帰郷

帰郷

 何をしても上手く行かない時があるよね。みんな一緒さ、でもね、そんな時にしか見えないものだってあるんだ――。

 医師になることを夢見て、その夢を実現するまで戻らないと言って東京の医学部に進学した篤信は、自分の道を見失い、卒業を前にして実家のある神戸に戻ってき来た。そこで同じように上手く行かない日々を過ごす幼馴染みの朱音と弟の陽人、妹の悠里たち3きょうだいと接していく中で、それでも前向きに自分を取り戻そうと思うようになる、悩める若者の心の成長を綴った物語です。

序章


「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって……」

 受話器から聞こえてくるのは冷たい自動音声だった。心のない声を最後まで聞くことなく受話器を元に戻した。
 間違いかと思ってもう一度確かめてかけ直したが、電話の主は同じ声だった。
「何やってんだろ……」
辺りは暗くなってきたというのに、部屋の電気もつけずに徒に時間だけが過ぎ行く。

 こんな筈じゃなかった――

 何が間違っていたのだろう?全くわからない。わからないからこうなってしまったのだろうか?何をしても上手く事が進まない。今まで普通に出来ていた事ですらここにいると出来なくなってしまった。
 少なくともここに来るまではこんな事は一度もなかった。思った事は何でも出来た。あの頃を求めて、望みの綱と思ってかけた電話もこの調子だ。もう策がない――。

 陽もどっぷり暮れて真っ暗になった部屋に電話が鳴り響いた。設置はしているものの鳴ることなどほとんどない。やっと出番が回ってきたと言わんばかりに自らの存在感を音で示す。
「もしもし、ああ……、父さん?」
部屋に灯りが点った。久し振りにその声を聞いた。
「……うん、わかった。券が取れたら明日そっちに帰るよ」

 電話を切ると、一先ず最低限の荷物をまとめていた。自らに課した試練なんて忘れていた。今自分のとった行動が正しい判断かどうかは分からない。ただ言えるのは、自分にとって本意ではないのだが、本能がそうするよう命じたということだった――。

第一章

   何をしてもうまくいかない時って、あるよね――

  1 神童

 六甲颪(ろっこうおろし)とも言われる、冬の六甲山から吹き下ろす風はとても寒く、道行く人の身体を縮こませ、一気に海へと突き進む。海も白い波を激しく立てて、人を寄せ付けようとしない。山は薄着になり、頭には白い帽子を被っているのもちらほら見られる。風は、気持ちの隙間を狙って吹き込む。今日はそんな天気だ。
 年の瀬も迫ってきた12月の昼下がり。駅に一台の電車が停車し、暫しの停車の間に数名の乗客を入れ替え、再び走り出す。降りた乗客はそそくさと改札口の方へ向かうのだが、駅のホームに降り立った青年は一人、肩に掛けていた大きな鞄をホームに下ろし、大きく一回伸びをして深呼吸をした。
「はぁ――」溜め息とも、深呼吸とも取れるような深い息を吐いた。「久しぶりだ、神戸もあんまり変わってないなあ」そう言いながら周囲を見回す。そして、天を仰ぐ。寒い冬空だ、空気が冷たい、気分が冴えない。
 篤信は地面に降ろした荷物を再び肩に掛け、前を向いてゆっくりと歩き始めた。強い風がまた山から吹いて来る。
 医学部の6回生である西守篤信(にしもりあつのぶ)は東京の大学に通う大学生。卒業まであと少しというところなのであるが、実家のある神戸に帰郷してきたのだ。思えば今から五年前の春、医師になることを目指し、ここから旅たった。「医者になるまでは戻らない」そう宣言して。
 今、彼がここにいることはその「宣言」が実現できないことを表す。帰ってきたのには当然理由があるのだが、それもなかなか言い出せず、改札口を出て迫りくるように聳えている六甲の山に向かって、その足取りを進めて行くのだった。

   *

 篤信は山が迫り来るような坂道を登り、六甲山の西、摩耶山の麓当たりにある一軒の病院の前で足を止めた。『西守医院』と書かれた看板が掛かってある。篤信の実家だ。時間は午後の診療前なので、周りに人はいない。篤信は目の前で何も言わずに、ただ立ち尽くしていた。帰ってきた、帰ってきてしまった――、複雑な気持ちを交差させた。
「ここまで来といて引き返せないよな……」篤信は気持ちを切り替えて病院の裏に回り、玄関に向かおうとすると、玄関前に繋がれている柴犬のドンが久方ぶりの帰郷を出迎える。篤信の強ばった表情が少し和らいだように感じた。
「ドン、帰ってきてしまったよぉ」自信のない声でドンをあやすと、大きく尻尾を降って主人の帰りを歓迎している。
「お前は俺を覚えてんだな……」
 ドンの鳴き声を聞いて、病院の方から出てきた受付の女性が犬をあやす篤信を見つけて、嬉しそうに声を掛けてきた。
「あらぁ、篤信君」
篤信が小さな時から西守医院で受付をしている女性だ。勿論、篤信が神戸でどのように育ったのかをよく知っている。
「先生から今日帰ってくるって聞いてましたよ。ささ、仲へ」
篤信は力の無い笑みを見せた。
「しかしまぁ、立派になられて。どうですか?勉強の方は」
久し振りの再会を喜んでくれているのは分かるが、篤信はあまり元気がない。
「まあまあです、父は、中にいるんですよね?」
「診察室にいらっしゃいますよ」
篤信は力無くお礼を言って、診察室の中に入っていった。


   *

「入るよ――」
 篤信はそう言って西守医院の診察室に入る。デスクでは父が午前中に診察した患者のカルテを診ていた。久し振りに見る父の背中は以前と変わった様子はない、少し白髪が増えたくらいか。
 父は息子の声を聞いて作業をしていた手を止め、ゆっくりと振り返った。目の前に立っている篤信を見て表情を変える訳でもなく、ただ大人になった篤信の全身を下から上と一度見流した。
「また背が伸びたか」父は患者に勧めるように椅子を差し出すが、篤信は立ったまま顔を向けている。
「帰って参りました」篤信は改めて挨拶をする。
「一度帰っておいでとは言ったけど……、今回は本当に帰って来たな」
「――そうだね、その気は無かったけど、父さんに言われるとね」
「おいおい、私は無理強いはしてないんやけどなぁ――」父は小さく笑いながら自分よりも大きくなった息子の顔を見た。篤信はハッと息を呑んだ。
「別に怒ったりも嘆いたりもせんよ――。人生そうトントン拍子には進まないさ」
篤信は父と視線を合わせた。言葉に裏はない。その目は優しく、いつもの父と変わらないそれだ、話さなくても心の声を読まれているかのような。
 篤信は今まで父に怒られたことがない。それは篤信ができた子供であったこともあるが、父の目には自省を促す眼力があるからだ。
「正直に言うよ。ショックに思わないでよ」篤信は観念した様子でぽつりぽつりと話し出した。
 大学でちゃんと勉強はしているものの、大学の授業に付いていけないこと、東京に相談相手になってくれるような人間関係が築けていない現状、おそらく留年するであろうこと。
 自らを律してきた自分に限界が感じられ、そんな中で父から帰省の誘いがあったのでここに帰って来た事――。
「以上か?」
父の素っ気ない返答。篤信はもう一度回答を考えたが、それ以上はまとまらなかった。
「大体そんなところです」
父はもう一度息子の顔を見た。ほんの数秒ほどだったが、篤信には長く感じた。
「留年しても気持ちは続くか?」
篤信は即答できないのを父は見逃さなかった。
「重症かな」父はそれでも暗い顔はしない、凹んで帰って来た息子を見て。
「付いて行けないなら辞めても構わんよ。医師だけが職業でもない。ただ自分がどう思うかだ」
父は息子を見上げると篤信の背筋が伸びた。
 授業に付いていけないのは内容が難しいからではない。すべてのリズムがずれている、それをアジャストする方法が分からない。それが出来ない限りたとえ留年しても卒業できる自信は今の篤信にはない。だからといって大学を辞めて新しいことを始めるという自信も希望も思いきりもなく、結局宙ぶらりんな状態でいる自分が嫌だった。
「私だって大学入るのに3年足踏みしてる。篤信の同期生も大体が年上だろ?それに6年で卒業できん人もザラにいるし、ケツ割ってしまう人もいるだろう?」父は立ち上がり、篤信の肩を叩き、篤信の後ろに立つ。
「考え過ぎなんだよ」
診察室が一瞬静かになった。
「帰らないと言ったのも自分で言ったことやし、私はそうしろと言ってもないぞ。第一私は……」
篤信は後ろを振り向く。
「篤信に医者になれとも言ってないしな――」
「えっ、確かにそうだ」篤信は気付いた。今まで頑張ってきて、そしてつまづいた。それは親の期待でもない、自分が自分のためにしたことを。
「気持ちが途切れてないなら一年でも二年でも余分に勉強したらいい、そして帰って来たんなら休め、焦ったらドツボだ。それも勉強だ」
父は篤信の気持ちを完全に手玉に取って自在に操る。篤信はなすがままだ。
「あともう一つ。折角帰ってきたんやから、人に会ってきなさい。神戸の人なら話せることもあるだろう」
父は息子の表情をもう一度確認して再び笑い声をあげた。
「何だ、心配するほどの事でもなかったな。焦らんでええ。まだ篤信に病院譲るほど耄碌してないぞ私は。時間掛けてもいいから、自分なりに納得するまで考えるといい。さぁ、お茶でも飲もうかな……」
 父は笑いながら診察室を出ていった。父にすれば篤信の悩みなど大した事ではないようだ。
「あ、それと。ドン連れて散歩にでも行っといで」
去り際に父がそう言った。すると病院の外でドンが呼ぶ声が聞こえた。


   *

 散歩に出る前に篤信は一度自宅に入った。西守医院の二階がそれだ。ピアノを教える母が部屋を一つ教室にしているほかは、篤信に兄弟がいないので部屋数も同じ街区と較べて多くない。篤信の部屋は奥の洋室で、主はいないが母が綺麗に掃除しており、上京したときのままだ。
 今日は母も外出しているようで、家には篤信一人だ。篤信は荷物を下ろし、机に腰掛け、大きく深呼吸を一回した。本棚には大学受験でお世話になったボロボロの参考書、テレビ台の上にはお気に入りのカメラ、机の横には竹刀袋…。そして壁に掛かってある額の写真。額の中に数枚の写真が重なりあって飾ってある。それもそのままだ。
 篤信は写真の前で固まった。額にある写真は、古いものでは篤信が五歳くらいのもの、一番最近の物では高校の頃に剣道の試合に出た時のものだ。どれもいい顔をしている、篤信だけでなく、一緒に写っている人も。
 地元の中学高校では成績は常にトップ、運動では剣道部の主力を張り、一番でなくとも鍛えた体力と精神は申し分ない。いってみればこの額は神戸にいた篤信の挫折のない歴史である。しかし、額の下枠に篤信が書いた、

  「立派な医者になってやる!」

という意気込みが目に入り、篤信は少し恥ずかしく、そして空しく感じた。
 それから篤信は横にあった竹刀を袋から出しては構えたり、カメラを手に取りレンズを覗いたり、そして写真の方を見たり、自分の時計を逆戻しした。
「みんな、どうしてんだろ……」篤信は自分ではなく、一緒に写っている人に目を遣った。
「帰ってきたけど、その話し相手もいるのかどうか……」ネガティブな独り言を言って、時間が徒らに過ぎそうになったところを、家の外で待っているドンが篤信を現実世界に引き戻した。
「あ、いっけね……」
篤信は急いで階段を降りて、外へと駆け出して行った――。

  2 クォーター

 神戸の元町にある小さな事務所。キーボードを叩く者、電話で何やら対応している者、それぞれがあくせくと働いている。ここは、外国向けの商品又は輸入ものの商品についている説明書などを自国向けに翻訳する会社で、事務所の机の上は、大中小の企業から依頼されてきた取説の束が乗っている。
 入社2年目の朱音(あかね)は、その英訳の業務を担当しており、日夜やってくる日本語の説明書きを自分の表現で翻訳し、上司にその決裁を貰う。それを元に修正推敲、レイアウト等をして冊子にするのである。
 アイルランド系アメリカ人の祖母を持つ朱音であるが、日本生まれの日本人である。髪は濃い茶色であるが、同世代の若者の女性と違う程でなく、強いていえば肌が少し色白に感じる程度で、見た目でも彼女がクォーターであることは分かりにくい。特に相手から聞かれない限り、自分から言い出さないことが日本の社会を円滑に生きる方法であることを自然に学んだ。
 日系二世である父の仕事の関係で子供の時はアメリカに住み、現地の学校に通っていたこと、帰国後も家では英語で話す機会が多かったことなどから、英語で意思の疎通が問題なくできる。そんな経歴もあり、地元の短大を卒業後、この会社に就職する運びとなった。最初の一年は営業として得意先回りで新人修行、それも無事修了し今春、希望通りの翻訳係に配属となった。

 朱音は電化製品や玩具などの取説を昨日の内に英訳し終え、上司に提出済みで、今日は得意先と電話でやり取りするのが主な仕事だ。
 翻訳という業務は元の文章があって、適切な訳が求められる。朱音にとっても興味はあるが難しい業務であると心得ていて、会話と違ってなかなか思うような翻訳ができない。しかし、電話対応に関しては彼女のアメリカ訛りの英語の方が他のスタッフよりウケが良い。
 デスクで書類を読んでいた上司が朱音を呼ぶ。朱音は返事をしてデスクの前に立った。
「はい」
上司が朱音の書いた翻訳文を朱音に返す。
「あのね」少し呆れた表情で続ける。
「これは子供向けの書類じゃないんだよ。君の書き方だと女子高生の雑談みたいな言葉に取れる」
朱音なりの一生懸命をダメ出しされたのが悔しい。いつものことではあるが、取り敢えずは少しでも認めて欲しいので意見をする。
「この方が分かりやすいと思たんですけど――」
「うーん、普段の会話ならいいよ」
それなりに頑張っている朱音の姿を見ているので、少しはフォローがある。
「しかしこれは取説なんだよ、いつも言ってるけど口語過ぎる。もうちょっとマニュアルに沿った翻訳をしてほしいな……、残念やけどやり直し」
 ――がっくり。朱音は肩を落として自分のデスクに戻る。最近確かにスランプだ、マニュアルにある硬い表現が自分には受け入れられない。
「確かに現地の人らしい表現なんやろうけどなぁ、これって。さっきまでキミが電話対応してた時の表現やもんね。ただこれでは全ての人が読んで分からんし、上に上げたら俺が怒られちまう」
結局それだ――。立場上の言葉と自分はクォーターであることが前提の言い方か――。
 朱音はまだ新人である分大目に見て貰ってるのはわかる。だけどいつまでもヒヨコ扱いでなく、早く正しい立場の評価で納得のいくOKが欲しい。

   *

 それから朱音は休憩室に入り、大きな溜め息をついて席に座った。その姿を遠くで見ていた同僚の智香が遅れた昼食を手に朱音の前に座ってきた。
「よっ、朱音。どうしたの、大きな溜め息なんかついたりして」
「はぁ、見られてた?」
 智香は朱音と同期入社だ。今は出来上がった英訳文をパソコンでレイアウトして冊子を作る仕事をしている。最近朱音の書いた書類が回ってこないので、彼女が最近スランプなのがわかっているようだ。
「主任の決裁が厳しくてねぇ」
朱音は同僚を前にふと本音が漏れる。そして自分のしていることが間違っていないことを付け加えるのを忘れない。
「フォローはして貰ってるけど、アタシ的にはね、今までの見たことないようなモノをつくりたいのよ。取説って蔑ろにされやすいから、それを読んでもらえるような……」
今の仕事が嫌いではないが、本当は取説のような淡々とした文章ではなく、詩や物語といった行間のある文章の翻訳をしたい。抱く夢はそれなりに大きいが、今の仕事もこなせないようならそれも遠い夢だ。智香も朱音の言うことには納得して一緒に頷いている。
「でもさ、アタシって会社では身上で偏見持たれてるんかな?」
「偏見?」
「クォーターだから?外国に住んでたから?それだけで言葉がわかるなんて大間違いだよ」朱音の息が荒くなり始めた。
「ちょっと、朱音――」
「ごめん、でもねこれだけはわかって欲しいの」
 朱音はこんこんと説明をする。言葉に詰まることなく次々と喋りまくる。彼女は今まで何度もこの説明をしているんだろうなと智香には見てとれた。
 外国に住めば現地の言葉がわかるというのは偏見でありいずれも間違いということ。言葉を理解するのは教育を受けたからであり、さらに言葉を駆使するために自ら勉強を続けているということ。始めからできたのではない、学校で勉強したから理解ができるのだ、と。
「基本的に人って偏見持たれたら変えらんないんだよ。同じ言葉でも言う人で意味合いが変わってしまう」
朱音の経験がそのような答えを導いた。
「アタシもそれなりに考えて翻訳しとうんやけどなぁ……」
 朱音の言う考えと会社の言う考えとは歯車が噛み合っておらず、今のまま頑張っても空回りを続けることには本人は気付いていない。
「朱音ぇ、ちょっと落ち着こうよ。私は朱音がそうやって挑戦するところはスゴい好きよ」 
智香は朱音を宥め、話題を変える。
「そんな時はストレス発散しなきゃ。ところで朱音は今日空いてる?段取りしたげよか?」下がり調子の朱音を見ると智香はよく誘ってくれる。何がとは聞かない、智香が言うそれは合コンのことだ。
「今日も行くの?あんたも好きねえ、ていうかそんな話がよくあるわねぇ」
「そういや朱音には浮いた話って全く無いわよね。」そう言いながら朱音の顔をじろじろ見る「興味ないの?もしや朱音――」
 朱音は一歩後退り、両手を振って答える。
「あのね、私は――」苦笑いをした。
「興味がなくはないけど、今は人と付き合う余裕がない。それに今日は家の事もあるし、クルマにも乗るし、それに、お酒飲んだら失敗するから……」
いつもの言い訳で誘いをかわす。
「そうだったわね。朱音も偉いよね、仕事のあとに家事までするんだから……」
「ううん、必要からすることやしね」
「でも、都合のいい時は言ってよ、段取りするからさ」
智香にとって朱音は重要なカードだ。見た目も持ってる話題なども合コンするには合格点を着けている。
「えへへ、ありがとね」朱音は段取りを取ってくれることにではなく、同僚の気遣いに感謝した。
 程なく上司が朱音を呼ぶ声がした。いつもの電話ヘルプだ。
「はーい、今戻りまーす。」暫しの休憩を終えて朱音はデスクにかけ戻って行った。

「人って変わらない――」
 朱音はそう考える。自分がクォーターで、外国育ちである事は変えようのない事実だ。人の性格も同じようなものだと言う。それでも現状を打破すべく効率悪くもがいていることは自分がよく知っている。
 ただ、自分の考えが相手に壁を作らせていることには今の朱音には気付いていないようだ。

  3 ギミック

 小さな貸しスタジオにうねるような音が流れる。人によればそれは雑音に聞こえるのだが、彼らにしてみれば一応形を整えた音楽。良し悪しはさておき固定のファンがいるということは、彼らの演奏は「音楽」と言えるものなんだろう。
 地元の、そのジャンルでは名が通った高校生バンド、ギミック。ギターを掻き鳴らし、歌を歌う基彦(もとひこ)。ベースを弾くのは二人より一年先輩の郁哉(いくや)。そしてこのバンドの曲を作り、ドラムを叩くのが陽人(はると)。
 この中でも陽人のキャリアは高校生ながら長く、4歳の頃からピアノに慣れ親しみ、かつては数々のコンクールで入賞するほどの実力の持ち主で、中学に入って今の音楽と出会いバンドとして活動する楽しさを覚えた。ドラムはピアノを習う傍らでリズムの練習をしていたことでその腕をあげた。その頃同じく地元で有名なバンドのドラムスとして参加し、インディーズではあるがアルバムに名前を載せた経歴がある。その後陽人は、高校に入学後自分のバンドを求め、考えの近いメンバーを探した。それで集まったのが、小学校からの仲間である基彦と、基彦の信頼している先輩である郁哉が加入、3ピースバンド・ギミックとしてスタートした。
 長身で勢いのある基彦、小さいながらバンドの運営をする陽人、二人をうまく纏める先輩の郁哉。キャラはそれぞれだが、それ故の纏まりがある。
 曲を書くのは陽人の担当だ。彼の書く歌詞は甘い台詞などなく、音は激しくかつ重い。それは陽人が育った環境や背景に由来する。
 中学校に入学した頃までは何不自由なく、むしろ裕福な家庭環境のもとで成長した陽人であるが、中学受験の失敗、家庭の不和そして崩壊、身勝手な両親の放任、家庭内での孤独感、結局の離婚、大きな一軒家から小さな文化住宅への転居……とギミックの活動と反比例するかのように坂を転げ落ちるようなを経験してきた。
 荒れた時期が確かにあったことを陽人は認めているが、いい仲間に恵まれたのか、本人が落ちきれなかったのか、又、今やっている音楽があったからか、ワルにはなりきれず今は地元の公立高校に通っている。
「あの時に較べたら今の方がずっとマシなんだ。決して満足とも言える状況でもないんだけど――」
と陽人が言うのを見て、基彦と郁哉は
「それぞれ家の事とかは干渉しないけど、『あれ』以来陽人の顔色は良くなった」
「もともと陽人はいつも考え込んでるイメージがあるから」
と説明する。二人は、生まれつき色白で少し茶色がかった髪、三人の中では最も華奢な風体であるギミックのフロントマンを評する。
 現状は現状。不満が無い訳ではないが不満を爆発させる程でなく、かといって満足でもなく……、だけど何かやりきれない宙ぶらりんな10代の若者たち。彼らはそのやりきれなさのを表現のする方法に音楽を選んだ。
「誰だって言いたいこと、共有したいことはあると思う。表現の方法は何でもいい、それが受ける側の代弁するものであれば――。その方法がたまたま音楽だった」というギミックの姿勢は同世代の共感を呼び、地元では小さな話題となり、地元のインディ・レーベルからアルバムを出すほどにその活動は成長していた。

 そんな高校生バンド、ギミックであるが、ベースの郁哉が大学受験の本番に突入するため、年末のライブで活動を休止することが決まっている。当面は残った二人で考えもって進めるつもりではあるが、来ることがわかっている現実が近付き、岐路に立つことを余儀なくされ、それに対して具体的に考えていない陽人は最近元気がないのだった。進学校に通う陽人であるが、家庭の現状を考えると学校の勉強というよりも進学というものに大きな壁を感じる現状、それがギミックの活動を止める要因となっていることに自分だけが納得いかず、その事は誰にも言えないでいた。

   *

「OK、OK」基彦がギターを弾く手を止める。その合図を見て後の二人も手を止めた。
「郁さん抜けたらこれからどうする」
 基彦が話を切り出す。陽人とは長い付き合いだから、最近考え事が多いのが様子で分かる。日頃から陽人の進めてきた方法を賞賛していたのだが、確認したいことがあった。
「残ったもんでやりもって行こうな」
陽人が答える。陽人の中では一応の妥協点としているのだが、この答えにはここにいる三人の妥協点でなく、陽人自身も納得のいく回答でないことは重々承知している。
「まぁ、それでもいいんだけど……」
基彦はスッキリしない感じで言う。
「こないだ俺と宮浦とで話しとったんやけど――」
ここは先輩の郁哉が割って入る。一度基彦の方を向いて、陽人に話しかける。
「俺の都合でこうなってしまうのもアレなんやけど、いっそのことギミックを3つに分けたらどうだろうか?」
「えっ――、マジすか……」陽人は予想外ないきなりの言葉に驚いた。今まで原案は陽人が考え、バンドの方向性を決めるに当たっては、いつも三人で決めてきたので「二人で話していたこと」というのが気になる。咄嗟に横にいる基彦の方を見たが動じる様子なく、郁哉の話を黙って聞いている。
「宮浦、お前いつそんな話したん?」
「別に抜け駆けと違うぞ、俺だってそれなりに考えてんだ」基彦はそう言って陽人に答える。
「俺たち二人で続けるよりは、郁さんの考えはいいんじゃないかと思う。うまく説明できないんやけど――」
 基彦が言うにはこうだ。それぞれが活動をする。それぞれが経験を積み、気が合えばまた集まるだろう。いずれ活動休止するのは予定されていたのだから綺麗な引き際を望むということだ。この先もっといい活動ができればそれはそれ、回顧する機会があればまた一興、拙いながらもそう説明した。
「そういうお前はどうよ?」基彦が聞き返した。
「俺?んー、そうやね……」
 陽人自身の考えでは、曲は自分が書いている、ただ自分がドラムを叩きながら歌うというのは選択肢にない。
 そもそも陽人がギミックを結成するきっかけとなったのは、自らギターを弾いてヴォーカルをしたかったからだが、自分のイメージ通りのドラムを叩く人がいないまま、基彦たちと意気投合したことから結局ドラムに収まっている。案外これがうまい具合に進み、地元では有名になったのだった。
 しかし自分の理想とするドラマーがいればと考えるとなるとどうだろう?その問題については正直回答に困る。秤に掛けるとつりあうくらいだ。
 しかし今まで作った環境を壊したくはない、でもギミックは大きな岐路に立っている。実際に別のバンドを組むまでに至ってないものの、自分に合うドラマーを模索しているのも事実で、ギミックの活動と並行してやっている。
 陽人の秤が傾かんとしているのも否定しない。でも二人の手前言い出せない。結局は現状を保険にかけて新しいことを模索している自分に後ろめたさがあったからだ。
「言わんとすることは分かるけど、なんか、こう――、イメージないなぁ」
陽人は、二人の意見に肯定も否定もしなかった。自分自身の意見にもまとまりが無かったからだ。
「俺が首都圏の大学を志望しているのは知っとうよな?まぁ、まだ決定したわけちゃうけど……、とにかくさ、それぞれの活動をしていつの日か再結成!ってのはどうだ?」
郁哉は神戸を離れる、活動休止ではなく、ギミックの無期限的脱退を仄めかす。
「勿論俺は音楽を続けるよ。落ち着いてからだけど」
「いつの日かって、いつ?」
「未定だな。ただ言えることは、ギミック再結成の日まではね。思い入れがあるんだ、それなりに」
 今まで大きなトラブルなくやって来た三人。ただの仲良しクラブでもなく、意見することは遠慮なく意見してきた、仲間だからこそ、郁哉も基彦もメンバー変更とかでなく、三人で跳び立ったバンドのいい着地点を模索している。これを終わりにするのではなく次なるステップにしたいと思っているのだ。しかし、一方の陽人は二人と違って具体的にこれからのことは考えてなかったのだった
「まだもう少し時間があるから、もうちょっと考えさせてよ」陽人が提案した。二人は頷いて同意を示した。
「ちゃんと結論出すから……」今までバンドの運営をしてきた陽人がメンバーから求められる。逆の立場に慣れていない――。というより、今まで鼎立の関係でバランスを保っていたギミックであったが、終盤になってその力関係が微妙に変化しているのを陽人は感じた――。

 陽人はドラムソロで始まる曲のイントロを弾き出した。二人は併せて自分のフレーズを弾き出す。さっきまでの会話はひとまずお預けとなる。
 郁哉と基彦は陽人の心中を察した。二人とも「陽人が集めたバンド」である意見には変わりがない、だから彼に決断を委ねた。
 三人の奏でる、というよりはがなりたてる音がスタジオに響く。残り少ない活動時間。それぞれの考えはとは別に、ギミックの音は一つの束になる。
 がなり立てる音はどうにもならない世の中や自分、現状、周囲の環境への怒り、陽人が書いた詞は「だからといって気にするなよ」と言う諦めに似た優しさを表す。誰にだってやりきれない事がある。陽人は直接的な表現はしないが

  「環境の違いはあるが、人ってみんな同じなんだ――」

と言う。人はやりたいことのためにシフトする、誰だってそうだ。それができないときは考える、それでも駄目なら諦めるか、もがいているのかのどちらかだ。
 陽人は今、もがきながらも何かを模索し続けている。その中で音楽を創り出した。その姿勢がギミックの姿勢であり、今ここにいる二人を始め、同世代の賛同を得た。

   やってみなければ
   出来なかったことすらわからない
   それが分かるだけでも
   無駄じゃないんだよ

 陽人は自分の書いた歌詞を自分に言い聞かせた――。

  4 独りの通学路

 昼下がりの放課後、学校から子供たちが次々と出てきては、ワイワイ言いながら家路に向かう、「今日は何して遊ぼうか」「塾へ行かなくちゃ」「公園でサッカーしようぜ」子供は寒いのも平気なようで、ほとんどみんな元気だ。
 そんな子供たちが騒ぐ通学路、六年生の悠里(ゆうり)は一人で家路に向かっていた。周りの子供たちとはあまりに対照的で、一つに束ねた少し茶色がかった長い髪、他の子供たちに較べてわかる白い肌、眼鏡の奥に見える茶色の瞳……、その容姿も重なっていくつかのグループになっている他の子供たちより、目立たないようにして一人歩く悠里の姿が目立って見える。
「はぁ――」悠里は溜め息をつく。表情は明るくない。
 悠里はアメリカ人の祖母を持つクォーターだ。
 とはいえ日本生まれの日本育ちで、祖母の住むアメリカにだって小さい頃に行ったことがある程度で、住んでいた訳でもなく、もうひとつの母国と言われても全くピンとこないし、悠里にとっては母国でもない。さらに両親の離婚によりその「母国」も遠い遠い所になってしまった。
 一目で分かるほど見た目が他の子供たちと違う訳ではないが、よく見るとやっぱりわかる、こればかりは変えようがない。それがどうにもならないことは悠里はよく知っているのだが、自分自身について質問される度にそのどうにもならないことを思い出すことを余儀なくされる。
 言葉の問題もある、悠里は英語が苦手だ。きょうだいの中で悠里だけが満足に英語が話せない。家で日本語と英語がごちゃ混ぜになった会話を聞くこともしばしばあるののだが、悠里には理解ができない。一番上のきょうだいとは自分の倍の年齢であるほど年が離れているためか、お互いに同列にいるとは思っておらず、それ故そんな時はいつも疎外感を感じている。更に、離婚して離れ離れになった父親は日本語が苦手で満足にコミュニケーションが取れなかったこともあり、その事がコンプレックスで、悠里は英語には強い苦手意識を持っている。

 悠里は家に向かって坂道を真っ直ぐ下りる。目の前には摩耶埠頭が見える。時折悠里はチラッと後ろを振り向くフリをして、そしてまたすぐに向き直る。
「何でこうなったんだろ――」もう一度溜め息。
「また今日もだ」
 両親の離婚で近くではあるが引っ越しをしたので、秋から隣の学校に転校することとなった。環境の違う今の学校にもう一つ馴染めていない。小学校もあと半年、人間関係がある程度出来上がった状況で転校生が馴染むことは誰でも大変な事だ、初めての転校を経験することになってしまった悠里にとっては尚更である。悠里も今の状況が本意ではない。歩きながら打開策を考える。いつしか彼女の下校の日課になってきた。

   ~ ~ ~

 転校初日、九月。黒板に書かれた悠里の名前。先生に促されて挨拶をする。
「倉泉(くらいずみ)悠里です」ペコリと頭を下げる。「よろしく、お願いします――」
 自己紹介を求められる。しかし、自分の事、転校の経緯、できれば言いたくない事が多いのに、クラスメートからは悠里自身が気にしていることを率直に質問をする。子供は興味があるほど純粋で、時には残酷だ。
 悠里は正直に答えたが、クラスメートたちにとってとりわけ興味を惹く話題もなく、期待外れの表情をするのが教壇から見えた。誰も口には出さないが、悠里はその雰囲気で悟った。その第一印象で元々引っ込み思案な方であった悠里はさらに内気な子になってしまった。
 それでも悠里には友達ができた。サラというヒスパニック系アメリカ人と日本人とのハーフで、髪と肌の色はクラスの子と比べても変わりないが雰囲気で外国人とわかる感じの女の子だ。
 彼女は日本語が時折英語訛りになる時があるが、そんなサラを見て悠里は羨ましく思っていると同時に、彼女の存在によって自分がクォーターであることについては誰も違和感を持たず、苦手な英語について質問をされることもないので、彼女には感謝のような感情があった。
 そんな二人の関係は悠里の無意識な言葉からすれ違い始めた。
「私ね見た目こんなだけど、英語は苦手なの」
「そうなの……」
 英語に関しては、家の中で負い目を感じている。だから、外では必要でない限り触れたくない話題だった。サラは少しガッカリしたのを悠里は覚えている。
 それでも当初は似た境遇の身であることからか優しく接してくれていたのだが、悠里が他のクラスメートと変わらない身であることが分かるに連れ、悠里への興味が薄れて行き、次第にクラスの一人に変わって行った。

 それからある日のこと、そのサラに授業中に

  「嘘つき」

と言われてしまったのだ。強い調子の英語だった。クラスメートはキョトンとしていた。多分それが分かったのは悠里だけだろう。原因はわからない、全くわからない。悠里が転校してからのどんな記憶を辿ってもわからない。
 それからの悠里は嘘つきのレッテルを貼られ、よってたかって無視をされ、陰口を叩かれる……。学校での待遇がどんどん良くない方向に変わってしまった。悠里はその理由を聞こうと思ったが、そう思ったときには彼女の周囲に仲間がおらず、もはやそんな雰囲気ではなかった。
 悠里はそれでも我慢していたのだが、彼女の身上、両親の離婚、狭く小さな家にすんでいること、年の離れたきょうだいがいること、自分の事と違う事まで揶揄されるようになったのにはさすがに耐えきれない。家族に相談したら家族を困らせてしまう。最近では毎日、下校の時間に後をつけられ聞こえるか聞こえないかの声で揶揄されるようになった。

   ~ ~ ~

 今日も後ろから人影を感じる。何やら言ってるのが聞こえるけど、聞きたくない。
「あいつの家ってな……」
「そうそう――」
聞いてないふりをするのが精一杯の抵抗。やっぱり聞こえてくる。でも振り返ったら思う壺だから、悠里は決して後ろを振り向かない、振り返ったら泣いてしまう……。
「どうしたらいいの――」
悠里は視線を上にした、眼鏡を外して両手に持つ、眼を大きく見開く、立ち止まる。後ろをつける者の足も止まる。
 途切れかけた気持ちをリセット。
「いや、何か方法は、あるよ。絶対に――」
 悠里は気持ちを切り替え再び考え出した。それでも悠里はサラを責めたりはしなかった。最初は仲良くできていたのだ、だからこうなってしまったのには原因がある。原因がある以上解決する方法はある。

   人を責めても何も解決はしない――。

 悠里が11年余りの半生で見てきた彼女なりの考え。本人には持論と言う認識はない。子を放置して身勝手に離婚をした両親だって責めたり恨んだりしたことは一度もない。人を責め立てて解決した問題などないことを家の中で嫌と言うほど見てきたからだ。ただ、相手を説得できるほど今の悠里は口が上手でない。そんな時はいつも気持ちを切り替えて何とか自分を保って来た。本人が望んだ訳ではないが、辛い経験を力に変えることを無意識に覚えた。それは同じ経験をした者しかわからない。
 悠里は前を向き直って再び歩き始めた。後ろから聞こえる話し声は聞こえなくなった――。

  5 再会

 篤信は柴犬のドンを連れて、およそ5年半振りの故郷の街を見て回る。行き先は特にない、ドンが適当に自分のルートを決めてくれる。
 母校の高校、よく買い食いした駄菓子屋、お世話になった道場、友達の家、ドンは自分のルートをてくてく歩く今日はご機嫌なのか、元気がいい。
「よう見たら変わったところもいっぱいあるなぁ」
篤信は近所の街並みを見て思う。駅に着いた時よりも落ち着いてきたのか、街の変化に目が届いている。同級生のことを思い出した、普通に大学を卒業してたら同級生は社会人二年生だ。そんなに時は経っていたのか。そういや東京で県人会はしたけれど、神戸で同窓会に行っていない、そういや成人式もだ。篤信はわかっていながらも、五年半の長さを思わされた。
 さらにドンは歩いて行き、一軒の家の方向へ向かう。その行き先はドンだけでなく、篤信もよく知っているのか
「ドン、そっちは止めとこうよ……」
と言いながらリードを引くが、ドンは決めた散歩道は変えたくないようだ。
「ほら、ちょっとぉ」
 ドンが飼い主を曳き、一人と一匹は一軒の家の前に止まった。篤信がよく知っているしっかりした一軒家であるが、その佇まいは篤信の知るそれとは違っていた。
「え、そんな……」篤信が手にしたリードが自然に垂れた。誰も住んでいない、というよりそこは空き家になっているのだ。
 ここは篤信が会いたい人が住んでいた家だ。大学を卒業するまで帰郷するつもりがなかったことから、ここで会ってしまうととても気まずい――、筈だったが篤信の眼前にあるのはどう見ても空き家だ。
 ばったり出くわすことは回避されたが、今度はその消息が気になり出した。
「みんな、どこ行っちゃったんだ?」
篤信は足元で賢く待機しているドンを見る。
「なぁ、お前知っとうか?」
と聞き終わらないうちにドンは一声吠えて、我が道を走り出した。
「おいおい、どこ行くんだよ……」篤信はドンになすがままだ。

   *

 篤信はドンに連れられ、坂を下り始めた。篤信の視線には下校で戯れる小学生と、その先には神戸港が見える。
 我が道を駆けるドンの行く手を数人のランドセルが阻む、ドンが子供たちに吠え始めると、篤信は慌ててドンが吠えるのを止めようとした。
「こら、何で吠えるんだよ!」篤信はリードを巻いてドンの顎をさする。
「あ、ゴメンね。ビックリしたろ」
いきなり吠えられた子供たちに謝るが、子供たちは何も無かったようにすぐ後ろを向いて冷たい視点を遠くに向ける。
「何だ?何かあるの?」
篤信も釣られて視点を子供たちに合わせる、その先には淋しそうに一人歩く同じ小学校の女の子が見えた。
「みんな、何しとう?」
不思議そうに篤信が尋ねる。
「あの子――」目で相手を差す。「嘘つきなんよ」
英語訛りのある日本語で答えた。外国人かな。
「嘘つき?それはいきなりだなぁ」
篤信の中では、知らない人をいきなり悪く言うという思考はない。それだけに悪意のありそうな言葉に引っ掛かるものがあった。
「何かしたの?あの子が」
ちょっと意地悪な聞き方をすと、さっきとは別の子が答えた。詳しくは聞かなかったが、その内容は「嘘つき」とは全く関係ない単なる誹謗中傷であることがわかり、篤信は「もういいよ」とそれ以上の返答は遠慮した。
「それで君らはあの子のアラを探すのに後付けてんの?」篤信から溜め息がこぼれた。
「何があったかは知らないけど、よってたかってコソコソするのはフェアじゃないな。言いたいことがあれば面と向かって言えばいいじゃないか」
 篤信が睨みを効かすと、子供たちはバツが悪そうな顔をして反対方向へ行ってしまった。

   *

「やれやれ……」
篤信は子供たちを追っ払うと、ドンがまた一声吠え、主人に散歩の続きを催促する。
「お前はマイペースだなぁ」
再び歩き始めたドンは嬉しそうだ。
 小学生を散らしたドンは、今度はさっきまで前を歩いていた女の子の方を追い掛け、一目散に走り出した。
「おいおい――」篤信はドンを止めようとするが、リードは目一杯延びてゆく――。ドンは女の子に追い付き足元に顔を擦り付けると、その子はドンに気付いて歩いていた足を止め、後ろを振り向いた。
「あら、誰かなってドンじゃない」
女の子は一目で自分に寄ってきた犬がドンであると言った。どうやら知っているようだ。暗い表情が優しくなったのが見てわかる。
「どしたの、散歩?」しゃがみこんでドンをあやす。篤信より慣れているようで、さっき以上に元気よく尻尾を振り振りしている。
 篤信はリードを戻しながら駆け寄った。女の子も散歩の主の気配を感じ、そのまま上を向いた。いつもと違う青年がドンを連れているので、戸惑った表情で篤信の顔を覗き込むように見ている。わからないのか視点はあっていない。
「あの――、どなた、ですか?」
篤信は怪訝そうに尋ねる視線を感じながら、自分の記憶を辿る。濃いめの茶色い髪、白い肌、よく見ればわかる欧米系の雰囲気……。篤信の持つ記憶と目の前の少女の人物像が一致した。
「もしかして、悠、里ちゃん?」
「えっ?」少女は名前を呼ばれ驚く。
「久しぶり、というよりも覚えてないかな、僕のことを」篤信は照れ臭そうに笑う。悠里も悠里で自分の記憶を辿りながら立ち上がり、手にしていた眼鏡をかけ直して篤信の顔を間近に見る。記憶と人物が一致したのか、悠里の視点が定まると、難しい顔が笑顔に変わった。
「篤信兄ちゃん!」
「大きくなったね」
篤信は硬い笑顔で頷くと、悠里は篤信に飛び付いた。

   *

 篤信と悠里は、お互いの親のきょうだいが夫婦関係にあり、血縁関係はないが、親戚同様の付き合いがある。さらに二人は誕生日が同じで、年もちょうど一回り違いなので干支も同じだ。
 最後に会ったのは五年前の春だから、悠里が小学校に上がる直前である。しかし、悠里は篤信のことをちゃんと覚えており、そして篤信の帰郷を喜んだ。一方の篤信は恐縮に思った。
「篤信兄ちゃんはいつ帰ってきたの?」
リードを手にする悠里が質問する。
「今日だよ。悠里ちゃんはドンも覚えてるんだ」
ドンは悠里にえらくなついている。
「たまにね、西守先生の所行った時に散歩連れてってあげてるの」
悠里は屈託のない笑顔を見せる。さっきまでの暗い表情が嘘のように。
 二人はそのまま歩き続ける。篤信は悠里が下校中であることは分かったが、記憶とは違う道を歩いていることに気付いた。
「学校ってこっちの方やった?」
悠里の表情が一瞬固まる
「最近ね、引っ越して転校したから――」
「そうやったんか、前の家見たら空き家になっててさ、ビックリしたよ」
篤信は一つ安心した。悠里とその家族には帰郷したら会いたかった人の一人だ。篤信の知る家は空き家になっていて、連絡も取れなかったからとても心配していた、とういより不安であった。目の前にいる小さな悠里を見てその不安は解けつつあった。しかし、悠里の言い方と出会う前に会った彼女のクラスメートが少し気になるところであるが。
「それで今はどこに?」
「もう見えてるよ、そこに――」
二人は公園に差し掛かったところで足を止め、視線を公園の先に向けた。
「あ、お兄ちゃん」
悠里は公園の横にある文化住宅の二階通路にいる制服姿の兄を見て、指を差して篤信に紹介する。悠里より先に帰宅したのか、家の前で退屈そうに手すりに肘を掛けて頬杖をついている。
「あ、いけない」
悠里は思わず声を出した。するとその声を聞いて、妹が帰ってきたことに気付き、遠くの目線が公園の方にいる悠里に向いた。
「あ、悠里」
帰宅してきた妹を見つけ、階段をかけ降りてきた。
「待ってたよ。家の鍵持ってってへん?中入れないよ」
「ゴメン、鍵置いてくの忘れちゃったぁ」
悠里は慌てながらポケットから鍵を出して兄に手渡した。
 篤信は兄妹のやり取りを見て戸惑った。二人が住んでた元の家とのギャップ、兄の見た目等々、全体的に篤信の想像の範疇を脱していたからだ。
「頼むで、ホントに……。あれ、どなた?」
悠里の横に立っている、長身の人物に自然と目が移る。
「陽人君、陽人君だよね?」
その声を聞いてすぐに誰か分かった。
「えっ、篤兄?」陽人は横にいる悠里が頷いているのが目に入ると、自然に顔が綻んで以前の面影が見えた。
「久し振りやん。いつ帰ってきたの?」
 篤信は自分よりも小さな兄妹に帰郷を歓迎された。二人はその経緯を知らないが、素直に喜んでくれたことに篤信は次第に顔が穏やかになっていった。

  6 暗黒の四年間

「狭いけど入ってよ。なんにもないけど」
陽人は突然の来客にも物怖じせず、篤信を部屋に勧める。悠里はドンを家の前の柵に繋ぐと、篤信の背中を押した。篤信は二人に言われるがまま、小さな家の玄関をくぐった。
 公園の横にある小さな文化住宅。二階の一室が現在の彼らの家だ。食卓のある居間の奥に部屋が二つ。家族で住むにはかなり手狭だ。東京にある篤信の下宿を少し大きくした程度で、彼らが以前に住んでいた家と比べて半分にも満たない大きさだった。
 しかし、目の前にいる二人は間違いなく高校生になった陽人と小学生の悠里だ、それは変わらない。ただ篤信の知っていたそれとのギャップがあまりに大きいので訳が分からず事態を理解するのに頭を回転させるもその落とし所が見つからない。
 悠里はテーブルの上を一応に片付けながら、篤信に席を勧めた。まだ動揺している様子の篤信を見て、陽人の方から話題を切り出した。
「ビックリしたでしょ?」篤信の様子を窺う「別に気ぃ使わなくて、いいよ」
「確かにビックリだ」陽人の言葉で幾分か緊張が解ける。「見ないうちにしっかりやってきたんだね。母さんも言ってたよ」篤信は二人が頑張っていることを伝える。
「ママ先生が?」
「悠里は先週会ったよ。ドンと散歩行った時」
 篤信のいない間も西守医院とは繋がりがある。
 陽人は小学生の頃まで「ママ先生」と呼ばれる篤信の母からほぼ毎日ピアノを習うことで音楽の基本を教わったし、悠里は今もたまに西守医院を訪ねてはママ先生から料理を教えてもらったり、ドンの散歩に行ったりしている。今でも「陽ちゃん、悠ちゃん、ママ先生」の呼び名で通っている。
「まぁ、急いでないならゆっくりしてってよ」
陽人はそう言いながら奥の部屋に入って行く、
「何か熱いものでも入れるね」
悠里がテーブルの後にある台所で湯を沸かし始めた。日頃の作業なのか、慣れた動きで無駄が少ない。
 陽人が制服から普段着に着替えて部屋に戻って来た。度の強そうな眼鏡を掛けているのが少し滑稽に見えるが、小さい頃の陽人に少し近づいた。篤信の知る陽人は妹の悠里以上に近眼のイメージがあった。
「コンタクトは目が痛くなるんだ」
陽人は篤信の視線に気づいてそう言う。篤信が見ているのは、普段の陽人だ。二人とも飾らない、普段の姿を見せるということは、それだけ近い人物として迎えてくれているのだろうと篤信は思った。
「陽人君も一高なんやね」
さっきの制服を見て篤信が言う。
「そだよ。懐かしいですか?先輩」
「うん、懐かしいな、後輩」
「僕はやっと入れたクチだけど、篤兄の伝説は学校では有名な話なんだよ、先生も言うてる」
陽人は、篤信が高校時代からかなりの優等生だったことを説明する。
「いやぁ、それは大袈裟な。恥ずかしいよ」
 確かに篤信が優秀だったのは校内でも有名な話である。それを言う陽人も中学受験に挑戦したような少年であるから、篤信は素養については大きく変わらないと思っている。ただ、今の自分と較べると少し恥ずかしいのが本音だ。陽人たちにはそんなことも知らずに笑っている。
 悠里が入れた緑茶がテーブルの上に出された。悠里も陽人の横に座った。
「二人並んだら似てるよね」
篤信はニコリと笑う。髪の色、肌の色、二人揃って近眼なのが兄妹であることを証明しているように見える。
「姉ちゃんとは連絡取り合ってなかったの?」
陽人は姉のことを話題に出す。というのも二人の関係をよく知っているからだ。姉と篤信は年も近く、物心ついた頃から一緒にいたので、篤信が東京にいる時も連絡を取り合っているものと思っていた。
「それがね、取れてないんだ、最近」
篤信の表情が曇る。
「そうだったんだ。んでどれくらい」
「夏前くらいからかなぁ、それから一回こっちから電話したんだけど『現在使われておりません』ってもんだから、どうしたんだろうって……」
陽人と悠里はお互いに顔を見合わせた。二人とも篤信の言う頃前後の記憶を辿って互いに頷く。
「音信不通になったのは、意図的な事ではないと思うよ、ホントのところ」
陽人は続ける「僕らがこうなってしまったことをなかなか言い出せなかったんじゃないかな」
「こうなってしまった?」
「西守先生とママ先生からは聞いてなかったの?」
陽人は今までの話の流れからして、現状を知っていると思ったがそうではないことがわかった。篤信の目に嘘はない。
「大体分かると思うけど、別に隠すことなんて、無いよ――」

   *

 陽人は篤信の目をじっと見つめた。
「篤兄が東京へ行ってから今までの間にいろいろあったんだ。だって、5年半だよ、5年半」
 陽人はインタビューに答えるように淡々と説明を始めた。「姉ちゃんとの間では『暗黒の四年間』って言ってんやけどね――」
 篤信の上京後、陽人は六年生、悠里は一年生。一年ちょっとは家庭も円満で、篤信の知る倉泉家だった。そして、それからである。父がアメリカに拠点を移すこととなり、それから日本に帰ってくる機会がめっきりと減ってしまった。以後陽人の言う暗黒の四年間が始まる。
 父は半ば別居、母は仕事に重点を置くばかりで家庭は放ったらかし、残された子供たちはどうなるか?想像に難くないでしょう?と陽人は篤信の目を再び見る。
「僕の知らない間にそんなことがあったなんて――」篤信の顔にショックが見える。それを見た上で陽人は続ける。
 陽人は多感な中学生の頃だ。受験に失敗したストレスもあり、この頃は両親はおろか、今横に座っている悠里には辛く当たり、口を聞いた記憶がないくらいだという。強いて言えば年の離れた姉がかろうじて陽人の暴走を繋ぎ止めていたくらいか。しかし、相手をしてくれる人もいなかったことから、無気力な奴になってしまったかな、と陽人は冗談混じりに言う。
「その『四年間』の後は?」
「あまりいいことじゃないけど」今度は悠里がが口を開いた「今年の夏にね、お父さんとお母さん、離婚したの」
 言いにくそうに、でもしっかりと言う。陽人の言う『暗黒の四年間』はここで終わる。それから父はアメリカへ、残された家族四人は家を引き払い、近くのボロ文化に引っ越し、現在に至っているのだという。
「そうか、確かにいろいろあったんだね……」篤信はさらっと近況を報告する兄妹に驚きの色を隠せない。篤信にしてみれば人生を変えるような出来事を経験してるのに、ケロっとしているように見えるのだ、篤信には。
「私はね、離婚することは良いこととは絶対に思わない、でも――」悠里は少し俯いて、テーブルの上を見る。
「離婚があったからきょうだいの距離は近くなった。もしあのままやったら、こうしてお兄ちゃんとも話してないと思う」
悠里が言うには、離婚を機にきょうだいはお互いに協力するようになり、横にいる兄とも接する機会も増えたという。
「悠里とは部屋も同じだし、ケンカもしてらんないでしょ?」
陽人は悠里について話を続ける。
 どう考えたって悠里が一番可哀想だったと思う、あの「暗黒の四年間」みんな好き放題ほったらかしだった。悠里は当時まだ二年生だった。頑張っても認めてくれる家族もおらず、それでも彼女は毎日一生懸命だった。授業参観だって、運動会だって両親が見に来た記憶がない。思春期だったとはいえ、今まで辛く当たるか相手にもしなかった妹に対して罪悪感のような何かが陽人の心に残っていることを篤信に語る。
「みんな、今まで辛かったろう」
 篤信は二人の顔を見ようとした。二人の顔は対照的で、全く表情を変えない兄と奥歯を噛みしめ目を大きく見開いて一点を見つめる妹と。
「――ところでさ、答えにくい質問なんやけど」
篤信は陽人の方を向いた。陽人はそれだけで篤信の真意がわかったようで、
「原因でしょ?」一度深く息を吐いたあと、悠里と一度目を合わせて話を続けた。
「僕たちにはどうでもいいことだし、それについては考えないコトを僕らきょうだいで決めたんだ」
「どうでもいいことって――」
「僕たちにはどうすることもできない出来事だった、だから考えても変わらないことでしょ?」
陽人は大きく息を吐いた。そしてしっかりとした口調で「おこってしまった事よりもこれからを良い風に考えたら良いと思う」と言った。
「お父さんとお母さんのせいにしても何にもならないよ」
悠里も人を責める事は無益であることを言いたいようだ。
 篤信が最後に見た陽人と悠里はまだ小さい子どもだった。悠里は小学校に上がる前だったし、陽人は今の悠里を男の子にしたような、きょうだい構成も重なり、女子的な一面がある近眼のピアノ少年だったが、今は二人ともしっかりとした眼光をしている。辛い経験が二人の芯を強くしたことはよくわかる。
「お姉ちゃんは、篤信兄ちゃんに心配させたくなかった……」悠里が呟く。
「もしくは言えるだけの整理が出来てなかったんじゃないかな」陽人が付け加えると篤信は無言でゆっくりと頷いた。篤信が帰郷を決めた理由の一つが解決する感触を得た。今まで重い表情をしていた篤信は徐々に元気を取り戻していた。
「そういや、お姉ちゃん……いや、朱音ちゃんは?」
篤信は陽人たちの姉の所在を恥ずかしながら聞く。
「元町で翻訳の仕事してるよ」
「もうすぐ帰って来ると思うんだけど――」悠里はチラッと壁の時計を見た。辺りは暗くなり始めていた。しばらくすると玄関前に繋いでいるドンの吠える声が聞こえた。

  7 幼馴染み

「あーあ、何か面白いことないかなぁ……」
 朱音は仕事を終えて家路に向かう。仕事も順調とは言えず足取りが重い。駅から家までの上り坂が追い討ちをかける。辺りも暗くなってきた頃、やっとの帰宅。古い階段を上るとブーツの音が周囲に響く。その音を聞いてか、二階の柵に繋がれた柴犬のドンが家人の帰りを迎えた。
「今日も散歩に来てるの?良かったねぇ。でも今日は遅くないか?」
朱音は玄関前に繋がれたドンをあやす。妹の悠里が散歩に連れて来たのだろう、陽が落ち始めているのにまだ繋がれているのは悠里が忘れているのだと思い込み「また忘れたな」といいながら部屋の鍵を探していると、家の中から話し声が聞こえてきた。
「あれ、誰か来てるのかな?」
 朱音は鍵穴に鍵を差した。玄関のドアノブが回る音がした。古い家なので、ガチャガチャとする音が安っぽい。
「お姉ちゃん帰ってきたよ」
鍵の回る音は家の中からも聞こえ、悠里は玄関に回った。
「ただいまー。悠里ぃ、ドンが繋がれっぱなしよ」
朱音はいそいそとブーツを脱ぎ始めた。下を見ると見慣れない靴がある。
「誰か来とう?」
「あのね、お姉ちゃん……」
悠里は背伸びして、朱音に耳打ちする
「えーっ」
朱音は驚いて思わず声を出した。
「冗談でしょ?」
「ホントだって、ほら」
悠里は朱音の手を引っ張った。
「ね、音々ちゃん」
「篤信くん?」
朱音は長らく聞いてなかったアダ名に一瞬戸惑った。篤信も心の準備が全くできておらず、ただオドオドしている。
「ウソ、いやホントだ。あれ、何言ってんだろ、私――」普段はしっかり者の姉である朱音なのに、ひどく落ち着きがない。
「ちょっ、ちょっと待って。とにかく着替えて来るわ。」
朱音はそう言いながらもう一つの方の部屋に入って行った。滅多に見ない姉の慌てっぷりに弟妹は口をポカンと開けて見ていた。
「やっぱ来ない方が良かったかな?」
「ううん、そんなことないと思うよ」
「裏表無いから、姉ちゃんは」
二人はさっきのリアクションをそのまま捉えていいよと篤信に目で差した。
「嫌だったら怒ってるよ、今頃――」
悠里は朱音が怒っている格好を真似して見せた。
 篤信は悠里の真似に笑顔を見せるも不意の再会に鼓動が速まっていくのを感じた。

   *

「何で、何でいるの?」
朱音は自分の部屋に入り、襖を閉めた。自分に質問しながら着ていたコートを掛けて、鏡に映る自分の姿を見ながらもう一度考えた。隣の部屋から話し声が聞こえる、確かに弟妹と篤信の声だ。まだ帰って来ないはずの人がここにいる、間違いではないようだ。それを示すように朱音の心拍数が上がってきている。
 朱音にとっての篤信は、幼なじみというより、共働きだった両親が篤信の両親に朱音を預けることが多かったので、兄みたいな存在だった。子どもが一人しかいない篤信の両親にしてみれば「娘ができたみたい」とたいそう可愛がってくれたことを朱音はよく覚えている。それも陽人が生まれる以前のことで、陽人も悠里も二人は小さい頃いつも一緒だったとママ先生から聞いている。
 篤信は自分に厳しく、いつも高いハードルを設定し、そして失敗しない。そして彼が上京を決めた経緯や抱負もよく知っている、家族を除けば朱音にしか言っていないからだ。
「あれこれ考えたって何も変わらんよね」朱音は鏡を見ながら髪を束ねる。弟と妹の前でカッコ悪いことも出来ない。
「come on Akane, pull yourself!(どうした、朱音。しっかりしろよ)」
英語で自分に言い聞かせた。

   *

「お待たせ」
 着替えを済ませて戻って来た朱音はテーブルの横にある椅子に座った。朱音は仕切り後の雰囲気をどう繕うか考えたけど、敢えて冷静に、冷静に振る舞うこととした。ただ、陽人たちには姉の様子がぎこちないのは見え見えだったが、敢えて気付いていないフリをする。
「久し振りだね」
篤信も朱音が帰ってくるや、急にキレが悪くなって、朱音と同じようにぎこちない。油の切れたおもちゃみたいだ。
「ホント、久し振り」朱音も硬い笑みを返す。
「悠里ちゃんたちから大体聞いたよ。今まで大変だったんだね」
「うん、まぁ――。先生から話は聞いてるかと思ってた。何か言いにくくってさ――」
 篤信と朱音――。陽人と悠里から見れば、学年は二つ違いだが篤信は早生まれなので年は一つしか違わず、お互い接した時間も長いことから自分達より近い間柄であることはよく知っていたのだが、感動の再会という感じではないのが傍観者の立場から見れば明らかだった。
「何か気まずそうよね」
「ああ、何かあったんかな……」
陽人と悠里は耳元で会話をしながら姉の様子を窺っている。
「俺達外してようか?」
 陽人は一度悠里と顔を合わしてから朱音に言ってみたが、その表情を見て自分の言動を後悔した。困惑の表情から助けを求めるかのような顔になったので二人はその場を立つことが出来なかった。
 陽人たちは篤信が大学を卒業するまで神戸に戻らないとは聞いていないし、覚えていたとしても朱音のような驚き方はしない。普通なら親しい人との再会を喜ぶだろうと思うのだが二人のぎこちなさに何かあるのだろうと思った。
 気まずい沈黙が部屋の空気を覆う、お茶をすする音が寂しく聞こえる。狭い空間が閉塞感を助長する。
「何か、狭くない?」
陽人が沈黙を破る。次の話題を姉に振ってみる。
「あ、そ、そうね。」朱音は弟の出したサーブを受けた。「ここじゃ何やから場所変えようか?」
「変えるってどこ行くの?」
一同沈黙、考え始める。
「久し振りに帰って来たから、山行って夜景でも見に行こうか、どうだい」
篤信が提案を出す。
「悠里行ってみたい」一番に食いついたのは無邪気な悠里だった。
「いいねぇ、でもどうやって行くの」
「僕が家から車とってくるよ」
「免許持ってんだ」
「ペーパーだけどね。東京でも運転することないけど」
「じゃあ早速行こうよ。ボロ家におっても前進まんし」
 四人が同意を示すように頷いたと同時に、玄関前から痺れを切らしたドンの鳴き声が聞こえてきた。
「いっけね、また置きっ放しちゃったよ、ごめんよぉ」
 篤信は三人に一旦別れを告げ、車を取りに自宅へ帰って行った――。

  8 夜景

 四人を乗せた車は、六甲の山道を登り、さらに奥にある摩耶山の展望台に向けて走り続ける。星を掬(すく)うと書いて掬星台(きくせいだい)と言われる展望台は北海道の箱館山、長崎の稲佐山に並ぶ日本三大夜景と呼ばれるが、交通手段が乏しいため、穴場的要素がある。かつては「百万弗の夜景」と言われたが、何でも最近は「一千万弗の夜景」と言われているとか。
 篤信は駐車場に車を止めた。見栄を張って慣れない山道の運転に挑戦したためか、道半分のところで疲労が顔に出ている。そして後部座席に犠牲者が一人、悠里がうずくまっている。
「悠里、大丈夫か?」心配そうに陽人が悠里の肩を擦る。助手席から二人のやり取りを見ていた朱音は、
「篤信君、帰りは私が運転するわ――」
と言うと篤信は朱音の顔を見た。いかにも自信がありそうな表情で篤信を見返す。得意分野になって朱音はいつもの調子が戻ってきた。
「実はね、ママ先生の買い出しヘルプでこの車運転するの、だから大丈夫よ、安心して」
「母さんの運転手を?父さんは?」
「それがね――」朱音は篤信にそっと耳打ちする。何でも朱音の話では篤信の父も運転が苦手で、最近車庫入れに失敗して運転に自信がないらしい。
「それで私が運転する機会が増えたのよ、へこんじゃってさ――」
「車が?」
「違うよ、先生がよ」朱音は手を口に当ててクスクス笑う。「もぉ、だから耳打ちで言ったのにぃ」
後ろにいる陽人たちに内緒で言おうとしたのに、篤信の一言で陽人は大体分かったようだ。陽人も妹をさする反対の手で口を押さえている。
「ごめんね悠里ちゃん。僕の運転は親譲りみたい……」
篤信は悠里に謝る。悠里は篤信に気を遣わせたくない、精一杯の笑顔を見せた。
「先、行っててよ。俺が悠里見とったげるから」
「いいの?」篤信は責任を感じているようだ。
「――そうね。じゃあお願いするわね」
間延びするのが嫌いな朱音はそう言ってすまなさそうに頭を掻いている篤信をつれて、展望台の方へ歩いて行った。

   *
 
「悠里ぃ、もういいぞ」
二人の姿が見えなくなると、陽人は悠里の肩をポンポンと叩いた。普段なら元気な返事が返ってくるのだが返事がない。
「本当に少し気持ち悪い……」
 陽人たちは、朱音と篤信を二人にしてやろうと一芝居打ったのだった。二人だけなら言える事があるだろう、そう思った。普段は押しの強い性格の朱音であるが、その様子が微妙に違っているのを二人は感じていた。
「ホンマかいな。少し風に当たった方がいいよ、何かいるか?」
 陽人は妹の目を見てそれが冗談でないのが分かり、少し心配になった。芝居を打たなくても篤信の運転は悠里の頭を揺さぶるのに十分だったようだ。
「お兄ちゃん……」悠里は目で何かを訴えかける。
「何だ?」
「寒い、上着貸して」何を言うかと思うと、悠里は陽人が着ているベンチコートの袖を引っ張る。
「えーっ、そんな無茶苦茶な――」
「いいやん、悠里寒いもん」
「――やれやれ」
半ば奪うように悠里は陽人のベンチコートを着込む。サイズが合っておらず服が歩いているようだ。
「どお?あったかいよ、これ」
悠里はゆっくりと立ち上がり、両腕を横にして一回転した。さっきの表情がウソのようだ。
「調子いいな、悠里は」
上着を取られた陽人は寒そうな様子で縮こまり、悠里の前を歩き始めた。
 掬星台の展望台。昨日の雨があがり、空は雲一つ無く満天の星空が見え、夜景は遥か大阪の方まで遠くの光が瞬いている。夜空と街との光、そして目の前に見える山の闇と神戸港周辺の海の闇がとても対照的な雰囲気を出す。
「わぁ、キレイ!」
悠里は夜景が目に入ると、陽人を追い抜いて展望台の柵の方まで駆けて行った。
「悠里、待ってよ」寒そうな様子で、陽人は後から追い駆けて悠里を捕まえる。
「すごいよ、めちゃキレイ、ほら」
「ほんまやねぇ」素直に感動する妹の顔を見る。さっきの車酔いが嘘のようだ。
「こうしたらもっとスゴいぞ」
陽人は笑いながら悠里の眼鏡を奪い取った。悠里の視界は一瞬にして、滲んだキラキラに変わる。
「あ、いやっ」悠里はビックリして声をあげた。
「……でも、慣れたら面白いかも、これも」
 イタズラのつもりが予想外のリアクションに拍子抜けし、陽人も思わず眼鏡を外してみる。
「そうかぁ?」陽人はすぐに眼鏡をかけ直した。妹は何にでも喜ぶんだな、ということが分かった。
「やっぱ目は見えた方が綺麗やね」
二人は並んで夜景の方を向き直す。
「ねえ、お兄ちゃん」悠里が陽人の腕を叩くと、陽人は返事をして悠里を見る。
「あっちにお姉ちゃんたちいるよ」陽人の後ろ、少し離れた、二階の展望台にいる二人を指差す。
「ああ、でも僕らはもうちょっとここにいようか」陽人が切り返すと、悠里は黙って頷いた。
「篤兄はね、姉ちゃんに会いたかったんだよ……」
「悠里もそれはわかる」
 悠里も朱音が小さい頃は家よりも西守医院にいた時間の方が長かったくらいだという話を朱音や先生たちから聞いた事がある。篤信にとって姉の朱音は重要な存在で、自分達は「朱音の弟と妹」という位置付けであるという認識は二人とも同じようにあった。
 静かな時間が流れゆく。町の光も、星の光も今日は優しく瞬いている。
「でもね、篤信兄ちゃんって悠里たちの従兄弟に当たるんでしょ?」
悠里は不意に陽人に問い掛ける。
「どこまでを親戚というのかは知らんけど、血縁的には繋がりはなかったはずだよ」
「そうなん?」
「うちの伯母さんの旦那さんが西守先生のお兄さん……やったかな?従兄弟の従兄弟で、伯母の甥っ子で……」
「全然わからへんよ」
「まぁ、とにかく篤兄は『他人』ということになるんだ、血縁的には」
「へぇ、悠里はずっと親戚やと思ってた」
「うちの家系にそんな優秀な人おらんで。篤兄はね、高校でもずっと一番やったんだって。うちの高校では有名な話なんだ」
陽人は遠い記憶を辿りながら説明する。二人とも自分の家系について親から詳しく聞いていない。それだけ家庭内が疎遠になっていたことが二人の心に浮かんだ。暫しの沈黙、夜の闇が二人を包む。
「篤信兄ちゃんは卒業したら神戸に帰ってくるのかな?」
暗い話題になりかけたところを悠里がうまくカバーする。
「医学部の学生は卒業したらどこかの病院で研修するらしいよ」
「どこの病院で?」
「知らない」
「ふーん、お医者さんになるのってホントに大変なんやね……」
「それは本当だ。尊敬しなきゃ」
「うん。そして大変やね、お姉ちゃんも」
さっき知った事実を思い出し悠里は思わずそうこぼし、もう一度陽人の後ろに目を遣った。妹の視点が変わったのを見て陽人もその視線の先を追う。遠くに見える姉とその幼馴染みは何を話しているかは聞こえない距離にいるが、その雰囲気はこの距離でも伝わってきた。
「はは、確かにそうだ」
「今までずっと待ってたんだよ。お姉ちゃん――」
悠里はまだ小学生だ、異性というものを意識した経験がないが、寒い星空の下で彼女の目に映る年の離れた姉を見て、その気持ちが分かるような気がした。朱音がいつもより綺麗なのが近眼の悠里でもはっきりと見えた。篤信と朱音、幼馴染みの二人がこれからもうまく行くことを悠里は疑わうことなく信じ、自分もあんな出会いをしてみたいと心をときめかせた――。

  9 音々ちゃん、篤兄ちゃん

「ビックリしたわよ、何の連絡なく帰ってくるもの――」
 掬星台にあるロープウェイ上駅の二階にある展望台、寒空の下朱音と篤信は隣り合って神戸から大阪まで見通せる夜景を眺める。人はまばらであるも、展望台には二人のほか、二組ほどのカップルが夜景を眺めては互いの笑顔を見ている。
「すごく空気が澄んどう、寒いのも気持ちがいいくらい」
朱音は空に向けて息を吐く。白い吐息が寒空に舞い、散り散りに拡がって消える。
「ねぇ、篤兄ちゃん、聞いてる?」
「え、あ、ああ――」声を掛け続ける朱音に対し、篤信はずっと生返事を繰り返す。すぐ左にいる朱音の横顔をチラッと見ては、すぐ視線を夜景に戻す。言いたいことや聞きたいこと、沢山ある。しかし、なかなか言い出せない。ずっと会いたかった人を前にして緊張しているのがわかる。五年前は毎日のように会って、それが日常のこととして話ができていた筈なのに――。
「さっきからずっと生返事よ」今度は朱音は横を向き、篤信の顔を見ながらちゃんと聞いてよと訴えるように言う。
「ごめんごめん、何かさ、こう――。中々話し辛くってさ……」照れ臭そうに朱音の顔を見る、今日初めて朱音の顔を正面から間近に見た。久し振りに見る朱音の顔は、以前よりに較べて大人になった。高校生の時のあどけなさは残っているが、しっかりとした大人の女性だ。実際に彼女はもう社会人だし、陽人たちから近況を聞いている限りでは、この五年半自分よりも辛く、暗い経験をしており、その中でも力強く成長してきたような雰囲気が篤信には感じられた。
「――そうよね。私もちょっと戸惑ってる」
「ところで陽人君たちは?」話題を変えて助けを求める
「あそこ、いるわよ」朱音の指先の遠くに並んで夜景を見たり、じゃれあったりしている弟妹の姿が見える。こちらには来る様子がないのは二人には容易に判断できた。
 篤信が夜景に向けて白い息を吐いた。
「卒業するまで帰らないって言ったんやけどね、帰ってきちゃったね……」力無さげに篤信が呟いた。
「変わってないね、篤兄ちゃん。」声色、話し方の抑揚、話題の出し方……、以前の篤信のままだ。朱音はその一言を聞いて思わずそう答えた。
 物心付いた頃から知る二人「音々ちゃん」「篤兄ちゃん」と呼ぶのは二人だけの関係である。長姉である朱音、一人っ子である篤信、子供ながらに求めていた「きょうだい」が近くいることが二人を引き合わせた。今までに二度、遠くに離れたことがあるが、いまこうして再会している。今まで兄妹のように接してきた二人であるが、お互いに大人になり、変に意識しているのはお互いに様子で感じ取れた。
「あたしはね、嬉しいんだよ――。篤兄ちゃんが帰って来たの」
帰郷の理由は聞かない。今は聞かない方がいいと直感が教える。だから素直に、再会を喜んでいると朱音は言う。
「でもね、何かこう――、照れくさいというか、カッコ悪いんよね。自分の中では……」
二人は篤信の上京した時の話を思い出した――。


   ~ ~ ~

 3月31日、18歳の誕生日。篤信は新神戸駅で東京行きの新幹線を待つ。自分の誕生日、篤信は上京するならこの日と決めていた。見送りに来たのは篤信の両親と朱音たち3きょうだいだ。年度が変わる時期だけに、ホームのあちこちで別れを惜しむカップルや、万歳三唱する人たちの姿が見られる。
「行っちゃうん、だね」少し淋しい表情を見せる朱音。
「――うん。頑張るよ、僕」これからやってくる新しい日々、壮絶だった受験勉強からの解放、そんな朱音の表情とは対照的に、篤信の顔は期待と自信に満ち満ちと溢れている。
「頑張ってね、篤信兄ちゃん」
篤信と同じ、今日で6歳の誕生日を迎えた悠里が間に入る。
「ありがとね、悠里ちゃん。悠里ちゃんも次からは一年生だ。おめでとう」
篤信は両手を拡げてポーズをする悠里を抱き抱えた。
「6年かぁ。本当に帰らないの?」
朱音がもう一度聞く、すると篤信は黙って頷く。
「気持ちが途切れたら僕の場合駄目になるから――、ごめんね」
「ううん、篤信君はそうでないとね」
「まあ、達者でな。あまり力みすぎんとな」篤信の父が息子を激励する。
 出発のベルが鳴った、あとちょっとで長い別れを示す。
「じゃあ、行くね」篤信は悠里を下ろし、電車に乗り込んだ。「ありがとう、みんな。俺、立派な医者になって帰ってくるよ!」
列車のドアが閉まる。篤信は朱音の目を見た、涙は無い、彼女が気丈なのはお互いよく知っている。
 朱音も窓の向こうの篤信を見返す。はにかみながら、小さく手を振ろうと掌を向ける。篤信はそれを見て小さく微笑みながらピースサイン。次は朱音が向けていた掌で拳を作る。二人の間でよくする照れ隠しの仕草だ。
「――もう、篤兄ちゃん」崩れそうな朱音の顔が小さな笑顔に変わった。
 列車が動き出す。篤信はピースサインから朱音と同じ、拳を握った。そして、そこからゆっくりと親指を立て拳を引き寄せた。朱音はそれを見てゆっくりと、篤信と同じポーズを取って見せた。
篤信は朱音に決意を示し、朱音はそれをしっかりと感じ取ったのだ。
 新幹線はあっという間にトンネルに入って行き、呆気なく朱音たちの目の前から去って行った。

「行っちゃったね、篤信兄ちゃん」
「そだね」
悠里が姉の手を引く。
「朱音ちゃん」
「先生――」
篤信の父が朱音の肩を叩く。
「篤信は喜んどうよ、今頃」そう言いながら篤信に変わって朱音に謝意を示す「頑固者なのに、肝心なことは言えないんやなぁ、あいつは」
「何をですか?」朱音はその言葉の意味が分からず西守先生の顔を見る。
「そのうちわかるで」先生はそう言いながら笑い出した。
「さぁ、みんな帰りましょうか」
ママ先生に促され、駅を後にした――。

   ~ ~ ~ 

 それから五年と半年ちょっと、二人は再会している。
「あん時カッコつけ過ぎたね」
篤信は静かに苦笑い。
「篤兄ちゃんにもできないことはあるよ。それがわかっただけでも私は嬉しいよ」
「『嬉しい』のかい?」不思議そうに朱音の方を向く。
「うん、何でもできる人やったら私は必要ないってことよね……。だから、頼れる事があったら力になりたいの」朱音の目が篤信の目を制する「むしろ足手まといかな?」
小さな溜め息がこぼれる。
「そんなことないない。音々ちゃん、ありがとうね」
篤信は呟いて、左手を朱音の右手に重ねた。手袋越しに朱音の手の温もりが伝わってきた。朱音は何も言わなかった――。

   * * *

 医者になるという大志を抱いて東京に旅立った西守篤信は、大学の授業のレベルの高さ、人間関係の難しさ、そして少しのホームシックが原因で帰郷してきた。今まで小さな挫折すら経験の無かった篤信には大きな傷を負っての帰郷である。
 神戸に戻り家族や意中の人と出会い、自分以上に辛い経験をしているきょうだいと自分を比較して、自分が如何に打たれ弱い人間であることを知り、自分を責めた。
 志が完全に途絶えた訳ではない、留年することを怖れている訳でもない。

    つまるところ吹っ切れたいのだ――。

 しかし篤信にはその方法がわからないのだ。今までつまづいたことがないから、自分のプライドが邪魔していることには気づいていない。
 結局この日篤信は、朱音に本当の事を言えずにいた――。


  帰郷 第二章に続く

第二章

   第二章  でもね、そんな時しか見えないものって、あるんだ。

  1 年の差きょうだい

 倉泉朱音(くらいずみあかね)と倉泉悠里(ゆうり)は年の離れた姉妹、妹の悠里は六年生の11歳で姉の朱音はちょうど倍の22歳。二人はアイルランド系のクォーターで、一般的な日本人に較べて髪の色が薄く、肌も少し白い。
 今から四年程前までは不自由のない、どちらかと言えば裕福な家庭で育ってきたが、日系二世の父と日本人の母の不仲から家庭が崩壊し始め、今夏に離婚。その頃から親は放任状態だったので悠里を育てたのは姉の朱音と言ってもいい。当時荒れていた家庭の中で妹の教育は自分がすべきだと高校生ながらに思った。3月生まれの悠里は童顔で、六年生にしては小柄な方なのでしっかり者の姉と並ぶと、見た目以上に年齢差があるように見えて、二人で外を歩いていると親子に間違えられムッとする姉の顔を悠里は度々見かけるが、妹の悠里は両親よりも姉の存在を尊敬し、本当に信頼している。

   *

「あのね、お姉ちゃん――」
 悠里は朱音に問いかける。
 両親の離婚後、倉泉家は近くの小さな文化住宅に引っ越した。今の家は住むには狭く、朱音は母と、悠里は兄と相部屋で生活している。悠里も年頃の女の子だから色々あるだろうと心配して、たまに近くの銭湯に連れていっては妹の現在の状況を聞いてあげることにしている。
 朱音が見る妹は、自分より感情の起伏は少なく、朱音の前ではいつもニコニコしている。自分と同じく辛い過去を経験してきた筈なのに明るく振る舞うのが余計に健気に見える。
 ただ今日は、妹の様子が少し違うと朱音は感じた。
「どうした?」
並んで湯船に浸かる二人、朱音は妹の泳いでいる目を見る。悠里は近眼なので目が泳ぐことはよくあるが、今日のそれはやっぱり違う。何か言いにくいことがあるのだろうか。
「あのね――」悠里は目線を逸らしてうつむく。
「いいんだよ、何でも言いなよ」
「うん」悠里は一度湯で顔を洗った。
「あのね、お姉ちゃんは転校したことってある?」
「あるよ。四年生の時だったかな」
様子の割には分かりきった質問に、朱音はちょっと拍子抜けした。
「その時ってどうやった?」
「んー、どうだったかなぁ。ただ悠ちゃんと私じゃ少し状況が違うかもね」朱音は自分の過去を話はじめた。
 朱音は日本生まれであるが、4歳の時に祖父母のいるアメリカに引っ越した。それまでは現地の学校に通い日本に帰って来たのはその6年後で、朱音が四年生の時だ。その間に弟の陽人はアメリカで生まれ、妹の悠里は帰国してからの日本で生まれた。
「転校した時は学校の事情も全然違うし、全部日本語でしょ?それに合わすのは大変だったよ。言葉もちょっとおかしかったんで、からかわれたりもしたかな――」
 初めての学校教育を英語で受けてきた姉、生まれて初めて覚えた言語が英語である兄、そして基本的に家の中でそれとなく英語に触れてきた程度の自分。きょうだい三者三様であるが、言葉に関していえば悠里が一番分が悪い。家の中といっても家庭内の不和が続いた「暗黒の四年間」を含んでおり、悠里は言葉の問題について姉兄に対しコンプレックスを感じていた。 
「へぇ、お姉ちゃんも困ったことってあるんや」
朱音は悠里がこっちを向かないことに引っ掛かる、直感は間違いがなかったようだ。
「悠里は何に困ってるの?言葉や見た目で何か言われた?」
朱音の言葉で悠里は思わず姉の方を向いた。
「ううん、見た目は別に気にしてないし、私は英語わからないもん」
「わからないってことはない筈よ。私の言ってることわかるでしょ?」
朱音は反射的に英語で答えた。

   *

「でも言ってることの全部はわからないよ」 
悠里は急に言葉が変わった姉を見て苦笑い、日本語で答える。
 朱音の言葉が急に変わるのは日常的なことで、兄の陽人にもよくある。悠里も慣れているのでビックリすることはないが、咄嗟に言われても理解ができないので、困った表情を見せる。思い返せば、悠里は実の父親とも満足にコミュニケーションが取れない時もあった。それ故コンプレックスが強いのは朱音たちも理解している。
「学校でうまくいってないの?」
朱音は英語のまま話を続ける。悠里は無言でうつむくままだ。
「お姉ちゃんと同じように、ハーフの同級生がいるの、サラっていう」
悠里は日本語で小さく答える。
「へぇ、じゃあその子も私みたく最初は苦労したんじゃない?」
「――わからない。最初はね、仲よくしてたんだよ。だけど……」
「だけど?」
 朱音の言葉は戻らない。悠里は戸惑いながらも日本語で即答する、
「ある日ね、英語で『嘘つき』だって言われたんだ」
「何でだろ?何か発端になる出来事あったの?」
「それが、わからないの――、お姉ちゃんならわかるかなと思って」
「心当たりはないの?」
悠里が何度話しかけても朱音は英語で話すことを止めない。
「それよりお姉ちゃん、何で英語なの?私、わからないんだよ……」悠里の目がうるんできた。
「じゃあ逆に聞くよ。悠里は何で私の質問に答えるの?英語で聞いてんだよ」
妹の教育係である朱音は、悠里が平均的な学生よりは英語を理解するのを知っている。ただ本人の苦手意識がそれに蓋をしていることも分かっている。だからこうして妹に英語で考える機会をたびたび作っている、本人が嫌いにならない程度に。ただ今日の朱音はブレーキがちょっと効かないようだ。
 悠里は考えた。暫しの沈黙ののち小さな声で答える。
「お姉ちゃんが話すの、何となくしかわからない。それに悠里が英語話せないのはお姉ちゃんも知ってるでしょ……」
悠里は拙いながら英語で答えた。確かにそれは拙い言葉ではあったが朱音には理解ができた。頷く姉の横顔を見て悠里は顔を湯船に一回潜らせた。
「悠里、自信持ちなよ。言ってることはちゃんと分かるよ」
朱音は妹の頭を撫でた。
「あのね」朱音は悠里に自分を見るよう促す。
「私も陽人も自然に覚えたんじゃない。勉強したから話せるんよ」
妹の話す英語は確かに拙い、でも聞いて理解はできていことを確認できたので朱音は安心した。
「今思ったんやけど――、さっきの質問の続きね」
朱音の言葉が日本語に戻った。

   *

「そのサラって子はね、ホントは英語で悠里と話をしたいんじゃないかな?」
 キョトンとする妹をそのままに話を続ける。
「私の経験だけど――」
サラは今の悠里と同じで、日本語での表現が英語のそれより拙いのではと言う。
「悠ちゃんは学校で英語についてどう言った?」
「苦手なんですって言ったよ」
悠里は英語で話されても答えられずに煩わしい思いをするので、最初からわからないと言ったことを説明した。
「じゃあそうだ。多分」
 朱音は帰国当初は日本語で説明するのが下手で英語になることが多く、聞いてくれる人がいて欲しいと思ったことが何度もある話をした。
「悠里が英語耳を持ってるのを知っとうのと違うかな?その子は。だから悠ちゃんのことを『嘘つき』って――」
悠里は黙って考えた。思い当たる節はない。でも無意識に英語を聞いて反応することは家でもよくある事なので、知らないうちにそんなことがあったかもしれない。
「だったら私、サラに酷いことをしたのかもしれない」
「気付かなかっただけよ、悠里は悪くないわ」
朱音は、悠里が困っている問題の原因はわかったように見えた。しかし、当の本人には解決したような顔が見られない。まだ何か引っ掛かっている感じがする。
「悠里、まだ何かありそうね」
悠里は言うべきか否か迷い、姉の顔を一度見た。
「私は、悠里が今から何を言っても大丈夫よ。安心しな」無理強いはしないように、朱音は笑顔を見せた。
「悠里は私の大切な妹だから、何でも受け止められる」
「大切な妹?」
「そうよ」姉の妹を十分に安心させるだけの笑みを見せた「言って解決するかはわからない、でも、言わなきゃ解決しないよ」
朱音はゆっくり頷いた。朱音は判断を妹に任せつつ悠里の様子を見ると、悠里はもう一度湯船に顔を浸け、ゆっくりと話を始める。
 『嘘つき』と言われて以来、クラスから除け者にされた。それだけならまだいい、それ以上に耐えがたいのは事実無根の揶揄である。狭い家で貧乏暮らしをしているとか、年の離れた姉兄は腹違いだとか……、
「だって、ホントの事じゃないんだよ。だけど――」
悠里に反論する雰囲気も、擁護する仲間もクラスにはいない。
「言わせておけば、いいよ。悠里は私の妹よ。髪も肌も同じ色じゃない」朱音は、言葉が詰まり始めた妹を止めた。
「気にしちゃ駄目。何なら私がクラスの子に言ってあげようか?」
 悠里は朱音の言葉を心強く感じた。しかし、同時にそれが自分への揶揄を止める方法とは少し違う気がした。そして悠里は姉の言葉を反芻させて暫くうつ向いて考えた。
「お姉ちゃんの言うことで分かった。私ね、サラに謝りたい」
「謝る?悪いのは相手の方よ。悠ちゃんは悪くないじゃない」
「ううん」悠里は首を横に振る「私はね、そう思わない」
「おや、オドロキだ。何でかな?」
朱音はハッとして悠里の顔を見る。
「知らずにしたことでも傷付けたことには変わらないよ。私はね、その立場にいれば誰も同じことをすると思う」悠里は前を見つめたまま話を続ける「だから、悪いのは人じゃないと思う。サラもクラスメートの子も、お父さんお母さんも……、だからね、悠里は、悠里は――」
 話が横に逸れてきた。悠里は辛いことを思い出しているのか、何度も湯で顔を洗っている。
「悠里、わかったから喋んないで」
朱音は悠里の肩に手を回した。悠里はこくりと小さく頷く「悠里が相手の立場なら、『私ならこうだ』とは言い切れない、人は責められないよ――」
「優し過ぎるんだよ、悠ちゃんは……」
まだまだ小さいと思っていた妹もしっかり考えていることに朱音は少し嬉しくなって、隣で俯いている悠里の頭を抱き寄せた。
「お姉ちゃんはね、どんな事でも受け止めてあげる。だから困ってるなら何でも言いな。一緒に方法を考えようよ」
「ありがとう、お姉ちゃん。悠里は自分でやってみるよ」
 悠里は自分が大切にされていると言われた事が嬉しくてさっきまでの顔がいつものニコニコ顔に戻った――。

2 海外からの転校生

朱音は妹の悠里が学校で謂れのない揶揄をされている事を知った。朱音も悠里くらいの年の頃に、状況は少し違うが転校を契機にからかわれた経験があり、それが嫌な思い出であったことを記憶している。悠里は「自分で何とかする」とは言ったものの、どうするのかは判らないので朱音は悠里以上に気が気でなく、11歳という年齢差もあり、妹というよりも娘を見るような心境で心配していた。
 悠里を揶揄する者の一人にサラという名の、朱音と似たような境遇を持つアメリカ人とのハーフの同級生であるが、朱音はひょんな事で出会うこととなった。

 朱音は弟の陽人を連れて西守医院にいる。朱音にとって西守医院は物心つく前から親に預けられていた事もあり、もう一つの家族みたいなところだ。自分の家が崩壊していた時も、一人息子の篤信が東京の下宿にいる今もこうして度々訪ねている。
「実はね、悠里の事なんやけど」
「ん?悠里がどうかしたの?」
 朱音と陽人は篤信の部屋で、ここにはいないもう一人のきょうだいのことを話題に出す。悠里は普段自分から話を持ち掛けないだけに、朱音には心配なようだ。現在神戸に帰省中の篤信も椅子に座って二人のやり取りを聞いている。
「そんなん、お姉の思い過ごしやって」
陽人は姉が大袈裟に言ってるのだと思い答える。
「あんたねぇ、妹がピンチなんよ」
「はーい……」
朱音に諭されて陽人はさっきの言葉を詫びる。陽人は妹の悠里とは同じ部屋で生活している。その点では朱音よりも悠里の様子が分かると思うのだが、学校でそんな事がある風には見えない。だからそんな言葉が出た。
「その話なんだけどね――」姉弟のやり取りを横で見ていた篤信が間に入る。
「僕も見たよ」
「え、そうなの?」
 篤信は神戸に帰ってきたその日、悠里と出会う前に、下校中悠里の後ろを付け回す小学生の一団を見たことを説明した。内容は話すまでもなく、朱音は相槌を打った。
「じゃあホンマの事みたいやね」
「だからさっきから言っとうやんか」
朱音は陽人の腕を拳で突く。陽人は突かれた部位を押さえながら姉に謝った。
「そりゃちょっと問題やなぁ」
篤信が呟くと一同拳に顎を乗せて首を傾げた。明るく振る舞っている妹がイメージにあるだけに厄介に感じる。

  * * *

 暫しの間三人が固まっていたところに、一階の西守医院の方から内線で電話がかかってきた。
「もしもし、どうしたの?」
篤信が受話器を取ると西守先生が慌てた様子で、そこに朱音がいるなら電話を変わって欲しいと言う。
「何だろう?」篤信は受話器を朱音に渡す。
「朱音ちゃん、ちょっとヘルプ」
「え、なになに?ああ。いいよ」
朱音は何度か頷いて、笑顔を浮かべながら篤信の父と会話をしたのち受話器を置いた。以前から二人は親子のように仲がよく、篤信は口に出さないけれど、ちょっと嫉妬するくらいだ。
「何でもね、日本語が全くわからない患者さんが来たんだって」
「それでヘルプか」
篤信は父はある程度英語を理解するのは知っているが、決して得意でないことも知っている。
「アンタも来なさい。先生が困ってるのよ」
朱音は陽人も一緒に来るように腕を引っ張る。クォーターである二人の英語レベルは殆ど変わらないからだ。

「失礼しまーす」
 朱音につられて篤信と陽人も1階に下りて来た三人は、受付の裏からその患者を探そうと、待合室を見回した。
「あ、あの子は……」篤信が最初に声を出す。
「さっき言ってた悠里ちゃんのクラスメートだよ」
待合室に一人座っている、一見して明らかに外国人と見える少女を目で差す。受付の窓口は狭いので、向こうはこちらには気づいていない様子だ。
「え、そうなの?」
あの子が妹を悩ませる存在の一人かと思うと朱音の腹の底にあるものが沸き上がって来る。
「あの子は付き添いの子よ。患者さんは中にいるよ、お父さんちゃうかな」
受付の女性が説明する。
「じゃあ私があの子から話聞くから、先生のヘルプは……よろしくね、陽人」
「え、俺が?」
陽人は驚きながらも診察室へ入っていった。朱音のしたいことがすぐに分かったので、陽人は逆らわなかった。
「突っ込んだこと聞いたら悠里ちゃんが……」
「分かっとうよ。探りだけだから」
 朱音は待合室で一人座っているサラのもとへ歩み寄った。
「こんにちは」朱音は英語で話し掛けた。後々のことを考えながら気持ちは穏やかにと自分に言い聞かせて。サラは自然な様子で朱音の方を振り向く。
「どこか具合悪いの?」
「いえ、お父さんの付き添いで来ただけです」
多少の訛りがあるが典型的なアメリカ英語が返ってきた。
「あなたは合衆国の人ね?」
サラは自分と同じような訛りの英語を聞いて、即座に同じ匂いを感じて振り向いた。
「私、サラと言います」
 サラは朱音を同じ系統の人物と判断したのか、自己紹介を始め、朱音が差し伸べた手を握った。
 朱音は彼女が妹の同級生であることを知っているが、敢えて知らないフリをしてサラの英語を聞く。日本に来たのは今年の4月で、それまでの日本語は日本人の母から教わった程度だそうだ。朱音が感じたサラの第一印象は、言う程悪い印象はしない。むしろ自分と同じ系統の雰囲気で、昔の自分を見ているような感じがした。
「私もね、あなたぐらいの時に日本に帰ってきたの」
「そうなんですか?」
「学校、大変でしょ?言いたい事がなかなか伝わらなくてね……」
朱音もサラの話を受けて、自身の苦労話をする。帰国当初は言葉もおぼつかなく、友達も出来なかった事や、見た目や言葉から自然に接してくれなかった事などを。
 するとサラは「私も同じだ」と言い出して朱音の目を見た。サラも日本に来て1年弱、朱音と同じよにうに困難な時期があった話を始めた。
「あなたは友達、いるの?」
サラの表情が一瞬曇った。
「いるよ。でも何か一緒に扱ってくれない――」
 探りを入れるつもりが朱音は逆に、彼女の悩みを聞いているような気になった。サラも朱音を信用しているのか、次々と質問をして時折笑顔さえ見せている。二人には共通する事が多いようだ。
 朱音は妹の仇を取ってやる、当初はそう考えてサラに声を掛けた筈だったのだが、逆に打ち解けてしまった。というよりも朱音は、サラ自身もかつての自分のように困っていて、話し相手を求めていたような印象を受けた。帰り際に
「話聞いてくれてありがとう。また聞いてくれる?」
「もちろん、この病院に来てくれたらいいよ」
サラは丁寧にお礼を言って病院を出ていったのだった。一部始終を後ろから見ていた篤信は唖然としていた。

* * *

「どうやった?」
篤信の部屋に戻った三人、陽人もそれなりに気になっている様子で朱音に問いかける。
「あたし、分かるわ。サラの気持ち」
 話す限りではしっかりとした女の子で、悪い印象はなかったと朱音は言う。朱音の意外な反応に陽人と篤信は目を丸くした。
「私もね、いじめられた訳じゃないけど、よくからかわれたもん」
「ああ、そうだったっけなぁ」
「帰国当初は篤信君がいたから助かったってのはあったよ」
「そんな大袈裟な――」
篤信は照れ笑いをしながら、二人はおよそ十年前の昔話を始めた。
「お姉はどっちの味方なんよ」
陽人が目の前でのろける二人の会話に割って入る。
「そういうアンタの方はどうやったの?」
「え?ああ。お父さんは日本語ほとんど駄目っぽかった。うちの父さんの方がまだ上手だった」
陽人の説明で朱音は大体の日本語レベルが分かる。二人の父は日本語を聞いて理解するが、話すのは苦手だ。サラの父はそれよりも日本語はわからないようだ。
「家では日本語がないんだろうね」
陽人は黙って頷く、二人ともアメリカにいた頃の生活を回想した。
「僕思うんだけど――、あの子も何か淋しそうに見えたけど?」
篤信はさっきまでの話を総括した。
「私もそう思う、悠里が言うには『悪い子ではない』って言うんやけど、悠里の言う通りかも……」
「何かがスレ違っとうんだろうね」
「一人は悪くなくても集団になるから厄介なんだろうね」
三人は再び首を傾げた。
「そのサラって子がお姉の思た通りの子なら、悠里は何とか出来ると思うよ」
 陽人がその沈黙を破ると、二人は陽人の方を向いた。
「仲間が欲しいんとちゃうの?本当の意味での、詰まるところ」
二人は頷いて陽人の話を聞く。
「あとは悠里次第やね。本人が自分で何とかしたいって言うんやから見守ったげようよ」
 三人は健気にも日頃ニコニコしている悠里を思い浮かべると、妹なら何とかしそうな、そんな気がした。

3 放課後

 年内の授業もあと一日。教室の大掃除をすればあとは終業式で冬休みだ。
 子供たちは近日中にやって来る大イベントを前にあれやこれやと皮算用をしたり、鬼を笑わせたりしている。小学生は無邪気なもので、すでに楽しい解放感が学校を取り巻いていた。
 六年生の悠里は、そんな中でも相変わらず表情を変えない。変えると何か揶揄されるからだ。自分じゃない自分が学校にいる、そんな生活が続いておよそ3ヶ月、悠里は不本意ながらもそんな毎日を受け入れざるを得ない状況下にいた。
 しかし、悠里は先日姉の朱音に相談したことで大きな後ろ楯に恩恵を感じている。気分は楽になり、学校での圧倒的苦境でも絶望感はない。そして学校で自分がすべき事が見えてきた。そういえば、気にならないだけかも知れないけれど、ここ2、3日誰に付けられることなく無事に下校できている。

「起立―、礼」
 日番の号令とともに今日の日課が終わる。放課後になると元気になる者、特定のグループで集まる者、さっさと家に帰る者、机の傍で立っていた子供たちは一斉に散り散りばらばらになって行く。悠里はいつも真っ先に帰る事にしている。学校にいても話し相手もいないし、週二回の剣道の稽古やそれ以外の日は交代で家事もしているから学校でゆっくりもしてられない。クラスメートからは「いつも逃げるのか」と揶揄されているが、最初は正直に反論していたが、誰も聞いてくれないのでそれもいつしか言わなくなった。
 今日も悠里は急いで校舎の階段を降り、校門に差し掛かる。
「あ、しまった――」
急ぐといつも良いことがない。悠里は教室に配布物を置き忘れた事に気づいて声を出した。悠里が忘れ物をするのはいつもの事で、自分でもうんざりするくらいだ。 
「あー、もう。悠里のばか……」 
 下校する子供たちの波に逆らって悠里は小走りに学校へ戻り、教室にたどり着いた。静まり返った教室、悠里は中に入る前に戸の窓から中を覗いてみた。誰もいないと思っていたのだが、中にはサラが一人で下校の準備をしているのが見えた。
「サラ……」

***

 悠里は窓越しにサラを見つめると同時に、その表情が悠里の目に入ってきた。どことなく物憂げだ、そういえば一人でいるサラの顔を見るのは久方ぶりだが、初めて彼女と言葉を交わした時の表情もそうだった、そんな感じがした。
「どうしよう……」
悠里は戸に掛けた手を一度引っ込めた。忘れ物を取らずにこのまま帰ることも出来る。でも、サラと話が出来るチャンスといえばその通りだ。いつもは仲間に囲まれて、一人でいることって滅多にない。ただ急なチャンスで心の準備ができていない。しかし悠里は迷い出す前に教室の戸に手を掛けていた。
「サラ――」悠里は小さな声で言う。サラは音がする方に目を遣った。
「何よ」
立っているのが悠里と分かり、反射的に素っ気ない言葉を投げた。
「あのね、あのね……」
気持ちが早って言葉が纏まらない、でも一度踏み込んだら後に退くのは頭にない。
「私は話すこと何かないけど」
 悠里から話し掛けてきたことに戸惑っているのか、サラはつっけんどんな様子でやたら周囲を気にしている様子できょろきょろしている。
「聞いて欲しい事あるんやけど」
 悠里は変に何かを言うと揚げ足をとられてさらに揶揄されるのは承知の上だ。後の事はどうだっていい。悠里はこのまま何もせずにいることよりも、結果は考えず現状からの変化を選んだ。
「私ね、サラに謝ることがあるの……」
「謝…る?何を?」
サラは訝しげに悠里の顔を見た。
「私、英語が苦手だって嘘ついた事」
サラの目が大きく開いた。聞く耳を持っているのは明らかだった。
「私もクォーターやから、人よりは分かるかもしれない。でも英語が苦手なのは嘘じゃない。母国語でもないし、家で聞く英語は分からないことが多いし、話すのはもっと苦手」
弁解をすれば、立場が余計に苦しくなるのはわかっていた。でもサラに与えた誤解だけはどうしても解きたかった。
「苦手だって逃げていた自分が悪いんだ。私はそれでサラを傷付けたと思う――、だから謝りたい。私はサラの事をもっと理解したいから」
 サラの手が止まった。間違った事を言われた訳ではないのに気分が収まらない。サラ自身も悠里に「嘘つき」と詰って、それから無視したり揶揄した事はやり過ぎた事で、その点で自分にも非があるのはよく自覚しているからだ。
「仲良くしてくれなくてもいい、でもこれだけは知ってて欲しい」
悠里は真剣な眼差しでサラを見ると、サラはその目で動きを封じられたように動けなかった。
「サラの言いたいことを言いたい言葉で聞きたい。わからなかったら努力するから――」
拙い英語だった、自信がないから声も小さい。家の中でそれとなく聞いて覚えた、簡単な表現だった。それでも悠里はサラに伝えたくて、敢えて英語で訴えた。眼鏡の奥の大きな目が潤んでいる。
「悠里……」
 サラは目の前に立っている悠里を見て、彼女が嘘を付いていない事が分かる。今までを振り返れば、仲良くしたかったのはサラの方ではないか。サラはそう考え出すと、自分でも何と答えたらいいのか分からなくなった。
「そ、そんなこと言われても、もう遅いよ今更。」
サラも反射的に英語で呟いた。悠里の耳にも自然に入ってきた。自信のない表現はネイティブにも通じたようだ。
「遅い、ってどういうこと?」
悠里の答えも英語だった。考えずにそのままの言葉が悠里の口から出た。
「だって、私だけならいいけど……」
サラが何かを言おうとした瞬間、悠里の後ろで教室の戸がガラガラと開く音がした。

***

「サーラー」
 二人の会話が止まり、二人とも同じ方を向くとサラを呼びにきたクラスメートたちが三人、入り口の前に仁王立ちで立っていた。
「何話してたん?」
「ううん、何も」サラの言葉が日本語に戻る。
「聞いてやんなくていいよ、どうせ嘘なんだから。」
「そうそう」
「あんなの放っといて帰りましょ」
三人は教室に入るや悠里の前を通り過ぎ、矢継ぎ早にサラに声を掛け、一緒に下校するよう促した。
 悠里に背を向けるサラと三人。悠里は話を続ける事を諦めた。4対1ではとてもまともに進まない。
「サラ……」
 悠里の無力な呟きが聞こえたのか、サラだけが後ろを振り返った。
「本当は私もあなたと話がしたいんだよ。でも、そんなことしたら私もターゲットにされてしまう……」
 サラは去り際に英語で悠里にそう言うと、三人に連れて行かれるように、悠里一人を残して教室の外へ出て行った。
「はぁ――、結局ダメだった」
 見えなくなったのを確認して一息。それでも悠里は嬉しかった。自分から言えた。結果は抜きにして話し掛ける事ができた、そして伝えたい事は伝わったという確信があった。今まで躊躇してた事ができた悠里は塞ぎこみかけた自分に小さな光が見えた。
「言えた――。言えたよ」
 悠里は両手を胸に当て、サラがさっき言った言葉を繰り返して呟いた。彼女も辛い思いをしている。サラは今、グループの中にはいるけど、それが本意でない事を誰かに言いたかったのだ。だから去り際に二人にしか分からない言葉でメッセージを残したのだ。
 今すぐではなくても、サラとは仲良く出来る、悠里はそう信じられるようになり、それは顔になって現れた。

***

「んでよ、そこで俺が――するねん」
「ホンマかいな?」
この時期になると、小学校だけでなく中学や高校も短縮授業になり、昼の通りは学生で賑わう。そんな人通りの中、陽人とバンド仲間の基彦は四方山話をしながら下校の途についていた。
 二人はお互いをよく知る仲間だ。それだけにギミックというバンドの枠に関係なく言いたいことを言える関係にある。ただギミックはもう一人のメンバーである郁哉が大学受験のため近々活動休止する予定で今後の方針が決まっておらず、話題が詰まるといつもその話になる。
「倉泉は一人で活動せんよな?」
基彦の目には、陽人は曲も書けるし自ら歌うことも出来るのにバンドとしての活動に固執しているように見える。自分が陽人の立場ならそうしないから、いつも疑問に思っている。
「ないよ。一人じゃ限界あるから」
陽人は嘯くが、孤独が苦手なのを基彦はよく知っている。基彦は、陽人の家庭の事情を通して陽人の感情の推移を横から見てきた。ギミック結成前一人でもがいていた頃やバンドが案外軌道に乗って機嫌が良くなったことなど……。
「これからどうすんの?」
「今度はリズム隊を探してみようかな」
陽人は自分の希望に似た、宛の無い事を言う。ギミックはどのみち三つに別れるのだから新しい事を始めたい気はとてもある。ただ具体的に見えていないものに安心できていないだけに、強くは言えなかった。
「ま、具体的なもんは何にもないよ。」
陽人は笑顔を見せた。十年来の親友に心配掛けたくない、それは基彦に伝わっていた。
「そやな。ほな、また明日な」
坂を下った四つ辻で二人は別れる、今日も今後の話は結論が出ずじまいだった。
「ああ――?ちょっと待って」陽人は基彦の後ろにいる人を見かけて視線を基彦の後ろに移した。
「おーい、悠里ぃ」
 陽人は前方に神戸の急な坂を下る小さな後ろ姿を見つけて声を掛けた。今までなら外で妹を見かけても声なんてかけなかったが、先日姉から聞かされた話を思いだ出して、兄なりに少しは心配していた。
「あの子、倉泉の妹?」
「そういや会ったことなかったっけ?」
陽人の声に気付いた悠里はニコニコしながら陽人たちの方へ駆け寄ってきた。
「お兄ちゃんも帰りなん?」悠里は兄よりも20センチは上背のある基彦に自然と目線が移る。
「こんにちは――」
 小さい頃から初対面の人には挨拶をするように教育されており、悠里は基彦に礼儀正しくお辞儀をした。
「あ、ああ、初めまして」
かしこまった挨拶になれていない基彦が驚いて返事をする。
「へぇ、うちの弟たちに教えてやりたいわ」
男三人の長男は間接的に弟たちに愚痴をこぼす。
「そんじゃ、まあ考えててよ」
「ああ、」基彦は陽人を指差すと、陽人も同じく基彦を指差した。二人の別れの挨拶だ。

***

 基彦を見送る二人、二人は並んで神戸の急な坂道を家に向かってゆっくりと下り出した。
「悠里、学校どない?」陽人は妹の様子を確かめた。いつもより少し表情が明るいのが分かる。
「どないって?」悠里は不思議そうな顔で陽人に問い返した。
「転校してから学校の話って聞かないからさ――」
 二人でいると大概は悠里の方から話し掛けてくる。これは以前から変わっていない。最近二人が話をするようになったのは、陽人が耳を傾けるようになったからだ。
「ああ、そういうこと?」悠里は足を止めた。
「今日は珍しくいいことあったよ」
悠里は英語で話しかけた。その変化に今度は陽人が不思議そうな顔になった。
「アメリカ人のクラスメートがいるんやけど、英語で話が出来た」
「ちゃんと通じた?」
反射的に英語で回答した。悠里は少し間を置いてから首を縦に振った。「うん、言いたい事は言えた」
 妹の顔を見て、陽人はそれ以上聞かなかった。
 昨日西守医院で聞いた話で、聞かなくてもおおよその見当はつく、話し相手とその内容も。通じるだけの英語を話せるのに自信がないだけでコンプレックスを持つ妹が、自分の状況を変えるために敢えて英語で話しかけたのだから、その思い切りは褒めてあげるべきだと兄として思った。
「そうか―。偉かったな」陽人は妹の頭に手を置いた「そのうち上手く、行くよ」
兄の笑顔に応えるように、悠里も同じ顔になった。
「悠里もそう思う。何もしないで後悔したくないから、後の事は考えないで思いきって出来ることをしてみた」
「度胸あんだな、お前」
兄の目には、そう言う妹が急に成長したように見えた。
 どうにもならない状況ではもがいて何かをするんだと説いたのは自分だ。ただそれには少しの思い切りが必要だ。純粋なのか単純なのか、悠里は陽人に無いものを持っている。陽人は悠里の思い切りの良さを見て、自分もあやかって見ようと思った――。

「ほんで悠里は何で教室に戻ったん?」
「あーっ!」悠里は突然声をあげた。
「何、何?」
「プリント取りに戻ったのに、そのプリント忘れた……」
「お前何しに行っとったんよ……」
陽人は冷たい笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん一緒に来てよ、お願い!」
 陽人は文句を言いながら妹に手を引かれ学校まで行く羽目になったのだった……。

  4 逃避行

 篤信が帰ってきてからの朱音の日々のリズムは明らかに変化した。きょうだいの目に映る姉の姿は「浮き浮きしている」という印象が端的なところか――。普段は時に優しく、時にカリカリ、休みになれば車か単車に乗ってどこかへ行ってしまう……、そんな姉であるが、今朝も出かけに浮いた話をしていた。陽人と悠里は顔を見合わせて、同じタイミングで首を傾げた。
 相変わらず仕事は波に乗りきれていないが、今日はそれも苦にならなかった。今日は幼なじみの篤信と食事に行く約束をしている。今までデートの類いはしたことがないだけに、気分は晴れていた。

 仕事も早めに切り上げ、ロッカーに戻る。
「朱音ぇ、今日は急いでどこいくの?」同僚の智香が、慌てて帰り支度をする朱音を捕まえる。
「ちょっとね」
あまり構ってくれないで、とは言わないけど雰囲気でそう言う。それが逆に智香のツボにはまってしまった。
「今日も仕事もう一つやったのに、ヘコんでないわよねぇ、朱音」
智香は朱音の目線に顔を挟み込む。
「もしかしてデート?」
冗談のつもりで聞いたのだが、朱音はいつものように即答しない。近からず遠からずなのだ。
「まさか図星やった?」
「いや、そんなんと違うよ」完全否定しない。朱音にこのフリは慣れておらず、うまくかわしきれていない。
「ふーん、朱音もやるんだねぇ」
「だから違うんだってば、古い知り合いと会いに行くだけだよ」
「それって男の人でしょ?」
朱音はやっぱりかわしきれない。
「あー、もう。お願いやからイジらんとって、ホントに。ゴメンね」
朱音は逃げるように足早に会社をあとにした。

   * * *

 朱音は三宮にある小さなレストランで篤信を待つ。意図しない会社の飲み会に参加する時くらいしか夜の町は出歩かない朱音にとって今日の気分は新鮮に感じる。普段はまだ学生の弟と妹がいるために、寄り道して夜に遊ぶことは今まで滅多になかったのも原因のひとつだ。今日は窓から道行く人の表情が見える。年齢層も様々なカップル、大きなプレゼントを持って喜ぶ子供とその両親、三角帽子をかぶってもう出来上がっている大学生のグループ――。クリスマス時期だけに、道行く人の多くの顔は嬉しそうだ。
 今日の朱音はその人混みの中に綺麗に溶け込んでいた。
「ごめんよ、音々ちゃん」
朱音が着いた五分後、篤信がやって来て、窓を見て背を向いていた朱音の肩を叩く。
「わっ、ビックリした」
「待った?」
「ううん」
篤信は用意された席に座り、そして正面に座っている朱音の顔を見る。先日とは違って、ちゃんとめかし込んでいるのが分かる。
「何か雰囲気良さそうなお店やね」
「こないだ打ち合わせで来たの」
朱音はウェイターに次々注文しながら質問に答える。
「へぇ、音々ちゃんも社会人してるんだね」
「まあね。社会人経験に関しては私の方が先輩よ」
「確かに、じゃあ今日はよろしくお願いします」
 食事が運ばれてきて、二人は微笑みながら会話をする。端から見れば店内にいる他のカップルとあまり変わらなかった。
「神戸で会うのは久し振りやけど、私が一回だけ東京に行ったの覚えとう?」
「モチロン、懐かしい話だ。ビックリしたよあの時は――」
篤信は高校卒業後、今まで帰郷したことはない。しかし、朱音は過去に一度だけ、不意に篤信のいる東京の下宿まで訪ねた事があった――。


 ~ ~ ~ 

「はぁ、やれやれ。今日も忙しかったなぁ……」
8月も終わりごろ、まだまだ残暑の厳しい折だ。
篤信がアルバイトを終えて下宿に戻って来た時にはすでに零時を回っていた。自転車を駐輪場に入れようとするが、今日に限って見慣れないバイクが止まってて入れにくい
「ったくぅ、誰だよ単車止めたの……」
篤信は無理矢理自転車を押し込んで階段を登ると、家の前に明からかにそのバイクの主と思われる女性がいたのだ。篤信の帰りを待ちきれなかったのか扉にもたれてウトウトしている。
「誰だよ、人の部屋の前でぇ……」
長い髪が彼女の顔を隠す。篤信は女性の肩を擦る。そして彼女の顔を見て驚いた
「えーっ?ね、音々ちゃん?」篤信は思わず大きな声を出す。その声を聞いて朱音ははっと目を開けた。
「あ、篤兄ちゃん……」
こうして二人は東京で再会した。突然なのと、半分寝ぼけているのとの鉢合わせでお互いにブレている。
 朱音はホッとしたのか、重い瞼を再び下げようとしている。
「とにかく中に入んなよ」篤信は朱音を介抱し部屋に入ると、朱音はベッドに倒れこみ、そのまま眠ってしまった。
「何だなんだ……?」この日は篤信は訳が分からず、隣の部屋で夜を明かした。

 翌朝、朱音は何もなかったかのように起き上がり、隣の部屋で朝食の用意をしていた篤信を見つけた。隣の部屋で篤信が夜を明かしたであろう跡が見てわかる。
「お、音々ちゃん。起きた?」
物音を聞いて篤信が振り返った。
「ごめんね、来てしまいました」改まって朱音が挨拶をする「そして、もう一回ごめんね。いきなり醜態晒したみたいで……」
土下座まではしないが、朱音はその場で正座した。
「ビックリしたよぉ、ホントに」と言いながら篤信は笑っている「来るなら言ってくれたらいいのに」
そう言いながら突然の来訪者に朝食を勧めた。
「でも篤兄ちゃん、来るって言ったら駄目だって言うでしょ?」
篤信は、神戸を出る時の言葉を忘れてはいない。
 大学入学から三年と半年、実家には戻っていない。家族とは出張ついでに東京まで来た両親が激励に来る程度だ。あの時から変わらず自らを律し続けていた。
 朱音のことも当然忘れてはいない。電話ではたまにやりとりしていたし、机の上にある写真がそれを無言で説明する。朱音もその存在には気付いているようだ。
「しかし、ビックリだよ。単車でここまで来たの?」
「そうよ、ほら」朱音は真新しい免許証を篤信に見せた。「私、バイクの免許取ったのよ」得意気な表情だ。
「すごいね」篤信は免許証にある朱音の顔を見つめた。神戸で別れた時より少し大人になった、写真も実物も化粧はしてないが、色が白いのは変わらない。ただちょっと表情が暗いような気がする。
「あのね、篤兄ちゃん」免許証を大事にしまい、話を続ける。
「篤兄ちゃんは『帰らない』って言ったのは私も覚えとうよ。でもね『来ないで』とは言ってないよね?」
篤信は笑い出した。自分の事態を収拾しようとしたのだが、朱音がちゃんとその用意をしてここまで来たからだ。
「確かにそうだ。来ちゃ駄目とは言ってない。しかしここまで長かったろう」
 篤信は朱音を快く受け入れることで事態を収拾することとした。
「私もハタチになったのよ。成人よ、成人。責任持って行動してきたんだからね……」
「音々ちゃんは4月生まれだもんね」
篤信はどうだいと言わんばかりの表情をする朱音の姿を改めて見た。最後に会ったのは朱音が16歳の時だ。その時の朱音がこうして篤信のもとに来るなんて想像してなかった。
 
 朱音は篤信に会いたいがためにバイクで遠路遥々東京まで行ったのだった。しかし、あの時篤信が言った『帰らない』宣言。それについて影響が出ないかと懸念したが、それは思いすごしだったようで、篤信は朱音を快く受け入れてくれた。
 しかし、朱音がここまで来た本当の理由は他にあったのだが、篤信に余計な心配をさせるからか、会えたことで満たされたのか、結局篤信に本当の事は言わなかった。
 それから朱音は、東京では二日ほど篤信と一緒に東京を案内してもらい、次の朝早くに神戸へ帰って行った――。


   ~ ~ ~

「懐かしい話やね。」
「若かったなぁ、私も――」
二人は一昨年のことを振り替える。
「今もバイクには乗ってるの?」
「うん、短大出てからは機会も減ったけどね。今度乗っけたげる、免許取って一年以上経ったし」
「何だか怖いな――」
「大丈夫だよ。悠里だって乗るよ」
談笑しながら時間が過ぎる。
「今だから言えるけど、あの時東京まで行ったのはね――」
「今だからわかるよ。本当は聞いてあげなきゃいけなかったんだね」
朱音が途中まで言いかけたところで篤信がその回答をした。
「でも、あの時の篤兄ちゃん、優しかった。だからもう良かったの」
朱音はあの時、倉泉家がもう駄目な事を言おうと思っていた。実際に両親が離婚したのはその二年後だったが、朱音はその時にはもうわかってたと言った。
「どうにもならくって逃げたくなる時って誰にもあるよね」
「うん」
 篤信は朱音から目を逸らした。目の前の朱音に言っておきながら今の自分に言ってるようで、恥ずかしくなって目を合わせられなかった。

 昔話で盛り上がり、時間も食事もあっという間に進んでいった。
「ところでさぁ、篤兄ちゃんは何で神戸に帰って来たの?」
 十分に場は和み、話題が途切れたところで朱音はデザートを食べながら、率直に本題を切り出す。篤信も食後の珈琲を飲みながら、当然来るであろう質問に答えを用意していた。
「父さんがね、一度帰って来いよって言うから」
「それでも帰らないのが篤兄ちゃんと思ってたのになぁ」
本当の事を言う気が無い訳ではない。朱音の目を見ると篤信はやっぱり朱音に本当の帰郷の理由を言えない。朱音の何気ない言葉と咄嗟にもう一つの回答をした篤信は心が痛い。
「強いて言えば、音々ちゃんと連絡取れなくなって、正直不安になったのは、あるよ」
 それでも篤信の表情はどこか冴えない。隠し事をしているように見えないけど、朱音の知る篤信とは何か違う感覚がする。
「私はね、篤兄ちゃんの力になりたい。前にも行ったよね?何か元気無さそうだから……」
朱音の好意は本当は嬉しい。いつかは分かる事なのに、目の前でガッカリする朱音の顔を見たくない。
「音々ちゃんが力になってくれるのは嬉しいよ、でも何て言うんだろう。慣れてないんだ……」
 篤信の言葉で判った。朱音にとって兄のような篤信。勉強も運動も、人としての器量も朱音は尊敬している。しかし思えば追い込まれた時の彼を見たことがない、というより彼自身追い込まれたのは初めてなのだろう。初めて見る篤信の戸惑っている一面に朱音も戸惑っているのだ。
 長い沈黙、二人は力のない笑顔を見せる。
「いいんだよ、無理しなくても」
朱音はそう言いはするけども、自信がないのと篤信にやんわりと遠慮されているようで悔しい。そんなに自分は篤信の力になれないのか?自分では話にならない問題を抱えているのか?悔しいのか心配なのかわからない感情が混ざりあって、朱音はどうしたらいいのかわからなくなった。そんな朱音の茶色の瞳がガッカリしているのを篤信にはっきり見えた。
 再び長い沈黙が雰囲気を気まずくさせる。一方の篤信は暫く考えて、困っている朱音の顔を見て意を決めた。
「音々ちゃ……」 
「ごめんなさい。私、帰るね」
朱音はこの場に耐えきれなくなり、その場を立ってしまった。自分が篤信の力になりたいと言ったのにできる自信がなく、篤信の言葉を聞くのが怖くなった。
「音々ちゃん、ちょっ……」
篤信は背中を向けて去って行く朱音を止めることができなかった。

「大事なんだ音々ちゃんのこと。大事だから言えないんだよ」
篤信は自分の優柔不断と追い込まれた時の打たれ弱さを恨んだ。

5 守りたい、でも伝わらない

「陽人、ちょっと付き合ってよ」
姉の朱音にとって弟の陽人にこう言う時はいつもそう、相談を持ち掛ける時だ。
 二人はお互いのよき相談相手だ。これには姉弟の今までの育ってきた環境が影響している。
 朱音は神戸生まれであるが、母親は日本人で、父親は日系二世のハーフである。彼女が4歳の時にアメリカに移住、陽人はその翌年に生まれている。それから5年、神戸に帰国。朱音は主に母親から、陽人は帰国後の日本で日本語を勉強した。
 どちらが母語といわれると、現在では日本での生活の方が長いので日本語となるが、頭の中には両方の言語が並立している。だから二人の会話は、日本語で話せば英語で答え、英語で聞けば日本語が、その逆、そして混ざった言葉になり、姉弟でしか理解できない会話になることがしばしばある。言いたい事を言いたい言葉で気兼ねなく話せるのは二人だけしかいないから、相談相手になったといえよう。
 複数言語を話す人にはよくある光景である。しかし、ここ日本では妹の悠里でも二人の会話が理解できないくらい変わった光景のようだ。

「今日はどうしたん?」
 ヘルメットを脇に抱えて陽人は姉の様子を見る。
「何か飲む?」
「じゃあ熱いもの。やっぱ寒いよ」
 二人は単車を置いて、自動販売機で買った熱いペットボトルを手でこねながら歩き出した。
 朱音は家庭が荒れていた『暗黒の四年間』と言われていた頃、やるせなさの解消に採った行動が陽人は音楽であったように、朱音は単車と自動二輪免許の取得だった。単車で走れば気分が晴れ、今まであちこち単車で走り回ってきては今の自分を失わずにここまで来た。
 朱音は弟を単車の後ろに乗せて、須磨の海岸まで連れてきている。二人の住む六甲からはおよそ30分、夏場は海水浴客で賑わう神戸の観光地だ。冬場は海水浴をする者はさすがにいないが、朱音たちのように海を見るだけにやって来る人はちらほらと見かける。冬場の波の音はどこか寂しく、寒い感じがする。
「お姉、元気無さそうだね」
陽人は姉の白い顔を見ただけで、今の調子が分かるようだ。並んで歩く二人、朱音の方が弟より少しだけ背が高い。
「そう見える?」
否定はしない。実際に調子が良くないからだ。
 朱音は気付いていないようだが、普段はぐうたらな弟たちを叱り上げることは日常の事だがから、そうでないときは何かある。姉の性格は陽人だけでなく、妹の悠里でも分かるほど裏表が無く分かりやすい。
「篤兄の事でしょ?」
朱音が言いにくそうだったので、陽人から話題を出す。
「はぁ、私ってそんな分かりやすいかな?」
溜め息をつきながら朱音は弟の顔を見る。話題については否定をしない。
「こないだの朝と夜との違い、凄かったもん」
「凄かったって、何が?」
陽人は砂浜に転がっている空き缶を蹴っ飛ばす。
「アップダウンだよ。帰ってきた時悠里もお姉に声かけられなかったって……」
「アンタも見てるんやねぇ……」
朱音は溜め息を付く。具体的に話さなくても、弟の中では想像がついているのだろう。

 先日朱音は幼馴染みの篤信と食事に出掛けた。陽人にすれば、その日は朱音の異様にウキウキした表情と、その日の食事当番を回された事でよく覚えている。そして、怒っているとも失敗したとも取れる複雑な表情で帰ってきた事も。
「ところでさぁ、お姉は篤兄と付き合ってるの?」
弟の単刀直入な質問にたじろいだ、姉弟で恋愛話などしたことがないが、朱音にはその手の問題が不慣れなのは様子で分かる。
「難しいね。どこまでを付き合ってると言うんだろ」朱音は砂浜を歩き出す「小さい時からずっと側におったからね、アメリカに住んでた時も篤信君はホームステイとかしてたし。付き合うとか、そんな言葉が出ることも無く現在に至る、ってカンジかなぁ?」
「ふーん」陽人は一口飲み物を飲んだ。
「正直わからない。でも『大切な人』であるのは確かよ」
朱音はこう結論づけた。自分だけでなく、篤信についてもわからないと言った。陽人には言ってないが、一昨年の夏に朱音は篤信の下宿を訪ねた。その時の様子では、以前と変わらぬ感じであったし、他の女性と付き合っているような感じもなく、神戸に帰って来た現在も変わっていない、朱音はそう思う。
 陽人にしても、知る限りでは姉に付き合っている人がいないし、過去にもそんな話はなかったと思っている。弟から見ても姉の見た目はそこそこ綺麗だと思うし、そんな話があってもおかしくないのだが、家庭の不和や年の離れた自分や妹の世話もあり、恋愛に時間を割く暇はなかったように見える。さらに西守篤信という幼馴染みの存在があったからそんな話がなかったとも考えられる。
 ただ、朱音の言うように、篤信と付き合っているかと言うと、陽人から見ても正直わからない。兄妹のような感じで、一般的にイメージするカップルとは違う感覚は確かにある。 
「東京行ってからも、連絡取ってたんでしょ?」
弟は一つずつ質問しながら姉の様子を窺う。
「陽人には言ってもいいかな」朱音も一口、飲み物を口に含んだ。
「連絡はね、ちゃんと取り合ってたのよ。といっても月に一回くらいやけどね。篤信君は学校大変やし、うちも家があんな調子やったでしょ」
朱音は今までの家庭不和を話題に挙げて説明する。
「でも、ウチが滅茶苦茶やったんは言うてないでしょ?」
「うん」朱音は躊躇いながら頷く。
「言いにくいよね、やっぱり。篤信君心配するやろうし……」
「そりゃね、篤兄ビックリしてたよ。うちの近況話した時」
倉泉家の離婚は陽人と妹の悠里から篤信の耳に入った。思えばあの時の篤信のショックは陽人より近い存在である朱音から聞かなかったことにあるのとさえ陽人は思った。
「篤信君がヘコんだ感じするのはそれだけじゃ、ないよ」
朱音はたどり着いた防波堤に腰をおろす。
「篤信君はね、大学卒業するまで神戸に戻らないって言ったのよ、あの時。でもさ――」
「今帰って来とうよね」
「そう、何かあったんかな?と思ってさ。今までそんな事なかったから――」
 朱音の知る篤信は、自分に厳しい課題を出して自らを律する。人が見ても難しいことをやってのけて来た。陽人もそれは知っている。だが、朱音は篤信が失敗するのを今回の帰郷以外に見たことがない。それが気にかかるというのだ。
「篤兄も言いにくいんじゃない?お姉が心配するから」
陽人はその場から立ち上がる。
「篤信君にはね『何でも力になりたい』って言ったんよ……、だけど実際ちょっと自信なくて」
座ったままで朱音は陽人を見上げる。陽人が見る姉の表情は家が離婚の危機にあった頃の、心配そうな表情だった。
「伝わらなかったんやろうね、多分」
陽人は砂をかき集め、飲みきったペットボトルに入れる。
「あ、こらっ、陽人」
陽人は地面に置いた砂入りペットボトルを勢いよく蹴飛ばした。ペットボトルは大きな弧を描き海面にゆっくりと沈んで行く。朱音は沈むペットボトルが見えなくなると陽人を一言叱りつけた。
「相手に届く言い方でないと伝わんないって」
陽人は朱音の方に向き直った。
「二人とも同じやん。気ぃ使いすぎて自分が参ってる。自信ないのが見えるんだよ、篤兄には」
陽人は、二人がお互いの事を痛いほど考えているのが分かった、聞いてる方が照れるくらい。自分も大切な人にそんなに思われてみたいと少し嫉妬した。しかしそれは口に出して言わなかった。
「陽人――」朱音も立ち上がる。「アンタも一端の事言うようになったね」
朱音は弟の肩をポンと叩いた。
「参考になったわ。アリガト、弟」
「大した事言ってないよ、僕は」
朱音は止めた単車の方へ歩き出した。
「帰ろっか、悠里も待っとうし」
陽人が気付いた時には朱音は何歩も前を歩いていた。揺れる長い茶色の髪がさっきより少しだけ軽く見えた。

 傾き始めた陽を背中に、二人が乗った単車は家路に向かう。朱音は大事な人の力になりたいとは言ったが、それを受け止めらる自信がないことが相手に伝わっていることを弟に教えられ、反省した。
「今度は私が聞いてあげなきゃ……」
朱音は疾走する単車にまたがってそう言ったが、後ろでしがみつく陽人には聞こえなかった――。

帰郷

帰郷

何をしても上手く行かない時があるよね。みんな一緒さ、でもね、そんな時にしか見えないものだってあるんだ――。 医師になることを夢見て、その夢を実現するまで戻らないと言って東京の医学部に進学した篤信は、自分の道を見失い、卒業を前にして実家のある神戸に戻ってき来た。そこで同じように上手く行かない日々を過ごす幼馴染みの朱音と弟の陽人、妹の悠里たち3きょうだいと接していく中で、それでも前向きに自分を取り戻そうと思うようになる、悩める若者の心の成長を綴った物語です。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-11-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第一章
  3.   1 神童
  4.   2 クォーター
  5.   3 ギミック
  6.   4 独りの通学路
  7.   5 再会
  8.   6 暗黒の四年間
  9.   7 幼馴染み
  10.   8 夜景
  11.   9 音々ちゃん、篤兄ちゃん
  12. 第二章
  13.   1 年の差きょうだい
  14. 2 海外からの転校生
  15. 3 放課後
  16.   4 逃避行
  17. 5 守りたい、でも伝わらない