BÕNET ボネ
スイートポテト
秋と冬の境目の日、
あたたかな陽がさしこむ窓際で、猫が寝ている。
少し肌寒いけれど、雲一つないよく晴れたこんな日には、ガラスでできたグラスを丁寧に洗いたくなる。水に濡らしながら、麻美はこのグラスとの出会いを思い出す。
食器を揃えている時に立ち寄ったショッピングモールで、洋ナシのようにコロンとした形が可愛いと思わず手に取った。力をいれると割れてしまうような薄い厚みで、最初は自分のために一つだけ買って帰った。家に帰り、水を注ぎ飲んだ瞬間、驚いた。唇に当たった瞬間の、まるでグラスを使わず飲み物を飲んでいるような、初めての感覚に感動したのだった。
使っていくうちに、手に触れた時の感覚を愛すようになった。暑い時は冷たい氷の感覚が伝わり、寒いときには常温の温度が優しく感じる…そんな当たり前の事を普通に感じられるグラスを、この店に来てくれる人にもと、奮発しそろえたのだった。
キッチンクロスを手に取り、丁寧に水滴をふき取とっていく。洗いざらしの、くたくたになったリネンのクロス。パリッとしたものも気持ちが良いが、使い込まれたこの柔らかさは、何とも言えない安心感がある。手に触れるたびに自分のものになっていくような、そんな安心感。
きらり と、光に透かして、清潔で綺麗になったものたちを背面の棚にひとつひとつ並べ、いつもありがとう、とお客さんたちを潤すこのグラスたちに感謝の言葉をかける。その甲斐あってか、これらは一度も割れていない。
「ムギさん、
コーヒーをひとつ。」
お客さんの声がした。
はい、とその男性を見つめ、ムギこと麦川麻美は、瓶から豆をすくう。
「今日は、お早いんですね。」
時間は2時半、いつもは3時ぴったりに来るこの男性に、豆を挽きながら会話を投げかける。
ミルの引き出しを開けると、挽きたての香りがふわっと届いた。この時の香りが、一番の良い香りだと麻美は思う。
「今日は、うまくいきすぎて、逆にお客さんに上手に逃げられてしまってさ。早く終わりすぎたんだ。」と男は苦笑いをした。
この店はBÕNET―ボネという。ボネとは、イタリアのココアプリンの事だ。麻美の好きなお菓子で、看板メニューにと店名にした。日用雑貨店。喫茶スペースもついた小さなお店。喫茶はカウンターだけで四名しか座れないが、一人でやる分と、お客さんが一息つくには丁度いいかと思っている。去年、普通に憧れる私と、そんな人のために、シンプルで美しく、でもどこか”普通”の物が集まった箱を作りたくて、会社を辞め、オープンさせた。店の形は真四角にした。淡いグレーの壁。ドアはスモークがかったブルー。少し曇った空の色。小さな窓が3つあって、中がのぞけるようにした。ドアの横には、雑貨 BÕNET とだけ、白色でロゴを書いた。中心地からは2つ先の駅の近くある商店街の中。人通りはそこそこだけど、落ち着いた雰囲気が気に入った。
麻美は はにかんで「それは残念です。」とだけ声をかけておいた。
窓から、鳥の声が聞こえた。ピューイ、ピューイ、チュンチュン。その声に寝ているはずの猫の耳がぴくぴく動く。
「ムギさん、今日のおやつは?」と小さな子供のようにそわそわと男が聞いた。
お湯を注ぎながら
「今日は、蜂蜜がけの、スイートポテトです。まだ秋ですからね。栗もいいですけど…お芋さんで。まだ準備中ですけど…召し上がられますか?」
と器用に聞いた。細く細くお湯を注ぎながら話すのは少し難しい。
ここでは3時にだけ、ビスケットやマフィンなど、ドリンクを頼めば、プラス100円で食べられる簡単な”おやつ”を出している。メニューには書かず、常連さんだけに提供しているものだ。さつまいもは、斜め向かいの百田という八百屋さんが沢山くれたから、ちゃんと利益は出せている。と思う。
うなずくので、麻美は抽出したコーヒーをカップに入れ、角砂糖と一緒にカウンターにおいた。
「どうして、…上はわかってくれないんだろうなぁ。」
男性がコーヒーを口にすると、文句をぼそりと吐く。
「嫌な事でもあったんですか?」麻美は、仕込んでおいた さつま芋をマッシャーでつぶしながら問いかける。
「…僕らは、今のままが良いんです。今のまま、足していけばいいと思うんです。でも上がね、あそこを真似しろだの、一から作り直そうだの言うんです。そういうのって結局ブレるんですよ。僕ら営業は我慢できていいですけど、デザイナーの子が可哀そうで…」
この男性は、蠟引きの紙や和紙など色々な紙を使った雑貨を作るメーカーの営業さんで、うちでは薄い茶色のクラフト紙の紙袋や、包装用品だけ仕入れている。カタログを開くと女の子が好きそうな可愛いラインナップで心が揺れるが、テイストが違うので見る度に我慢をしている。ちなみにこの営業は堤さんと言い、その社内デザイナーの女性に恋をしているらしい。
「美和ちゃんは悪くないのに…!」
と堤さんが少し声を上げる。美和ちゃんっていうのか、と麻美はくすりと笑う。
バターとお砂糖、一つまみ塩をかけて、ミルクで伸ばしていく。こんな風に、かっこつけず、自然体でいてくれる人が、理想のお客さんだと麻美は思う。
アーモンド形に整えて、ツヤ出しの卵をひと塗りし、トースターに入れる。
「ちょっと待ってくださいね。予定通り3時には、できあがると思いますよ。」と麻美は堤さんに微笑んだ。
「堤さん、そういう時は独立です。独立。二人で駆け落ちしちゃえばいいんです。」
と麻美は冗談を言った。
堤さんは、一瞬そうか!という顔をしたが「駆け落ちって!」と冗談でしょ!と言いながら嬉しそうに反応を返した。
「堤さんのところって、社長、2代目でしょ。にこにこしとくんです。そうしながら意見を言うんです。そういう人って熱くなって反抗すると逆効果ですよ。プライドが高いけど、普通に言われたことは地味に気にしますから。」
堤さんはまた、そうか!という顔をした。麻美は、しまったな、もっと普通に相槌をすればよかった、と思った。
そうこうしているうちに、チンッとトースターから音が鳴る。後ろを振り向くと、美味しそうな焼き色を付けたスイートポテトが出来上がっていた。
小さいものを二つお皿にとりわけ、蜂蜜を少しだけ塗ってから、カウンターに置く。
「大切な事は、焦らない事ですよ、堤さん。」
ほくほくと美味しそうにスイートポテトを頬張る姿は、やはり子供のようだ。そんな彼は、二つのスイートポテトを口にし、残りのコーヒーをごくっと飲みほす。そしてパッと時計に目をやり、手をあげごちそう様と言い、立ち上がる。テーブルにはお会計丁度のお金が置いてある。
曇り空のようなスモーキーブルーのドアが開き、バタン、と音を立てて閉まる。
外からの冷たい風に、猫がくるまった。
まだ3時なのに、もう空は、ほんの少しだけオレンジがかっている。もう冬が近づいていることを感じた。
「…大切なのは、焦らない事。」
麻美は胸に手をやり、彼に言った言葉をもう一度呟いて目を瞑った。
BÕNET ボネ
10/31雑貨mugi→から雑貨BÕNETに変更しました。喫茶ムギというお店が存在していた(@@;)