水色の日

 静かな夜である。いつも子犬のように跳ね回って遊んでいる息子は、ボーイスカウトのキャンプイベントに出ていて明日まで家に帰ってこない。妻は友人宅に寝泊まりするという旨の書き置きを玄関に残したまま、既にどこかへ出かけていた。
 今、暖炉の明かりだけが灯る薄闇に包まれたリビングで、私は見ず知らずの男と対面している。尤も相手の方はと言えば、先ほどから私との関係を古くからの友人であるとばかり主張している。そんな奇妙なことがあって良いのだろうか?私も、もう初老に差し掛かるような年齢であるとはいえど、長年寄り添った友人の顔をさっぱり忘れてしまうほど耄碌しているわけではない。記憶のどこかに彼の顔の残像が残っているということも無い。全く覚えにないのだ。
 「……まあ。君がそう言うんなら、いいだろう。覚えていても、覚えていなくとも、大した問題ではないさ。友よ」
 暖炉の炎が彼の左半身だけを揺らぎながら照らしている。その表情は笑っていると思えばそう見えるが、悲哀に歪むようにも、静かな怒りを抱くようにも見える。錯覚のようなものだろう。
 そもそも、私はいつからこの男とこうして対になって腰掛けているのだろうか。記憶を辿ってみても、その始点はどこにも見当たらない。今に至るまでの過程も全く抜け落ちている。まるで私と彼がこうしてソファに座った状態からこの世界が始まったかのように、日常から隔離された感覚が意識を支配している。
 「……なにか飲むかい。酒はあいにく切らしていてね。紅茶ならいくらでもあるんだけど……」
 どうして見ず知らずの男に飲み物を勧めるのか分からないが、家に来客がいればそうしてしまう。くせのようなものだ。
 「いや、なにも要らない。それよりも、話の続きが聴きたいよ。荒唐無稽だが、実に興味があるね」
 話とは?私は彼に何かを語っていたのだろうか。もしもそうならば、なぜその記憶は今に持続していないのだろう。
 「話って……」
 「さっきのさ。人々が泣いた日の話……だったか」
 泣いた日……人々が、誰も、彼も……皆。そういえば、と暖炉の火を見ながら思う。それは紛れもなく私の頭の中に存在する映像だった。だがもう昔……私はその時まだ幼い少年だった。
 なぜ、私はそんなことを彼に語ったのだろう。実に数十年もの間忘れ去っていた記憶だ。なにかの折に不意に蘇ったこともあったように思うが、幼い日の白昼夢に過ぎないと思ったきり、今の今まで他人の思い出の如く脳裏によぎることすらなかったことだ。
 あれは、では、本当にあったことなのだろうか……。今再び思い返すと、当時の鮮明な様子が、確かな筋を辿って色づいていく。
 「あれは……小学校の帰りに起きたことだ」
 自分でも意外なほどいつになく嗄れた声で、私はそろそろと語りだした。男は白い顎髭に手をやりながら、心持ち前のめりになって、話に聞き入り出した。
 「……そのことを除けば、何の変哲もない極めていつも通りの日さ。私は友達と一緒に帰るような習慣がなかったから、一キロ程度の道を一人で帰っていたんだ。私は誰よりも早く下校するから、他の児童に会うこともなかった。学校を出てすぐの辺りに、よく噂になっている古い家があってね。板張りの白い壁が見事に黒く汚れていて、庭は虫の触角みたいな奇妙な雑草で一杯なんだ。屋根の上の風見鶏は、風が吹いても動かずにいつも北を向いていた。子供達の間では、いわゆるお化け屋敷の扱いだったんだよ。そしてその家には、やはり魔女めいた老婆が一人で住んでいてね。これがまた不気味なんだ。二階の窓からこちらをじっと見ていたりとか、何度も玄関と郵便受けの間を行き来したりしてね。家の前を通ると、枯れ草のような白髪の隙間から充血した眼を向けてくるんだ。避けて通る子も少なくなかったらしい。
 私もその家が苦手で、通るときにはいつも見ないようにして歩いていた。だけど、その日は違ったんだ。その日の彼女は格段に違っていた。私は家に差し掛かったとき、強い違和感を覚えた。子どもながらに哀愁めいた気配を感じたんだ。見ると、彼女が玄関の前で椅子に腰掛けて本を読んでいた。それがあまりにも不自然でね。彼女にとっては、奇行こそが平常な姿だったはずなんだ。それがいかにも未亡人らしく、年寄りらしく椅子に座り、読書している。私はそのいつにない寂しさに見とれて、思わず立ち止まっていたんだ。
 そのうち、彼女はろくに文字を追いかけていなかったかのように静かに本を閉じた。それから鳥か何かを見つけたみたいに曇りの空を見上げて、見上げたまま立ち上がった。そして、今にもばったり倒れて死んでしまいそうな危うい足取りで、雑草だらけの庭に何歩か踏み出した後……空を仰ぎ見ながら、涙を流したんだ。
 眩しそうに細めた目から涙が零れて、乾燥したしわだらけの頬に二筋の潤いを与えていた。彼女は声も出さずに泣き続けた。時折小さな呼吸の音が聞こえて、それがいかにも悲哀に満ち溢れていた。
 やがて彼女は私が見ているのに気がついた。私は逃げようとも思わず、じっと目を合わせていた。彼女は泣き笑いのような表情で私の方に歩み寄ると、ゆっくりと手を伸ばして、まるで孫のように私の頭を撫でたんだ。そして彼女は私に顔を近づけ、嗄れた微かな声で言った。
 『そこにいたんだね』……確かにそう聞こえた。そうして彼女は鼻を啜りながら戻っていき、置いてあった本を手に取って家の中に入っていった。
 その日は外に出ている人が少なかった。閑散とした町の中で、全てのものが淡く見えた。私は老婆の言葉を反芻しながら家路を歩いた。その途中で、また人が泣いているのを見たんだ。
 こじんまりした紺色の木のガレージの前で、地べたにしゃがみこんだ壮年の男が酒のボトルを片手に泣いていた。さっきと違ってはっきりと声を洩らしていて、目を覆うように片方の手で顔を押さえていた。
 寂しさを感じたというよりも、何か大事な人を失った男が泣く姿のように見えた。家族や、友人や、或いは恋人を失くしたような激情に駆られたような泣き方だった。この男は、休日にはよくガレージの中でバイクの整備なんかをしていた。何物にも囚われず趣味に生きている、という風の人間だった。それがその日だけは、この悲しみの町の色にすっかり染まってしまっていた。私はいよいよ不思議に思った。
 そこからしばらくも歩かないところには、赤い軽自動車が止まっていた。避けて通ろうとすると、運転席に座った若い女が、やはり泣いていた。ハンドルを何度も強く握り直したり、大きく仰け反ったり、全身でもたれ掛かったりしながら、身体中の悲しみを絞り出すように泣いていた。ヒステリック……というよりかは、女性らしい純粋な泣き姿だった。
 そもそも、私はそれまで大人が泣く姿を見たことなんて一度も無かったんだ。それがあんなにも悲愴的に泣く人々の姿を目の当たりにすると、まるで深くて冷たい洞穴を覗いたような気分になった。その洞穴の中で何人もの大人達が、小動物のように孤独に震えながら泣いている。私からしては、だいたいそういう感じだったと思ってくれればいい……」
 ここまで話して、私は暖炉を見つめるのをやめて男の方に目を戻した。男は顎に手をやったまま目を閉じていた。眠ってしまったのかと思ったが、男の口元をよく見ると端が上がっていた。話を面白がっているのか、何か良い夢を見ているのか分からないが、いずれにせよ私は火の弱くなった暖炉に顔を照らしつけながら話を続ける。これは私自身が今まで抱いてきた不可解の為の回想だ。思えば少年のあの日から、冷たい氷のような塊が胸の隅にそっと置かれたような気分がしてならないのだ。
 乾いた音が響いて、暖炉の薪が割れた。梟の鳴く声が窓の外の闇から響いて聞こえる。
 「……運転席の女はひとしきり泣いた後いくらか落ち着いて、ため息を一つか二つ吐き出した。それから、ずっと私に気がついていたのか、こちらに少し困ったような顔を向けた。そしてわずかに微笑んだ。……恐らく微笑んだのだと思う。一筋だけ頬を伝った雫を拭うと、彼女の車は走り去っていった。
 彼女が去った後も、どこからともなく聞こえてくる人々の泣き声は止むことはなかった。何せ誰もが皆泣いているんだ。ただ、子どもを除いて。尤も、私以外の子どもはほとんど見かけなかったのだが、誰もいなかったわけではない。いつもなら会わない他の児童たちも幾人か追いついてきた。
 しかしながら、誰もこの異変には気がついていない。酒のボトルを片手に泣く壮年の男も、すぐそこの家から聞こえ始めた女の泣き喚く声も、水の底に沈んでしまったような町中の景色も全て別の世界の出来事であるかのように平然と歩いている。
 私の家の近所には、立派な芝生の庭を持った家があった。その庭では幼稚園児くらいの小さな男の子が三輪車に乗って遊んでいた。彼もまた大人達の変化には何の反応も示さなかった。だが、彼にももちろん母親がいて、その母親はもちろん泣いている。彼の母親は玄関前の階段に腰掛けて、息子が無邪気に遊ぶ姿を眺めながら涙を流していた。私にはまるで子どもか母親のどちらかが幽霊のように見えた。そのくらい二人の間には次元の壁とも言うべき違いを感じたんだ。
 しかししばらくの後、母親が立ち上がって子どもに歩み寄り、彼を両腕で抱きしめた。まるで数年間も生き別れた末の再会のようだったが、子どもは突然のことに対応出来ず、ただ母親に心配そうな目を向けるだけだった。
 帰宅すると、私にも全く同じ待遇が待っていた。玄関のドアを開けると、中はとても暗かった。リビングからはくぐもったラジオの音が聞こえた。薄闇の廊下を渡り、恐る恐るリビングを覗くと、母さんが一人掛けのソファに深くもたれるように座ってすすり泣いていた。その様子はあの日見た中で何よりも私の心をひやりとさせるものだった。母さんはいつも静かだけど、根はとてもしっかりとした性格だった。祖母が亡くなったときも、私の前では葬式の場ですら涙を流すことはなかったんだ。少なくともすすり泣きが似合うような人ではなかった。
 私の方に向けられた母さんの顔は、化粧も崩れていつもより倍くらい老けて見えた。母さんは部屋の入り口に立った私を抱きしめると、嗚咽混じりに一層大きく泣いた。私は聞いた。
 『どうして皆泣いているの?』と。すると母さんは『悲しいからよ』とだけ答えた。……それから、私は母さんに添われて眠ったきり、夜まで目を覚まさなかった。
 夜には何もかも元通りだった。母さんはいつものように家事をこなしたし、仕事から帰ってきた父さんも普段と何も変わらなかった。明日には町中の全ての人々が昨日や一昨日と同じ暮らしをしていた。近所の親子は庭でシャボン玉を吹いていたし、壮年の男はガレージでバイクをいじっていた。そしてあの古い家では老婆がいつも通りに郵便受けと玄関との往復を繰り返していた。学校でこの話題を持ち出しても誰も知っていなかったし、さして興味も持たれなかった。私も成長するにつれて、現実を見る目ばかりが育ったんだろう。それに従ってこの記憶もいつしか頭の隅の方に追いやられてしまった…………いや。
 今更こう言うのも何だが……やはりきっと夢なのだろうな。たぶんこのことを思い出す度に、最後にはそう結論して終わっているんだ。私以外の誰も気づかない現象なら、原因は私だけにあったということだ。……それは夢でも幻覚でも何だって良い。精密に出来上がった妄想なのかもしれない。いずれにしても、こんな異常なことはこの世にあり得はしない。……もうすっかり夜も更けてしまった。そろそろ眠ろうじゃないか」
 「いや……案外本当のことかもしれない。それに、少なくとも僕は異常だとは思わないね」
 意外な言葉だった。男は暗い部屋のどこかに顔を向けて続けた。
 「その一日以外の全ての日が、本当に異常なんだ。君が見たのは真に正しい姿、この世にあるべくしてあった人々の姿だった。その日こそは何もかもが正常で、その後はずっと皆どうかしてるんだ。……そう考えたことはないかい?友よ」
 そう問われて、私も暗闇の方に向けて顔を逸らした。暗いリビングの壁際に目を凝らすと、そこには随分昔に海岸で撮った家族の写真が、貝殻の装飾を施して立てられていた。近づいてよく見ると、それは実に良い写真だった。妻も息子も、それに私も、とても良く笑っている。まさに照り輝くような笑顔で満ちていた。
 「……私は、あまりそうは考えたくないな」写真を見つめながら、私は言った。
 「いつかああいう日が本当に来るのかもしれない。だけど、私だけはまた……いや、私達だけはまた同じように、正しい姿のままいられると思っている。この胸の氷のような塊がいつの日か溶けて溢れ出たとしても、それはきっと温かさによるものだ。……そうは思わないか?」
 「全く、君には何を言っても敵わないな。とっくの昔からお手上げだよ……さようなら。僕の古き友人……」
 写真を元の場所に戻して振り返ると、男がいたソファにはもう誰も座ってはいなかった。
 私は部屋の明かりをつけて、キッチンへ向かった。
 今日の昼頃には妻が息子を連れて家に帰ってくるはずだ。たまには私が、ちゃんとした昼食を作って待っておいてやるのもいいだろう。
 コンソメスープの良い匂いが漂う。部屋はもう明け方の澄んだ空気に包まれていた。

水色の日

水色の日

夜。暖炉の前に腰掛けた「私」は、見知らぬ男にある不思議な一日の記憶を語り出す。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-27

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