勝利の秘密
カツトシはタクシー運転手として真面目な人間だった。一昨年にはタバコを止め、どんなに非常識な客を乗せても下車するまで丁寧に対応した。彼は『宇天教』という比較的最近出来た仏教系統の新興宗教団体に属し、熱心な信者であり人格者だった。
ある日彼は普段通り客を乗せて運転をしていると、何やら妙な事を客が話しだした。それは彼が属している『宇天教』の教えを、根底から揺るがす内容だった。
客を下ろした後カツトシは、急遽駐車場にタクシーを駐め、近くの公園で思案に暮れる事にした。今まで些細な批判を聞いた事はあっても、信仰心が揺らいだ事は無かったからだ。
夕方の公園では児童がバドミントンで遊んでいる。
何も悩む事無く遊んでいる児童達がカツトシは羨ましく思えた。
日が暮れると彼はタクシーで自宅へ戻り、風呂に入った後いつもより1時間早く寝る事にした。もしかしたら明日の朝は何も気にしていないかもしれない、そう願いながら彼は目を閉じた。
後日、彼が起きた後も結局心境は変わらなかった。もう以前の自分には戻れない。カツトシの心には穴が開いた様な蟠りがあったものの、仕事に影響は無かった。
金曜日、信者が集まる集会が21時からあり、いつもなら必ず出席していたが、彼は行かなかった。
携帯へは信者の同士でもある友人から電話が何回か来たが、カツトシが電話に出る事は無かった。
* * *
数日後、熱された鉄板の上を歩くかのような、アスファルトから来る暑さの中、集会に来なくなったカツトシの家に『宇天教』の同士でもあった山田、伊藤が訪問にやってきた。
「トシさーん」
「山田さんと伊藤さん……」
カツトシは今までと、なんら変わることなく2人を自宅に招き入れた。
若干の後ろめたさはあったものの、自分の為に来てくれている彼らをその場で帰すことは、彼には出来なかった。
「やめる前に一言言ってくれれば良かったのに」
「そうだよ、心配しちゃったよ、急に居なくなるからさ」
「悪いね……山田さんと伊藤さんも、こんな暑い中」
少し多愛も無い話しをした後、しばしの静寂があり、カツトシはどうしてやめたのか、その理由を山田と伊藤に少しづつ話し始めた。
「俺はどんな話を聞いても、信仰心が揺るがない自信はあるな」
山田は自信ありげにそう言った。
「どうやら新興宗教は儲かるらしいんだ。……100万人が1人1万円寄付をしたら、それだけで100億円」
カツトシは落ち着いて話した。
「そんなの計算してみりゃすぐわかるだろ、100万……1000万、1億、あ、100億円だ」
「……運営する側はその100億円から寄付してるんだよ」
事実カツトシ達が信仰していた『宇天教』では幹部達が信者に寄付金を競わせていて、宇天教の職員達も多額の寄付をしていた。
「だからってさ、宇天教が俺たちを裏切るワケ無いだろう」
「うん、……だけど幹部達のお金がどこから来たかって考えるとさ、俺たちの寄付金からでしか無いんだよね」
「……うーん」
伊藤も考える仕草をした。
「……他にはなんて言ってたんだ?」
「願いが叶うかどうかは、周りを見ると答えがある」
「周りを見てみて、9割願いが叶ってなかったら、それは宗教ではなく宗教ビジネスだってさ」
宇天教は頻繁に『願いが叶う』を強調して信者を増やしていった団体だ。その多くは年収300万ぐらいの低所得者層と言われる人が殆どだった。それでも信者達は願いを叶えようと多額の寄付をしていた。
カツトシ、山田、伊藤は、いざ周りの願いが叶っているかどうか、それを思い浮かべると幹部や職員以外の信者は、ほぼ願いが叶っていない事実に気がついた。
「これは、考え方が変わってしまうねー……」
山田は腑に落ちたように言った。
「理由は話してしまうと、ほら、道連れにしてるみたいでしょ?」
「いやいや、トシさんは悪くないよ」
「本当に悪いのはさ……」
言いかけた伊藤は続きを言えなかった。
違う話題になった後、カツトシは3人が確信的な何かが意識にあるのを感じたが、それが言葉として出ることは無かった。
「うちらは、活動頑張るからさ」
「しばらくしたら、また居酒屋行こうよ」
カツトシはいつもどおり山田と伊藤を入り口まで見送った。気を塞いだ鉛の様な物はもう無い。
1週間後の朝、カツトシは山田の家の前を通った。
そこには他の粗大ごみと一緒に、以前自分が読んでいた書物が、スズランテープで結ばれて無造作に置かれていた。見覚えのある写真や数珠もそこにはあった。
カツトシがふと空を見上げると、冷たい朝の空気と一緒に、淡い虹が朝焼けの中浮かんでいた。
それは山田達を祝福してるかのように見えた。
勝利の秘密