚えた? 俺を?
「ど、どうして、俺がそれを気にしてるって分かったの?」
不思議に思って聞いてみた。
「町風さん、いつか電車で本を読んでいたね。あれを僕に見られないように隠したじゃないか。それで、僕は気になっていらいらしたんだよ。僕に隠した……ということは、僕に関することに違いない! ってね。変な趣味の本かな、とも思ったけど、それなら、僕に隠さなくったっていいじゃないか。僕は君の趣味を見たことがあるんだし」
そうだ、俺は何度目かに彼に会った時、あれは彼がひょっこり、かおりちゃんと共に俺のアパートへ遊びに来た時だったが、俺の趣味――エッチなゲームのヒロイン、変身少女真咲ちゃん――のグッズを見られている。
「だから絶対に、僕に関することなんだ。それで僕はその本がなんだったのかを調べたよ。かおりちゃんが、優斗くんにこっそり本を調べてくれるよう頼んでくれた。そしたら、記憶に関する心理学の本だった。……ごめんね。僕があんまり君を覚えないから、君はもどかしく思っていたんだね。今日の目的もそれじゃないかな?」
「そうだよ」
俺は怒って、言ってやった。彼が――かおりちゃんが、優斗が――そんなことをしていたのに、ちょっと驚いてはいたけど。
「俺は人より顔がいいのに、森途君にはそのへんのやつらと同じように見えてるってことじゃないか。許せないよ。俺は違うんだよ。そのへんのとは違うの。君はさ、そのへんの、君なんかどうとも思っていないやつらと、同じように俺のことを見てるわけじゃないか。なんだよ、俺は君のこと、大事に思ってんのに、森途君ってば、森途君ってば、俺のことなんか、君のことなんとも思ってないその他大勢の冷たいやつらと一緒なんだ」
俺は自分でも何を言っているのか分かっていなかったよ。ばかばか、って女の子みたいに拗ねた声をだしていた。気がついたらね。
森途君はそんな俺に引くでもなく、興味深そうに、気持ち悪い声で自分を罵倒する男――信じられないことに俺だ――を見ていたよ。
「透さん、ごめんね。僕は人の顔を覚えるのがとても苦手で……。でも、それは君のことなんとも思ってないなかったからじゃないよ。君のことは好きだったよ。だから会うたび顔は思い出せなくとも、あ、いい顔だな、理由は分からないが、僕この人の顔を見ていると胸がとろりとしてくるようだ、って思っていたんだよ」
も、森途君が俺を透さんって呼んだよ! この人、俺の下の名前も覚えていてくれてたんだ! いや、待って、それよりも……。
俺は森途君との今までの邂逅を思い出していた。そうだ、確かに最初の頃、彼は俺を見ても何も言わなかった。透だよ、と名乗っても、ああ、町風さん、と反応するだけだった。それがいつ頃からかな。彼は俺を見ると、誰だか分からないけど、と前置きして、色んなことを言っていた。俺は覚えられるのに必死で、気にしていなかったが……、君の顔が好きだなぁ、と言われたのは覚えているけど他にも――僕、君と仲良くなれそうだとか、僕は君と相性が良さそうだね、とか……。思えば、これはかなり好感度が高いのではないだろうか? 森途君は俺の動揺を知りつつ、俺の知らない、そら恐ろしいほど色っぽい顔で笑った。
「だが、君はもう覚えたからね。……ふ。僕に覚えられると大変だよ。よろしくね、ね、透さん……」
顔を覚えない男
初稿