ラム キャンディス

けれども、永遠に届けるつもりはない。

夜。21時。

キッチンがチョコレートの甘い香りで充満している。


---そして、今日は……ラムを。
砂糖漬けのラム酒の瓶を手に取る。

砂糖だらけのこの酒のアルコールの度数は4.6%。軽く酔える良い度数だと思う。

瓶を開けて鼻を近づける。熟した果実のようなラム酒の香り。ふと彼の顔が浮かんだ。


あの顔、全然タイプじゃないんだけど……少し苦笑いしながら、とろり。少しだけスプーンですくいチョコレートに混ぜ目を瞑り祈る。


どうか彼が私だけのものになりますように、と。目を開けスプーンに残った液をペロリ。ダメだと分かりつつ一舐めするのは、もう癖だ。



チョコレートを小さなショコラの形にしたあと、一つ一つ丁寧にバットに並べ、冷蔵庫に入れる。


やっぱり我慢できないな……とまだ形になったばかりの未完成のショコラをこれまたダメだと分かりながら口にする。未完成のものを口にするのは美味しくないと分かっていても、これももう癖だ。いけないことを少しだけするのは癖になる。

未完成のショコラは舌の体温ですぐに溶けて消えていく。ふわりと甘いラムが香る。どうして酒の効いたショコラはこんなにも官能的なのだろうか。うっとりしながら少し欲にうずく。声を聴きたい、会いたい、肌に触れたい、今すぐ彼の愛が欲しい。そう思うのは、たった一さじの酒に酔っているからか?

お菓子で使うお酒は媚薬だと思っている。きっと口にした瞬間、彼は私の事だけを想い私だけを見つめるだろう…。そんなロマンティックな考えで、どんなものにも必ず一さじ隠すように垂らしておく。



でもこれは、届けない。この媚薬入りのショコラを食べるのは彼ではない。



時計を見る。22時30分。そろそろショコラもいい頃合いになり、そして彼が家に帰る頃だ。
そして、

「ただいま」

そして、夫も。



「おかえりなさい。お疲れ様。

ねぇ、今日のお楽しみは、ショコラです。」

笑顔で出来立てのショコラを指でつまみ、夫の口にいれる。

「うん。美味しい」


嬉しそうに二つ目のショコラを食べる夫を横目に、小さなボックスにショコラを入れ真紅のラフィアをかけてラッピングをする。これが私の日常。夜遅く帰宅した夫に甘くて高カロリーのものを食べさせるという不健康極まりない、妻失格かもしれない日常。ラッピングするのは友人に贈るからだと言う。


「世梨香、いつもありがとう。」

首にキス。可愛いキスだな。と思う。


私たちはお互い二十歳で結婚し、かれこれ10年の結婚生活。子どもはいない。予定も永遠にない。

夫のスーツを整え、クローゼットになおしながら思う。


夫は何も気づかない。
これでいい。気づかなくて、知らなくていい。何も。

ラッピングしたショコラが目に入る。

本当に疑いもなく何食わぬ顔で食べ続けてくれる。あの人を想って、本当はあの人に食べさせたくて作り続ける、あの人のためだけのショコラ。


私は他の男を想って作ったお菓子や料理を夫に食べさせ続ける。毎日毎日。



出来上がったショコラもやっぱり官能的だったな……
愛し合っている時の口づけのように溶けるショコラ。これは私の願望か?ふと彼を頭の中で想像し遠くから観察する。彼の顔も態度も姿勢も、仕事も、何もかも私にとってベストではない。むしろ嫌いなタイプの男だ。


ただ……


うつむきがちに少しだけ笑った時の顔が、どうしてだか忘れられなくて、その日私は、彼の特別になりたいと思った。



けれども私はこの安全な地位と領域と自由な人生を、壊す勇気も、その気もない。甘いものが好物だと言った。このショコラは彼にとって効くだろう。致命傷だ。私だけを見つめ、欲しい言葉を囁いてくれるだろう。同時に私を壊す毒になる。私と、私の正しく清らかな、守りたい世界を壊す甘い毒に。


どうしてか?彼も私を愛しているからだ。



---なんてね。少し笑えた。さぁ妄想はやめて、夫のもとに戻ろう。もう23時だ。

ふと『あなた気持ち悪いわ』と心の中のもう一人の私が言った気がした。

種も仕掛けも無い


25時。妻は寝た。静かな深夜に一人、ゆったりと湯船に浸かるのが好きだ。


今日のチョコレート菓子は、不味かったなと思いながら、ふと、さっきTVで見たマジックショーを思い出し、
種も仕掛けもございません、と呟く。


---種も仕掛けもございません。



妻の世梨香と結婚し、もう10年になる。早いものだ。

二十歳の時に籍を入れた。幼少からの付き合いで自然と一緒に居て結ばれた。家も近く、両親とも仲が良く、反対はしなかった。



デート中に立ち寄った本屋で『私たち”運命の人”同士なのよ』 そういったのは世梨香だった。”話題!当たる!”とポップがつき平積みしてある分厚い誕生日占いの本を嬉しそうに開くので、仕方なく目をやると”運命の人”という項目にはお互いの誕生日の記載があった。占いは信じない僕だったが、”力になってくれる人”という項目に信頼している友人の誕生日が乗っていたので妙に納得してしまった。その日、僕らは結婚することにした。普通の家庭に憧れていたので、それを築くために若いうちに子供が欲しかった。前向きで明るい家族計画のためにひたすら愛し合った。

種も仕掛けもございません……か。

僕には種が。妻には仕掛けが。

自分が無精子症だとは思いもよらなかった。同時に妻も、着床障害だった。順風満帆な結婚二年目の春。僕は目の前が真っ暗になったが、『女は出産しない方が若いままでいられるらしいわ。』と世梨香は小さく笑いながら現実を納得させていた。誰を責める事もできず、それから狂ったように愛し合ったが、すぐに諦め、落ち着いた。何も変わらなかった。妻は変わらず僕のために仕事をセーブし、栄養のある食事を用意し、温かく清潔な家を保ってくれている。シンプルな生活の営み。僕の理想の家庭だ。

ただ…二年前のいつの日からか世梨香は不味いお菓子を作る様になり、僕が帰宅するなりそれを食べさせるようになった。不味いというか、甘すぎて、食べていて何だか苦く感じる。今日のはこの前買っていた質の良いクーベルチュール・チョコレートも使っているはずだし、レシピも見ているはずである。彼女は砂糖を愛しすぎているのか入れすぎる癖がある。あとは洋酒効きすぎている気がする。多分、僕の嫌いな洋酒。

それでも美味しいと嘘をつくのは、この世界を壊したくないからだ。

風呂から上がり、ふとテーブルの上のラッピングされたチョコレートに目をやる。


誰に渡してんのかな、あれ。


誰に渡しているか聞く気もないが、貰う人も不味くて不憫だなと思った。

冷蔵庫から彼女の不味いチョコレートを取り、一口かじりながら。

ラム キャンディス

結婚ってなんでしょうかね?

ラム キャンディス

他の男を想って作った手料理を夫に食べさせ続ける妻。小さな嘘をつき続ける夫。 種も仕掛けもない夫婦の、守りたい平穏な日常。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-26

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  1. けれども、永遠に届けるつもりはない。
  2. 種も仕掛けも無い