Dear,Miss Adolescent

 久しぶりに彼から来たメールの内容は、別れようのその一言だけだった。たったそれだけ。あたしと彼が過ごした約四年という短くない関係はたった四文字で終わりを告げた。呆気ないものだと息を吐く。
 なんとなく、分かっていたことだった。彼用にと設定した着信音や受信音は最近とんと聞いていない。 最後に会ったのはいつだったっけと、曖昧な記憶を引っくり返さなくてはいけないほど仕事漬けの日々を送っていたことに気付かされる。仕事で忙しいからと言い始めたのはどっちが先だったっけ?――鼻の奥を、何かがツンとさした。
 メールが来たから返信を打つ、それくらいの自然さでスマートフォンの画面に出てきた真っ白なメール作成画面に我に返る。何て打てばいいんだろう。「はいとか「分かりました」とか「今までありがとう」とか、――それとも「嫌だ」「別れない」って反抗してみる?
 自問自答を繰り返し、あたしは独り、暮れ泥む空の色をした教室でふるふると首を横に振った。頭に浮かんだどれもが滑稽に思え、そのままキャンセルボタンをタップしつつポケットに滑り込ませる。建前とはいえ校内にこういった類いの持ち込みは禁止なんだから、教師が構っていては、たとえ放課後であろうと生徒に示しがつかない。
 教室をぐるりと見回すと、日直の仕事であるはずの黒板の掃除や教室の整美が手つかずのまま放置されている。担任としては注意しなければならないが、何故か、よかったと思った。妙にずっしりと重たいポケットから意識を逸らすように、あたしは黒板消しを手に取る
どうやら今日の最後の授業は数学だったようで、ちんぷんかんぷんな式やグラフが白いチョークで書かれていた。学生時代の成績は悪くない方だったと思うが、制服を脱いでしまった今となってはただの数字と記号の羅列にしか見えない。中でも、今日の宿題と丸で囲われた数式は一段と難解そうに見える。

 イコールで結ばれた先にある、クエスチョンマーク。

 きっと、大人のあたしが忘れてしまっただけで、学生たちは容易く解いていくんだろう。そう思うと妙な寂寥感を覚えた。

 グラウンドで飛び交う威勢のいい掛け声に混じる、ちぐはぐで不揃いな吹奏楽部の演奏をBGMに黒板を消していく。その、どこかで聞いたことがあるようなメロディラインに何だっただろうと数秒ほど考え――そして、思い出した。反対の手で、もうそれを鳴らすことはないスマートフォンを知らず知らずのうちに握っていたことに気付いたのは、閉めたドアの向こうから聞こえた生徒の声で我に返った時だった。
「悪ィ。もう俺、お前と付き合えねぇわ」
 面倒くさげに言い放つ男子生徒の言葉はあたし宛ではないのは分かりきったことだが、酷く傷ついた自分がいる。半分泣き声が混じった声音で、女子生徒の声がした。
「ま、待ってよ!そんな、私……!私はただ、ずっと好きで、大好きで、だから……!」
「そーゆーのが重たいってまだ分かんねェの?」
 吐き捨てるようにそう言った彼らしき足音がさっさと遠のいていくのが分かる。数秒遅れて「待って」と追いかけるバタバタとした足音は、彼女のものだろう。仕方ない状況とはいえ絶妙なタイミングで盗み聞きしてしまった実にタイムリーな話題に、あたしは鮮烈な夕焼け空を見上げた。視界が滲むのは、たぶん、強すぎる光に対する生理現象のせい。
 あたしは大人になったのだと、ふと思った。
先ほどの女子生徒のように好きな人をただひたすら想い続けるなんて出来るわけないし、例えば連絡のこない携帯電話を握り締めて眠れない一夜を過ごすとか、何回も受信チェックをするとか――今だとアプリを開いては消し、開いては消しになるのだろうか――聞き分け悪く縋るとか、たぶん、この頃の特権で。大人が口を揃えて「若いっていいね」と言うのはそういうことを指しているのだ。歳を重ねるにつれ、知ることが増えれば増えるほど、自分本位に行動できなくなっていくから。
 あたしはひどくのろのろとした動作で真っ暗な画面のスマートフォンを見つめる。何の躊躇いもなく誰かを好きでいられたら或いはと、実に無意味でどうしようもないifはため息と一緒に床に落とした。その時だった。
「先生」
 その声音に、心臓が震えた。
 勢いよく振り返った先、教室のドアに手をかけて彼が立っていた。黒い短髪。やや細身だが、スポーツをやっているからだろう、引き締まった肉体を感じさせる体つき。
 嘘だ、そんなはずない。
 だって、だって彼は。
 思わずスマートフォンをきつく握り締める。どろどろに入り交じった感情を一度飲み込んで、逸る心臓よりも早く瞬きしたと同時。その姿は、あたしの教え子であり彼の弟になっていた。
 その時あたしはどんな表情をしていたのだろう――、きっと酷いものに違いない。瞬間的に表情筋に力を込め、半開きになった唇をきゅっと真一文字にきつく結ぶ。握りすぎてじんじんと疼く掌でスマートフォンを仕舞いながら、彼から視線を引き剥がした。
「おー、逢坂。こんな遅い時間まで生徒会の仕事お疲れさん、気を付けて帰りなね」
「由里さん」彼の声が、静かにあたしの名前を呼んだ。
 ほんと、相変わらずよく似てるんだから。
 あたしは彼を直視できなくて――否、したくなくて――斜めになった机に手をかける。見ると、指先が少し震えていた。
 ヘアサロンに行かなくて正解だった。少し俯いただけで、量が多くて重たい髪は視界をある程度遮ってくれる。聡い年下の幼馴染みに気付かれないよう、なるべくいつもどおりの口調と声を思い出しながら口を開いた。
「学校ではそうやって呼ばないの。……確かにあたしとあんたはご近所さんで顔見知りだけども、変に他の生徒に誤解されたくないでしょ? 逢坂も」
 彼の顔は見えていないはずなのに、あの、同じ顔と同じ目であたしをずっと見ているのが分かった。ゆっくりとした足取りで近付いて「由里さん」とあたしの名を再度、ゆっくりと呼ぶ。鼓膜を震わせるその響きはやっぱり記憶の中の“彼”と瓜二つで、それが、どうしようもなく苦しかった。
「兄貴と別れたの?」
 事務的に尋ねられた、それ。――心臓が硬直する。答えるのに数秒要したのはそのせいだった。
 若干かさついた唇から吐き出した息が微かに震えた。言いようのない何かを含んだ空気感から逃れるように、あたしは、中途半端に開いたままの窓に寄る。夜の気配を匂わせるような冷たい風が入ってきたけど、この沈黙を吹き飛ばすには風量が足りなすぎた。
「まぁね」
「どうして?」
 間髪いれず投げかけられた問いに、首を真綿で締め付けられたような気持ちがした。
 息が苦しい。うまく呼吸ができない。
 俯いた視界の端がじわりと滲んで、慌てて真っ赤な空を見つめる。唐突に飛び込んできた鮮やかすぎる太陽の光にびっくりした目が、密かに涙を流した。
「大人になれば、いろいろあるのよ」そう吐き出したあたしの声は何の変哲もない普通の、それで。
 ――今なら笑える気がする。そう思って、あたしは目を擦ると同時に笑みを顔に貼り付けた。「さ、もう帰りなよ。下校時間そろそろだよ」と、振り向きざまに言ったところで、彼があたしの手首を掴んだ。
「……何で、さっきから俺の顔見てくんないの」
「そんなこと」ないと否定する前に、同じ声が被さる。「話するときは人の目ぇ見て話せって、俺に散々言ったの由里さんじゃん」
 それとも、
「――俺が兄貴と似てるから?」
 直後、ぐいと男の力で引っ張られて。
 気付けばあたしは彼の腕の中にいた。
 しっかりした胸板。鼻孔をくすぐる匂い。抱き締める腕の位置。しばらく会っていないとはいえ、それなりの年月付き合ってきた中で染み付いた“彼”が、あたしの本能めいた部分を錯覚させる。頭では分かっているのに身体が言うことを聞かない。こんな状況を他の生徒に見られたらまずいとか、――彼は“彼”でないこととか。
 きっと、本気で押し退けたら解けるであろう拘束だった。
 でも、あたしができたのは「離して」と震える声で言うことだけだった。
「由里」
 鼓膜を撫でるその声音は、響きは、明らかに“彼”と酷似していて、反射的にびくりと強ばったあたしを“彼”は静かに抱きしめた。顎に手を添えられ、顔を上向きにされる。
 逆三角形の綺麗な骨格。健康的な肌色。切れ長の目。筋の通った鼻。薄い唇。
近付いてきたそれに思わず、目をぎゅっと瞑ってしまったのが決定的にマズかった。
「好きだよ、由里」
 その文句を“彼”の声で聞くのは、二度目だった。
 唇に触れた柔らかい感触。それがキスだと頭で理解した時にはもう、彼の舌があたしの口内に入っていた。しばらく遠ざかっていたそれに、理性に反して身体が熱を帯びる。
 角度を変えて、緩急をつけて、荒々しく蹂躙したかと思えば唇を食むように愛でられ、あたしは十分な酸素を得ることすらままならない。 合間のリップ音や漏れ出る息すらやけにピンクがかっていて、あたしの奥の奥を余計にあぶってくる。
 やがてどちらからともなく離れたお互い唇は、どちらのものか分からない唾液に濡れていた。それを彼は上手に舌を使って舐めとると、静かに飲み込んだ。
 濃厚なキスで半分ぼやけた理性が覚醒する前に、あたしはまた唇を塞がれて、そして――溺れた。


  ◆

 下の方から突き上げてくる快感はすでに八割がた理性を呑み込んでいて、ともすれば此処が学校であり教室であることを忘れてよがってしまいそうだった。それなりに鍛え上げられ、引き締まった身体はもう男そのもので、少しも動きをとめることなく、寧ろ徐々に激しさを増している。とっくに日は沈みきっていて、その上電気も付けてないけど、彼の顔や身体ははっきりと見えた。きっと意識的に声を上げるのを我慢しているせいであろうその端正な顔が歪み、きゅっと結ばれた形のいい唇から漏れる艶かしくも激しい吐息に、ぞわりと何かが背筋を這い上がった。
 由里と甘く掠れた声であたしを呼び、近付いてきた唇が重なるや否や、そのまま口内を犯される。――このキスは絶頂の直前のキス。そう思った瞬間、0・0二ミリメートルの薄い壁を突き破らんばかりの勢いで熱い体液が流れ込んでくる。
 自然に唇を離した彼は、拓巳くんは、あたしの中から静かに出ていく。肩で息をしたまま、何も言うことなく、あたしに背を向けて後始末をし出す背中をしばらく眺めていた。
 暗がりの中で時計の文字盤はよく見えない。聞こえていたはずの吹奏楽部の合奏も、運動部の掛け声もなく、冷えた静けさがあたしの熱を奪っていく。情事のあと特有の倦怠感と引き摺りながら身体を起こし、白濁した頭がようやく回り始めた頃、――ようやくあたしは我に返った。
 行為があったことを物語る、雄と雌の臭いに吐き気がする。あたしは脱ぎ散らかされた下着や衣服を身につけるよりも早く、締めた窓を開けた。
「……早く着なよ、由里さん。風邪ひくよ」
 後ろから聞こえる声は、“彼”より少しだけ幼さが残るもので。――ああ、あたしが莫迦だったとガツンと頭を殴られたような心地がした。いくら顔や背格好が似ているとはいえ、拓巳くんが“彼”になるはずないというのに。そんなこと、分かりきったことだったのに。自分がひどく浅ましく、そして愚かで惨めな女に思えた。唇を噛む。もう何も見たくなくて、あたしはぎゅっと目を閉じた。
 由里さん、と拓巳くんが呼ぶ。“彼”に似た、歳相応の声で。
「泣かないで」
 拓巳くんにそう言われて初めて、あたしは泣いているのだと知った。
「泣かないでよ、由里さん」
 まるで自分が泣き出してしまいそうな声で、宥めるように繰り返す。手を握ったり、汗の引いた背中をさすったり、おろおろしているのが気配で分かった。
 ごめんね、とあたしは言う。
 ごめん。ごめんね、拓巳くん。
 心の中では謝罪も、謝罪の理由もよどみなくスラスラと喋ることができるのに、肝心の唇はうまく言葉を紡いでくれない。嗚咽と泣き声が入り交じったそれはとぎれとぎれで、お世辞にも文章になっているとは言えなかっただろう。だが、聡明な拓巳くんは言わんとしていることを察したようで、あたしを真正面からぎゅっと抱き締めた。
「好きだよ、由里」
 その台詞は、“彼”を思わせる声音であたしの鼓膜を優しく撫でる。きっとその優しさは優しさではないし、分別の付いた大人であるならば突っ撥ねるべきものだったはずだ。けれど、あたしはそうはできなかった。

 結局、あたしもあの女子生徒と何ら変わらない――ただ年だけ無駄に重ねたアドレセントだったのだ。

Dear,Miss Adolescent

Dear,Miss Adolescent

!性的表現を匂わす文章を含みます!【adolescent】(名)青年期の人、若者(形)青年期の、思春期の、若い、青くさい

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-11-02

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