夫の顔

夫の顔

 毎朝六時に時計のアラームが鳴る。朝は弱い。目を開けることなく、手探りでボタンを押す。五分ごとのスヌーズを三回繰り返すと、スマホから音楽が流れる。六時十五分。目を開けないと、音楽は止まらない。だって、パスコードを入れないと止まらないから。さらに時計のスヌーズを三回繰り返し、やっと脳が動き出す。六時三十分。
 ふらふらしながらトイレに入り、リビングへ向かう。
エアコンをつけると、気温は十度。また寒くなるんだね。椅子にかけっぱなしのフリースを羽織り、ドイツ製のシステムキッチンでティファールに水を入れる。このキッチンは、水を出すくらいしか仕事をしない。コンロにはうっすら埃。
カップとグラスしか入っていない食器洗浄機からマグカップを取り出し、インスタントコーヒーをスプーン二杯。ああ、しまった。スイッチ入れてなかった。ティファールのスイッチを入れ、シェルフから買いだめしてある菓子パンを出す。ゴゴゴと言いながら、ティファールが湯気を上げ、カチっと電源が落ちた。マグカップに湯を注ぎ、コーヒーの匂いのする液体と菓子パンを持ってリビングへ移動。
天気予報が見たくて、テレビをつけるけど、朝からラーメンだとか焼肉だとか、食べ物の特集ばかり。見ているだけで胃がもたれる……。
テレビの時報は六時五十分。菓子パンの袋をバリバリと破り、熱いだけのコーヒーもどきで流し込む。
頭がはっきりしてきたところで、洗面台へ。顔を洗い、化粧水と乳液で入念に肌を作る。パックをしている間に歯を磨くと、さっき飲んだコーヒーもどきの茶色い泡が出た。五分ほどマッサージをすると、黄ばんだ肌にツヤと赤味が戻って来る。
寒いのでメイク道具一式を持ってリビングに戻ると、夫が同じようにティファールでコーヒーもどきを作っていた。
「今日、仕事何時に終わる?」
「どうして?」
「ヨシムラ先生のパーティーがあるんだよ」
「何時から?」
「七時半」
「どこで?」
「ニューオータニ」
「わかった」
夫はそれだけ言うと、コーヒーもどきを持って自分の部屋へ行った。最低限の言葉しか交わさない。『オハヨウ』などという単語は、もう何年も夫の口から聞いていない。私も聞かせていない。
いけない、夫との会話にイライラしていたら、もう七時十五分。
下地から始まりコンシーラー、ファンデーション、ルースパウダー、アイメイク、アイブロウ、チーク、そして仕上げにリップ。三十分はかかる。
顔が出来上がったら、洗面台でヘアセット。そろそろ、美容院行かないと……ローションとムースで取れかけたカールを必死に甦らせる。正面、サイド、後ろを鏡でチェックして、首から上は今日も完璧。
自分でも思う。どう見ても三十五歳。このマイナス五歳のために、私は必死なのよ。ああ、もう、八時過ぎてる……
部屋へ行く途中に、高そうなジャケットを持ったイケメンのビジネスマンとすれ違った。いやいや、よく見たらうちのダンナ。私と入れ替わりに洗面台で身支度している。待ってたんだ。言えばいいのに、代わってって。まあ、逆の立場でも言わないけど。
 今夜はパーティか。何着ようかな。クロゼットを開けて、数あるスーツの中から今日の衣装を選んでいると、玄関ドアが閉まる音が聞こえた。『イッテラッシャイ』なんて単語も、もう随分言ってないし言われてない。
えーと、あのヒトはグレーのスーツだったから……私はクロにしようかな。フリルカラーの白いブラウスを合わせて、ネックレスはダイヤのオープンハート。夜は寒そうだから、トレンチコート持っていこう。ああ、新しいバーバリー、欲しいなあ。
グッチのバッグにノートPCとスマホを詰め込んで、あー、これ、忘れるとこだった。指輪指輪。カルティエの時計を見ると八時三十分。そろそろ出ないとね。
 外に出ると、意外にあったかい。家の中の方が寒いんだ。グッチのピンヒールでコツコツとアスファルトを鳴らし、ゴミ捨て場にゴミを出す。オハヨウゴザイマス。笑顔で言ったものの、誰? とりあえずご近所さんには笑顔で挨拶しないとね。だって私は『いい隣人』だから。
駅まで歩いて五分。途中で幼稚園だか保育園のお送りのママやパパにすれ違う。いつも思う。私って、どう見られてるんだろう。二十五で結婚して十五年。結局コドモはできなかった。
自分で言うのもなんだけど、四十にしてはキレイにしてるほう。このママさん達、きっと私より若いけど、きっと私の方がイケてる。だけど、なんとなく、独身なんだ、いくらキレイにしても、独身なんだ、私にはこんなにかわいい子供がいて、パパがいて、幸せなのよ、って言われてる気がする。いや、独身じゃないんだけどね。独身みたいなもんだけど。そんな気がするから、余裕の目で見てやるのよ。若いのに、そのオナカとオシリ、大変ねって。オケショウくらい、もうちょっとしたらいいんじゃないって。
ああ、いつからこんなに性格が悪くなったんだろ。ああ、元からか。ちょっと、そこ、ジャマだから。なんで歩道で喋るわけ? 通れないでしょ? ああ、イライラする。
 八時四十分に駅について、八時四十七分発の電車に乗り、九時十五分に電車を降り、九時二十三分にタイムカードを押す。都会の時間は分刻みなのね。私はこの分刻みさが大好き。都会を感じるから。

「部長、おはようございます」
「おはよー」
ああ、他人には結構言ってるじゃん、この単語。デスクに座り、パソコンを立ち上げ、メールチェック。キーボードには山のような書類とファックス。なんでバラバラに置くわけ? ていうか、クリップでまとめるとか、そういう頭はないのかしら? ああ、またイライラしてきた。
「あの、部長……」
オドオドと報告書を出しに来たのは、入社二年目のノジマくん。見た目はイマドキだけど、気が弱いのか、いつもオドオドしてる。なんかイライラするのよねえ。
「昨日のプレゼンの報告書なんですけど……」
「却下されたんでしょ? 企画自体はよかったのに。もうちょっとプレゼン(りょく)つけないと」
「はあ……あの、僕……」
「何?」
「向いてないと思うんです」
「何に」
「企画は楽しいんですけど、プレゼンは……」
「プレゼンまでやって企画でしょ?」
「……すみません」
ジャケットのポケットから出したのは『退職願』。マジで? そんなすぐ?
「何これ」
「病んでるんです。僕。きっとうつ病です」
あのねえ……そんな簡単に『うつ病』とか言わないの。でも、かなり落ち込んでるわね。こういう時の『願』は受け取らないのがマニュアル。
「病院行ったの? 診断書あれば、休職扱いにできるから。そんな簡単に辞めるとかいわないで。ね、よかったら、私、病院について行ってあげるよ?」
ああ、私って優しい。
「部長……」
ちょっと、泣かないでよ。私がなんかしてるみたいじゃん。
「ノジマくん、病院、行く?」
「はい……一人だと行けなくて……」
「わかった。じゃあ、一緒に行こう。とりあえず、医務室に行こうか」
グズグズと泣く二十四歳の男を連れ、医務室へ。途中でチーフのタヤマくんに声をかける。
「ノジマくん、体調悪いみたいなの。病院まで送っていくから、なんかあったら電話して」
「わかりました」
タヤマくんは三十五歳の独身。まあまあイケメン。やり手のビジネスマンって感じ。少し神経質で、融通が利かないところはあるけど、この企画部では一番優秀で、信頼できる。

 医務室からの紹介状を持って、心療内科へ。よくわからないが、投薬するらしい。診断書には『抑うつ症状により出社困難を認める』って書いてある。ああ、そう。もう明日から来ないんだ。誰か補充しないと。
「部長さん、彼、一人暮らしのようなので、ご実家に帰らせたほうがいいんですけどね」
「そうですか。わかりました。話してみます」
なんで私がここまで……もう十二時……仕事溜まってるのに、午前中何もできなかった。
「ねえ、ノジマくん。実家、どこだっけ?」
「岩手です」
「実家、帰る? 一人で家にいるより家族といるほうがいいでしょ?」
「はい……」
ノジマくんはずっとグズグズ泣いている。一人で岩手まで帰すのは無理よねえ……
「一人で帰れる?」
「……部長、一緒に来てください……」
はあ、やっぱりね。そうなるよね。
「いいよ。でも、今夜はちょっと予定があるのよ。明日まで、家に一人でいれる?」
「一人……一人が、寂しくて……」
もう、どうしよう……でも万が一ってこともあるし……ああ、タヤマくん。彼も一人暮らしよね。ちょっと聞いてみようかな。
「はい、タヤマです」
「ああ、私。今病院から帰るんだけどね。ちょっと……ノジマくん、休職するのよ」
「そうですか。人事部に伝えておきます」
まあ、それもそうなんだけどね。大丈夫? とかはないんだね、キミには。
「うん。それでね、明日から実家に帰るんだけど、今晩、タヤマくんの家に泊めてあげてくれない?」
「は? どうしてですか?」
「いや、あの……一人にするとね……その……」
「自殺ってことですか」
そんなズバっと言わないで。
「まあ、そうね。ね、お願い。今晩だけでいいから」
「わかりました。どうすればいいですか。病院に行けばいいですか?」
「うん。悪いんだけど、迎えに来てあげて。お昼から早退してくれていいから」
「仕事、たまってるんですよね」
私もたまってるし!
「ほんとごめん。頼れるの、タヤマくんしかいないのよ」
なんで私がここまで頭下げなきゃいけないのよ!
「部長がそこまでおっしゃるなら。一時間程で行きますので」
「ありがとう。やっぱりタヤマくんだわ。ほんと、頼りになる」

 病院の近くのファミレスでご飯を食べている間も、ノジマくんはずっとグズグズと泣いていた。周りのお客さんからチラチラ見られてる。私の天敵、ママ軍団! どうせオツボネのおばさんが、若い部下をいじめてるとか思ってんでしょ?
 うんざりしながらノートPCでメールをチェックしていると、駐車場にタヤマくんの車が入ってきた。ああ、やっと来た! こっちこっち! ガラス越しに手を振ってみると、タヤマくんが店に入ってきた。
「お待たせしました」
「ほんと、ごめんね。さ、ノジマくん。タヤマくんが来てくれたから。今日はタヤマくんの所に泊めてもらってね」
やっと解放される……と思ったら、ノジマくんがとんでもないことを言いだした。
「僕、部長と一緒にいたいです」
はあ? 何言ってるの? バカなの?
「えーと、ノジマくん? どうして?」
「部長のこと、好きなんです」
目眩がする。何言ってんの、この子。
「そう、でもね、私は結婚してるしね……」
私も何言ってんだろ。
「部長と一緒じゃないと、僕死にます!」
ちょっと……ちょっと待って……タヤマくん、何とか言って。って、笑ってんの? 必死で笑い隠してんじゃないわよ!
「部長、僕のこと、嫌いですか」
うん、どっちかっつうとね。嫌い。
「ノジマ、とりあえず俺の家に来いよ」
タヤマくん! ありがとう!
「部長、夜来てください。ノジマ、それでいいだろ?」
ノジマくんは半分納得したようで、うん、と頷き、またグズグズと泣き始めた。タヤマくんはノジマくんを車に乗せると、住所は後でメールします、と言って行ってしまった。そんな、勝手に……でも収集つけてくれたのよね。さすが、タヤマくん。頼りになる。

 タクシーでオフィスに戻るともう三時を過ぎていた。デスクの上の書類はさらに増えている。ああ、もう……今日はやる気しない……あ、内線。
「はい、サクラです」
「シミズだけど」
人事部長。コイツ、苦手。
「ちょっと、人事部まで来て」
「はい」
ノジマくんのことか……
 人事部のこの雰囲気……息が詰まんないのかな。重い。
「ノジマのことですか」
「困るんだよね。勝手に休職とか。病院に行く前に相談してくれないと」
「明らかにメンタルヘルス不調を認めましたので。マニュアル通りに行動したまでです」
「メンタルヘルス不調を引き起こしたのは誰の責任かね」
はあ? 私のせいだっていうわけ? 冗談じゃない。プレゼンが苦手だと訴え続けていたノジマくんを企画部から異動させなかったのはアンタでしょ!
「人事に問題はありませんでしたか。異動の希望は出ていたはずです」
「人事の責任だというのか!」
ええ、そうですよ。アンタの責任。能無し人事部長シミズ、アンタの責任。
「そうですね。企画部にいる以上は、企画部の仕事をしてもらわないといけませんので。私は管理監督者として、当然の業務配分を行い、教育をしたまでです」
ふん、そんなユデダコみたいに顔真っ赤にしちゃって。私はプレゼンの鬼と呼ばれた女ですよ? 私に論戦で勝てると思ってるの? これだから嫌なのよ。年功序列で昇進した能無しのオッサンは。バッカみたい。
「休職届は、ご家族に説明してから提出します。もうよろしいですか? 仕事がありますので」
アンタと違って私は超忙しいの。
「サクラ」
「はい。何でしょうか」
「人事部長にそんな態度でいいのか?」
出た。職権乱用。公私混同。パワハラモラハラ。ハラスメントの見本みたいなヤツ。
「どういう意味ですか。私の能力や希望と関係なしに、私情によって不合理な人事をされるおつもりですか。そのような事態になったらパワーハラスメントで訴えますよ」
ああ、いい世の中になったわね。こんなバカな上司を正当に追求できるんだから。
「……ノジマの報告はマメにするように」
「はい、失礼します」
 えっ! もう四時! 全然仕事終わってないし……とりあえず、至急の分からやっつけるか。企画書の承認に報告書のチェック、営業部と広報部との折衝、クライエントとの打合せ、部下の相談、同期の愚痴、上司の小言。はいはい、全部一気に背負いますよ。解決しますよ。だって私はできる女だから。
 私はビジネスマンとして、部長として、部下として、同胞として、オシャレなスーツに身を包み、完璧なメイクで、毎日朝九時半から夜七時まで、かっこいいキャリアウーマン。
仕事の能力も、部下からの信頼も、上司からの評価も、お給料も、ステイタスも、みんなハイクラス。そう、それが私の目指していた姿。
プライベートは? そうね、充実してる。公認会計士のイケメンの夫、都心にそびえるタワーマンション、週三回現れるハウスキーパー、クロゼットに並ぶハイブランドの服にバッグ。エステも美容院も時間さえあれば自由に行ける。
ねえ、憧れるでしょ? そこのママ軍団。私の夫のスーツはハルヤマじゃなくってアルマーニ。ランチは千五百円のフレンチに毎日でも行けるの。ああ、なんて幸せ。あ、幸せに浸ってたらもう六時じゃない。ノジマくんのこと、みんなに言わないと。
「ねえ、ちょっと聞いてくれる? ノジマくんなんだけど、体調不良で、しばらく療養することになったの。明日から休職になるから、みんなカバーしてあげてね」
「ノジマくん、なんか病気なんですか?」
「うん、ちょっとね。でも、大丈夫だから。心配しないで」
「部長、でも、結構いっぱいいっぱいですよ、みんな」
「そうね、わかってる。人事部には、補充をお願いしてるから。私もできるだけカバーするから、みんなも協力して。お願いします。ノジマくんが戻ってこれるように、みんなでフォローしましょう」
ああ、私ってなんていい上司! ほら、みんな、しょうがないなって、笑ってくれてる。私の教育のおかげよね。
 定時の六時半になると、みんなポツポツと帰り始める。基本、残業は禁止。時間内に仕事が終えられないのは、能力か、配分か。それを見極めるのが私の仕事よね。そう、我が企画部はほとんど残業はなし。長い時間会社にいればいいっていうもんじゃないのよね。今だに営業部とかそんな感じだけど。
さて、そろそろ私も帰ろうっと。
「おつかれさまー」
タイムカードの打刻は六時四十五分。余裕ね。

「ニューオータニまで」
「かしこまりました」
タクシーってなんて快適なのかしら。通勤もタクシーでしたいくらい。さあ、メイクを直してっと。お綺麗な妻で登場しないとね。ああ、また忘れるところだった。薬指にコレをしないと。カルティエのマリッジリング。今から私は『妻』だから。あれ? 渋滞? 
「渋滞ですか?」
「事故みたいですね」
まあ、まだ時間はあるし。あ、電話。……ああ、また……
「もしもし」
「あー、マスミー?」
「何?」
「元気しとるだかぁ?」
「うん。お母さんは?」
「ちょっと体調わるうてねえ」
また……アレですか。
「そう、どないしたん」
「病院いこうおもとるんじゃけど、お金がのうて……」
はいはい。
「大変じゃね。明日にでも振り込んどくけえ。なんぼいるの」
「家賃もちょっとしんどおて」
「わかった。じゃあ、十万、いれとくけ」
「いつもわるいねえ」
「ええんよ。ほんなら、お大事にね」
なんて優しい娘なのかしら。あんたも幸せね、こんな『いい娘』がいて。って、ひと月に何回家賃払うの? 今月これで三回目だけど。どうせこれもってパチンコ行くんでしょう。ろくでもない親もいたもんね。ま、今の私には、解決する方法があるから。さくっとお金で解決。どうせ娘のこと、金づるとしか思ってないんだから、お互い様よね。
「お客さん、広島ですか」
え? ああ、びっくりした。
「ええ、出身は」
「私も広島なんですよ」
「へえ、そうなんですか」
どうでもいい。故郷の話など、したくない。私は故郷を捨てた。高校を出て二十二年、一度も帰っていない。親の顔も見ていない。時々こうやって、金の無心の電話がかかってくるだけ。下手に断って、押しかけられても困るから、次の日には振り込んであげるの。

「式、広島のお義母さん、来ないのか?」
「うん。いいの。代行とかあるじゃん。あれで適当に『両親』雇ってよ」
あんなのに来られるなんて絶対迷惑。あんな、薄汚くて、田舎臭くて、貧乏じみてて、下品で、最低なハハオヤ。

あ、また電話。
「おつかれさまです。タヤマです」
「おつかれさま。ノジマくん、どう?」
「落ち着いてます。実家に連絡したら、茨城にお姉さん夫婦がいるらしいんですよ。とりあえず、今日迎えに来てもらえることになりました」
でかした! さすがタヤマくん。って、そっか。何も送っていかなくても、迎えに来てもらえばよかったんだ。
「そう、よかった。ありがとう」
「こっちにくるのは九時か十時になるみたいなんですけどね。ノジマが、部長にどうしても会いたいから待ってるっていうんですよ」
えー、めんどくさい……
「わかった。えーとね、今からちょっと用があるのよ。そっちにいけるのは十時くらいかな。それでもいい?」
「いいと思いますよ」
「じゃあ、できるだけ早く行くから。ノジマくんのこと、よろしくね」
ふう。って、え! もうこんな時間! スマホの時刻表示は十九時二十分。
「運転手さん、ちょっと急いでくれない?」
「いやあ、全然動かないんですよ」
ええー! どうしよう……こっからだと、もう降りたほうがいいかな。
「ここからニューオータニまでどれくらい?」
「もうイチキロもないかなあ」
「どれくらいかかりそう?」
「動けばねえ。もう三分だけど」
メーターだけが、カチカチと上がっていく。もう、イライラしてきた! 運転手、のんびりしすぎ! ……あれ? この人……名前は……
『スギモトショウゴ』

「なんでや」
「他に好きな人ができたからって言ったじゃん」
「……サクラか」
「そうだよ」
「あんなヤツの何がええんじゃ!」
「あのさあ、その広島弁? もういい加減、やめなよ。ダッサイっていうか、ショウゴ、あんたダサイ」
「マスミ、お前、東京きて変わったの」
「変わるために東京に来たの。じゃあね」
広島での生活から抜け出したい一心で、奨学金を勝ち取り、東京の大学へ進学した。幼馴染のショウゴは、頼みもしないのに、勝手に東京についてきて、鉄工所に就職した。
私もショウゴも家が貧乏で、いつもガリガリに痩せてて、いつも汚い服を着て、いつも親に殴られていた。
東京に出てきた私は、一文無しといっても過言でなく、食べるものも、住むところもなく、ショウゴの住む社宅に住まわせてもらっていた。年頃の男女が一緒に住めば、自然とそういうことになるわけで、二十歳の年まで、私達は恋人同士だった。
ショウゴは優しくて、一緒にいると楽しくて、それなりに幸せな生活だったけど、いつまでも田舎臭いショウゴに、私は嫌気がさしつつあった。だって東京の女の子はみんなオシャレで、かっこいいカレシを連れていて、なんだか人前に二人で出るのが恥ずかしかった。
塾講師をしていたころ、ケイタに出会った。ケイタはお金持ちの家の次男で、ハイレベルな大学に通っている割には、ナンパな感じがするイケメンで、女の子たちはみんな彼を狙っていた。争奪戦には入っていなかった私だったけど、なぜかあの夜、ケイタは私に声をかける。未だに、なぜ私だったのかわからない。
「明日、花火見に行かない?」
「え?」
「隅田川の花火大会。行った事ある?」
「ない……です」
一緒に花火に行って、帰りの車の中でキスをした。都会の匂いのするケイタに私は夢中になる。ううん、彼のリッチな匂いに、私は夢中になった。私が好きになったのは、『サクラケイタ』ではなく、サクラケイタのもっている『お金』だった。
「オレのカノジョになりたいなら、イケテル女になれよ」
ケイタが求めるのは、見た目だけ。そう、見た目さえよければいい。それは簡単。学校もほとんど行かず、アルバイトに明け暮れ、ブランドの服を買いあさった。ファッション雑誌を読みあさり、ローンを組んでまで、流行アイテムを手に入れる。
あっという間に、私は『イケテル女』になった。なんのことはない。化粧をして、流行の服を着ていればいいのだから。
「つきあおうぜ」
ケイタを手に入れてしまえば、もうそれでいい。他に遊び相手はいるようだが、どうでもいい。私が一番なら、それでいい。だって、私の目的は、お金。あんたなんかに興味はない。
 ショウゴにあっさり別れを告げ、ショウゴの部屋を出て、私は外で待っていたケイタのセルシオに乗り込んだ。駐車場には、ショウゴの軽トラが止まっていた。あんな乗り心地の悪い車、もう二度と乗らない。
寮の窓からは、ショウゴが悲しげな目で私を見つめていた。
バイバイ、ショウゴ。私はお金持ちになるの。アンタもがんばんなよ。

「お客さん、降りますか? 動きそうにないんでねえ」
ハンドルを握る左手の薬指には、指輪が光っている。結婚、してるよね。私もしてるもん。
「運転手さん、子供いるの?」
あ、いきなりこんなこと聞いちゃった。
「え? ああ、いますよ。三人。一番上は今年から中学生なんですよ。がんばらんとねえ」
そうなんだ……いい人と出会ったんだ……

「妊娠したの」
「はあ?」
「だから、妊娠したの」
カノジョになって五年目、私は強硬手段に出た。
フワフワと女をちらつかせるケイタの『お金』を不動のものにしたかった。もちろん、妊娠なんてしていない。
「まじかよ」
「どうしよう」
「どうしようって……結婚、するよ」
意外だった。オロセとか言うと思って、お金だけとってやるつもりだった。
婚約をして、すぐに式を挙げ、入籍するまで一ヶ月。嘘だと言えなかった。バレたら、詐欺とかになるのかな……どうしよう。でも、お腹の中には何もない。早く……早く言わないと……
切羽詰った私は、嘘を重ねてしまった。
「流産した」
「えっ! 嘘だろ!」
そういって、ケイタは目の前で泣き出した。嘘……楽しみにしてたの? 
「ゴメン」
「仕方ないよな。悲しいけど……仕方ないよ」
私はとんでもない十字架を背負ってしまった。こんなつもりじゃなかったのに。もう子供を生むことなどできない。私の犯した罪は大きすぎる。
それから、私は仕事に打ち込んだ。疲れているからといってセックスを避け、仕事が忙しいからと家事もしなくなった。離婚しようと言ってくれる日を待ち続けたが、ケイタは言ってくれなかった。

 七時二十五分。ケイタからの電話が鳴った。
「今どこだよ」
「渋滞で動かないの」
「はあ? 仕方ないな……もう始まるから中入るけど、ついたら電話しろ」
「わかった」
通話時間十五秒。これでも長いほうかもしれない。
「大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫です」
もう降りる必要はなくなった。ゆっくり乗っていこう。
「今日、ニューオータニで何かあるんですか。何人か乗せてましてね」
「ええ、政治家さんのパーティがあるんです」
「そうなんですか」
「運転手さん、長いんですか? タクシーは」
「五年ほど前にね。勤めていた会社が倒産しまして。それからです」

「独立するよ」
「これからどうするの? お金は大丈夫なの?」
ケイタは頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。
五年前、ケイタは勤めていた会計事務所を辞め、コンサルタント会社を立ち上げた。会計士として優秀だったらしい。あっという間にクライエントをつけ、事務所は大きくなった。
主なクライエントは政治家。夫は『処理できないもの』を処理する会計士。
月に一回か二回、『先生方』のパーティに出席する。よほどのことがない限りは、夫婦同伴がルール。私達は、仲睦まじい、美男美女のセレブ夫婦を演じる。腕を組み、微笑み合い、時には夫が私の肩を抱く。
おきれいな奥様ですね、と言われケイタは満足そうに笑い、素敵なご主人ね、と言われ私も満足そうに笑う。ちっとも満足なんてしていないのに。ああ、でも、ケイタは満足してるのかな。だって、あの人が求めるのは見た目だもの。あの人が好きなのはサクラマスミではなく、サクラマスミの『見た目』だもん。
「妻のおかげで、仕事に打ち込めるんですよ」
そうね、私はいい妻。あなたの望む『いい妻』なのよ。

「大変でしたね」
「まあねえ。でも、嫁さんが言ってくれたんですよ。しばらくゆっくりして、子供と遊んでやってって。私がパートに出るからって。それまで結構忙しくて、子供と一緒に遊んでやることもなくてね。ほんと、感謝してますよ」
「いい奥さんなんだ」
「そうですねえ。いい女です」
ショウゴ、幸せなんだね。なんか安心した。
「つきました。時間かかってしまって、申し訳ありません」
「いいえ、渋滞は運転手さんのせいじゃないですから。おいくらですか」
「二千八百六十円です」
私は一万円札を出した。
「おつりは結構です」
ショウゴは少し怪訝な顔をし、ありがとうございます、と言った。自動でドアが開き、降り際に、ショウゴが手を握った。
「幸せか」
「……幸せだよ」
「そうか、そんだらええ」
ショウゴがどんな顔をしていたのか、それは見えなかったけど、きっと、笑ってたよね。だって、ショウゴはいっつも私に笑ってくれてたから。
ほんとはね、時々思うんだ。あの時、あの部屋を出て行かなかったら、ケイタと花火に行かなかったら、あの塾でバイトしなかったら……でも、もう二十年は戻ってこない。戻ってこないんだよ。バカだったね、私。ほんとバカ。
バイバイ、ショウゴ。幸せに、ずっと幸せでいてね。

「今ついた」
「ロビーで待ってろ」
五分ほどして、イケメンのビジネスマンが迎えに来た。ああ、よく見たら夫だ。
「遅かったな」
「渋滞だったっていったでしょ」
時間は七時四十八分。会場に入る前に、ケイタが肘を出した。腕組めってことね。はいはい。腕を絡め、笑顔で会場へ。こんなこと、いつまで続けるんだろう。バカみたい。
テーブルにつくと、相変わらずきれいだとか素敵だとかお似合いだとか、もう聞き飽きた褒め言葉をうんざりするくらい聞かされ、そのたびにありがとうございます、と大袈裟に喜んだ振りをしなければいけない。もう疲れる。ウツになりそう。
そういえば、ノジマくん、大丈夫かな。もう少ししたらタヤマくんに電話してみよう。
はあ、つまんないな。無理に笑ってると、顔が引きつりそう。ご飯もイマイチおいしくないし。もう帰りたいな。
 九時を過ぎると、パーティはお開きになった。やっと終わった……まだ今からタヤマくんのところに行かないといけないのに、すごく疲れた。
腕を組んで、みんなに挨拶をして。ああ、足が痛い。このヒール、絶対靴擦れする。
固まった笑顔でタクシーに乗ったとたんに腕を解く。お互い外側に顔を向け、私達は顔を見ない。
「仕事があるから、会社戻るんだけど」
「運転手さん、駅で降ろして」
家に帰るの? それともオンナのところ? まあ、どっちでもいいけど。振り向きもせず駅へ向かう夫を見送り、運転手に地図を渡す。
「ここ、行って下さい」

 タヤマくんのマンションにつくと、もう十時を過ぎていた。電話するタイミングも逃してしまっていた。えーと、305……ああ、ここか。
「サクラです。ごめんね、遅くなって」
出てきたタヤマくんはパーカーにジーンズで、会社のスーツ姿とはイメージが違う。こういうのも似合うんだ。ノジマくんはテレビの前でゲームをしていた。なんだそれ。
「ノジマくん、どう?」
「あ、部長! 僕、ちょっと元気になりました」
あっそ。そりゃよかった。
「お姉さんが迎えにきてくれるのね?」
「はい。タヤマさんが電話してくれたんです」
あ、そうなんだ。結構優しいじゃん。
「部長、コーヒーでも淹れましょうか」
「ああ、いい。おなかいっぱいで」
 しばらくすると、ノジマくんのお姉さんが迎えに来た。
「サクラと申します」
この名刺も何枚ばら撒いたんだろう。そして何枚ゴミ箱に捨てられたんだろう。
「じゃあ、ノジマくん、ゆっくり休んでね。仕事はみんなでカバーするから、心配しないで」
「はい。部長……ありがとうございました。あ、握手してください」
握手ね。それくらい、いくらでもしてあげるから。
「じゃあ、お姉さん、よろしくお願いします」
私はタヤマくんと、お姉さんとそのご主人とノジマくんを見送った。
「ほんと、助かったわ、タヤマくん」
「……部長、ちょっとよろしいですか」
タヤマくんは部屋へ戻っていく。時間は十時四十五分。もう眠い……でも、部下が話したいって言ってるんだから、聞かないと。
 なんかほっとしたらお酒が回ってきた。うう、ちょっと気分が悪い。
「タヤマくん、ごめん、お水もらえる?」
ソファに座ると、ちょっと目眩がした。タヤマくんはミネラルウオーターを出してくれて、床に座った。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。で、何? 悩み事?」
「いえ、そうじゃないです」
なんだろう。なんか言い辛そうだけど。
「人事のカワノから聞いたんですけど、異動の話が出てるらしいです」
「誰に?」
「部長にです」
え! 私? こんなに会社に貢献して、部下を育てて、クライエントを持ってて、優秀な私に?
「ど、どこに」
「子会社の支店長です」
それって、栄転ってことだよね。
「そう、なんだ……」
「もし、そうなったら、行きますか」
「ええ、まあ、東京なら」
「そうですか。そうですよね。部長は出世命ですもんね」
何、その言い方。私は部下のことも考えてるじゃん。
「……今日は指輪してるんですね」
「パーティでね、夫の付き添いで出てたの」
なんか、気まずいなあ。この雰囲気……
「部長、もし部長がいなくなったら、辞めるつもりです」
「え? どうして? 私がいなくなったら、タヤマくん、部長になるよ」
「出世とか、あんまり興味ないんで。俺、尊敬できる人の下で働きたいんですよ」
「タヤマくんは、上に立てる人だよ。自信持って」
「部長みたいに、自分を殺してまで、部下や会社のために働けません」
自分を殺して? どういう意味? 私は自分の意思でこうしてるだけだよ。
「私は別に……」
「部長は仕事もできるし、部下思いだし、すばらしい上司だと思います。みんな部長のこと尊敬してます」
そうでしょうね。だって私はすばらしい部長だから。
「どうして、ノジマの両親に迎えに来てもらわなかったんですか」
「どうしてって……思いつかなかったのよ。送っていかないとって思い込んじゃって」
「そうでしょう。部長はね、全部自分で背負っちゃうんですよ。仕事も、トラブルも、なんでもかんでも」
「それが『上司』でしょ」
「俺は無理なんです。そういうのが」
「タヤマくんは無理しなくていいと思う」
あれ? なんか私言ってることおかしい?
「上司になったらそうしないとダメなんでしょう?」
そうしないとって思ってたけど……だって、わかりやすいよね、『いい上司』として……わかりやすい? 『いい上司』って思われたいだけ?
「そんなに優しくなくていいんですよ」
知らない間に、泣いてしまっていたらしい。タヤマくんが、ティッシュを出してくれた。
「好きなんです、俺」
「え?」
「部長のこと」
一日に二回も告白されるなんて……四十になってもこんな奇跡が起こるのね。
「タヤマくん……」
「ダンナさんと、うまくいってないんですよね」
「そんなこと、ないよ」
「社内で噂ですよ」
「そんなの、噂だよ」
噂……そんな噂があるんだ……なんか、カッコわる……
「部長」
 男の人に抱きしめられるなんて、何年ぶりだろう。そして、キスなんて……忘れてた。
「もうね、何年も、ほとんど口もきいてない」
こんなこと、初めて言った。人前でこんなに泣くのも、初めてかもしれない。
「俺に、何かできますか」

 タヤマくんの唇がまた私の唇に重なって、私は目を閉じた。閉じたけど、ケイタの顔が浮かんできた。ケイタと最後にキスしたのはいつだろう。もう覚えてない。
ケイタは他の女とキスしてるのかな。こうやって、他の女と。
タヤマくんの手が、私のブラウスのボタンを外す。
ケイタも、誰かのブラウスのボタンを外すのかな。
なんで? なんでケイタのことしか考えないの? もう終わってるのに。私達は、もう終わってるのに。
「タヤマくん、ごめん」
タヤマくんは、ゆっくり私から離れて、ブラウスのボタンを留めてくれた。
「送ります」
会社にいる時みたいに、タヤマくんはクールに運転して、クールに私を家まで送ってくれた。
「おつかれさまでした」
クールにそういって、タヤマくんの車は帰っていった。
 当たり前だけど、リビングには誰もいなくて、真っ暗で、寒くて、私はフロアランプだけをつけてエアコンをつけた。気温は十二度。時間は零時三十分。なんとなく眠りたくなくて、ソファに座ってテレビをつけた。
ぼーっとテレビを眺めていたら、夫がリビングへ入ってきた。
「遅かったな」
「うん」
どうやら水を取りに来たみたい。からっぽの冷蔵庫を見て、面倒そう言った。
「水、ない」
「そう、買っとく」
部屋に戻るのかと思ったら、ソファに座ったので、びっくりした。
「マスミ」
「何?」
「離婚しようか」
突然……でも、その言葉、もう何年も待ってた。やっと……言ってくれたね。
「うん」
「悪かった」
「え?」
「金で、幸せにできると思ってた。だってお前は、俺の金に惚れてたから」
そんな……
「だから俺も、お前の容姿を変えようと思った」
「変えたよ。ケイタの好きな女になるように」
「花火に誘ったこと、覚えてるか」
「隅田川?」
「そう」
「未だに、なんで私が誘われたのかわかんない」
「好きだったから」
何言ってるの? あの頃の私は、田舎臭い、地味で、貧乏丸出しの女だったよ?
「でもお前は、俺の金しか見てくれなかった。それでも、よかったんだよ。お前を手に入れられるなら」
そんなこと……今更言わないで……なんで今更……
「イケてる女になれっていったじゃん」
「悔しかったんだよ。ガキだったのかな。それが、お前を追い詰めてたこと、全然気づかなかった」
もう、やめて……それ以上聞きたくない……
「妊娠も、嘘だってわかってたよ。でも、もしかしたらホントかもって、そう思った。だから、流産したって言われたとき、ああ、やっぱりって……やっぱり、お前は、金なんだなって……」
あの時の涙は……そういう意味だったんだ……本当に、傷つけたんだね、私。本当に、バカだった。もう、死にたい。ごめんなさい、ケイタ。
「慰謝料は払うから。これからの生活費も援助する」
夫は私の顔を見ることなくそう言って、背中を向けた。そう、慰謝料も生活費ももらえるんだ。よかったじゃない、私。これで自由になれるし、お金だって安心。何年もそれを望んでいたのよ。いたはずなのに……全然嬉しくない。どうして? どうしてなの? ねえ、どうして?
「お前がここに住めばいいよ。俺の荷物はそのうち業者に取りに来させる」
「……ここを、出ていくの?」
「明日から、ホテルに泊まる」
ねえ、どこに行くの? 他の人のところに行くの? 私を一人にするの? 本当に一人にするの? いや、ケイタ……ねえ、私……一緒にいたいの。
「待って」
リビングのドアを開けたケイタが立ち止まった。
「待って、ケイタ」
名前を呼ぶのも、何年ぶりだろう。ああ、そうか、名前を呼ばれたのも、もう……
「今日、ショウゴに会ったの。ショウゴね、幸せそうだった。子供も三人いて、今一番上は中学生なんだって。五年前にね、タクシーの運転手し始めてね……」
何言ってるんだろう。ショウゴの話、今なんでするんだろう。
「幸せかってね、幸せかって……聞かれて……私……幸せって……いつもね、幸せって言うの。誰に聞かれても、ええ、幸せですって。だって、だってこんなにお金持ちになったもん。好きな服も、好きなバッグも、何でも買える。母親がね、お金を無心するのよ。子供の頃、私を邪魔者にして、殴りまくってた母親がね、猫なで声で、私にお金をくれって頭下げるのよ。食べるものもなくて、いつもおなかすいてて、でもね、今は、今はね……ねえ、見て、ケイタ。私、こんなにキレイになったのよ。ねえ、私を見てよ。なんで他の女ばっかり見るの? 私を見て。私を抱いてよ。私のこと愛してよ!」
ああ、もう何言ってるのかわかんない……やっと、離婚できるのに……もう、終わってるのに……バカみたい。カッコわるい。ダッサイ。こんな私……

「じゃあ……じゃあ、俺を愛してくれよ。金じゃなくて、俺を、この俺を愛してくれよ! この俺に抱かれてくれよ! なんだよ……俺はお前の愛が欲しくて、金稼いできてんだよ! お前はいくら出せば買えるのか、ずっとわからなかったんだよ!」

私達は、もう終わってる。ずっと前から終わってるって、思ってた。時々ね、考えるの。もし、ショウゴの部屋を出なかったら、花火に行かなかったら、塾でバイトしなかったら……東京に来なかったら……私達の二十年は、いったいなんだったの? ねえ、ケイタ、私達は何をしていたの? 

 夫はドアに手をかけたまま俯いていて、私はソファに座ったままテレビの画面の光を受けていて、お互いに、外を向いている。こんなに近くにいるのに、私達は、私達の顔も見ない。
でもね、ケイタ、顔、見たかったの。だって、あなたはとってもイケメンだから。地味な田舎臭い私はね、あなたの顔を見るのが恥ずかしかったの。
でももう最後なら、思い切って、あなたの顔を見に行くね。

「ケイタ、こっち向いて」
振り返った夫は、十五年前のように泣いていた。私は夫の前で初めて泣いた。
そして、ずっといえなかったこの単語を言った。
「ごめんなさい」
ああ、ケイタに抱きしめられるなんて、何年ぶりだろう。こんなに、ケイタって、あったかかったんだ……
「やりなおそう、最初から」
最初から……そう、最初から……私達は、最初から終わってたのかもしれない。終わっていたのに、なぜか私達は一緒にいた。どうして? どうしてなの? そうね、きっとね……
「ケイタ、愛してる」

 こうして一緒のベッドに入るのも、何年ぶりだろう。
ねえ、ケイタ、私ね、今本当に幸せ。強がりでも、見栄でも、嫌味でもなく、私は『ケイタ』に抱かれて、本当に幸せなの。あなたのお金じゃなくて、あなたが好き。あなたは? 私の見た目じゃなくて、私が好き? 
「初めて『マスミ』を抱いたよ」
そう。そうよね。私達は初めて一緒になれた。
もう二十年前には戻れない。ううん、戻らなくていい。東京に来て、塾でバイトして、花火に行って、ショウゴの部屋を出た。それでよかったの。だってこうしてあなたと一緒になれたから。
 時間は午前三時。あと三時間で目覚ましのアラームが鳴る。スマホの音楽を止めて、六回目のスヌーズが鳴りだしたら、あなたに言うわ。何年ぶりかわからないけど。
……『おはよう』って。

夫の顔

夫の顔

出会ってから20年。ずっとすれ違いだった二人は、冷え切ったリビングで初めてお互いの顔を見る。二人の愛は本当に終わってしまったのか。本当の幸せを見失った妻の24時間を書きました。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-31

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