光が差し込まない時間
明日死んでもいいように
痛みとは苦しみだ。苦しみは悲しみだ。悲しみはではなんだろう。慣れとは恐ろしいもので内臓を引っ掻き回されているのにもかかわらずくだらないことを考えてしまう。確かに腹を裂かれるのは痛い。いや、痛いなんてものじゃない。男性ならばわかるだろうが金的をつぶられる痛みを継続的に与え続けている状態以上だ。さらにこの痛みから逃れるすべはない。このような形で生を実感させられるとは思っていなかった。
大学をやめたのは煩わしさからだった。人間関係、卒論、就職活動などなど。もともと、何か目的があったわけではなく、四年間の余暇が欲しくて入学した。退学し、短期のアルバイトで食いつなぐ生活。人とは極力かかわらない。鎖国と呼んだその生活は悪くなかった。そのうちに死ぬことを考え出した。
別に何かに絶望したわけではない。高校、大学と学生生活やアルバイトなどで悟ったのだ。俺は生きることに向いていないと。最初にそう感じたのは高校の教室に居る時だった。とにかく気が休まらない。周りの視線で緊張し、生きた心地がしない。集団行動ができない。不特定多数の人が怖い。笑い声で背中に汗が滲む。そんな三年間だった。
自分自身を変えたくて、大学生活は努力した。人と関わり、外見を磨き、部活にも入った。やりたいことに挑戦し、恋愛にも興じた。しかし、ダメだった。人の本質は簡単には変わらない。頑張れば頑張った分だけ反動で部屋から出られなくなる。一人になりたくて仕方がなくなってしまう。ネットで「人と関わらない仕事」と検索してみたりした。
だから、絶望というよりは諦めに近い。幸い、やりたいことはあらかた済ませた。親には申し訳ないという気持ちはあったが死んでしまった後のとこは俺には関係ないと思い込み、あとは死に方を決めることそれだけ。
練炭、薬物、首つりと考えていきついたのが飛び込み自殺だった。ある程度の高さから飛び降りると意識を失い、そのままあの逝きになる。なにより、自分が高所恐怖症なのを思い出し最後の挑戦にすると決めた。そして、桟橋から飛び降りのが三日ほどたったと
光が差し込まない時間