口無しのつぼみ(製本版:地田浩太)
鏡二澪は俺の幼馴染みだった。俺が振り返ることが出来る範囲で最古の記憶の中にも、それから、俺の成長記録であるはずのアルバムの中にすら登場するくらいだから、きっと、付き合いはそれなりに濃く、頻繁にあったのだと思う。
彼女は女の子というより、男の子らしい女の子といった表現に近い子だった。「長いとシャンプーとか乾かすのに面倒」とか「邪魔」といった理由から髪はいつもショートヘアで、服装も動きやすいパンツばっかりだったから、性別を間違われるなんてザラ。同性の子らが魔法少女とか着せ替え人形とかに夢中になっている横で、俺や共通の友人たちと一緒に特撮ヒーローものを食い入るように見ていたし、虫も平気で触るし、取っ組み合いの喧嘩なんてしょっちゅうで、見るたび新しいところに怪我を作っていた。……そういや"着ねばならない"時にしか履かないスカートのときは「足がスースーして気持ち悪い」とか「嫌」とか言ってったっけ。そんなだったから、当時の俺たちが感じるような女の子らしさなんてひとつも持ち合わせていなかった。だからよく「オトコオンナ」なんてからかわれていたけど、それに対し、拳骨を振りかざして相手を追いかけ回すような負けん気も持ち合わせていた、まさに男勝りな子だった。でも、たまに――本当にたまに、だ――例えば、小動物や花を愛でたり、バレンタインにチョコなんかくれたり(市販の板チョコを冷やし固めただけのものだったし、形はお世辞にも綺麗とは言えなかったけど)、そういった時に見せる表情はとても可愛くて、やっぱり女の子なんだと、妙に高鳴る心臓の音に紛れて思ったりも、した。だけどそれを口に出すのは恥ずかしくて「ミオはオトコオンナなんだからこんなの似合わねーぞ」なんて憎まれ口を叩いては、逆に彼女から「コータのアホ。バカ。 うるさい」と叩かれたり足を踏まれたりしたことを思い出す。
ある日、神妙な面持ちで彼女はこう言った。 ――お嫁さんにして、と。
緊張に潤んだ瞳と赤く染まった頬に心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥り、幼心に、俺は将来コイツとケッコンするんだなんて思って指切りをした。
そんな俺たちだったが、年を一つ二つととるたびにその交流はまるで水で薄まっていくかのごとく減っていき、必要以上に"男の子"とか"女の子"とか自分や周りの性を意識しだす頃には、互いに顔も知らない赤の他人同士のようになっていた。会話はおろか、廊下ですれ違ったり目があったりしても、特に何もみたいなそんな感じ。あの頃はちょうど、異性同士というだけでやれ付き合っているだの結婚しろだのと冷やかされ野次を浴びせられる多感なオトシゴロだったし、それ以上に、そういう風であることに羞恥心を感じる年頃だったから余計そうなってしまったんだと思う。
そのあたりからだろうか、彼女は変わっていった。
小さい頃はあれほどまで嫌がっていたにも関わらず、彼女の髪の毛はやや控えめに膨らんだ胸元のあたりまで伸び、太陽の光を浴びるたび天使の輪がきらきらと頭上で光っていた。拳骨は振り上げなくなり、代わりに穏やかな口調でやんわりと否定するようになっていたし、同じ年頃の子達と同様に流行りのドラマやアイドルなんかの話をするようになった。家庭科の授業では先生の手本と並べても見劣りしないエプロンや布小物を作ったり、綺麗な包丁さばきとてきぱきした指示でどの班よりも美味しそうな食事を作った。
走り回るなんてことは一切せず、いつも優雅に、かつきびきびと姿勢よく歩く。その度折り目正しく均等に並んだスカートのプリーツがゆらゆら揺れ、そこからのびる色白な脚は細すぎてもいなければ太すぎることもなく、健康的な肉付きで綺麗な曲線美を描いていた。
春から夏への制服の移行期間を過ぎても長袖を着ていることが多かったが、たまに――特にぎらぎらとした日差しの時なんか――半袖のシャツを着ていることもあった。見るからに細い腕が、パンパンに膨らんだゴミ袋だったり分厚い本を何冊も持っていたりすると、ポキリと折れてしまうんじゃないかなんて、紙パックのジュースを啜りながら変な心配をしたりもした。
◆
「キョージさんってスゲェ可愛いよな」
放課後、誰かが不意にそんなことを呟いた。
俺は会話に混ざるふりをして、ぼんやりと昏れかけたオレンジ色の空を眺めていた。
「ザ・女子!みたいなところあるよな。こう、女子の中の女子っつーの?男の理想の女の子像っていうかさ。俺、付き合うならあぁいうタイプの子がいい。寧ろもろタイプ」
「なにお前熱弁振るってんだよ、キモチワリィ」
コーイチがソースケの頭を小突き、ゲラゲラと笑い声があがる。 何となく雰囲気に合わせて俺も笑った。
――と、視界の端で見知った人影を見た。
彼女だった。重たそうな荷物を両腕に抱えて資料室に向かうところ、といったところか。隣にいる浮島も同様に段ボール箱を抱えている。その組み合わせにちょっと考えて、そう言えば今日二人が日直だったことを思い出す。大方先生に雑用を頼まれでもしたんだろう。
ふと視線に気付いて前を向くと、そこに座っていたシュウが意味ありげにニヤリと口角を吊り上げて言った。「そういや、キョージって最近浮島とよく一緒にいるのを見かけるね」
「それは二人が同じ委員会だからだろ」反射的に口から飛び出した反論がソースケの上ずった声と重なる。
「何だよそれ!おっ、俺は聞いてねぇぞ!?なぁ!なぁ!!」
「……あのな、三鼓」シュウが溜め息混じりに言った。「お前になんて、天地がひっくり返ったって振り向かないよ、キョージは。男なら潔く諦めろ」
「いくら何でも言いすぎだろそれ!俺だって夢見る権利くらいあるぞ!」
「キョージさんかぁ。休日とか何してんだろうな、全然想像つかねぇ」
「お菓子とか凝った料理とか作ってそう。この前の調理実習のときヤバかったもん、手馴れてるっていうかさ」
「あー、そのイメージ分かる。部屋とかめっちゃいい匂いして、白とピンクが基調で、天蓋付きのベッドにネグリジェ着て寝てるんだろうな……」
「お前のそういう妄想ホント気持ち悪い、つーか童貞臭い。だから女子から嫌われるんだって」
「あんまり庶民的な感じねぇもんな、なんつーか、お淑やかなどこぞの令嬢っていうの?きっと小さい時もそんな感じだったんだろうなぁ」
「そういや、コータの家ってキョージさんと近かったんじゃないっけ?」
「おいマジかよ、――おい、コータ。キョージさんってどんな子だったんだよ」
肩を叩かれ、投げかけられた問いに、歩いていく彼女の背中を見送っていた俺は反応が遅れた。いや、もしかしたら、記憶の中の彼女と今の彼女があまりに掛け離れていることを改めて突き付けられたことで、かねてからあった胸のつっかえの正体が分かったからかもしれない。
年月が経てば人は変わる、それはそうだ。だが、あまりに理想や夢や――異性が思い描く女らしさばかりが鏡二澪の中に詰め込まれ過ぎてはいやしないか。
ザ・女子? 女子の中の女子? 男の理想? どこぞの令嬢?
本当に?
それは違うと、無性に反発したくなった。
彼女は、特撮ヒーローが好きで取っ組み合いの喧嘩なんて日常茶飯事で、服装はいつもパンツで、虫も触れて、負けん気も強い、男勝りな子だったけど、――そういったところから垣間見えるオンナノコの部分が可愛い子だったんだと。
だが、それをいざ言葉に出すとなると何となく憚られ、俺は喉に引っかかったそれを唾と一緒にごくりと飲み込んだ。 そして「昔のことは忘れた」と曖昧に笑う。
もしかしたら彼女は昔のそういった要素を恥じて隠したいのかもしれないとか、女らしさに目覚めるのが遅かったからじゃないかとか、あるいは――素通りしたはずの友人の言葉が胸の柔らかい部分を締め付けた――誰か気になる人がいるのかもしれない、とか。 だったらわざわざ俺が昔をほじくり返すのはどうだろうと、そんな、彼女を立てるような言い訳を自分に言い聞かせるように何度も繰り返して誤魔化した。そうやって自分の真意から目を逸らした。
あの時の俺は、ただ単に、誰も知らない鏡二澪を知っていることに仄かな優越感を感じていたかっただけなのだ。
◆
そんな彼女とは約一年半、同じ七メートル×九メートルの空間の中にいたけど、あの日以外関わることはほとんどなかったと言っていい。 席替えが行われる度、俺たちは誰かが謀ったように対角線上にいて、それぞれの友人たちと談笑しながら同じ空気を吸っていた。
◆
「地田くん」
その声は記憶の中で聞いた声より随分と大人びていて、綺麗で、透明だった。
異性との交流があまりない俺は、それだけで妙にどぎまぎとしてしまう。早鐘を打つ心臓を悟られないよう平静を装って振り返ると、やはり彼女が立っていた。真正面からまじまじと彼女を見たのは何年ぶりだろう、幼い頃の面影を残しつつもそこはかとない女性らしさを漂わせている。妙に気恥ずかしくなった俺はさり気なく目線を逸らした。
「どうしたの、鏡二さん」
意外と、その言葉は予め用意されていたかのように唇からするりと飛び出した。
同時、何か大切なものを忘れてしまったような、無くしてしまったような、それに似た物悲しさに心が締め付けられる。 ――どうしてだろう、彼女はキョウジさんであるのに。うまれた疑問に内心首をかしげたが、次の瞬間、そんな些末な思考は風船が割れるように弾け飛んだ。
「私、転校することになったの」
その口ぶりはまるで、何の気なしに「明日の天気はなんだろうね」とか「これ、ニュースで見たんだけど」とか、そんなとりとめもない話題を口に出す感じに似ていた。
盗み見るように彼女に視線をやると、柔らかく吹いた風で乱れた髪を手櫛で整えている。
初夏の陽射しは俺だけをぎらぎら炙っているようだった。涼し気な表情の彼女と対照的に、俺は身体中の穴という穴から大量の汗が吹き出しているのを感じた。
「両親の仕事の都合でね。 だから、今日でサヨナラってところかしら。 夏休み明けの始業式は新しい学校で迎えることになるから」
「……そう、なんだ」俺は乾いた喉を潤したくなって、もう残り僅かなペットボトルに口をつける。生温い液体が喉を伝った。「急な話だ」
「実際はそうでもないわ、一ヶ月か二ヶ月前には決まっていたことだし」
返ってきた言葉に、へぇと努めて冷静に返す。「寂しくなるね」
「うそ」彼女はくすくすと笑った、よそ行きのような上品な顔と声で。「そう言ってる割には全然寂しそうに見えないけど」
「いや、その、何ていうかさ。 ほら、キョージさんって友達多そうっていうか、それに女の子らしいって人気じゃん?だから」
だから、何だろう。自分で言いかけたそれにはっと我に返った。
俺は何を言いたかったんだろう。 ――"周りのイメージのキョウジミオ"を持ち出して、そうまでして伝えたかったことは、一体何だ。
分からない。
言い出したくせに着地点も見失って、結局、もにょもにょと言葉尻を濁した俺を見て、彼女は吹き出して、笑い出した。 両手を叩き、げらげらと声を上げて、さっきよりもオーバーに。それはそれで顔から火が出るほど恥ずかしかったけど、でも、不思議といやではなかった。
そうやって笑っている方が何だか"鏡二澪"らしく思えた。
「ごめんってば、笑ったりなんかして」
俺が居た堪れない表情をしていたのか、彼女が目元を拭いながらそう言った。
顔からだんだんと、自然に笑いが引いていく。そうして何か懐かしむように目を細めた彼女は、俺を通り越して、何を思い返していたのだろう。
「そう、ね。 たくさん友達もできたし、一組のみんなと離れるのはもちろん寂しい。 でも――」何か言いかけて、だが、それを口にすることなく彼女は唇を閉じた。柔らかそうな薄紅色の唇。カサついても、ひび割れてもいないそれは、何か塗られているのか、ぷるんとして光沢感があった。
喉が何かを飲み込んだようにごくんと動く。
「そうね、寂しい」
そう苦笑して誤魔化した彼女に、気付けば問うていた。
「何を言いかけたの?」
俺の質問に彼女は困ったような表情を作った。 少し考えるような素振りを見せ、けれどすぐに首をふるふると横に振る。「いいの、何でもないから」
「だったら、いいけど」
「うん」
――そうして訪れた沈黙は、掛ける言葉を探すのを急かしているようだった。
話が終わったからといって互いに自然に離れるのではなく、俺たちはその場に立っていたから余計そう感じたのだろう。会話したいけど、どう口火を切ろうか、それが見当たらない。だから何か言ってと、そんな雰囲気を互いに匂わせていた。
こんな時に限って話題の一つも浮かばなくて、妙に焦る気持ちだけが先を急いで空回る。
不思議だ。 彼女と会話するチャンスなんて今日が来るまでにそれこそ何千回何万回とあったはずで、そしてそれをあえて見送っていたのは他ならぬ俺だったというのに。早く何か言わないと彼女がすぐにでも居なくなるのではと気が気でなかったが、結局彼女は何処にも行かなかった上に、この妙に凝り固まった沈黙を破ったのは彼女の方だった。
視線が下がり、俯いた彼女の顔は艷やかな黒髪に隠れて見えない。その向こうから、恐る恐るといったような、遠慮がちな小さな声が聞こえる。
「地田くんはさ」
「うん」
さっき潤したはずの口内が猛烈な勢いで水分を欲していた。頭では分かっているのに、すでに空になったペットボトルのキャップを外して口を付ける。
熱を持った俺の心臓はその動きを徐々に早め始めていた。
「その……えっと……」
続く言葉を見失ったのか、彼女は珍しくそんな繋ぎ言葉を連発している。
その歯切れの悪さが、余計俺の何かを逸らせて、瞬間的に飛び出した。
「何だよ、早く言えよ」
俺の、急かすようなぶっきらぼうな物言いに、彼女の肩が強ばったのが見えた。 それでも懸命に、まるで何か身体中から搾り出すように言葉を続けるようとする彼女の言葉はもごもごと不明瞭で聞き取れない。「――……そ、く」
「何だよ、聞こえないって」
途切れ途切れでも、小さくても、同時に吹いた強風に煽られた木の葉同士が擦れ合う音の中に消えてもなお、彼女の声は鮮やかすぎる回想と共に確かに俺の耳に届いた。"やくそく、おぼえてる?"
今の今まで意識的に記憶の奥底に沈ませていた、あの日が一気によみがえる。空の下、約束だと小指同士を絡めていつもの文句を口にした。その内容は?
――――ねぇ、コータ。
――――おねがいがあるの。
――――あたしのこと……コータの、
「ごめん!何でもない!忘れて!」
完全に思い出す前に、彼女はそう叫んで俺の脳内を一瞬止めた。
言うが早いか遠ざかる背中を引き止めたくて、無意識の内に手を伸ばす。だが寸でのところで空を切った。
――それはまるで、スローモーション。
彼女が遠ざかっていく、相変わらず綺麗なスカートのプリーツを揺らして。その綺麗な黒い髪を肩甲骨のあたりで躍らせて。
呼び止めることは出来たはずだったし、運動が多少苦手な俺でもあれくらいの距離とスピードなら簡単に追いつけただろう。でも、できなかった。海馬の片隅で薄く埃を被った幼い俺であればきっと、容易く彼女の細い腕を掴んだと思う。あの頃よりも出来ることは限りなく増えたはずなのに、おかしいことに、あの頃簡単にできていたことが今ではひどく難しい。例えば彼女と話をするとか。
昨日激しく降った雨の残りである水溜まりが、ぴしゃんと音を立てた。
両脇の新緑の中、差し込む光に向かって彼女が走る、走っていく。
その瞬間。
急に差し込んだ眩しすぎる太陽の光に僕の双眸は驚き、反射的に瞬きをして。
一気に現実に引き戻された。
蝉の大合唱が聞こえる。
線香の独特の香りが鼻腔をつく。
瞼が、嫌そうにゆっくり開いた。
一番最初に目に飛び込んできたのは青みを帯びた御影石で作られた神道型の墓石だ。花立にいけられた花は蕾をつけたものに変わっていて、加えて線香がまだ細く白い煙をあげているところをみると、どうやら俺の前に誰かが来たらしい。彼女の両親だろうか。
まだ時期じゃないからだろう、墓参りに来ている人はまばらである。
俺は息をひとつ吐き出し、目の前にあるそれをぼんやりと眺めた。
彼女にまつわる一連の記憶を脱線しない程度に脚色しさえすれば、甘酸っぱい青春の思い出話として、それこそ先日ハガキで届いた同窓会の時に語れるくらいにはなるはずだが、なんとなくそうはしたくなかった。 あの時、俺か、あるいは彼女が何か口にしていればもう少し変わっただろうが、結局俺たちは何一つ交わさなかった。だから人に聞かせる話にするにはどうしても編集が必要で――たとえば彼女の言葉を補ってしまうとか――それを施すことが嫌だったのだ。あの時彼女が言おうとしていた続きは、俺がいくら思いを巡らそうと、推測しようと、彼女しか知り得ない。そしてもう、それは永遠に失われてしまっている。
だから、今までの数年も、これから先の数十年も、彼女にまつわる諸々は当時のまま――俺が彼女と過ごした学生生活のまま記憶の片隅にあってほしいと、そう思うのだ。
耳元で水が弾ける音がする。
瞼の裏で、あの日の彼女の背中が遠ざかっていく。
いつかその背中に追いつくことができたなら、そのときは。
口無しのつぼみ(製本版:地田浩太)