雪女ノ抄

大学一年最後の作品。
テーマは「雪代」でした。
雪女の話をいくつか集めてみました。昔話として語られる切なく哀しい雪女の雰囲気を少しでも感じていただければ。
古文風に書いたので読みにくいと思いますが、書いている側としてはとても楽しかったです。

雪女ノ抄

雪女ノ抄
 其れは牡丹の花の様な、大粒の雪が深々と降る日の事。俺は負傷した己が右足を引き摺つて、雪深ひ山野に一人取残されてゐた。俺の前にも後にも居た筈の烏合の足軽は、何時の間にか何処かに消へ、眼前に広がるのは、絹の様に滑らかで一面真白の景色である。其の計り知れ無ひ広大な景色に、俺は唯々圧倒されてゐた。自然に畏怖を感じる事など、俺にとつては初めての経験だつた。主人寄り賜つた鎧が重く、平生なら気にも掛けなひ背の弓矢を、無性に邪魔だと打ち捨てたくなつた。然し、其れと言つて行動に移す訳にも行かず、俺は唯只管に雪から足を抜ひては又た埋め、抜ひては又たを繰り返してゐた。腹の虫が鳴き飽きる程、もう喉の渇きを誤魔化す唾すら出て来なひ。否、既に俺は腹の隙も、乾涸びた喉も、気にしてゐられる様な余裕が無い。無に陥りさふな気力を振り絞るばかりである。
此処で、こんな処で死ぬのだらふか。俺は半ば諦めてもゐた。風が無ひ事だけが救ひだが、一面真白では前後の区別も付かなひ。未だ遠くの空に日が見へるから良ひが、そんな物、後数刻も待たずに沈むでしまふだらふ。
嗚呼、如何した物か。
 だが、捨てる神居れば拾ふ神が何とやら、俺が良く見もせずに日だと思つてゐた物は、如何やら天の日では無かつた。四角く一点のみを照らす日等は無ひ。俺が見てゐたのは人家から漏れ出る火の明りだつた。将に地獄の仏とは此の事。俺は足の痛みも忘れ、夢中に成つて其の人家に這ひ寄つた。
 何方か居られるか。
 俺が戸口に向かつて、枯れ果てた喉を精一杯開ひて叫ぶと、中で何やら人が動く気配がした。俺は再び古惚けた戸に向かつて声を掛け、防具を失つた手で叩ひた。耳が凍つてゐるのか、己の声が遠く聞こへる。
 何方か居られるなら、だふか、中へ入れてはくれまひか。
 俺の声が聞こへたらしひ。枠に凍り付ひてゐると思はれた戸は、この様な粗雑な造りにしては、緩々と開ひた。
 どちら様で御座ひませふ。
 戸の隙間から覗ひたのは、年老ひた女だつた。手は年齢を重ねて皺だらけで、一面を覆ふ雪と同じ程に真白な髪は結上げる事もせず振乱されてゐる。戸が開くに従つて現れた顔も、二重にも三重にも皺が重なつてゐた。
 道に迷つて仕舞つた。済まぬが、今晩だけでも
 俺が全てを云ふ前に、老婆はおや其れは御気の毒に何も御構ひ出来やしませんがと、俺と同じ程嗄れた声で言つた。俺は簡易な礼を述べ、老婆につひて粗雑な一戸の屋根の下へ入つた。
雪に埋もれた外から見るより、幾分屋内は広かつた。そして何より、中は壁一枚で仕切られてゐるとは思へなひ程暖かく、凍つた体躯の表面が溶かされる様だつた。俺は熱ひ空気をたつぷりと吸ひ込むで、肺に詰まつた氷の空気を吐き出した。老婆は俺に囲炉裏の前を勧めてくれた。囲炉裏には灰がちになつた炭ばかりが、辛ふじて残つてゐる。それでも外とは比べ物にならなひ暖かさだつた。俺は冷へ切つた鎧と弓を置ひて、囲炉裏の前に遠慮もせず座り込んだ。囲炉裏では鍋が一つ掛けられてゐる。
「其れにしても、此の様な何も無ひ処に如何しました。」
 俺の耳は漸く機能し始めた。老婆の声がはつきりと掠れて聞こへる。俺は老婆に、戦の最中、何時の間にやら味方の兵から離れた経緯を簡潔に述べた。老婆は話の間中、まるで死んだ様に動かなかつた。頷く事も、欠伸や咳すらもしなひ。俺は置物に話し掛けてゐる様な心持だつた。
「それは大変な事で御座ひましたねェ。」
 俺が話し終へると、老婆がのつそり云つた。やつと動ひた老婆に、俺は酷く驚かされた。老婆は囲炉裏に溜まつた灰を掻き回して、目はそれに集中してゐる様だ。
「一時は如何なる事かと思ふたが、否、然し此処に辿り着ひて助かつた。若し、あのまゝ一人で雪中行軍を続けてゐたら、如何なつてゐた事か。改めて礼を云ふ。」
「助かつた、で御座ひますか。」
 老婆は灰を掻く手を止め、俺の方に顔を上げた。数へ切れなひ程の皺一本一本に、囲炉裏の火が映つてゐる。実に醜悪な顔である。俺は唐突に此の老婆の前に坐つてゐる事が恐ろしくなつた。此奴は誰だと、俺が何処かで言つてゐる。老婆はしつとりと緩んだ口をもごもご動かしてゐる。聞き取り難ひ声だ。
「此の辺りは、昔から人ではなひ者が出ると言はれております。」
「人ではなひ?」
 俺が聞き返すと、老婆は静かに頷ひた。そして、幾分はつきりと声を張つて語り始めた。
「今の様な雪深ひ日に現れると云ふ、雪女で御座ひます。

雪女ノ謀
 其れは牡丹の花の様な、大粒の雪が深々と降る日の事です。
ある僧侶が日の傾ひた道を只管歩ひて居ります。僧は此の先に有る寺に向かつてゐるのでした。頭に被つた笠に白ひ牡丹が積もつてゐます。僧は黙々と、深ひ雪を踏みつける様に屈強な両足を前へ前へと進めます。僧の視界には自分が被つてゐる笠の縁と、雪のみが映つてゐました。音の無い、真白な中、僧は自分が歩ひてゐるのか、其れとも道が動ひてゐるのか、判別が付けられなくなつてゐました。長く歩き過ぎた為か、僧の視界に突然割つて入る者が在りました。其れは辺りを埋め尽くす雪と区別が付か無ひ程、真白な女の着物でした。僧が笠を上げると、其処には女が立つて居りました。雪を映した様な純白の肌をした女です。余に其の肌が白ひので、女の真黒な髪と真赤な唇は、宙に浮ひてゐるかの様に見へました。
 若し、其処の人、こんな所に何用か
 見ると、女は素足に何も身に着けて居りませんでした。裸足で雪の上に居るのです。僧は驚ひて、思はず声を掛けました。すると、女はゆつくりとした動作で僧の方をを向きました。日が落ちた為でせふか、女の瞳はまるで夜空の様でした。
 この様な雪の日に、そんな恰好で居ては病に罹ります
 僧が何を言つても、女が口を割る様子は有りません。只、目の前の僧を下から上へ、緩慢な視線を巡らせて、やがて笠の影に隠れさふな僧の両眼を見つめて、女は口角を僅かに上げただけでした。その美しさと言つたら、俗世を捨て去つた筈の此の僧侶が、思はず見惚れてしまふ程でした。
 こ、この様な所、女子一人では危なひ。此の辺りは少し先に寺が有るばかりだが、何か其処に用事でも有るのか
 女は唯、首を横に振ります。僧は此の世の者とは思へなひ其の美しさが、徐々に恐ろしくなつてきました。
 そ、其れならば、何かを待つてでも居るのか
 女は暫し間を置ひて、こくりと首を縦に振りました。
 さふか。貴女の様な美しひ女子を一人で待たせるとは、一体何を待つて居るのですか

 彼方を

 其れきり、男が物言ふ事は遂に有りませむでした。
雪の冷たひ結晶の代はりに、春の暖かな日差しが野原に降る頃、其の僧は、何時まで待つても辿り着かなひのを見兼ねて探しに来た他の僧に依って、漸く目的の寺に到着しました。
 其の身体は氷の様に硬く冷たくなつてゐて、手にはあの女が着てゐた真白な着物を持つて、其の顔に未だ溶け切らなひ氷と、


恐怖を張り付けたまま……―――



    *

 老婆は話終へると、ぴたりと口を真一文字に結むだ。貝の様に閉ざされた老婆の口元を凝視しながら、俺は自分の口がぱつくりと開ひてゐる事に気が付き、慌てゝ口を閉じた。
「そ、そんな話が有るのか。」
 囲炉裏の前で、俺は微かに身を震はせた。目的地の有無こそ違へど、僧侶の状況は先刻までの俺の状況と酷似してゐる。
「此の辺りに古くから伝はる、唯の昔話で御座ひます。」
「あ、嗚呼、そふか。」
先程の自然への畏怖と似た様な恐怖が、俺に襲ひ罹つたのが解つたが、武士たる者、老婆の話に恐れを為した等と知られる訳には行か無ひ。俺は老婆に気付かれ無ひ様、居住まひを正し、一つ咳払ひをした。
 此の様な昔話は良く有る。大抵は、子供の戒めの為なのだ。今の話も、恐らくは雪の日に子供が勝手に外へ出なひ様にする為だらふ。雪の多ひ土地柄、其れが雪女の話に成つたのだ。
「そんな類の昔話なら、俺も幾つか餓鬼の時分に訊ひた覚へが有る。大方は雪の多ひ日に外へ出るのは危なひと躾ける為だらふ。」
 俺が早口に云ふと、老婆は又た灰を掻き回し始めた。
「そうでせふかねェ。」
 老婆は灰に視線を落としたまゝ、長く息を吐ひた。
「こんな話が御座ひます。


雪女ノ休
其れは牡丹の花の様な、大粒の雪が深々と降る日の事です。
大層大きな山が連なる中、或る一つの山の麓に、小さな集落が有りました。其れは村と呼ぶにも小さ過ぎる程の人の群れです。群れの中には十人ばかりが集つて居りました。山の木の実を採つて、獣を捕つて、集落は細かな問題が多少有る他は、至つて平穏な物でした。
扨て、其の細かな問題と云うのも、所詮は何処にでも有る様な物で、其の中の一つに一人の娘の存在が挙げられました。まだ十三に成つたばかりの小娘でしたが、此れが好奇心の塊の様童女で、集落の中でも扱ひに困る手合でした。木の実を採りに出掛ければ鳥を追ひ掛けて迷子に成り、獣を捕りに出掛ければ何時の間にか腹の足しに成らなひ様な小動物と戯れる始末です。
そんな娘が、此の集落に生まれ出でてから、ずつと気に病んでゐる事が有りました。其れが集落の直ぐ近くに有る掘立小屋の事でした。人気の無ひ小屋は、夏には雑草に覆はれ、冬には雪に埋もれ、良くもまあ立つて居られる物だと遠くから眺めて娘が感心する程でした。何時だつたか、まだ娘が今よりも小さひ時分に、母に尋ねた事が有りました。

 母さん、あの小屋は如何して立つてるの

 擦り切れた着物の裾を引つ張りながら問ふた娘に、母は叱責する時の口調で云ひました。

 余り見る物で無ひよ。あれはね、山神様の祠が祀つて有るんだと
 
 何度見たひと地団駄を踏んでも、母は決して首を縦には降らず、手を強く引かれて畑仕事に戻された事を、娘は昨日の事の様に覚へて居りました。何度か、こつそりと仕事を抜け出して小屋に入ろふと試みた事も有りましたが、其の度に必ず誰かに見つかつて仕舞ふので、今ではすつかり小屋の中を確認する事を諦めて居りました。
 然し、或る寒ひ冬の日の事です。娘は夜中に突然目を覚ましました。隙間風か、将又祖父の大きな鼾の所為か。理由は娘にも解りませんでしたが、兎に角、一度目覚めてしまふと中々寝付け無ひ物で、娘はあつちに寝返り、こつちへ寝返りして居りましたが、如何にも寝られる様子が無ひので、隣に寝てゐる祖父や両親を起こさぬ様、そつと寝床を抜け出しました。粗末な家の出口を僅かに開けると、外の凍へる様な風が入つてきます。一瞬にして身体が冷へて仕舞ふ程の寒さでした。若干の後悔を抱きながら娘が戸を閉めやふとすると、風の音と祖父の鼾に混ざつて、何か別の音が聞こへて来るのに気付きました。其れも、一つや二つでは有りません。幾つかの種類の音が遠く何処からか聞こへます。
「何だらふ」
 娘は閉じ掛けた戸の隙間に耳を当て、音を聞き取らふと聴覚を研ぎ澄ましました。娘に聞こへてきたのは、年端も行かなひ童子の笑ひ声の様でした。其れも一人二人では無く、何人もの声と足音です。更に其れに混じつて機織りの音も微かに聞こへます。
「こんな時間に……誰……」
 此の集落には、娘よりも齢の若ひ者は居りません。三軒連なつてゐる集落の家は、何処も真暗で起きてゐる様子は有りません。娘が戸から首だけを出して辺りを見回すと、一軒だけ、灯りが点る家が有りました。其れは、幼き日に母に諌められたあの小屋でした。童子の声と機織りの音は、その窓から囲炉裏の火と一緒に漏れ出てゐるようです。娘はぞく〱と背に這ひ上る冷気を感じましたが、好奇心は冷める事が在りませんでした。家の者が皆寝入つてゐる事を確めると、娘は蓑を被つて大粒の雪の中へ飛び出しました。身を突き刺す様な寒さが娘を襲ひますが、長年待ち焦がれた機会に胸を躍らせる娘は寒さ等感じてゐない様です。寧ろ、息を弾ませて、身体中が火照つてゐるのを感じる程でした。
積つた雪の上を飛び跳ねる様にして小屋に近づくと、其の小屋が娘の思ひの外、小さひ造りで有ることに気付かされました。然し、娘が小屋の前に立つと、機織りの音はふつりと止んで仕舞ひました。童子の声も潜めてゐる様です。気づかれただらふかと思いながらも、娘は逸る気持ちを抑へ切れません。
「済みませむ」
 娘は試しに戸に向かつて、呼び掛けました。返事は有りませむ。
「済みませむ。何方か居られませぬか」
 今度は戸を叩きながら、先より大きく声を張つて呼び掛けます。其れでも矢張り返事は有りませむ。
 業を煮やした娘は、凍り付ひた戸に手を掛けました。知り合ひばかりの集落で生まれた娘には他人の家に入る時の躊躇など有りませむ。ほんの数秒、がたがたと揺れただけで、戸は娘に依つて開け放たれました。
 長年中を見たひと願つてゐた小屋の戸を開ける事に成功した、其の歓喜の声を上げよふと、娘が口を開いた瞬間でした。
 娘は確かに小屋の中を見ました。其処には娘が予想した通り何人もの童子が居て、機織りが置かれてゐました。童子は皆、一様に真白な着物で、更に云ふと髪や顔色までもが真白で、機織りの周囲で遊んでゐた様でした。機織りは女が動かしてゐます。童子と同じ様に、白ひ着物を纏つた女です。流れる様な手付きで機を織つてゐます。然し、娘が戸を開けた瞬間、まるで其の時を待つてゐたかの様に、童子は一斉に、娘を避けて、雪の夜に飛び出して行きました。其の早ひ事、後から残された女が戸口まで歩み寄ると、もう童子の姿は見へ無くなつてゐました。女は突然の訪問者の頬へ静かに手を伸ばします。長年の夢を叶へた娘は、其処に歓喜を残したま々、凍つてゐました。



    *


「其れは……其の女が雪女だつたのか……」
 唐突に終りを告げた老婆の話は、一瞬俺には飲込み切れ無かつた。娘が開けた戸の先に在つた、女と童子の光景は、俺には寄り沿つた男に先立たれた女が自分の子を連れて熱心に機織りをしてゐるにしか思はなかつた。老婆はそふなのでせふと云つた切り、だむまりを決込んだかの様だつだ。そんな老婆に俺は独り、不安を感じてゐた。老婆が静まつた小屋の中は、外の風が小屋を揺らす音と、囲炉裏の火が薪を減らす音が鳴るばかりだつた。眼前に薪が勢ひ良く燃へてゐると云ふのに、俺は背筋に寒気を感じて身を震はせた。
「如何しました」
 老婆の話に身震ひした等、武士たる俺が知られる訳には行かなひと、俺は再び姿勢を正した。
「否、何も無ひ。隙間風だらふ。」
「さふですか。済みませむねェ、此の小屋も長ひ事妾一人だ物ですから、彼方此方傷むでゐるのですよ。昔は此の辺りにも、もう少し人家が在つたのですけれどねェ。一人、亦一人と出て行つて仕舞ひました。すつかり廃れて、此の老婆一人が取残されて、只死を待つばかりです。」
 老婆は自虐を漏らすと、己が小屋の中を見回した。其れに釣られる様にして俺も小屋を見回す。じつくり見ずとも小屋は何処も年数を感じさせる物ばかりで、天井の一角には蜘蛛の巣が蔓延り、腐つてゐるらしひ壁が黒ずむでゐる。俺が身動ぎすると、俺の下で床板が僅か軋むだ。
「古ひですねェ。此の小屋も良くまァ妾が生有るからと云つて保つてくれて居ますよ。」
 老婆は醜悪な顔を歪ませた。如何やら嗤つてゐる。
「こんな話が御座ひます。



雪女ノ妙
 其れは牡丹の花の様な、大粒の雪が深々と降る日の事です。
 一人の男が雪山を這ふ様に進んで居りました。男は一兵として飛込むだ戦火の中で、右足を負傷してゐたのです。足手纏ひとなつた男を顧みる者は無く、男は何時の間にか一人になつてゐました。男の凍てつひた眼に映るのは、雪化粧を纏つた山の景色だけです。前も後ろも解らず、男は膝を突きました。己れは此処で死ぬのか等と考へて、意識を手放し掛けました。瞼を閉じ、既に柔らかさしか感じる事の無くなつた雪に身を任せました。然し、其れでも男は首を振つて起き上がります。未だ死ね無ひと呟きながら、腕に満身込めて進みます。
 男が諦めを見せ無かつた故でせふか。男が顔を上に上げると、降り頻つてゐた雪が僅かに其の勢ひを弱め、男に視界を与へました。そして亦、何の加護か、雪に埋もれる様にして一戸の小屋が在ります。隙間から漏れ出る灯りから察するに、中に誰か居る様です。男は足の痛みも忘れたかの様に、小屋に向かつて雪を掻き分けました。
「何方か居りませぬか。」
 男が戸口を叩きながら、枯れた声で叫びました。すると、小屋の中で何やら人が動く気配がします。男がもう一度叫ぶと、か細ひ女の声が返つて来ました。
「どちら様で御座ひませふ。」
 女の声が云ひます。男は戸に縋りながら頼み込みました。
「道に迷ひ、此処まで辿り着きました。如何か中に入れてはくれませぬか。」
「まァ其れは御気の毒でしたねェ。何も有りませむが、こんな小屋で良ければどうぞお入り下さひ。」
 そう云つて、開ひた戸から覗ひたのは、矢張り若ひ女でした。其れも、男が此れまで見た事の無ひ様な美しひ女です。男は一瞬、本当に足の痛みと寒さを忘れました。白く肌理細やかな肌、綺麗な瓜実顔に切れ長の目と小さな唇が付き、女が纏つてゐるのも雪の様に真白な着物でした。
「如何しました。」
 戸口で立ち尽くす男に首を傾げて女が云ひます。
「否……何でも有りませむ。」
 女に促され、男は漸く小屋の中に入りました。中は中央に据へられた囲炉裏の為でせふか、男は一つ深呼吸をしただけで凍つた身体の芯から温まつて行くのを感じました。女に囲炉裏の前を勧められ、男は僅かに残つてゐた防具を外し、火の前に坐りました。囲炉裏の中は灰ばかりに見へましたが、近づくと熱ひと思ふ程でした。
「其れにしても、此の様な何も無ひ処に如何したのですか。」
 男が落ち着ひたのを見て、女は微笑みながら問ひ掛けました。
「其れが、私は此の辺りを治める主に命ぜられ、山の麓での戦に一兵として闘つてゐたのです。然し、私は平生は田畑を耕してゐるだけの農民。僅かに与へられた武器の使ひ方等解る筈も無く、何時の間にやら降り始めた雪に惑はされ、気が付くと此の様な山奥に居たと云う訳なのです。」
「其れは其れは、大変な事で御座ひましたねェ。」
 男が簡潔に此処に至る経緯を述べると、女は同情する様に眉根を寄せた。
「然し、一時は死をも覚悟したが、此処に辿り着けて助かりました。若し、其のまゝ一人で雪に埋もれて居たらと思ふと、身震ひがしてきます。否、本当に助かつた。有難ふ御座ひます。」
 男が畏まつて頭を下げると、女はころころと玉を転がす様に笑つた。
「嫌ですよ、そんな改まつて礼を云はれても困ります。妾は此処に住むで居ただけ。其処に偶々彼方が来られた、只其れだけでは有りませむか。妾は何もしては居りませむ。」
「否、貴女が居てくれたからこそ、私は助かつたのです。有難ふ御座ひます。」
「大袈裟な人だ事。」
 女は灰掻きを何処からか取り出し、真白になつた灰を掻き始めました。其の皺一つ無ひ手を見つめ、男は暫し沈黙します。囲炉裏の中の灰が、外に敷き詰められた雪に見へて、一瞬悪寒が走りました。
「貴女は、如何してこんな雪山に一人で居るのですか。女一人では、何かと不便も有りませふ。如何して」
 男が気になつた事を問ふと、女は艶やかな唇を一瞬結び、不自然に口角を上げました。そうですねェと女は微笑みながら云ひます。然しながら、俯ひた其の顔に、男は寒気を覚へました。まるで戸口の外に追ひやられたかの様な寒気が、女の顔を見ると、男の背を這ひ上がるのです。
「如何して、で御座ひますか。」
 女は灰掻きの手を止めて云ひます。
「妾は、待つて居たのです。」
「待つて居た」
 男が聞き返すと、女は静かに頷きました。そして、再び声を張つて云ひます。
「ええ、待つて居りました。」
 ゆつくりと顔を上げた女と視線が交はつた瞬間、男は此れまで以上の、屋内にしては不自然な程の、寒気を感じました。思はず身を震はせる程です。女は男に視線を向けたまゝ、音も無く立ち上がりました。男は女を見上げたまゝ、凍つた様に動く事が出来ませむ。
「妾は、妾と共に此処に居て下さる殿方を待つて居りました。」
 女は男に手を伸ばし、其の頬に触れました。女の手は氷の様に冷たく、男の体温を奪つて往きます。男には目の前の女しか見へて居りません。女の囁く様な優しひ声音が、何処か遠くの方から聞こへて来る様な気がします。
 彼方は 何も考へずとも 良ひのです 妾に 任せて居れば
 男は雪の中に居りました。囲炉裏が中央に据へられた暖かな小屋では有りませむ。囲炉裏も戸も壁も屋根も、何処かに消へ、残つてゐるのは目の前の真白な女只一人だけでした。男の身体は足元からゆつくりと雪に同化して行きます。抵抗しよふにも、身体は女の手から生気を奪はれた様にぐつたりと男の云ふ事等聞き入れません。男の思考すら雪に埋没して行く様で、男は最早人としての機能を失つてゐます。
 指一本も動かせず、女の微笑みだけが瞼に焼き付ひて、男に残つたのは右頬に触れる女の手の感触だけでした。消へ去つて行く意識の中、男は唯一動く唇を震はせて、男にしか聞こへ無ひ様なか細ひ声で呟きました。
 雪代……
    *


 如何しました

 俺の微かな聴覚は、老婆の声を辛ふじて捉へた。然し、俯かれた己が頭を上げる力は無ひ。囲炉裏の前で硬直する俺に構ふ事無く、老婆は尚も話し続ける。

 随分、時間も経ちましたねェ

雪女は雪深ひ山奥に潜んでゐるのですよ

多くは目を奪はれる様な美しひ女だと云ひます

本当は其の様な美しひ者ばかりでは無ひのですけれど

何故でせふねェ、人間に伝はる雪女の話は美しひ女ばかりです

雪女は男を凍らせて山奥に連れ帰るのです

其の為に男の気を惹く様な姿だと伝はるのでせふ

ですが、男を引き留められゝば、どんな姿でも良ひのです

例へば、女で無くとも、人の姿で無くとも

 俺には既に目の前に有る筈の囲炉裏が見へてゐ無ひ。見開かれた目に映つてゐるのは、只真白な雪ばかりだ。何時の間に俺はあの古惚けた小屋から出たのだらふ、凍り付ひた俺の記憶をどれだけ遡らふとも、俺は囲炉裏の前から移動した覚へは無かつた。
 嗚呼、何故だかとても眠ひ。
 俺が蚊の鳴く様な声で囁く。老婆は其の声をはつきりと聞き取つたらしひ。優しひ声音が返つて来る。

 寒ひですねェ

 今夜は随分と冷へ込む様で御座ひます

 冬はまだ続きますよ

急ぐ必要も無ひでは有りませむか

ゆつくり、お休みなさひ

老婆の言葉は温かゝつた。俺は有難ふではそふさせて貰ふとだけ云ひ残した。
此の雪深ひ山に、春は来るだらふか。若し、雪解けを齎す春が来たなら、俺は其の時故郷の村に帰れるだらふ。老婆が話してくれた話の中に居た男の様に、誰かが見つけてくれるのだ。俺は確信した。
きつと、其の為に老婆は俺に話をしてくれたのだ。



    *


 男は目を開けました。辺りは一面銀白の雪で覆はれてゐます。男は長ひ〱夢を見てゐた様な気がして、揺る〱と起き上がりました。夢の中で起き上がれ無かつた事が嘘の様に、男は怪我の残る足を立て、しつかりと立ち上がる事が出来ました。男はぐるりと一回り、景色を見渡しました。雪は月明かりを写して明るく、空は月以外に星は有りませむ。夜の空と、雪の地上の境界に、くつきりと線を引けさふな、そんな夜です。雪と、空と、月と、其れ以外には男しか居なひ、静かな〱景色でした。ふと、男は自分の手に握られた真白な衣に気が付きました。其れは、紛れも無くあの美しひ女が纏つてゐた衣でした。雪の様に白ひ衣は、男が両手で持つと、まるで溶け逝く雪の様に消へて無くなつて仕舞ひました。
 男は雪に埋もれた足を引き抜き、白ひ息を大きく吐出しました。男の吐ひた白ひ空気が夜に溶けると、其の向かふに灯りが有りました。月では有りませむ。況してや、古小屋から漏れる囲炉裏の火でも有りませむ。其れは、人里から漏れる灯りに思はれました。
「村……灯りだ……」
 その灯りが郷里の物であると、必ずしも解つた訳では無ひのに、男は何処に残つてゐたのかと思はれる程、力強く進み始めました。雪を掻き分けて灯りが良く見へる様に背を伸ばしました。幸運にも、其処は間違ひ無く、男の村でした。戦に出るからと、武功を上げて戻つて来るからと、男が妻を置ひて来た其の村です。
「帰つて来られた……のか。」
 此れ程近くに自分の村が有る等、誰が予想出来たでせふ。男は暫く呆然と立ち尽くして居ました。軈て、沸々と湧き上がる感情が在りました。男は其の感情のまゝに、歩き始めました。
嗚呼、之で、雪代の元へ戻れる
微かな灯りの群生の、一つがそうなのだと、妻の名を口にする事で自らを奮ひ立たせました。先程の囲炉裏の有る小屋は、きつと夢の出来事だつたのだ、男は既にそう思ひ始めてゐます。
然し、其れは夢等では有りませむ。女が触れてゐた男の右頬は他と比べて紅く染まつて、男が女の小屋に置ひた防具や武器は、今や男の手には持つてゐませむ。
 冷やかな山風が男の頬をそつと撫でます。
 牡丹の花の様な、大粒の雪は、何時の間にやらすつかり止むで仕舞つてゐるのでした。
                  
                       終

雪女ノ抄

この作品は本当に、特に読んでいただいてありがとうございますといわせてください。
読みにくい作品を作ってしまいました。
雪が降っているとき、雪に囲まれているとき、なぜかいつもより街が静かに感じられるのはなぜなのでしょう。
冬の寒い日、雪がしんしんと降る中、そんな雰囲気を感じていただけたなら。

雪女ノ抄

或る戦の最中、己が足を負傷した一人の男が居た。 降頻る真白な雪の中、男が辿り着ひたのは一人の老婆が住む小屋であつた。 男は藁にも縋る思ひで其の小屋に逃げ込むだ。 冷へ切つた男に、老婆は温かな飯を用意する。 「雪女を、御存知でせうか。」 老婆は語り出す。切なく冷たひ、身も凍る様な昔語り。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-02

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著作権法内での利用のみを許可します。

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