ドラキュラZEROから発生した文書
ドラキュラZEROはあくまで話の出発点であり、本文の内容とはほとんど関係ありません。そのことだけ、はじめに申し上げておきます。そして、まとまりが悪い文章ですご注意ください。
テレビCMでドラキュラZEROという映画を知りました。CMから判断するにドラキュラのモデルになったとされるワラキア公ヴラド3世がオスマン帝国と戦った時の話なのでしょう。つまり、キリスト教対イスラム教の戦いです。
イスラム国の台頭著しい時期にこの映画なのかと思いました。イスラム国の目標の一つに領土の回復があることを考えるとまさにホットな映画だと言えるでしょう。
そして、キャッチコピーは「その男、悪にして英雄。愛する者のため、悪にこの身を捧げよう――」だそうです。
漂う戦争を必要悪と肯定する気配に気分が悪くなりました。表にはでなくても、空爆やらの根拠として心の片隅に居座るではないかと少し心配です。
空爆の話がでたので、空爆やらについて少し書きます。
テロとの戦いと良く聞きますが、空爆を見ているとテロ対テロの戦いにしか見えません。誤爆をしないように細心の注意を払っていると言ったところで、誤爆はあります。住民にとってこれをテロと呼ばず、何と呼ぶのでしょう。
そして、さらに思います。なんとも農業大国らしい……と。
テロリストを刈り取りながら、テロリストの種を蒔いている姿は見事と言うよりありません。焼畑農法のように根絶やしにするのでない限り、終わることのない営みです。
日本もテロとの戦いだの集団的自衛権だの積極的平和主義(平和学的には誤用)だのと楽しそうです。日本が農業再生政策の一環としてテロリスト農業を積極的に導入するのもそう遠い日ではないかもしれません。
さて、次に少しカテゴリーを広げて戦争について書いてみようと思います。
戦争というのは外交だそうです。外交とは他国との交流。個人レベルで考えれば、戦争とは喧嘩ですね。
個人レベルで喧嘩は普通、成長と共に減っていきます。それは、自分の否を認められるようになること、我欲を抑え協調できるようになるからです。また、物理的な暴力から言葉に代わっていきます(言葉の暴力が正しいという意味ではない)。それは、実際に両者に与える被害を想像できるようになるからでしょう(最近は言葉でもえらいことになる)。
ここで翻って国レベルに話を移しましょう。世界は進歩しているそうです。つまり大人になっていっているらしい。日本では少なくとも戦争が日常茶飯事なことではなく異常事態だという認識がある。これは進歩と言えるでしょう(もっとも、その進歩を捨てたがっているようですが)。しかし、進歩しているとされる大国に戦争漬けの国が多いのは何故でしょう。
図体ばかり大きくて中身が伴わないような印象を受けてしまいます。文化的・技術的進歩というのは身体であって心ではないのかもしれません。
文化も技術も進歩しており、いくらでも争いを回避する手段を持っているのに実行しないのは何故なのでしょう。個々人では道徳的にふるまえる人は多くいるはずです。それが、集団になると我利我利になってしまうのは何故なのでしょう。
分かりません。
最後に私が感心した戦争において行なわれた演説を「ブータンを知る文化講座 仏教王と戦争 ――ブータン第四代国王による2003年アッサム・ゲリラ国外追撃作戦――(http://www.aa.tufs.ac.jp/documents/sympo_ws/BhutanLecture_20121017report_ja.pdf)」の資料から二つ引用します。
一つ目は、出兵前の演説で一人の高僧が行なったものです。
『あなた方は兵士といえども、慈悲心を持たねばならず、敵も、他の人間と同じように扱わねばならない。
あなた方は、あるいは夫であり,子供であり、親であり、兄弟であり、友だちである。
ゲリラ兵たちも全員、誰かと何らかの関係にあることに変わりない。
そして何よりも、仏教徒としては、殺生が許されると思ってはならない』
二つ目は、二日間の戦闘に勝利した後で国王が行なったものです。
『戦闘が終わったからといって、喜ぶ理由は何もない。軍事的規準からして、勝利は速やかで、戦果は優れたものであった。しかし、戦争行為において誉れとできるものは何一つない。いつの時代にあっても、国家にとって最善なのは、係争を平和裡に解決することである。
ブータンは、いかなる状況に置いても、
軍の戦力を頼ることがあってはならない。
世界の二大大国に挟まれた小国という地理的状況からして、軍事力でもって主権を守ると
いうような考えは決して許されない。ブータンにとっての最善にして唯一可能な国防は、
近隣諸国との友好・信頼関係である』
この戦争の後に戦勝パレードや式典は行なわれなかったそうです。
今後、自衛隊が戦争に参加する可能性はあります。もしその時が来たら私は、決して自衛隊員を誉めることはないでしょう。かと言って罵倒することもなく、ただただ、敵対した人々と自衛隊員、犠牲になった全ての人に詫びるだけです。
私は仮にも民主主義の国で一票を持っているのですから。一票分とは言え責任があるのです。
ドラキュラZEROから発生した文書
たぶん映画は見ませんよ。割とこのドラキュラ系の話もヴラド関係の話もそれなりに読んだり見たりしてるので、敢て見ようと思いません。
(注意)この文章これはネガティブ・キャンペーンではありません。きっと映画は楽しいものに仕上がっていることでしょう。興味がある人は是非、劇場へ足を運んでください。