「夜分遅くに申し訳ありませんが」

締切というものの厳しさを知った大学での二作品目。
テーマは「星座」でした。
書店で見つけた絵本からヒントを得て。
後悔は最期の場面を勢いだけで書いてしまったこと。本当に、それだけが後悔として今も残ります。

誰かが死ぬということは、とても悲しいこと。
それを看取る死神はどんな気持ちでその最期を見つめているのだろう。
そんなことを少し想像してみました。

夜分遅くに申し訳ありませんが。

「夜分遅くに申し訳ありませんが」
 しんと静まり返った部屋の中で、訳もなく眠れない夜。そんな夜に溶け込んでしまいそうな静かな声が聞こえたら、それは私の声だと思って間違いはない。豆電球だけが点けられた薄暗い部屋の中で、その声の方を向けばきっと私がそこにいる。名前を確認し、ゆっくりとフードを取って、私が一言。
「お迎えに上がりました。」
 夜空を映したような漆黒のマント、右手には背より高い柄の鎌、左手には真っ赤な文字がびっしり書かれた本を持つ。その姿を見、その声を聞けたなら、聞いた者の命はあと三日で消えようとしている証拠だ。ある者は怯え、ある者は怒鳴り、ある者は嫌だと泣き喚き、拒絶を示す。初めはどんなに馬鹿馬鹿しいと嗤っていても、嘘だろうと相手にさえしなくても、最期のときになれば自ずと悟ることになる。
 死にたくないと、人間なら誰もが一様に同じ思いを持っているらしい。だから私は最期に最後の願いを一つ叶える為にやってくる。未練という厄介なものを残さないように、すんなりと逝ける様に。
「私は、死にゆく者の最期を見届けるために、参りました。」


 一日目。
 灰色の分厚い雲が空を覆う、真っ暗な夜。都会から遠く離れたこの場所は、一メートル先の視界さえ確保できないほどの暗闇だった。辺りは森か林か、さもなければ何もない狭い平地が所々に見えるだけである。無論、本来ならば人影などは見当たるはずもなかった。だが今夜だけは例外である。生い茂る樹木を避けるように伸びた一本の道。そこに裾を引きずりそうなほど長い真っ黒なマントを着た何かが立っていた。フードからわずかに覗く顔の半分は、夜闇のせいか月の表面のように蒼白だった。そんな怪しげな影は、顔をわずかに上げて、ある一点を凝視していた。
 小高い丘の一番上。森に隠れるようにしてひっそりと、忘れ去られたような洋館があった。大きな館だ。明るい間に見たなら、もしかするとアンティークでお洒落なイメージでも与えてくれたかもしれない。しかし残念ながら、深夜の、それも月明かりさえない状態では、古びた洋館は見るものに不気味な印象しか与えてはくれない。それにもかかわらず、その洋館の三階、一番端の部屋には微かな灯りが見えた。豆電球一つ分の灯りは、その部屋に住む少年の頬を照らしていた。普段ならもう夢の中にいる時間。ただこの日だけは、なぜかいつもより寝つきが悪かった見え、少年は枕を背に当て室内を見るともなく見つめていた。
 コンコン。ふと、部屋の扉を叩く音がした。小さな音だったが、少年の耳にははっきりと聞こえた。まだ寝つけずにいたことが家の人に知られてしまっただろうか。少年は「はい。」と返事をした。しかし、続いて扉を開けて入ってきたのは、少年が予想した人物などではなかった。見たこともない、長い黒いマントを着た何か。
「夜分遅くに申し訳ありませんが」
 黒いマントは少年の部屋に音もなく入ってそう言った。少年は突然の侵入者に声をなくして、ただ目を丸くすることしかできない。影は続けて言った。
「瀬戸オトヤ、ですね。」
 影は少年の名を知っていた。驚き怯えながらも、オトヤは首を縦に揺らした。それを確認すると、影は恭しく頭を下げ、オトヤに向かって礼をした。
「あ、あなたは誰……?」
 ここでようやくオトヤの声が戻ってきた。上擦った声でやっと言ったのはその一言だけ。聞き取りづらい質問を受けて、影は答える。
「私は、貴方をお迎えに上がりました者でございます。」
「む、迎えに……?」
「はい。」
 オトヤはその澱みない答えを聞いたとき、頭に閃くものがあった。つい先日読んだばかりの本の挿絵。そこに描かれていた、真っ黒なマントと大きな鎌を持った、恐ろしい姿の絵。目の前の黒いマントを着た影は、その絵に酷似していた。
「あなたは……死神、なの? 僕を迎えに来たって、僕はもうすぐ……死ぬの?」
 本で得た知識を基にした問いかけは、薄明りの室内に微かな余韻を残した。黒い影はフードを被った頭を上げて、言う。
「私は私のことを死神とは呼びません。私は神などではありません。ヒトが勝手にそう呼ぶのです。ですが、もう一つの問いには、はい、と答えましょう。」
 オトヤの質問に、影は快闊に答えた。
「貴方は三日後のこの時間に、最期の時を迎えます。」
 場は突如、沈黙した。森を駆ける風が木の葉や枝を揺らす、その音すら聞こえない。オトヤと死神は、視線を交わらせたままお互いに硬直している。長い沈黙を破ったのは、死神の方だった。
「貴方の最後の願いを、一つだけ叶えましょう。この世に未練を残さないように、一つだけ。」
「ねがい……? なんでもいいの?」
「どんなことでも。」
 死神はまだ瞳に幼さが残るオトヤを見つめながら、どんな願いだろうかと予想していた。オトヤは困ったような顔をしている。この年齢の少年少女を相手にするのは、これが初めてのことではない。死を宣告されたとき、こうした少年がどんな願いを口にするのか、だから予想できるはずだった。大方、手に入らなかったゲームが欲しい、連れて行ってもらえなかった遊園地に行きたい、そうでなければ仕事で忙しい両親に会いたい、そんなところだろうと当たりをつけていた。ところがオトヤの願いはそうした予想の数々を悉く裏切るものだった。オトヤはしばし悩む様子を見せ、しばらくしてから突然死神に向かって近くに寄るように手招きした。オトヤが座るベッドのすぐ横まで死神が来ると、オトヤはその長いマントを掴んで、縋る様に願い事をした。
「……僕と一緒にいて。」
「……一緒に?」
「うん。」
「私が? 貴方と?」
「うん。」
 今度は死神の方が困惑する番だった。まさかそんなことを願われるなど想像してはいなかった。今までただの一度も願われたことのない願い。黒いマントを着た死神は、逡巡の末に、努めて冷静に答えた。
「それは、願われずともそうなります。貴方の死の瞬間まで、側で見守るのが私の責務です。もし、それ以外の願いがありましたら、そちらを叶えましょう。」
「側にいてくれるの?」
 オトヤはそれを聞いた瞬間、ぱっと花が咲いたように笑った。その周りだけ日の光が差した様な笑顔だった。見たことのない表情に死神の方は狼狽えるしかない。
 結局、オトヤの願いを聞くことなく夜明けを迎えた。

 二日目。
 オトヤは明るく、無邪気な少年だった。年齢のわりに子どもっぽさが残っているのは、世間に出たことが少ないことに依るらしい。オトヤは生まれた時から体が弱く、外に出たことも数えられるほどしかないようだ。ベッドの上で読書をしているか、窓から見える景色を眺めるか。することといえばそれくらいだそうで、家の中どころか部屋から出ることも少ないと言う。死の宣告を受けた少年は、その衝撃的な告知よりも、他人が責務とはいえ常に一緒にいてくれることが嬉しくて仕方がないらしい。本を読んで、窓の外を見て、少しでも気づくものがあると「見て見て!」と楽しそうに指差した。オトヤの貴重な最後の三日。その一日目は、隣にいる死神に自分の発見を一つひとつ指差しているだけで終わってしまった。
 オトヤの部屋には、二人の人間が訪れる。一人はこの洋館に住む老婦人で、オトヤの親戚だという。世話好きといった風のぷっくりとした、人当たりのいい婦人だった。
「オトヤくん、朝ご飯ができましたよ。」
 オトヤの一日は、婦人のこの呼びかけとドアのノックから始まる。
「おはよう、オトヤくん。」
「おはようございます。今日はフレンチトーストですか。いい匂いですね。」
「そうですよ。オトヤくんはこれが好きですものね。さ、どうぞ。」
 婦人は目の前にいる死神には目もくれず、真っ直ぐオトヤの隣に食事を載せたカートをつけた。
「いただきます。」
「はい。おあがりください。」
 オトヤが食事を終えるまでの時間、婦人はベッドの端に腰かけてそれを見守っている。こんな山奥でひっそりと暮らす二人にとっては、さして目新しいことなどないだろうに、食事の間はずっと楽しげに会話をしている。
「ああ、ほら。またお口の端についていますよ。焦らずにゆっくりおあがりなさいな。」
 そう言って婦人はオトヤの口の周りを拭った。甲斐甲斐しく世話を焼く婦人は、笑顔で部屋に入り、笑顔で出て行く。しかし食事を運ぶ時以外にはあまり部屋に立ち入ることはなかった。
 この部屋に出入りするもう一人の人間は、病弱なオトヤの主治医だという若い男だった。一見してとても医者には見えないこの男は、毎日ちょうどオトヤが昼食を食べ終わった後にこの洋館に訪れる。つんと尖った鼻に四角い黒縁メガネを載せ、ジーパンにワイシャツを着てやってくる男は、開口一番「やあ。相変わらず幸の薄そうな有様だな。」と意地悪く言う。
「こんにちは。診察ご苦労様です。」
「そう思うなら、早く良くなってほしいものなんだがね。」
 黒い大きな鞄をベッドの上、オトヤの足があるあたりに置くと、男は医者らしく聴診器を取り出し診察を始めた。奇妙な光景だった。ベッドにいる病人を、医者が診察する。その隣には死神が立っている。医者の目には死神の姿が映ることはなかった。しかしその場にいる何者かの気配を感じ取っているのか、男は死神のいるあたりを何度かちらりと確認していた。
「……残念ながら良くなってはいないようだ。わたしがやった薬はきちんと飲んでいるんだろうな? サボると治りが遅くなるぞ。」
 男は表情一つ変えず、淡々と診察を終える。オトヤは意地の悪い言葉を投げかけられても、へらっとした人懐こい顔だった。
「ちゃんと飲んでるよ。言われた通りごはんの後に。僕だって早く治して遊びたいんだから」
「それもいつになることか。」
「意地悪だなあ。」
 あははと笑いながら、オトヤは診察が終わったばかりの腹を撫でていた。その様子を横目でちらりと盗み見て、医者はそれを誤魔化すように眼鏡を掛け直す。
「とにかく、外に出て遊びたいならもうしばらくは我慢だ。そこの眺めの良い窓から勝手に外へ出ようなんて、間違っても考えるなよ。」
「わかってるよ。そんなことしないってば。」
「今日から一つ薬を増やそう。またあのばあさんに預けておくから、忘れずに飲めよ。」
「うん。ありがとうございます。」
 男は最後まで無愛想を貫き通し、ばたんと音を立てて出て行った。後に残ったのはオトヤと死神。オトヤは死神ににっこりと笑いかけると、手に届く位置に置かれた車椅子に乗った。自分で車椅子を操作して、窓際まで移動する。森にはもう夕焼け色が広がっていた。空を見上げるオトヤの頬も紅く染まっている。死神が静かに隣に寄ると、オトヤは人差し指を空に向けた。
「見て。あれね、僕のお父さんとお母さん。」
 死神には一瞬意味が分からなかった。小さな人差し指の先には、針で突いたような灯りが二つ、空に浮かんでいるのが見えた。夕日と入れ替わるようにして、明るさが増していく。照明をつけていなかった部屋の中が真っ暗になっても、オトヤはその二つの星をじっと見つめていた。
「昔ね、お母さんが言ってたの。あの星は北斗七星っていう星座の一部なんだって。北斗七星は、七つの星が集まってできてるんだ。ほら、あの星と、あれと……」
 オトヤは車椅子から可能な限り体を乗り出して、遙か天空に浮かぶ星々を一つずつ、その小さな指で結んでいった。柄杓型に並んだ七つの星。その端から二番目の星にだけ、側に寄り添うようにもう一つ星があった。その寄り添う星は、北斗七星の七つには入らない。七つ星の一つと、まるで夫婦のように一緒にある。
「貴方の願いを教えてください。」死神はオトヤに頼んだ。
「あと三十時間ほどで、貴方は最期の時を迎えます。その時までに一つ、なんでも願いを叶えましょう。」
 死を告げるその人の声の、無情がオトヤの身体に染みた。空に向けられきらきらと輝いていた瞳は、ゆっくりと自分の膝に置かれた細い両手に落ちていった。
「僕の願い……。」
 くっきりと筋が見える痩せた指を、ゆっくりと曲げ伸ばしして。オトヤは星を眺めていた時と真逆の視線で自分を見ていた。何度かほとんど無意識に「願い……」と呟いて後、突然はっとしたように顔を上げた。そこにはやはり明るい笑顔が張り付けてあった。
「僕の願いは、死神さんが僕の隣で一緒にいてくれてることだから、もう叶ってるよ。」
「本当に、そうですか。」
 間髪入れず、そんな表面に浮いてきたような言葉はいらないとばかりに放たれた一言は、オトヤを再び車椅子に落とした。白い筋がぎゅっと握りしめた両手に浮き出ている。その手が再び緩められたとき。オトヤはふうっと息を吐いた。そして、強くしっかりとした目で真っ直ぐに死神を見据えた。
「僕の最期に、一日分も時間はいらない。」
 三日目。
 オトヤはベッドの上で最後の睡眠をとっていた。ぐっすりと深く眠っていたせいで、婦人がいつものようにノックをして、朝食を運んできたことに気づかなかった。婦人はベッドのすぐ脇まで来て、やっと少年がまだ寝ているのだと知った。彼女は隣の死神の方には目もくれず、深い皺が刻まれた醜悪な右手を、稚い少年にそっと伸ばした。ゆっくりと、その手が少年の顎の下に滑り込む。
「おはようございます。」
「あ……」
 オトヤが目を開け、笑顔で挨拶の言葉を口にすると、婦人は弾かれたように手を引っ込めた。飛び出しそうなほど目を見開いている。
「お、おはよう、オトヤくん。今朝は良く眠れたみたいね。」
「はい、とっても。」
 オトヤの純粋な微笑みを、直視できないとばかりに、婦人は終始顔を背けていた。食後の紅茶を持つ手が震えている。
「大丈夫ですか?」
 婦人の異変に。オトヤは小首を傾げて優しく声を掛けた。しかし婦人は「ええ。大丈夫ですよ」とやはり視線を外して答えるのだ。その様子を見たオトヤの眉根が悲しげに寄ったのを、死神だけが見ていた。
「おばあさん」オトヤは静かに呼びかけた。「いつも美味しいごはん、ありがとうございます。本当に、感謝しています。」
「お、オトヤくん……?」
 今にも零してしまいそうなカップを、婦人の手から受け取って、オトヤはミルクと砂糖が入れられた甘い紅茶を静かに飲み干した。唖然として見つめる婦人の手に再びカップを握らせる。カップを持つ彼女の両手を、オトヤは自分の両手で包み込むようにして、重ね合わせた。
「ありがとう。ご馳走様でした。」
「……どう、いたしまして。」
 婦人は少し間をおいて我に返ると、喧しい音を必要以上に立てて部屋を出て行った。
「最後のお礼ですか。」
「……うん。」
 屋敷の外で小石を踏みしめるエンジン音が聞こえた。それは屋敷のすぐ前まで来てぴたりと止んだ。いつもは昼過ぎに聞こえる音だ。オトヤはそれを聞くと、ぱっとベッドから飛び降りた。飛び降りたまでは良かったが、骨と皮だけの足は痩せた身体を支えるには力足らずで、オトヤはがくりとその場で膝をついた。
「はは……。」
「……。」
 オトヤの部屋の扉を。この日二度目の来訪者がノックした。返事を待たずに開け放たれた先には、若い男が大きいな黒い鞄を持って立っている。
「やあ。今日も……どうした⁉」
 オトヤがベッドの上ではなく、床の上に四つん這いで倒れているのを見て、男は手にしていた鞄を投げ捨てた。慌てて駆け寄る医者は、オトヤと同じくらい蒼褪めている。
「どうしたんだ? 何をしようとしていた!」
 オトヤの身体を抱き起して、医者はその肩を揺す振って怒鳴った。乱暴な手際のようだが、そこは医者らしく気遣いに溢れていた。
「大丈夫。ちょっと立ち上がろうとして……」
「いつもは車椅子を使うのに無理に立とうなんてするんじゃない!」
 抱えられてベッドに戻されながらも、それでもオトヤは弱々しく微笑んでいた。
「車の音が聞こえたから。」
 男は訝しげに眉根を寄せて、自分で放り投げた鞄を取りに行った。
「何を思ったのか知らないが、無茶はするな。病状が悪化でもしたらどうする。わたしのこれまでの診察を無駄にする気か。」
「うん。」
「うん、って……」
 鞄を拾い上げ、オトヤの方を見た男は一瞬、幽霊でも見たかのように硬直した。まるでオトヤを、その笑顔を、初めて目にしたかのように目を見開いている。オトヤには医者が自分の方を向いていると感じたが、同じように死神も自分が見られていると感じていた。
「……診察を、するぞ。」
「はい。お願いします。」
 オトヤの診察はいつもより念入りに行われている。医者は何を感じたのだろう。死の際にいる者を、どれだけ丁寧に、心を込めて診ようとも、助かることなどない。傍で見つめる黒い影がそれは良く知っている。丁寧な最後の診察は、いつも通りに何事もなく終わった。医者は聴診器をはずしながらわずかに安堵の表情を浮かべる。
「……特に異常はないようだ。だが、先ほどのようなことを何度もしていたら本当に……身体を壊すぞ。」
「うん。気を付ける。」
「……今日はわたしもここに泊めさせてもらう。君が迂闊なことをしないように見張らせてもらおう。こんな山奥まで毎日来させられた手間を、無駄にされたくはないのでね。」
 男はそう言って、部屋に置かれたアンティークソファーに腰かけた。持ち歩いているらしい本を取り出すと、一人で読書を始める。 
「帰らないの? 僕は大丈夫だよ。」
「……なんとなく、だ。」
 男の言葉は歯切れ悪く、口は真一文字に結ばれている。目の前の少年を決して逝かせまいとしているその行動に、当の少年の方は、苦笑を禁じ得ないでいた。それとも男の気遣いに対して、それが無駄になるとわかっている申し訳なさ故にこんな表情をしているのか。人間が持つような感情をはっきり持たない死神には、複雑な心情を読み取ることはできなかった。
 オトヤの一日は、何事もなく過ぎていった。最後の一日としてはあまりに起伏の少ない、穏やかな一日だった。医者が診察を終えた後も留まっていたこと、二度食事を届けるために部屋に入った婦人の様子がよそよそしかったこと、それを除けばオトヤの最期の一日はあくまで日常の延長線上にある一つの点にしか過ぎなかった。最も、その点の先にそれ以上の線は延びていない。ふっつりと途切れた糸が、死神には見える。
 やがて日が落ち、月が太陽に代わってオトヤの狭い部屋を照らし始めた。月の光は、灯りを点けない部屋の中を十分に明るくした。今夜は満月らしい。窓から入った光は、ベッドの上に座るオトヤとソファーの上で寝息を立て始めた男を照らしている。男の手からは分厚い本が今にも落ちそうだった。
「死神さん。」
 オトヤは男の方を見つめながら、月明かりに照らされない黒い影を呼んだ。
「僕のお願い、聞いてくれますか。」
 隣に立つ死神は何も言わずにただ黙って頷いた。それを確認したオトヤは深く息を吸い、また深く吐いた。まだ自分が生きているということを確認し、オトヤは目を閉じる。死神が見つめる中、オトヤの身体は突如ベッドに倒れ込んだ。それとは別に、死神の隣に自分の足で立つ、オトヤの姿が現れる。月明かりに透ける、半透明のおぼろげな身体。しかし、その身体はか細い見た目とは裏腹に、しっかりと床に足を付き、己の体重に負けるようなことはなかった。半透明のオトヤはその自分の身体のあちこちを触り、最後に月明かりに透かして、嬉しそうに微笑んだ。
「僕、僕の足で立てた。」
 オトヤはゆっくりとした足取りで、静かに男に近づいた。
「今までありがとう。……さよなら」
 男が持っていた本が床に落ちた。完全に眠っている。落ちた拍子に本の間から一枚の写真が飛び出した。三人の男の子が写っている。この洋館の前で撮られたらしいその写真は、オトヤの足元に落ちた。一瞬、オトヤの瞳が揺れた。しかしオトヤはそれを手に取ることはせずに、ただ一瞥すると男に背を向けた。オトヤは次に部屋の扉を自分で明け、真っ暗な廊下を進んだ。後ろには黒い影が付いてくる。オトヤは自分が住んでいた家を物珍しげに見回していた。玄関ホールに辿り着くまで、オトヤと死神は誰にも会うことはなかった。とはいえ、この洋館にいるのはオトヤと死神以外に、老婦人と医者だけなのだから、会わない方が当然かもしれない。
 屋敷の外はひんやりと冷たい夜気に満たされている。オトヤは両腕を広げ、深呼吸を一つすると、突然素足のまま森に向かって駆け出した。どこにでも付いてくる死神を振り切ろうとしたわけではない。「死神さん! こっち」オトヤの無邪気な叫びが森に木霊した。黒い影が月明かりに透けた少年の後をまるで滑る様に追いかける。
「ねえ、死神さん。死神さんの名前はなんていうの?」
 死神が走るオトヤに追いつき、並んだ時の突然の問いかけだった。
「私に個体を区別するためのものなどありません。」死神が答えた。
「それじゃあ、僕が名前をつけてもいい?」
 風を切って走りながら、息を切らすこともなくオトヤは言った。黒い影の、フードに隠された目が大きく見開く。目的の場所に到着したらしく、オトヤはぴたりと走るのをやめた。
「ミヅキ。」
「み、づき……」
 オトヤは大きく頷くと、黒い影を指差し、その指で頭上に掲げられた満月を指差した。
「僕ね、夜が好きなんだ。月も星も、とっても綺麗でしょう。毎日見守ってくれるみたいに優しい光で照らしてくれてる。それに夜になれば、僕はお父さんとお母さんに逢える。」
 北斗七星が、双子星がオトヤの指先で仄かに輝いている。時刻は間もなく午前零時になろうとしていた。
「……前に一度、家族みんなで見に来たことがあるんだ。」
 ぽつりとオトヤは語り始めた。
「僕の家族はお父さんお母さんと、僕とお兄ちゃん、赤ちゃんだった弟と、おじいちゃんおばあちゃん、あとペットのホクトだった。北斗七星をつくっている星は七つだけど、そのうちの一つは双子星だから、それをいれて八つ。僕ら家族みたいだねっておばあちゃん言ってた。」
 不意に、オトヤはその顔に悲しげな色を見せた。伏せられた目が月明かりも当たらないはずなのに、きらりと光る。死の宣告を受けてからの日々で、彼がそんな表情を見せたのはこれが初めてだった。
「……僕の身体は、今どうなってるの?」
 死神には目の前のオトヤと、ベッドに横たわるオトヤの抜け殻のような身体が同時に見えていた。抜け殻の側で寝ている医者は、もうまもなく真夜中の侵入者に気づくだろう。そろそろ零時を回る。オトヤの身体と、寝ている医者と、そしてオトヤの痩せ細った白い首に手を掛ける婦人の姿が、あの部屋にあった。
「……どうにもなっていません。そのままあのベッドに寝ています。」
 死の告知人は、目の前の少年に死の真相を話すことはなかった。満月が雲に隠れる。暗闇の中のオトヤはやはり笑顔で言った。
「僕はずっと寝たきりで、外に出られなかった。だから、最期に一度だけでもここに来られてよかった。ありがとう、ミヅキ。」
 時刻は午前零時。
 ミヅキが大きく振り下ろした鎌は、静かに、オトヤを真っ直ぐに彼の世へと誘った。
終     

「夜分遅くに申し訳ありませんが」

最期の瞬間、何を願うのでしょうね。
もし、自分の最期がいつなのかわかっていれば、その間にひとつ願いが叶えられるなら、何を願うでしょう。
この話はある意味、ハッピーエンド。
最期の瞬間がわかって、願いを叶えられたオトヤは本当に幸せな最期を迎えたと思います。
死神は、どうでしょう。

「夜分遅くに申し訳ありませんが」

「夜分遅くに申し訳ありませんが」 静かな室内に、闇とともに静かに侵入してくる影。 死にゆくものの最期を看取り、最後の願いを叶える死神。たった一人で部屋に籠る少年の最期の願い。最後の三日に寄り添う死神が見たのは、死を受け入れながら、むしろ死を望むような少年の孤独な姿。出会いの一日目、少年の日常の二日目、そして少年を取り巻く真実を知る最後の日。少年はなぜ死ななければならないのか。死にゆく少年に、死神が最後に吐いた嘘に込められた心情は。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-02

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