practice(148)



 日差しとともに上がってきた室温に順応した私の手の平が,汗ばんだ状態を凍らせる。大げさな言い方でもない。テキパキとした妻が準備したまな板と小型ナイフは,冷蔵庫とは別の野菜室から取り出された数々の野菜と置かれている。レタスかキャベツか,が半分この形で大きく転がり,色の違うピーマンがザルの中で遊んでいる。あのレモンはおそらく私と関係がないだろうが,このオニオンはどちらとも私と関係を持つのだろう。多分どちらとも。ハムにベーコンは合わないのか?後ろの食器棚の前に座り込んで,大きな深皿をかちゃっと取り出す妻は勿論よ,というイエスかノーかがはっきりしない返事を寄越す。プラスチックの容れ物に,隙間が見えないドレッシングは今から一週間経っても期限が過ぎない。蓋は回る。私はそれをすぐに閉めて,渡されたエプロンを広げたが,身に付けることも,元通りに折り畳むことも出来なかったために,ぎゅっと丸めてキッチンに乗せた。不恰好に縮こまり,困ったように皺が目立つ。紐がだらんと床に向かって垂れていたのは,摘んで無造作に直した。紐は大理石に凭れた。
「手は洗っていいわよ。他のものには触らないでね。」
 妻の禁止令は絶対である,と普段から心に誓っているわけでもなかったけれど,私はそれに喜んで従った。手を洗い,エプロンで拭いた。エプロンはそういう風に使っても問題ないはずだ,と自分に言い聞かせた。木ヘラを見つけ,細かいスプーンをまとめて視界に捉えて,ミキサーを欲しがる視線を隠し,シンクに落ちた明かりの鈍さに近づく。キッチンから覗くリビングのテーブルに,立てた料理本は孫の拙い手つきで捕まりきれずに向こうにばたんと倒れ,保護者たる立場の娘は,その責務をまあまあな程度に熟し,料理本を再度立てては,私と視線を合わせている。
「パパ,似合うわよ。」
「何がだ?」
 不機嫌な声は私の気持ちか。確かめる前に娘は言う。
「そこに居ること。素敵よ,ホントに。」
 だー!か,うー!か,孫の発する楽しげな叫び声に私の発言の機会は奪われ,追加しようとした皮肉な味わいが,言葉の表現となれずに私の口に広がる。それはケーキが残したベリーよりも後悔となれずに,鼻からため息とともに漏れたものとして,忘れようとした。
「あなた,ちょっと。」
 と棚に向かって立ち上がった,私より頭二つ分低い妻に押されて,私は壁際に追いやられた。スプーンやフォークを収めているであろう,抽斗が引かれてかき混ぜられ,妻が中腰でその物を探す。私はこれ以上必要な匙の類というものを想像も出来ず,ため息とともに,天井を仰いだ。ライトはそこにはめ込まれている。換気扇は真横でうーん,と唸る。
 オリーブオイルは確かに好きなのだが。それと,これから挑まなければいけない調理はグリルなんて必要としないのでなかったか。そういう過程を私に二人で,「そうよ,そうよ。」と簡単に,聞かせたのでなかったか。目の前で妻は探し物に夢中で何も言わない。リビングの娘は,そのひとり娘である孫とともに日なたの時間を過ごしている。孫はまた本を倒した。
 拍手みたいな仕草をしたことから,孫の目的も変わったようだ。
 チャイムが短く鳴り響いた。義理の息子が両手に二つ,三つの紙袋を抱え,リビングにいる妻に軽い合図と,キッチンの中に居る私たちに挨拶をし,これ,どうしましょうか?と妻に対して,指示を求める。三つ叉の先がぎゅっと並んだフォークを握りしめた妻は,ありがとう,それ,今は使わないから,そっちのテーブルに置いといて。と義理の息子に言い,種類たくさん頼んじゃったけど,買い忘れとか,大丈夫だった?と確かめる。娘にも手伝ってもらい,抱えている紙袋を減らしながら,空いた片手でひとつの袋の口を開け,取りやすい位置にあったであろう缶詰めを,新鮮そうに振りながら,恐らくは大丈夫です,お母さん。足りなければ,また買いに出掛けますから。と,爽やかな笑顔を妻に向ける。あら,じゃあその時は,遠慮せずに頼むわ。と妻は満更でもない風に,笑顔を返して,抽斗にフォークたちをしまい込んだ。そのままそこの抽斗を閉じ,棚の上を見上げている。妻は私より背が低い。私は妻に近寄って,さっさと聞いてみた。
「何を探してるんだ?どれを取ればいい?」
「あら,ありがと。でもいいわ。あなたに言っても分からないだろうし。」
 そう言って妻はそうそう,と思い出した食器棚の下部の扉に手をかける。外側両開きのために,妻に寄り添う位置に居た私は邪魔になり,一歩引いて,二歩で立ち止まった。傾斜のついた換気扇の一部が視界に入りがちな風景が変わらず,私は静かなコンロの陣地の方に手をつき,タバコが吸いたくなった。今は禁煙中である。義理の息子もたまに吸う。
「お父さん,すごいですね。」
「何がだ?」
 私は義理の息子を横目で見ながら,あえて聞く。
「いえ,尊敬します!さすがです!」
 両目をきらきらさせ,熱を込めて言われる義理の息子の言葉に直面すると,今度はこちらが子供のように,あえて反発するするわけにもいかず,どうなるかわからんぞ。というような返事を諦め半分に飛ばして,期待します!という義理の息子と,パパなら大丈夫よ。という,軽々しい娘のエールを受け取って,私は黙って片手を振った。娘夫婦はそれを私の照れの表現と受け取り,抱き上げた孫とともにチアをする,ポーズを取る。思わず,私は膝をぶつけてしまい,しかしそのおかげで(というべきなのだろう),多目的に叶うオーブンが重々しく眠っていたことを多少の痛みと共に改めて知った。
「うん。いいわ。」
 と妻は棒状の鋭いものを持っていた。
「さあ,取り掛かりましょう!」
 覚悟はいいか?と聞かれなかっただけ,私は大いにましなのだろう。
「オーケー,マム。」
 両手を離して床に一人で立った私は,心からの言葉を漏らした。



 前庭に寝転ぶ犬の鼻の上を,黄色い蝶々が翔んでいる。ゆらゆらとして,毛並みに触れるのか,セントバーナードとしての体躯を起こして,のしのしと歩き,寝そべって,しばらくのんびりと昼時を過ごす。黄色い蝶々はひらひらとして,犬の尻尾のあたりにフラれ,耳の間を通り,やはり鼻へ。犬は目を開けて,それを見ている。黄色い色で,少し離れて空を通る。匂いは敏感に感じ取る。
 小さい頃の女の子が付けたせいか,犬の名前の発音がグリーンピースに近い。



 案の定,半分焦げた。無事であった箇所は生焼けながらも,たべれないことはなかった。追加して用意してもらった深い深いボールの,二つ分に至った山盛りサラダであっても失敗はまずないという。孫もすすっていたスープはインスタントのものだったので,おかわりも自由だった。義理の息子が買ってきてくれた缶詰めも大いに役立ってくれたといえる。妻はもとより承知していたのだろう。それでも不細工なケーキは美味しく頂けたのだ。パパの自己満足の欠片が見当たらないのが,成功の秘訣ねという娘の淹れてくれた飲み物が熱くて苦くて,丁度良かった。
「お父さん,ご苦労様でした。」
 と義理の息子が声をかけてくれたので,孫を膝の上にのせる前に,食器棚からグラスを二つ持って来て,既にテーブルの上に鎮座していたお気に入りのウイスキーの瓶から,一つのグラスに注いでいった。
「あら,さっそく効果ありね。パパが自分でグラスを取ったわ。」
 と誇張する娘の楽しげな声をバックに,義理の息子とカップで乾杯をした。孫はそれから,一度眠った。私は妻に率直に聞いた。
「どうだった?」
「まあまあね。」
 妻はそっけない返事と,私の肩を叩いてキッチンに作り置きのキッシュを取りに行く。娘はデザートだけじゃ足りない空腹を持て余して,パリパリの皮を指で摘んで食べている。
「うん,やっぱり味が濃いわね。」
 と満足そうである。
「これからもする?パパ?」
 予想通りの娘の質問には,「ああ,するさ。もちろん。」とすぐに答えた。それから間を空けて,「レクチャーはもう少し必要とするが。」と正直に付け加えた。
「うん,そうね。私も出来る限り時間を作るわ。ママの送り迎えも必要だし,彼もこうして来てくれるし。」
「この子も嬉しそうでした。」
 息づかいを聞かせる孫の顔が見える。戻って来た妻がそれに近づき,温かい頬をくっつけ合う。切られたキッシュがパンプキンの塊のようにぴったりと並んでいた。お皿はその手に持たれていた。待ちきれない娘がそれを受け取り,さっそく食べている。
「食べすぎるなよ。」
「今夜に限って,それは無いわ。」
 私は黙って,カップの縁から珈琲を啜った。



 足の長いスタンドのライトが背中から浴びせる,灯りが揺らめく。リビングを去る妻の影と,前庭から戻って来た私の姿が重なる。
「どうだった?」
「元気だった。」
 それから私が灯りを消した。娘が開ける冷蔵庫の光を頼りに近付くと,
「水,飲む?」
「いや,氷でいい。」
 という会話を交わし,そこから娘が退くまで,私は二つのグラスを持って,少し離れて,そこで待った。その一つを置いて,意味なくこんこんと叩いた,大理石のキッチンは硬かった。
「あら,急がせるのね。」
  と娘はわざとらしく不機嫌そうな返事をした。
「ああ,いや,そんな意味はない。」
 私のそうした答えは,しかし意味を持たずに,娘は肩を竦めて扉を半開きにし,一歩引いて,先を譲った。
「おやすみ,パパ。」
 ああ,おやすみ。と,答えた私の姿を見ずに,娘は部屋に戻る。冷蔵庫の前に立った私は,扉をきちんと開けきり,冷凍庫を開けてからカランと一個ずつ,氷をグラスに収めていった。瓶をそのまま取りに戻った。ちょっと歩き,冷蔵庫はそれから閉めた。



 芝生の上には何もいない。犬は犬小屋で眠っている。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-28

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