桜並木で逢いましょう。

大学に入学して、一番最初に書いた作品です。
テーマは「桜並木」。
文章を書くことがただただ楽しく、そうした機会を得られたことが嬉しかったころ。
もちろん、今も文章を書くことは楽しいですが。
このときのように締切を考えず書きたいものを書いているとは言い切れません。
ある意味でわたしの原点でしょうか。

桜並木で逢いましょう。

 春はいつからはじまるのだろう。


 積もっていた雪が冬を惜しむように溶けて消え、流れる川の勢いが増す。寒さが徐々に和らいだことを地面の奥で感じ取った植物の種が芽を出す。
 そんな変化に誘われるようにして、道の両端で桜の木が蕾を持ち始める。ちょうどその頃。たぶんそれが春の始まりの合図だろうと俺は思う。


 今年で社会人としての暮らしを始めるからか、俺は一人暮らしの狭いアパートの一室で届いた荷物もそのままにぼんやりと昔を思い出していた。昔の自分と、とある一本の木を思い出していた。

 高校に入学するまで住んでいた街には、住民全員がそろって自慢する美しい桜並木があった。自分が住む街こそ世界のすべてだった当時の俺は、子供ながらにこれ以上美しい景色はないと思っていた。もちろん今もそう思う。
 記憶の中の並木道は、きっと自分で思っている以上に美化されている。それほど広くない小道が一本、ずうっと続いている。その先には神社の鳥居があったと思う。神社までの道を案内するように、その小道の両端にひしめくように何十本もの木が並ぶ。
その木々が桜だ。薄紅色を仄かに映した小さな、それでも圧倒的な物量をもって集団としての自己を主張する花びら。少しでも風が吹けば、個々は散っていく。ゆっくりと地面に落ちていくその様子は、どこまでも悲しく儚く、優しかった。
 そしてその桜並木の中に、その木はあった。
 周りの木々はそっと、それこそ大勢の中の一本としての役割だけを演じようとしているだけだというのに、その木だけは違っていた。周囲と調和することを忘れたかのように花びらが紅い。もちろん、あの情熱に例えられる薔薇のように燃えるような紅とは言えないが、それでも他の控えめな桜と比べれば明らかに個人として自己を主張している。

 幼い俺は母に手を引かれながら何度も聞いた記憶がある。



「どうしてこの花だけあかいの?」
「そうねぇ……どうしてだろうね。どうしてだと思う?」
 問いかけた僕に、お母さんは問いかけで返してきた。僕が聞いたのに、と思いながら頭の上を通っていく紅い桜の花びらを見つめた。ひらひらと落ちてきた紅い花びらは、足を止めた僕の肩にそうっと乗っかった。
「……はずかしいのかな。みんな桜はきれいだって言うから。ほめられて、ほめられすぎてはずかしくなっちゃったの。ぼくもあんな風にみんなにほめられたらなんだかむずむずしちゃう。」
 僕が思いついたことを言うと、お母さんは笑った。そしてそうかもしれないねと言って僕の肩に乗った桜をそっと払った。
 それから僕はこの桜の木を『恥ずかしがり屋の木』と呼ぶようになった。


 いつかお母さんにおつかいを頼まれた僕は、その帰りに桜並木を通った。その年はまだ桜が咲き始めたばかりで、風が吹いても降ってくる花びらはあまりなかった。それでもその春初めて見る桜並木はやっぱり綺麗で、僕はうきうきと買い物袋を揺らした。
 そしてあの『恥ずかしがり屋の木』があるところまで辿り着いた。木の下で少し休もうと思っていた僕は足を止めた。

 女の人が立っている。

 見たことのない人だった。あまり大きくないこの街では大抵の人は顔見知りで、隣近所は多く親戚ばかりだ。だから僕が見たことがないと思ったなら、きっとこの女の人はこの街の人ではない。
いやそれだけではない。女の人は僕が見たことのない恰好をしていた。紺色の袴に足元は白足袋と草履を履き、海老茶色の着物を着ている。変わった人だなと思うのと同時に、『恥ずかしがり屋の木』に寄りかかって空を見つめるその姿は桜に負けないくらいに美しくて、僕は思わず手に持った買い物袋のことを忘れて見惚れていた。
 ふと、女の人が僕の方を振り向いた。長く黒い髪が風に靡いて、その奥の驚いたように見開かれた真っ黒な瞳を隠そうとしている。目が合ったとたんに僕はなんだか緊張して袋を取り落した。
「あ。」
 女の人はそれを見てもともと大きな目をますます丸く見開いた。突然落としたものだから驚いたのだろう。僕が慌てて袋を拾うと、くすくすと笑っておいでと手招きした。
「こ、こんにちは……」
「こんにちは。」
 僕がおずおずと挨拶をすると、女の人は桜のように優しく返してくれた。
「お買いものの途中ですか?」
 女の人はまだ小さい子供の僕に対して、大人に話すように丁寧な言葉で話しかけた。
「は、はい。お母さんに頼まれて……。」
「そうですか。今日は暖かい日ですから、お買いものも楽しくなりますね。」
 優しくそう言って女の人は再び顔を空に向けた。
「お姉さんは『恥ずかしがり屋の木』になにかようですか?」
 僕が聞くと、女の人はきょとんとした顔で恥ずかしがり屋ですかと言った。
 考えてみれば紅い桜の木を『恥ずかしがり屋の木』と呼んでいるのは僕だけで、突然そんな風に呼んだところで何のことかわかる訳がない。
「この桜のことです。ぼくがそうよんでいるんです」
「どうして、この桜が恥ずかしがっていると思ったのですか?」
 女の人は首を傾げて聞いた。
「この桜がほかの桜よりもあかくなっていて、それで、まちの人たちみんながここの桜はきれいだって言うから、はずかしくててれてあかくなってるんだと思ったんだ。」
「そうですか。」
 僕が名付けた紅い桜の名前の由来を話すと、女の人は心なしか寂しそうな顔をした。
「お姉さんはどうしてここにいるの? なにかようがあるの?」
「……そうね。」
 女の人は小さい僕の顔よりもずっと下に視線を落とした。
「待っているんです。大切な人を」
「たいせつなひと……? それは……」
 誰ですか
 僕がそう聞くと、女の人は一層悲しそうな表情をして、それでも優しい笑顔のままで、静かに話してくれた。
「以前わたしがここでお会いした方です。わたしはその人をお慕いしておりました。そのときはまだこの木は花を咲かせていなくて、とても寒い日だったのをよく覚えております。まだ雪が残っていましたから、でもわたしは薄い着物の上に羽織るものを何も持ってはいませんでした。それでもこの場所にいないといけなかったので、わたしは手をこすり合わせて、しゃがみこんで、なるべく暖かくなるようにしてここにいました。けれどどんな風にしても寒かった。そしてまた雪が降り始めたとき、静かにわたしの隣に来た方がいました。正直言うと、最初は少し怖くも思ったのです。でもただわたしの隣に立つだけでした。そのうちわたしが一度くしゃみをすると、隣に立つその人は、そっとわたしに羽織をかけてくださいました。その人も寒いはずなのに、何を言うでもなくわたしの隣にいてくださいました。お礼を言うと照れたようにそっぽを向かれてしまったのですけれど。わたしは嬉しかった。その日以来わたしはまたその人に会えることを期待して、この場所に来ました。その人はわたしがここで待っていると時折ここに来てくださいました。もちろん、毎回会えたわけではありません。でも、会えた日は二人でなんとなくこの木に寄りかかって、たまにお話をして、なんでもないことが楽しい日々でした。けれどもそんな日はほんの数日です。寒い季節は少しずつ変わっていって、桜が咲き始めました。そして桜が綺麗に咲いたあの日、いつものようにここに立っていました。そしたらその方がどこか悲しい顔でいらっしゃいました。わたしがその理由を聞くとその人はとても言いにくそうにして、遠くへ行かなくてはいけなくなった、とおっしゃいました。わたしはあまりに驚いて、最初はよくわからなかったけれど、細かいことを聞いていくうちにだんだん悲しくなって、涙が出てきました。わたしは涙を見られたくなくて、それにもう会えないと思うとどんどん涙が出てきますから、その方が心配して差し出してくださった手を振り払って逃げ出してしまいました。もう会えないかもしれないのに、さようならも言えずに走り出してしまったのです。その方は走っていくわたしの背中に向けて、次の桜が咲くころには必ずこの桜の下に戻ってくるからとおっしゃいました。いつも落ち着いたその人があんなに大きな声を出すのを聞いたのはそれが初めてです。それきりその年の春にはその方は二度とここに来てくださることはありませんでした。その次の年も、そのあともいらっしゃいませんでした。それでも、わたしはいつかその人が来てくださるような気がしてなりません。いいえ、きっとあの人は来てくださいます。だからわたしは待ち続けたいのです。この桜が咲く春の間だけでも、せめてお礼と、あのとき差し出してくださった手を振り払ってしまったことを謝りたいのです。」
 女の人は懐かしむような顔で語った。僕はきっと話の全ては理解していないのだろう。けれど、淡々とまるでお伽噺を語るように話す女の人の顔からその気持ちだけはきっと残さず感じ取れた。

 まるで夢の中にいるようにふわふわとした気持ちになった。

 女の人は毎日『恥ずかしがり屋の木』の下にいた。少しずつ蕾が開いて、満開になって散っていく。桜は少しずつ変化していくのに、女の人は変わらずそこにいた。
 やがて桜の花びらが『恥ずかしがり屋の木』から消えた。春は終わり、夏に向かっている。桜は緑の葉をつけた。

 するとあの女性もあの木の下にいることがなくなった。


 桜の花びらが全て散ってしまったとき、女の人はもういなかった。


 女性は春になると紅い桜の下にいた。
そして桜が散るともういなくなった。桜が咲いているその間だけ、女性は待ち人を待ち続けていた。
 おれが行くとその女性はいつも笑顔で迎えてくれた。おれはいつか女性の隣で一緒に立っていたという女性の待ち人と同じように、女性の隣に何をするでもなく寄り添っていた。おれがその日一日にあった出来事を女性に話すことがほとんどだったが、そうでなければ二人で黙って桜を見つめた。そんなおれを女性は懐かしいですと言って微笑んだ。
 おれは小学校に入学して、卒業して、次はまた中学校に入学した。おれは変化していくのに、女性は次の年に会っても、また次の年に会っても、全く変わらずに『恥ずかしがり屋の木』の下にいた。
「中学校はいかがですか。」
 時折こうして女性の方からおれに話しかけてくれた。
「楽しい……のかな。なんだかまだ慣れないことばかりで、よくわからないんだ。小学生のころが懐かしい。」
 女性は逢った時からずっと変わらずに丁寧な話し方を貫いていたが、出会ってから何年も経つおれの方はすっかり友人と話すような口調になっていた。
「まだ馴染むには早すぎるということですね。少しずつ慣れていけると思いますよ。でも、まだ慣れていないのなら、わたしに会いに来ずにお友達と遊んで来られた方がよいのではないですか? せっかくの放課後なのでしょう?」
「いいんだ。おれはここにいる方が楽しいから。」
 実際知り合ったばかりの友人と一線引いたような会話をしているより、彼女と寂しさを含んだ優しい会話をしている方が楽しかった。ずっと一人で健気に待ち人を待ち続ける女性に気を使っているわけではなく、本心からそう思うのだ。
 女性もそれを感じ取ってくれたのか、深く追及はせずにそうですかとだけ言ってまた桜を眺めた。今年はもうすぐ全ての桜が散ってしまうだろう。残されたわずかばかりの花びらを見つめて、女性は普段より一層悲しげな顔だった。そんな顔はしてほしくない。そう思っていても自分にはどうすることもできないもどかしさが、おれを追い立てた。
「また……今年も来なかった、のか……。」
「以前……」
「え?」
 おれの声が聞こえなかったのか、女性は桜ではない遠くを見つめていた。
「初めてお会いしたとき、おっしゃっていましたね。この紅い桜はみんなから褒められすぎて恥ずかしいからこんなに紅いんだ、と。」
「ああ……」
 おれが初めて女性と会った日。おれはまだ小さい子供だったから今になってみると桜ではなくおれの方が恥ずかしくなる。
「そんなこともあったな……。」
「今は? どう思われますか。どうしてこの桜が紅いのか」
「どうしてって……」
 なぜ今になってそんな昔の話を蒸し返すのだろう。おれはまっすぐに自分を見つめてくる女性の視線を感じながら、わずかに残った紅い桜の花びらを眺めた。
 毎年見ているはずなのに、この桜は少しずつその特殊な色を濃く成長していっているような気がする。ほんの一握り残った花びらの貴重な一枚がおれの目の前に散って行った。
「……わからない。どうしてこんなに紅いのか。」
 もしかして女性はその理由を知っているのだろうか。おれは期待を込めて女性の方を向いた。
出会ったころはおれの方が女性を見上げていたが、今はほとんど同じくらいの背になっている。おれは成長するのに、女性はいつまでも変わらない。
どうしてこの桜は紅いのだろう。
しかし女性はおれの期待に応えることなく、またあの悲しい笑顔でそうですかと呟いただけだった。

 その年の桜は、翌日には全て散っていた。

 この街の桜並木は花見の名所でもあった。桜が満開になる時期になると、この街は一年で一番のにぎわいを見せる。あちらこちらにブルーシートが敷かれ、弁当や飲み物が広げられる。上手とは言えない歌声や笑い声が飛び交う。
おれも花見は好きだった。中学で仲良くなった何人かの友人たちと場所をとり、花見を楽しんだ。
 その宴の席で、ふとおれは友人にあの女性のことを話したことがないということを思い出した。話さなければならない義務はないが、なんとなく話してみたかった。
「そういえば、あの紅い桜の下に毎年春に女の人が立ってるって、知ってるか?」
「紅い桜の下に女?」
 おれの一番近くに座っていた友人が反応した。
「そう。毎年この時期、桜が咲いてる時期にだけいるんだ。なんか待っている人がいるとかで……」
 おれが詳しく説明し始めると、先ほどまで盛り上がっていた友人は怪訝な顔に変わっていった。彼らもこの街に住んでいるのだし、この桜並木にはよく訪れているはずだから女性を見たことくらいはあるはずだ。
 しかし友人たちは誰一人としておれの話に思い当たる節を見つけたものはいなかった。
「知らないな、そんな人。」
「そんな女なんて見たことないぞ。毎年いるのか。いつから?」
「おれが幼稚園のころに初めて会ったから……もう十年近く前からかな。」
 あらためて考えたことはなかったが、言われてみればそんなにも長い時間が経っていたのだ。
「そんなに長い間ずっと誰かを待ってるのか? それも春だけ?」
「なんかそれ、おかしくないか?」
「おかしいって?」
「いや、だからさ……」
 友人たちは顔を見合わせて眉根を寄せている。その様子がなんとなく苛ついて、おれはなんだよと促した。
「こんなこと言いたくないけど、その女、幽霊とかってことはないのかよ。」
「は? 幽霊?」
 何を言い出すのかと思えば、あまりに非現実的な発想だった。
「そんなわけないだろ。だってずっと……」
 友人の憐れむような視線に晒されていると、おれの心に今まで考えもしなかった思いが生まれた。思い当たる節が全くないとは言い切れない。むしろこれまで疑わなかったのが我ながら不思議で仕方がない。
 しかしあの女性を疑うのは苦しかった。そんなことはないと完全に否定したかった。
「なぁ、その人って今日もいるのか?」
 友人の一人がそんなことを言い出した。
「そうだよ。おれたちにもその人に会わせろよ。」
「ああ、いい考えだな。そしたら幽霊じゃないってわかるかもしれないな。」
 友人は口々に会わせろと言い始めた。どこか宴の雰囲気が戻ってきている。たぶん本当にあの女性に会いたいわけではなく、この場のノリの延長なのだろう。それをわかっていながら、ああいいよと言ってしまったのは、本気で確かめたくなったからだ。おれは再びふざけ始めた友人を連れてあの紅い桜の木へ歩いた。
「なんか他より紅い桜があるっていうのは知ってたけど、結構奥の方だろ。」
「おれもあんまり直接見たことはないな。」
 だらだらとついてくる友人たちは紅い桜をあまり見たことがないらしい。それなら女性を見ていなくても不思議はないのではないだろか。おれは一人早すぎる安堵を覚えながら、足が軽くなっていた。
 『恥ずかしがり屋の木』は離れたところからでも簡単に見つけられる。一面淡い色の群生の中で、一つだけ違う色の花びらは相当に目立つ。
そしてその下にいるあの人も、おれにははっきりと見えていた。
「ほら、あそこだよ。ここからでも見える。」
 おれは女性を指してそう言った。やっぱり今日も袴を履いて海老茶色の着物を着て、寂しげな顔で。
 ほらやっぱりいるじゃないか。おれは期待を込めて友人たちを振り向いた。しかし友人はまたあの怪しむ顔に戻っている。
「桜はあるけど……女なんていないぞ?」
「今日は来てないのか、おい。」
「……そんな……。」
 足を止めたおれの肩を叩きながら、後ろに立つ友人立ちは目を細めている。その瞳には紅い桜は映っていても、その下に立つ海老茶色の着物は映っていなかった。
「なんだいないのか。いない日もあるのか?」
「あ、ああ……今日は、来てない……みたいだな……」
 おれは思わず嘘を吐いた。
 おれの目から見える女性は、彼らの目に映ってはいないのだ。
 先ほど一瞬だけ感じた安堵が嘘のように消えていき、おれの中に残ったのは言いようのない不安感だった。それを払拭させるように友人に調子を合わせてみたけれど、やはり目を閉じて開けて、何をしてもおれの目には確実に桜の下にその人が映った。

 あの人は、おれにしか見えていないのだ。

 そのあとの花見は最低の気分だった。毎年今か今かと心待ちにしていた、楽しみにしていた一年の行事が楽しく感じられなかった。そんなことなどこれまで一度もない。
大声で騒いで笑う友人に交じって笑ってはいたが、心ここに非ずの状態で、頭の中ではあの女性のことばかり考えていた。
 一通り騒ぎ終えると花見の場は自然と終わりを迎えた。また明日と言って一人二人が立ち上がると、残ったメンバーも荷物をまとめ始めた。
「じゃあまたな。」
「ああ。」
 最後の一人に手を振って、おれは一人沈んでいく日を見ていた。おれの荷物は最後に残された敷物だけだ。分別済みのゴミの入った袋と敷物を持ち、おれは無意識に帰り道とは逆の方向に向かった。

 『恥ずかしがり屋の木』におれは向かっていた。

 右手に敷物、左手にゴミ袋を持って、まだ飲み足りないとばかりに缶ビールを開けている大人の花見客の間を縫って、おれは奥へ進んでいた。神社の鳥居に近づくにつれ、花見をする客は少なくなっていった。そして紅い桜の木が見えるようなところまで来ると、花見をするような人はいなかった。まるで紅い桜を避けているように見えるのはおれの気のせいだろうか。

 そして紅い桜の木の下にはあの女性がいた。

 おれの目には見える。
それを確認しておれは一層不安になった。
いつものようにただそっと立っているだけなのに、ただ今日は夜だからいつもよりも暗いというだけで何も変わらないはずなのに。女性を見つけたおれの心情はいつもと真逆だった。
「こんばんは。今日はずいぶんと疲れていらっしゃるのですね。」
 おれの心の内を知らない彼女は、あの悲しく優しい笑顔を浮かべていた。その笑顔を見た途端、先ほどまでの不安が一瞬だけ和らいだ気がした。
「今日は花見をしてたんだ。」
「お花見ですか。楽しそうですね。」
  おれが紅い桜の木に寄りかかると、彼女はまだ宴会の声が聞こえる方を見ていた。
まるでこの桜の木とあちらの桜の木の間に壁があるかのように、ここは静かで別世界のようだ。音が聞こえないというわけではない。むしろ昼間よりも今の方が酔いの回った大人の声が大きく聞こえる。ただこの女性の回りだけは違う空気が流れている。ゆったりとして落ち着いた空気だ。
「あー……のさ……」
 俗世の声を聞いたせいか、一瞬だけ忘れた友人との会話を思い出してしまった。どうにも言い出しにくい。そもそもあなたは幽霊ですか、などと聞きけるはずがない。
「いつまで待ってるの? その人を……」
 結局、口をついて出たのは一番聞きたいと思っていることではなかった。
 女性はおれの顔を凝視している。見なくてもわかった。仄かに香る桜がおれの鼻腔を擽ったのがわかったから。
「いつまででしょう。わたしにもわかりません。わたしはずっと、あの方がわたしを見つけてくださるまで待っているつもりです。」
「見つけてくれるまで……?」
 ここに来てくれるまで、ではないのか。
 おれが女性の方を見ると、こちらを見ていた彼女と目があった。笑っている。
 おれは急に背筋が寒くなった。
「この桜は」
「え?」
 女性は桜の木を離れ、くるりとおれの方を振り返った。月明かりだけが彼女を照らしている。心許ない月の光だけでは彼女の全てを照らすには足りなかったのか、おれには彼女の表情が見えなかった。それがより一層おれの恐怖心を煽る。
 おれは誰と話しているのだろう。
「この桜は、恥ずかしいから紅いわけでも、ましてや周りの木より目立ちたいから紅いわけでもありません。」
 女性の周りに散っていく花びらはどこまでも紅く、夜の闇から浮いている。
「この桜は、他の木にはないものを吸って成長したのです。」
「他の木にはないもの……?」
 女性が夜に映える真っ白な指で、おれの立っている桜の木の根本を差した。

「その桜は、人の血を吸って成長したのです。」

 桜の根本に何かある。木の根ではない。こんな白い根はない。
 目を凝らすと土の中から飛び出す白骨が見えた。
 おれは男にいては情けないくらい大きな悲鳴を上げた。
 骨だ。骨が埋まっていた。
 おれは叫び声をあげながら走った。この場所にいてはいけないと思った。


 ここは、異界だ。


 必死に走って、どこを目的地としているのか意識もせずに、ただ足だけを動かしていた。とにかくあの木から、あの女から少しでも早く離れなければとそれだけを考えていた。
 気が付くとおれは桜並木の入り口で、コンクリートの歩道の上に倒れていた。目が覚めたのは酔っ払いの男たちが二三人、おれを指差して笑っていたかららしかった。
 なんだか夢でも見ていた気分だ。
 もしかしたら夢だったのかもしれない、そんな期待は自分の掌に握られていたたった一枚の花びらで簡単に打ち砕かれた。あの紅い桜の花びらだった。
 ぐったりと脱力し、動くことができなかった。


 おれはそれきり、桜並木を訪れることなく高校生になった。
 自宅から通うには遠すぎる高校をわざわざ選んだのは、桜並木を避けていたのだ。高校生になった俺は新しい環境で、平凡でありきたりな日々を過ごした。春になって普通の桜の木を見るたび、あの桜と女性を思い出したりもしたが、月日が経つにつれて夢のように霞んでいった。高校を卒業するころには、俺はあの桜も女性も思い出すことなどなくなっていた。



 それがどうして今になって思い出したのだろう。
 引っ越しの段ボールに囲まれながら、俺はずっと回想に浸っていた。日が落ちたせいで部屋の中はすっかり暗くなっている。

 俺は通っていた高校のある街で土木関係の職に就いた。社会人としての一歩は一人暮らしだろうと実家と高校大学まで世話になった下宿から荷物を運び出した。少々手狭だが一人で暮らすには十分な広さの部屋も見つけた。
新しい生活が始まろうとしている。
 それなのに、だ。
 この寂しさはなんだろう。
 一人暮らしへの不安から来るものではないらしい。何年も下宿で生活をしていたからそれはない。それならば、昔を思い返したとたんに襲ってきた虚しさは、いったいなんだろう。
 おおかた荷解きを済ませ、夕飯は何にしようかと考えていると、不意に携帯電話が鳴った。ディスプレイには就職先である小さな土木会社の社長の名前が表示されている。
「はい。」
『ああ、引っ越しは済んだのか』
「ええ、おかげさまで。」
 人のいい社長は新人の俺のためにわざわざ社内のトラックを貸してくれた。従業員が少ないためか親しみやすい人ばかりで、本当にいい会社に勤めることができた。
『引っ越し直後で悪いんだが、明日少し遠出の仕事があるんだ。』
「へぇ。どこですか。」
 遠いと言っても小さな会社だから、他県にまで行くようなことはない。どこだろうかと興味本位の軽い気持ちで聞いた俺は、受話器から聞こえてきた街の名前に危なく携帯電話を取り落すところだった。
 次の仕事先は、俺の実家がある、あの桜並木の街だった。
『ん? どうかしたか。』
 俺が黙り込むと、不思議そうな声で社長は言った。
「いいえ……何も、なんでもないです。明日、その街に行けばいいですか。」
 動揺を悟られないように、平静を装うように努めた。
『お前の実家、その街だろ。なんなら里帰りして親に元気な顔見せてやれ。』
「社長、それこの間も言ってましたよ。」
『そうだったか?』
 世間話のような他愛のない会話をして、通話を切った。だが俺は自分の心臓が早鐘を打っているのに早くから気付いていた。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。仕事場が偶然あの街だっただけであって、何も桜並木での仕事とは言われていない。そうだ、あの場所にさえ近づかなければいいのだ。

 しかし、集合場所で告げられた仕事内容に、俺は同僚が心配するほどに愕然と蒼ざめた。

 桜並木の規模を縮小するために、桜の木を掘り返す。

 それが仕事だった。
 それを聞いてから桜並木まで移動する間、俺は一言も言葉を発せず、ただ黙って先輩が運転するトラックの助手席に乗っていた。
「お前大丈夫か。具合が悪いようなら今日は見てるだけにして休んでおけ。社長には俺から言っておくから。」
 先輩の心遣いにすら、俺は首を縦に振ることしかできなかった。


 桜並木は全く変わっていなかった。不揃いに並び立つ木々は美しく、林立というより乱雑に並んでいるはずなのに調和を保っている。ひらひらと散っていく儚さを帯びた花びらも、その美しさをより際立たせている。
 しかし子供のころからずっと感動してきたその景色にさえ、今の俺は恐怖心を感じた。
 作業は順調に進んでいった。桜の木の根元を掘り返し、枝や根を傷めないよう慎重にトラックに乗せる。その際に落ちる大量の花びらが地面を覆っていた。足元は地面の色が見えないほど薄紅色で埋め尽くされている。桜並木は入り口の方から徐々に削られていった。いざ桜を移動させると、その場所は意外に狭い。桜に隠されて見えなかった神社が見えるようになると、案外近くに感じた。桜の木は次々と倒されてトラックで運ばれていく。
 そして、とうとうあの紅い桜の木の順番が回ってきた。
「ずいぶんと紅い木だなぁ。」
 作業員の一人が木の上の方を眺めながら呟いた。俺は社長の隣でただ突っ立って作業を見学している。恐ろしい体験をした桜の木は、いざ目の前に立ってみると花が紅いこと以外には他の桜と変わらない美しいものだった。
 あの女性も、今日はいなかった。
 俺が来なくなってから待ち人が現れたのだろう。そうでなければ今もここで待っているはずだから。
 俺の不安をよそに、作業は淡々と進められた。根を傷つけないよう機械で軽く掘った後に手作業に移る。一メートルほど掘ったところで、作業員の一人が悲鳴を上げた。
「ここ……何か埋まってるぞ!」
 不吉なざわめきが広がる。掘った穴を覗き込んだ人は皆息を呑み、小さく悲鳴を上げた。
 そこに何が埋まっていたのか、俺だけは見る前から知っている。
 見たくないという思いと同時に、確認しなければと何かに追い立てられている気になった。
 俺は無意識のうちに紅い桜に近づいていた。
 得体のしれない埋没物に躊躇している同僚たちを無視して、俺は素手で土を掘った。何をしているのだろうと冷静な自分が恐怖心を抱いている。土は案外柔らかく、簡単に掘ることができた。
 一分とかからずに崩れてきた土の中から、それが全体像を晒した。

 骨があった。

 その骨は確実に人間のものだった。その骨を丁寧に包むようにして、土で汚れた海老茶色の布が現れた。

 そして一心に土を掘る俺の隣に、いつの間にかあの女性がいた。

 俺が今掘り返した布と同じ、海老茶色の着物を着て、紺色の袴を履いて、黒い髪を風に靡かせてそっと俺の隣に立っている。しかしその表情はもう以前のような悲しい色をしてはいなかった。優しい、薄紅色の桜のような美しい微笑みを浮かべていた。悲しそうな様子ではないのに、その漆黒の瞳からは一筋の涙が流れていた。
「やっと、見つけてくださいました。」
 女性は消えてしまいそうなほど微かな声で囁いた。綺麗な澄んだ声だった。何年も前から知っている声だ。十年と言わず、何十年と待ちわびた声だった。だがその声の主は日に透けるようにおぼろげで、立っている足も腰も腕も、徐々に見えなくなり始めていた。
「ようやく、お逢いできました。ようやく……」
 女性の声は隣にいるはずなのにだんだん遠くなっていく。


「あの時は本当にごめんなさい。そして、ありがとうございました。」


 俺が手を伸ばしたときには、女性はもういなかった。あとに残された紅い桜の花びらだけが、俺の手に寄り添うように舞っていた。
「なんだ、今の……。おい、どうした? 大丈夫か?」
 俺の顔を見た作業員の一人が、俺の頬を流れる涙を見て言った。自分でも気づかないうちに涙は零れ、とても自分では止められそうになかった。
「何があったんだ?」
 社長が心配そうに俺の隣に駆け寄ってきてくれた。他の作業員も何事かと話し合っている。
おそらく彼らには見えていなかったのだ。あの紺の袴も、海老茶色をした着物も、流れるような黒髪も、あの美しい涙さえも。
 ただ彼らの目には、突然出てきた人骨を持って佇む俺が、奇妙なものに映っているのだろう。
 俺はそんなことはどうでもよかった。
 ただ一つだけ、今の俺にとって重要なことはたった一つだけだ。
 ゆっくりと顔を上げると、真っ青な空がどこまでも広々と続いていた。

「思い出したんです。大切なこと……」

 ひらひらと宙に浮かぶ紅い色の花びらは、まるであの人を追いかけるかのように高く高く舞っていた。

                           終

桜並木で逢いましょう。

桜並木って、なんだか不思議な空間な気がします。
夜の桜並木なんて特に、なにか魔力のようなものを感じます。
誰もいないのに四方を囲われているような。
桜さえなければ春の心はもっと穏やかだろうに、と昔の人が歌うだけありますね。
そんな雰囲気を感じていただけたなら。

桜並木で逢いましょう。

町の自慢の桜並木。 そこにある一本の桜。その下で待ち続ける一人の女。 新しい生活を始める春に、俺は故郷の桜並木を思い出した。まだ母親に手を引かれて町を歩いていた幼い俺は、多くの木の中から一本の桜を目に留める。桜並木の不思議な木の下には不思議な女が立っていた。小学生、中学生、俺は成長するのに女はいつも微笑んでそこに立ったまま。高校生になった俺は、長年親しんだその桜並木を離れた。 俺が思い出すのを待っていたかのように、その再会は訪れる。 彼女は何を待っていたのか。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-02

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著作権法内での利用のみを許可します。

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