君の手を 第9章

 翌日。

 僕は待っていた。

 図書室で、早瀬さんが来るのを待っていた。カウンターの正面、窓際のテーブルに座り、時計の進むカチコチという音を聞きながら。でも、気が付くとセミの声が頭にこだましている。昨日はそんなことなかったのに、今日はやけに耳に付く。
地上へ出てわずか一週間。その間に彼女を、結婚相手を見つけようと必死に叫んでいる。そう思うと、かわいいじゃないか。などとは思えない。ウルサイ。そんなの、知ったことか。

 もうすぐ9時。彼女はまだ来ない。少し意外だった。彼女のことだからきっと15分か10分前には来てるんじゃないかと思っていた。まあ、今日たまたま遅れているだけかもしれないけど。

 9時を告げる鐘が鳴った。それが鳴り止まぬうちにガラ、とドアが開いた。彼女だ。制服に、あまり大きくないベージュのカバンをタスキ掛けにしている。中に入り、パチパチッとスイッチを押すと、蛍光灯が二、三度点滅してから青白く光った。その瞬間、なぜか身を隠したい衝動にかられた。くっ、と動きかけた体をその必要はない、と止める。そのかわりフセをするように机に突っ伏した。犬じゃなくて、ライオンなんかがやるようなフセ。顔だけを上げ正面のカウンターを眺める。

 彼女はその場で何度か深呼吸をした。もしかしたら遅れそうだったから走ってきたのかもしれない。別にそんなの気にしなくても誰もきやしないだろうに。

 彼女は胸に手を当て、ふうぅ、と長めに息を吐きだした。もう呼吸は整っていた。すぐにカウンターに向かうのだろうと思たが、そうではなかった。彼女は本棚の間を縫うように進んでいった。時には本の背表紙を触った。まるで飼っている犬や猫を撫でるようなしぐさだった。

 一通り見て回ると彼女はカウンターに座ってカバンをそこに置き、中から本を取り出した。さっきの行為は読む本を選んでいたわけでもないようだ。点検でもしていたのだろうか。でも、夏休みだ。ほとんど誰も来ないのにそんなことする必要があるのだろうか。

 ふと疑問が湧いた。彼女はいつから図書委員だったのだろうか。たぶん、一年のときからずっと図書委員なんじゃないかな。それくらい、そこに座っている彼女には違和感が無かった。保健室に保健の先生がいるように、校長室に校長がいるように、図書室には彼女がいるのだ。だとしたら当然僕は会っているはずだ。夏休みに入る前に感想文用の本を借りた。でも、覚えていない。まったく覚えていなかった。

 早瀬さんはどんな本を読んでいるんだろうか。なんだか小難しい本を読んでそうだけど。近寄ってみたけど、広げている本のタイトルは当然見えない。でも大きさから見て文庫だと思う。そしてそこにはカバーがかけられていた。本屋で付けられるような紙のものじゃない。オレンジのブックカバー。材質はよくわからないが、あまり光沢が無いのでたぶん布製だろう。手作り? それとも買ったのだろうか。あんなもの売っているのを見たことないけど。

 僕はしばらくそこで彼女がページをめくるのを見ていた。始めはそこにある文章を、何を読んでいるのか見るつもりだった。でも、すぐに別のものに気をとられた。

 白く、ほっそりした指。光沢のある爪。それは綺麗に切りそろえられていた。マニキュアでも付けているのだろうか。表面がコーティングでもされているかのように滑らかだ。そんな娘には見えないけど。

 ページをめくるたびに動く指。丸い爪。それだけをいつまでも見ていられた。何かの映画で手だけの妖怪か何かが動いているのを見たときは気持ち悪いと思ったけど、こんな手ならそうでもないかもしれない。少し浮いてみればつむじも見えた。右向き? 他人のつむじをこんなにまじまじと眺めることはなかなかない。髪の毛は黒くてサラサラして、つやつやしていた。つい、触りたくなる。

 ……。

 ……まて。落ち着け。僕は変態じゃない。そうじゃない。そうじゃなくて。

 僕はまた窓際のテーブルに戻り、彼女を眺めた。

 改めて、思う。

 なぜ彼女は僕のことが好きなんだろう。

 僕は彼女のことはほとんど知らない。それは逆に、彼女もそうだってことじゃないのか?
彼女は、僕の何を知っている?

 もしかして、僕が知らないだけで、何かを見られていたのかな。……あの日みたいに。

 今の僕みたいに、見ていたのだろうか。


 視線を感じた。

 早瀬さんがこちらを見ていた。
 僕は何かあるのかと周囲を見回した。でも、気になるようなものは何も無かった。

 ……まさか。

 ……僕が、見えているのか?


 いや、ありえない。僕はもう彼女の前に姿をさらしているし、そのときは無反応だった。今だって、もし見えているんなら、あれだけ近よられて無反応でいられるとは思えない。

 じゃあ、やっぱり、見えてない、よな?

 もう一度彼女を見ると、今度は口元に微笑を浮かべていた。そして視線は確かに僕に向けられていた。まるで僕が慌てているのを楽しんでいるような――。

 ……いや、違う。

 僕はようやく彼女の視線が少しずれていることに気づいた。僕じゃない。僕じゃなく、たぶん、もっと向こう。

 その視線の先を追い、振り向いた。

 そこには桜の木があって、その枝に二羽の小鳥が止まっていた。僕にはスズメでもツバメでもないってことくらいしかわからない。二羽は寄り添い、枝の上をピョンピョン飛び跳ねながら戯れていた。それも束の間、一羽がパッと飛び立つと、もう一羽も後を追った。反動で枝が揺れる。だがそれもすぐに収まった。

 僕が前を向くと、早瀬さんはすでに視線を落とし、読書を再開していた。

 僕のことなんかまるで気づかずに。

 僕のことなんかまるで無視するみたいに。

 ……。

 カッ、と僕の頭の中がはじけた。

 僕はテーブルを突き抜け、まっすぐ彼女のところまで行った。そして、彼女の前に立ち、ジッと彼女を見つめた。彼女は僕に気づかない。

 彼女の顔と、本の間に手を入れた。彼女はそれに気づかない。その手を振ってみても、何の反応も無い。

「ねえ」声を掛けてもダメ。「早瀬さん」名前を呼んでみてもダメ。

「おいっ!」大きな声を出しても、「早瀬さんっ!!」叫んでみても。

 彼女は僕に気づかない。


「――っ!!」


 思わず振り上げた右手は、振り下ろすべき対象を見失ってその場に止まった。

 やがて沸騰寸前まで高まった感情が徐々に冷え、冷えると共に右手の力も抜けていった。

 何を……やっているんだ、僕は……。


 後悔と自己嫌悪。最低だ。僕は最低だ。ただ、それでも図書室から出て行きたくなかった。ここにいたかった。部屋の隅でうずくまり、うじうじと自分を責める。

 しばらくそうすると、今度は彼女の様子が気になって、尻をつけたままズリズリと、まるでイモムシのように這って行き、本棚の影から様子をうかがった。

 彼女は何事も無かったように本を読んでいた。それを見て、ほっと息を吐く。そしてすぐ、今度はハァー、と息を吐いた。

 ……なにやってんだ。

 勝手にキレて、叩こうとしておいて、今度はそれに気づかれなかったことを安心している。

 ……ひどいな。バカみたいだ。……みたいじゃなくて、バカだけど。

 虚しくなって、本棚を背に座り、窓の外を眺める。

 ……何してんだろう。張り切って朝早くから乗り込んで、何がしたかったんだろう。何するつもりだったんだろう。

 窓の外には、さっきの奴らか、二羽の小鳥が小枝に止まっていた。仲良さげにその上を飛び跳ねて。彼女はさっきこれを見て笑っていた。それだけだ。なのに。

 ……なんであんなに、ムカついたんだろう。

 気づかれなかったから? 無視されたから?

 そんなの、当たり前じゃん。見えないんだから。それを忘れていたわけでもない、のに。

 ……。

 よくわからない。


 そのまま、時間だけか過ぎていった。何もせず、何も考えず、ぼーっと窓の外を眺めてるだけ。なんか最近、そういうこと、多い気がする。ジジババが、縁側に座って庭でも眺めてるイメージ。なんでそんなことするんだろって思ってた。今は、なんとなくわかる。何もすることがないからだ。きっと。今の僕みたいに。

 何もせず待っているのは退屈で、時間の進み方がひどく遅い。早瀬さんを見ていたい気もするけど、さっきみたいな気持ちになったらたまらない。

 ……サッカー部のことは、気にならないでもなかった。でも、昨日のことを思い出すと、あんまり行ってみようって気になれない。行っても、モヤモヤするだけだから。たぶん。

 ……もう充分モヤモヤしてんですけどね。

 しかたなく、僕は歌を歌った。頭の中で。よくやるんだ。何かの拍子に待たされて退屈な時とか。周りに人がいなければ声に出すこともある。今だって別に声に出したって聞こえやしないんだけど、それはちょっと、やっぱり聞こえないと分かっていても恥ずかしいし。

 でも、いざ歌ってみるとうろ覚えで、ろくに歌えなかったりするんだよな。好きな歌なのに。何度も聞いていて、覚えたはずなのに。ふいに歌おうとすると、歌えない。こんなんじゃ、好きなんて、ファンなんて、言えないかな。失格だな。

 ……ああ。この街にも、ライブハウスがあればよかったのに。そしたら、タダで見れたのに。他にも舞台とか展覧会、博物館。そういう見る系のイベントは全部タダになったのに。

「あっ!」

 ポーン、ポーン、ポーン……。

 時計が鳴った。ハッとしてそちらを見ると針は一番上でピタリと重なっていた。時間だ。

 ……いや、そうじゃなくて。それはそれで重要なんだけど、さっき、何か閃いたんだ。なんだっけ? ……あー、思い出せない。死神系のことだったのは確かなんだけど。……あーダメだ。出てこない。

 まあいいや。思い出せないってことは、大したことじゃないんだろう。そう思いながらもやっぱり何だっけ? と考えていたら、ガラッ、と音がしてドアが開いた。その音にビックリしている間に長谷川さんは早瀬さんの前まで来ていた。

「帰るよ」

「うん」


 あの日のように、二人の後ろを僕が付いていく。あの日より少し距離を詰めて、話し声が聞こえるように。でも、二人はあまり話をしなかった。他の女子のように昨日見たドラマのことや、芸能人のゴシップやファッション、最近発売されたお菓子のこと。そういう取り留めのない話を無秩序に永遠続けたりしないのかな。っていうか、時々早瀬さんが話題をふっているのに、長谷川さんのほうがまともに相手をしていないように見える。「ああ」とか「そう」とか「ふーん」とか。気の無い返事ばかり。ちゃんと話聞いてるのか?

校門を出てすぐだった。早瀬さんが切り込んだ。

「ねえ、何かあった?」

「えっ?」

 びっくりして長谷川さんが早瀬さんを見た。

「なんか、上の空」

「……ああ。いや、ゴメン。ちょっと考え事」

「何?」

「いや――、たいしたことじゃないから」

「そう?」

 そしてまた二人は歩き出した。駐輪場までの坂道を下る間、二人に会話は生まれなかった。たいしたことじゃない、なんていいながら、長谷川さんの態度は明らかに話しかけられることを拒否していた。イライラしているように見える。これじゃあ早瀬さんがかわいそうだ。

 駐輪場から自転車を出してきた後も、長谷川さんは態度を変えなかった。もういっそ、一人で先に帰ってしまえばいいんじゃないかってくらいだ。

 そしてそれは、最初の信号待ちで止まったときだった。

「……ねえ、結衣」

「ん?」

「まだ、有沢のこと、好きなの?」

 その瞬間、僕の体は瞬間冷凍されたみたいに硬くなった。なんてこと聞くんだ、この女。

 ……でもまあ、興味はある。早瀬さんの表情はここからじゃわからない。顔を見ようと、僕は前に行こうとした。

「……うん。」

 信号が変わった。二人は歩き出した。一歩二歩三歩……。ハッと我に返ったときには二人はもう横断歩道を渡り終えていた。慌てて後を追う。

「――た、じゃなくて?」

 長谷川さんが何か言っていたがよく聞き取れなかった。なんて言ったんだ?

「うん」

「なんで? 有沢はもういないんだよ。死んだんだよ? 意味無いじゃん」

「そんな言い方しなくたって……」

 そうだ。いいじゃないか、別に。よくある話だ。

「突然、どうしたの?」

 困惑気味に早瀬さんは言った。そうだ。なんだ、突然。

「突然、じゃないよ。このあいだ話し聞いた後から、ずっと考えてた。やっぱり、良くないよ。気持ちが全然前向いてない」

「それは、だって……、そんなに簡単にどうにかできないよ。……まだ、一週間も経ってないんだよ?」

 そっか、まだ一週間経ってないのか、なんて頭の隅で思いながら、僕はなんだか長谷川さんの態度に疑問を感じていた。誰だって、好きな人が突然、死んで、そんなにすぐ気持ちを切り替えられるはずは無い。そんなこと、長谷川さんだってわかるはずだ。それなのに、早瀬さんにそれを強要する。それが、どうにも腑に落ちない。

「じゃあ、いつ?」

「えっ?」

「いつになったら、忘れるの?」

「いつって、そんな……」

 また、そんな言い方をする。おかしい。とっても理不尽だ。そんなの、わかるはずないじゃないか。僕は昨日、二人がどんな様子だったか知らないし、この前早瀬さんの家で何を話したのかも知らない。でも、突然こんなことを言い出す長谷川さんって、ちょっと変だ。いつもと違う気がする。早瀬さんが困惑するのもよくわかる。

「廉だって心配してる」

「廉が? ホント?」

 少し驚いたように顔を上げて長谷川さんを見た。長谷川さんは一瞬、しまった、というような顔をして、でもすぐに神妙な顔つきでうなずいた。早瀬さんの顔が少し曇る。っていうか、レン? レンって、誰だ?

「でも……。そっか……。廉が……。そっか……」

 何だ? 明らかにテンションが下がったぞ。……誰? 男?女? 早瀬さんとどういう関係?

「でも、だからって、やっぱりすぐに整理はつかないよ。それに……」

 早瀬さんが足を停めた。長谷川さんが不安げに彼女を見る。

「たぶん……、ずっと忘れられないかもしれない」

 その瞬間だけ、ふっ、と音が消えた。世界に存在するのは僕と早瀬さんの二人だけ。その世界に、三人目の声がこだまする。

「ずっと!? じゃあ、一生忘れないってこと? そんなのおかしいよ。絶対おかしい! そんな……。そんなのっ!!」

 泣いてる?! ……いや、違うか。でも、今の表情、泣いてるかと――。早瀬さんも、そう感じたのかもしれない。驚いたように長谷川さんを見つめて、見つめられて、長谷川さんはますます泣きそうな表情になって、

「ゴメンっ!」

 そう言うと、長谷川さんは自転車に乗り、逃げるように行ってしまった。後には呆然と立ちすくむ早瀬さんと僕が取り残された。


 二人きりして固まっていた時間はたぶん一分くらいだと思う。立ち止まっていた早瀬さんが歩き出した。後ろ姿が明らかに沈んでいる。スッと横に並び、顔を見る。あーあ。やっぱり、落ち込んでる。

 僕はそのまま彼女の隣を歩いた。しかし、さっきの長谷川さん。あんな長谷川さんは見たことない。いつもは一歩引いたところから見て、ふん、て感じに少し見下したような態度で、ほとんど感情を表に出したりしないのに。さっきのは、なんていうか――。

 女の子みたいだったな。

 いや、だからって、どうってわけじゃないんだけど、ちょっとかわいかったっていうか、いや、だからって心変わりとか、そういうんじゃなくて――って、何を弁解しているんだか。

 ……でも、ホントあんなに余裕がなくて、取り乱した姿は、初めて見たな。

 僕はまたチラッと横を、早瀬さんを見た。やっぱり、まだ落ち込んでる。まあ、そんなにすぐ立ち直れはしないよな。なんか、こうゆうのものすごく気にしそうだし。

 ……あ。これって、もしかしなくても、ケンカ、だよな。しかも、原因は、僕っていう――。
それはちょっと、申し訳ないっていうか、忍びないっていうか、罪悪感っていうか、まさかこれがきっかけで仲が険悪になって絶交、とか。……ないな。ないない。今どき絶交なんて。

 その後5分くらい、僕らは並んで歩いた。もちろん会話はない。彼女は終始何かを考え込んでいたし、僕だってそれほど浮かれた気分にはなれない。それでもこうして並んで歩いているのは、ちょっと特別な感じがあった。

 彼女の家について、別れてからも考える。妄想してしまう。もし、もう少し早く彼女が僕に告白してくれていたら。並んで、手をつないで、二人でどこかに出かけたりしたのだろうか。

 ……でも、たとえ彼女が告白してきても、あのときの僕なら付き合ったとは思えない。きっと、パンダを見に来た一人、くらいにしか思わなかっただろう。だって、僕は彼女のことをまったく知らなかったから。

 でも、もしかしたら、なんて妄想も太陽が沈むのにつれてだんだん冷めてきて、ようやく僕は長谷川さんの言ったことの意味を考え始めた。

 そう。きっと、早く忘れてしまったほうがいいんだろう。僕のことをいつまでも引きずっていたっていいことなどあるはずはない。長谷川さんは正しい。

 それに、早瀬さんだって、今日はああ言っていたけど、そんなわけない。人間は忘れる。記憶は劣化する。そうならないためには何度も何度も上書きし続けなければダメだ。でなければ目の前にいない奴のことを、そんなにいつまでも覚えていられるはずはない。

 ならば、いっそ、早く忘れてしまったほうがいい。

 そのほうがいい。

 ……いいんだろうな、やっぱり。

君の手を 第9章

≪第9章 完≫

君の手を 第9章

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-28

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