睡眠というのはいつも向こうから勝手にやってくるものだ。こっちが望んで来てくれるような生易しいものではない。今日は一日疲れたな、昼寝もしてないし今晩はよく眠れるだろうなと床に就いても、やつがやってこなければ眠ることはできない。非常に自分勝手でやっかいなやろうである。そしてやつはいつも決まって姿を見せなかった。知らぬ間にこっそり枕元にやってきて去っていく。気づいたら、朝だ。ああ、また一日が始まるなと思う。やつはきっとかくれんぼが得意なのだ。生まれてからかくれんぼしかしたことないようなやろうに違いない。かわいそうなやつである。少し同情もする。
 やつには不思議なところがあった。やつはいっさい盗みを働かないのだ。ほとんど毎晩勝手に家に上がり込むくせに、金やら宝石やらといったものは一切盗んでいかない。やつは人々の意識だけをいつも盗んでいく。誰もその姿を目にした者はいない。とてもやり手なやろうだ。どんな仕掛けなのか知りたくもなる。一度、なんとかその姿を目撃しようと一晩中起きて待機していたことがある。もちろん部屋は暗くして、ベッドに入ってシーツまで被り、完全に寝ているふうを装って待ち構えた。しかしその晩、やつはとうとう姿を現さなかった。なんだか損した気分になって目を瞑った。そしたらやつがやってきた。もちろん気づいたのは朝になってからだった。やつはおそらく一日中どこからか何らかの方法によって人々を監視しているのだと思う。会社や電車内、取引先の待合室、食堂、家――たしかに注意深く周りに気を使えば、誰かの目によって見張られているというふうに感じないでもなかった。静かに獲物を狙う蛇のような不気味な気配。しかし、やつはあくまでプロのハンター。こっちは可愛いひよこで、ただ食われるだけの獲物でしかない。勝ち目はない。狙われて犯されていくだけだ。本当にかわいそうなのは私なのだろうか?
 あるとき、薬の研究を趣味としている友人が家にやってきて言った。
「ついに、やつを捕らえられる薬を発明した」
 状況が飲み込めなかったのでひとまず落ち着かせ、椅子に座らせた。
「この薬を飲むのだ」友人はポケットから小さな錠剤をひとつ取り出した。「厳密に言うと、捕らえられるかもしれない、という薬だが」
 その薬は見た目に対してひどく重かった。直径五ミリくらいだったが重さは三キロほどあるように思えた。
「これを飲むとどうなる」
「まず服用すると、身体の中でエンドメタシンという要素が覚醒し機能しはじめる」友人は説明を始めた。「これは意識を深層心理の部分へと直結するための橋のような役割を果たすのだが、そのとき同時にプノロンという……これは錠剤の中に入った成分なので本来人間の身体にはないものだが、これがそのエンドメタシンの作った橋の上を行ったり来たりして情報を運ぶ配達人のような仕事をしてくれる。するとそのとき陰性のペラニムがエンドメタシンの作った橋とプノロンの走った跡に少しずつ発生していき、やつの原因であるとも言えるトロノ・フラウスを少しずつ撃退していくことになる。わかるな?」
「ちょっと待ってくれ」と私は言った。「そういう説明は学会かどっかでやってくれ。もっと簡単に言って、これを飲むとどうなる。やつを捕えられるのか?」
「あくまで」と友人は話を遮られたことを快く思わないという顔で渋々言った。「かもしれないということだが」
「しかし望みはあるのだな?」
「うむ」
 ならば、ということで、そこにあった錠剤を一つ口に入れていっきに飲み込んでみた。これでついにやつの監視から免れるだけでなく、やつをひっ捕らえることさえできるかもしれないというのだ。やつも今、相当驚いているに違いない。なにせやつはかくれんぼと意識を盗み取っていくことしか生きる術を知らない可哀想な蛇なのだから。これでやつも生きる意味を失ったのだ。ざまあみろと思ったら笑いが込み上げてきた。
 友人は「やつを捕まえたら見せてくれ。そのとき一緒に学会で発表してやろう」と言うなり、すたこらと足早に帰っていってしまった。とにかくこれでやつの監視の目からは逃れられるのだ。そう思うと身体の底から何やらいままでに感じたことのないような気力がふつふつと湧きあがってくるのを感じた。私は空を飛ぶことを知ったような、人間、いや生物本来の持つ「本当の自由」をいま手にしたのだった。
 それからしばらくは、やつを見つけたらどうしてくれようということを毎日考えて過ごした。まず、やつを捕まえたら放り込んでおけるための大きな檻が必要だと思った。やつの大きさが分からなかったので、とりあえず六畳ほどの檻を一室に設置した。大は小を兼ねる。檻は格子のついた一般的なものではなく、どちらかと言えば広い物置きのようなものである。まったくの密室空間。天井と壁があり、扉はとびきり頑丈なやつだ。鍵のロックは四つも付いている。閉じ込めたら絶対に出られない。窓ひとつないのだ。外側からは中が見えるが、内側からは外がいっさい見えない特殊な壁で囲われている。とりあえずやつを捕らえたら、この檻にぶち込もう。外から監視しつつ、やつをどうするかはそれから考える。
 私の勤めている会社での仕事は順調に進んだ。なにせ眠る必要がないのだ。やつは私の意識をもう盗んでいけないらしい。仕事は他人の分までやってのけた。上司からは褒められ、少しずつ確実に業績も伸びていった。地位も上がり偉くなっていった。会社の景気もすこぶる良くなった。やつの目から逃れるだけで良いこと尽くしだった。やつの姿はなかなか見つからなかったが(むろん、探してはいる)、それでもまあよしとした。そもそも、やつはもう私を獲物として見ていないのかもしれなかった。完全にターゲットから外された可能性があった。するともう、やつを捕らえることは不可能のようにも思える。しかし檻はそれでも残しておいた。
 地位も上がり生活も豊かになると、多くの女がすり寄ってくるようになった。女はそういう匂いを嗅ぎ取るのが非常に上手い。金銭の匂いだ。別にそれでも構わなかった。実際、金は有り余っていたし、生活に不自由はなかった。ときどきバーに行っては暇そうな女を探し、持ち帰った。女はだいたい私についてきた。金銭の匂いというものは、とても強烈らしい(正直言って、私にはよくわからない)。ある時、一人の女と夜をともにし、その女というのがなかなか私の好みだったので、その夜は何度も繰り返し交わった。女の方も非常に気前が良く、私のさまざまな要求を嫌な顔せず全て行っていってくれた。その日、我々は合計七回交わった。もうすぐ夜明け前というときになって、女がいよいよ音を上げ出した。
「そろそろ疲れたわ。刺激的で最高だった。けど、もうくたくたよ。眠りましょう」
 私は薬の効果によって眠る必要などないので、このまま女との行為をもう少し続けたかった。
「あと一回」
 そう言って彼女の渇いた陰部を優しく撫でた。
「あなたはそう言ってから、もう五回目よ」
「君と俺はとても相性が良いみたいだ」
「それは分かるけど」
 なんとか説き伏せてもう一回だけ二人は交わった。それが終わると女は死んだように眠りに落ちていってしまった。
「また、やつの仕業か」
 やつは私のことは狙わなくなったが、女のことはきちんと狙っていたようだった。しかしいったい、いつやってきたのだ? やつが来たような気配はやはり感じられなかった。ここは借りたホテルの一室なので、見つけたとしても捕まえることはできなかったが、しかし、やはりやつは音もなく忍び寄り、消えていく煙のようである。私はそれからいつもと同じように女をひとり残し、ホテルを後にした。今晩、自宅でやつを待ってみるかと思った。最近はやつのことをあまり考えていなかった。今日はなんだか無性にやつを捕まえたくなった。そもそもやつのせいで女との性交もはばかれてしまったのだ。やつの罪は重い。
 家に帰って例の檻を見ながらやつを待ち続けたが、しかしやつはとうとう現れなかった。

 それからしばらく経ったある晩、いつものバーへ足を運ぶと以前の女がいた。
「やあ、元気かい」
「あら、あなた。元気よ。今日も良いスーツね」
「今晩どうかな」
「いいわよ」
 そう言って我々はまた以前と同じホテルへ向かった。部屋に入るなり二人は言葉もなくすぐベッドに倒れ込み、服を脱がせ合い、激しく身体をもつれ合わせた。
 四回目の行為が終わったとき、女が言った。
「今夜はもうおしまい」
 私はてっきり今回こそは眠らずに続けるつもりだったので、残念に思った。
「俺じゃ満足できないか」
「いいえ。そんなことないわ。あなたとは最高よ。けど今日はもう疲れちゃったの」
「俺はまたすぐ元気になるよ」
 そう言うと女はくすくす笑った。「そうね。けどわたしが元気じゃないの」
「そんなはずはないさ」
「だめよ。あっ」
 そう言って私はもう一回むりやりに始めようとした。女も最初は拒んでいたものの、しばらくするとその気になって、またも二人は情熱的に交わった。
 それが終わると女はいよいよぐったりして、言った。
「もう降参。寝かせてちょうだい」
「なに、眠るのか」
「ええ。眠たいわ」
 そこで私は思いついて言ってみた。
「俺の家に泊まらないか」
「あなたの家?」
「うん。広いし、ここよりベッドも大きい」
「用意がいいわね」
「そういうんじゃない」
 二人は笑い合った。
「ありがたいけど、次回にしておくわ」
「どうして」
「今日はもういますぐにでも眠りたい」
「そうか」
 なら女の目の前でやつを待ち伏せるしかないと思った。しかし気づくと、女はもうすでに眠っていた。やつはいったいいつの間に、そしてどこから来てどこから出ていったのか? ろくな音も立てずに来ては去っていける能力を持ち合わせているらしい。
 私は枕元に置いてある小さなメモ帳に住所と電話番号を書き、私の名前を最後に残して静かにその場をあとにした。やつに関する手掛かりはいまのところひとつもなかった。

 数日後、誰かがインターホンを押し、家にやってきたことを知らせた。
「久しぶりだな」
 やってきたのは例の薬の研究を趣味としている友人だった。彼は以前会ったときよりもいくらか年老いているように見えた。
「どうした」と私は訊いた。
「あの薬は効いているか?」
「もちろん」
「なら、そろそろやつも捕まえられたのでは?」
「それがなかなか姿を見せないんだ」
「かくれんぼ上手なやつ」
「檻まで買ったんだがな」
 そう言って私は友人を檻のある一室へ案内した。檻はあまりにも大きいので、その一室はまるごと檻のために使っているくらいだった。
「これは。立派なものを買ったな」
「あるいはこれのせいで、やつも寄りつかないのかもしれない」
「ありえる」
「中から外は見えない仕組みになっているんだぜ」
 私は厳重に閉められた四つのロックを外して、扉を開いて中を見せてあげた。
「なるほど。たしかに中だと外がまるで見えない。真っ暗だ」
 友人がひとりで檻に入ったところで、私はその扉を勢いよく閉めて急ぎで四つの鍵をかけた。最初、友人はきょとんとしていて状況を把握できないでいた。外にいる者からは内にいる者が見えるのに対して、内にいる者には外がいっさい見えない特殊な壁だ。おそらく友人にとっては突然真っ暗になって、おおかた停電でも起きたのかと混乱していることだろう。しばらくしてから、閉じ込められたという状況をやっと理解した友人が壁をドンドンと拳で叩きはじめた。「あ・け・て・く・れ」という大きな口の動きが見てとれた。私はしばらくそんな友人を眺めていたが、そのうちに飽きてしまい、部屋の電気を消して檻のある一室をあとにした。
 これで、やつを捕えられるかもしれないと思った。友人を狙ってやつが忍び寄るはずだ。あの檻の壁は頑丈だし、なんなら鍵は四つもついている。あの檻に近づいていって、友人から意識を盗んでいく瞬間がきっとあるに違いない。そこを狙ってやつを捕えよう。捕まえたらすぐ檻にぶち込んで、それからどうするかは、そのあと考えよう。ひとまずあの友人を狙ってくるはずのやつを何としてでもひっ捕らえてやる。
 それから家にいるあいだは極力その檻のある部屋へ行き、檻――ないしは友人――を監視することにした。

 一日目
 友人は相変わらず壁や床、天井を拳で強く叩き続ける。正直言って監視どころではない。叩くその音がうるさくてかなわない。叩いては休み、休んでは叩きつづけた。根性のある奴だなと思った。数時間経つと、叩き続けたその拳から真っ赤な血が流れ始めた。血が出るまでよく頑張ったと思う。友人には悪いと思うが、今しがた辛抱してもらいたい。
 夜になると叩くことを止め、静かになった。禅を組む優秀な僧侶のように座りこんで何かを考えているようだった。ときどき、寝たか? と思うことがあったが、友人はなかなか眠らなかった。やつはまだ現れていない。絶対に見逃しはしない。

 二日目
 けっきょく昨晩、やつはやってこなかったようだ。なんとも用心深いやろうだ。私が監視しているために、それを知っていて見つかるまいとやってこないのかと思われた。なので私は最新のビデオ・カメラを買ってきて、それを檻の前に設置してリビングから監視できるようにした。そのビデオ・カメラもこっそり設置したし、一見、ぱっと見ただけでは置いてあるようには思えない工夫も凝らした。これなら大丈夫だろう。
 友人はときどき寝そべって、芋虫のように身体をくねらせたりした。これが非常に気持ち悪い格好だった。たまに突然立ち上がっては、辺りをぐるぐると歩きまわって、壁に頭を打ち付けたり、寝転がって足をばたつかせたり、喉元を掻き毟って、髪の毛を強く引っこ抜いたりしていた。昨日までの優秀な僧侶の禅はどうしたのだと私は笑った。もちろん彼にはその笑い声も届かない。
 そのうちに友人は、檻の隅の方で排泄をした。嫌なものを見てしまった。排便ではなく排尿だった。しかしどちらも似たようなものだ。彼はそれから、その隅から反対の一番遠い隅っこへ這い寄ってうずくまってしまった。
 けっきょく、その日もやつはやって来なかった。

 三日目
 いよいよ友人の生命に関する問題が浮上してきたので、檻の端の方にパンやら何やら小さな食べ物が通るくらいの穴をひとつ開けてやって、そこから食料を与えるようにした。最初、友人は送られてきたそれらが何なのか把握できずにいたが(もちろん、穴が開くまでは友人にとって暗闇の世界だったのだから)、それが食べ物だと知るや否、ものすごい勢いでパンをほおばりだした。水も一緒にペットボトルに入れて送ってやった。排泄に関しても可哀そうだと思ったので、小さく畳める桶のようなものを通して送ってやった。友人ははじめ、それを手にとって開き、穴から差し込む僅かな光を頼りにそれを探り、この桶がいったい何のためのものなのか考え、最後はそこに身体をうずめて小さくなっていってしまった。ある意味で寝床のようなものと勘違いしたのかもしれなかった。けれど何をどう使うかなんていうのは人の勝手であり、私は特に気にしなかった。
 昼過ぎに初めての排便をした。そのときも桶は使わず、檻の隅の方で済ました。便と尿が入り混じって奇妙な物体となったそれが檻の中で異様な存在感を示していた。友人はそこから遠く離れて、ときどき思い出したように壁を叩き、何を思ったか、たまに逆立ちなどをしたりして檻の中でしばらく過ごした。ときどき開けた穴へ何かを求めるように指を突き出し、むなしく空をまさぐっていた。
 彼にとって時間の概念がまだ残っているものか分からないところだが、とにかく、今日もやつは一度も現れずに終わった。やつはもう友人を獲物として見ることをやめたのだろうか。わからない。気まぐれに食料を与えて、もう一日だけ見てみようと思った。

 四日目
 友人はいよいよ大声で叫び出した。叫び出してから、なぜいままでこれをやらなかったのだと自分で気づいたようで、いっそう声を枯らして大きく叫び続けた。外にいる身としては壁を拳で打ち付ける音の方がうるさいと感じたので、これは特に問題とならなかった。声はそんなに漏れないようだった。それに、そのうち叫ぶ体力も失せていまに終わるだろうと思われた。少しの辛抱でこれは解決する。
 昼を過ぎたあたりで、友人の様子が変わった。というより、物凄く大人しくなった。叫んだり、壁を叩いたり、髪を毟ったりする気力がいっさいゼロになってしまったのだろう。いよいよこれはやつを捕える以前の問題で、友人の命が危ないのかもしれない。友人に死なれたら、やつも見つけられず仕舞いで、いいところひとつも残らない。食料をもっと豪華にして、なんとかもう数日頑張ってもらわねばなるまい。他になにか良いアイデアが湧けばいいのだが。
 夜になると友人は死んだように寝転がって、四時間ずっとぴくりとも動かなくなってしまった。寝たか? あるいは死んでしまったか。しかし、監視し続けていたにも関わらずやつの姿は確認できなかった。ならば、息絶えたと考える方が妥当と思われた。最新のビデオ・カメラがいくら高解像度でも、実際に見るよりはいくらか見劣りする。実際に見に行って、生きているかどうか確かめに行った。間近で友人を見ると、なんとか呼吸はしているようだった。死んだふりか? 壁を外側から思いきり蹴ってみた。するとその音に反応して友人はすぐに起き上った。疲れて寝転んでいただけのようだ。なので、それからまたリビングへ戻り、ビデオ・カメラ越しに監視を続けた。

 五日目
 めずらしく家を訪ねる者がいた。いつかのバーで会った女だった。女は突然やってきた。私の残したメモを読んで訪ねてきたのだろう。動かない友人を見ていることに飽きていたころで丁度良いタイミングだった。女はうまい昼食を私に振舞ってくれた。女は料理が上手かった。それをこっそり残して、檻の中の友人にも分けて送ってやった。友人がそれを有り難く頬張っている最中に、私と女はベッドに入って交わった。友人が食事をしているあいだくらい、やつが来ることはないだろうと思った。しかしそれでもやつのことが気になって、行為になかなか集中できなかった。三回目が終わったときに私の方から断って、今日はやめにした。女は物足りなさそうな顔をして、何度も身体をくねらせはしつこくすり寄ってきた。あなたの要望にはいつも応えていたでしょう、と女は言った。今日は一日中していてもいいのよ、本当に一日中(女は言葉を区切って言った)、と彼女は耳元で囁いた。ならば面白いことがある、と私は言って、女を檻の部屋へ案内してやった。女が檻を見て不思議がっているときに、素早く四つの鍵を開けて扉を開き、女をその中へ思い切りぶち込んでやった。それから扉を閉めて、再度、四つの鍵を手早く厳重にかけた。二度目なので前回よりももっと手際よく行えた。二人も獲物がいれば、やつもいよいよ姿を見せるだろうと私は思ったのだった。
 ベッドに散らかっていた服を着て、リビングから檻の中の二人をしばらく眺めた。友人は起き上って、初めて檻の中にやってきた他の人間をまじまじと眺めていた。穴を開けてやったときと同じような顔をしていた。女は何をされたか把握できずに、その場にしばらく立ちすくんで、ボケっとしていた。もしくは、暗闇に目が慣れずにいるのかもしれなかった。状況が飲み込めないらしい。これまた、あのときの友人そっくりだった。そのうち壁を拳で叩きつけだして、血を流し始めるに違いない。
 ところが話は思うように運ばなかった。友人が突然、女に飛びかかったのだった。女は私と行為を終えたあとで丸裸だったし、よく考えてみれば友人は男で、そうなるのも無理はなかった。おまけに友人としては食事以外に快楽のいっさいない生活を五日間続けていたのだ。そこに突然、目の前に裸の女が現れればどうなることかと想像するのは容易い。女はわけがわからずとも、とりあえず大声で叫びつつ友人の手を払い、長らくわめき散らしては、その友人の身体から必死に逃れようとした。それは得体の知れない恐怖からくる絶叫のようだった。自分が強姦されることを恐れているのではなかった。暗闇の状況に突然動くものがあれば、誰でも驚き叫ぶだろう。それでも友人はひるむことなく、力づくで女を押さえつけ、乳房を揉み、吸い上げ、接吻を交わし、陰部を濡らし、むりやりに挿入した。他人の――しかも知り合いの――性行為を見るのは初めての経験だった。なかなか面白い画だった。そもそも人間は暗闇の中でも見事に性交できるものらしい。友人はそのまま女の膣内に射精したようだった。非常に早く終わったので少しつまらなかった。女はうずくまって泣き、友人はそそくさと女から離れ、目をつぶってしまった。女の泣き声はそれから三時間も続いた。
 夕方が終わり夜になって、二人分の食料を送り、自分も食事をとりながら人が増えた檻の中を監視し続けた。女は送った食料をいっさい口にせず、ずっと座って塞ぎこんでいた。というより食料というものを認識していないようだった。女は友人が少し動くたびにびくっと身体を震わせ、恐る恐る友人の方を見るのだった。友人はそれから気違いみたいに頭を掻き毟って、指の先を真っ赤な血で濡らした。それからもう一度女を犯した。
 檻の中では奇妙な時間が流れつづけた。明け方になってもやつは現れなった。

 六日目
 友人の排泄物が檻の部屋の五分の一くらいを占めてきた。あまり見ていて快いものではなかった。友人は排泄時以外には極力身体を動かさないように努めているようだった。無言で、いつかの禅を組む優秀な僧侶の心が戻ったのかもしれなかった。結構、結構。うるさいよりは静かな方がこっちとしても助かる。友人はなんとなく檻での生活にも慣れてきたように感じられた。
 女の方にも変化が見られた。彼女はずっと体育座りで身体を縮めたまま終始動かずにいた。パッと見て寝ているようにも思えたので、一度、直接檻の部屋へ行き確認しに行った。すると女は身体を小刻みに震わせて、歯をガチガチ鳴らしているではないか。これはいったいどうしたものか。私は外から檻を思いっきり蹴りつけてみた。すると女と友人はいっせいに音のした方へ顔をあげ、こっちを見てくる。女のいる近くを蹴りつけたので、女はおそるおそる音のした方へ近づき、壁に手を当て、すがるような目つきで何かを話しはじめた。しばらくすると、壁を拳でドンドンと叩きつけだした。「あなた・そこに・いるの・だして」と口は言っているようだった。壁を叩きつけるたびに、その女の形のいい柔らかな乳房が大きく揺れた。私にはそれが小学五年生のときに理科の実験で見た振り子のバランスボールを思い出させた。二対の大きなボールはしばらくのあいだ規則正しい運動を繰り返した。振り子の原理はわからないがこれはよくできたものだ。そんな姿を友人は後ろからしげしげと見つめていた。そして獲物を捕える蛇となり一歩ずつ静かに女へ忍び寄っていった。女は壁を叩き、その大きな乳房を揺らすことに夢中で、友人のことなど全く気づいていないようだった。友人は這うように女に近づいていき、その距離を少しずつ縮めていった。女にあと一歩で届くというときになって、いよいよ女がその気配に気づきのけ反った。友人は逃がすまいと素早く手をのばし、女の足首をつかんだ。女はもう片方の足で友人の顔や手、肩を思い切り蹴りつけたが、友人はひるむことなく、綱を手繰り寄せるようにして、女のふくらはぎから太もも、股へと確実に手を伸ばしていった。女は大きな声でわめき散らした。友人は女の腰に手を当て、馬乗りになってその身体を弄んだ。そうして女はまたも犯された。
 これは良い、と思った。やつが来る可能性が高まったのではないか、と私は感じた。友人はいままで檻の中にひとりで閉じ込められ、精神的にも全く落ち着かなかった。しかしいまはどうだ。食料はあるし、その気になれば性的欲求も満たせられる環境にある。友人は女を奴隷のように扱い、彼女より優位な立場につき、檻の中の王様となった。ひとりでいたときよりも精神的な安定は大きくなったはずだ。心が落ち着いたとき、やつはきっと獲物を捕えに来るはずだ。女の方は逆に不憫かもしれない。しかし我慢してほしいと思う。やつを捕えさえすればいいのだ。やつを捕えさえすれば。
 そのうち女はまた以前のように泣き疲れたあと、小さくうずくまって身体をガタガタ震わせた。これは、いったいなんの症状なのだろう。男に対する恐怖心から来るものなのか、もしくはやつに狙われていることを知っていて、それに怯えているのだろうか? ならばこれはチャンスだ。もうしばらく放っておいて様子を見ておこう。
 すると女はあっけなくその場で放尿したのだった。尿意を我慢していたということか。尻のあたりに水っぽいものが輪を広げて溜っていった。友人の排泄場所で一緒に済ませばいいものを、どうしていま座りながらその場所でするのだろうか? それから女はひとしきり泣いた。友人はそれを横目にちらっと確認して、また優秀な僧侶となり禅を組んだ。
 けっきょく、今日もやつはやってこない。

 七日目
 友人を檻にぶち込んでから、もうすぐ一週間になる。昨日は静かな夜だった。それもそのはず、友人はついに死んでしまった。禅を組んだまま動かないので、檻の部屋に行って友人の近くを足で蹴ってみたが一向に動く気配がない。よく見ると呼吸をしていなかった。身体がまったく動いていない。静かにうつむいたまま銅像みたいに固くなってしまっていたのだ。これは、もう、使い物にならないごみでしかない。しかし処理するのも面倒だったのでしばらくはそこにオブジェとして置いておくことにした。女の方も確認すると、こっちはまだ生きているようで蹴れば反応を示す。良好、良好。やつもいい加減現れるだろうと思って、今日を山場に監視を続けることにした。
 しかしここで問題が浮上してきた。女が頑として食料をいっさい口にしようとしないのである。これでは彼女が餓死してしまう。やつをどうのという話ではない。望みだった友人に死なれたいま、彼女を亡くすことだけは最も避けるべき路線であって、すなわち彼女の生命に関する問題を第一として考えなくてはならなくなった。どうする。一度、外へ出してやるか。しかし一度出せば、もう二度と入りたがらないだろう。なんとかこのまま檻に入れつつ、やつをおびき出し捕まえなくてはならない。女にはもう少し頑張ってもらう必要があるのだ。
 それから二時間後に女は二度目の排尿をし、友人がもう動かないことを知り、パラパラ漫画のコマ送りみたいに少しずつ横になっていった。いよいよ、やつが来るかと思われて生唾を飲み込んだ。しかしなかなか現れない。女は寝たか、どうか? いつかの友人のように、ただ横になっただけの可能性もあり得た。ビデオ・カメラからでは呼吸までしているかどうかは判別できない。休息か睡眠か、あるいは死か?
 一時間経つと、女は思い出したようにむくっと身体を持ち上げた。寝ていた者があのようにして突然起き上ることが可能だろうか。いや、あれはもともと目覚めていた者が、なにか事を思い出して起き上るときの身体の動かし方だ。きっと女は寝ていなかった。やつの姿も見てとれなかったのが何よりの証拠だ。女はただ少し休憩していただけだったのだ。少し残念に思って、起き上った女をぼうっと眺めていると、彼女はふらふらと立ちあがって、男の近くにあったペットボトルを手に取った。そしてその中に入っていた水を飲みほして、その場に勢いよく倒れ込んでしまった。まるで積み上げたトランプ・タワーが風によってふっと崩されたかのような倒れっぷりだった。彼女も死ぬのだろうか? 食料なら檻の穴の方にまだ溜っている。腐っているはずもない。食べられるはずだ。なぜ食べない。女は自ら餓死することを選んだのか。私は檻のある一室へ行って確かめてみることにした。
 例によって女のいる方へ近づき、外から檻を蹴りつけてみた。友人同様、女はぴくりともしなかった。死んだか? 女の呼吸はもともと浅いので、檻の外からではうまく判別できなかった。
 そのときふっと、視界の隅で何かが素早く動くのを見た。そいつはとても早い動きだった。最初、ネズミか何かかと思ったが、どうやらそうではない。やつだ。
 ついにやつが姿を現したのだった。いよいよ来たか、と思った。私は素早く檻の四つのロックを外し、やつをいつでも檻へぶち込める準備を整えた。それからもう一度、視界の隅でやつの姿をちらと捕えた。ちょっと気を許しているとすぐに見失った。なんというやろうだ。これがプロのハンターの力量というものか。私はやつが扉から離れた位置にいることを確認した瞬間に、するりと檻の中へ忍び込んだ。檻の中は尿やら便、死体の臭いや食べカスの臭いがひどく充満していて、一瞬鼻がもげそうになった。それでも何とか意識を保ち、檻の中でやつを待つことにした。僅かに扉を開け、中からやつの姿を確認する。やつは女か私を狙って檻の中へ入ってくるはずだ。獲物はひとりでも多い方が良い。そら、きた。いいぞ、いいぞ。やつが檻に入ってきた。私は檻の扉をいったん閉めた。自らの手によってここでやつを捕えるのもいいかもしれない。待ちに待ったのだ。怒りに似た感情が込みあげてくる。
 やつの動きは相当速かったので、とにかく檻の中を行ったり来たりしながら、やつを追い回した。途中で何度も友人の身体を踏みつけたり、排泄物の沼に足をつっ込んだりした。それでもとにかくやつを追うことはやめなかった。やつは本当にすばしこいやろうだった。檻の中は食料を通すための小さな穴以外、光というものがまるでなくほとんどが見えなかった。しかしそれでもやつを追った。追いつづけた。私には暗闇だろうとなんだろうと、やつの姿がくっきり見えるのだ。逃がすものか。
 息を切らして少し休憩していると、いつのまにかやつの姿が檻から失せていることに気づいた。これはどうしたものか。檻の外へ出ていったか? いや、扉は閉まったままだ。ましてや扉の開く音すらまったくなかった。やつは友人の死体か何かの陰に身を隠したに違いない。やつも追い込まれているのだ。
 すると視界の隅で何やらうごめくものを見た。女だ。檻の中でどたばたしているあいだに目を覚ましたらしかった。
「あなた……」
 女がか細い声でそう言った。
「やつを探せ」
 私は怒鳴りながら、女に近づいていった。女は放心状態といったふうで、返事をしなかった。こいつが目覚めたということは、やつはもう仕事をとうに終えていたということか? その考えはじゅうぶんにあり得た。やつはもういない? 逃がしてしまったのか。そう思うと、なんだか無性に女の顔が腹立たしく思えてきた。なので、私はいつも檻を蹴るのと同じように女の顔面を右足で蹴りつけてやった。すると女は小さなうめき声とともに後ろへ倒れ込み、友人の死体と重なってぐにゃぐにゃに溶けたロウ人形みたいになっていってしまった。
 それからやつの姿はもう確認できなかった。私は今日もこの檻の中でやつが来るのを待ち伏せている。(了)

短編小説。 我々が眠るためには「やつ」が来なければならない――。人びとから意識だけを盗み取っていく「やつ」が……。 その「やつ」を捕えようと試みた小説。

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更新日
登録日
2014-10-30

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