なんてきれいな青い空

 [某年3月某日 横須賀 防衛大学校]
 
 梅は満開、桜はまだつぼみが膨らみ始めた陽気の中、左手に横須賀湾口を望みながら、型式としては古い大型バイクに跨り、有料道路を走らせていた。大型といっても排気量1000ccを超えるリッターバイクではなく、ナナハンの仲間で、巡航走行をコンセプトとしたミドルタイプのバイクだ。左方走行車線の流れにのりながらペースを守ってアクセルを維持する。
 卒業式の天候としては恵まれたようだ。概ね晴天下の元で、バイク乗りにとっては冬の寒さから解放された、久方ぶりの心地よい風に包まれていた。
 有料道路の料金所を過ぎ、合流路から横須賀駅越しに接岸している護衛艦と潜水艦が覗える。春の陽光に照らされて凛とした存在感を漂わせていた。称えるように海鳥が旋回している。紛れもなく軍艦ならではの存在感。これから向かう先は防衛大学校。我が母校だ。
 前歴は、自衛隊中央即応集団隷下特殊作戦群第2中隊第2小隊副隊長を最後に退官。OBとして式辞や訓示を読みあげる訳ではない。
 訪問の理由は、元上官だった小隊長が教官を務めている。個別に会うことはいつでもできたが、この卒業式で会うのが何となく仕来りとなっていた。一般見学で自動車のスペースは借りられない。バイクならOB特権で駐輪場のお目こぼしが貰えた。
 ヤシの木に挟まれた海岸線に入り、ガソリンスタンド右手に右折し、高台に向かう坂道に入る。ぼちぼちと歩道には、逞しくなった我が子息と気持ちほどの数の子女の、一世一代の晴れ姿をみようと正装して着飾った父母や、路肩に駐車しているマスコミ関係者がちらほらを見え始めた。人ごみと路駐車両を気を付けて坂を上りきる。正門前のタクシー乗り場のスペースには、次々とタクシーが乗り付け、客を降ろしては、すぐに出発していた。せっかくの稼ぎ時だ。おかげでロータリは、人と車でごったがえしていた。様々な服飾が混じり、ちらし寿司の彩りのようだ。
 事故を避けるため早々にエンジンをストップさせ降車する。右わきにハンドルを持ちながら、バイクを押して歩く。人波を慎重に避けて正門に向かう。もう四捨五入すると不惑の身には過ぎた大型バイクの手押しは、それなりにひと苦労である。油断すれば、すぐ立ちごけになる。
 身分証を呈示する。いつもの守衛担当だったので、義務的な視線だけ中に入れてくれる。何度もくぐった門扉が解放されている。それでも去年よりは多少は落ち着いてみえた。昨年までは、様々な事件から少なからず脚光を浴び、異様な賑わいであった。
 正面本館の国旗はいつもと同じく飾られ、春風にパタパタ時にバタバタとたなびいていた。
 いつも使う駐輪場にバイクを止めて、校内を散策する。在校生の送迎準備の喧騒を縫って、運動場の約束の場所に行くと上村教官は泰然と辺りを見守っていた。作戦群小隊長だった頃の殺意にも似た迫力は今も携えているが、顔つきは柔和になっている。左顎が明らかに歪んでいて、輪郭はひょっとこのお面のようでパッと見滑稽に映る。本人には到底言えないが。今日(こんにち)の口腔外科の技術なら、きっちりと治せるとは思うが、私が今のバイクと同じく、印(しるし)として敢えてそのままにしているのだろう。
 防衛大学校を卒業した後に、幹部学校そのまま専攻通り陸上自衛隊一般部隊を経て第一空てい団に希望所属した。近年創設された中央即応集団隷下の特殊作戦群へ入隊したかったからである。血は吐かなかったものの幾度となく反吐を吐きながら空挺レンジャー部隊に入り、そこに輪かけた選抜試験に合格して入隊した。正直、このプロセスは思い出したくもない。数年所属し、退官後は紆余曲折を経て週刊誌に相手にしたフリーのルポライターになっている。
 ジャケットから一枚の写真を取り出し、眼前に広がるグランドの視界に合わせる。大学校学園祭名物の棒倒しの時のものだ。相手の棒を倒し、2回戦に向けてスタート地点に戻ろうしながら、3人の男がお互いの健闘を称えあっている。バイクは映っている一人の先輩から譲ってもらった。写真は、憧憬の極みから、自分からお願いして貰った。
 三人の男が居た。防衛大学校からの同僚であり、特殊作戦群では戦友であり親友でもあった。私の先輩であり上官であった。同じ考えを持ちながら、己の信条に従って行動した。その行動の全容は、映像をはじめ枚挙に暇がない程にアーカイブされているものあれば、全く表に出ていないものある。退官後ルポライターになって3年、真実は何だったのか、公私違わず調べ続けている。
 断片的な情報のピースが、互いに重なりあって輪郭を帯びてくる。


[6年前 3月某日 真賀陸(まがりく)県 真賀陸原子力発電所]
 
 過日に東北地方三陸沖で発生したマグニチュード8.8の大地震は、数百キロに渡り何十メートル海底岩盤を沈下させ、相応の質量の海水を撹拌させた。程無く津波観測計のブイからGPS観測機他、あるとあらゆる観測機はその甚大なエネルギー量の放出を読み取り、瞬く間に大津波警報の発令へと至った。
 情報はマスメディアにも自動的且つ迅速に伝達され、TVの各チャンネルは漸次緊急報道番組に切り替わり、画面狭しと日本地図の東北沿岸を赤や紫の様々な警告を意味するスペクトラムを彩っていた。
 防衛省にも同時同様にその情報は伝播され、災害対策本部設置に至り、当日18時には内閣府より大規模災害派遣命令が出された。19時30分には津波被害を受け、原子炉冷却機関の電源を喪失した真賀陸県真賀陸原子力発電所の事態収拾のため、原子力災害派遣命令が出された。
 東北沿岸600kmを襲った大津波は、あらゆる社会基盤を崩壊させていた。さながら戦時下とはこういうものなのかと少なからず誰もが思った。
 津波被害へ対応するため、自衛隊発足以来の史上最大の災害派遣出動がなされようとしていた。陸上自衛隊普通科連隊の主力は、津波よって分断された沿岸の国道と東北自動車をつなげるため、櫛の歯作戦を立案し道路の瓦礫を撤去する啓開作業に尽力した。
 
 そして未だに影を落としている人類歴史上稀にみる困難状況は、真賀陸原子力発電所で起こっていた。
 
真賀陸原子力発電所には軽水炉沸騰型が5機あり、地震発生時には、1から3号機まで稼働していた。地震発生センサー感知後に全機、稼働運転は緊急停止されたが、稀にみる巨大地震の震動によりパイプの繋ぎ目などの接続部分が損傷し、10mを超える津波により冷却システムの電源が喪失。3つの圧力容器にあった各燃料物質は刻々と、固形から液体とその形を変容させ、高熱を発し、釜の底を溶かし穴を空けていた。
 政府はパニックを恐れ、マスコミには箝口令による隠ぺいと希望的観測の情報操作とともに甚大な被害様相の渦中で、すべからく混乱の極みに誰もが立たされていた。
 当初は、経営している電力会社主導で収束作業は行われていたが、事態は悪化の一途を辿り、政府がしびれをきらして自衛隊に事態収拾に派遣したのは時には、既にメルトダウン進行と高濃度の放射能汚染が確認されていた。
 派遣された自衛隊先遣隊より、発電所の混沌と暗澹たる状況は政府災害対策本部にも逐次、報告され、その情報はリアルタイムで特殊作戦群の中隊長までには周知されていた。原発事故を想定したミッションは、事前に作成立案され、国全体の動き方を網羅した案書は存在していた。自衛隊はいち早く、シミュレートした指揮命令系統を構築し、各部隊へ周知させていた。
 電力会社、警察、消防と縦割り行政の弊害による現場の混乱から、政府は鶴の一声で電力会社の主導権を剥奪し、当座の指揮命令系統を中央相応集団に据える。
 据えられた中央即応集団は、いち早い原子炉冷却システムの構築が必要と判断し、第1段階として、ヘリによる空中からの海水散布から始めた。放水第一空挺団第一ヘリコプター団がその任に就いた。第2段階として、安定冷却に繋げるため空炊き状態の原子炉を水で満たすための、地上からの放水が検討された。その現場対応の中心は中央特殊武器防護隊が担い、フォローとして特殊武器衛生隊が任務に就いた。
 そして、本来はテロリス殲滅の為に設立された特殊作戦群においても、この「特殊」かつ最大の国防の危機に対処するため、第1中隊第2小隊第2中隊第2小隊の2個小隊が現場へ駆り出された。 ミッションとしては特殊作戦群隊員が3名1組となり、戦時下でいう、敵情視察、いわゆる斥候の役目を命じられた。メルトダウンを起こした原子炉建屋に可能な限り近づいて、放水に安全な状況確認と放射線量の測定を行う。
 現場に送る人員は並列処理という約束事が提起されていた。各小隊から定量数の人員を差し出す、で落ち着いついていたが、人選は極限の判断となっていた。
 高濃度の被ばくは決定事項だ。死を意味しないまでも、今後の人生が大きく変わる。家族がいるものは弾く。かといって能力不足の者をあてがってもの成功率が怪しくなる。誰もが想定していなかった極限的な選択を余儀なくされた。
 既に1号機は圧力容器のベントに失敗し、水素爆発を起こしていた。周辺には高濃度の放射性物質で汚染された瓦礫が散乱し、放水活動には想定した以上に困難な状況が予想されていた。現場は、ある意味戦争と同義、それ以上の厳しい緊張感に包まれていた。個人の超人的な努力や連帯で解決する道標がみつからない。
 

 [真賀陸県 真賀陸原子力発電所 敷地内]

 特殊作戦群第2中隊第2小隊隊長、飯塚2等陸尉は、後悔は一切していなかったが、かつて経験しなかった恐怖心と戦っていた。今、後方には昨日に水素爆発を起こした1号機原子力建屋が上部を舞茸のように損壊して聳え建っている。
 
 
 手にするは本来、携えるべき自動小銃M4カービンではなく、ドイツ製の空間線量計とフランス製の土壌線量計の2つだ。恰好もタクティカルスーツではなく、電力会社から支給されたタイベックスという白い防護服だ。足りない素材は、途中のホームセンターで補った。前方はサーチング対象の3号機。1号機のように水素爆発で天井が抜け落ち、放射能まみれの残骸は巻かれていない。後方両サイドに同部隊隊員、右に小池3等陸尉、左に立花3等陸尉が5メートルほどの間隔で着いて来ている。事前情報では3号機はベントで圧力は抜いているので爆発の恐れはないと電力会社の社員はさらっと言っていたが、1号機の時も同様の事を言っていたので、鼻から信用していなかった。
 今、数秒後に死が待っていようとも歩みを進めるのは、自衛官の矜持と上官への信頼だ。上官は第2中隊隊長、井上 仁(ひとし)1等陸尉。上申しなければ立場を忘れて最前線に立ってしまうだろう。近接戦闘のスペシャリスト。自衛隊内で1対1で敵う人間はいないと断言できる。
 空気は澄んでいる。まるで放射線が、以外の物質を消し去ってしまったように。何かのテレビで見た「きれいすぎて魚が住めなくなる湖」を思い出す。いや、沼だったか池だったか。青空が文字通り、スカイブルーを映し出していた。まさに見えない敵の斥候だ。
 相手は放射能。線量計で致死量線量を感知した所で敗北を意味する。思考は今目の前にある事象にだけ感覚が研ぎ澄まされる。線量計のメーターと警告音だけが頼りだ。息は荒くなり、特注の防護マスクの曇り止めの効き目が弱ってくる。もうどれぐらい被ばくしたのだろう。もう結婚は諦めた。彼女もいないからいいか。素人童貞のままか。
 1歩建屋に近づくたびに電子音の間隔が短くなっていく。3号機建屋南側およそ50mまで接近。ついには断続音が連続音に変化し、今度は音量が大きくなる。許容された線量のシーベルトをオーバーしている。しかし、この位置では有効放水射程に入らない。レシーバーで他2名の隊員に状況確認すると半径5mでは同様の線量が漂っている。井上隊長の言葉を思い起こし、復唱する。
「決して無理するな。無理をするな。無理をするな」
 もう十分だ。斥候任務としては、ここが限界点だ。ごく限られた時間で、最良の結果を得なければならない。ベストの放水位置は半径20m。自衛隊所有の救難消防車の射程は60m。概ね高さ60mの建屋屋上に45度の理想的な仰角で放水できる。距離50mだと、放水効果は限定的なものになる。発生源に近づいて線量が下がるとは考えにくいが、もしかしたらと自問自答する。この報告をすれば、井上中隊長は、今度は自分が行くと言うに違いない。中隊長には奥さんもかわいい一人娘もいる。
 逡巡している間に、はっと腕時計のタイマーを確認すると現行の線量での許容時間をオーバーしていた。
 オフサイトセンターから無線レシーバーに着信の合図が入ったその瞬間、何かの衝撃波の振動を感じる。訓練で散々体感した爆発の振動。体が疼いた瞬間、建屋から赤い炎と爆炎が一切の視界を断ち切る。前後左右が分からず体が無重力状態となり、不意に地面か壁か分からず叩きつけられた。何処からとなく青い閃光が向かってすり抜けていく。
 耳の奥でつーんとした衝撃の余韻が残る。ソフトボールかバレーボールか、そんな大きさのコンクリートや鉄塊が上棟式で無造作にばら撒かれるモチの如く周囲に落ちてくる。反射的に頭部を抱え蹲ると、真横に人間大の瓦礫が落下した。思わず目がより目になる。
 数分だったろうか、耳鳴りの奥で、我に返る。立ち込める砂煙で視界は確保できないが自分の身体ダメージのチェックをする。両手両足、うん大丈夫、動く。上体を起こしレシーバーを通じて両名の安否を確認するが反応なし。本部にも連絡がつかない。無線も損壊したらしい。
 立ち上がり黒煙を手で振り払いながら周辺を見渡すと煙のスクリーン越しに立花、小池両名も立ち上がって周辺を歩いている姿が確認できる。粉塵まみれになった防護マスクのスクリーンを拭い、線量計を探す。黄色い塗装のフランス製はすぐ傍に落ちていた。拾い上げるが壊れたのか何の反応もしない。赤い塗装のドイツ製は見つからないが、爆風のよる轟音が静まるにつれ、数十メートル先で警告音をキーキーと奏でていた。拾い上げ、汚れたメーターを拭うと針が振り切れていた。上限不明!
 ただちにジェスチャーで「装備品一切残置。直ちに退却」を両隊員に指示する。こちらの焦り具合が一瞬で伝わったのか、一斉に車両を停車させた場所を目指して走り出す。上空何メートルまで爆煙が上がったのか分かなかったが、細かい瓦礫はいまだ降り続く。微妙に痛い。
 走り続けると煙幕のエリアも抜け始め、時間と共に煙幕自体がようやっと落ち着き始め、視界が鮮明になってくる。伴って防護服の損壊とその部位に痛みと流血の感覚を自覚し始めていた。停車位置あったはずの防護特殊車が見当たらない。あたりを見渡すと爆風で数十メートル吹き飛ばされたようで横転していた。装甲はボコボコになっている。今更ながら爆発の威力をまざまざと見せつけられ、よく生きていたなと実感する。
 車両使用不能を判断し、そのまま正門に設置したオフサイトセンターとの中継地点を目指す。電力会社の社員と思しき人たちも一目散に向かっている。
 次第に疲労が蓄積されて走るのが億劫になってくる。防護マスクと密閉された防護服が重みに拍車をかける。億劫なのはマスクの換気不調による低酸素症の前兆と気づく。1km程度だったはずが、建物を縫って進むため、まだまだ遠く感じる。二人の隊員も目に見えて動きが鈍る。
 これまでの訓練を思い出せ。試験ではこんな事は毎日だったじゃないか。足がついて行かなくても、常に前がレンジャー魂だ。薄れる意識の中、必死に足だけは前に進める。建屋の陰から、特防車両が急に姿を現す。急停車すると防毒マスクの隊員が次々と降りてきた。そのまま崩れ落ちると、1人の隊員に抱きかかえられた。防護マスクで顔は伺えなかったが、ゴーグルの奥から、大丈夫か。よく頑張ったとマスク越しでもよく聞こえた。緊張の糸が切れ、そのまま気が遠くなり意識を失った。
 
 
 冷却システムが崩壊した真賀陸原子力発電所は、結局、5機ある内の3機の原子炉建屋で水素爆発を起こした。高濃度の放射線汚染が続いたが、全国から集まった消防、警察、そして自衛隊の消火・放水のプロ集団が三位一体となった注水活動のおかげで、一応のメルトダウンの進行は回避された。
 一度起きてしまった惨禍は未だ継続している。周辺住民は故郷を追われ、行方不明となった核燃料は、チャイナシンドロームにはならなかったものの今でも地下に滞留し続け、流れる地下水を汚染し続けている。
 自衛隊による真賀陸原発収束の任務が解かれたのは、それから半年の歳月を要した。
 

[真賀陸原子力発電所事故から4カ月経過 7月某日 東北自動車道]


 特殊作戦群第1中隊隊長御厨 健(みくりや たけし)1等陸尉は、井上1等陸尉の個人的な依頼を受け、真賀陸原子力発電所事故収束任務の恩賞休暇を利用して、東北自動車を自家用バイクで北上していた。運転しながら、これまでの経過を思い起こしていた。


 バイクの運転は好きだった。北海道の途中の道のりを、フェリーで過ごす輩は関東から南のライダーは、西は舞鶴敦賀、関東は新潟大洗と相場は決まっている。が、僕はこの道程も楽しみだった。何せ、運転中は何も考えずに今やらなければいけない動作に集中すればいい。ヘリの操縦は常に計器とにらめっこで単純に楽しめないし、だいたい地に足がついていないから余裕がない。何度も戦禍は経験し、パラシュート降下もロープ降下も死ぬほど遣らされたが、拠り所がないので、未だに苦手は苦手だ。やらなくていいならやりたくない。程よい面倒臭さと程よい楽さ。車では楽すぎる。我がままだな。僕は。
 20代乗り始めは、職権で各種運転免許の自動取得をいい事に、特別国家公務員という立場も忘れてリッターバイクで高速道路や峠でやんちゃをしていた時もあった。今は、巡航コンセプトの700ccのバイクで、こうやって鼻歌交じりにのんびりとハンドルを握っている。とはいえ、その気になれば200km/hは出せる代物ではある。
 自衛隊正規のルートでの移動は難しくなかったが、目立つ行動すればたちまち監視が強化される。原発事故に関わった自衛官については、普段から素行と適正を監視する情報保全隊保全部が神経を尖らせていた。特に幹部自衛官には、形式上はこれまでの守秘義務の徹底であったが、部下も含めて箝口令がねっとりと敷かれていた。普段から所定地域外の休暇中の行動については申請制であったが、幹部には携帯のGPS追跡はもちろんであるが、民間協力者も活用され網が張られている。
 この国のマスコミは何とでもなるが、保全部が最も危惧していたのが外国メディアと外国諜報員とその影響下にある人物との接触であった。海外絡みは情報保全部だけでなく、警察機関である警察庁警備局公安警察の外事課や内調(内閣官房情報調査室)まで出張ってくる。両方とも国内外テロ対策の諜報機関と言っていい。本来、この国の民を守るべき特別国家公務員が謀反を起こさない、もしく起こした時に迅速に対処する為に、常に諜報活動を汗水流して勤しんでいる。個人情報保護法案で少しは活動がしやすくなったのか。はやくこの国仕様のNSCが欲しい所だろう。
 真賀陸原発事故の情報は、核兵器の有用性を体現する、世界の軍事バランスに関わる極めて重要な情報になっていた。情報保全部だけでも面倒な所に、他省庁の警察や内閣直轄機関の筋まで絡むと、今後の動きとしては相当程度制限がかけられる。ただでさえ自衛隊は左派と呼ばれる政党や市民団体からは蛇蝎の如く嫌われ肩身の狭い。加えて裏事情を抱える僕にとっては、一挙手一投足に不自然な動きがあれば、たちまち監視レベルが上がってしまう。特殊部隊の任務は任務としてプライドを持って処理するが、こればかりは諸所理不尽な思いだ。
 公共交通機関は、監視カメラが至る所に点在しているので、選択肢は車かバイクの利用なったが、ナンバー認識のNシステムなど考慮した消去法は、いみじくも自分の一番好きな移動手段となった。今回の表向きの理由は、あくまでも恩賞休暇の取得による北海道へのツーリングである。レジャーのついでというシチュエーションを前面に出して、井上に依頼された彼の部下の所在を探らなければならない。相談から、井上と同様に自分にも判然としない、妙にきな臭い違和感が湧き上がっていた。3号機爆発事故に巻き込まれた空挺部の2名も、へき地で現場から離れた内勤閑職に回されている。勘が悪い人間でも何かしら推察してしまうだろう。幸い、自分の隊の隊員で真賀陸原発の3回に渡る爆発事故に巻き込まれた者はいなかった。
 いったいどういう事なのだろう。
 被ばく隊員の存在は箝口令が引かれ、マスコミにもいつもの交換条件で一切が秘匿とされている。自衛隊内部でも、一定の線引きがされている。流れとしては、決して芳しい状況ではない。
 特殊作戦群は陸上自衛隊内部でもSと呼ばれ、その処遇は一般隊員と違って、文字通り特殊である。打算的に言えば一人育てる経費も馬鹿にならない。時間と手間をかけて育てたレンジャー部隊から、輪をかけて多額の費用をかけた選抜試験、そして選抜された後も、同盟国であるアメリカのデルタフォース等の海外遠征特殊部隊研修をこなし、ようやっと配属される。
 邪推が大半を占めた考えを巡らせながら、制限速度を遵守しつつ途中休憩もそこそこに、東北自動車道を北に10時間近く走り青森県に入る。日の出とともに駐屯地隣接の官舎を出発したが、あたりはすっかり夕闇に包まれ、常時点灯のヘッドライトの存在感を再認識する。最後のインターチェンジを降りて、記憶と案内表示を頼りに青森港フェリーターミナルに向かう。次第に覚えのある建物が湾口沿いにカーブを曲がる度に見え始めた。総ガラス張りの建物は大きな卓上スタンドのように見える。7月だが、長時間の走行が、空気の冷たさを際立たせていた。途中、晴天から曇り空に移ったが、幸いにも雨には祟られていない。
 尾行の有無を気にしつつ、ターミナルで本日最終便の津軽海峡フェリーに急いでチケットを購入し、他の乗船客と同様に所定の場所で乗船待機。バイクは、徒歩乗客や自動車より一番先に乗り込む。出航30分前に乗船するが、時期が時期だけに、数十台大型から小型、原付まで、思い思いの荷物を載せて乗船を待っている。純粋に、ソロツーリングだったらと今更ながら思案した。
 防衛大学校から幹部養成校を通じて、バイクだけは趣味になっていた。自分でも良く分からないが、乗っていれば平常心に、しがらみから解放された気がしていた。不思議な乗り物だ。
 2等客室に入り、他のマスツーライダー達とは、気持ち会釈のコミュニケーションだけで済ませ、端の方に座りあたりを見回す。監視はいないようだ。どちらにせよ監視者が居てもお互い4時間弱は津軽海峡の波の上で漂うしかない。問題は函館に降りてからかなと楽天的に考えた。


[翌日 午前 美幌駐屯地]

 入口のゲートにて身分証明書を提示。受付票に対象者の氏名と面会と記入。門側の面会室で待機。待つこと15分。ノックののち名前を名乗り入ってくる。
 井上から事前に貰った写真とは明らかに別人物。替え玉を確信し、思考が「悟った」事を悟られない行動様式へとシフトする。井上の疑念と読みは正鵠を射ていた。
「特殊作戦群第1中隊隊長、御厨1等陸尉殿。本日は休暇旅行中にお寄り頂いたとの事で光栄の至りです。数々の武勲は第2中隊にも聞き及んでおります」
「私も、君と一緒で原発収束には駆り出されたので恩賞休暇をもらえてね。いや、いらないって言ったんだけど、部下たちが背中を押してくれて。現場では配置日程が違ったからすれ違いだったかな。まあ、せっかくの長期休暇だから、久しぶりに北海道にツーリングに行くと話したら、ついででいいから様子を見てきてくれないかと言われて・・・行動予定表には記載はしていなかったけど、ついでとい言われたら余計に・・・ねぇ」
と照れ笑いを浮かべる。
「君の上官だった第2中隊の井上は防衛大学校時代からの同期で、例の海外研修も、大体一緒に行動を共にしていたよ」
「井上隊長には一方ならず、お世話になりました。原発の爆発事故で自分も負傷し、裂傷部からの内部被ばくが明らかになりました。原隊復帰は難しいとの転属で現在の本駐屯地の主計部配属になりました。井上隊長には何のご挨拶もできず慚愧の極みです」
自衛官らしい挨拶。若干、辟易する。
「宜しく伝えておく」
 自然の流れに任せつつ爆発当時の様子を聞いてみたが、記録に寸分違わない話の内容であった。が、あまりにも理路整然とし過ぎていた。僕も斥候任務は行ったが、戦場とは通ずる極限化の環境だった。あれだけの修羅場と自らも負傷した割には、他人事のように淡々と説明している。
 あとはとりとめのない世間話をして、最後に笑顔を作って程無く退散した。面会の記録は情報保全部には今日中に届くだろう。
 僕の行動を単なる旅行のついでとは看做すか看做さないか。看做さないと思って行動した方がよさそうだ。すぐさま井上と連絡を取りたい所だが、迅速な行動移譲は警戒を呼び込む。盗聴や会話記録の遡及に晒される危険がある。ここは大人しく観光地を巡り、諸般の動向を待つ。
 使い慣れた腕時計で時間を確認すると既に正午を過ぎていた。美幌駐屯地をそそくさと後にして、知床半島の峠道をワインディング。知床峠で記念撮影と他ライダーと談笑。既に日は傾きかけ、急いで予約している中標津のホテルに向かう。またハンドルを握りながら考えあぐねる。
 後は、どう読み解くか。替え玉・・・本人はいずこ。
 死亡なら死亡で名誉の殉職にすればいいだけの話だ。原発事故で散った名誉の戦死。下賤な話であるが、美談として喧伝するのは恰好の材料になるはずだ。原発反対派からは相応のハレーションは必至だが、国威発揚にはもってこいだ。死亡宣告せず名誉の負傷から褒章転属・・・もう、よからぬ結論は導き出せる。権謀術数の世界だ。恐らく井上も目算は付けているのだろう。後は確定した情報を伝え判断してもらうだけだ。 仕掛けとしては単純な話だ。各斥候任務に就いた隊員の線量計が細工してあった。低く算出されるように。あの時、高濃度の放射能の漏えいは、報告がなくとも誰もが把握していた。覚悟もしていた。ただ、上層部は最初から馬鹿正直に周知すれば、全体の士気を差し障ると懸念したに違いない。自衛官は、法律上、唯一「死んで来い」を通知できる特別国家公務員であるが、これまでに、その命令を出した事もなれば、隊員も受けた事もない。
 法律で定められている出動の体系は二つ。
 
 国外勢力の武力侵攻に対抗する「防衛出動」。
 国内で事変が起き、警察力で対処できなくなった「治安出動」。
 
 発動が検討された事は幾度どとなくあったが、その度、警察が底意地とプライドで凌いできた。また内調や外事課の不屈の精神と、安全保障条約を結んでいる海外諜報機関との連携に助けられ、最後の一線は越えずに至っている。それ故に、災害出動以外はない、死を賭して戦うなんてありえない、とタカをくくっている隊員も大勢いる。
 先の原発事故は国とゼネコンと電力会社のコングロマリットが織りなした、原子力ムラによる人災危機だ。そんな利権構造の輩のために、命を懸ける命令は極めて出しづらいと上層部は判断したのであろう。
  それから何事もなかったように出した旅行計画をこなし、4日間の恩賞休暇を消化した。部隊に戻って数日後、幹部会議後に場所と時間を選んで井上に報告する。
予想通り、結果を聞いても、井上は微動だにしなかった。


[数日後 防衛省統合幕僚幹部 統合幕僚長室]

 御厨の報告を受けた井上は、いきなり統合幕僚長の所へ乗り込こみ、挨拶そこそこに核心を迫った。


「あの事故で負傷した第2中隊第2小隊、小隊長飯塚2等陸尉、隊員小池2等陸尉、同じく隊員の立花2陸尉、以上3名につきまして、未だ原隊復帰を確認しておりません。群隊長にお伺いしても、らしくない歯に衣を着せた物言いでした。大変恐縮ですが、自分のとある立場を鑑み頂き、自衛官としてあるまじき行為ですが、直接幕僚長にお伺いさえて頂いた次第です。入院若しくは加療療養中という事であれば陣中見舞いに行きたいと考えております。3名の所在を教えて頂けないでしょうか」
 敢えて休暇を取って本丸に乗り込んだ。背広組のトップに直談判など、本来なら懲罰ものであるが、Jの立場を利用させてもらう。一群の中隊長に翻弄されているのがよほど嫌なのか、幕僚長は露骨に眉間に皺を寄せ、大きく口周りを拭い、ふぅと息をつく。
「あの時、真賀陸の3号機の爆発に巻き込まれた隊員は、2号機で放水活動を行っていたCRF(中央即応集団)隷下の特殊武器防護隊隊員6名及び隊特殊作戦群であった君の部下、第2中隊第2小隊3名、他に空中放水で下見に来ていた空挺団2名の計11名だ」
幕僚長は、話に勢いをつけたいのか執務机に手を突き立ち上がった。
「君に、妙な隠し事をしても無駄だな。君自身が裏事情だから分かるだろう」
その通り。察しはついている。確認をし、確信を得たいだけだ。
「あれは水素爆発ではなかったのですね」
「そうだ。使用済み燃料プールの水が干上がり、水素爆発と同時に、燃料棒同士が接触し再臨界した。専門家は核爆発という表現は使っていないが核反応が起こったことは疑いようもない事実だ」
あっさりと認めた。世間でも大方の予想はついてが、今更ながらあれだけの事があったのだ。森の中の木ではないが、例え確定していても、大勢として諦観ムードに影響はないのであろう。
「大量の放射線が放射されたんですね」
「大量でなかったが、それぞれの配置された位置で被ばく線量が大きく変わった。中性子線だ。2号機で放水活動していた特防隊は、距離も離れていた上、放水のよる水の壁が功を奏しのか、直接的な照射は避けられたようだ。年間許容被ばく量は越えてしまったが、重篤な影響はなかったようだ。ただ君の部下の3名は燃料プールの真裏にいた」
 覚悟はしていた。中性子線の恐ろしさは、水と鉛以外の物質を透過し、体中の細胞を傷つけていく。傷ついた細胞は、二度と復元しない。以前、某研究センターで臨界被ばく事故があった。その顛末は、今回の事故収束に携わった隊員は理解していた。
「これ以上、伝える必要はないだろう」
 幕僚長の顔つきが一層に険しくなり、椅子にどっかりと座る。今更分かっている言葉を考える必要はなかった。察せよと。幾ばくかの反芻した言葉を呑み込み、踵を返す。俺は今、どんな顔をしているのか。顔面の至る所の括約筋が突っ張っている。
「失礼します」
踵を返し退出をしようとしたが、呼び止められる。
「ちょっと待て。あまり激しく動き回られては後々面倒な事になる」
 面倒。この期に及んで面倒だと。血液とリンパ腺が激しく蠢いている。
「持って行け」
 メモに何か記入し、渡される。
「いつものやり方だ。くれぐれも私の名前は出さんでくれよ。面倒になるからな」
2回も言った。手を伸ばし、メモを握りしめる。
「はい。承知しております。自衛官としての本分は弁えておりますので。ただ、一つ意見具申というか、個人的なお願いなのですが」
「なんだ」
「情報保全部の監視だけは外して頂けないでしょうか。別機関の方々は自分で何とかしますので」
再度、大きく息を吐く。これ見よがしのため息だ。なぜ、この人は幕僚長なのだろう。いや、だから統合幕僚長か。流石だ。
「分かった。保全部に行っておく。ただ明日のヒトフタマルマルジより9時間だけだ。これはお前がJだからこその特例だからな」
 敬礼して部屋を後にする。自分で調査する時間が省けた。直ちに行動を開始する。


 統合幕僚長は腕を組み、数秒思案したのち、机から受話器を取り出すと同時に自動接続される。
「ああ。私だ。今の会話は聴かなかった事にしてくれ。消去の上、保全部にはそれらしい会話をでっちあげておいてくれ。あと、スケージュルの細工も頼む。私の命で緊急の内勤扱いにしておいてくれ」
電話を置くと、三度めとなるため息を「うーん」とつく。
「お前たちJの育成に一体どれだけの金がかかっていると思っている。S(作戦群の通称)でさえ、装備一つに秘密予算が莫大に使われている。海外でイギリスやアメリカの特殊部隊の実戦に帯同させるのにどれだけ金をつぎ込んだか分かっているのか。それだけではない。外交上、何人のエージェントが、下地づくりにどれだけ苦労したのかも知らんだろう。この国で国防の要になるのだぞ。Jは。お前を含めたった9名しかいない。いまだ7人は武者修行中だ。既に脱落という戦死者は50名近くになっていると聞く。地獄の3年間を潜り抜けた貴重な人材なんだ。くれぐれも変な気は起こさんでくれ。このまま穏便に退官して、余生はのんびり過ごしたいんだ」
 統合幕僚長の願いは叶うことはなかった。


[翌日 夕刻 首都圏某病院]

 ここの所、予算の都合かそれとも上層部で連携がなされたのか、尾行は少なかった。内閣直属機関の連中は、尾行する人間にも、妙なエレガントというかスマートさを感じる。比較すると警察関係はバタ臭い。どちらの監視が好ましいといえばどっちも御免被る。あいつらも因果な仕事だと改めて思う。
 幕僚長は9時間といっていたが、外部機関の監視を考慮すると実質は6時間が限界か。6時間以上、ロストすると次からの監視が強化される。
 これから確認する事象を想像するだけで吐き気が止まらない。ほぼ決まっていると思う結果を再確認する。その上で、決心を実行する。その決心に監視強化は影を落とす。任務遂行の極意は、限りなく100%完璧に近い下準備にある。
 メモの書かれた場所は、自衛隊が関わらない近郊の病院であった。緊急救命救急室や、あらゆる最新医療機器が揃えられている三次病院への収容かと思っていたが、外観は6階建て、公共団体が経営する二次病院程度の規模だ。診療科の看板にホスピスと明記されていた。ポスピス即ち、末期患者受け入れ専用病院だ。
 正面玄関から表だって入ると記録が残る。遡及されると厄介になる。幸い、警備については表玄関にアルバイトの民間警備員が1名だけ暇そうに佇んでいる。死角で物音を立てて注意を剥かせ、その隙を突き造作もなく侵入する。
 面会時間内もあってか、あちらこちらに見舞客は点在していた。そのまま見舞客として紛れる。階段とエレベーターのエントランスの一角に案内表示板を見つける。5階が特別治療室、6階は表示がなかった。どちらかにいる。途中、資材室を探し避難用のロープを拝借する。万が一、痕跡を残さず退去するためだ。
 交差階段を、周囲を探りながら5階に昇る。壁越しにナースステーションを伺うと、当直と思われる看護師二人がにこやかに談笑していた。大往生が約束された方のフロアーのようだ。となると6階、案内板非表示の場所という消去法が成り立つ。お約束の「関係者以外立ち入り禁止」の看板が、2本のパイロンにしめ縄が掛かっている。
 6階に上がると、病院特有の薬品の匂いが一層強くなる。構造自体も5階と違っていた。たいていの病院は、2階より上の階は同じような間取りとなるのが定石である。2~5階の位置にあるはずのナースステーションもなく、理路整然と同じ敷地面積と思わる部屋が幾何学的に並んでいた。まるで学校の教室のようだ。通路の照明も、他の階に比べれば明らかに暗めに設定してある。
 通路を挟んで正面にナースステーションらしき台座が見える。階段口から一番奥の両部屋のすりガラス越しにうっすらと光と何かしらの輪郭を帯びた姿が見える。ここで治療を受けているのだろう。密林での人質救出作戦を思い返す。今回は行方不明の部下の捜索だ。
 物陰に隠れてしばらく偵察すると、片方の部屋から看護師が正面のステーションと思われる場所に入る。数分後、反対の部屋から同様にステーションに入っていた。1時間は状況分析したい所であるが、制限時間が刻々と迫っている。どうやら看護師は1部屋に対し2名で交代して看護観察しているようであった。明らかに5階の看護師とは表情が違った。疲労感を漂わせ、およそナイチンゲールの思想とは縁遠い様相であった。おかげで、侵入者を気にしている余裕は微塵もなさそうだ。
 視界が及ばないタイミングを見計らって病室と思われる部屋に侵入する。廊下より照明は明るかった。機材らしき陰に隠れ室内探索をすると、ベットが3床。特殊な器具らしきものに全身を支えられていた。
 現状認識をした瞬間、心臓の拍動が止まった。
 3床のベットに3人が、巻かれた包帯やガーゼからは黄と赤の混ざり合った体液がじくじくと滲み滴り、ベッドに敷かれている防水シーツに煮こごりのように溜まっていた。呼吸器が挿管され傍に設置されたベンチレーターが空気を吐き出しながら蠢いている。そのリズムにあわせ、動かない体躯の胸だけが、呼吸の度にせせりあがり、また下がる。体表面の物理的圧力を限りなく少なくする為に、傀儡人形にように吊り下げられている。のれんのように心電図のコードや点滴他管が何本あるのは一目では判別がつかなかった。意識はあるのかないのか。
 脳機能がパニック状態になり整理がつかなくなる。それでも実戦で酷使された身体は無意識に気配を押し殺し、悟られぬように反応していた。数分で陰鬱な表情で看護記録を書いていた看護師が退出する。見届けて、乗り出し、ベッドの名札を確認すりと聞いたこともない名前。偽名か。判然としないまま、立ち上がると1人と包帯越しに目があった。誰が飯塚なのか、それとも立花か、小池か・・誰だ。お前たちは誰だ。表情だけ目線だけで意思疎通できた部下達なのか。
 感情がコントロールできなくなる興奮が蘇る。生死をかけた戦場と同じ感覚。心理学ではゾーンとかフロー状態とか言われている。怒りに我を忘れた自分を客観的に観ていた。ただただ、すまないという言葉だけ浮かんでは消え浮かんでは消え反芻していく。中性子線は、鍛えあげた特殊作戦群の猛者たちの、屈強であったその痕跡を全て消し去っていた。こんな事になるのならば、行かせなかった・・・
 いや、俺はわかっていた。線量計が警告音を響かせようと、この顛末が分かっていても任務に突っ込ませていただろう。だから、今のお前たちの有様は俺のせいだ。あまつさえ安楽死の選択肢も与えられていない。なぜ、生かす。
 交錯する思案が嫌な方向にひたすら傾き戦慄を覚える。また、パニックに陥る。データ取りか・・・作為的に生かされている。この音頭を取った奴は何処の誰だ。心理的な逃避行動は怒りの対象を探し出す。もう自衛官でもない。
 あの事故で、一体どれだけの国土が汚染され、地元民が故郷を追われたのだ。あまつさえ、収束に命がけで戦った部下たちに替え玉をあてがい、隠ぺいし、人体実験という治療に葬られている。
 

 井上の憤怒は、この国にとって2度目の国難につながる。用意周到な準備を経て、2カ月後に現実のものとなった。
 
 
[同年9月上旬某日 動谷県浜々原子力発電所を一望できる原子力科学館展望台]

 動谷(どうたに)県貴方崎(あなたさき)市にある浜々(はまはま)原子力発電所は、首都東京から地図上の直線距離で200kmほど、全国地図の位置として関東と関西の丁度中間地点に建設された。全国の、再処理工場や高速増殖も含めた原子力機関の中で首都東京に二番目に近い原発である。影響を及ぼさないギリギリのラインで作られた立地条件。東から近州灘(こんしゅうなだ)の起点となり遠浅の灘がおよそ100kmに渡って南西に伸びている。そばに砂丘があり、観光客用に公園が整備されている。堤防から砂浜に出ると、数キロ先に原子力発電所の雄姿は確認できる。北側は国道を挟んで住宅街が広がっていた。
 
 
 敷地に隣接して、三か所の建物で編成される原子力科学館があり、土曜祝祭日は家族連れで賑わう。キッズルーム他野外ステージにも変わる広場。アメニティーは充実の限りであるが、入場料は無料。これだけのスタッフを抱えて無料とは。金の出所はこどもでも分かる。
 津波対策として防波堤のかさ上げと、衝撃に耐えうる城壁を堅牢強固にさせる工事が急ピッチで行われ、工事車両のダンプがひっきりなし行き交っていた。既に、5機あるうちの一番東側にある5号機については、津波対策に着手しているということで、原子力安全審査員会から認可されて稼働していた。
 真賀陸の事故以来、国民的な運動となって原発の反対気運が異様なほどの盛り上がりを見せていた。知識人、文化人も挙(こぞ)って原発即時廃止を声高にあげた。しかし、夏を目の前に電力が足りず計画停電という全国の電力会社からの脅しともとれる行動により、自治体の了解を得ながら次々と再稼働ありきに政策展開が進められていた。
 10年程前にアメリカで起きた航空機ハイジャックによる世界貿易センターや国防省に突っ込んだテロ以降、この国も遅ればせながら原子力発電所等を重要防護施設として認定し、銃火器を装備した警察部隊を配置するようになった。これまで自衛隊内部でも議論の俎上には上がっていた。有事にこそ、我が特殊作戦群だろうと群隊長も考えていた。しかしながら慎重派と目の前で起きない危機は、政治家お得意のペンディングの繰り返しとなった。
 展望台で浜々原発を睥睨しながら、おぼろげに立てていた計画をより細緻に再構成する。目的は発電所の占拠。協力者なし。単独で行う無謀な計画。浜々原子力発電所を選んだのは、単純な理由だ。国土東側沿岸にも北から南まで全体の三割以上の原発が点在しているが、政情不安と安全保障条約を結んでいない海を挟んだ国から望まざる客人が、非合法秘密裏に次々と上陸密入国をしている。海上保安庁もさることながら警備体制が一段と厳しい。自衛隊と警察の合同訓練も実施している。反面、こちらは、警備はされているものの警戒レベルとしては比較にならず、自衛隊内部でもさほど重要視されていなかった。更に首都圏に近く経済密集地帯への影響が大きい。また、住民の反対運動が恒常化しており、その運動に紛れて行動ができた。
 2カ月かけて周辺調査を行い、最後に、妻の葉子と一人娘の真奈美を懇意にしているイギリスのSAS隊員ルートを通じてイギリスに旅行に行かせた。こんな計画、何も話せる訳もなかったが、企みについて妻は感づいているだろう。素知らぬふりをして通常通りに仕事はこなしていたが、プライベートの生活は一変した。これまでは休みの日には可能な限り家族サービスをしていた。何より、6歳になったばかり真奈美との時間はかけがえのないものだった。
 原発事故収束の任務にあたる前に、一人っ子では可哀そうだと思い、二人目を試みたが懐妊には至らなかった。精子を保存も考えたが、万が一、妻とこどもが残されてしまったら、次の人生の邪魔になると思い自重した。
 写真撮影は禁止だったが、目視記憶とネットの衛星写真で充分であった。展望台を下り、会館を通り抜ける。入口の案内所で真賀陸事故の影響で利用客は増えたと、案内の女性が来場者に得意に話していた。建物の中央の吹き抜けには、原寸大の圧力容器の断面模型が存在感を示していた。


 [9月某日 7:00~ 浜々原子力発電所周辺]
 
 決行の日。天候は快晴。残暑厳しく、朝っぱらから未だに蝉がうるさい。午後にはうだるような暑さになるだろう。中東の乾いた暑さとは違う、この国独特の高温多湿な暑さ。この国で実戦をやるのは2度目だ。
 あの時は仲間がいた。今日は誰もいない。タクティカルスーツも防弾チョッキもプロテクターもない。銃火器もない。麻のジャケットとGパン。スニーカー。自作のC4爆弾はバックに山ほど入っている。スタンガンとその他ネット通販で殆ど揃えた手製の装備一式。恰好だけは休日のサラリーマンと一緒だ。昨日まであった、クーラーの効いた部屋はもう期待できない。日没までの我慢比べが始まる。
 目をつけていた土砂の会社敷地の一角に潜みこむ。次第に従業員と思しき人物が次々と出勤してきた。これまで通り。8時50分に、全員敷地に出て朝礼。全体でラジオ体操をやった後、詰所に書類を取りいったドライバーから、並列駐車しているダンプに次々と乗り込んでいた。既に、前日に忍び込んで、原発に行くダンプは把握していた。堆積場の死角に移動し、ショベルカーが砂を搬入する。隙を見計らい、まず機材を入れたバックを放り込む。再度砂がかけられる。砂山に戻るタイミングで素早くディバックと一緒に乗り込み、シートで全身を覆い、砂に潜りこむ。荷台煽りの先端に、簡易防塵マスクとホースで作った吸入口をひっかける。自作塹壕と同じである。砂は若干、カビ臭い。2日前の雨のせいか。
 銃火器の類は隊から持ち出しも考えたが、自衛隊は世界の軍隊でも稀にみるほど管理だけはやたら厳しい。訓練で撃った自動小銃の薬きょうでさえ、持ち出し数と合わなければその隊は連帯責任で見つかるまで探す。
 あとはご破算、をやってしまうと残された部下達の保管責任の追及と処罰は必至だ。無理をする必要はなかった。入用の銃火器は、現場で鴨がネギを背負ってやってくる予定だ。
 入口ゲートでの検問については1週間かけて把握していた。平台の運搬車両については大まかなチェックだけでゲートを通過している。民間と思われる警備員だったが、プロと思われる警備員とアルバイト警備員の2組で検査をしていた。車両重量まではチェックはしていなかったが、用意していた土嚢に砂を入れ、信号待ちの間に他の車の死角から決めていたポイントに捨てていく。
 ダンプ荷台に潜んで20分程度で現着。ゲート前で一時停止し、運転手が降りて通行証と書類を渡す。何事もなく通り過ぎる事を願っていたが、おぼろげに聞こえる会話から荷台の検査が入ったようだ。10%程度の確率で抽出検査は把握していた。二人の警備員が会話しながら近づいて来る。この時の為に、東から北に広がる雑木林の敷地フェンス3か所に細工を仕掛けていた。
 スイッチを押すと、甲高い爆発音が不連続に雑木林から響いく。近づいていたい警備員はいち早く反応したようだ。怒声が飛び交い、直ぐにゲートが閉鎖される。
「俺はどうすればいいんすか」
運転手は困惑した。
「とりえあえず工事現場の方に行って下さい!後、指示が出るまでその場で待機して下さい」警備員は慌てながら答える。
「え、この後仕事が・・・」
「いつもの反対派の悪戯だと思うだけど、規則は規則なんで。安全が確認され次第、戻れるようにしますので」
「たっく、しゃねーすね!」
ぶつくさと言いながら、運転手は運転席に乗り込んだ。動き出して人の気配を感じながら、そっと砂山から顔を出すと、22mの防波堤工事の西側に向かっていた。各建物から館内放送と思われる音声が籠って聞こえてくる。一般人には分からないように暗号符牒の内容だろう。
 工事現場に到着すると、工事現場関係者しかいない。皆、音源の雑木林の方に顔を向け、ああだこうだと言っている。
 細工の花火とスピーカーは昨夜のうちに仕掛けておいた。見回りもあったが、フェンスから10m以上離れていれば造作もなかった。
 まずは第一段階成功。次のフェーズにシフト。原発の冷却機関とつながる電源室の掌握だ。荷台から降り建設重機に身を隠す。建屋の内外に監視カメラは至る所に点在している。いずれ探知されるのは織り込み済みだ。探知されてから警察部隊が来るまでの時間との勝負だ。
 監視カメラの死角を縫い3号機の冷却機関の建屋に近づく。ここから一番東側の5号機までの冷却機関の掌握が第2段階のノルマだ。
 建屋の扉は電子ロックで2重構造。待機し、騒ぎに気が付いた職員が扉を開けた所で、スタンガンをあてがう。スイッチとともにバチっという音と共に小刻みに痙攣しながら職員は倒れ込む。そのまま中に侵入すると作業服を来た10名ほどの職員が作業にあたりながら、今、敷地内で起きている事件について談笑していた。
「何だ。また反対派の嫌がらせかよ」
「たまんないよな。実際。動かないと困るのはここの住民だろうが」
「まぁ、実際に扇動しているのは、大方は地元とは全く関係ない市民団体だからな」
「とりあえず、マニュアル通り、外部からの異常事態が発生したので、5号機は運転停止にさせるみたいだぞ」
「全く、どれだけの損失になるかと思っているんだよ」
「真賀陸事故以前は、反対運動なんかタカをくくって、動力停止なんかしなかったらしいけど、今ではガラス張りになりつつあるからな。稼働記録も公開義務が生じたみたい」
「今や、市民様々だ。いちいちお伺い立てないと。うちらはその筋の方々にはゴキブリの如く嫌われているからな」と苦笑い。
 この人たちに何の落ち度もない。誰でも日々の生活があり、それを守る戦いがある。俺の勝手な都合で申し訳ないが、少しの間、付き合ってもらいたい。まごまごしている時間はない。
 意を決して姿を晒すと、職員一同一応にぽかんとしている。すっと近づきスタンガンを躊躇なく一人一人に打ち込んでいく。抵抗する暇は与えない。市販で電力最大限のものを入手したが、予想以上に効いている。気絶するもの、涎を垂らすもの、失禁するもの様々な反応だ。こんど、このメーカー、装備メーカーに推薦とつい思う。
 電子ロックは内側からもかかるので、入った時点でインキー状態になる。一人だけ腕と首を後方から極め拘束する。恐怖で顔が引きつっていた。
「どうするつもりですか」
「申し訳ないが、あなたにはもう少し付き合ってもらいます」
「私たちは、て、て、テロには屈しません!」
と上ずりながらも、毅然とした対応だ。
「マニュアルでそのようにせよ、ですか。実際に起こってみてどうでしょう。これが実戦です。これはスタンガンですが、拳銃だったらどうでしょう?」
懐からS&WM36回転式を取り出し、目の前に見せる。モデルガンだが。
「わ、分かりました。ど、どうすればいいんですか」
「度々、申し訳ない。ちょっと大人しくしていて下さい」
準備していた手錠で、配管パイプとつなぐ。
「これから、この分電盤に爆弾を仕掛けます。爆発すれば冷却システムはダウンするでしょう。復旧には相当程度の時間がかかりますね」
「や、やめて下さい。何をするんです。真賀陸の事故はあなたも知っているでしょう!」
「ええ、よく知っています。だから、です」
「だから、って言われましても・・・困るんです。そんな事をされたら~」
顔から血の気が引き、みるみると青ざめていた。
「遠隔操作で起爆できます。あと、解除しようと必要以上に振動を与えても起爆するので、取扱いには注意して下さい」
ずらりと並んだ分電盤に、準備していた手製のC4爆弾を等間隔に接着していく。
 同じ要領で4号機も制圧し、爆弾を仕掛ける。幸い、カードキーは全て共通であった。北東フェンスの細工については、既にネタがばれ始め、警備員の態勢が整いつつあるようだ。3号機の顛末も、監視カメラで把握されているはずだ。4号機の冷却機関の制圧を終えると、態勢を整えた民間プロと思われる体躯の警備員が警棒を持って走ってきた。そのまま5号機に人質の職員と一緒に移動する。余裕があれば5号機も制圧したいところだが、パトカーのサイレンが聞こえてくる。さて、ここから本番だ。


[同日 10:15]

 遠方から蝉の声を縫ってサイレンの音が聞こえ始める。音が近づくとともにまずは5台のパトカーと装甲車が到着する。次々と武装警官が降りてくる。黒色に彩られたタクティカルスーツを纏い、隊長と思われる男の号令と指示に従って、隊列を組み、包囲網を形成していく。原子力関連施設警戒隊、別名、銃器対策部隊。原子力テロ対策の警察専門部隊だ。続いて、パトカーはこれでもかと続々と入ってくる。隣接している原子力館の来客者用の駐車スペースは、たちまち白と黒のツートンカラーに支配された。
 5号機の隔操作爆弾を仕掛け終わる。人質の手錠を外し、謝罪し、解放する。そのまま、扉を閉め、籠城体制に入る。
「単独犯に大げさなこって・・・だが、待ってたよ」
 警察関係の尾行のロストは容易かったが、非合法で銃火器を入手すれば仕入れ先から足がつく可能性があった。原子力発電所は、重要防護施設故に強力な銃火器を携えた連中に枚挙の暇がない。
 小窓から外を確認すると、銃火器隊は制圧マニュアル通り、一定の距離を置いて制圧班の編成している。狙撃隊は2組。狙撃位置を確保しようと観測員と一緒に排気塔を上っていた。
 隊長と思われる男が、テンプレートな投降を呼びかける。
「お前は完全に包囲されている。無駄な抵抗はやめて投降しなさい。さもなければ、武力をもって鎮圧する」
 やはり警察だなと苦笑する。実際の戦闘に前置きも余韻もない。存在に気が付いたらコンバット開始。先手必勝。殺れる前に殺れ。
 5名の制圧班が短機関銃を携え、身を潜めて扉に近づいて来る。サブマシンガンはMP5Fだ。閃光グレネードと催涙弾を投下後、急襲をかける算段か。人質がいなくなったら制圧前提の作戦だろう。原子力発電所の構造自体は市街地戦ではない。密林戦だ。数の有利はすべからくとはいかない。
 
 
 各所で閉鎖された空間は人海戦術の有効性を低減させていた。井上の予想通り、人質の解放を知り、態勢の整っていた制圧班は一挙に制圧行動にシフトした。照明を落とし、ドアを開け、スタングレネード閃光と催涙弾を投下し、一斉侵入を開始する。
 井上は、対処済みであった。ガスマスクと閃光ゴーグルを装着。天井の死角にロープワークで潜み、まず先頭の一人のスーツとヘルメットの首筋の隙間を狙ってスタンガンで無効化する。天井にぶら下がったまま、単機関銃MP5とホルスターにあった拳銃と暗視ゴーグルを剥奪する。暗視ゴーグルを装着した所で、天井から降り、分電盤の陰に隠れる。倒れた隊員を餌に、狭い通路に一人づつ誘い込んではスタンガンで無効化していく。
 気が付くと隊員は一人。懐中電灯で暗視ゴーグルに直射。眩しさで隊員はもんどりうって倒れこむ。慌てて暗視ゴーグルを外すと、涙目で霞んだ眼前に、各隊員から引っぺがした銃火器で武装した井上が仁王立ちしている。
「申し訳ない」
 突入から5回目のスパークが辺りを一瞬だけ照らし、鳴り響く。この時、まだ井上は正体不明のテロリストである。制圧マニュアルに沿って特防隊は行動していた。特殊工作員のテロは想定していたが、単独テロであれば十二分に対応できると踏んでいた。しかしながら、井上という男のポテンシャルは、これを全て凌駕していた。
 
 
 失神している隊員一人を盾にして扉を開ける。暗証番号とカードキーは最初の人質から入手済みだ。幸い、全部共通の番号だった。予算の都合上か。突入を命じた隊長は唖然としていた。4号機と3号機の排気塔に位置した狙撃班に威嚇射撃をする。そしてMP5Fで、後方に待機している機動隊員にも威嚇射撃。慌ててる。慌ててる。向こうは笑いごとではない。
「とりあえず、こんなもんか。予定通り」


[同日 10:45]
 
 一時的に撤退を余儀なくされた対策部隊と機動隊は、前線を原子力科学館まで退却していた。5名分の銃火器がテロリストの手に渡り、3機の冷却機関の分電盤に遠隔装置爆弾が仕掛けられている。
 現着した動谷県警本部長は、状況を銃器対策部隊隊長に確認すると、マニュアル通り一番近い愛知県の特殊急襲部隊、通称SATの出動を要請した。周辺住民の避難をどうするのか。真賀陸の時と同じく、パニック状態に陥っていた。今度は人災だ。現地対策本部が、原子力館の1階のスタッフルーム他空き部屋に設置され、警察は総動員の構えとなった。総力戦の様相を呈す。 井上は、そのまま3号機冷却機関の建物で、細工をしたベストを着込んで動作確認していた。
「さて、次はSATだな」
これも予定通りだった。


 [同日 10:45頃 習志野駐屯地]
 
 浜々原発でかつての戦友が暴れまわる一方、特殊作戦群本部3科作戦立案担当、樋口三等陸佐は士官室で整然と、執務にあたっていた。
 
 
 浜々原子力発電所占拠の一報は、私にも専用回線で入ってきていた。本筋ルートより先に詳細は入手できている。単独犯であり、銃器対策部隊で全く対処できず、武器を悉く剥ぎ取られたとの報告は、井上以外ありえない。諸々懸念されたが、人的な被害は打撲や骨折程度のものはあるかもしれないが、命や重篤な後遺症に悩まされるような被害はないはずだ。井上なら、それぐらいやるだろうと。
 
 
 期せずして、防衛大臣から防衛省の例の部屋に来るよう連絡が入った。樋口は、全ての執務を放棄し、下士官の森田一等陸尉を呼び状況を説明すると部屋を後にした。
 
 
 [同日 11:15 防衛省]
 
 到着する公の通路ですれ違う上官や官僚に敬礼をしながら、公式の図面には載っていない地下の一室に向かう。Jとして指令を受ける場所だ。地下故に、核攻撃にも耐えうる設計になっているが、いつ来ても殺風景な部屋だ。10平米程度の広さでコンクリートは打ちっぱなし。IT機器もなければソファーもない。大臣、官僚には似つかわしくなく不自由な空間であろう。電子ロックもない赤錆色の重苦しい鉄扉を開ければ、折り畳みの事務机が二つ並んで、あとはパイプ椅子。どこかの公民館の集会場と変わり映えしない。
 自衛隊は、世界のあらゆる軍隊においても異質な存在はない。この国が法治主義国家であり、全てが法律で規定されている。自衛隊法についても、その経緯から常に難しい運用と、牽強付会な解釈のこじつけで進められてきた。その矛盾の吹き溜まりのような集まりが、これから開催される。
 統合幕僚長、中央即応集団司令官、防衛大臣、内閣官房長官の秘書が凛とした面持ちで待っていた。脱帽の上敬礼。司令官だけは座らず屹立していた。こちらの顔を一瞥すると相変わらずの鉄面皮で軽く手を挙げる。面々も自治会の役員と似たりよったりに見えてしまう。換気扇の前で、訝しいげに官房長官がスパスパと煙草をふかしていた。本来なら自衛隊総指揮官になるはずの内閣総理大臣はいない。なぜなら内閣総理大臣もJの存在は知らない。総理大臣が除外されているのは、個人としての権力が強い為、反転した場合のリスク回避を考察した者の思案の帰結であろう。
 
 Jとは自衛隊で唯一無二の実戦練度を積んだ小隊である。
 通常時は中央即応連帯隷下のこの国で初めて設立された特殊作戦群に属している。特殊作戦群自体がSと呼ばれ、自衛隊内部でも秘匿に包まれた部隊だが、その内9名の隊員が裏の部隊Jとして点在し、必要な作戦に応じて幽霊小隊が構成される。不純物の混入は全体の士気にかかわるため、群隊長にも秘匿とされている。上層部の汚れ役、法治国家に縛られない最後の切り札。Jは「ジョーカー」の隠語だ。自衛隊はもとより国内の別機関からも要所要所で変な動きを封じ込める為、監視の対象とされている。担う任務は特殊中の特殊。「できない」という選択肢はない。
 Jはおのおのが海外の紛争地域に出向き、各国の特殊部隊に同行し救出作戦や掃討作戦に参加している。その際の戦闘で人を殺している。それも数人という単位ではない。何十なのか何百なのか何千なのか。そもそも戦死者数など民間人も含めて曖昧模糊したものだ。紛争地域に軍人も民間人の区別もない。昨日まで家事手伝いしていたこどもが爆弾を体に巻いて自爆行為をする信仰が浸透している。そんな状況下で遡及する記録自体が存在するはずもない。
 上限が9名まで。不文律である。これ以上、人数を増やすと統御が怪しくなる。Jである私でも、これまで何人がJとして海外の戦地や紛争地域に赴き、戦死し、また補充されたのか、総数は掴んでいない。ただ第1次選抜で3年間の「研修」を生き残ったのは、私と井上、御厨の3人だけだ。奇しくも防衛大学校で同期、同小隊で、恒例の学園祭棒倒しの頃から親友、そして戦友として、この国の防衛任務を果たしていた。補充要員の6名は、未だ各々が戦地に赴き、人殺しの力を滔々と高めている。小隊が9人揃ったミッションは、これまで3回。最初は某北の独裁国家の内偵者の救出。2回目は、アフガンでのアルカイダ掃討作戦への参加。3回目はこの国の東側の海に面した原発のテロリストの排除であった。
 なぜ、こんな事がまかり通っているのか。戦闘とは突き詰めれば突き詰めるほど、結論としてはどうやっても実戦経験が必要になってくる。大国が、小国の紛争にわざわざちょっかいを出すのは、実戦経験を積ませるためだ。
 このシステムの源流は辿ればおのずと明らかになると思うが、もう発案者も存在しない。また、そこに至る人脈も折々で千切れている。自動システム化しているのだ。その自動化システムが、この国ではどうやっても積み上げる事ができない実戦経験を積んだ兵士を生み出し、見合った以上の成果を上げている。
 
 防衛大臣が禁忌を犯して声を荒げる。
「同じJの連中の説得はないのか。刎頸(ふんけい)の友なのだろう」
「お言葉ですが、同じJだからこそ。説得など無意味です」
「なぜだ!」
司令官がフォローに入る。
「大臣は今回が初めてでしたね。ご存じの通り特殊作戦群自体がこの国で初めての特殊部隊です。従来の通常部隊とは、著しく異なる論理体系で運用されております。更にJについては、唯一海外の紛争地域に敢えて赴き、実戦による研鑽を積んできている小隊です。詳細は全て非公式にも消去されていますが、個々人の独立的な思考体系に基づき、依拠しております。存在としては一人が一個小隊に匹敵するものです。井上、樋口以下7名は作戦群の中に紛れていますが、全員が全員、樋口三等陸佐と同じ答えを出すでしょう。あの行動は井上なりに出した戦略判断なのです」
「もう会話は控えて下さい」
 官房長官秘書官が冷徹に通告する。沈黙が再び部屋を覆う。
 そのまま従来の様式美で事は進む。内閣官房長官から指令書だけが掲げられる。指令書ではなくただのメモ書きだ。神格化された儀式のように、1分間きっかりと官房長官の手によって掲げられると、そのままライターで火がつけられ、みるみる内に灰となった。その炎のより、集まった人間の顔の陰影がくっきりと浮かび、焔の消滅と同時に、薄暗い室内照明だけあたりを照らした。
 官房長官はメモの焼却を済ますと、一言も発せず立ち上がり、その後を秘書官が続く。目を合わす事もなく、ただ敬礼するのみであったが、顎をあげ睥睨し退出していく。以降、会話は一切ない。全て筆談で行う。書いて全員が内容を把握したら燃やす。灰がたまるとトイレに流すの繰り返し。これだけITの発達した時代だからこそ、徹底的なアナクロリズム。盗聴防止と証拠隠滅。ブリーフィングでもない。「現在の事案を処理せよ」の指示書である。指示書というより責任回避の確認だ。
 現状が解決し、政府に火の粉が被らなければ(これは微塵も許されない)、どんな手段でもよいという「見てみぬふり」の確認作業に過ぎない。方法論ほか結果まで推察して「何とかしろ」という事なのだ。結果が上手く行かなくても何があっても知らぬ存ぜぬを貫き通せばよい。シュレディンガーの猫のように、J存在を証明する材料がないのだ。あらゆる具体的な証拠や結果を消去し、見た誰もが記憶を閉ざした時、その存在を論証する術はない。仮に、公表した所で、誰もこんな荒唐無稽な話など信じるはずもない。話した方が、真面な人間とは思われなくなるだろう。
 Jの選抜システムは絞首刑の執行ボタンとよく似ている。絞首刑の執行は3人が同時に押して、誰のボタンが該当したか分からない。候補に挙げるが、任命者は蓋然性に任せる。候補に挙げた人間は、その結果について一切、情報が入らないようにする。証明される書類は、最初から作成しない。またねつ造するが、それを公然と公文書化する。裏の事は裏の人間だけでやれば表には出でこない。ともかく遡及できないように、ありとあらゆる痕跡を消せばいい。
 自治会が終わり軍帽を被り部屋を後にする。ヘリポートのある屋上へのエレベーターに向かう。後から統合幕僚長が歩幅を合わせて着いてくる。
「どうするんだ」
「もう、SATは配置されているのでしょうか」
「ああ、愛知県警の部隊が到着している」
「ということは、銃器対策部隊は?」
知っていたが、敢えて尋ねる。
「一個小隊がことごとく封じ込められたらしい。で、SATになった」
「井上、いや目標(・・・)は、駐屯地から銃火器の類を持ち出しはした形跡はありますか?」
「いや、ないんだ。それが、だったら事前に何とかなったんだな」
「そんな事する奴じゃありませんよ」
不謹慎と思いながらも胸の奥で北笑んだ。
「最初から武器を現地調達するつもりだったんでしょう。持ち込んだのは、手製のC4番弾。システム上致し方ないと思いますが、銃器対策部隊の投入は今となっては完全に裏目でしたね。相当量の銃火器を渡してしまった」
「何でそこまで分かる」
「私も、やるならそうするからです。同じように」
 迷いのない返答に統合幕僚長は足を止め、固唾を飲んだ。合わせてこちらも歩みを止める。エントランスに到着していた。エレベーターのボタンを押す。扉の上部の回数表示のランプが点滅し、下降している事を示している。
「とりあえずSATは現状で待機させて下さい。不用意な接触はやめるよう現場の対策本部長と警察庁長官に念押しをお願いします。本当は撤退して頂くのが一番良いのですが、メンツ他諸般の事情で返って面倒になりますから、まず現場保全を。目標の所有する能力は警察力を逸脱しています。許されるのなら治安出動をお願いして、特殊作戦群の1個中隊で制圧にあたれば、飛躍的に確率は上がりますが、たった一人のテロリストの為に、そんなバカげた動員もできませんし、各省庁の了解なんか取っている暇なんかありませんね」
樋口は、四則計算でもしているかのように淡々と意見具申する。
「あと、周辺住民の避難は必要ありませんので。シナリオ通り、臨時訓練で押し通して下さい。」
「しかし万が一、冷却機関が・・・真賀陸の二の舞になるぞ」
「絶対にメルトダウンはありません」
「なぜだ。なぜ、そう言い切れる。お前や私だけでの責任で収まるような話じゃないんだぞ。もう、総理にも話は伝わっている。訓練という言い訳も長くは持たん。お前がそこまで確信を持って、破壊工作がないと言い切れる根拠は何なんだ」
「目標が、元自衛官だからです」
「はぁ!?」
幕僚長は臆面もなく吐き捨てた。
「戦略の樋口が、そんな非科学的な・・・」
「目標が、自国の民を傷つけることは、断じてありません」
「やっぱり戦友のことは庇うのか」
「そのような下賤なお考えならば結構です。いずれせよ事は収束させます。とにかく、住民の避難指示はもう少しお待ち下さい。それこそパニックで死傷者が出ますよ。ただでさえ、国民総原発アレルギー状態ですから」
 人類はウルトラマンが裏切る想定はしていなかっただろうか。偽物は本物に駆逐されるが、そうなったら・・・そんな話はなかったな。いくらなんでもこどもには夢がなさすぎる。しかたがない。ウルトラマンに対抗できるのはウルトラマンにしかできないのだ。
ポケットから携帯を取り出し、短縮ダイヤルを駆ける。
「あぁ、私だ。ミッションだ。状況については把握済みとして割愛する。Jの出動だ。内容は、いつものように(暗号化したデータ)端末に送っておく。これから現地対策本部にヘリで向かう。準備が出来たらこの携帯まで連絡してくれ」
電話の相手は、御厨 健。私の戦友。そして井上の戦友でもある。


 樋口は屋上に向かうと、スタンバイになっているヘリに乗り込む。帯同していた森田は、そのまま待機していた。
「どうでした」
自衛官には似つかわしくない黒縁のメガネを直す。
「儀式は終わった。さて、移動中にスーツに着替えなくてはな」
「対策本部まで1時間かからないと思います」
「浜々原発が3機もメルトダウンしたならば、シミュレーションでは中部経済圏のみならず関東首都圏の被曝は必至だ。横田から横須賀横浜も汚染対象地域になる。アメリカはもうこの事実を掴んでいるはずだ。あの『kodachi inoue』の謀反の動機について詮索が始まっているはずだ。国内他機関にも探りを入れておいてくれ」
「了解しました」
「では、向かうとするか。目標となった井上の元に」
予備動作だったローターが激しくまわり始める。再び市ヶ谷の上空を、エンストロム 480が舞い上がった。

 筆談の終わった統合幕僚長は執務室で司令官と日本茶を嗜んでいた。幕僚長はぼやく。
「そういえば家族はどうした。説得には使えんのか、もしくは・・・」
「妻と娘がおりますが、人質に、ですか」
「やむを負えないだろう」
「残念ながら、もう先手を打たれています。既にイギリスに旅行の名目で出国しています」
「何だと・・・」
「保全部も見逃していました。外事課は、チェックしていたらしいですが、連携に不具合が生じたようで、通常の家族旅行という事で素通りさせたようです。まあ、家族だけですから」
「イギリスでの所在は?」
「不明です。懇意にしているSAS隊員が手引きをしたようです。足取りは掴めません。仮に掴めたとしても、人権意識の高い国です。外交で、引き渡しを要求しても犯罪交渉に使うとなると首を縦に振らんでしょう。樋口は、報告する前から知っていましたが」
「どうしてだ」
「Jとしては、それぐらいは当然という事でしょう。あの輩は、鼻から我々を信用しておりませんので」
「そんな死線を潜り抜けた、いわば戦友同士。本当に処理できるのか。同調して謀反なんて事はないんだろうな」
「それはありえないでしょう。任務への恭順はそれ以上のものです。Jにとって秘密裏に実戦を潜り抜けてきましたのは、ひとえに任務への絶対恭順があったからこそ。強迫観念や呪いの類と言ってもよいでしょう。たとえ戦友だろうと親友だろうと、任務遂行が何よりも優先される行動原理なのです。幕僚長は、さしたる実戦の緊張感を経験なさらず、そろそろ定年ですので、ご想像はできないでしょうが、功罪も分からない人間を殺して殺して殺しまくる3年間というものが持つ意味合いを、今一度、お考え下さい。友情なんてもので図れる世界ではないですよ。集団的自衛権の議論など歯牙にもかかりませんよ」
司令官は思った。フランケンシュタイン博士の心境とはこういうものかと。


 [同日 午前~正午 貴方崎「首都圏1泊2日で行ける格安温泉宿」収録クルー]
 
 樋口が乗り込んだヘリが、浜々原発に向かって驢河(ろがわ)湾の上空を飛行している様を、関東テレビ専属アナウンサーである笠井智子は、本日のロケ地である貴方岬の看板の前で見上げていた。
 「首都圏発1泊2日で行ける格安温泉宿」の番組収録で、風光明媚なテンプレート風景のレポートをして、生津(なまつ)の温泉旅館で舌鼓を打つといったありふれた収録内容であった。当初は局のマイクロバスでゆったりと移動できたはずだったが、一緒に収録するはずのタレントが生津で現地集合になった為、移動道中の収録がなくなり必要最小限のスタッフでの移動となった。
 10人乗りのワンボックスに9人が乗り込み、各種撮影機材が隙間という隙間に詰め込まれ足を延ばす余裕もない。途中の高速道路は事故渋滞もあり、日が明けるか明けないかの早朝に出たにも関わらず、到着が遅れ、伴って予定が目まぐるしく変わり手順が後手後手に回る事態となっていた。岬では思った以上に風が強く、撮り直しが連発された。局アナだけに、売れっ子タレントと違ってイライラを顔に出さない術は心得ていた。
 何とか午前中に貴方崎で収録を終え、灯台前の食堂でロケ兼昼食。機嫌が今一つであったが、海の幸と店の女将のキャラクターに多少ほぐされて、イライラは多少なりとも落ちていった。午後は浜々砂丘で収録予定であった。
 海を左に見ながら車は南下していく。智子は、アイフォンで「癒し」のフォルダーの音楽を聴きながら、意識を海に向けると、改めて近州灘の砂の美しさと海の煌めきを感じ取っていた。遠方には風量発電の風車が幾重にも並んで見える。風車が見上げるぐらいに南下すると、対向車が見られなくなった。混雑するような国道ではなかったはずが、渋滞の最後尾につかまった。
「どうしたの」
運転手兼ADに二列目に座っていた智子は身を乗り出して聞く。
「何か事故か検問みたいっす。リアルタイムナビでも渋滞注意区間のお知らせはないので」
「確か、この先って・・・」
智子の言葉にADがナビを操作する。原発の鳥瞰図が映る。
「浜々原発がある所っすね」
「浜々原発・・・」
車内スタッフが全員、顔を見合わせる。しばらくの沈黙のうち、ディレクターが噴き出す。
「いや、ないないそんな事。映画やマンガじゃあるまいし。交通事故なんかでしょ」
「でも、さっきヘリが上空飛んでたじゃない」
「そういえばそうですね。あれは民間じゃないっすよ」
軍事オタクのもうひとりのADが反射的に会話に割り込んだ。
「じゃ何?」
「エンストロム 480じゃないすっか。迷彩だったし、陸自でしょう。ほら、」
得意げにアイフォンに撮影した機影を見せる。
「この先、自衛隊の駐屯地や米軍基地ってあった?」
「確か松浜基地があったような」
とコード持ちばかりの新人AD。
「単にそっちの用事じゃないの」
「そうですよね~」
 次第に対向車線を走行する車が目立つようになった。少し坂を上ると、峠の位置から浜々原発が一望できた。遠方から暑さで歪んだ空気越しではあったが、警察の制服は確認できた。その背景に聳える浜々原子力発電所の存在感は、只ならぬ雰囲気を醸し出している。100mはあろうかと思われる排気塔が4、5本不揃いに並んで見える。のろのろ運転になった所を見計らって、カメラマンが早速ハイルーフから顔を出してカメラを構える。繋いでいる小型モニターを覗き、アップの画面を確認するとトラ柄の封鎖用のガードレールがひかれ、数名の警察官が車のUターンの誘導をしていた。明らかに原発で何かあったに違いない。クルー一同は確信していた。真賀陸県の原発事故が嫌でも想起されたが、警察官たちは防護服を着込んではいない。その心配の一応は払しょくされた。
 眞柄陸の事故以来、否応なしに原発のありようについては国民総専門家になっていた。よくも悪くも議論になっていて、決して突出している訳ではなかったが、推進も反対も極論をぶつけ合うので、堅実な視聴率コンテンツとなっていた。勿論、民放各局は原子力ムラの利権構図に組み込まれている。スポンサーの逆鱗に触れない程度に原子力政策を非難し、エネルギー政策と市民運動の脆弱性のタッグで、推進しないまでも無意識に楽天的になるよう非難を相殺する方策をとっていた。
 防護服がいらない程度の事故ならば、スクープとして取り上げよう。智子はそう考えていた。ディレクターに目をやると、考えは同じようだ。智子の携帯電話が鳴り響いた。設定着信から、報道局部長からであった。
「お前、今何処にいる。確か貴方崎だったような。浜々原発はすぐそばだったよな!」
と一方的にがなりたてる。質問しているようで確定した話になっている。
「浜々砂丘で撮影の予定だったんですが、原発の所で通行止めになっていたんです。ちょっと怪しいなと思って、丁度現場のそばにいるんですが」
「ならばすぐに現場に行ってくれ。浜々原発が占拠された。単独犯らしいんだが、マスコミの取材を要求しているらしい。どうやら早い者勝ちで、女性一人をご所望のようだ。時間がないらしいから早く現場に行って、警察の担当者に状況確認と打ち合わせをしろ。とにかくすぐ行け。本来は報道畑の奴に任せたい所だが、とにもかくにも時間が最優先らしい。諸々整理がついたらこの番号にかけろ。便所だろうがなんだろうがすぐ取れるよう待機していからな。そのまま斉藤(デレクター)に代わってくれ!」相変わらず下品だ。


 私は高い志をもとにマスコミ志望をした訳じゃなかった。親戚のコネがあり就職氷河期真っただ中で、にべもなく飛びつかせてもらった。父親は、物心つく頃に他界した。母は、未だに死んだ理由をはっきり教えてはくれない。それでも、就職までは不自由なく、女手一つで育ててくれた。
 容姿もそれなりに自信があった。クラスの美人コンテストでは中高校生と常にトップ3には入っていた。大学でもミスコンで3年生の時は3位まで食い込んだ。それでもトップになれなかったのは、身長が低かったのと、全体的に丸顔で太っている訳ではなかったが、多少ぽっちゃり系に見られやすいせいだと自己完結した。就職した後も、あっけらかんとした楽天主義が好を奏したようで、順調に仕事が与えられた。
 先の震災では発生の翌日から現場にとばされた。人生で初めて人の生き死の場面に立ち会った。津波に全てを奪われた家族に、無神経と分かっても取材をした。罵声も浴びだが、ほとんどの人が辛い中を、懇切丁寧に応じてくれた。仮設住宅の訪問で、インタビューする老人が口を揃えて「私が死ねばよかった」と懇願していた。生き残った人間も、震災は続いている。真賀陸に至っては半年経過したが、収束の見通しは不明瞭のままだ。


 震災は、報道を生業とする者を成長させていた。笠井智子は、その成長過程の真っただ中にいた。


[同日 11:15 浜々原子力発電所]

 井上はSAT(特殊急襲部隊)の到着を待っていた。今後の展開として、接近、中距離、遠距離とオールマイティーに使えるアサルトライフルが必要だった。銃器対策部隊は、アサルトライフルは所持していない。拳銃と単機関銃だけだ。近代白兵戦での必須アイテム。M16やカラシニコフが有名だ。長距離単弾から3点連射、フルオート連射と反動が少なく扱い易い。SATが使用している89式5.56mm小銃は、特殊作戦群でも主力兵器である。
 警察庁航空隊ヘリ2機が現場に到着し、愛知県警SAT1個小隊が続々と降りてくる。1機はそのまま飛び立った。装備は銃器対策部隊アサルトライフル以外大差ないが、違うのは、実際の練度だ。銃器対策とは出動回数が比較ならない。非合法組織や無差別テロリストとも何度も対峙して、成果を収めている部隊である。
 隊員は着々と前線で突撃体制の準備に入る。隊長の田辺信一は、その様子を確認しながら動谷県警が設置した緊急現地対策本部に足を踏み入れた。室内では、県警の数十名の男女の警官たちが必要と思われる設備を着々と準備している。浜々原発の所長とコントロール担当者責任者2名が各々に頭を抱えたりうろついたりしている。2畳ほどある作戦作業台が中央に構え、原発敷地内の図面が何枚か敷かれていた。用意したモニターは、仕掛けられたカメラの映像が映っていた。
 田辺は顔見知りの本部長を見つけ、とりあえず握手をする。本部長は憔悴していたが、知った顔であったのと頼もしい助っ人の登場に安堵した。
「お久ぶりです」
「ああ、よく来てくれた。ありがとう。君が来てくれると思ったよ。」
「はい。善処できるよう尽力します。移動中にタブレット端末で経過については確認していますが、もう一度、確認のため ―」
県警本部長がオペレート担当夫人警官に合図すると、立ち上がって読み上げる。
「本日、午前10時03分。北東の森林斜面より、爆発音を確認。所内警備担当者13名が、爆発現場へ急行。その間に、マルヒ(被疑者)は工事車両に紛れて侵入。爆発は囮だった模様。そのまま3号機冷却システム建屋に潜入し、スタンガンと思われる凶器で、現場従事者9名を気絶または行動不能とし、1名を人質として拘束。持ち込んだC4と思われる遠隔操作爆弾を冷却電源の各基盤に設置。そのまま人質を盾に、4号機冷却建屋にも同様の手口で爆発物を設置。5号機冷却機関建屋において同様に行動していた所、銃器対策部隊が到着。人質を解放し、そのまま籠城した為、銃器対策部隊が制圧行動を開始するも、マルヒがこれに応戦し、逆に対策部隊隊員を制圧」
「何人?」
田辺は思わず確認する。
「全員です」
女性オペレーターは、何の躊躇もなく即答した。田辺は、少し固まった。オペレーターは、そのまま続ける。
「対策部隊の所有していた銃火器類についてはマルヒが収奪。威嚇発砲後、そのまま再度籠城状態にはいり、現在に至ります。尚、収奪された銃火器ですが、MP5F5丁及び予備弾倉10セット、P2305丁・・・」
「もう結構です」
田辺は額を抑えて遮った。
「身ぐるみはがされたって事ですね。それより従業員の避難は」
原発所長が額の汗を拭いながら報告する。
「全員完了しています。スタンガンでやられた従業員も全員、目立った外傷もなく、現在市内の病院で検査は受けております。ただ、制御室は離れる訳にはまいりませんので、交代を含めて最低人数が残っております。爆弾を仕掛けられた3機の冷却機関の建物以外は、全て機動隊の皆様に守って頂いております」
「ただ今、機動隊ついては各県警に漸次、応援要請をしております」
男性オペレーターが補足した。
「仲間の存在は」
別の男性オペレーターが報告する。
「確認されておりません。携帯電話会社や無線の傍受の網を張っていますが、外部と連絡を取っている様子もありません。また、何か特殊な暗号合図の信号等も確認されておりません。単独と判断しても差し支えないと思われます。尚、解放された人質の証言だと、精悍な日本人だったという事です」
もう一人の男性オペレーターから報告が入る。
「内閣情報調査室から情報が入りました。端末に送ります。」
キーボードを操作すると、各人が持っている端末にデータが転送された。
「内調から?テロリストは外国工作員なのか。人質は日本人だと。東側の某国に裏をかかれたのか」
田辺は端末を操作しながら呟く。転送フォルダー開くと、人物の写真と共に経歴が羅列されている。思わず目を見開く。
「自衛隊!?中央即応集団特殊作戦群第2中隊長 井上仁・・・特殊作戦群・・・」
「クーデターか!」
田辺は思わず叫んだ。
「いや、この件に関して自衛隊関係者から何のコメントもありません」
「何てこった」
田辺は、これまで対テロ合同訓練で、自衛隊の練度の高さに舌を巻いていた。


 自衛隊は紛うことなく軍隊なのだ。個々人の身体的能力は大差ないはずだった。訓練内容も引けを取らない。それでも根本的な思想が違う。
 軍隊の恐ろしさは、均一化され行動規範にある。個々の能力云々ではなく、戦略に対しての徹底化された集団行動が、一本の強靭な綱のように集約されている。唯一警察が勝っているとすれば、実戦経験だけだ。イレギュラーな事態には、それなりに適応力がある。少なくとも、自衛隊は、殺傷させた経験はないはずだ。実際の命のやり取りだけの緊張感だけは、その場面に立ち会わないと得られない。どんなに成績優秀な連中が特殊部隊に入ってきても、その緊張感に晒されない限り、訓練と同様の動きはできなかった。
 なぜなら、訓練では思索、確認、行動の繰り返しだ。どうしても流れがデジタルのように、動きの一つ一つに刹那の静止が介在してしまう。仮に0.1秒の遅れも、累積すれば、そこが生死の境目となる。無条件に体がアナログのように動けるようになるには、実戦経験の積み重ね以外ないのだ。
 しかし、それは特殊作戦群でも同じはず。実戦など自衛隊法が許すはずがない。海外研修も行っているらしいが、実際の戦闘になど加わっていないはずだ。いくらなんでも単独で銃器対策部隊を完封するなどありえない。それも軍隊得意戦術の皆殺しではない。警察十八番の制圧を食らったのだ。
 
 
 田辺のプライドは、一度瓦解し、そして憤怒へと変わった。
「なめやがって」と唸る。
「爆弾の解析はどうなっている」
「X線で確認しましたが、映らないのでC4とみて間違いないでしょう」
X線写真がモニターの中央のモニターに映し出される。処理班が解説する。
「起爆装置にいてはダミー回線と思われる配線がごっちゃになっていて何とも言えません。これは人質になった方の証言ですが、振動探知装置も備わっているとの事で、画像からも解析できます」
「くそ。下手に手を出せば爆発って事か。爆発物処理班は」
「いつでも出動できるよう駐車場の特別処理車で待機させています」
「こうなると、手段は一つしかないな」
「どうするんだ」
県警本部長は、即座に反応する。田辺は、吐き捨てるように答える。
「遠距離狙撃しかないでしょう」
「殺すのか。まずいぞ。またマスコミがなんというか。見ての通り、国道を封鎖した向こうには野次馬がどんどん集まっている。高い建物から、こちらは丸見えだ。しかもツイッターやラインで拡散されているぞ。今は抜き打ちの臨時テロリストシミュレーション訓練と誤魔化しているが、そんな情報操作はあっというまに瓦解する」
「そんな悠長なこと言っていられるんですか。真賀陸の二の舞ですよ。マルヒの気紛れでC4爆弾が爆発したら、冷却制御はどうなるんです。ただちに、射殺許可を出して下さい!」
「しかし、私の権限では・・・」
「そのための本部長でしょう。だったら、私が警察庁長官でも直談判します!」
 無線が雑音と共に鳴り響いく。
「あーあー どなたか聞いていたら返信をお願いします」
 殺伐とした雰囲気に、何とものんびりとした声が無線越し響く。一瞬、対策本部の空気が澱む。
 対策部隊の持っていた無線からの応答であった。同調さえていたオペレーションルームの無線に割り込んだのだ。本部長が、目の前にある恐る恐るマイクを握り、発信のスイッチを押す。
「君は、誰だ。どこの配置のものだ」
「残念ながら見張りではありません。5号機冷却機関建屋から発信しております」
「テロリストか」
「そうともいいます。一応、現行犯、被疑者、何でも結構です」
「要求は何だ。金か」
「要求はまた改めてお伝えします。所で、そちらはどなた様でしょうか」
「私は動谷県警本部長だ。君は自衛官なのか」
「元、です。もう退職願いは提出しています。後出しですが。内調か外事課あたりから情報が入ったみたいですね」
「そんなことはどうでもいい。元にしても自衛官としてはあるまじき行為だ。気でもおかしくなったのか」
 田辺は内線レシーバーで、各隊員に配置状況を確認する。会話に気を取られている間に、急襲のタイミングを計っていた。ただ、対策部隊の二の舞を踏む訳にはいかない。やはり、ここは自重して遠距離狙撃で対処すべきか。たった一人にここまで翻弄されたのだ。既に面子は丸潰れだった。しかし面子の問題などこの際どうでもよい。最良の判断。やはりここは、突入は避けるべきだ。単独とはいえ相手のポテンシャルが不明、というか接近戦では圧倒されている。
 田辺は、全員に一時待機を指示した。配属されて間もない突撃隊員から意見具申される。
「隊長。突入指示をお願いします。自衛管だろうがなんだろうが」
「待機だ。待て。副隊長の本田に従え。本田、マルヒが動くまで待機だ。いいな」
「了解」
「動きがあったらどうしますか」
副隊長は確認する。
「爆発や発砲があったら、迷わず突っ込め。新人、そん時は頑張れや」
「了解です」
新人は勢いよく返答する。

県警本部長は、田辺の動向を伺いながら、井上と会話を続けていた。
「とにかく投降してもらいたい。真賀陸の悲劇を再び繰り返すつもりか」
「そんな事をするつもりはありません。ただ、ひとつ示したかったのは、危険物の取り扱いがなっていません。あまりにも脆い危うい」
 井上は、SATの突入を待っていた。ただ、対策部隊の前例から、簡単には急襲はかけないだろうと踏んでいた。SATの狙撃班を配置されると我慢比べがきつくなる。その為には、アサルトライフルは必須であった。確認すると前衛3名はサブマシンガン、リザーブが89式を装備している。選択肢は、いくつか思いつく。状況と成功率を判断する。
「県警部長殿。分かりました。投降します。その前に全部終わりにします。」
「何をだ」
「全ての爆弾と運命を共にします。それでは」
「ちょっと待―」
 3号機機関室から閃光と爆発音が響き、開きっぱなしの出入り口からもうもうと煙が立ち込めてくる。現場の副隊長が突入を指示した。対策室は唖然とした空気に包まれた。反射的に本部長は叫ぶ。
「他の所の爆発物は!」
「爆発はありません」
状況確認ために設置したカメラからの画面は微動だにしない。田辺が罠に気が付いた時は、後の祭りだった。防弾ヘルメットも被らず急いで現場に向かう。機関室から銃声が、幾度となく響く。数分の後、暑さで空気の揺らぎ浮き上がる暗い入口から、炎天下へ次々と突入した隊員たちが丸腰になって出てきた。あるものは腰砕け、ある者は両手を挙げて後ずさりしている。突入を意見具申した新人隊員は走りながら飛び出し、ガチガチと歯を鳴らして半べそをかいていた。全員防弾チョッキの上から1発づつ被弾し、硝煙が燻らせたタバコの煙のように上がっている。
 現着した田辺は部下達の全面敗北を見せつけられた。一歩一歩、井上は歩みを進め、扉の暗がりから姿を現す。手には、先ほど奪った89式と爆弾を入れていた等身大のバックは、収奪した銃火器で膨れ上がっていた。
 白日の元、田辺は井上を対峙した。その威風堂々と、凛とした佇まいににべもなく圧倒された。根本的に何かが違う。仮にも戦闘に特化された集団は、醸し出す無言の圧力に魅了されていた。
「警察機構の方々には普段より敬意をもっております。今後の教訓と思い、防弾チョッキに1発づつ、打ち込まさせて頂きました。SIGP230ですから、大事には至らぬと思います」
井上は、無意識に索敵を行い、89小銃をイロハレバーで三点バーストに切り替え、両サイドの排気塔に待機する狙撃班に威嚇射撃を撃ちこんだ。狙撃班は慌ててタワー反対に急いで隠れる。
「すまないが狙撃班は、引いてくれないか。あと、SAT隊長殿。遠距離狙撃を考えていると思うが、やめたほうがいい。これを見てくれ」
ジャケットの前を肌蹴ると、導線とセンサーが組み込まれたベストを披露した。
「このベストは仕掛けた爆弾の起爆装置と連動して、脈が止まると起爆する設定になっている。つまり、私が何らかの形で鼓動が停止すれば、そのまま仕掛けた爆薬の信管は作動する事になる」
「何てことを・・・」
対策本部の一番大きなモニター画面にその姿が映し出される。部屋を沈鬱な空気で満たされていく。


[同日 11:30]
 
 井上は、そのまま5号機の排気塔、およそ地上80mの、いわゆるキャットウォークと呼ばれる作業スペースを占拠した。目の届く範囲は300m離れた場所でも89式で狙い撃ちされ、SATは待機場所を失っていた。
 対策本部のOA椅子に深く座り込んだ田辺は、敗北感に打ちのめされながらタブレットに映った「特殊作戦群」の画面を訝しく見つめる。
 

 防衛大学校から幹部学校、習志野、空挺第一師団、そして特殊作戦群。どう見てもエリートコースまっしぐらだ。近接戦闘のスペシャリスト。アメリカ、デルタフォース、シールズ、イギリスSAS他諸外国特殊部隊同行研修多数。最近では真賀陸原発収束任務歴任。
 都市伝説のようにSAT隊員の中で囁かれていた事件があった。大震災が起こる1年前にこの国の東沿岸部密集していた原子力発電所のひとつに、北の某独裁国家の特殊工作員33名が侵入し、制御室を占拠したが、当初から警察力に依拠しないで秘密裏に特殊作戦群の一小隊が掃討したというものだ。当時は冷却機関については重要視されていなかった。制御室に数人の職員を殺害占拠し、数十名を人質にして立て籠もった。
 すぐさま、今回のように特防隊や海上保安庁の急襲隊SSTも動員されたが、RPGロケット弾や手りゅう弾他軍隊の装備だった為、早々に退却。どちらから持ちかけたのか不明だったが、謎の特殊部隊が対応する運びとなった。小隊は9名で構成され、制御室に立てこもった急襲班数名が10名を掃討。何でも日本刀を使う忍者のような奴がいたらしい。統率系統を失った残党はその場からてんでバラバラに逃げたが、悉く狙撃で掃討された。残渣勢力は捕縛し、そのまま外交交渉に利用されている。掃討には15分もかからなかったという。
 という、あくまでも噂ではあったが、ある程度、防衛省側が作為的にリークしたものとも言われている。少なくとも、初動では警察関係者が動いていた。完全に情報を抹消も可能なはずだ。そうしなかったのは轗軻不遇の自衛隊幹部が、これ見よがしに警察庁へプレッシャーをかける為、噂程度の流布は良しと奸計したのかも知れない。
 
 
 現地対策本部は、閉塞感に包まれた。ただ時間だけが過ぎていく県警本部長から田辺には矢継ぎ早に質問が飛んできた。どうしようもない状況という報告しかない。プロファイリングチームの分析では、未だ流血の事態を起こしていなのは理性的且つ人格者であると、そんな希望的観測にすがりついている状況であった。
 とにかく、周辺住民の避難だけはさせないと田辺は思い返していると、外線電話がけたたましく鳴り、対応したオペレーターが県警本部長につないだ。急に尊大だった態度が委縮し、瞬時で丁寧語での対応になり、お偉方であることが周知された。電話を切ると、本部長は、禁煙である事も忘れ煙草に火をつけ、一息入れた。
「これから自衛隊の幹部がこちらに来るそうだ。粗相のないよう対応してくれ。アドバイスと実働部隊を送ってくれるらしい」
「誰からの命令なんです」
「警察庁長官だよ」


警察庁長官室。執務デスクで電話を置く長官に、次長が噛みつく。
「いいでんすか。警察庁の面目は丸つぶれですよ。警視庁の連中も何を言い出すやら・・」
「いいんだよ。噂でしか存在しない部隊なんだから。どこの誰だか知らないけれど、正義の味方がやってきてあっというまに解決して、正体を見せずに去っていく」
長官は、艶光した机から離れ、ソファーに行き、新聞の側に置いてあったお茶を啜る。新聞のトップ記事は、真賀陸原発の情報隠しが掲載されている。
「このシステムの最大の利点は誰も傷つかないという所がミソだ。治安出動や防衛出動なんていってもお偉いさん方がそれぞれの思想や解釈によってがんじがらめになる。誰が決めたか分からないようにシステム化されているんだよ。だから警察機構も決定には関与しない。我々は内閣官房長官の独り言を聞いて、『知らなかった』約束をしただけだ。幽霊が幽霊を殺すも生かす勝手だよ。ただの内部粛清だ」


[同日 正午 現地対策本部]
 
 井上の占拠から2時間。正午を過ぎ、一番高くなった太陽を背に、対策本部となった原子力科学館に本日2度目のヘリがけたたましく風を切り裂きながら下降してくる。先刻、急いで車両整理した臨時のスペースに接地する。田辺は対策本部となっているスタッフルームの窓からその様子を見上げていた。接地するもプレペラは止まらず背広姿の樋口が降りくる。
 事前情報から自衛官と聞いていたが、パッと見に、独特の雰囲気というか威圧感が全くない。整った顔立ちに淵が薄いメガネ。事務方の政務次官といっても不思議ではない穏やかな表情であった。これから原発テロリストに立ち向かうには、物々しさの影も形も感じられない。樋口を降ろすと、ヘリはそのままフライトした。立て籠もる5号機排気塔を一瞥すると、科学館へ入っていた。
 井上は、ヘリの挙動と確認すると、双眼鏡で降りてくる男を捉えた。思わず、笑みがこぼれる。
「来たか ―  御厨はまだか ―」
 そのまま、敷地外の遠方に視線を送ると、国道を挟んだ非常線の外には、次第に野次馬や原発反対派と思われる人だかりが集まりつつあった。
 対策本部の部屋に入った樋口は、挨拶もそぞろに立ちながら指示を出した。
「今回、私の立場はあくまでもスーパーバイザー、つまり状況に応じて意見しか述べません。現在の私の身分で捜査に意見具申すれば、ご存じの通り、治安出動ないし防衛出動という解釈も成り立ってしまいます。一応、警察庁警備局と防衛庁運用局により、武装工作員の共同対処指針があり共同対処訓練も実施しておりますが、たった一人の単独犯に、いかなる形でも自衛隊が絡んでいたとなれば、諸所の政権運営に支障を来たすとご理解頂きたい」
樋口は、敢えて一度区切り釘を指す。
「あと、自衛隊が関わったとなると皆様方が一番お困りになるかと思いますが」
 田辺は怒りを露わにすることを憚らず、舌打ちをする。申し訳ありません。所用すませてきます、と部屋を出て行く。締めたドア越しの俺たちは無能扱いか、とこれみよがしに聞こえてくる。
「あのテロリストの詳細は掴んでいるんでしょうな」
「ええ、よく知っています」
「何者なんです。特殊部隊出身とは聞きましたが、いくらなんでも単独でここまで」
「既にお分かりのように、警察力での対処は無理です。ジョーカーに下位カードをぶつけても結果は同じです」
「どういうことですか」
「彼、いや目標に単独で対峙できる人間は極僅かしかおりません。特に近接戦闘では誰もいないでしょう。」
「誰もいない?」
所用を済ませて戻ってきた田辺の逆鱗に触れる。
「たかが人っこ一人で何ができる。確かに不意を突かれて、この体たらくだったが、未だに流血に至る怪我人や死亡者も出ていない。ハッタリじゃないのか。特殊部隊でも、我々と違って訓練しかいないだろう。我々は数々の凶悪犯と切った張ったの大捕り物をやってきているんだ。本部長、今度は戦略を立てて突入させて下さい。これはこれまで、この国を守ってきた警察機構への挑戦ですよ」
「前者については認めます。目標は、絶対に皆様や一般人に血はながさせないでしょう。絶対に」
「根拠は?」
田辺が訝しげに問い詰める。
「自国民を脅かす自衛官など存在しません。原発を暴走させるつもりだったら、何の躊躇もせず実行しています。冷却機関の破壊なら手製の爆弾と奪った銃火器で充分可能です。それに、何か交渉して利を得たいという発想ならば、こんな回りくどいやり方は必要ないでしょう。殉職者を出せば、より要求は強く出せますからね」
「元、だろ」
田辺は体を乗り出し詰め寄る。
「元、でもです」
樋口は受け流す。
「とにかくあんたの指図なんて不要だ」
背を向ける。
「素手だった目標に、警察関係者は何名行動不能なりましたか。あなた方は既に戦況判断を誤っています。警察の皆様には敬意をもっています。しかし戦場では、精神論など何の役にも立ちません。正確な戦況分析。必要な物資と物量人員。根性やプライドだけで作戦進捗や戦況が有利になるのなら、そんなにありがたい話はありません」
県警本部長が、二人のやり取りに冷や冷やしながら間に滑り込む。
「では、どのような対応策が」
「別に相手の得意なルールに則って戦う必要はありません。テロリストの急襲などは目標の最も得意とする所です。ジョーカーに対抗するには、2枚目のジョーカーを使えばいいだけの話です」
「2枚目のジョーカー?」
心の内に田辺は呟く。
「ところで、目標の要求は何ですか」
本部長に向けて樋口は切り出す。
「マスコミを寄こせだとさ。出来るだけ早急に。話したい事があるみたいだ」
田辺が横槍を入れて、吐き捨てるように口を開く。
「それ以外は」
「ないよ。俺には、マルヒの考えがさっぱり分からない。何のための。奥さんもこどもいて、エリート街道まっしぐら。それらを全て捨てて原発を占拠。暴走の恫喝までして、出す要求がマスコミ1社の取材。何を考えている」
田辺は、悪態をつきながら椅子の背もたれに背伸びしながら寄りかかり、傍にあった自分の防御ヘルメットに肘をかけ、パンパンと叩く。
 樋口にも、推論が少し綻び始めていた。真意が読み切れない。最終的な目的は、それなりに予想はついている。それにしては、あまりにまわりくどい。
「そのマスコミの手配は」
「もう向かっているよ。関東テレビの笠井智子。あんたも一度ぐらいはテレビで観たことぐらいあるだろう。童顔巨乳で有名な」
 田辺の下賤な物言いオペレーターをしている婦人警官が、きっと睨みつけた。「それ、セクハラですよ」と顔が物語る。田辺の視線を追い自分の胸をみて、ふんっと顔を背けた。田辺は、バツが悪そうに苦笑いし、気を取りなおす。
「たまたま現場近くにロケで来ていていたらしい。渡りに船とはこの事だな。マルヒも女性がご所望のようで。奥さんも娘もいるのに」
樋口は、考えあぐねる。
 非常線の向こうから、パトカーがサイレンを鳴らさず、ワンボックスカーを先導してくる。1泊2日ツアークルー一行が到着した。
 

[同日 12:30 現地対策本部]

 ディレクターは県警本部長に挨拶と名刺交換し、続いて智子が県警本部長と挨拶する。本部長は、場所も状況も憚らず、顔を緩ませサインを要求した。
「やっぱりテレビで観るより美人さんに見えますな~ぜひぜひ」
聞きなれた常套句に、智子も半ばあきれ顔でサイン色紙を受け取り、常套句を返す。
「私は美人より、かわいいと言われた方が嬉しいです」
「ありゃま、これは失礼しました」
本部長は空気を弁えずデレデレとなっていた。
「これからの動きは、SAT隊長の田辺とお願いします」
「田辺です。宜しくお願いします」
智子は、現実感がなく浮ついていた。地に足が着いていないとはこういうことをいうのだろう。
「関東テレビ第2放送部の笠井智子です。私みたいな若輩者が務まるかどうか分かりませんが、精一杯やらさせてもらいます」
大きく頭を下げると、肩までかかった黒髪が物理法則従ってふわりとたなびいた。
「後、こちらが警視庁から派遣された心理分析官―」
「樋口です。宜しくお願いします」
手を差し伸べられる。智子は、気持ち躊躇いながら手を握った。
「これからブリーフィングを始めます」
田辺がこれまでの経過を説明する。ディレクターとADたちは腕組みをしながら、時に頷き時に驚きながら、話を聞く。
 智子は作戦台の椅子に座り暫し耳を傾けていたが、次第に血の気が引いていくのを実感していた。女性オペレーターが、気を利かせて紙コップのコーヒーを差し出したが、受け取れたものの、手が震えて中身がこぼれはじめていた。
 樋口を除く、その場にいた全員が智子に同情していた。警察特殊部隊数十人を、たった一人で手玉に取った男と、地上80mの排気塔で一対一で面と向かわなくてはならないのだ。田辺に至っても、井上の得体の知れないオーラは、おのれの怯懦を刺激していた。
「怖いのは当然の事です。別に恥ずべき事ではありません。人間の本能ですから。あまつさえ聞けば聞くほど、恐ろしくなるでしょう。」
樋口は、広げおどけた口調で場を和ませる。
「でも大丈夫です。私も何例も分析していますが、この類の犯人が女性やこどもに危害を加えた例はありません。私が100%の安全を保障します」
「あなたに保障されても・・・」
「確かに、いくら私が保障しても、何の担保にもならないでしょう。むしろ心配なのは別の事ですが・・・」
「別の事って」
田辺が口を挟む。
「嫌なら、やっぱりダミーの女性警官と変わりますか。100%の保障は我々にはできません。あくまでも協力です。別の局の方々からも問い合わせは来ていますが」
樋口が反論する。
「ダミーは簡単に見抜きますよ。一度、不信感を与えると、次の行動予測が難しくなります。ここは笠井さんに頑張ってもらうしか・・・」
樋口は、智子にある種の雰囲気を感じ取っていた。
「この現場の指揮権は、一義的には私にあります。あくまでも民間協力者ですから」
「いや、私、頑張ります。せっかくの機会ですし、何より社会の為、ですもんね」
智子は自分に言い聞かせる。体は震え、涙目になっている。
「本当に宜しいのでしょうか。とても、大丈夫じゃ・・・」
「頑張ってみろよ」
ディレクターの佐藤が田辺の気遣いを遮った。倣ってスタッフ一同が励まし始める。
「智子ちゃん一人に頼らざるをえないけど、俺たちもいるから。頼りにならないかも知れないけど、命がけで頑張るからさ」
智子は、スタッフの言葉で、それまで孤独感が和らいだ。
 
 
 確かに、このスタッフたちとは入局以来、一緒に頑張ってきた。嫌な事も沢山あった。流石に枕営業はなかったものの大人の事情にも幾度となく振り回された。それでも、このスタッフ達は、番組作りにプライドを持って、真摯に取り組んできた。これだけは、私たちだけが積み上げた財産だ。


「うん、頑張る。宜しくお願いします」
勢いよく頭を下げると、下瞼に溜まった涙が宙に浮いた。
「それでは宜しくお願いします。これからマルヒに無線で連絡入れます。必要があれば直接、やり取りして下さい」 
 田辺が発信すると、すぐに応答が入る。しばらく会話が続くと、おもむろに無線機のマイクを向けられた。
「君と話したいとさ」
智子は、恐る恐るマイクを受け取る。
「ええっと あの」
だめだ。どうしても怖くてまともに声が出ない。
「本当にすまない」
あまりに優しいトーンに、体が無条件に反応する。
「ああ、はい」
「さぞかし怖い思いさせてしまって本当に申し訳ない。ただ、どうしても放送局の協力が必要なんだ。巻き込んでお詫びのしようもないが、助力願いたい」
「は、はい」
内容の良し悪し関係なく、反射的に返事をしてしまった。
「では、ヒトサン いや午後1時30分、13時30分目安に、一人でこちらまで登ってきてくれないか。足労かけてすまないが」
「はい、わかりました」
「信用してくれるか分からないが、身の安全は絶対に保障する。これは、元自衛官の誇りにかけて、だ」
「・・・・」
「あと、そこに樋口という男がいるだろう。変わってくれないか」
「はい」
智子は、樋口にマイクを渡す。渡された男の顔は、これから一緒に遊ぶ約束でもしているような軽やかさだった。
「久しぶりだな」
井上は、口調が変わった。身内用の言い回しになる。
「ああ、久ぶりだ。隠密行動中なんで、詮索はなしだ。ネタバレなし。分かるよな」
樋口も、同調する。
「あぁ、良く分かっている。まぁ そんな事はどうでもいいや」
樋口の表情が曇る。田辺他、初めて見る表情の変化であった。
「お前からも、言ってくれないか。怖くないって」
対策本部も、そのセリフに拍子抜けになった。
「そんな事言っても、これだけの所業を起こして、怖がるなって方が無理な相談だろう」
「まぁ 確かに」
「あと、御厨は向かって来ているよな。まだ、到着していないのか」
「今、こちらに向かっているよ。お前のおかげで非常線まで原発反対派が押しかけてきている。陸自のヘリが使えなくなって、浜松から自家用バイクなってしまったよ」
「それは災難だったな。でも、御厨はその方が良かったんじゃないか。上空1万メートからパラシュート降下させたらどうだ」
「冗談で提案したら、マジ声で怒られたよ・・・それはさておき」
樋口は仕切り直す。
「無駄だと思うが最後に確認したい」
殺気にも似た覇気が、樋口を包んだ。田辺は、先刻井上から感じた、得体の知れない迫力を再び感じ取った。
「後悔はないな」
「ない」
間髪はなかった。
「了解。検討を祈る」
本来、制圧すべき機関がテロリストに投げかけるには、ありえない言葉であったが、咎める者は誰もいなかった。咎めるというより世界が隔絶されていた。


[同日 13:00~  東名高速道路 ]
 
 御厨は自家用バイクで浜松基地を出発し、浜々原発に向かっていた。後部座席には、使い慣れた狙撃銃ボルトアクションライフ、アメリカレミントンアームス社製M24SWS1式が専用ケースに収められている。
 
 
 習志野駐屯地で、狙撃のシミュレーションが終了し、樋口に出発の連絡を入れる。
「準備完了。これからカイユースで出発する」
「すまん。直接、現着してもらおうと思ったんだが、度重なる緊急事態で周辺住民がかなりナーバスになっているらしい。ヘリが下手に反対派住民に撮影でもされると、のちのちの情報操作でやっかいな事になる。浜松(基地)経由で、あとは道路で来てくれないか。早い方がいいが、ヒトゴマルマルあたりがミッションリミットだ。ヒトヨンマルマル目安に現着してくればいい。バイクだったら警察の先導なくても来れるだろう。もう手筈は整えているから」
相変わらず、こちらの意見は最初から聞くつもりがないらしい。
「簡単に言ってくれるな。一応、プライベートでは安全第一の優良ライダーなんだぞ。立場が立場だし」
「なら私たち十八番のパラシュート隠密降下でもやるか。状況、日中、市街地上空にて」
「ロープ降下より目立つわ!苦手なのを知ってるくせに」
「まあ、何とかしてくれ。頼んだぞ」
「了解」
 格納庫に向かうと、チヌークに愛車は搭載され、こちらの姿に気が付くと整備班班長と管制官がサムアップしていた。用意の良いことで。
 原発反対グループがSNSで緊急訓練の情報が拡散された為、隣接地域から主に反対派の集団が非常線に向けて続々と集まり始めていた。マスコミは事態が事態だけに報道管制が敷かれたが、一部が抜け駆けをはじめている。
 巷のSNSでは「本当にテロリストに占拠されたのではないか」という、本当の事であるが、噂が流布され尾ひれがついて、ランボーのような戦闘のプロが一人で立てこもっているという話に膨れ上がっていた。皮肉にも、その尾ひれは真実にほぼ合致してしまっていた。現在の自衛隊において、単独接近戦で井上に敵うものはいない。海外遠征時も、空き時間やオフの時に肉弾戦を嗜み程度に教わったが、足元にも及ばなかった。確かにコンバットで命をかけてきた奴に敵うはずもない。所詮、こちらは安全地帯での狙撃担当だ。狙撃兵同志の戦いでは、仮にこっちが殺される時は、そんな事前のやり取りもなく、相手の狙撃で瞬時に死んでいる。
 僕たちは、赴いた先の特殊部隊の連中に例外なく「サムライ」「ニンジャ」「ブシドー」のフィルターを通し好奇の目で見られていた。外国の特殊部隊は皆、この国のそんなものに憧れている。少し刀の演武を披露してみたどうかとの話になった。樋口の提案だった。井上は元々、体術などは群を抜いていたが、主に剣術については本人もこだわりもあったらしく、奥さんと結婚するまではトレーニングハイの如く、毎日稽古をやっていた。
 アメリカ兵の前で、真剣による居合抜きあたりを魅せると、一様に筋骨隆々の連中は、二回りも体躯が小さい井上の剣舞に魅了されていった。誰が言い出すまでもなく、実戦の急襲作戦でもやってみたらどうかという話になった。本人は乗り気ではなかった。現代戦闘にナイフ系の有用性など、微塵もなくなっている。CQCやCQBは、アサルトライフルやサブマシンガンで一掃。そんなものを相手にいくら刃物を振り回した所で瞬殺される。邪魔な荷物しかならない。収納性を考えればアーミーナイフを軍靴にくくりつけておけばいい。それでも、井上なりに思う所はあったのか、とある中東でのゲリラ掃討作戦で小太刀を背中に帯刀していった。
 通常の急襲攻撃によってゲリラは壊滅状態に陥ったが、残党の兵士の一人が、シミター(三日月刀)による一騎打ちを切望するものが出てきたらしい。恐らく「戦士なら一対一で戦え」といった感じだ。部隊の連中は、最初は鼻で笑って射殺しようとしたらしいが、井上は隊の本意に逆らってその決闘を受けた。その意気に感化されたのか、元々興味本位で持たせた事もあって部隊長は黙認した。御多分にもれず、隊の中で賭けの対象となった。
 周囲の者はアサルトライフルを3点バーストモードで確実に殺せるように構えて待機し、いつでも撃てるように囲んでいた。冷やかす罵声を挙げていたものもあったが、次第に、一対一の命のやり取りに魅了されていった。美しいというものではない。必死で生き残ろうと近代兵器を使わず、極めてプリミティブな獲物で無骨に戦うことを再認識したのだ。トリガーを引く、発射ボタンを押す。生き残る為に手段は選べないが、そんな簡単なやり取りに前線の兵士は嫌気がさしていたのかもしれない。
 交えた剣でのやり取りは15分を超える戦いとなった。相手も命がけ。井上も命がけ。同じ土俵に乗れば、そう簡単に決着がつくはずもない。最後、決め手になったのは、獲物の性能であった。シミターが根本からぽっきり折れた。あっけないものであった。
 以来、井上は柄を特殊加工した小太刀を携帯するようになり、「kodachi」は井上の代名詞となった。中には弟子入りを志願する者もいて、未だに遠征帯同した海外の特殊部隊の連中とは仲が良い。仲が良すぎて、情報保全部はやきもきしていた。
 唯一の国内作戦の時も、敢えて銃火器は所持せず制圧した。制圧というより殲滅か。あの場に居合わせた全員が、あいつの前世は忍者だったに違いないと嘯いていた。もうそのメンバーも残っていない。
 樋口が突出しているのは語学力、特に翻訳能力で、短期間でその構文体系を把握し、現地人と間違うほどに闊達に話すようなる。また心理分析、本人は状況解析における予測なんたらかんたらと言っていたが、予測演算をして最大値を出し、その近似値から最良の手段を考えるものらしい。プランAが最良の選択肢だとすると、戦況の変化に対応して、10通りぐらいのベターな戦略が提案される。その計算たるや、掛け算というより二乗式に対応するらしい。そういえば将棋だったらプロにも負けないと、普段は全く自慢しないが、珍しく豪語していた。現場オンリーの人間にとっては、樋口の頭の中は分からない。
 ただ、分からないのは論理的な部分であって、感情面では本当に分かりやすい朴訥な人間だ。曰く、任務以外では極力分析を避けていた。分析の結果、私生活において分析は不必要という結論に至ったらしい。クレタ人の嘘のような話。
 バイクで走っていると、いろいろと思い返す。走馬灯とはよく言ったものだ。これからやろうとしている任務は、テロリストとなった戦友の排除だ。本来なら、感傷的というか感情が爆発するのであろうが、任務になると、僕たちはある種の暗示にかかる。かかるというより自己暗示、人格が変容する。薬物投与の影響もある。モンゴロイドにとって体格差や身体能力の差は絶対だ。その差は、何らかの手段で補うしかなかった。Jはおのおの分野にあった薬物を状況に応じて使用している。狙撃には、過集中と持続力が必要になるベータ遮断薬。いわゆる心臓のドキドキを抑え平穏を保つ。今回も準備はしてある。副作用は感情の鈍化と倦怠感。接近戦には興奮剤。頭脳には中枢神経刺激薬などなど。戦闘状態に耐えられなくなり、薬に溺れて身を崩し脱落するメンバーもいた。
 カーブを切りながら折々で富士山の姿が見え隠れする。可能な限り早く現着したいのは山々だ。他の車両には申し訳ないと思いつつ、デジタルメーターが198~9kmまで、タコメーターはレッドゾーンぎりぎりで維持する。迂闊にこれ以上アクセルを回すと、リミッターが働いてしまう。トップギアで法定速度を順守している車をジグザク走行して追い抜いて行く。
 順調に暴走していたが、一台のパトカーがサイレンをけたたましく鳴らして追ってきた。どこかしらの車両に通報されてしまったようだ。さて、どうしたものか。大人しく捕まったとしても交通機動隊。いちいち統合幕寮長から警察庁に連絡してそこから云々している時間はない。下手に逆らえば公務執行妨害になる。大体、隠密行動だった。とりあえず、振り切れるか頑張ってアクセルを捻るが、リミッターが効いて急ブレーキの如く減速してしまった。振り切れる要素が何もない。スピードもトルクもない。スペックはむしろスポーツーベースにしているパトカーの方が上だ。時速200kmで煽られながら「そこのバイク、止まりなさい。危険です。直ちに停車しないさい」を連呼される。向こうも走りのプロである。プライドにかけてスピード勝負では追跡をやめないだろう。こんなことなら300km/hは出せるリッターバイクにしておけばよかったと後悔する。 
 奥の手を使うか。目標のインターチェンジは2つ先であったが、次のインターチェンジを利用する。幸い平日だったので走行車線はトレーラーが連なっていた。降り口間際で、タンクローリーの目の前に入る。車間、約1m。クラクションががなり立てられる。右側からパトカーが入ってきた刹那にすっとトレーラーの左脇に逸れ、3段連続シフトダウンでエンジンブレーキとフロントレバーを握り込み、急ブレーキをかける。距離が定規で線を引くように一気に広がる。パトカーが気づいた時には、もうインターを超えていた。そのまま、インターチェンジを降りて現場に向かう。ナンバー照会後は、お偉い方々に頑張ってもらおう・・・
 

[同日 13:30 5号機排気塔 地上80m作業用スペース]

 智子はパンツスーツに着替え、無線機を持って安全ヘルメット被り、5号機排気塔の四方で折り返しになっている作業階段を上っていた。残暑は時間的にもピークに達し、気温は30度を超えていた。海辺の湿度のせいで、余計に暑さが感じられる。作業用の階段は勾配がきつく、一段一段が太ももの筋肉に負担をかける。学生時代はチアリーディングで鍛えていたが、局に入社してからはどうしても運動する時間が取れず、体型維持は、もっぱら食事制限でコントロールしていた。鉄の足場に滴り落ちる汗は、あっというまに蒸発する。
 次第に、眼前に広がっていた建屋から抜けると原発建屋一帯が眺望できる。改めて、その存在感を再認識する。50mを超えた所で海風がビュービューと吹き付け、思わずしゃがみこみ手すりにしがみつく。高い所は、特段に苦手ではないが、煙突の周りを回るには手すり以外に頼るものがない。50mはビルで言えば15階ぐらいの高さだ。体力的なものはさておき、あと30mのペースは更に鈍った。最後の一周になって見上げると、胡坐をかいて海の方を見つめている井上の姿が間近に見えた。疲労で乱れた呼吸を整え、先に進む。
「こんな高い所で怖くないんですか」
ようやく到着した智子の息も絶え絶えの第一声であった。井上は思わず微笑む。
「怖いといったら商売あがったりにはなるかな。あ、そういえば若干一名は居たな。スピードはいくら速くても全く問題ないんだけど・・」
ジャケットからハンドタオル出して汗を拭う。
「ちょっと待って下さい。呼吸が整ってから、お話は伺いますので・・・」
「構わない。本当に申し訳ない」
 智子は、当初抱いていた恐怖心は払底されつつあった。樋口の雰囲気で少し慣らされている面もあった。見せられた写真は厳しい表情であったが、全く殺意というか攻撃的な雰囲気がない。逆に、殺意を抑えることもできるのかと考えていた。34歳とは思えない若々しく引き締まった体に、胡坐をかいているが背も180近くはある。明らかにイケメンに部類されるだろう顔立ち。どんな女性が見ても、一次審査は間違いなく合格する。しかし、ジャケットの下に隠れ見えるベストには起爆装置と連動した装置が点滅している。後方には、銃火器が幾何学的に洗練されたフォルムと色彩が重厚感を携えて存在を主張していた。やはりこれはテロなのだと再認識させられる。
 呼吸が整い、智子は質問をする。
「とりあえず、ご要望通り参りました。要件はなんでしょうか」
井上は、予想していた以上に泰然している様子に、少し驚き、少し喜びを感じた。
「テレビでちらっと観たことあるけど。やっぱり美人さんだね」
智子は思わず笑う。定型文で返答する。
「県警本部長さんにも言われました。私は美人より、かわいいと言われた方が嬉しいです」
「なんで、どっちも似たようじゃないか」
「女にとっては違うんです。美人は、どうしても年齢のイメージが先行します。かわいいはかわいい、じゃないですか」
「まぁ、そう言われるとそうとも言えるな」
「では、これからはそうして下さい」
「了解した」
「奥さんと6歳になる娘さんがいらっしゃるって聞きましたけど、娘さんにもそんなな風に無頓着にしないでくださいね」
井上は、はて?と腕を組んで思案にくれた。
「いや、今はそんな事はどうでもよかったですね。忘れて下さい」
「了解した」
智子は思わず噴き出した。気持ちムッとした井上の顔を見て自戒する。
「えーとですね。最初に戻ります。私たち関東テレビへの要件は何なのでしょう」
「その前に、一応を確認したいが、無線機や録音機の類は所持しているのか」
「はい、この会話は対策本部にも聞かれています。樋口さんは、あなたは先刻承知済みのはずだと言っていましたが・・・」
「まいったな、そういえば今の会話は聞かれているのか・・・」
「はい、丸聞こえです」
「まぁ いいや。あいつがほくそ笑んでいるのが目に浮かぶ」
井上は気を取り直す。
「要件は単純な話だ。大変かも知れないが。午後3:30目安に、ここから全国に一斉の生中継をやってもらいたい。インターネット動画サイトにも同様に。準備には二時間もあれば十分だろう。そこで全てを詳(つまび)らかにしたい」
「その後はどうするんです」
「それは、今の要件が実現し、担保された時に改めて話す。今は、この要望に応えて欲しい。君もマスコミの一員を標榜するなら、真実とは何かを突き止めて欲しい」
井上は、敢えて無線のマイクで話しかける。
「聞いての通りだ。要求が通らなかった場合の話は割愛する。以上だ」
気迫が漲った井上に、智子は若干たじろいだ。
「申し訳ないが、カメラマン兼レポーターで、今と同じようにやってもらいたい。お願いできるかな」
「はい。技術的にどうか分かりませんが、多分、可能かと思います。画像は多少悪くなっても構わないですか?」
「あぁ 内容さえ伝えられれば十分だ」
「では、ハンディカムで撮影しながら小型中継機から中継車に渡す事になると思います」
「そうか。宜しく頼む」
「井上・・・さん。井上さんですよね」
「ああ」
「井上さんは、その放送が終わったらどうするつもりですか」
「君が知る必要はないよ。早く準備に取り掛かりたまえ」
智子は、ある結末を感じ取っていた。


[同日 14:00 原子力科学館周辺]

 パトカーの追跡を振り切った御厨は、一般道に入り、途中、野次馬渋滞に巻き込まれていた。あまり好きではない車間のすり抜けを強いられていた。こんな所で事故ったら洒落にならんぞと言い聞かせながらも、スイスイと通り抜けていく。ようやっと非常線に辿りつき警備の警察管に文書を提示。ある程度、事情を知っている警察官には警察庁長官捺印の公文書の効き目は抜群であった。
 
 パトカーの先導で、現地対策本部に到着すると、玄関から樋口が出迎える。当然の事ながら、表向きは自衛隊の出向にはなっていない。SATには、警視庁機動隊からの派遣で通している。これも暗黙の了解である。樋口は、こういった時用の相変わらずの恰好。戦禍の傷と鍛えに鍛え上げられた体躯が潜んでいるとは一般人なら到底思えないだろう。従前の情報がなくてもJは、服の上から相手の肉体的ポテンシャルを図る眼力を身に着けている。
 現地対策本部に入ると、クーラーの風が気持ちよかった。夏はバイクが涼しいというのは乗らない人間の誤解だ。思わず、緋色のライダージャケットを脱ぎ、汗まみれシャツをしゃくりあげる。女性オペレーターの一人が顔を真っ赤にしていた。全員の視線を感じ、シャツを下げ、とりあえず挨拶する。
「御厨です。宜しくお願いします」
県警本部長とSAT隊長とも一応の挨拶と握手はするが、明らかに歓迎ムードではない。当たり前かと表情を止める。

「早速ですが。作戦はどのようにお考えですか」
御厨の質問に、田辺が淡々と説明を始める。
「詳細については従前に伝えた通り。マルヒは一番東側の5号排気塔の地上80mの作業用キャットウォーク最上部で籠城している。脈に反応する起爆装置を着ているから、狙撃による射殺もできない状況だ。要は、お手上げってやつだな」
「その起爆装置の信号、ジャミングはできないんですが」
女性オペレーターが説明する。
「警視庁の科学班が解析していますが、やはり下手に別の電波が影響すると起爆する可能性が否定できないそうです」
「つくりは単純。写真を解析したら市販の脈拍計を使っている。遠隔操作爆弾も、原理としては非常に簡単なつくりだ。この作り方が、ネットなんかばら撒かれたらたまったもんじゃない。マヒルの言葉を信じれば、誤作動防止で作動させても10秒の余地があるらしいんで、何かアクションを起こすには、そこにかけるしかないな」
「生中継されたら、これまでの情報操作の苦労は水の泡だ。何とか、インタビュー前に作戦を実行できんのか」
県警本部長が、懇願する。
「要求が通るまでは、マルヒも臨戦態勢です。隙はみせないでしょう。ここは樋口さんと不本意ながら同意見ですが、仕掛けるのならばインタビュー直後、がベターでしょうね」
「ありがとうございます。そのまま、事件収束を現場からレポートすれば、パニックは皆無もしくは最小限の影響で済むはずです」
樋口は会釈した。
「上手く、できれば、ですが」
田辺は樋口を睨みつけ、意味ありげに吐き捨てた。樋口は泰然として作戦を進言する。
「作戦は単純です。頭部、前頭葉部だけを破壊し、意識のみ喪失させます。脳幹さえ傷つけなければ心臓と呼吸は止まりません。狙撃後、直ちに警察庁SATのヘリにて5号機排気塔へ旋回、ロープ下降により衛生員を降下させ、目標に直ちに挿管し、呼吸を維持させます。そのまま収容し、待機しているドクターの治療を施しながら、近隣の三次病院まで搬送。これが現在可能な作戦の概要です」
「そんな事できるのか!」
田辺は机にこぶしを振り下ろす。すっかり冷めた飲みかけのコーヒーがこぼれ、そばにあった原発の図面を浸食する。
「おれらの狙撃隊でも精密射撃の射程は300mがいいところだ。しかも相手は動いている。間違って即死になったらどうするんだ。それ以上、近づけは89式で狙い撃ちだ。スコープ付も奪われているから500m以上離れないと、こちらが狙撃されるぞ」
田辺は、やっかみも含んだイライラをぶつける。
「距離は700m以上取ります」
淡々とした御厨の返答に、田辺は過剰反応する。
「700m!冗談は止せ。そりゃ無効化させるだけだったら1kmでも2kmでも可能だろうよ。前頭葉だけをふっとばすなんて、弾の威力も考えたら誤差5mm程度しか許されないんだぞ!」
「ご高説、ありがとうございます。しかし予備の作戦はありません。これ以外に、考慮されません。以上です。御厨さんは準備に取り掛かって下さい」
「了解しました」
「狙撃ポイントはどうします」
「この上です」
原子力科学館、展望台屋上。排気塔を占拠する井上との距離。およそ800m―


[展望台直通エレベーター]

 樋口は、屋上に向かう御厨に同行する。長袖のシャツにGパン。移動の恰好のままだ。
「(タクティカル)スーツは着なくてもいいのか」
「別に必要ないだろう。暑いし。この恰好で充分だろ」
「(89式で)撃ち返えされないか。威嚇だろうが」
「ダットサイトだけで遠距離スコープは持っていないんだろ」
「そうだが」
「まあ、大丈夫だよ。狙撃については井上は常に的になる方だったから、あいつもよく分かっているよ」
そのまま、エレベーターに乗り込む。
「爆発させるのはブラフだろう。ありえない。井上に限って」
「私も、そうは思う。しかし、事は起きてしまっている。確率論からいえばやるかやらないかの二択。核兵器の使用と同じだな。危険性が0でない以上、0にしなければならない。要は、この状況自体で負けは確定している。立場が重い人間は、早急な処理を望んでいる。敗戦処理だな」
「なぁ樋口。井上がこう出る事は予測していたのか」
「ああ」
「いつから」
「真賀陸で失った部下の顛末を知った時に、ただでは済まさないだろうとは思った。御厨も裏取りには協力したのだろう」
「した。他ならぬ戦友の頼みだ。後始末のやり方としては薄々、結果は分かっていた。井上も、だ。それでも納得したかったんだろう」
「あの事故で、6名の自衛官が殉職した。うち3名は、井上が手をかけたが」
御厨の表情が微妙に変化する。そうか。そうしたのか。お前は・・・
「そのあと、一度だけ話をした」
「止めなかったのか」
「私に、止める権利はないよ。お前が相手でも・・な」
「そうか」
「御厨、お前は大丈夫だな」
「井上はただの狙撃目標だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「頼む。救ってやってくれ。あと、いつもすまん」
「了解。いいさ。こんなもんだよ」
『救ってやってくれ』『すまない』相変わらず、君は優しいな。


 エレベーターはとっくに到着していた。扉が開いたままだった。今度は下がって行く樋口を御厨は見送った。
 

 文字通り、展望台は南側と北側に分かれて360度一望できる。至る所に撮影禁止の張り紙が貼ってある。南側には電発の向こうに太平洋の大海原が広がっている。北側は国道を挟んで住宅街が整然としていた。国道の非常線には、反対派や野次馬と思われる人だかりが、警備の警察官と小競り合いをしている。情報操作の限界が近づいていた。
 従業員用のメンテナンス室に入り、薄汚れた配電盤スペースを抜けると、屋上用の円柱状の固定梯子が現れる。ライフルケースを背中に固定し、梯子を上り天蓋をあけると、残暑の日光が照りつけた。屋上に柵は設置されていない。
 東の沿岸でのミッションの場所となった原発と同規模だ。加圧水型ではなく沸騰水型軽水炉を採用している。事故を起こしたのと同じ型式だ。見取り図から狙撃ポイントにいくつか候補あげていたが、ことごく近いポイントは抑えられていた。こんな事だったら、交換条件で狙撃のコツを教えるんじゃなかったと後悔する。今回は、前回と違って位置が違う。あの時は、一番高い排気塔にこちらがポイントを置いた。今回の着弾ポイントだ。北側は雑木林で海抜100m近くあり、撃ち下ろしには最適だったが、距離が近すぎて井上の射程に入ってしまう。SATも厄介な獲物を奪われたものだ。更に時間帯的に太陽が背になるため、保護色になるギリースーツを着込んでも場所は発見されやすい。東側は海岸線がそのまま広がっているので、眺望から丸見え状態。海抜も堤防が5mあるだけだ。南は灘が広がっていて、洋上射撃も考えたが波の上で5mmの精密射撃は物理的に不可能だ。
 長距離射撃は、相手が動かない、もしくはこちらの存在に気が付いてないというシチュエーションが前提となる。競技や戦場で、1500mとか2000mという記録はあるが、SAT隊長がいうように、あくまでも固定された目標に、狙撃側にとって最も良い環境を設けて初めて可能なのだ。1対1コンバットのような状況は、そもそもごくわずかしかない。僕も最大1500mの射撃もあったが、空気が澄んで気圧の高い高地だった。
 音の速さは気温によるが25度で秒速350m。800mで2.28秒かかる計算だ。二拍かかる。ライフルの速度は音速を超える。800mも離れると裸眼だと空気中の水分が蒸発して霞んでみえる。陸上公式競技トラック丁度2週分だ。この湿度と暑さも決して芳しい環境ではない。今回のもっとも困難な所は、相手はもちろんのこと海風の計算だ。秒単位で変わるため、地元の気象台からデータを、県警本部を通じて端末に転送してもらう。
 端末のアプリを狙撃モードに移すと、3Dポリゴンに地形と建物が再現される。更にモードを切り替えると鎖線で風の流れや、気温や湿度、地球の自転はリアルタイムで計測反映される。距離は習志野演習場で概ね調整済み。データを入力し、レクティルのゼロポイントを微調整する。
 人間は頭部の中心核にある脳幹と周囲さえ損傷しなければ即座には心臓と呼吸は止まらない。側頭から前頭野に広がる大脳新皮質だけなら、即死はない。脳出血を起こしてしても治療が早ければ生還できる。自衛隊の所有する小銃の弾は、西側諸国統一基準弾を採用しているNATO弾。目標の損傷を軽微にするには5.56m×45弾の方が望ましいが、海風が懸念される所と射程距離が800m前後なるところから7.62m×51弾にした。薬きょうは空気抵抗と反動を考慮し260レミントンにする。風の抵抗を受けにくく、スリムな為、必要以上の頭部損傷を軽減できる。
 銃身を安定させる二俣の脚、バイポットを準備し、銃身下部に装着。狙撃位置に固定。伏せて射撃する伏射態勢で設定。建物の縁から何処からでも大して変わらなかったが、距離的に一番近い所を選ぶ。本来なら観測員をつけるのが最良だが、今回は隠密行動。今Jに観測員はいない。
 狙撃スポットの許容された誤差は5mmしかない。頭部の中心に近くなれば脳幹を破壊して、即死。逆ならば、意識を奪うまでに至らず、起爆装置を操作する余地ができてしまう。この緊張感は、実戦を経験したものでないと耐えきれないだろう。
 井上は、この国のために「こうするべき」と判断して行動している。僕があいつと同じ立場になれば、違う行動と結論を出せるか自信はない。もう第1次メンバーで生き残っているのは3人しかいない。現在、候補生は全員海外にてサバイバル研修の真っただ中。最終段階に入ったのが2名。残りの4名は、今年が初年度だ。「幽霊の戦死」を潜り抜けられるか否か、これまでの確率は5割を割っていると聞く。そして最終に至るまで、何人殺傷しなければならないか。その葛藤に耐えきれるのか。
 そんな事を思いながら、時間まで胡坐をかいて観的スコープを片手に待機する。炎天下の屋上コンクリートは目玉焼きが焼けそうにヒリヒリとしている。たまらず頭の上に対策本部でもらった白いタオルを被せ、日を避ける。
 
 
  [同日 14:00 5号機排気塔 キャットウォーク]

 Jとして、ここまで生き残っているという事実が、どこか人としてネジが外れた、いやネジを締め付けれられたという方がしっくりかもしれない。どうやって生き延びてきたのか実感なかった。明日死ぬかも知れないと思いながら、今日を一日一日延ばしてきた。1カ月も過ぎると、死んだようになった。考えることをやめた。毎日、死んでもいいと思いつつ、その日その時に死にたくないと心の中で叫んで、相手を殺してきた。一日千秋の思いで、過ごした。殺戮研修は、いつでも辞められた。やりたくない、といえばそれで終わり。また、この国の無事平穏な日常任務に戻ることはできた。それでも、今辞めたら、これまで奪った命はどうなると、夜な夜な苛まれた。記憶が混乱し、ただ、兵士としての能力だけは、日々淡々と磨かれていく。そんな時だった。あの中東の戦士と刀を交えたのは。初めてだった。死が溢れた日々の中で、あれほどまでに生きている実感を覚えたのは初めてだった。あの時、人を殺す意味も分かった気がした。
 この国でJのミッションは一度だけ。あの時は、全く立場が逆だった。某国の特殊工作員ならば、凄ましい訓練を潜り抜けた猛者たちであったが、その強さは自分の命を蔑ろしにした強さだ。近代化に遅れたゲリラ戦の強さだ。軍事は産業としての技術進展は常に最先端を行く。扱う技術、戦力の最先端で、いくつも国の紛争や困難なミッションを生き残ったJにとっては、さほど難しいことではなかった。生存のプロであり、戦場での生存は人殺しのプロとなる。


 智子は、差し入れを持って、再度打ち合わせのため井上の元を訪れて座り込んでいた。
「ヘルメットはいいのか?」
「暑いんで、もういいです。怒られたましたけど。はい、差し入れのサンドウィッチとおにぎり。コンビニですけど。あと、お水とお茶どっちがいいですか」
「今は水がいいかな」
「じゃ はい」
屈託のない笑顔で渡される。最初のぎこちない顔とは大違いだ。
「ちょっと待ってね。今、私が・・・」
細工がしていない事を示そうと、智子が飲もうする前に、樋口はさっさと開けてごくりと飲み干し、無造作におにぎりを口に放り込む。智子はふくれた。
「もう、食べるところ見せてからって指示だったのに・・毒とか睡眠薬とか入っていたどうするんです?」
「真実を追求する公僕が、テロリストの心配を?」
「ええ、します。大切な取材対象ですから。ふふ」
得意げにはにかむ。ふと、真奈美がこんな風に育ってくれればと思う。
「レシーバーか録音機は持たされているんだろう。そんな会話はまずいんじゃないか」
「テロリストを自称している割には気を使い過ぎです!もっと悪人ぽく振る舞って下さい!レポートしづらいです」
と腕を組む。小柄の割には嫌でも大き目な胸が強調され、目のやり場に困る。葉子より大きいか?
「無線の時、相当怖がっていたが、今は大丈夫そうだな」
「ええ。怖くないです。井上さんは悪人じゃない。」
「なぜ、そう言い切れる。このまま、爆発させて何万人も人間を苦しめるかもしれないんだぞ」
「いや。できない。絶対に。樋口さんが言っていたのが、今では良く分かります」
この揺るがない自信はどこから来るのだろう。
「君はいくつなんだ」
「何でそんなところにはデリカシーがないんですかね~」
「あぁ、ごめんごめん」
「本当に、不思議な人。まるでお父さんみたい。26になったばかりです。局アナ4年目。あと何年できるかな」
と背伸びする。そうか、娘の成長をオーバーラップさせていたのか。ふと気が付く。そうだ。もう娘と合うことはないのか。まともなお別れはできなかった。それどころか、こらから茨の道を歩ませることになる。すまん。許して欲しい。
「改めて聞きたいんですが、樋口さんとはどんな関係なんですか」
「聞いてどうする。レポートでもするのか」
「これはただの興味本位。どう見てもただの関係ではない。どうせ守秘義務うんたらかんたらになりそうだから、樋口さんもきっちりと隠すつもりもないみたいだけど・・・知り合いなんでしょう?」
「ああ 知り合い、というか友人だった」
「樋口さんも自衛隊ですよね。警視庁のプロフェイリングチームの心理分析官って言ってたけど、会話からも、そうは思えませんでした」
「なぜ?」
「さっき、井上さんと無線でやり取りした時、ちょっと顔つきが変わったんです」
「顔つき?」
「はい 言葉では説明しづらいんですけど、ええ、顔つきが」
「そうか、さすがに隠しきれないんだな、俺たちは・・・」
「何を一人で納得しているんですか。ちゃんと答えて下さい」
風向きが変わって、彼女の匂いが鼻腔をついた。妻と同じ、我々にはない、柔らかな香り。
「友人だよ。誰よりも信頼できる。それにもう一人、来るはずだ」
樋口は、懐からカプセルに入った錠剤を出し、残った水で流し込む。
「それなに?」
「秘密」
交感神経興奮剤。エフェドリン。
「さあ もうお戻り。対策本部の連中がやきもきしているぞ。何をしてるんだって」
「ああ~もう、この階段下るの怖いし面倒臭いです~」
「すまんな。次が最後だ」
「30分前には来ますので~」
会話を聴いていた樋口は呟く。
「そういえばあいつは、奥さんもそうだけど、娘は溺愛してたな。戦略を立て直そうかな」
んな訳あるかと、苦笑する。それより、彼女は憂慮すべきか。


[同時刻 内閣官房長官室 ]

官房長官は渋い顔で受話器をおろす。傍らにいた秘書官が声をかける。
「総理は何と」
「そりゃ、カンカンだったよ。せっかく真賀陸の件が、お茶に濁り始めた矢先にどーするんだとお冠だ。早急に何とかしろだとさ」
「で、何と」
「日没までには収束すると伝えたよ。それまで、『事実関係を確認するまでコメントは控える』で押し通して下さいと念を押しておいた」
「やはり粛清するんですか」
小声で囁く。
「放送内容次第だな。何を話すか知らないが、仮に自身の話をした所で誰も信用せんだろう。戯言に過ぎん。腐ってもJだ。かかった費用を考えたら、まだまだ働いてもらわないといかん。今度こそ、妻子を使ってな―」
秘書官は苦笑いしかできなかった。


[同日 15:15 5号機排気塔 ]
 
 タワー真下には、動谷放送局から駆り出された中継スタッフと、ロケ班が協力して中継準備に奔走している。
 智子は、すうっと息を吸い、一度止めて吐く。頬をぴしゃっと叩く。持ってきた機材について樋口に説明する。
「では、説明します。中継用のカメラはこれです。モニターはこれ。中継車両が真下にいます。これで私の局を通じて、全国にリアルタイムで流せます。これでいいでしょうか?」
「すまんな。せっかくの独占スクープという所だったろうに」
「別にそんな事はどうでもいいです。それより井上さんは大丈夫ですね」
「そんなに長々としゃべるともりはないよ」
「君は自分の携帯を持っているか」不意に質問される。
「ええ、アイフォンです」
「申し訳ないが、それもワンセグにしてモニターにしてくれないか。俺の携帯は周波数が解析されて偽映像が送られる可能性がある。君のまでは大丈夫だろう・・・というか、そこまで根回ししてないことを信じるよ。樋口はしないにしろ対策本部あたりはやりそうだからな・・・」
確かに、携帯の所持はやめるよう依頼されていたが、虫の知らせか、拒否していた。智子はちょっとした恍惚感を覚えていた。


[同日 15:30 5号機排気塔キャットウォーク 放送開始]

 特別番組として、関東テレビをキー局に、全地上波と衛星放送、インターネット映像配信局、並行して海外メディアにも配信される。智子は、持ってきたペットボトルの天然水を一気に飲み干す。三脚で固定された自分をハンディカムで写し、10インチのモニターで映り具合を確認する。風が強く、いくら髪の毛を整えても、すぐに乱れる。しばらく格闘するが、諦めた。
 イヤホンから1分前、レシーバーを通じてディレクターの「中継入ります」指示が飛ぶ。マイクをチェックし、大きく深呼吸。滑稽な姿に見られているのだろうか。
 原発テロリストの現場レポートが放送される。

「関東テレビの笠井智子です。ただいまスタジオの方でお伝えした通り、本日、浜々原子力発電所が単独犯により占拠されました。犯人は設備に一部に爆発物を仕掛け排気塔に籠城しております。犯人の要求は、この時間からの生中継でした。このまま現場より、お届けしたいと思います。」
バラクラバで顔を隠した井上にカメラが向けられる。
「あー。なんていったらいいのか。いろいろな人たちに迷惑をかけてすみません。本当に申し訳ない」
「今回の、この事件を起こした目的はなんですか」
「15:00指定で、大手マスコミには小荷物が届いているはずだ。中には資料と映像が記録されたメディアが入っている。内容については見て判断してくれ。放送するかどうかは各メディアの判断に任せる」
「どういう意味ですか」
「よくも悪くも判断は任せる。もし、流さないのならマスコミの報道の自由なんて言葉に信憑性はなくなるだろうし、流すなら健全な証拠になるだろう」
「でも資料の信憑性は検証する必要があると思います。内容は何ですか」
「君たちマスコミも既に知っている事に、少し色を付けただけだよ。特に目新しい事なんか何もない」
「本当にそれだけでいいんですか!」
「ああ、構わない。放送を見ている人は、今一度、考えてもらいたい。原子力という技術が持つ意味を。真賀陸で起こった事故の事を。単純に賛成、反対だけでは済まない話のはずだ。核が発明されて以来、私たちはこの技術に振り回されている。今日は、その事を今一度、示したかった。たった一人の男が今、この原発の命運を握っている。それは他の核保有国においても人が使うという意味では何ら変わりはない」
智子は、投げかける言葉を必死に探す。
「そんな危ない原子力発電所を即刻、廃止せよという事でしょうか?」
排気塔の下で、中継モニターを覗いたディレクターの佐藤は、思わず叫ぶ。
「だめだ!智子ちゃん!偏向報道になる!」
井上は、しばらく考え込む。智子は、にべもなく「そうだ」の回答を期待していた。これだけの事をしたのだ。原子力発電所を憎んでいるはずだ。
 井上は数十秒、カメラから目線を海に向ける。バラクラバ越しの瞳は、海の向こうの何かを見据えているようであった。
「先の真賀陸県の事故で3名の自衛官が殉職している。その事だけは公言しておいきたい。名前は伏せさせてもらうが、現在の真賀陸での事故が現状で収まっているのは、その自衛管たちのおかげだ」
井上はもういい、と顔を伏せる。
「以上、関東テレビの笠井でした。犯人より止めろとの指示により、一旦、スタジオにお返しします。新たな要求がありましたら、すぐに繋ぎます。以上です」
カメラを止める。佐藤は、冷やした肝を温めるように胸をおろした。
 智子は、大きく息をついた。体中に汗が滴り、喉はカラカラだった。
「ちょっとしゃべりすぎたかな・・・」
 バラクラバを脱いだ井上は、そのまま汗を拭いながら自嘲していた。これで目的は完遂した。智子は、井上が張った気が抜けていく様相に、妙なあっけなさに判然としないモヤモヤが心中を駆け巡っていた。
 中継をワンセグやネット中継を観ていた野次馬や反対のデモ隊は真実を知り、それまでお祭り騒ぎだった人々の表情はみるみるうちに一変し。誰ともなくその場から離れだすと、人波は堰を切りだし、一斉に逃走を開始した。
 対策本部にその様子がモニターに映し出される。本部長は頭を抱える。 樋口はおもむろにレシーバーで指示を出す。
「御厨―   」
全ての準備を完了していた御厨は、指示を受け取り、眼光鋭く立ち上がる。
「後は―」
 と言いかけた井上は、ふいに緩んだはずの表情が一変する。2mmぐらいは顔面の皮膚が縮んだように引き締まる。眼窩も同様に。
 ゆらりと立ち上がりぬるりと体を遥か遠くに見える原子力館展望台に向けた。おもむろにジャケットから双眼鏡を取り出し、その先を確認する。
「来たな―」
 智子は、誰の事が分かなかった。その時の井上の顔は、まるで公園で待っていた友達が遊びに来たこどものように、晴れやかに見えた。御厨は、狙撃手としての禁忌を犯し、屋上の袖に片足を出し、これみよがしに姿を晒していた。
「姿を現したという事は、あいつなりに『投降せよ』の最後通牒か」
 井上は、こぼす。
 89式の射程距離内であったが、有効ではない。遠距離スープのない所、仮にあった所で有効射撃は困難であった。
「あいつって」
智子は思わず尋ねる。
「もう一人の友人さ」
井上は、別の方向で監視している観測員の死角に背を向け、オブラートに書いたメモとカプセルを智子に渡す。智子は、戸惑ったが、意図を酌みメモの指示通りに渡されたオブラートをそっと飲み込んだ。
「さあ、もうお帰り。君のおかげで助かったよ」
「いや、まだ何も終わってません。あいつって誰ですか」
智子の恐怖心は全て吹き飛んでいた。井上の魅力に酔っていたのか知れない。亡き父の面影なのか。
 御厨は、再度伏射の姿勢に入り、スコープと端末と連動させながらレティクルを井上に合わせる。智子が目の前を行き来し、引き金が引けない。
「何をやっている。打ち合わせを守ってくれ」
「俺の仲間だった奴なんだが、所詮幽霊みたいもんだ。今更、話しても意味がないし、あいつらの今後の任務に支障がでちまうから、オフレコで頼む」
「本当の理由を、まだ聴いていません」
まとわりつく直下照射の太陽の熱だまりが、海風で少しづつ和らいでいく。海風は、二人の会話を掻き消していく。
「あれだけの事故で、懲りないこの国の人たちに鉄槌とか天罰とかそういう事ですか」
「正直言えば、この国の原発施策など興味はないんだ。国民が全員で考えて決めればいい」
「さっき、原発で部下を失ったと」
「介錯したのは俺だから、法律解釈からは俺が殺した殺人犯。殺人、重要施設の占拠、人質エトセトラ・・・触法行為と罪状だけみれば、十分極刑に値するな」
「何を言っているのか分かりません!」
「いいんだ。もう守るべき国がないんだ。守る資格もないんだ」
「それはどういう意味です?」
「ただ・・」
「ただ?」
と智子は井上に詰め寄る。
「放射能の恐怖と命を懸けて、あの事故の収束に頑張った部下たちを労ってやれない国なんかどうでもいい」
こどものようにごねて投げやりになった井上の態度に幻滅し、智子は声を荒げる。その勢いに、井上は戸惑った。
「まるでこどもみたいですよ。大人の事情なんて私にだって分かりますよ!」
「ただ、怒りの感情に支配されてしまった。自衛官、しかも中隊を預かる者としては失格だ。大局的に見ればあいつの考えは正しい。だけど、許せない。あれだけは・・・」
海風が地上80mの作業台をするりと抜けて、まとわりつく暑さを一緒に拭い去っていく。
「でも、頑張ったんですよね!井上さんは!」
 風の音に諍(いさか)い智子は大声で伝えた。少し涙目になっていた。井上にとっては、思いもかけない言葉であった。
「自衛官として、この国を守る為に頑張ったんですよね。あの大震災の時だって、自衛隊の皆さんが活躍していたの、私は知っていますよ。それは、そんなに詳しくないのかもしれませんけど。真賀陸県だって自衛隊の人や消防の人たちが頑張ってくれたおかげで、今の被害で済んでいるんです。取材した時、被災者の皆さんは誰もが感謝していましたよ。井上さんが思っているほど人は薄情じゃありません。何だったら、特集組むように上司に掛け合いますよ」

 
 部下の名誉回復と、こんなことになってしまった原因である原子力発電所、そしてこの国の在り様が、ただただ悲しかったのだろう。
 かの国のミッションで、深手を負った部下を残置させ、道連れ用に可能な限りの手りゅう弾とMP5Fの弾倉も同様に持たせ、部隊退却ために殿(しんがり)を押しつけた。はみ出た腸をサラシで締め付け、意識がある限り狙いを定め、トリガーを引き、部下は多くの敵を道連れにしていった。それが兵士として当たり前の道であり、古来、君主に命を捧げる武士道であると信じていた。だが、これほど俺たちの命が粗末に扱われていていいのだろうか。
 結局の所、俺は人間という存在が信じられなくなったのだ。軍隊でも、一人かければ統率が取れなくなり破たんする。己の利益と保身の為に原子力ムラの利権に人が群がる。しかし、それも人の在りようだ。人殺しの自分に何の非難ができよう。俺はただ、怒りの矛先を向けているだけだ。青臭い、大義もくそもない、最低のテロリストだ。
 労われたことはなかった。ただでさえ後ろ指をさされる自衛隊の中で、更に本来以外の任務が本分になってきた、気が付けば上官となって国の都合で奔走さえられてきた。数える事に拒絶反応がでるほど、Jとして文字通り体中に返り血も浴びてきた。
 もう、葉子とも真奈美とも会えない。全てを覚悟して、未練を断ち切ったはずだった。でも、なぜ今、ここで未練のつくる!そそのかすな!
「あれ、どうしたんです・・・」
智子は、井上の異変に戸惑った。ぽろぽろと涙がこぼれ滲みでていた。
「あれ、おかしいな」
最も涙と縁遠いと思われる人が泣いている。智子は、一度だけ亡き父が涙を流している姿を思い出した。小さい頃だったので理由は良く分からないが、自分の両親が死んでもこどもの前では泣かなかった父が、何かの理由で泣いていた。あれは何だったのだろう。
 井上は、涙だけでなく嗚咽し、臆面もなく咽び泣き始めた。狼狽えたのは、智子だけではなかった。その場を共有する誰もが、その光景を信じる事が出来なかった。
 奇しくも、数々の修羅場を潜り、何事にも動揺するはずもなかった二人のJだけには、誰よりも激しく動揺を誘われ狼狽えた。
 御厨には、脳内に別の伝達物質が作用し始め、体の随意反射が少しづつ入れていく感覚が全身に広がった。震戦はないものの、論理的に構築された殺意を、湧き上がる感情が浸食していく。
 「よせよ。やめてくれ。君はそうじゃないだろう」
 端末で計算された照準と弾道、日時、GPSで計測された現在地と狙撃地点。気温、湿度、風向き、弾薬、地球の自転、ホモサピエンスとしての付随運動のゆらぎ、ありとあらゆる物理的事象を網羅し、物理工学、流体力学の結晶と、何千何万回とシミュレーションした訓練と何度も命奪う事で得た経験値、磨かれた直観で導き出された狙撃のその時に、完璧であった御厨の狙撃プランは破綻していた。それは一度のも見たこともなく、また、想像しえなったかった戦友の咽び泣く姿であった。
 
 御厨は中東の某国で、15歳にも満たない兵士のことを否応なしに去来してきた。乾いた砂と硝煙の匂いが立ち込める。


 掴んだ情報では、アメリカの施設に体中に爆弾を巻きつけて特攻するというものだ。事前に路地を見渡せる寺院の陰に隠れて待機していた。
 やがてカンドーラに身を包んだ小柄な体躯が、石の建物と乾いた土で踏め固められた路地を物陰に隠れながら向かっていく。強制的なのか無言の圧力なのか、少なくとも本意ではなかったのだろう。監的スコープ越しに確認した観測員は、平素の淡々とした表情であったが、オーバーリアクションではないものの、狼狽していることが感じ取れた。
 改めてM24のスコープで確認すると、乾燥して黄色みがかった頬に涙の跡がくっきりと色を変えている。その筋に、また新しい涙の川が流れ出している。思わず銃身を引っ込め、路地に背を向け、目を閉じ、大きく息を吐く。今の光景が嘘であって欲しいと5秒祈る。目標から目を離すなど言語道断であるが、観測員はこの状況を瞬時に把握してくれたようだ。再度、慎重に狙いを定める。やはりレティクル越しに映る目標は、少年のままであった。人種的な特徴でその年頃のこどもたちは性差の判別がつきにくい。もしかしたら女の子かも知れない。眼窩の堀は深く長い睫。くっきりと浮かんだ二重瞼の輪郭が潤んだ瞳を際立たせていた。このあり様をみて、自分の国の神様を本気で信じているとは思えなかった。天国なんか行けるか。父と母やきょうだい、爺さん婆さんと一緒に人生を謳歌したいはずだ。この子は大人の理屈に蹂躙されたのだ。
 ヘッドショットを決めた。このまま放置すれば友軍が何人犠牲になるとか、任務がどうとか、この国の期待とか、今となっては理由づけは沢山、用意はできた。そんなことはどうでもよく、引き金と同時に目を閉じた。元々反動で狙撃手は直後の成果はできない。成果確認は観測員の重要な仕事だ。アメリカ部隊の観測員は、ごっつい丸太のような二の腕を首にかけ、OKOKとだけ呟いた。自分にも言い聞かせるように。
 僕はこの話はしなかった。軽蔑されると思った。樋口も井上も、当時の部隊長なりから話には聞き及んでいたはずが、それについての話は一切なかった。気遣いとか慰めといったものではなく、自分自身が合わせ鏡のように伝播されることを拒んだのだと思う。
 3年間、幾度ともなくそんな事の繰り返しであった。晴れだろうと雨だろうと。敵対者であれば大人こども女だろうが老人であろうが、排除がミッションであれば、殺した。機関銃や小銃で殺し、狙撃銃で殺した。
 井上は顔押さえて座り込んでしまい、キャットウォークの柵に隠れてしまう。
 気が付くとレシーバに、すざましい勢いで怒号が耳を劈いていた。あの冷静な樋口が怒声を上げていた。残暑の湿った暑さが蘇り、全身から吹き出ている。ああ、そういえば夏の名残だったなと他人事のようにつぶやく。
 ライフルを一旦置き、両の手の皮膚を剥かんが如く、力一杯拭い去る。上手く拭い去れない。初めての実戦でもこんなことにはならなかった。帯同したSASの隊長も筋が良いとサムアップしてくれた。何より冷静に対処できた。再度、伏卸し構え直す。気にならなかった様々の音源が体の芯まで響いてくる。心のうちで「うるさい」を連呼する。
 何か祈るか。一体何に祈る。この国の八百万の神々か。
 
 
 再度、全ての外的要因を再計算し、標準を合わせ直す。しかし、一度千切れた集中力は取り戻せなかった。バイポットで銃身は安定するも、自分の不随意のコントロールの幅が、精密射撃の許容範囲を超えていた。照準レティクルの上下左右の不随意運動の中で、確信のないまま引き金を引く。瞬間、井上の体は狙撃ポイントに正対した。
 左側頭部いわゆるこめかみを狙った270ウインチェスター弾頭は、狙いより下方にずれ、頸部左側に命中し、後方の鋼鉄製のベントに着弾。跳弾が何処ぞへと消えていった。遅れた銃声と同時にグワンという金属音が木霊する。衝撃波で裂けられた井上の頸動脈からは艶やかな血流が噴出した。喉を突き破り、水とは違った不純性を誇示しながら赤い液体が、食いしばる歯の隙間から、意識に抑えた銃創部の手の隙間から、溢れるように滲み出てくる。
 御厨は、一流であるが故に、事前のルーティンの狂いで失敗の必至を体感していた。あの咽び泣く姿で動揺した時点で、結果は出ていたのだ。
 その場に居た全員がミッションの失敗を知った。排気塔の最下で待機していたSATの面々が、田辺隊長の「確保!」の号令と共に一斉に階段を駆け上がって行く。800mの距離から、御厨は判然と目線が泳ぐ。監的スコープで井上を確認すると、血まみれになりながらのたうちまわっていた。キャットウォークの縁から少しづつ血液が滴り落ちて行く。
 井上は喉元の創部を抑えていた左手を離すと、血がドクドクと流れ出てくる。その独特の流体力学の表現は、智子を震撼させていた。ジャケットの内ポケットから端末を取り出し、起爆画面を出した。智子は今なら奪えると思った。ただ、奪った所で、脈が感知されなくなったら結果は同じだ。悲鳴を上げる事さえ忘れ、とにかく助けるという方向に意識が向き、血が噴き出す喉元を、取り出したハンカチで押さえる。押さえるが、みるみる朱に染まっていく。
 井上はほとばしる出血をものともせず、苦悶の表情で右手の手のひらをズボンで拭い画面を操作する。起爆画面から「OK」「本当にOKですか?」の画面に進み、最終画面にタッチをした。その様子と、傍にいた智子の驚愕の表情から、観測員は起爆の一報が無線を通じて全体に流布した。カウントダウンが始まる。対策本部でオペレーターが読み上げる。
 ゼロのカウントと同時に起爆装置は一斉に作動の電子音を、冷徹に冷却基盤室に響かせた。無駄とわかりつつも、状況を把握している者は身を竦め屈む。樋口と御厨は井上を悶絶している有様を凝視していた。
 
 爆発した。あまりにも軽く乾いたクラッカーの音が、順番に連鎖して鳴り響く。誕生日会のようだった。起爆装置は、爆薬を起爆させず、万国旗を吐き出した。
 
 ヘリが排気塔に近づき、下方からはSATの小隊が駆け上がってくる。井上の確保は時間の問題であった。血反吐を吐きながら、言葉が出せない井上は、智子に急いで階段を下るよう必死にジェスチャーで促した。智子は涙目になりながら何度も頷いた。下を覗くと、防弾ヘルメットの透明なフェイスガード越しに、鬼の形相のSATの面々が四面にジグザグに施された作業用の階段をガンガンとがなりたてながら真下の階まで駆けあがってきている。
 井上は、後ろ髪をひかれながら階段を下る智子の姿を見送った。キャットウォークの水平面から一段づつ下り、徐々に姿が消えて行く姿を確認しながら、そばにあった拳銃の一つを血まみれになった手で掴み、銃口をこめかみにあてる。姿が全て消えたのを確認すると引き金を引いた。パンという半濁音がヘリのバリバリという濁音に諍って敷地内に響き、居合わせた人間たちに耳に届いた。
 最終的にこの事件は、軍事マニアによる狂言占拠という事で、諸般おいて片づけられた。

[浜々原子力発電所占拠事件から3年 習志野駐屯地 9月某日]

 現役(実際には退職届を出しており、後追いで受理手続きされたので「元自衛官」であるが)自衛官による浜々原発占拠事件から3年が経過していた。自衛隊内では、一部の人間だけが知っている最重要禁忌事項となり、話題に挙げる者は皆無であった。
 特殊作戦群第二中隊第二小隊副隊長 田中 一等陸尉は、所属している習志野駐屯地の食堂で昼食のカレーライスを頬ばっていた。選ぶのが面倒臭いので、迷ったら大体カレーであった。設置されたテレビに、臨時国会での委員会の中継が映っていた。


 自衛隊の取り扱いについて、熱を帯びて答弁する総理大臣から二つ離れた席に、元3等陸佐樋口防衛副大臣が鎮座していた。37歳で抜擢人事であった。あのメガネは伊達だよ、と妬みも含めた上官が呟きながら、食べ終わった食器を返却口に置いていった。それでも現役自衛官の中では羨望と憧憬の的だ。
 昨今の隣国による領海領空侵犯や、ミサイルの発射事件が頻回に発生していた。安全保障条約を結んでいる大国も、在国している軍隊の扱いについて齟齬が生じ始め、自国防衛を促すような政策を展開していた。諸島部から構成大国の基地が80%を占めていたが、極東の島の安全保障より自国防衛の内憂外患施策が台頭してきた。これまで何十年と、安全保障の名の元に相手先ののど元に匕首をあててきたが、その戦略もここ数年の世界各国のグローバリズムに、根本的な見直しを迫られていた。同盟国であるこの国も、その修正の渦に、必然的に巻き込まれた格好となった。前世紀で、威の張り合いは、お互いのバカらしさに双方が気が付いて収束したように見えたが、地域紛争によるガス抜きでは収まりがつかなくなってきた。恐らく歴史的な必然のようなものだろう。
 3年前の原発占拠事件は、マスコミは当然として、ネット通じて全世界に知れ渡り、かの国は先の原発事故のみならず単独テロまで許すとは、の風潮になっていた。国内外問わず様々な憶測を呼び、反対派はもちろんのこと、SNSで拡散するために真似をする輩がしばらく後を絶たなかった。
 国土東側沿岸地域での工作員の侵入は顕著となり、原子力発電所等の重要保護施設は度々、狙われた。先の反省から、自衛隊の投入も幾度となく検討されたが、左派の抵抗や歴史問題を外交手段している近隣諸国からはアレルギー反応もあって、しばらくは警察力で凌いでいた。が、次第に防御力の脆弱性が露見し、一般市民の犠牲者は増える一方で警察関係者においても殉職者が続出した。
 大きな要因は当初から分かっていた。ほとんどが重火器によるものだった。ロケットランチャーや重機関銃からみれば、SATのMP5といった機関銃も、名前の通り、サブマシンガンでしかなかった。そういった経過から、自衛隊以外に守れない、むしろこういった時こその自衛隊だろうと治安出動が本格的に国会の俎上で議論され、現状の重篤な状況で形骸化していた左派も実効的な意見提議もできず、与党はここぞとばかりに解釈論から各種法律改正と根幹である憲法の改正論議に、本格的に突入していた。
 並行して、自衛隊の位置づけも大きく変容し、防衛力の強化は元より、費用対効果の側面から更なる積極的な国防のあり方が問われる事態となった。集団的自衛権の議論が本格化するに連れ、自衛隊から退官者が増えていった。
 画して防衛出動は集団的自衛権の論議で慎重になってはいたが、治安出動についてはテロの未然防止の観点から積極的に運用されると同時に、特殊作戦群も特に要人警護については積極に活用されるようになった。
 国民が望むも望まざるも、自衛隊は軍隊として変容しつつあった。その先にあるのは先の大戦以降、一度も手をつけられなかった憲法への着手であった。


 御厨は、事件直後に退職していた。しばらくは休職扱いであったが、井上の謀反は知り得ても真相は知りえない第二中隊の部下たちは、こぞって退職を翻意するよう進言した。特に、小隊長だった上村1等陸尉と副隊長の田中2等陸尉は、変わる変わる官舎に日参して撤回を求めた。
 上村は、一度、御厨に命を救われていた。無線なしの単独行動訓練の際、故障した小銃を間違って持ち出しまい、そのまま使えば暴発してしまう所、狙撃で叩き落として事なきを得た。やり方が悪いと、御厨は処分をくらった。Jの3人は厳しいが面倒は良く見ていた。特に部下や後輩は、他の上官からみれば異様とも思えるほど、良くも悪くも手をかけていた。
 そんな御厨を打ちのめしたのは、井上の妻であった。事件の後、一度だけ遭遇した。


[浜々原子力発電所 占拠事件 2カ月後]

 井上はテロリスト、犯罪者だ。犯罪者に黙とうを捧げるなど、あってはならないことだ。ただ、戦友として。いや、それは嘘だ。ただ、自分が楽になりたいだけだ。贖罪として自分自身に言い聞かせたいだけだ。 そう自問自答しながら、御厨は曇天の空の下を、井上が眠っている場所へバイクを走らせていた。上官に聞いても教えてくれなかった。当然だった。結局、樋口に頼って教えてもらった。
 井上の事件は外交問題に発展していた。以前からアメリカを始め、IAEAからも原子力発電所のテロ対策については口煩く内政干渉されていた。あの事件で、杜撰というか拙さいうものが完全に露呈してしまった。 かたや、核・原発廃絶を唱える団体や文化人からは、稀代の英雄扱いとなった。あれだけの事をたった一人でやってしまったのだ。井上をだからこそできた理由を知っているのは、ごく一部の人間だけ。Jの存在が白日の元に晒されたらなったら、礼賛した人々はどう思うのだろうか。
 樋口の話では、最初は自分にいつ何があってもいいように買ってあった墓地に納骨されたが、原発推進派から墓石にペンキを撒かれたりと数々の嫌がらせ受けた。それを聞きつけた反対派が、稀代の英雄になにするものぞと勝手に管理を始め、墓地はさながら推進派と反対派の闘技場と化してしまった。墓地全体からもクレームが入り、やむなく場所は完全秘匿となり、苗字以外は石碑に刻まれることなく現在の墓地に移された。
 妻の葉子さんと6歳の娘の真奈美ちゃんは、人道的見地から帰国を許された。元々帰国を縛る法律もなかったが、生涯の生活保障を条件に、反対派を一定程度抑えるための道具として政の具として利用された。そのままイギリスに永住できたが、葉子さんは敢えて帰国した。
 ある立場の連中からは売国奴として、反対派からは稀代の英雄の妻として。
 これまでの功績を認められ遺骨は受け取れた。これらの裏工作に樋口は、ありとあらゆるコネクションを使った。
 
 多摩丘陵にある霊園に墓地はあった。駐車場でバイクを止め、詰所で花束を買い、徒歩で墓地に向かう。晴れてはいたが午前中の晩秋になりかけた風は冷たく、思わず手に息を吹きかける。案内板で確認しながら10分程歩くと、墓は見つかった。他の墓石と何の変わらない一般人として眠っている。
 両サイドの花立には、まだ新しく原色を保ちながら花を咲かせて、竿石に刻まれた井上の名前が隠れるほどに活けられていた。買った花は入る余地がなかった。花束を持ちながら、しばらく判然とせず墓を見つめる。供え物を狙ってカラスが上空を旋回し、カァと鳴く。
 どれぐらいの時間を過ごしただろう。防衛大学校で一緒の科になった頃から、いろいろと思い返さす。それでも、出てくるのはJとして共に過ごした3年間。遠征先は、必ずしも一緒ではなかったが、常に前線とバックアップの関係でやってきた。一緒になると、それだけで生き残る実感が得られた。
 だけど、なぜか涙が出ない。いつからか涙は出なくなった。いつからだろう。Jか、作戦群か、空挺団からか、防衛大学校からか。児童養護施設から泣き方を忘れていた。なぜ養護施設に入っていたのだろう。そうだ、母さんは自殺したんだっけ。病院の霊安室で会った後は記憶がない。あの時、僕は泣いていたのだろうか。
 Jメンバーは、全員なんらかの理由で両親がいなかった。事故死であったり、自殺であったり、虐待であったり。秘密部隊を構成する上で、身元不詳が単に都合が良かっただけだと思っていたが、奇しくも、お互いに妙なシンパシーの醸成に繋がった。井上も孤児だったが、里親に育てられ、そのまま養子縁組となった。樋口も肉親は弟だけで、僕とは別の児童養護施設の出身だった。樋口とは施設のあるあるネタで良く盛り上がっていた。
 井上は養父が自衛官だったので、幹部候補学校卒業と同時に、有無を言わさずお見合い結婚させられた。それが葉子さんだった。養父の眼力は確かなようで、才色兼備という言葉の例題になるような器量持ちであった。程無く、第一子真奈美ちゃんが生まれた。家族という感覚が欠落した僕たちに、井上の家庭は新鮮そのものであった。よく遊びに行った。家族とはこういうものかと。その家庭を、井上の自業自得とはいえ、任務という名のもとに全て剥ぎ取った。紛れもない事実だ。
 どれぐらいの時間、思いを巡らせたのか。これ以上、佇むのが苦痛になってくる。花束を置いて立ち去ろうと考えていると、園内の車道からつながる通路に、よく知った女性と手をつなぐ女の子が目に入った。
「葉子さん・・真奈美ちゃん・・・」
 判然としないまま、動悸が激しくなり、思わず視線を外す。臆する様子のなく、すたすたと向かってくる。紺色のワンピースをなびかせボレロをはおり、同色のセレスタイルハット。真奈美ちゃんの手を繋いでいる。手前で止まると、軽く一礼して、こちらを睨んだ。こちらも顔も向き、目を合わせようとするが、瞳孔が焦点合わせを拒絶する。
「あ あの うん この度は何というか・・・」
 全ての憎しみを理性で強引に抑えつけている。そんな表情であった。目の周りは化粧はしていたが、明らかに荒れていた。涙のせいか、憔悴のせいか。戦場での一方的な憎しみを受けるのは慣れていたが、こんな表情を見るのは初めてであった。
「あ~ みくりやのおじちゃんだ。こんにちは~」
 空気など読めるはずもない。ぴょんぴょん跳ねながら邪気なく声をかけられる。どんな顔をすればいいのだろう。
「あぁ こ、こんにちは。久ぶりだね。真奈美ちゃん。元気・・かな」
「うん、元気。お父さん、いなくなったちゃったけど・・・」
 もう、許して欲しい。洋子さんの顔が見られない。
「主人の墓参に来て頂き、ありがとうございます」
 意外な言葉であった。罵声が来ると思い、ほっとするもつかの間だった。
「お邪魔にならないよう退散します」
 花束を置いて立ち去ろうとする。
「申し訳ありません。その花はお持ち帰り下さい。以後の墓参は結構というか控えて頂けないでしょうか」
しばらく無言になる。置きかけた花束を、元に戻す。
「本当 すみません。何をどうしていいのか、どう声をかけていいか分からない・・」
 母の只ならぬ様子に、真奈美ちゃんの顔が曇る。
「あなたは正しい。自衛官としての職責は果たしました」
 憔悴しきった顔を、更に歪めて、絞り出すように言い放った。葉子さんはJの事は知らないはずだった。今回の狙撃も知る術はないはずだ。なぜ、知っている?しかし、今はそれどこではない。
「どこで、そのことを・・・・」
「官房長官から聞きました。最初は信じられませんでした。信じなかった。親友のあなたが・・・そんな事はどうでもいいです」
 その先を自重したのは真奈美ちゃんが居たからであろう。真奈美ちゃんは、母の様子の変化から次第に不安な表情になる。
「どうすればいいんでしょうか・・・」
 覚悟はとっくに出来ていた。もし、望めば、その通りにしよう。それで少しでも溜飲が下がってもらえれば。
「・・・・」
「目の前から消えろというなら、そうします。この場所からという意味ではないです」
 葉子さんは無言のまま、真奈美ちゃんを一瞥する。泣きそうな顔になっている所に頬撫でながら「大丈夫よ」と声をかける。再び、こちらに顔を向けて口を開いた。
「生きて、苦しんで下さい。安易に楽な手段には絶対に・・・生きて苦しみなさい」
 最後の言葉は、か細いながらも殺意と思えるほどの力が籠っていた。打ちのめされた姿に弱い味方が援護する。火に油を注ぐとも知らずに。
「ママ!どうしてみくりやのおじちゃんをいじめるの。パパとおともだちだったじゃない!」
 殺した張本人と言いたいとは容易に想像がついた。それを躊躇っていたのは、僕への斟酌ではなく、娘の情操教育を考慮していたものだろう。
 真奈美ちゃんは、母親の手を振り切って、以前と変わらないように腰の所にまとわりついた。思わず反射的に頭を撫でようと手が勝手に伸びる ―
「触らないで!」
 まるで懇願するような叫びであった。不要物をみるような、あなたさえ存在していなければという憤怒のまなこが注がれていた。
 もう、どういう顔をしてどう振る舞えばいいのか分からなかった。どんな顔をしていたのだろう。呼吸さえも鬱陶しく、鼓動だけが全身に鳴り響いていた。諦める。もう僕は許されない。もう、死さえもままならない。
 涙を流しながら見上げるこどもに、どんな顔をしていいのかわからない。大人の事情など知るよしもない無垢な存在に、精一杯の笑顔をつくって見せた。


[浜々原子力発電所占拠事件より3年経過 9月某日 午後 都内某アパート]
 
 あの日と同じく、残暑厳しい午後。唐突に呼び鈴が6畳一間に鳴り響く。敷きっぱなしの敷布団から立ち上がり、ズボンを履いてから出迎える。今朝まで、臨時の深夜バイク便の仕事をこなしていた。
「あれ、君は・・・」
 扉を開けると、関東テレビの笠井智子が、大汗をかきながら屹立していた。
「とにかく上がらさせてもらいます。一応、尾行は振り切ったつもりだけど、まけてなかったら勘弁してね」
 こちらの都合も聞かずに入り込む。
「ちょっと、尾行って」
「昔取った杵柄で、確認してくれませんか」
 ずいぶんとずうずうしい。あの時の初々しさは何処にいった。
 一応、カーテン越しに見張りらしき人物の哨戒に入る。とりあえず大丈夫のようだ。
「ふーん。今はこんな部屋で住んでるんだ~殺風景~」
 勝手に座布団の上にちょこんと座り、物珍しげに辺りを見回す。
「一体、何の用だ。確かに知った顔だが、そんな関係になった覚えはない。しかも、デリカシーがなさすぎじゃないか」
「あーごめんごめん。三十路前で、いろんな意味でガサツになっちゃいました」
あっけらかんと言い放った。
「そういえば最近、テレビに出てないな」
「ええ。メインの仕事からは降ろされている。あの事件で有名になったのはいいけど、完全に訳ありキャスターになっちゃて・・・話せない事だらけだし」
 笑顔に少し陰ができる。
「そうか。そうだよな」
「・・・・」
 しばらく無言が続いた。スーツスカートにブラウス。汗で白い下着が透けて見える。独身男性には目に毒だ。
「とりあえず」
「とりあえず?」
「何か冷たい飲み物もらえません」
 屈託ないの笑顔は3年前のままだった。冷蔵庫からペットボトルのウーロン茶を2本取り出す。
 それとなく、お互いのこの3年間の状況を報告しあった。彼女は、一喜一憂しながら聞き、そして喋った。気が付いた時にはあっという間に1時間経過していた。Jの事は井上に聞いて知っていたらしい。勿論、知った事は秘密にしていた。僕にとっては、Jの存在を気にせず、気軽に話せる貴重な存在になりそうだ。久しぶりに心地良い時間だった。改めて井上が気に入っていたのが良く分かった。天然の癒し系というか元気を与える天賦の才能だ。
 樋口も懸念していたが、智子はストックホルム症候群を疑われていた。犯人にシンパシーを感じて協力してしまうシンドローム。そのために、しばらく監視が付いていたらしい。こちらも退官後は、一次監視体制で情報保全隊が監視していた。3年が経過し、特に問題がないと確認され、つい最近2次監視体制となった。
「さてと、まぁ 大体、御厨さんの状況は分かりました。まだ時間は大丈夫?」
 バイク便のシフトまで、まだ時間はあった。
「大丈夫だよ」
「それでは本題に入りたいと思います」
 智子は一枚のメモをバックから取り出した。受け取ると、貸金庫の支店名と暗証番号が記載されていた。
「3年以上たったら渡してくれと書いてあった。それにしても、あの後大変だったのよ」
 事件顛末後に間髪入れずに、健康チェックと同時に所持品検査から女性警官から身体検査を受け、素っ裸にされたらしい。さすがに民間人だった為、性器まではまさぐられなかったようだ。
 井上は、女性を指名したのも、そこまで見越した上だったのだろう。事前にカプセルに入れられていて、そこまでの行動指示はオブラートに書かれていたようだ。
 その後も、何か見られているとストーカーではないかと思い、興信所の探偵に依頼した所、政府機関からの監視が発覚した。興信所からは、護衛されていると思えば何てことはないでしょと軽く窘(たしな)められたらしい。
「それにしても、あの時、私が請け負う保証なって何もなかったのに、何を根拠に」
「信頼に足らないと思ったら、別の人間を呼んでいたんじゃないか」
 井上は、関係者全員が共犯者として扱われないよう、全て除外したのだろう。とりも直さず自分も気を使われていた。隊で何度かすれ違う度に、ともにミッションを過ごした「阿吽の呼吸」を感じていたが、原発占拠など逡巡せざるえない。僕が逆の立場だった、やはり誘わないだろう。井上は、マスコミ関係者の適度な好奇心と、真実に対する責任感に賭けたのだ。仮に上司や政府に公表は握りつぶされても、その過程で何人かの目には入る。少なくとも全て消去されることなく、残滓だけはと算段したのだ。その思惑は形を成そうとしている。
 一通りの話が終わった。時計を見るまでもなく日が沈みかける。定時監視が来る時間だ。彼女に帰るように促す。
「とりあえず中身がわかったら連絡下さい」
「なぜ。君の役割は終わったのじゃないか」
「ただの使いっ走りだけさせられて、『はい終わり』じゃあんまりじゃないですか。3年も振り回されたんですよ。私だって」
と膨れっ面になる。確かに、言い分は最もだ。危険が伴うなんて、あの事件を最も間近で体験した彼女にとっては、あまり意味がない。
「一応、確認したいが」
「危険を伴うって、でしょ。分かっています。一応、大人ですから。それに」
「それに」
「井上さんから、『真実はなにか考えろ』と言われましたから」
しばし考えあぐねる。巻き込みたく思いもあるが、彼女のからの逃走は、再度、保全部の疑惑を呼び込んでしまう。これも井上の計算の内かと結論付ける。
「分かった。ただ携帯はまずい。君のは大丈夫だと思うが、僕のはまだ盗聴される可能性がある」
「えっと、じゃ、どうします」
「僕がこの場所から動き回ると、いろいろ面倒臭くなる。動かない方が賢明だな」
「じゃあ、バイトのシフト表下さい。仕事以外は大体ここにいるんでしょう?」
「あぁ ほとんどゴロゴロしてるよ」
「井上さんと同じ嘘が下手ね。そんな体で何言ってんの」
そうか。未だに、空き時間は条件反射でトレーニングが欠かせない。
「オフの時間に見計らって、来させてもらいます。いなかったら次にこれそうな日程のメモをドアの隙間から入れておきます」
「こんなITの時代にアナクロだけど、無難といえば無難だな」
「では、そういうことで。さようなら~」
 手を振りながら小走りで階段を下りて行く。昼過ぎに来たのに、夕方になっていた。幸い、今日は監視には引っかからなかったようだ。
 
 
 [翌日 午前 某銀行~某インタネットカフェ]
 
 彼女の機転により、物は別の貸金庫に移し替えられていた。元々は全自動金庫だったが身分照会に時間と手間がかかったらしいので、照会のいらない半自動タイプにしてくれていた。監視を意識しながら銀行に入る。半自動金庫の部屋をカードで開け入る。再び、別のカードで記載された番号の金庫を開ける。中には、A4二つ折りの封筒が入っていた。封筒を開けると電子端末とガラパゴス携帯電話、プラステックのケースにUSBメモリーが入っていた。端末経由でパソコンとインターネットに繋げろという事なのだろう。自宅でアクセスは、ログからハッキングされる。とりあえず傍のネットカフェに入って中身を確かめる。
 こんな事もあろうかと準備しておいた偽造保険証を使ってネットカフェの会員加入手続きをして、パソコン部屋を予約する。平日だが、数分待たされる。その間にドリンクバーでアイスコーヒーを準備していると、従業員に個室に案内された。部屋の使い方の説明は省いてもらう。一畳程度のスペースに、既に立ち上がっているパソコンに端末を繋ぐ。端末にはUSBメモリー差し込んである。
 パソコンのUSB電源で端末も起動ランプが点滅し、並行してUSBも点滅する。ガリガリと少し型落ちのデスクトップが懸命に動いていた。読み込みが済むと、「御厨」「いろは進行」「レポート」というアイコンがデスクトップ表示された。とりあえず「いろは進行」のアイコンをクリックする。パスワードの入力指示の表示。当然の事ながら、メモはなかった。これぐらいは予想して当ててみろという事か。いずれにせよ3つほどしか浮かばない。それを、最後に一緒の作戦で使った乱数表にあてはめる。最初はNG。2回目で開く。やっぱり子煩悩だ。君は。
 次第に、専用のアプリケーションが起動し、全画面を占有する。

F1の大から中項目「い・ろ・は・に・ほ・へ・と」小項目「ち・り・ぬ・る・を」
F2の大から中項目「わ・か・よ・た・れ・そ」小項目「つ・ね・ら・な・む」
F3の大から中項目「う・ゐ・の・お・く・や・ま」小項目「け・ふ・こ・え・て」
F4の大から中項目「あ・さ・き・ゆ・め・み・し」小項目「ゑ・ひ・も・せ・す」
 
 判然としない。とりあえず、「いろは進行」はタスクバーに最小化し、僕宛てのファイルを開く。映像資料だ。圧縮ファイルを解凍する。解凍フォルダーが開く。その①その②とあり、その①をクリックすると画面が開く。サムネイルで井上の顔が映る。自宅のパソコンのハンディカムで撮影したもののようだ。ヘッドホンをかけて音量を調整する。久しぶりだな。何の用だ。この亡霊が。呟きながら再生のアイコンをクリックすると亡霊が生き返る。
「えーと。この映像を観ているという事は、俺はもうこの世にはいないな。そして多大な迷惑をかけてるな。うん。とりえあえず謝っておく。本当に申し訳ない」
机に手をつき頭を下げる。タグのタイマーで約10秒。頭をあげる。
「御厨が観ているならば、未だ見ぬ依頼人は約束を果たしてくれたという事か。改めてお礼を言っておいてくれ」
 多分、君の予想以上の働きをしているよ。
「ざっくりと『いろは進行』について説明する。大項目1は、国際国内が極めて良好に情勢が進行した場合。『四―し―す』は、国内国外が混沌とした最悪の状況になった際の最後の選択肢だ」
何のことだ?
「世界の政情不安が決定的になりアメリカの安全保障の解消、核戦争核武装ができない若しくは間に合わないとなった時・・・全原発暴走、つまり意図的に全機メルトダウンさせ、この国の全土を放射能により焦土とする。国民の所在など一切関知せず。この計画の実現性については、パーセンテージが明示されている。現時点では実施確率0.009%。限りなく0に近い。絵空事だと思う。数字から見れば」
一呼吸置き
「ただ、0%ではない!」
このファイルは一体何なんだ。策謀者は誰だ。井上、君はこれをどこで入手した。
「ここまで観た所で、ともかくファイルを確認して欲しい。確認したらその②を観てくれ。とりあえず以上だ」
指示通り、タスクバーに最小化したアイコンをクリックし、大画面にする。
 クリックすると4から「あさきゆめみし」までに分岐され、「し」のポイントをクリックすると「えいもせす」に画面がスクロールする。「す」をすると新しいタブが開く。この国の地図が画面一杯に表示され各地に点在する原発が名称入りで明記されクリックできるようなっている。各種カーソルがあり、時間や気象条件、人口、その他各センテンスがあり、数値やコマンドが選択ないし入力できるようになっていた。デフォルトデーターは自動入力されており、エンターキーで、そのまま自動的にシミュレーションが進んでいく。
 地図をスクロールするとメルカトル図法の画面が広がる。これも3Dに変更が可能であった。現在データのまま、シミュレートのアイコンをクリックする。進行時間のデフォルトは1時間が10秒のようであった。各原発のアイコンの下のパラメーターが、青から黄色そしてオレンジとレッドとなった。そしてMD~MS~の表示に関わり、そしてアイコン事態が紫紺に変わった。MDはメルトダウン、MSはメルトスルーか。時計のカウントともに次第に各原発から霧のドットが霧散し始め、さながらこぼしたコップから水が流れるように赤い半透明の霧が列島を侵食していく。次第に地図が大きく世界地図へスクロールし、ユーラシア大陸と太平洋、東南アジアを同様に侵食し始めた。否応なしに真賀陸の悪夢が惹起される。しかもこれは意図的な暴発だ。
 これはどういう事だ。意味が分からない。次第に事の重大性が脳のパルスとなって駆け巡った。ぶぁっと鳥肌が全身に広がる。慌てて入力データをデフォルトにしてアプリケーションを閉じる。観てはいけないものを観てしまった感覚に襲われる。
 映像その②をクリックする。再び、画面の井上は喋り出す。
「恐らくそれなりの戦慄は走ったかと思う。リアクションは目に浮かぶようだ。俺も少なからず動揺した。そして疑問が湧いているはずだ。この中心は誰なのか」
この前振り。この悪寒。嫌な予感。最悪の人物が浮かび、聞くまでもなく確信に至る。
「樋口か」「樋口だ」声が被った。
「御厨。敢えて言うまでもなく樋口の実行能力について疑う余地はないだろう。3年後に渡すようにしたのは、進行状況が論拠になると思ったからだ。未来を変えてしまうと行動論拠を失ってしまう。その意味から言えば、どの進行群まで進んでいるか理解できると思う。」
 井上は続ける。
「あいつは本気で潜在的核抑止力を信じ、進めようとしている。別に大陸間弾道弾が必要になる訳ではない。自国民が他国からレイプされるならば、死なばもろともにするつもりだ。国民というより国という概念を、そして自衛隊が『守りたい国』にするつもりだ。その論理思考を理解はできる。同じ時間を共有した俺たちにしか分からない共時感覚だと思う。国防論としてはありえない考え方ではない。俺たちの存在自体が、現在この国が抱える国防の矛盾そのものだ。安全保障条約についても第一義的にはアメリカの極東拠点の保持という1点だけが、条約の有効性を保っている。集団的自衛権も強要されていくだろう。結局、本当の意味で独立国として認められるのは核武装しかない。国連の機能不全が、その事を体現している。そこは樋口の考えに同意する。ただ、俺の部下をあんな姿にした原子力を、その施策を推進し、リスクを看過したこの国は許ことができない。判断すべきは樋口が防衛省の幹部になった時だ。四の『あさきゆめ』のシナリオとなり、可能性として『えいもせす』の『す』の可能性が高くなる。その時の首相はどうでもよい。単なる傀儡か神輿に過ぎん。政権与党の官房長官を注視してくれ。憲法が改正され、首相公選制になったら、もう手遅れだ。国民の信託を盾に、実質三権分立が崩壊する。おそらく、9条も変更になるだろうが、裏の最終手段として原発焦土作戦は継続してしまうはずだ。それでも俺は、この国の言論の自由に一縷の望みを託す。今一度、真賀陸の悪夢を思いだしてもらう。ファイルは全マスコミにも送った。まあ、公表はしないだろう。一縷は本当に一縷だな。ただ、公表しないにせよ、情報は残るはずだ。来たるべき時に、生かす時が来るかもしれない。しかし、何処かで誰かが止めなくちゃならない。ほっといて誰かがやってくれる訳ではない」
そうか。そういう事か。理解したよ。
「最後にジョーカーを指名させてもらう。『し―す』は、0%でなければならない。絶対にあってはならない。この映像を記録する前に、俺は樋口と話し合った。話し合いというより追求だな。原発の占拠も打ち明け、それを交換条件に止めようとした。もし真賀陸の事故がなければ、この進行表に賛同したかもしれない。それでも、俺は理屈ではなく感覚として核兵器だけは何があっても、使ってはならない。誰に対しても。あの時、俺は樋口を殺すこともできた。ただ、何もしていない人間を、断罪はできなかった。弱虫ですまん。シミュレーションしてもらえれば分かると思うが、首相公選制により、初代内閣総理大臣が任命された時点で、『し―す』の可能性が0%に戻る可能が皆無になる。常に、最終手段のパンドラの箱として、すべからく今後の国防戦略として組み込まれ続ける。その時、樋口は防衛大臣になっているはずだ。VIPになった人間は、近接戦闘では暗殺できない。成功率が皆無だ。こんな事は釈迦に説法だとは承知しているが、改めて明言したい。遠距離狙撃が最も高い成功率になると判断した。俺を殺す事でお前の自責の念を引き出し、呪縛として未来を拝借させてもらった。信じていないが、地獄というものがあれば、そこで文句を言ってくれ。甘んじて、再び殺されよう。閻魔様にお前の弁護だけはやらさせてもらうよ」
 延々と好き勝手なことを言い続ける井上に、端末を画面に投げたく衝動を必死に押さえる。樋口も井上も、どいつもこいつも何を考えている。狂気の沙汰だろ。こんな事。今度は何をさせるつもりだ。
 思わず画面の前で、肘をつき頭を抱える。ドリンクバーから持ってきたアイスコーヒーの氷がせせらわるようにコップの中を溶け落ちた。いいかげんにしてくれ。
 再生を一旦やめ、レポートのフォルダーを開く。最も普及している文書作成ファイルだった。井上なりのこの国の分析レポートが記載されていた。これまでの過程をまるで観てきたように、この3年間の国際情勢、国内情勢、そして樋口が、入閣するまでの方法論と予測が綴られていた。まるで預言書だ。事実、実際に事件がセンセーショナルなるなればなるほど、世論は「絶対的な拠り所」を欲するようになった。火のない所に煙は立たない。マッチポンプと思われる政府の自作自演と思われる事件もいくつか見受けられていた。震災での災害派遣が土壌となり、自衛隊の更なる積極的な活用は国を二分する議論となり、それまでタブーで歯牙にもかけられなかった核武装論も、奥歯に挟んだものがすっかり消え失せ、公然と議論の遡上に乗る様になっている。
再生を再開する。
「この進行表は、既にCIA他各国の諜報機関は掴んでいる。樋口が意図的に漏洩させたのかどうか分からないが、荒唐無稽として理解されているかも知れない。お互いの思考が読めるというのは、ミッション遂行については極めて便利な代物だが、それ故に、迷いや決断まで感じ取れてしまう。事前に原発占拠の計画を相談しても、お前は絶対に乗らなかっただろう。相談すれば、何としても遂行を止めようしただろう。どんな罵声を浴びても。俺にとって、お前が最大の敵だった。最大の敵を、最大に味方にするために、殺してもらった」
 これまでずっと考えていた。井上は、任務に恭順する戦士から人に戻りたかったのだろう。あの今際の涙は、解放された歓喜の涙だったに違いない。最後に一人の人間として生きたのだ。翻って樋口は、人である前に自衛官に拘った。「自衛官の前に~」という前提自体が皆無なんだろう。それもひとつの正義だ。
 二人の信念は眩しすぎた。僕は単なる任務遂行の兵士でよかった。兵士としてスキルが上がれば上がるほど、喜びを感じた。それだけでよかったはずだった。僕は、今、Jでもない。ただの人にもなれない。Jとして井上を殺し、こんどは何者として樋口と対峙すればいいのか。
 天を仰ぐ。もう、樋口は防衛副大臣になっている。困難極まりない事案であると同時に、またしても戦友の命を奪うミッションであるからに他ならない。任務に恭順する強迫観念が蘇る。また、逃げられない。亡き親友、亡霊からの願い。誰か助けて欲しい。あの時祈った八百万の神は、僕を助けてはくれなかった。
 
 
[2日後 19:00 御厨アパート]
 
彼女は、イライラを抱えながら、腕を組んで座っていた。
「何、迷ってるんです。いい加減に、教えて下さい」
「うーん」
どうしようか散々迷っていたが、僕の都合も考えずに、シフトに合わせて勝手にやって来てしまった。最初からなかったことにして、姿を消すか、ごまかしながら上手く説明するか、全面的に話して協力を仰ぐか、の3つ選択で逡巡していた。
「やっぱり、話さなくちゃだめかな」
懇願する。彼女の眉間に皺が寄る。可愛さが半減する。
「そうですか。それならこちらも考えがありますよ。監視している人に言いつけちゃおうかな。『あの人、何か良からぬことを考えてますよ』って」
とドヤ顔。完敗。
「分かった。言うまでもないけど」
「他言無用。一蓮托生!」
ここまで来たら、変に解釈されないように、樋口暗殺だけは伏せて、他は事細かく説明する。彼女は、要所で驚きつつも真剣に話を聞いていた。説明には1時間近くを要した。
「でも、ありえないですよね。いくら何でも」
「ああ。ありえない。1%にも満たない不確定要素だ。井上の杞憂に過ぎないだろう」
杞憂ではない。事実だ。しかし、この場では杞憂に過ぎない。
「だから、気にしない。これはこれとして胸にしまっておくよ」
「それで、御厨さんはどうするんです」
いきなり核心に入る。
「実際にやるとは思えない。それこそ一人ではできないはずだ」
「なら、皆さんの所属したJみたいな組織があるんじゃないですか」
思わぬ洞察に素直に舌を巻いた。
「そうか。核武装を推進する裏集団が存在しているのか。背広組か官僚か・・・」
全ての合点がいった。
「いずれにせよ問題は・・・」
「で、どうするんです。まさか、井上さんのいう通りにするんじゃないでしょうね。中心人物を何とかしようと・・・」
「まさか。大体、手段がないよ。今や善良な一般市民。ほとぼりが冷めるまで、つつましく生活しております」
深々と会釈する。
「そうですね」
笑顔が微妙に歪む。
「とりあえず、この話はここまでだ。もう、いいだろう。関わるのもやめたほうがいい」
「うん、そうだね。これ以上、関わっちゃいけないです」
その日は、素直に帰った。
 三日後、バイトから帰ると、夕方に降り注いだ秋の驟雨に濡れたまま、彼女は玄関でしゃがんで待っていた。こちらの姿を確認すると、力なく微笑み、何も言わなかった。互いの溢れる感情を我慢する理由は、もうなくなっていた。癒えない傷を少しでも癒すのか、虚空を少しでも埋めようしたのか、どちらからともなく寄り添った。 この時間がいつまで続けばいいと思った。それが叶わないと分かりきっていても。


[同年 10月某日  某湾岸倉庫 ]

 北の某国から、発射実験のミサイルが直接本土に着弾した。スカッドミサイルで迎撃できず、幸いにも森林地帯で不発に終わったので、人的にも物的にも被害はでなかったが、東側海域の住民の不安は最高潮に達した。政府は、具体的な防衛体制の再構築を余儀なくされた。専守防衛とはいえ解釈や関係法令の運用だけでは国際的理解を得るにも限界が来ていた。
 「いろは進行」のネット接続による更新デフォルトデーターは、進行表のフェーズは「三―う」に突入していた。佐藤内閣総理大臣は、憲法改正の発議し、既に決められた改正手順に則って、粛々と進められた。衆参合わせて与党は3分の2を占めている。後ろで樋口が先導しているのは明白だった。いきなり9条への着手はせず、発議したのは「首相公選制」の導入であった。大統領制ではないが、まずは国民が、国のトップを自らの手で決めることから始まった。政情不安で、保守的な社会情勢も最高潮に達していた。先の震災で、旧野党連合の付和雷同ぶりに嫌気がさしていた国民は、消去法で現政権に依拠した。首相公選制の動議は、国民の有効投票数の半分を確保した。首相の能力云々よりも、これから変わる社会への根拠のない期待、半分はやけくそに気味になっていた。幕末に「ええじゃないか」運動というものがあったみたいだが、おそらくこんな雰囲気だったのだろう。人間、最後のやけくそというのが怖い。
 その勢いで、公選制の初代内閣総理大臣に立候補した佐藤総理大臣は、程無く再びの国民投票で有効投票率の五割近い信託を受け、他候補に圧倒して勝利した。そして初代公選制首相として大々的な就任式典の開催を宣言した。場所は、国会近くの公園に設定された。日時は11月11日の日曜日午前10:00開始。
 本来、野外で演説など、セキュリティーを考えれば愚行以外の何物でもない。ページェントとして強固にするため、アメリカの就任式に倣ったのであろう。SPの労苦は、館内に比較すると洒落にならない。今回も国際テロリスト対策という名目で、自衛隊の治安出動は閣議決定されていた。国際テロリスト対策部隊である特殊作戦群の元上官、同輩や後輩も警備にあたる。おそらくSATとの棲み分けに苦労しているのが用意に想像できた。内調や公安外事課の連中もフル動員で事変対応に備えているはずだ。外国諜報員は一体どれだけ入国しているのか。敢えて暗殺やテロの危険に晒す目論見は読めていた。マッチポンプも設定しているに違いない。ターゲットは内閣総理大臣ではない。再任直後の防衛副大臣、樋口徹雄だ。御厨は、着々と準備を進めていた。
 準備の良い事に、井上がアメリカの人脈を使って狙撃銃は誂(あつ)らわれていた。M24にしたのは、少しでも慣れた銃でという配慮だろう。相当の金を使ったはずだ。某所の空き倉庫を塒(ねぐら)にできるよう準備されていた。一式が保管されていた。全て、最近に装備、準備されたものであった。本当に亡霊のようだ。
 スコープは距離に合わせて3種類。弾薬は7.56m弾を中心に、308ウインチェスターや30-06他9種類準備されていた。ハンドローディングの機材も一式揃っており、火薬調整も可能だ。好きなようにカスタマイズせよとの事か。訓練用に消音器まで着いている。騒音場所なら練習できるが、深夜にできるのはありがたい。レティクルはオーソドックスなクロスヘヤー。距離に合わせて照準距離を合わせるボアサイティング行う。今回の狙撃距離は1000m以上が基準になる。以内の狙撃ポイントは、押さえられるはずだ。
 夜な夜な洋上に向けて、射撃を繰り返し、塒で銃の微調整を繰り返し、使用薬きょうや火薬量もハードローディングで調整し、最良の組み合わせを模索する。 決行日は、首相の就任演説日と決めていた。
 狙撃銃手入れをしていると、の井上から託された携帯電話が鳴る。知った番号であったが、そのまま相手先の番号だけ見つめる。15回なった所で止まる。もう一度、番号を確認する。そのまま電源を落とす。次の電源を入れるのはいつにしようか。


[同年 10月 某日 就任式典 2日前 防衛省 防衛大臣室]

 就任演説を翌日に控えた樋口防衛副大臣は、ワイシャツスーツのまま、執務室のソファーで横になっていた。執務机に転がっている数台の携帯電話には着信を知らせるランプ一斉に点灯している。明日に向けての仕事に忙殺され、おしぼりを目に当てて横たわっていた。


[浜々原子力発電所 占拠事件発生前  防衛省 地下室]

井上と樋口は、殺風景な部屋の中で、折り畳み机を挟んで向かいあっていた。
「なんだ。やぶからぼうに。よりによってこんなところに暗号まで使って呼び出すな」
樋口は呼び出しの理由は知っていながら投げかけた。井上は、イラつきながら問い詰めた。
「大切な部下の所在が不明で、いろいろと調べてみたんだ。調べていくうちに、芋づる式に妙な輩の思惑がずるずると出てきた。別に権謀術数の世界だ。そういった事も必要だと重々承知もしている。ただ―」
「ただ―」
「『いろは進行』とはなんだ。」
 樋口は、敢えて動揺する素振りを見せた。
「答えたほうがいいか」
「その返答は、知っているんだな」
「ああ、よく知っている。仮定された事案に対するシミュレーションだよ。意図的に画策したものではない。情勢に応じた防衛指針の羅針盤みたいなもんだよ」
「首謀者は」
「首謀者とは、心外だな」
「お前か?」
「作成に関わっているのは事実だ」
「現場で戦う俺たちにとって防衛指針なんてどうでもいい。与えられた任務をこなすだけだ。御厨だってそうだろう」
「それでいいじゃないか。元々、私たちは、おのおのの得意分野がある。私は戦術。お前は近接戦闘。御厨は狙撃。至極、単純な話だ。それこそ、そんなマクロな話には興味はなかったはずだ。任務の恭順するのが自衛官と口酸っぱく、部下達にも教育していただろう」
「別のお前と弁論するつもりはない。理屈なんか何とでもなる。俺が知りたいのは『も-す』の事だ」
「ファイルは全部みたのか」
「プロテクトを外すのに結構骨が折れたが、直属の部下にこういった事案に長ける奴もいてな」
「服務規程違反だな」
「何とでもしろ。別に前3項目については、どうでもいい。四項目の前半もだ。ただ『も―す』あれはなんだ。どういうことだ。どうやったらあの発想になる。狂気の沙汰だ。どこの政治家か官僚か。シミュレーションしているというどういうことなんだ!」
それまで大人しく座っていた井上は、怒りに任せて立ち上がる。何かを思いつき、顔つきが変わる。
「まさか、樋口、お前」
「まさかじゃないだろう。白々しく動揺するな。お前は分かっていたはずだ。私の考えることぐらい容易に想像できたはずだ」
 
 
 確かに、分かっていた。樋口はあらゆる可能性を忌避しない。戦略の為ならば、あらゆる禁忌も辞さない。そうやって武勲を立てた。戦場で手傷を負って行動不能になった者はことごとくその場に残置した。Jメンバーでも。あまつさえ自決さえ許さず、痛み止めのモルヒネも与えず指一本動くまで戦えと、可能な限りの手りゅう弾と弾薬を渡した。その戦術を徹底させたのも樋口だ。しかし、おかげで俺も御厨も生き残ったのも事実だ。それでも俺は納得できない。


「お前は、あの事故さえ利用しようと言うのか」
「ああ、利用しない手はない。これだけ甚大な被害だ。生々しいデータが集結している」
「ならば、再びあの地獄を再現してやろうか。原発の電源室の占拠ぐらいなら俺一人だけでも十分だ」
「確かに朝飯前だろう。お前なら。Jの暗黙の了解だ。おのおの自律的行動は関与せず。好きにすればいい。私は、任務を受ければそれを阻止する。ただ、それだけだ」
井上は、恫喝にならないと分かっていたが、それでも進行表の真意を知りたかった。
「俺たちは、任務のために女だろうがこどもだろうが厭わず殺戮を続けた。来る日も来る日も。3年間だ。凄惨な場面に何度も立ち会ってきた。戦争で人が死ぬのはあたりまえだ。爆撃で死のうが、銃で死のうが、死は死だ。誰にでも平等に与えられてしまう事実だ。だが、あれだけは許せない。生きてきた尊厳なんてこれっぽっちもない!」
「あれとは、放射線障害か?」
「ああそうだ。秘匿にするなら、なぜ安楽死させない。生き地獄以外何物でもない!」
「核兵器の有用性を示す、素晴らしいデータだよ。戦場で幾多の屍を乗り越え、修羅場をくぐった君でさえ、それだけ狼狽している。医療従事者でさえも、精神状態に相当、影響を与えているよ。70年以上前の戦争以来だぞ。生かすチャンスは今しかない」
「狂気の沙汰だ。いつからお前はそうなった」
「最初から狂気の沙汰だよ。この機会を逃す手はない。核兵器が生まれてから、いや原子力が発明されてから、世界の国々は、その狂気の沙汰に魅了されている。他国で作られた憲法の上で、この国が合法的に核抑止力を持つには、原子力発電所は―」
樋口は、少し興奮している事に気が付き、大きく息を吐き落ち着かせる。
「絶対に必要だ。それには原子力ムラの利権構造は、この進行表にとっては極めて都合の良いシステムだよ。目くらましには最適だ」
「そんなに核兵器が大事なら、俺たちは何のため存在している。自分の平穏な日々を抹消して、この手を他国の民の血で染めてきたことはなんだったんだ」
「お前は、イラク戦争で参加した爆撃作戦後の有様を見たのか。死体だけが転がっているあの惨状を!」
「あぁ、見たよ。最初だけ。以降は確認する必要はなかった。戦果報告で全てが理解できたからな」
「何の罪のない民間人が、女こどもも巻き込まれていた。少なくとも俺たちは加担したんだ」
「任務の一環だよ。私たち3人だけで何ができる。」
「有形無形で伝え、育てればいい。その為のJだろう。俺たちJは海外の連中にも一目置かれている。それで十分だ。一つの形じゃないか」
「所詮、個人の力などたかが知れている。気にいらなければ、この場で私を始末しろ。お前なら、素手でも私を殺すことはできるだろう。ただ、私がいなくなっても、進行表はただの進行表だ。そのまま状況に応じて進むだけだ。時計の針は戻せない。それに」
樋口は、一度躊躇うもそのまま続ける。
「確定していない未来をお前は断罪するのか。神にでもなったつもりか」
「神じゃない。人だ!」
「人殺しの感覚を得る度、技術が向上する度、剣技が実戦となる度、お前も滾(たぎ)ったはずだ。自分自身の兵士としての能力が成長する事に喜びを持ったはずだ」
井上は確信を突かれたように、黙り込む。
「なぜなら・・・私もそうだったからだ。立案する作戦に、部隊が思うよう動き、味方の損害を極力少なくし、敵の掃討に如何に時間も物量もかけず、効率的に行うか。予想より時間も物量も少なかった時には、愉悦さえ覚えたよ」
樋口は自分に言い聞かせる。
「お前の部下が、あんな有様になっても任務のためと納得できるのか」
井上は、絞り出すように反駁の言葉をかける。
「お前は、どこまで見たんだ。あのホスピスの6階の全部の部屋を確認したのか」
「いや。1つの部屋しか見ていない。もう、あれ以上確認する気にもならなかった」
「ならば、通路向かって右側の部屋は覗かなかったのか」
「そうだ。それがどうした。」
「私に弟がいたのは知っていたよな」
「ああ、両親に捨てられて、児童養護施設から二人で手を取り合って生きてきたって。確しか4年下で防大自衛官だったんだよな」
「所属は第一空挺団だ」
「第一・・・!?」
井上は、統合幕幕僚長の言葉を思い出す。「第一空挺団2名」
「もう、察しはついたみたいだな」
「あのもう一つに部屋に収容されていたのは」
「そうだ。私の弟。卓(すぐる)だ。無論、病院では偽名だがな」
井上は、全身の力が抜け行くのを感じた。
「もう、全て処理班に任せてある。生死も知らない」
「そんなんでいいのか」
井上は、まるで自分の事のように懇願した。
「いいんだ。任務にあたる以前に、こうなる覚悟はさせていた。そして本人も納得している」
井上は愕然として、無意識に膝をついた。樋口は続けた。
「こんなどうしようない国だろう何だろうが、守るべき国だ。人体実験だろうが何だろうが肉一片血一滴も捧げる。尽くす。何がおかしい ― 」
「お前のいう事は正しい。正しい過ぎる・・・」
井上は、失意のうちにゆらりと立ち上がった。目の生気が失せていた。
「俺は俺なりの始末をつけたい。迷惑がかからないよう、しかるべき時に退職願いは出しておく」
「私たちに、そんなものに意味はないだろう。死ぬまで・・・」


 ドアをノックする音で、我に返る。数分の間、眠っていたようだ。森田が持ってきた書類をデスクに置く。ぼっーとした表情だったのか心配された。
「お疲れですか。それは、お疲れですよね」
 おしぼりを取って上体を起こす。
「ああ、さすがに疲れたな。体力的にはどうという事はないんだが、官僚が気持ちよく働いてもらうには、戦術立案以上に神経を使うな。自衛官たちは即答してくれるが、不確定要素が多すぎる・・・」
「何か飲み物をお持ちしますか」
 森田は、きょとんとしてこちらを凝視していた。
「どうしたんですか。目にゴミでも・・・」
 自分に何が起きているのかしばらく分からなかった。分かった途端、結果を知るのが途方もなく怖くなった。
「何でもない」
おしぼりで、瞼を拭う。


[同年 11月 就任演説 1週間前 午後 御厨アパート前]

 御厨は、後輩の田中一等陸を呼んでいた。昔を懐かしむためではない。不要になるバイクを引き取ってもらうためだ。そして少し情報を探りたかった。
 

 突然の申し出に多少、困惑していた。バイク好きがバイクを乗らなくなるのは、よほどの理由があるからだ。
 「バイク便の仕事、やめることにしてね。買い取りセンターにでも出そうかと思ったんだが、君もバイク乗るのが好きだったと思い出して」
御厨さんが、部下達の趣味を把握している事は知っていた。
「確かに御厨一等・・御厨さんほどの方が、なぜバイク便など、と言っては失礼ですが、もっと相応しい仕事があると思っていました」
「職業に貴賤はないよ」
「はい。失礼しました」
「ごめん、上官でもないのに説教してしまって」
「とんでもありません。今でも、御厨1等陸佐は私の上官です!」
御厨さんはくっすと笑った。
「ありがとう」
「ありがたい話なんですが、なぜ自分にこんな大切なものを」
「僕が一緒に歩んできたのは自衛隊の生活だけだ。その他には、このバイクしかない」
「確かに自分も買うつもりではおりましたが、車検も1回しか通してらっしゃらないんですよね。タダで頂いても宜しいのでしょうか?」
「もらってくれるとありがたい。君だったら、大切に乗ってくれると思うから」
「恐縮です。ありがたく頂戴致します」
「申し訳ないが、名義変更は君の方でやってくれ。三文判の印鑑はメットインに入っているから」
「もう、バイクは乗らないのでしょうか」
「また、機会があれば」
 余計な詮索をやめよう。何かしら企んでいる。本来なら、元自衛官の挙動不審は情報保全部に通知する義務がある。それも折り込み済みで譲ろうとしてくれている。しかし目の前の元上官は、そこまで斟酌してくれるだろう期待も投げかけている。
 退職の理由を知ろうと、上村隊長と一緒に、独自に調査していた。そして「J」の存在を知り、浜々原発の顛末をおぼろげながら把握し始めていた。「いろは進行」なるものが、現在の国政に少なからず影響している事も。この状況もとある機関から監視されている。
「とにかく、新しいお仕事、頑張って下さい」
そういってバイクに跨り、持ってきた自前のヘルメットを被ろうとしたが、御厨さんが遮った。
「ひとつ教えてくれないか」
一旦、ヘルメットをタンクに仮置きする。
「何でしょうか。差し支えないことであれば何でも」
「今度の首相就任演説、君たち第二中隊も駆り出されているのか」
「申し訳ありません。その質問にはお答えしかねます」
毅然と即答する。
「そうか。そうだよな。すまなかった」
「御厨元一等陸尉殿。ただ今の質問は、情報保全部の規定に抵触する恐れがあります。聞いた以上、私には上官に報告する義務があります」
御厨さんは、優しく微笑み、敬礼する。
「そうだよな。田中一等陸尉殿。報告、宜しくお願いします」
合わせて敬礼する。
「それでは引き取らせて頂きます。失礼します」
ヘルメットを被り、キーを回しセルを回すが、なかなかエンジンがかからない。
「あれ、おかしいですね」
わざとエンジンをかける前にアクセルを回していた。今一度、セルを回すと、一気に吹き上がり、あたりが騒音と異臭が立ち込めた。その後も、何度もエンジンを吹かす。
「暴走族じゃあるまいし。せっかくの静音マフラーが台無しだよ。どれ・・・」
御厨さんはたまりかねて近寄った。
「おい。君もバイク乗りなら」
アクセルをとあるリズムで吹かし、顔を向けると、御厨さんに思わず笑みがこぼれた。
「懐かしいな」
そのまま走り出す。ギアチェンジも妙に不規則に。
『ト・ウ・ホ・ク・ト・ウ』
モールス信号。東北東エリア。伝わったはずだ。ミラー越しに、手を振る御厨さんの姿が少しづつ遠くなる。
 交差点を曲がり、国道に出ると信号に引っかかった。気が付くと、クリーニングしたばかりのシールド越しの景色が歪んで見える。次会う時は、もうただの元上官という立場ではないだろう。



[同年 11月 首相就任式典 前々日 未明 御厨アパート]

 目を覚ますと、部屋を暖めるエアコンの音が聞こえる。体を重ねたはずの相手は窓から外を観ていた。日を追うごとに、眼光が鋭くなっていくその眼は、何を観ているのだろう。
「いつも私が起きる前に起きるよね」
「あぁ 起きたのか」
「何を観てるの」
「いや 特に何も。夜空は、見え方は分かるけど、紛争地域にいっても空は空だ。ぼーとして観るのはちょうどよくて」
「ふ~ん 臭いセリフ」
布団から出てTシャツだけをはおる。冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、口に含む。
「明後日、首相の就任式典だよね」
夜空を見上げていた顔が気持ち上向く。
「それが何か」
「やっぱり行くの」
「何処に」
「樋口さんを殺しに」
「知ってたのか。いつから」
「進行表を知らされた時から。あなたの負担にならないように、ずっと知らないふりをしていた」
「そうか。ごめんな。気を遣わせていて」
「私は井上さんの面影を、あなたに」
「それもお互い知った上だったね・・・」
沈黙の帳が部屋を包む。我慢しても勝手に涙が溢れ出てくる。
「ねえ このままって、やっぱり無理だよね・・」
「無理 ― ・・・だな」
 ためらってくれた。即答だったら余計に悲しい。
「だよね」
これ以上言葉は交わせなかった。最後の逢瀬だった。


[某年 11月11日(日曜日) 夜明け 就任式典会場周辺]
 
 演説開始は午前10時予定。夜明けの朝日は好天を予見させる。演説会場につながる主要道路には、昨晩から検問所が設営され、警察と自衛隊がタッグになって1週間前から周辺警備にあたっている。特殊作戦群も、僕のいた第一中隊が前線、井上のいた第二中隊がバックアップで待機している。
 
 前日から、狙撃ポイントに設定したこのマンション屋上に忍び込んでいる。ポイントは地図上でいうSAT管轄と作戦群管轄のエリアが被る部分に設定した。組織が違う通しでは、阿吽の呼吸ができず、お互いの縄張りを意識して、どうしてもエアポケットのような個所が出やすくなる。まさに、いまここはその場所だ。時間まで、体を冷やさないよう毛布をはおり、今しばらく様子を伺う。
 8時あたりから、次第に人だかりが増えてくる。主要道路を完全封鎖した検問所では、金属探知機と持ち物検査でごった返している。一体、何人の警官と自衛隊が動員されているんだ。
 この国で初めての憲法改正。首相は、直接自分たちで選んだ指導者だ。盛り上がりは必至だ。良くも悪くも、停滞していたこの国に活気が出てきたのは事実だ。樋口のやっている事は、決して間違いではない。甘いマスクと若さ、鈴木防衛大臣を脇で支える敏腕副大臣。佐藤内閣の人気の何%かは、樋口の潜在的な支持率だと彼女は分析してたっけ。
 狙撃ポイントから一番近くで警備にあたっているのは、北エリア担当の第二中隊第二小隊の10名。今は上村が小隊長やっているはずだ。指導していたのが懐かしく感じる。できは悪かったが、とにかく底意地を張るやつで、血尿が出ようが吐きすぎて喉が傷つき血反吐を吐いても弱音は吐かなった。いずれは指導者になると思ったが、もうなったのか。半径1200mの範囲の目ぼしい狙撃ポイントは全て抑えられていた。1km+2割増しという計算だったのだろう。防御策も立てられているはず。それ以上の距離は警備予算が追い付かなかったのだろう。
 演説の場所は国会議事堂に隣接する公園。特別に設置させる演台は、明らかにアメリカの大統領就任式を意識したものだ。公会堂やパブリックビューイングで敷地内ある公会堂や音楽堂にも同時配信されるようになっていた。
 溢れる返る人込みの中に、テレビ局スタッフとして道行く人にインタビューをしている智子の姿も伺えた。彼女は彼女で、自分の本分を全うようとしている。


[同日 10:00 就任演説開始]

 狙撃の準備は、全て整っていた。後は、その瞬間を待つばかりだ。北東1200m離れた10階建マンションの屋上。ビル群が折り重なり、狙撃着弾点までの仰俯角は2度、水平角1度しかないが、これで充分だ。監的スコープで覗く。時報同時に、舞台袖から佐藤初代公選制内閣総理大臣は、威風堂々と胸を張り、演説台へと歩いていく。その後方には、樋口を始め、官房長官他主要大臣が列をなして着座していた。SP連中は、レシーバーで連絡を密にしながら、人ごみから遠方まで視界を伸ばしている。ワンセグで、放送も確認する。
「あー 初代公選制内閣総理大臣 佐藤 晴彦です」
 佐藤内閣総理大臣は、お得意の抑揚の効いた口調から、憲法改正から公選制内閣になった意義、そして先の震災による真賀陸の原発の事故、浜々原発の占拠事件に触れ、国防論を熱弁する。先のミサイル着弾事件に及び、9条論議に入った。
 レティクル越しに、樋口を捉える。丸見えだ。
 テレビ画面に映っていた佐藤首相の画像に、突然に蜘蛛の巣が張った。1張2張。首相前演壇の前に張り巡らされていた透過率の高い防弾ガラスが銃弾を防いだ。サイレンサーを使っている。狙撃だ、の声と同時にSPが一斉に佐藤首相に群がる。会場には悲鳴と怒号が飛び交い、パニック状態になる。瞬時に狙撃ポイントをサーチする。南西の方角。5階建てビル屋上。距離はおよそ300m。銃は豊和M1500。ギリースーツを来た狙撃手の姿が見える。あすこはSAT隊の管轄だったはず。マッチポンプか。
 監的スコープに切り替えて演台周辺を確認する。黒服が1か所にわさわさと集まる様子はまるで砂糖に群がる蟻の様相だ。会場周辺で、場発音が響きく。3か所、同時爆破テロが起こり、黒煙があがる。そちらはマッチポンプなのか、それともの国内外のテロリストの所業なのか、少し考えを巡らせたが、直ちに考察を停止させた。予定通りだ。目標は佐藤首相ではなく樋口だ。既に、シナリオ通りに事態は進捗している。
 
 
 厳重に警備網が張り巡らされた演説会場は、御厨の狙撃ポイントではなかった。
 公園に隣接した国会議事堂へのエスケープルートとなっている建物と建物の間、5メートル程の継ぎ目こそが、狙いであった。あらゆる要素を考慮すると、このルートしかなかった。
 

 SPを数十人侍(はべ)らながら、肉体カーテン越しに佐藤首相が運ばれて行く。何か滑稽に見えてしまう。当事者たちは文字通り命がけなのだか、命がけだからこそ滑稽なのかも知れない。樋口は一緒に行動している。佐藤首相は成されるがままだが、樋口はJの眼力で周囲を確認している。繋ぎ目の危険性も重々承知しているだろう。既に、照準は合わせてある。一行は一旦建物に入り込む。しばらくすると建物を通り抜けた継ぎ目の所に、最初のSPが周囲を確認しながら姿を現す。肉体の壁はより一層悲壮感をまして身構える。樋口の姿はかけらも見えない。
 
 
 樋口は、SPのサンドイッチに辟易していた。
 
 
 とにかく暑い。暑苦しい。狙撃は予定通りだ。爆発は本物。恐らく、北の某国の攪乱だろう。あちらは囮で、こっちにはどう出てくる。携帯で森田に指示を送る。本来なら、防弾車で逃走が基本だが、ロケットランチャーでも使われると防ぎ切れない。建物の出口が近づく。唯一の脆弱ポイントだ。御厨は、ここを狙って来るだろう。どうする。素直には殺されない。
 唐突に携帯が鳴る。着信音はお気に入りの映画音楽。導かれるように懐から取り出して画面を見ると、ふっと笑いが込みあがった。
「そう来たか」
携帯を握ったまま、おもむろにSPを掻き分ける。止めようするSPたちを難なく振り切り、空を見上げる。
「そうだな―」


 1200m先の御厨は、これ以上のないタイミングで引き金を引く。
 銃声が鳴り響く。弾道という空気の螺旋の渦が生まれ、消える。
 7.56mmNATOカスタム弾は、銃身の形状により螺旋運動となって樋口に進む。風と地球の自転が複雑に影響しながら、上下左右に地軸に対し弧を描いて樋口の胸部正中に着弾し、心臓を打ち抜いく。貫通した弾丸は後方のSPの防弾チョッキを貫く事なく、慣性のエネルギーを消失させた。
 樋口は何の戸惑いもなく膝から崩れ落ち、肉体の壁に埋もれていく。怒号を挙げもう意識のない樋口を運んでいく。その姿を見た佐藤総理大臣は、表情を変える暇もなく扉の奥へと奥へとSPたちに運ばれていた
 御厨は、監的スコープで確認すると、踏み荒らされた赤い足跡が幾重にも重なり不連続な幾何学模様を浮き出していた。狙撃は成功した。生死の確認は必要なかった。全ての状況証拠が目的の完遂を示していた。
 
 
 ヘッドショットはできなかったよ。井上。
 佐藤初代公選制内閣総理大臣殿。おめでとう。あなたの総理としての地位はより強固なものになるでしょう。テロに屈しなかった指導者として。樋口の死は、その礎となるでしょう。願わくば、そのままのあなたでいて下さい。臆病なままで。一介の為政者として職務を全うして下さい。

 
 御厨の傍らには、井上から預かったガラパゴス携帯が転がっていた。「送信しました」の画面になっていた。
 
 
 この携帯の持ち主は、樋口卓。斥候任務の時に、井上の部下が預かっていた。処理に困っている所に、たまたま井上がその話を聞いて、預かっていた。偶然の産物か必然か。この携帯で2回電話をかけ、2回空メールを送った。直ぐに出られない状況を見計らって着信だけ残した。3回目は、何があっても取ると踏んでいた。こちらの罠と分かっていても。
 抱えていたM24を丁寧に床に置く。もう用は済んだ。必要ない。暗殺の記念品として接収してもらおう。その他の機材も同様である。間もなく、狙撃ポイントは割り出され、特殊部隊の連中が駆けつけて来るだろう。できれば特殊作戦群に先着してもらいたい。このまま逃走する事は可能だ。Jとして身に着けた資力はそれを担保する。しかし存在理由はもうない。井上との約束も果たし、第1次J小隊は、僕の存在の抹消で終いだ。人殺しの出来ない兵士などいらない。人殺しができる兵士も、もういらない。
 頸動脈を人差し中指の第1関節より先で押さえる。ぷっくりと弾力を帯びて、血液の流れを確認する。検死結果だと下顎ラインからおよそ35mmあたりに左頸部に銃創との記述だった。概ね、その位置を確認し、警備警察から拝借したH&KP2000の銃口を当てる。頭に浮かんだのは、彼女の泣いている姿だった。


 再び、喧騒に銃声が響く。
 その音源に特殊作戦群第1中隊第2小隊は、上村隊長を先頭に以下10名の隊員を引きつれて、その銃声が響く前から目標を定め、自動小銃M4カービンを両手で携え走っていた。


 怒号と軍靴の音が次第に近付いてくる。予想より早かった。さすが見込んだ部下達だけあって狙撃ポイントの割り出しは迅速だ。しかしながら、容疑者として蘇生措置を受ける訳には行かない。
 次々と現着する隊員は、皆知った部下達だ。最後に現着した上村が、僕の姿をまじまじと観察する。そうだ、敵のダメージをしっかり観察するんだ。息を切らして、ヘルメットの防弾シールドが呼吸の度に白く濁っては消える。そのシールドに、あの時の井上と同じように首筋から鮮血が流れ出て悶える自身の姿が映っていた。無様だった。Jではなく作戦群第1中隊隊長として鍛え上げた隊員たちがそこに屹立していた。副隊長の田中は、今にも泣きそうにしわくちゃな顔になっていた。馬鹿野郎。任務遂行の場で、泣く奴があるか。上村を見ろ。元上官の、この有様を見ても顔色ひとつ変わっていない。だが、こんな上官ですまなかった。できればこのまま苦しみもがいて死にたい。井上の苦しみを味わいたい。どうか生き恥だけは晒さないで欲しい。
 僕が知らない隊員―衛生員のバッチを付けた隊員が近づいて来る。そのまま持っていた銃を上げようとした刹那、上村の号令が劈いた。
「目標の死亡を確認。全員、現場保全。SAT他については他テロリスト探索の障害になると思われる。一切この屋上に入れるな!」
 田中がシールドをあげ目を袖拭い、はっとして続ける。
「現場保全。屋上入口を確保、制圧。蟻1匹入れるな!」
 その時、第二小隊全員が上村の意図を酌んだ。僕に向かって田中は敬礼しようとした。その行動に他の隊員も倣い手を挙げかける。
「馬鹿者。テロリストに敬礼する防人が何処にいる。現場保全を徹底しろ!」
 上村の怒号がとび、一瞬で行動が反転する。田中だけは食い下がる。
「隊長!しかしながら目標、いや御厨元1等陸尉は、我々の先輩で上官であった方です。ここにいる全員、薫陶を受けてきた。せめて見送るだけでも・・意見具申を!」
「だめだ。命令違反で現場の離脱を勧告するぞ」
 田中は声に出そうと思った言葉を飲み込み、引き下がった。ぽつりと、貴方の命も守った上官でしょうに・・・と歯噛みしながら元の位置についた。上村は正しい。田中に言ってやりたかった。僕はテロリストであり、思想犯であり実行犯だ。未来永劫、犯罪者として記録される。井上と同じように。いや違う。死線を一緒に乗り越えた戦友、親友、同僚、同胞を二人も殺している。ただの人殺しだった。
 僕も井上のように人になりたかったのだろうか。自衛官という枠を外れた途端に、それまで培ってきた価値観は、何もかも不要に思えた。僕が守りたかったものは何だったのだろう。守るべきものに値するものだったのだろうか。
 何分たっただろう。もう血の味で溺れ、呼吸ができない。体も自分の意志では動かない。不随意反射だけが生命の存続を主張していた。完全に気道が塞がれた。こんな苦しい思いさせてしまったのかと後悔していた。自爆テロをやろうとしたあの子のように、ちゃんとヘッドショットを決めてやればよかった。体は仰向けになったままだ。
 目に映るのは、雲ひとつない青空だった。都心で空気は澱んでいるはずなのに、やけにきれいだ。世界の紛争地域でも空の色はかわらない。まぶしさのせいか、ただ、気道の損壊による反射的な反応だったのか分からない。目元に少し滲んだので涙だと思った。国の為とか何かいろいろな理由があったはずだった。頑張ってきた。我慢できた。ただ、今際に浮かんだのは、目の前に広がるこんなきれいな青い空があれば、何も要らなかったと思った。井上も見えていたのだろうか。
 そうだ見えていたんだ。人に戻ったから見えたはずだ。もしかしたら樋口は、この青さを分かっていたのかも知れない。分かっていたからこそ、その下で、見上げる事を敢えて拒絶したのだ。僕だけでなく、人はこれ以上を望み、その罰を受けたのだと。それに気づき、確信となった今、その空の光りは眩しすぎた。次第に、累々と闇になってきた。


 副隊長の田中は、屋上につながる階段から再度、軍靴独特の鈍い音が不連続で響いてくる事に気が付いた。SATも狙撃ポイントに気が付き、一段下の屋上に1個小隊程の人数がドカドカと駆け上がってくる。田中は思考を巡らせた。
 
 
 伊達に特殊部隊を名乗っているだけの事がある。こちらが先着も先刻承知済みで、副隊長と思われる先頭の隊員には、先駆けに至らなかったバツの悪さが表情ににじみ出ていた。こちらも隊長の命令に従い、屋上に至る通路を完全に遮断している。目の前で一斉に停止、後方から隊長と思われる人物が前に出る。見た顔だ。愛知県警SATの田辺。何度かテロ対策の合同訓練をした間柄だった。
「ここに樋口防衛副大臣を狙撃したと思われるテロリストがいるのは明白です。治安出動の命は出ていますが、本来、犯人の検挙は警察庁の管轄です。直ちに特殊作戦群小隊一同は現場を放棄し、我々に一任願いたい。これは、明らかに越権行為という範疇を超え、違法行為にあたります」
 そうだ。元々、そんな事は想定されていない。
「田辺隊長殿。そちらの進言はごもっともです。区割りとしても私たちは東北東エリア。そちら北北東エリアで、そちらの担当区域でした。しかしながら、自衛官にとって命令は絶対です。現在、我が小隊長により現場の保全を命じられております。既に容疑者と思われるテロリストは死亡が確認されております。隊長は、仲間のテロリストによるテロ行為の危険性があり、まだ治安出動の範疇内であると判断、現場の保全を最優先として行動しております」
目標はまだ悶えていた。私の肩越しに田辺は声高に叫ぶ。
「上村隊長殿。聞こえているでしょう。早く、現場移譲の命令をお願いします。こんなことが看過されると思っているんですか。」
 不意にこれまで聞いた事のない音が、いずこからか響いた。肉が裂けたの骨が砕けたのか鈍い音が晴天に重く響いた。その場にいた全員がその音に気がついたが、音源は辿れなかった。
 抜けるような青い空の下で、報道関係のヘリが近づいてくる。目標以外の時間がとまったように、うめき声と体をよじり服とコンクリートがすれる音だけが時間の存在を思い出させる。完全に静止できない各自の揺らぎをお互いに感じ取っていた。
「我々にとって上官の命令は絶対なんです。その命令が、たとえ死地に行く事でも、戦友を殺す事だって絶対なんです。もし、要求を通したいのであれば、隊長より上位の官から上位命令をさせて下さい。中隊長でも大隊長でも。幕僚長、いや佐藤内閣総理大臣でも構いません ― 」
田辺はいら立ちを露わに、最終手段に打って出てくる。
「どうしても放棄して下さらないのなら、実力行使に出ます。公務執行妨害を適用し、これを排除します。これは警告です。この会話は録画、録音しています」
田辺が号令を下す。
「全員構え。目標、前方公務執行妨害者に狙いを・・・」
 反射的に作戦群も全員、銃を構える。ベルトやカラビナ、安全装置のシフトを外す音。不連続に機関銃に纏わる音が至る所で鳴り響いた。3メートル程の至近距離でM4カービンとMP5A2の銃口を向けあう。互いに5.56mm弾がマガジンで引き金を引かれ射出されるのを待っている。既に命令は出ているのだ。
 誰一人入れるな。その目的の為には手段を選ばない。人員はSATの方が倍近くいる。銃の性能はこちらの方が上だ。お互いに十八番の武器と装備を抱えながら、本来なら「国民の公共の福祉を守り、国益に付する者」同士が、一人のテロリストを巡り、向けてはいけない銃口を向けあっている。
 にらみ合いが、何秒、何分続いたか分からない。テロリストがのた打ち回る姿とヘリの音だけが交錯する。さらに後方から足音が聞こえる。遅ればせながら機動隊も近づきつつある。知った外事課の連中も来ていた。ヘリで事態に気がついたマスコミも押し寄せているようだ。
 これ以上は、もう無理だ。
 気が付くと元上官で元先輩のテロリストは完全に静止していた。不随意運動もせず血液もあまり流れなくなっていた。衛生担当の隊員が取る必然性のない脈を取り、隊長に一瞥をした。上村隊長は何もしゃべらなかったが、副長である自分には、全てが終わった事が理解できた。
「隊長の指示により、現時点で仲間と思われるテロリストの存在については忌避されました。現時刻を持って、現場保全を特殊急襲部隊に委譲します」
 同時に階段の前に立ちはだかった作戦群隊員が構えていたM4カービンを下ろすと、迷彩色でできたパッチワークの壁は崩れ、隙間にSAT隊員たちの黒い物体がなだれ込んでいった。
 すれ違い様にSATの隊長は、鬼の形相で上村隊長を睨みつけていたが、隊長はその視線など何もなかったように鉄面皮のまま、登ってくる人波をかき分けて階段を下っていった。SATの副隊長から囁かれる。
「完全に警察機構のメンツをつぶしましたよ。いくら作戦群の小隊長といえども、ただではすみません」
そのまま、少し同情も含めた苦笑いを浮かべながら
「うちの隊長は受けた屈辱は、必ず返す人なんで」と付け加えた。
思わず、こちらも苦笑する。
 振り返りざま、絶命したテロリストはSAT隊員の無意味な心臓マッサージと首の治療を受けていた。AEDや強心剤と思われる注射器も用意され、これまでの静寂が嘯いているかのごとく、怒号とざわめきがその場を満たしていた。
 自衛官としてではなく、ただのテロリストとして裁かれたのだろう。あの時、私たちが敬礼し、目を閉じたならば、自衛官としての晩節を汚すことになったかも知れない。元上官は、犯罪者として扱われることを望んだのだ。目は見開いたままだった。見上げる青空が惜しいように慈しむように。


[防衛大学校 卒業式 講堂]
 
 長期政権となった佐藤内閣総理大臣の訓示が終わり、いよいよマスコミ垂涎のセレモニーが始まる。卒業生代表の訓示の後、合図と共に軍帽が一斉に宙を舞う。幾重にも重なりながら、歓声とともに。毎年の恒例とはいえ壮観の極みだ。百花繚乱という言葉が相応しい。どの学生も苦しい4年間を凌いだ充実感を携え満面の笑みを浮かべて館外へ走り出してくる。迸(ほとばし)る若さは何者にも代えがたい特権だ。ひと段落すると陸上グランドに、陸海空それぞれ、幹部候補養成校に進む面々が、部隊ごとにトラックを行進してくる。
 ここ数年、あれだけ張りつめた近隣諸国の緊張関係は、樋口防衛副大臣の暗殺後、徐々に氷解し始めていた。単純にタカ派の大臣が、というだけではなかったはずだ。それ以前は、ここの卒業式もかなりの警戒態勢が敷かれていた。昨年あたりから、雰囲気は一気に和やかになっている。
 保護者の観客席から離れた所で、それらの行進を上村教官と二人で見つめる。取材に来ていた智子さんが、私たちの姿を見つけ、近寄ってくる。浜々原発占拠事件と防衛大臣暗殺事件に少なからず関わった人間が、今年も集まった。
 私たちを遠目でみていた、一人の男がすっと近づいてきた。近づく姿を確認すると森田防衛大臣秘書官。殺された樋口防衛副大臣の時の秘書官だった人だ。
「すみません。上村教官はお久ぶりです。」
上村教官は敬礼する。
「防衛大臣の秘書官をやっております。森田と申します。私もここのOBです」
思わず向き合う民間人二人。
「ちょっとお時間宜しいでしょうか。あれから3年経過したのでお伝えしたいお話があります」
森田秘書官は、行進でざわめく喧騒をBGMにして話を始めた。


[同日 防衛大学校 校庭 一角]

「実は、毎年、皆さんの同窓会も片隅で確認はしておりましら。お話したかったのは山々でしたが、樋口さんから『3年』ときつく申し送りされていたので・・」
「それで話って」
智子さんがせっつく。
「実は、樋口さんは御厨さんに暗殺されることは承知、いや願っておりました。就任式典の何日か前に、お話を聞かされました。SPも外して普通の居酒屋チェーン店に行ったんです」
森田秘書官は、樋口から伝え聞かされた事を淡々と語った。
 

 原発によるこの国の焦土作戦など愚の骨頂だ。どう考えてもありえない。誰もが、普通はそう思う。しかし、可能性は0%ではない。人が扱う以上、常に可能性は0にはなりえない。威嚇のみ成立する核の脅威は、その信憑性がなければ担保されない。その担保として、私はもっともの大切な戦友を騙し、その信憑性の担保になってもらった。あの二人が進行表を企んだ戦友を、本気で殺しにかかり、そして殺した。それだけ事態は切迫した証拠になる。真実性が輝きを増す。
 それこそが私が考えた、この国で唯一の幻による核武装だ。
 少なくとも核保有国の各諜報機関とその分析機関に、コールタールを擦り付けるぐらいのインパクトは与え、こびりついて剥がせなくなったはずだ。この国の情勢を読み解く上で、基礎データとしては永遠に残存し、先の大戦で吹き荒れた「カミカゼ」は、再度世界の軍事バランスを席巻する。これだけの事件が表と裏と、駆け巡ったのだ。各国の情報部は、無意識にこの国なら遣りかねないと必ずどこかで考えるはずだ。中東情勢に欧米が手を拱(こまね)いているのも、通底しているのは「カミカゼ」という思想だ。アメリカは9.11以降、「特攻テロ」へのアレルギー状態に陥っている。祖国の為に何をするか分からない概念は、現在の電子ネットワークによるグローバル戦術においては、リバイアサンのような巨大な怪物へと変貌させてくれる。
 暗殺に成功した暁には御厨も生きてはいまい。私たちは、掲げた大義のために、全ての憎悪を飲み込んで、死地に向かおう。わが祖国に咎のない人命を、実戦の研鑽の為に消費し続けた悪魔たちは、この命を持って贖うしかない。悔恨も慚愧もない。
 それにしても、あの時と同じく、ジョーカーは最後まで御厨だった。本当にすまない。どうせ落ちる先は地獄だろう。閻魔様の前で、御厨の弁護だけはしてやらないと。
 Jよりずっと前から、核武装集団は発足している。その存在に気が付いた時、戦慄とともに義務感も生まれた。放置できない。ならばいっそ入り込み、イニシアティブを握ろう。そう考えた。集団の扱いはJと一緒だ。もう、発端は誰も知らずの連綿と自動システムが継続している。真賀陸の事故の時、尋常ならないスピードで集団は暗躍した。ただ、頼り切っていた牽引役がいなくれば、多少は進捗の歩みは遅くなるだろう。悪魔の使う兵器だ。こちらも悪魔になるしかあるまい。この国ならさしずめ鬼か。鬼でも何でもなってやろう・・・
 また別の樋口が何処ともなく現れて、進行表は進むかもしれない。それでも、また別の井上と御厨が現れて、カウンターとなって止めてくれるはずだ。物事の慣性の法則があとは何とかしてくれるものと信じている。
 総理が暗殺されても、暗殺未遂で終わっても、無事平穏になっても憲法の更なる見直しは変わらなくなった。核武装論が台頭すればするほど、この国の民は、否応なしに進むべき方向性を真剣に考えるはずだ。
 
 
[就任式演説 数日前 夜 某居酒屋]

 滔々とビールを飲み、とんでもない内容を語る樋口に、森田軽いパニックに陥っていた。二人用の個室とはいえ、辺りは学生コンパで、はしゃぎまわってやかましい限りだ。
「SPなしで大丈夫ですか」
「これまでの話を聞いて、私にSPが必要だと思うのか?」
「確かにそうですが・・あと、誰かに監視されていませんか?」
「もう私の所に監視はつかないはずだ」
「なぜです」
「Jにとって尾行の有無など本当はどうでもいい話だ。その気になれば、いくらでも撒けるし、存在自体を消してしまうのも可能だよ。ただ、おのおのの不文律に則ってやらないだけだ」
樋口の軽い口調の裏腹に、言葉の強さに森田は戦慄を覚えていた。これも計算なのかとおもいつつも、森田は恐る恐るどうしてもしたい質問した。
「本当に弟さんの件は、割り切ってらっしゃるのですか。」
「卓の事か。肉親だから割り切れた。仮に、もしお前だったら、井上と同じ、いや、もっと別な効果的なやり方で復讐したと思う」
「えっ?」
森田は予想外な答えに、素直に驚きを隠さなかった。その反応に、樋口も反応する。
「なんだ、意外そうな顔だな。いや、これは人というか生物行動学の観点から考察すれば、根本的に血族だけは大事にするが」
といった所で残りのビールを飲み干した。
「私たちJにとっては、血族以上に『自分たちが育てたもの』に対する愛着、いや執着といってもいいかも知れない。大事なんだよ」
しばらく会話が途切れる。森田が黙ってしまった。
「だって、それしかないんだよ。何百何千もの命の犠牲の上に築いたものだ。形はどうあれそこから得た力を後身に伝え、育む義務がある。論理破綻しているは承知している・・・お前も自衛官の端くれなら分かるだろう」
少し酔っているのか、と森田は思った。
「申し訳ありません。端くれですが、切ったはったの世界がダメで秘書官になったものですから。ただの軍事オタクだったんです。今でも、こんな情勢では胃が痛い毎日です。樋口さんがいるから何とかやっているし、モティベーションも保っているんです」
樋口は、思わず噴き出した。おしぼりで口を拭う。
「そんな人間だから、いいんだよ。現場上がりのたたき上げ人間が政府要職に就いたりしたもんならば、内情知った途端にクーデターでも起こすんじゃないか。そういった所で、君は現状の分析がしっかり出来ている。前例や慣習に囚われずに何が最善かを見極める力がある。必要以上の事はしないし、必要なことは2割増しでやってくれる。自信を持ちたまえ」
「相変わらず褒め上手ですね。そんな風に言われると頑張るしかないですね」
「だからこそ、蔑ろにされたくない。申し訳ないが、足りうる理由で殉職するなら、それは自衛官にとって本望であり当然の結果だ。たとえ使い捨ての任務であろうと。だから命がけの信頼関係が必要になる。同僚と同僚。上官と下士官。小隊と中隊、中隊と大隊・・・そして国と、だ。その国に命が預けられない、守るべき国でなくなった時に・・・」
持っていた空のコップを置く。
「井上はそう判断したのだろう。御厨は、井上の意志を継いで動いている」
「御厨さんが?」
「私が一番嫌いなカンが騒いでいるのと、この1カ月、機関が何日か行動をロストしている。決断をしたのだろう」
「怖くないんですか」
「怖いよ。御厨に狙われたら、現在の要人警護の予算は倍にしないと難しいだろうな」
「であれば、演説会は中止したら。テロ計画が発覚したとか」
「それこそ本末転倒の話だ。政権は一気に崩壊するぞ。それに、私の計画まで頓挫してしまうよ。井上の時と違ってきっちり殺してくれるだろうか。今度はしっかりと脳天なり心の臓をきっかりと打ち抜いてほしい ― 」
森田は、これまで幾度となく見せつけられた樋口の決意の顔を垣間見た。
「それでも私は・・・」
そんな顔はみたくないと森田は俯く。
「もし願いが叶うなら、こんな思いをした先人に会って話がしたいよ」
樋口は自虐的に微笑んだ。
こんな風に笑えるのだと初めて森田は思った。


[現在 防衛大学校 校庭]

 田中は、森田の話を聞いて、昨今の緊張緩和の大きな要因は、樋口の思惑の結果だと理解していた。
「だとしたら、3人のおかげで周辺諸国が自重し始めたと・・・」
「そうですね。更に世界の特殊部隊でも有名な二人が為虎添翼になりました。なにせ東洋人差別を超えてSASやデルタフォースにもスカウトされた3人ですから」
森田はさらりと答えた。
「こんな重要な話を簡単にしちゃっていいんですか」
智子が目を丸くして言う。
「ええ、樋口さんから『あの二人に纏わる人間だったら構わない。それに、お前の判断も信頼している』とおっしゃっていました。今、こうして話してみて、確信になりました。皆様だからお話できたんです。田中さんが、あの3人の事をずっと調べていたのも知っていました。少しでも裨益になればと・・・」
森田は続けた。
「私は思うんです。あの方たちは、大勢の人を殺しました。もちろん、純粋に戦闘という絶対的な状況下においてです。当たり前だと思いますが、相当程度の自責の念に苛まされていたとは思います・・・この国では、人殺しは司法か人の悪意のフィルターがかけられます。前者はその根拠を国が担い、後者は非合組織や犯罪者たちです。でもJの方々はどうでしょう。国を守るために、対象者の善悪に関わらずこれを斃す。そんな経験をされた先人は、殆ど残っていなかったでしょう。3年間の実践を経験し、生き残った3名は、もう存在しなくなりました。元々、裏側の施策でしたが、縮小の方向のようです。やはり、諸刃というものは扱いにくいと偉い方々は痛感したようです」
 表情はそのままだが、黒縁のメガネの奥から、どっと涙が溢れている。童顔も相まって、転んだこどもが痛みにやせ我慢しているようだ。
 智子は、排気塔での井上を思い出していた。自衛官って、実はものすごく純粋で繊細なのだろう。
「調べれば調べるほど繙けば繙くほど、どうして樋口さんたちは死ななければならなかったのでしょう。井上さんだって、ああいった手段に出るしかなかった。御厨さんも、自分の任務と友情に恭順しただけです。樋口さんだって・・・」
次第に鼻水も出て、声が裏返ってくる。
「あの人たちが望んだこの時この場所に、あの人たちがいないのが理不尽というか納得できないんです。でしょうがないんです。どうして国のために、あれだけ働いた人たちが。悲しい。ただただ悲しいです・・・」
 今更ながら、自分が泣いている事に森田は気が付き、慌ててハンカチ取り出して拭った。
 
 しばらく沈黙が続いた。ブラスバンドの喧騒だけが時間の経過を認識させる。
 
 田中が、うんと頷きながら口を開いた。
「月並みで陳腐な言い方になってしまいますが、大勢殺した事によって、誰よりも命の尊さ、尊いというより貴重さという方が正解かもしれません。反面、架空の世界で死は氾濫、横溢しているといってもいい。これだけの命を奪った。国防の礎として。森田秘書官は、ここ以外は事務職だけですか?」
「そうです。実戦訓練はこの学校のみで、あとは事務職」
「かの震災で津波被害の復旧作業任務は。啓開作業とかには?」
「行かさせて頂きました。短い期間でしたが」
「では、森田秘書官もご存じですね。お恥ずかしい話ですが、特殊部隊に居ながらもう30過ぎていたにも関わらず、ああいった災害で亡くなった方を見たのは生まれて初めてでした。祖父や祖母は大往生でしたから。至る所から発見される遺体。何十何百と。それも五体が揃っている訳ではありません。首がない臨月のお母さんが小さな我が子を庇うように抱きしめていた遺体も発見しました」田中は、何かを思い出すように歩きまわる。紡ぐ言葉を探していた。
「何が言いたいというと、あの時、多くの自衛官が、初めて理不尽な死と対峙したんです。あいまって、己の死、自国民の死もさることながら、武力をもって戦えば、この手であのような惨状を生み出さなければならない。自分たちの死より、相手を殺せるか。任務であれば、必要があればたとえ女こどもであろうとも、攻撃されたならば制圧しなければなりません。『殺される』より『殺す』覚悟があるのか。あれ以来、現場の自衛官は常に自問自答しているんです。もし、他国から兵士が国土侵略してくれば、間違いなく対峙するのは彼らです。殺される前に、手にした小銃で相手を殺さなくてはならない。相手にも家族がいる。母、父、息子、娘、祖父、祖母、友人・・・そんな事は考えずに引き金を引かなくてはなりません。祖国防衛の為に。それでも、未だこの国の自衛官は、Jだった人以外はその手を血に染めた事はありません。己を捨てて、生き残るために、ただひたすら功罪も知らない人たちを斃す3年間というのは・・・だから絶対に、無駄にできないという事。ずっと相応しい死に場所を探していたのだと思います。井上さんが、あの原発事故の怒りの大きさを示したのでは。樋口さんは、少しでも未来に利用したかったのでは。あらゆる憎悪を受けても、自分の信じる未来の為に、あれだけ憎まれるべき事故でさえも利用しようとしたのでは。正直、今考えてもあの時の判断の正当性など私には判断つきません。ただ、己の信念に殉ずるということは何ものにも代えがたい幸せなのかも知れません。立ち会えたことは僥倖でした。私は、どんな憧れを持っても、あのような生き方はできません・・・」
 田中は、淡々と自分の思いを綴り続けた。


[同日 防衛大学校 駐輪場]

 式典は続いていたが、仕事場に戻ることにした。またアーカイブすべき記録とかけがえなのない人の思いが発掘された。森田秘書官は、防衛省に戻ると言ってその場で別れた。また会う約束と握手をして。智子さんは、本来のマスコミとして再び式典に向かった。上村教官は駐輪場まで見送ってくれる。駐輪場から門までの道は、閑散としていた。
 別れ際に、上村教官に尋ねる。
「上村さん」
「なんだ」
「樋口さんは、どうして森田秘書官だけに話したんでしょうか」
教官は、青い空に仰ぎ、熟考する。
「やはり、樋口さんも人になりたかったんじゃないか。何もかも呑み込んでは恰好良すぎる。恰好良すぎて息がつまるよ。襷を受けた方はたまらん」
「樋口さんは、そこまで計算しましたかね」
「そうでないと願いたい ― 」
「もう、現場には戻らないんですか?」
 上村教官は、あの時の責任を取らされていた。それでも、資質を考えればいつでも戻れたはずだった。
「ああ、もう戻るつもりはない。良くも悪くもあれ以上の現場は私にはない。今更戻って晩節を穢したくはないよ」
「あの出動の記録を改めて読み返しました。御厨さんの姿を発見してから、死亡確認、SAT隊との折衝まで、記録上はたったの5分足らずでした」
バックから用紙を渡す。

10:36 狙撃者発見。既に自決を敢行。頸部左側に創傷。大量の出血が見られる。
小隊長より目標の死亡と判断。他テロリストの検索及び現場保全の為、出入り口の死守。
10:37 現状の維持
10:38 SAT隊の到着。現場の指揮権について折衝。警察指揮権の優先度の主張あり
10:39 均衡状態
10:40 均衡状態
10:41 衛生士、他テロリストの存在を忌避。第2小隊の作戦行動を解除。指揮権を
SATに移譲。

 上村教官が思わず吹き出す。
「なんだ。衛生士が危険性の忌避とは」
「それは・・」
「いや、私のせいだよな。分かっているよ」
 あの時、何回、M4カービンのハンドルを持ち直しただろう。ヘルメット越しに汗も拭えず、バカみたいに安全装置の確認と、いるはずもない敵のサーチングで首を振りますことだけだった。やることはそれぐらいしかなかった。上村教官は直立不動で、屹立していた。全体を常に見回して。
 上村教官は、目線を遠くに外した。そんなに短い時間だったのか、と思ったはずだ。あの場所を共有した人間は、皆、同じリアクション。あの時を思い返す。
「あの時、あの場所に居合わせた人間は、何を思い、何を感じていたのだろうと、今になって痛切に感じるんです。月日が経てば経つほどに、思いはますます強くなってきています。今時分で、一つの解はでているんですが・・・」
「今時分は?」
「意味を探り続けているんです。無意識に。無駄にしていけない。命がけで先輩方や先達が連綿としてこの国の在り方を示そうとしてくれた。それこそ、もったいないおばけがでてきますよ」
 めったに笑わない上村教官が、失笑する。緩んだ口元に白い歯がこぼれたが右側の隙間は暗がりしか見えない。
 あの時響いた鈍い音の正体は、歯を噛み砕だいた音だ。教官は、自らの右の下あごの奥歯3本と上顎3本を食い縛り砕いていた。顎も骨折していたと思う。相当量の出血と痛みだったはずだが、あの瞬間は誰も気にする余裕もなく、誰一人悟られていなかった。全ての理不尽を己の歯に集約したのだ。現場のマンションから降りたあと、隊長はほんの数分であったが物陰で隠れた。聴いていない事で皆と示し合わせていたが、何と言えない嗚咽と慟哭を全員が耳にしていた。佇んだ場所には歯と血痕は踏み潰し土に埋められていた。私たち下士官が只々感情的に狼狽している時に、誰より悔しい思いをしていたのだ。
 部隊長は何があっても感情を制御せよ。3人の先輩が異口同音に伝えた薫陶であった。その恭順こそが教官の最後の返答だったのだろう。
「君から『おばけ』なんて言葉が出るとは思わなったよ」
「実際の戦場に立ったとしても、あれ程苦しい事はないと思いました。まだ、生きるか死ぬか、という単純明快な理屈だったら、もっと割り切れたと思います。誰にも大義があり正義がありました。上村さんとっても同じように上官であり、大学校の先輩であったんです。まるで家族同士で殺しあっているのに、指を咥えるしかないこどもみたいな・・・」
「嫌なたとえ方だが、まさにその通りだったな」
「こどもにとっては、辛辣この上ないですよ」
語気が強まってしまった。
「我々の正義は祖国防衛と伴う命令遵守だ。死地に飛び込めと言われれば飛び込む。これが任務であり、絶対だ。もう民間人の君には縁のない話だが」
「もし、何かしらこの国を脅かす不届き者がいましたら、昔とった杵柄。勿論、戦いますよ。差し違えても」
「ありがとう。何よりも有難い言葉だ。俺は育てるよ。新しい防人たちを。それが育ててくれたあの人たちへの餞(はなむけ)なんだと信じている」
「私も、青臭く正義というもの正体に、付かず離れず迫ってみようかと思います」
「何を残していったのだろう・・・」
独り言のように上村教官は空を仰いで呟いた。
私は確固たる意志で返答する。
「自衛官として」
数秒の間をおいて訂正する。
「人としての矜持を持って、この国を守ったんです」
上村教官は、そのまま空を見上げていた。


「そのバイク、まだ乗っているのだな」
 懐かしそうに跨った私に目をくれた。
「御厨さんから頂いたものですから」
「そうだな。大切なバイクだな」
「ええ、大切なバイクです」
 フルフェイスのヘルメットをかぶり、そのまま一礼。キーを回し、スタートスイッチを押すとエンジンが鼓動にも似た拍子で律動する。もうむやみにふかしたりしない。
 後方の安全確認。再度敬礼し、クラッチレバーを握り、シフトを1速にいれ、ゆっくりと門を出る。
 学生時代、休みの日に歩いた歩道を横目に、ギアあげてスピードをあげる。丘の上から見える横須賀湾が青空を写し、眩く輝いていた。


なんてきれいな青い空

なんてきれいな青い空

震災でメルトダウンした原子力発電所の収束のため駆り出された自衛隊特殊部隊隊員が被曝した。復帰しない部下の動向を探った上官は、秘密裏に人体実験まがいに生かされている事実を突き止め、国の権力中枢の陰謀に辿り着く。部下の復讐と陰謀の暴露の為、近接戦闘のスペシャリストである上官は再稼働された原子力発電所を単独で占拠する。秘密部隊として海外紛争地域で実戦を潜り抜けて来た上官は、警察機構のテロ対策部隊をことごとく退ける。政府は再び秘密裏に処理しようと、秘密部隊の同僚である戦略と狙撃のスペシャリスト二人に上官の排除を命じる。冷却機関に爆弾を仕掛け籠城し、テロリストとなったかつての戦友に、命を受けた二人が立ちはだかる。

  • 小説
  • 長編
  • 冒険
  • アクション
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-27

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