キス
甘いキス
夜風が肌に纏わりつくのを感じる。ワンピースの下は玉のような汗で濡れていた。その汗が、暑さからくるものだけでないことを私は知っている。歯肉をなぞる舌が、唾液が、私の気持ちを高揚させていく。
ーーー甘い。
寺坂は職場の上司だ。ただし部署は違う。勤続3年になるこの会社は、ワンフロアに全ての部署が置かれているため、他部署の職員でも顔見知り程度にはなれる。縦横の繋がりを強く持つことが会社の繁栄に結びつくというのが、社長のモットーなのだ。そのためか社員どうしの仲は付かず離れず、良好なほうであるとは思う。現に人間関係で大きく悩んだことは一度もない。私の所属する部署とフロアを隣にする部署に、寺坂はいた。背が高く小麦色の肌をしており、一目見ただけでスポーツを嗜んでいることが分かる。なんでもハキハキと物事を言い、礼儀礼節をわきまえた今時珍しい好青年だ。初めて寺坂と話したのは、社会人になって2年目の夏だった。
「はじめまして、寺坂です。よろしく」
当たり障りのない言葉。精悍な顔をしていると思ったが、目尻の下がった目を細くして笑う顔を見て、少年のようだなと思った。それから私たちは、同じプロジェクトに参加することで、ぐっと話す機会が増えた。
寺坂は30代を中盤にしてもなお、悪戯っ子のような男だった。私のコップと自分のコップを入れ替えたり、コーヒーと偽って麦茶を飲ませたり。小学生でも思いつかないことを、嬉嬉としてしてくるのだ。もはやそれは、嫌がらせに近かった。彼は私がどんなに文句を言おうが、嫌な顔をしようが、いつも笑ってこう言うのだ。
「だって、面白いから」
彼は人気者だった。整った外見もさることながら、男女隔てなく親切にするその人柄も、愛される要因なのだろう。エリートコースを歩んでいる営業の男の子と共に、いつも女子社員の話題に昇っていた。飲み会などにはよく誘われており、困ったように笑いながら、彼はだいたい参加していた。彼が喋ることといえば、仕事とフットサルと家族の話だった。彼には学生の頃から付き合っていた妻との間に、今年2才になる可愛らしい娘がいた。いつかその写真を見せてもらったことがある。
「もうすぐ誕生日だから。何買ってあげたら喜ぶかなーって、ずっと考えている」
そう話す彼は、どこにでもいる人の良い父親の顔だった。
3年目になった夏、彼の人事異動が決まった。本社への栄転だ。彼はたくさんの人に祝福され、また、去ることを惜しまれていた。その人望から、何度も送別会と言う名の飲み会が開催されていた。私はその何度目かの送別会に、参加した。会場に着くなり彼は私を呼び寄せ、隣に座らせた。
「やっときたな、俺の可愛い後輩」
プロジェクトの間中、彼は私が返事に迷うことを分かっていて、わざとらしくそう呼んだ。また何か悪戯でもされるのだろうかと、半信半疑に返事をしていたが、彼の口からは想像していない言葉がでてきた。
「あの時おまえ、頑張ってたよ」
「できる、できないとかそんなんじゃなくて」
「俺はまえみたいな、ひたむきなやつを本社に連れていきたいよ」
お酒が入っていることを差し引いても、すごく嬉しい言葉だった。
「謙遜しなくていい、本当のことだから」
そう言って彼は笑うと、大きな手で私の頭を撫でた。お礼に私も、彼を尊敬していること、いなくなる寂しさ、応援していることを伝えた。寺坂は八重歯を見せながら、照れるな、と筋の通った鼻を右手で触っていた。
帰りは会社の駐車場まで同じタクシーに乗った。相当飲んでいたのだろう。車内ではぐったりと頭を垂れており、時折私の肩にその小さな頭を乗せてきた。不思議と、嫌ではなかった。タクシーを降りると、彼は会社から徒歩20分の私の家まで送ると言い出した。言いながら、足元があまりおぼついていないことが少しおかしかった。とりあえず自販機の横の縁石に座らせ、水を買って渡した。オフィス街は昼間の喧騒が嘘のように、しんと静まりかえっている。遠くでハイヒールのコツコツという音が聞こえてきた。彼の水を飲む音が、耳に響く。月は煌々と照っており、街灯とともに私たちを照らしていた。おもむろに彼が立ち上がろうとしたので、咄嗟に手を差し出すと、彼は私の手を握りそのまま歩き出した。右手を包み込む左手は、しっとりと汗ばんでいる。
なんで私の手を握っているんだろうとか、私の家知らないのにとか、いろんなことがぼうっと頭を流れた。しばらく歩いていると、彼は急に立ち止まった。
「やっぱダメだ、気持ち悪い。ここまでしか送れない」
そうだろうなと、私は思った。あれだけ飲んで、あんなにぐったりしていたのに、むしろ良くここまで歩けたなとも思った。彼は申し訳なさそうにこちらを見ていた。気にしないでくださいと伝え彼を見上げると、こんなにも近い距離で彼を見たことがないことに気づいた。しっかりとした眉、目尻の落ちてるタレ目、鼻、口。ふっと、彼の顔が近づき、唇に熱いものを感じた。
私の半開きの唇の間から、するりと彼の舌が滑り込む。それは私の舌を絡めとり、歯をなぞり、唾液を啜った。
甘い、舌だった。
大きな手が私の肩を抱き寄せる。右手は一層、汗ばんでいた。指と指は絡み合い、彼の大きな体の中に、私の体がすっぽりと入ってしまったのを感じた。喉の奥から声が出る。
どのくらいそうしていただろうか。1分にも、10分にも感じられた。やがて彼は私から体を話すと、こちらをじっと見たまま言った。
「気をつけて帰れよ」
また私の頭を一撫でして、踵を返していった。
翌朝、寺坂はいつもと何一つ変わらない表情でおはようを言ってきた。私も動揺を悟られないように、いつもと変わらない表情で返事をした。寺坂とそういうことをしたのは、その一回きりだった。彼だっていい年した大人であるし、何よりも既婚者で、子持ちだ。かなり酔っていたんだろう。きっとあの時は、いろんな感情がごちゃ混ぜになっていたんだ。私のことを特別に想っているなんてことはない。そう自分に言い聞かせながら、一方であの日のキスに真意があってほしいと願う自分がいることも感じていた。彼のことを尊敬しているのは事実だった。自分にはない勤勉さと誠実さを羨んでいた。私の中での彼は、信仰の対象だったのだ、あの日までは。キスされたことが嫌だったわけではない。むしろ、キスをしてほしかったのかもしれない。信仰が愛に変わっていくことを、私の本能は何処かで感じていたのではないか。
彼の勤務最終日。寺坂会と称し、最後の送別会が行われた。いつもより少し広めの居酒屋で、彼は顔を真っ赤に紅潮させ心底美味しそうに透明の液体を啜っていた。私は、あえて彼の隣に座らなかった。彼を試していたのかもしれない。彼が自ら私の隣に座り、あの日のように笑って話しかけてくれることを望んでいたのかもしれない。
だけど、彼は私の近くにすら来なかった。
ーーーああ、そういうことか。
酔った勢いだったのだ。真意なんてどこにもない、ただの火照った情熱だったのだ。私1人が舞い上がり、ときめいて、寺坂のことを見つめていただけなのだ。透明な液体は喉の奥を焼くように体内へと染み渡るが、心が満たされることはなかった。あのとき愛だと感じたものは、ただの一方的な盛り上がりで、彼は同じ気持ちじゃない。
なんてことはない、キスをしなかった日々に戻ればいい。
そう言い聞かせ、私は1人店をでた。きっと穏やかには、過ごせないから。
「この後どうしますか?」
「まだ寺坂さんと一緒にいたいです」
後ろから女子社員たちの甘ったるい声がする。
「じゃあ、みんなでカラオケにでもいく?」
彼の弾んだ声。店の扉を閉める直前、ちらりと店内に目をやると、彼はいつもの笑顔でみんなに笑いかけていた。
あの時みたいな月夜に照らされ、熱のこもったアスファルトの上を泳ぐ。家までは30分弱かかるだろう。左手であの日触れ合った唇を触る。
「あー。苦い」
ハイヒールの音がコツコツと響く。街灯は煌々と輝いて、私だけを照らしていた。あの時聞こえた水を飲む音はしない。こんなにも変わらない情景の中で、変わってしまった日々を思いながら、私は少しだけ泣いた。
Fin.
キス