夕陽が沈む
過去を思い出す事とは、こんなに難しいとは思わなかった。
朝もやの中に居るようで、見透視が利かない
物事が前後して辻褄が合わない、それが記憶なのだろう
手さぐりで、朝もやの向こうにいる過去の僕まで戻って、
今の僕まで歩いてみようと思う。
「少年 健」 1 出会い(連載1)
初老期を迎えた男が異性との付き合いを通じて大人になって行った自分を振り返りながら霧の中にある記憶をたどる
「少年 健」 1 出会い(連載1)
過去を思い出す事とは、こんなに難しいとは思わなかった。
朝もやの中に居るようで、見透視が利かない
物事が前後して辻褄が合わない、それが記憶なのだろう
手さぐりで、朝もやの向こうにいる過去の僕まで戻って、
今の僕まで歩いてみようと思う。
僕は、この「静」と呼んだ女性に初めて出会ったとき、過去に出会った事が有ったようで、他人の気がしなかった。総武線と中央線が下を走る。いや、今は地下の大江戸線も走る。
最近は、首都高速の山手トンネルも走っていると聞く、山手通りの通称「陸橋」付近は僕が生まれ育ってから高校生になる頃までは、今とは大違いで、冬の日の夕暮は車のヘッドライトを灯けていなければ、前方確認など到底出来ないくらいに暗かった。
その交通事故が発生したのは昭和40年。クリスマスにはまだちょっと間のある12月に入ってすぐの頃だった。
前年の昭和39年には「東京オリンピック」が有り、「新幹線」が開通した年だった。
ミニバイクを走らせて、中学時代からの友人「努」君の住むアパートに向かっていた高校三年生の僕「池田 健」は、前方に客を降ろそうと左に寄り停まったタクシーを確認しながら、そのグレー色に見えたタクシーの右側を追い越しつつ、前に出ようとしていた。
すると、突然左の太ももと足首に何かがぶつかったような、急に痛みを感じながら、僕の乗ったバイクは横倒しになった。当然の事ながら僕はオートバイから放りだされた。
今、思い返すと、タクシーは客を降ろすのではなく、お客を乗せようとして左に寄って停まったのだ。
僕は、まさかすぐに発車するとは思ってもいなかったわけだったから、避けようがなかった。
この事故がその後、僕の人生の大半に係わってくるとは、その時の僕は知る由もなかった。
タクシーの運転手はすぐに降りて「救急病院は近くに有る?」と聞いてきた。
僕は左足首と太ももに痛みを感じながら、この中野では、誰もが知っている「大原病院」と、痛さを我慢しながら答えた。
この「大原病院」は、地下鉄丸ノ内線の中野坂上駅から四、五分の場所に位置する、木造二階建てのちょっと古びた
個人病院だ。
大きな病院には無い下町風情の人情味の有る病院で、一階入り口の木製両開きドアーを開けると、ガラスがはめ込まれ
ているそのドアーはぎしぎしと音をたてながらガラスの響く音をも誘った。当時の医院や病院の特徴であったクレゾール
液の匂いがした。
一階の中央を左右に廊下が走り、正面が待合室で、その廊下の両側には一般の通院患者の診察室や、各種検査をする部屋が並び、待合室に左に有る階段を上がると、二階が入院病棟になっていた。ベッド数は30から40程度だったか、思い出せない。
僕は傷口から大分出血はしていたが、左太ももと左の足首に痛みを感じる程度で、念のため病院へ行った方があと後良いか、くらいに考えての病院行きだった。
当直医は確か小児科の医者だったような記憶が有る。小柄で終始ニコニコしていて親しみを感じた。
その医師の判断で、とりあえず応急処置をして入院することになった。
病室はスリッパに履き換えて、階段を上がってすぐ左角の部屋で二人用だった。
隣のベッドは空いていて僕一人で、何も知らない僕は戸惑いを感じて不安で仕方がなかった。
翌日、外科医の診察で、二週間程度の入院が必要と診断された。
この外科医は背が低く小太りで黒ぶち眼鏡をかけ白衣の前ボタンは外していた。
無愛想で患者よりも自分自身のやり方が絶対だとの感じがしたが、後で考えて医者が愛想をよくする必要は無いわけだから僕が間違っ得いたのだが、それにしてもあまり良い医者だとは思わなかった。
僕は好きな落語家が噺のまくらで、小児科の先生が産婦人科で妊婦を診察する、という話を思い出して、内心にやにやしていた。
年が明けると卒業となる僕は、大学の付属の高校へ通っていたのだが家庭の都合も有り進学は諦めて大学生になれない事を、自分自身に納得せさていた。
卒業後は義兄が副社長をしている会社へ、就職も決まっていた。
そんな気楽さも手伝ってか、自分の時間を楽しむかのような入院生活となった。
昼間は好きな本を読んで過ごした。この頃は乱読で、これといったお気に入りの作家とか本は無かった。その後の読書好きはこの入院生活が有ったからかも知れない。
夕方になると、同級生が見舞いに来てくれるのが待ち遠しいくらいに、楽しみだった。
特にセーラー服の女子高生達が来てくれるのが、欲求を外に求め始めた僕にはたまらないくらいな思いが有った。
初めて恋心を抱いた「小松美紗子」が来てくれると気分は高揚した。
時代は今と違って、若者がたむろする場所が少なかった事も有ったのだろう。だから僕の病室は夕方からは、華やかだった。
小松美紗子は二つ歳下。友人「宏」君の、妹のクラスメートで細身の色白、髪は少し茶色でいつもポニーテールにしていた。
話にうなずくと、そのポニーテールが揺れていい香りがした。
僕を含めて、恋人が欲しい歳周りだから「見舞い」という名目で、男子学生が集まる場所は有難かったのだろう。
今思い起こすと、毎日来てくれたような気がしてならない。お見舞いのお礼に、姉が用意してくれたハンカチのセットを、この美紗子に渡した時
「嫌いなの?ハンカチは別れるときに渡すものよ」と言われて、その時はそんな気持ちで渡したのでもないのに僕は、姉に文句を言った。
その時から美紗子はツンとしていて、僕の恋心は冷めてしまった。
あんなに好きだったのに、なぜだろ?人を好きになるとはどうゆう事なのだろう。僕は人を好きになる事など全くわからないでいたようだ。
入院中、僕の世話をしていただいた「付添看護のおばさん」は、さぞかし若いころは美人であったであろうと思わせる細身の熊本弁を使う、気さくな人だった。
たぶん今の僕の歳、60歳はとっくに過ぎているように思えた。細身でいつも割烹着を着けていて、僕は会う事が出来無かった祖母を思った。
話の途中に「バッテン」などと方言が入ると、東京育ちの僕は地方に遊びに行ったような、そんな感覚が有って新鮮だった。
このおばさんは夜、当然僕の部屋に寝るわけで、いろんな話をした。戦争でご主人を失くして、女手一つで二人の子供を
育てた。なんて話は、僕の涙腺を緩めた。
そんなおばさんを慕うかのように、昼間は若い看護婦さんが入れ替わり立ち替わり、僕の病室へ出入りしては、噂話や相談に乗ってもらっていた。
茶目っけたっぷりだった僕は、看護婦さんの美人のランク付けをして、そのおばさんと大笑いをした。
おばさんの話で、女の職場の微妙な環境も知り、大人の世界を垣間見たような、それはそれは楽しい時間だった。
太目の看護婦Aさんは、レントゲン技師のB君と同棲しているとか。婦長のCさんはD先生の愛人らしいとか。E先生は、
看護婦のFさんGさんとも出来ていて、それを知ったHさんと、看護婦寮で喧嘩になったとか。僕は現実の世の中の男女
の仲は、小説のようにおもしろく思えた。
看護婦美人ナンバーワンにランクした香山さんは、女優さんのようなオーラを感じる綺麗な人で女優の『山本陽子』に似
ていた。
この香山さんは間違いなく誰もが「綺麗」と、口にするような人だけれど、僕には美人特有の冷たい感じがした。
おばさんの話では、結構頻繁に私用の呼び出し電話が入るとの話だった。
でも、この香山さんは、僕には気軽に声を掛けてくれる、意外と可愛げのある人で、ただ単に綺麗なだけの人ではなく、
人柄も悪くはないなぁ、と感じていた。
もしかしたらこの香山さんは僕に、興味が有ったのでは?と今、自惚れて思う。
たぶんこの香山さんのおかげで、その後の人生で美人と話す機会が出来ても、変な緊張感を覚える事が無く、誰とでも
会話が出来たのは、この香山さんが親しく話し相手になってくれた事がそうさせてくれたのだろう、と、今でもふと思う事
がある。
この香山さんとは、少し距離を措いたいい仲間意識を感じた事が何度か有った。
もしかしたら僕は、この綺麗な香山さんが、好きだったのかも知れない。
ナンバーツーにランクした戸田さんは、付き添いのおばさんの話では、近くのお煎餅屋さんから「息子の嫁に」と言われるくらいの
「年寄り受け」する人で美人ではないが、いや、今から思い返すと、和服の似合いそうな、小柄でスレンダーな素敵な人
で歌手で女優の倍賞千恵子に似ている美人だった。
髪の毛はいつもポニーテールのようにしていて、そのポニーテール風の頭に看護帽が妙に似会っていて素敵だった。
倍賞千恵子に似ていると言ったのは、その戸田さん本人だった。
僕が「ねぇ、戸田さんは誰かに似ている、誰に似ているって、言われる?」と聞いたときの返事だった。
「倍賞千恵子。似ている?わたしぃ?」と人差し指で自分の鼻を指した.。
この戸田さんは、私と言う時に「わたしぃ」と、しの後に「小さな、い」が入るようにしの子音が少し長いのが特徴の言い方をした。
いや、それは、だいぶ後に気がついたのだ。
例えば「大きいしぃ」「小さいしぃ」と大きいし、小さいしとは言わなかった。
都内へ出来て間が無いのか、出身地の方言が抜けていないのかなぁ、と聞き流していたが「わたしぃ」が快く僕の耳に
響き、なんとも言えない
甘えたくなるような、温かさを感じた。
おばさんに僕は、必要以上に、この戸田さんの事を聞いていたらしく、このおばさんから「戸田さんのこと、好きかぁ?」
と、突然聞かれた時はびっくりして
「えっ?どうして?」と聞き返した。
「戸田さんの事たくさん聞くバッテン、好きかぁ?と」
自分では気が付かなかった僕は、戸田さんが、病室に入って来たりして帰ると
「今日の戸田さんはお化粧を変えたのかなぁ、凄く若く見えたよねぇ」とか
「今朝の戸田さんは眠たそうだったけれど、大人の女性を感じて凄く綺麗だった」とか
「戸田さん、今朝は当直明けだったから今日はもう来ないね」とか、言っていたらしい。
戸田さんは、看護婦さんスタイルの白衣を着ていると分からないのだが、この人はたぶん間違いなくタイトスカートを身に
着けると、足の綺麗な僕の憧れるような人のように思えた。その看護婦さんの白衣は腰のベルトあたりには絞り込むよう
なスタイルでは無く、胸からスカートの裾まで広がったようなデザインであった。
戸田さんは、僕を「高校の教師だ」と思っているようだと、聞いた時はおかしかった。
学生服やセーラー服を着た、高校生が沢山お見舞いにくるからだと、看護婦美人度ランクは確か5位で、僕より二つ上で、
笑い声が大きく、朗らかそうな佐藤さんから聞いた時はおかしくて、当分の間教師を装っていようかと思ったくらいだった。
この佐藤さんは、僕が「電気の延長コード」をお願いしたら
3メーターくらいの長いコードの端だけ持って、引きずりながら、部屋に入って来た時はおかしくて大笑いしてしまった。
教師と間違えていた戸田さんは、多分僕よりだいぶ年上なのに、いつも丁寧な言葉で、会話の最後は「です」とか
「そうですか」で終わる言葉を使っていた。
それは仕事での上司との会話のようだったと、僕は記憶している。美人ランクの3位と4位は誰だったか思い出せない。
美人度だから、基本的には「かわいい子」は入選していない。
思い出すのは僕より一つ下の、まだ准看護婦さんで、正看護婦さんになるために夜間の高校へ通学していた間宮文子。
僕は、僕より一つ下だと知った時から「チビちゃん」と呼んでいた。
姉三人の、末っ子に生まれた僕は「チビ」「おチビちゃん」と呼ばれていたので年下をそう呼びたいとの、願望が有ったのかもしれない。
だから「チビちゃん!」と気楽に呼んだのだ。
このチビちゃんは色白で小太りで、髪の毛はやっと後ろで束ねられるくらいの長さで、勉強の出来そうな、目元がキリッと
した顔立ちをしていた。
仕事を覚える為かいつも急ぎ足で、てきぱきとこなしているような足取りだった。
それは僕が病室のベッドに寝ていても廊下をチビちゃんが歩いているか判断出来るほどだった。
若くて、でも本当にお人形さんのように可愛くて、幼くて恥ずかしがり屋さんで、僕の好きなおとなしい「女の子」だった。
それでも僕が「チビちゃん」「チビちゃん」と呼ぶので、僕の事を「健ちゃん」と、呼んだ。この子は相当に思いきって、僕を
そう呼んだのだろう事が、わかった。
当時の僕は美紗子が嫌いになってから、年上の女性以外には全く興味が無くなっていたにもかかわらず、朝の検温に来た
チビちゃんに
「チビちゃん、退院したら映画見に行こうか?」と、デートのお誘いをした。
恥ずかしそうにうつむき加減で、目は僕の方をちらっと見ながら
「本当?うれしい、何処へも行った事ないの、病院と学校の往復だけ」
僕はわざとらしい驚きの声で
「学校のお友達から、デートのお誘いは?無いの?」
チビちゃんはかすれた様な小さな声で
「デートなんかした事ないもの、学校では話はあまりしないから」
僕は大げさな声で
「こんなに可愛い子をほっとくなんて、見る目ないね、チビちゃん約束だよ、デートしてね、友達に自慢しちゃうから」
「本当なの?健ちゃんは、誰にでもお誘いしているみたいで、怖いなぁ」と言いながら病室を出て行きそうになったので
「チビちゃん!お仕事、終っていないぞ!検温、検温!」
その頃を思い出してみると、そんな気も無いのに、からかい半分で、口から出まかせを言っていたようだ。僕はこの約束
は反故にしてしまったようで、今そんな記憶は蘇ってはこない。
あと数人の看護婦さんとも、気楽に言葉を交わす事も楽しかった。
男子校の僕は、この病院での女性との接触で、免疫が出来たようだ。
聞いてみると、病棟担当の看護婦さんの仕事は大変だ。
延長勤務があり、当直も有る。手術にも立ち会うらしい。
だから、日替わりでいろいろな看護婦さんと、話が出来る。
ほとんどの看護婦さんが僕より年上なのに、違和感なく接する事が出来たのは、やっぱり三人姉妹の後に、四番目の末っ子に生まれ
た環境が、僕をそうさせたのは、否めないだろう。また、小学生の頃、姉達の同級生が遊びに来たり、姉のお友達の家に付いて行った
り、そのお姉さん達と話をして、遊んでくれるのがとても嬉しかった事を記憶している。
患者の僕が外科から整形外科に移った頃、戸田さんに、手術の時に血液の代わりをする
「血ペイ」を見せてと、無理なお願いした。
すぐに走って瓶に入った白い粗目状の物を、わざわざ取りに行って見せてくれた。医学については、全くと言っていい程
知識が無い僕は、なんとか共通点を見つけ出そうと必死だったのだ。勝手に着物やタイトスカートが、似合いそうだなど
と空想するくらいに僕には特別な人に見えたのだろう。
ナンバーワンとナンバーツーの違いは何だったのか?この文章を書きながら気になっていたのだが、よくよく考えてみると、
ナンバーワンは誰もが認める美人なのだろう。ちょっと近寄りがたい存在で冷たそうな、そこへ行くとナンバーツーの戸田さんは僕
好みと言いますか、第一に親しみを感じ、優しさが雰囲気にも話す言葉の端端にも醸し出す独特の物を、僕に与えてくれたのだろう。
それに間違いは無かったと、今思う。
「少年 健」 2恋 (連載 2)
戸田さんは、最初に僕の病室のドアーを開けて入って来た時、確か入院の翌朝、検温に来た時だ。
寒い時期だったから白衣の上に、紺のカーディガンを着ていた。ベッドでまだ寝ていた僕の腕を持ち上げて、脇の下に体温計を
持って来た時に、気が付いた僕は、その手を強く握ったのだ。恥ずかしくもなく、握る事が出来た。不思議だった。嫌われたらど
うしようとか考えなかった。自然にそうなったとしか思えない。
「駄目よ!オイタしちゃ」と、やんわりと僕の手首を持って戻しながら戸田さんは、僕の寝ているベッドの位置まで、腰をかがめた。
その時、子供の頃を思い出させるような、戸田さんの良い香りがした。
戸田さんの手は暖かかった。
僕が年下だと知っていたら、違う言葉を言っただろう「ダメよ、僕!イヤーなぁ子ねぇ」と多分言ったと思う。
その僕の手首に残る戸田さんの手のひらの温もりと、鼻に残る香りは忘れられない。
その後、戸田さんにこの時の事を聞いたら「また、しょうがない男が入院して来た」と思ったそうだ。
僕は戸田さんの顔を、いや、目を見続けていたので、戸田さんは恥ずかしそうに、僕の目に視線を合わせたのだ。
僕は、なんて綺麗な人なのだと、素直に感じた。
戸田さんは何を感じたのか、理解が出来ないが、僕は何故か通じ合えるような気がしていたから、忙しい人に嫌がる事をして印象
付けて、このお姉さんのような素敵な美人と、親しく話がしたかったのだ。
僕は左足首が不自由なだけで、他は健康体なわけだから時間を見つけては、ナースステーションに顔を出して仕事をしている看護
婦さんと、いろいろな話をした。この病院のナースステーションは、患者が勝手に入ることが出来る、僕にとっては楽しい談話室だっ
たのだ。昔の木造の古びた下町風情はここにも残っていた。
看護婦さんは、手術の途中で食事をしたりする、なんて話を聞いたりすると、よく平気でいられるなぁ、と看護婦さんは普通の人とは
違う感覚なのだと、自分に理解させていた。その頃の大人に成り切っていない僕には新鮮で不思議な話ばかりで、どんな話でも興味
をそそられた。夜になると、ナースステーションには、いろんな事を言ってくる入院患者が沢山いて、僕には面白かったが、当直勤務
の看護婦さんが丁寧に応対していたのには感心したものだ。特に、ナンバーワンの香山さんに比べればナンバーツーの戸田さんの
方が親しさや優しさが沢山感じ取れて、僕には会うたびに若く綺麗になっていくように思えた。そんな事でナンバーツーの戸田さんと
気易く話をするようになっていた。
「眠れない、と言ってくる患者さんにはね、睡眠薬と言ってビタミン剤を注射しちゃうのよ」
とか、確か?僕の病室で話し込んでいた時に
「健ちゃん知っているぅ?昨日、救急車で運ばれた患者さんの事」
このころは、年下の高校生と知った戸田さんは、僕のことを、弟を呼ぶように「健ちゃん」と呼ぶようになっていた。
「重病?」
「そうじゃなくて、その患者さんね、電信柱の上でお仕事している人で、感電して運びこまれたの」
なんて噂話も、今なら個人のプライバシーの侵害だ
「初めて聞いた、で、その人がどうしたの?」
「頭に電気が流れて変になったらしくてね、私が病室に入ったらベッドの上に立ちあがってね、下着を下ろして・・・ナニを・・・・」
と言いかけて、さらに
「ナニを握って、犬の遠吠えのように吠えるのよ」
と続けた。ナニという部分は小声になって眼は僕の目から下へ落としていったのを、ベッドに座って聞いていた僕は、見逃がさな
かった。それを見て僕は「え?ナニって
おチンチンの事?」と、ちょっと困らしてやろうと、大きめの声で言いながら、戸田さんの顔を覗き込むように問いかけた。
「そうよ、ヤだぁ、健ちゃんたらぁ」と頬を染めながら、握りこぶしを口元に当てて睨んだ。
「子供だもん、知らないさ。ナニって言うの?看護婦さんは」
「まともに言えないからそう言うのよ。イヤぁな子ねぇ」
このイヤな子供、しょうがないなぁ、とでも言いたそうなそんな顔をしたのを見て、僕も負けてはいないぞ、こんな事も知っているぞ、
と
「看護婦さんはさ、手術の時なんていつも、そのぉナニ、おチンチンを見慣れているって言うじゃない。見慣れすぎていて、
何も感じないのかと思っていた」と、今の僕には冷や汗ものの質問をしていた
「それはお仕事だからでしょ。だから大丈夫なの。お仕事を離れたら、私だって結婚前の娘だよ。イヤぁな子ねぇ」
この「イヤぁな子ねぇ」は、僕を弟と意識している時に使うようになったが、大人同士の付き合いが始まっても長く聞く言葉
になった。
親しく言葉を交わすようになってくると、戸田さんの勤務が休みの日は、何か満たされないような、つまらない日と感じるよ
うになっていた。
「明日はお休み?」
「今晩は当直だから明日の朝は、当直明けだもの」
「つまんないの」
そんな会話をして僕は、本を読みながら満たされない時間を過ごすようになる。すると、夕方、寮へと続いているナースス
テイション脇の階段から、私服の黒のタイトスカートに紫色のアンサンブルになっているカーディガンを肩にひっかけて、
階段を上がって来てくれた時は、妙に嬉しかった。僕の想像通り、タイトスカートから出ている足は僕の好みのかたちを
見せてくれていた。
「明日は普通勤務だからね、おとなしく寝るのよ」と優しく声を掛けてくれた。
わざわざ僕の為に来てくれたのかなぁと、今考えると不思議な気持ちになる。
楽しい?入院生活も終わり、退院の日に病院の職員やもちろん看護婦さんもそうだけれど毎日顔を合わせていた入院患
者の方々からも
「又、遊びにいらっしゃい」と言われて嬉しかった。
それは挨拶の言葉だったと何年か後に知ったが、それをまともに受けて、後日、本当に遊びに行った。
話をいろいろ聞いてみると、僕は病院の人気者の一人でも有ったようだ。まだまだ寒い日が続き、多少足を引きずりなが
ら、最後の治療を受けに行った日に、もう記憶の中の思い出になっていた病棟へ、木製の多少音のする階段を上がった。
たまたま久しぶりに病棟の廊下で顔を合わせた戸田さんは
「あら!健ちゃん!良くなったのねぇ、おめでとう。今日、わたしぃ当直なのよ、ゆっくりしていきなさぁい」と
優しい言葉で歓迎してくれた。僕は凄く嬉しかった。久し振りで見る戸田さんはやっぱり素敵な笑みを浮かべる、優しい綺
麗な美人を継続していた。これも妙な巡り合わせで、戸田さんがその日が当直でなければ、再会することも無かったと思う
と、今になって縁がここにも有ったと感じる。夕食を、入り慣れたナースステーションで御馳走になりながら、楽しい会話が
続き、何か仕事を始めていた戸田さんの後姿に、僕はすまなそうに声をかけた。
「戸田さん、今日はありがとう、御馳走様でした。たぶんもう来ないから長い間お世話様でした。もう会えないのはさみしい
けれど、戸田さんお元気で」と挨拶をして立ちあがって後ろを向き、帰りかけた僕に、戸田さんの声が聞こえた。頭の中で
は「元気でね」「早く普通に歩けるといいね」という言葉をかけられるなぁ、これで皆さんとは会えなくなっちゃうんだなぁ、大
好きな戸田さんとも会えなくなっちゃうなぁと、寂しさを感じることばを用意をしていたのだが、その気持ちが吹き飛ぶような
言葉が聞こえてきた。
「ねぇ、健ちゃん!もう帰るの?お願いが有るのよ」
「お願いって?何?」
僕は一瞬で嬉しくなった。女の人にお願いごとなどされるのは初めてだったからで、しかも大好きな戸田さんからだ。
60歳を過ぎた今、遠い記憶をたどってみると、僕は子供の頃、いつも母の近くに居て台所仕事等をしている母の傍で、調
理方法をつぶさに見ていた。
包丁の使い方や食器の洗い方、使った鍋やフライパンの掃除の仕方など、見て覚えていたようだ。
見ていて母にお使いを頼まれると、凄く嬉しかったのを覚えている。父にタバコ等お使いを頼まれるとそうでも無かったの
に、母からの依頼はとても嬉しかった。母のお手伝いは楽しく嬉しいと感じていた。そんな嬉しさに似ていたのだろう。
「引っ越し手伝ってくれる?」と、言われて僕はびっくりして
「えぇえっ、病院辞めちゃうの?」と、僕は、「もう来ないから、会えなくなる」と、言ったすぐ後なのに、僕はかなり慌てた言葉
で、聞き返した。
「そうじゃぁなくてぇ、寮を出て一人暮らしするのよ」と言った。
考えてもみなかった言葉だったので、席を立ちかけた僕は、拍子ぬけして座り直した。僕はその言葉にびっくりはしたもの
の、嬉しくて笑みを浮かべながら
「もちろん!綺麗な戸田さんのためならね」
きれいな戸田さんと、平気で言えるようになっていた僕は、戸田さんの顔を見て距離がまた縮まったと、素早く思った。
「きれいだなんて、大人を冷やかさないのよ」と戸田さんはほほ笑んだ。
僕は
「友達も呼ぼうか?」と気楽さを装った
「あのねぇ、女一人だよ、そんなに荷物は多くないから、健ちゃんだけでいいのよ、一人で来て、お願いねぇ」
「オッケェー」と僕
「御礼はお寿司御馳走するからね。食べて行って、いいでしょ?約束ね」と
右手の小指を立てた手を振りながら、ついでに気が付いたようなさりげない言い方だった。他の看護婦さんよりも、あんなに親しく
していたのだから、もっと親しみを込めた言葉をかけてくれれば良いのにと、少しの不満を感じながら、それでも少年の僕
は嬉しかった。
そんな約束を忘れかけていた頃、お手伝いに行くことになった。その時の気持は嬉しさいっぱいだった。あの綺麗で優しい
戸田さんに会えるのだ。
しかも一緒に大好きなお寿司を食べる。
僕にとっては夢のような感じがして、引っ越しなどどうでもいい。会えるだけでいい。僕は今までに「恋」を経験していたつもりでいたけれ
ど、もしかして、こうゆう気持ちが本当の「恋」なのかと。人を好きになるとはこうゆう想いなのだろうかと。少年の僕は生れて初めてさわ
やかな気分の自分を感じた。
確か連休の初日で天気のいい日だったと記憶している。友達の誘いを断って行ったのだ。
その頃からマイペースな子供で、友達にはたぶん「付き合いの悪いヤツ」と言われていたに違いない。
引っ越し先は、病院から歩いて十数分の木造アパートで、北側の中階段を上がって四部屋ある一番奥の東と南に窓の有る明るい部
屋で、春の日差しが少し傾いてはいたが、僕の目には眩しいくらい差し込んできた。
確か六畳のひと間で、半間の小さな台所も有ったと記憶している。
車で運ぶほどの荷物は無いし、距離もそんなに遠くもない。手で持っての移動は、僕に依頼する程の量は無く、ゴムの木の植木鉢が
最後で終わった。
戸田さんは小さな手荷物を持って「終わったぁ」と言いながら部屋に戻ってきた。僕は窓から首を長くして西の空を見て、夕
焼けがいやに綺麗だったのを覚えている。小さな丸い座卓に二人で座ってジュースを飲んでいると
「お寿司食べる前に、お風呂へ行ってきなさい、ネェ」と声がした。
姉が弟に命令をするような言葉だが、最後の「・・・ネェ」は多少尻あがりで、長めだった。
「えぇ、いいよ、まだ夕食には早い時間だし、食べないで帰るよ」と僕は一応の遠慮。
「そんなぁ、汗かいて風邪でも引いたら、私の立場が無いから、ねぇお願い。それに約束通りお寿司食べてもらわなくては
いけないしぃ」と
懇願され、食べ物に弱いのと、あの楽しい会話を交わしながらの食事は、忘れない記憶だったから、僕はすぐに心の中の
予定通り了解した。
「うん、わかった看護婦さんが風邪引かせた、では笑い話にもならないからね」
お寿司を頬張りながらも、会話は途切れることを知らないくらい続いた。
戸田さんは千葉県の生まれで名前は「静江」僕よりも九歳も年上、一番上にお兄様で九人姉妹の7女、すぐ下に弟がいると聞いた。
11人兄弟とは多くないかと思い
「そんなに兄弟がいるの?」と聞いたら
「田舎はそのくらい普通よ」だと、びっくりだ
実家の事を「お百姓」と云う言い方をしていたが、僕にはその単語が新鮮に感じた。いろんな話をしたが、記憶をたどって
も、どれが先でどれが後なのか分からなくなる。
記憶とはそうゆうものなのだろうと、歳を重ねた今、強く思う。
そのくらいたくさんの話をして、楽しかったのを覚えている
「どうして看護婦さんになったの」
「自分に誇れる仕事って言ったら格好がいいけれど、都会で働きたかったの。だってお百姓するの、嫌だもの」
「へぇ、でも看護婦さんって、素敵な仕事だよねぇ」
「患者さんにお礼を言われると嬉しいの。でもねぇ、看護学校は結構難しくてね。クラスでも数人しか受けられなかったよ。
朝、母ががんばれって、大きなおにぎりを作って、見送ってくれたの。思い出すなぁ」と、
戸田さんはお箸を鉛筆のように持ちかえて、急に女学生がするようなのような仕草をした。
「僕、そのお母さんに会ってみたいなぁ、優しそうなお母さん」と言いながらお寿司を口に運んでいると
「健ちゃんのお母さんは?」
姉三人とは扱いが違うと、いつも感じていた僕は
「うん、優しいし大好きだけれど、やっぱり男の子には厳しいねぇ。末っ子の甘ったれで育ったのに今は避けているけれど、
いつまでも傍に居て欲しいね」
突然
「ねぇ、健ちゃんはマグロ好き?」と聞いてきたので僕は
「大好き、一番好きかも」
「じゃあマグロあげるからその貝頂戴、交換しよう」
「えぇ、戸田さんはマグロ嫌いなの?」
「嫌いじゃないけれど、貝類の方が好きなの」と
戸田さんはマグロの握りを指でつまんで、自分で食べるように口を開けながら、僕の口元に運んだ。
僕は人から食べさせてもらうのは初めての経験だったので少し戸惑っていると
「あら?健ちゃん何を照れているの、早く、ハイ」と
戸田さんは自分の口をもっと大きく開けて
「アーン」と食べるように催促をした僕は仕方が無く、マグロの握りと戸田さんの指も少し口に含んでしまった
「どう?おいしい?うん?」と僕の目を覗き込んだ
「美味しい!」と言ったが、内心僕は、戸田さんの指にも触れてしまったのに戸田さんは平然と何も無かったように、僕の赤
貝の握りをつまみそのまま自分の口へ運んだのを見ていて、本当の家族のような、不思議さを強く感じた。その時は恥ず
かしさでいっぱいでいたから、すぐに目を下に落としてしまったが、その後同じように食べさせてもらう時は目を見て食べら
れるようになった。
そして、それ以来食べさせてもらった時は、口の中をいっぱいにしながら目を見合い、幸せを感じた。
戸田さんの目を見ながら食べる物はなんでも美味しく感じるようになった。
時計を見ると、もう、とても歩いて帰れる時間ではなくなっていた。
こんなに時間が短く感じたのは、生れて初めての経験で、楽しい事や相手と気が合うと、時間の感覚が鈍ることも初めて知
った夜だった。
「タクシーで帰る。表通りまで付き合ってよぉ」と僕。その僕の方を見ないで独り言のように
「そうねぇ・・・・・こんな時間じゃねぇ・・・・じゃ、泊っていってもいいよ、兄弟みたいなものだからねぇ」と言った
僕は内心嬉しかった。
それは、もう少し話が出来ると思った事の方が、帰りたい気持より勝っていた事に違いない。
「少年 健」 3大人の恋 (連載 3)
「お布団はひと組しかないの、ごめんねぇ」なんて、この歳のだいぶ離れた姉は言うのです。
そんなこと、言わなくても知っているって、僕がお布団も運んだのだ。
「いいよ、たぶん寝られやしないから」
「そうね、仕方がないねぇ、狭くて」と言いながらテーブルを東側の窓の方へ移動させ、そのテーブルを頭の方にして布団を
ひき始めた。
僕は座る場所もないので、その仕草を南の窓に座って、ぼんやり眺めながら
「若奥さん」をイメージして戸田さんのスタイルのいい後ろ姿、いや、かたちのいいちょっと大きめなお尻を見つめていた。
突然戸田さんが振り返りながら声を掛けてきた。
僕は
「どこ見ているの!」と怒られると思ってびっくりしていると
「健ちゃん、わたしぃがこの部屋を借りて寮を出ると言ったらね、病院の人達に『戸田も好きな人が出来たな』って言われた
のよ」と、
ひき終わった掛け布団を、半分折り返した上に座って話し出した。
怒られると思っていたからゆっくり話し出すことだけ考えて
「ふうんそう、意味が僕にはわからないな、大人の世界だな」
「健ちゃんはどう?」
「どう?と、聞かれても・・・・」
「健ちゃん、わたしぃ、好きな人がいると思う?」
「戸田さんは綺麗だし、やさしい人だから、周りの男は黙っていないでしょ?」
「そうかぁ、健ちゃんはまだまだ子供だね」
僕は話が大人の話でよくわからなくて、言葉がしどろもどろで話したように思う
「子供だよ。学校ではさぁ、もう女の子とやった、なんて自慢する奴がいて、おんなの人の体はああだとかこうだとか、ませ
ているヤはたくさんいるよ。でも、実際はしないと分からないし、女性の裸は見たいし、やりたいと思うけれど本当はどうした
らいいのか分らないもの。経験も無いのにやったなんて、自慢して大人のふりしてもすぐウソだってわかっちゃうでしょ?僕
は、初めての人は大好きな、きれいな人としたいと思うしね」と言ってしまってから、戸田さんに嫌われるような事、言っちゃ
った。しまったと思ったが
「そうゆう意味じゃなかったのよ。えっ!そうか、健ちゃんはまだなの?都会の子は経験が早いって思っていたから」
僕は恥ずかしいとは思ったけれど
「経験って?あぁ、うん、僕、童貞だよ。恥ずかしい事ではないし、戸田さんだから言っちゃった。最初の人が、戸田さんみた
いな綺麗で優しい人だったらいいなぁと思うけど」
あっ、また嫌われるような事言ってしまったと、思っていると、その通りの言葉が帰って来た
「なに言っているの!健ちゃん!私はそんな女じゃないよ!イヤなぁ子ねぇ」
「ごめんなさい、わかっているって、そうなって戸田さんに嫌われたくないし、戸田さんが僕を嫌いになるのが怖いの・・・・・・
でも、さっきねぇ・・・」
「どうかした?」
「あのお・・・・・・・・・・お布団を、ひいている戸田さんの後姿みていて、変な気持になったよ。お尻見ていて、意外と大きくて
恰好がいいなぁなんて、ね。あっ、ごめんなさい」
僕は失礼な事を言ってしまったのに、話の続きが、また失礼な事を言ってしまった。
「イヤぁな子ねぇ、お尻見ていたの?変な気持って・・・・どうゆう気持ち?」
もう僕は何を言葉にしていいか、頭の中は混乱していた。
「えぇーとね、そのぉ」
「どうしたの?たぶん大きくなっちゃうって事でしょ?違う?」
「大きくなるって・・・・・・どうして・・・分かっちゃうの」
「男の子は、我慢出来ない時はどうするの?健ちゃんも大きくなる事あるでしょ」
信じられない言葉だった。こんなに綺麗で優しい人が、おチンチンの話をしている。
「そんな事、恥ずかしくて言えないよ」
「知っているわよ。自分でするんでしょ?健ちゃんも?するの?」
「意地悪だね、戸田さんは」
「ちょっといじめてみたかったの、ごめんね」とクスクス笑っている
「我慢出来ない時はねぇ、好きな人想い浮かべながら自分でするの。ああぁ、何でも白状しちゃう、そんな事聞かないでよ。
どうして戸田さんだと、こうゆう話が自然と出来ちゃうのかな」
「健ちゃんは、想い浮かべるような好きな人いるの?」
「それはもちろんいるさ。フランスの映画女優の『マリー・ラフォレ』って知っている?でも外人で女優さんは現実性が乏しい
でしょ、だから身近で好きな人」
「その映画女優は知らないけれど、身近な?それ誰?わたしぃの知っている人?」
「つい最近まではねぇ、お見舞いに来てくれた子で、会わなかった?背がすらっとしていて色白で、少し赤毛で長い髪の毛
をポニーテールにしていた子『小松美紗子』だよ。戸田さんが病室に居た時に、お見舞いに入って来た子」
「あぁ、わかった。あの子ね、健ちゃんの好みはああゆう子かぁ、と思ったよ」
「あの子さぁ、ちょっとツンとしてなかった」
「そうだった?」
「ちょっと可愛いからって、そんなところが冷たい子に見えてきたの」
「そんな事で嫌いになったりするの?」
「嫌いではないけれど・・・・あんまり好きでなくなったの」
「今はそのぉ、そうそう美紗子ちゃんと違う、憧れの人がいるの?」
「もちろん、いるよ」
「もっときれいで、優しい人が現れた?」
「そう、現れたの、優しくて綺麗で何でも話が出来る人」
「わたしぃが、知っている人?」
「ん?うん、うん・・・・」」
「誰?・・・・病院の人?」
「・・・・うん」
僕の返事を待っていたかのように、布団の上に寝転がって、両手を頭のポニーテールのところで重ねて、天井の一点を見
ながら戸田さんは
「そう、誰かな?美人の香山さん?だなぁ、香山さんは綺麗だからなぁ、そうでしょ?」と、
僕の眼を見た
「違うよ、香山さんは綺麗だけれど、髪の毛はショートカットで、美紗子みたいに冷たい感じがするの。ああゆうタイプは好き
じゃないし、あんなに綺麗な人好きになれないよ。気軽に話が出来る人が好きなの。綺麗な人だと、ちょっと気を使って疲
れちゃうから」
「じゃぁ、まさか間宮さん?チビちゃん?かわいいものね。歳も近いしぃ、素直だしぃ、チビちゃんでしょ?健ちゃん赤くなって
いる、アハハハハハハハ」
何とも思ってはいないのに、チビの名前が出て来たので
「違うよ。チビちゃんは色白だけど、少し太っちょだし、子供だし。もういいよ。誰を好きになろうが、いいでしょ」と、少し怒っ
たふうに言った
「子供の健ちゃんが『チビちゃんは子供だ』なんて言うと、おかしいなぁ。誰かな?健ちゃんの好みは分かるわよ。誰だろ
う・・・・?細身で色白で・・・・・・・髪の毛が長くて・・・・・・・・ポニーテールかぁ・・・・・・あぁっ!わたしぃ?じゃないよね?わしいぃ?
僕は戸田さんを見ないで
「教えないよ」
戸田さんはクルっとからだを回して、うつ伏せになった
「わたしぃだったら・・・嬉しいなぁ」
「何で嬉しいの?」
「わたしぃの本当の弟はね、絶対に私と一緒に出かけたりしないしぃ、健ちゃんだったら一緒にデートしたり遊びに行った
り、食べに行っても変に思わないしぃ、わたしぃの弟合格だもん。わたしぃでしょ、白状しなさい!健ちゃん!」
「えっ・・・・・・そうだよ、どうして分かった。好きな人に『私が好きだ!』って言いなさい、と言われているみたい。そうだよ、い
つも戸田さんを想い浮かべて・・・・・・・戸田さんの裸を想像して・・・・・僕は戸田さんの前だと、どうして素直に本当の事言っ
ちゃうのかなぁ」
うつ伏せから起き上がり、座りなおして
「本当?本当に、わたしぃ?」と、右人差し指で自分の鼻先を指した。
あの「わたしぃ倍賞千恵子にている?」と言った時と同じ仕草をした。
「でも、戸田さん想いながら自分でしていると、途中で『それはいけない事』といつも思うの。戸田さんはそうゆう相手では無
いってね。いつも素敵で僕の憧れでいて欲しいから、戸田さんの裸を思い浮かべるのは途中で止めるの」
「そうなのぉ、健ちゃん・・・・・わたしぃの裸想像するの?本当?そして途中で他の人に変えるの?そんな事出来るの?」
「出来るけれど、僕はもうそこまで行くと止まらないの。新幹線だよ、アハハハハハハ・・・」と
僕は照れ笑いをした。
この前年に開通した新幹線は、何かと話題になっていたのだ。
「もう止まらないの?途中で?わたしぃの裸どう?見た事無いのにどうやって想像するの?」
「その話はやめた。戸田さんの裸は僕だけのもの、戸田さんだってするでしょ?我慢出来ない時、好きな男の人想いなが
ら、するでしょ?するはずだよ。僕、子供だけれど知っているもん」
「わたしぃ?健ちゃんより大人だけど知らないよ」
「うそだぁ、僕は知っているよ。女の子だって、好きな人想い浮かべながらするでしょ」
「やられたね」
「こんなにきれいな人が、そうゆう話をするの?信じられないよ」
「健ちゃんは、いじめると、それなりの本当の事言うから、からかったのよ」
「知らない事を、知ったかぶりして恥をかくのは、本当の恥だもの」
「健ちゃんは可愛いねぇ」
「戸田さんにそう言われても嫌な気はしないね。もう、今年で十八歳になるのに他の人に言われたら『バカにするな!』と怒鳴ってしまうかもね」
「楽しいお話ね、健ちゃんとだけね、こんなお話出来るのは」
「僕もびっくり、おチンチンの話をしたのは、戸田さんが感電して入院して来た患者さんの話をして以来だよね、オチンチンをナニって言った時」
「そうだ、あの時いじめられたと、思ったのよ」と、握りこぶしを僕に向けた。
「僕は戸田さんの困った顔見て、喜んでいたの。こんなに綺麗な人でもオチンチンの事を話し
するんだなぁ、って」
「こいつ、あの時年上をおもちゃにしたなぁ、アハハハハ」と、笑いながら僕の目をチラッと見た
「ごめん、あの時からだね、戸田さんとたくさん話がしたいと、思ったのは」
戸田さんは落ち着いた声で
「健ちゃん、わたしぃの事、綺麗だって言ってくれるけれど、本当にそう思っているの?」
「うん、僕には初めて会った時から、会うたびに綺麗になって行くのが分かったの。映画の中で
さ、ヒロインが恋をしてさ、だんだん綺麗になって行く、あんな感じかな」
「そう、そうなの。映画は演出だったりするけど、年下の健ちゃんから言われても嬉しいね。そんな事言ってくれた人ほとんどいなかったから・・・・・・・・今まで」
「うそだぁ、僕は戸田さんが一番綺麗だと思うけどなぁ」
「だめよ、わたしぃ、目は小さいしぃ・・・・胸もないしぃ・・・・・」
僕は視線を戸田さんの顔から胸に向けた
「目はいつも見ているけれど、胸は見た事ないから、小さいかどうか言われても」
「こいつ、見せてあげようかと思ったけれど、見せてあげないぞ!」と大事な物を抱えるように
胸に両手をあてた
「あっ、失敗した。見たいなぁ、戸田さんのオッパイ。ねぇ、お願だから見せてよ、駄目ぇ、ねぇ、見たいなぁ」
戸田さんはほんとに優しい小さな声で、少し困った表情をしながら
「弟に見せるお姉さんはいないでしょ。だから見せてあげないよ。でも、わたしぃの事綺麗だって言ってくれた事、嬉しかった。ありがとう」
と言いながらも、胸にあてた手は放さなかった
「本当だよ。本当に綺麗な人だと思う。これは、からかって言っているわけじゃあないよ」
戸田さんは、子供が褒められて嬉しくて、素直な気持で言っているように
「本当ね?信じちゃうから」
僕はこの優しい戸田さんはたぶん今晩オッパイを、見せてくれるだろうと思った。僕は戸田さんの顔を、覗き込むように目を見た
「信じてくれてもオッパイはだめ?だよね?」
戸田さんは僕の眼を見ないで、布団の端の方見ながら
「そんなに見たいの?」
僕はいつも想い浮かべて想像していたオッパイを、戸田さんは見せてくれると確信した。
「好きな人の裸を見たいと思うのは、イケナイ事ではないでしょ。それが大好きで素敵で憧れの戸田さんだって、僕が想っても怒らない
よね?ねぇ?」
「うん、そうねぇ、怒るのはおかしいねぇ」
「怒られないですんだ。良かった」
僕には今までと違う優しい声で
「健ちゃん?本当に見たい?健ちゃん・・・・・・・・」
僕は見せてくれると、確信していたから
「すごく見たいなぁ、戸田さんのオッパイ、いつも思い浮かべていたから、本物を見てみたい。でもさぁ、見ただけで、終わらなくなりそうだから、どうしようかな? 本当に見るだけ?」小さな子供が返事に困った、と言うような顔をして、小さな声で
「健ちゃん!バカ!」
「だって見たら触りたくなるし、触ったら・・・・」
本当に怒ったような顔をして
「何を言っているの、もう、健ちゃんのバカ!早く寝なさい!」
僕には最後の「早く寝なさい」は意外とやさしい声に聞こえた。
僕の右側に体を入れてきたこの姉は、にこやかな顔をして
「ここから、こっちへ来ちゃダメよ」と、
右手で手刀を作り、布団の枕もとの真ん中から下へとなぞった。
「行かないよ、背中向けて寝るから」と言いながら、僕は左を下にして横になっていたが体を上に向きながら、首だけはもっと右を見て、
足元の方へ移動するこの姉の手刀を、何も考えずに追っていた。
「よろしい!じゃ、おやすみ」なんて随分年上の姉の態度で言い放った。
「来るなよぉ、来たら承知しないぞ」と
本気で言っているように思うほど、語気を強めた言い方だったが、最後の「おやすみ」のあとにクスっと笑った。そして部屋の電気を消し
て、頭の上の電球の電気スタンドの明りを点けた。
円筒形のそのスタンドカバーは濃い紫色だった。戸田さんは紫色が好きなんだなぁと、思った。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「お手伝い、ありがとう、健ちゃん、疲れたでしょ?」
「僕、九歳も年下だよ、疲れなんていないよ」
「そう、わたしぃは仕事しながら荷物まとめたりして、ちょっと疲れ気味だなぁ、ねえ、健ちゃんは右利きだっけ?」
左側を下にして背中を向けていた僕はすかさず
「そうだよ、見てなかったの?ほら、さっき握りのお鮨を箸で取りそこなって、手掴みした時さ、右手だったでしょ」
「そう、だよねぇ、そうか」と
今まで聞いたことの無い様な、さっきまで居た、だいぶ歳の離れた姉の言葉とは違った。甘ったれているような声で言いながら、布団を
出て僕の寝ている方へ体を入れ直してきた。三月とはいえまだ寒い日が続く、いち度温まった布団に入り直すだけで、寒さを多少は感
じる何だか解らないが、僕は布団の中で背中を先頭にしながら、移動せざるを得なくなった。
「せっかく温まったのにぃ」と
左を下にしたまま後ろへ少しずつ移動する。寒さ凌ぎも手伝って、体を摺り寄せたくもなったが、からだを上に向けた。
「いいのぉ、寝るのよ、疲れているのだから、黙って寝るの」と
言われてしまったのだ。天井に電気スタンドの光が楕円形を映していて、見つめていると戸田さんの良い香りがした。
こんな綺麗な人が隣で寝ているかと思うと、寝ることなど出来るわけないと、さっきまでそんな事が起きるとは、考えもしないで泊まること
を承知して、うれしくもこの瞬間は多少の後悔もした。
そのうち僕は体の上に重さを感じた、半身を僕の体の左側に預けてきたのだ。戸田さんも寒いから僕に抱きついて来たのだと思い、
ちょっと右腕を上にして、斜め左を向きながら、利き腕の右手で体を触って引き寄せると、あるのが当然と思っていた下着の感触がな
い、そのことが分かっても不思議には感じなかった。
そうか、利き腕がどっちか聞いた意味を自分自身で確認出来た瞬間だった。
戸田さんの好きな人は、左利きなのだと納得した。そして、なぜかラジオの音量を上げていたこの姉を見た。電球式の電気スタンドの
下への光が真っ白な四角に折り畳んで置いて有る濡れたお手拭きを映していた。
この姉が僕の固くなった物を触る触り方は、僕の生涯忘れることはないだろう
「健ちゃん、いつも自分でしている事、わたしぃがしてあげるからね」と言った
「ねぇ、やっぱりオッパイは見せてくれないの?」
「バカねぇ、一緒のお布団に入っているのにいちいち聞かないでいいのよぉ」
そうか、大人は難しいねぇ、部屋に入れる、泊って良いと言う、布団に一緒にいる、そうか全てがOKなのだ僕はこの頃から「大人には
なりたくねぇ」と思い始めた。
僕は戸田さんのホックを外して胸を確認して「意外と小さい」と思いながら、赤ん坊になり切っていた。
最後の戸田さんは
「お願い、中にしちゃダメよ、次の時はお帽子を買っておくから」と
言いながら最後に『ケン!』と叫んだ」
「健、初めての時は早く終わっちゃうって聞くけど、初めてじゃなかったの?さっき童貞だって言ったでしょ?」
「いつも戸田さんの裸思いながら自分でして、なるべく我慢するのを覚えたの」と
言いながら、お帽子?何の事だと、考えをめぐらしていると
「健は、わたしぃの事想いながら、いつもしているのって、本当?そう?」さっきのケンと言った
あとは、健ちゃんでは無く「健」と呼ぶようになった
「そうだよ。僕の頭の中はいつも戸田さんの事でいっぱいさ。いつも想っている戸田さんと出来て、すごくうれしい。本当に気持ちが良か
った」と僕
「ホント?わたしぃが健の最初の人だよ。忘れないでねぇ、気持ち良かったの?わたしぃも嬉しい、健が喜んでくれて」
「戸田さん?僕童貞じゃ無くなったの?」
「そうよ、男の子じゃなくて、男になったのよ」と言いながら
「さっき、たくさんわたしぃのおんなの子、触ったでしょ」と
電気スタンドの脇に置いて有る、濡れたお手拭きを僕に渡した。僕は看護婦さんだからこうなのか?と考えていると静は僕を拭いてい
た。やっぱりこの人は違う。
そして、すぐに今度は僕から積極的に、お願いをした。
「ねぇ」
「どうかした?何?」
「ねぇ」
「どうしたの?」
僕は嫌われてもいいと思い言った
「男の子が一番見たいところ、見せてよ。いいでしょ?」
戸田さんは黙っていた。僕は掛け布団をたくしあげて、かたちのいい両足の付け根を見る 電気スタンドの淡い光が、かなり年季の入
った天井の木目からの反射光で良く見えないでいる
「どう?健ちゃん・・・わたしぃのおんなの子・・・綺麗?ねぇ・・・なにか言ってよ・・・・お願い・・・恥ずかしくなってしまうから」
「嬉しい、初めて見たの、初めて見て感激してるの、それも大好きで、綺麗な戸田さんのおんなの子見る事が出来て、嬉しい!うん、と
っても綺麗だよ・・・・・ここが一番感じるところ?」
「そうよ・・・クリトリス・・・」と、医学用語?を口に出した
「へぇ」僕はかなりの時間を費やして見ていた
「・・・・・・・・ほ・ん・・・とう・・?綺麗?・・・・ねぇ・・・・わたしぃきれいぃ・・・クリちゃんどお?」
「綺麗だよ、かわいい、本当さ!もっと好きになっちゃうよ。戸田さん大好きなんだ。ずううっと好きだったの。大好きだったの。初めて会
った時から毎日忘れた事、無かったんだぁ」
僕は今までの想いの全てを正直に言った
「健、わたしぃ・・・・もよ・・・初めて・・・・会った時から・・・気になっていたのよ・・・健のこと」
「やっぱりそうだったんだぁ。大好きだよ、戸田さん」
「わたしぃもよ、気になっていたのよ」
僕は嬉しくてうれしくて
「本当?戸田さん、本当に僕の事気になっていたの?」
「そうよ、いつかこうなると想っていたのよ」
僕は再び静を抱きしめた。静は僕に完全に身をゆだねて応じてきた。
その晩は全く睡眠というものを取らないで何回したのだろう。最後は戸田さんに
「健ちゃん?わたしぃの事そんなに好きでいてくれたの?」と
問いかけられて返事に困った。若くて、したくて、したくて、仕方がなかったからなのか?それとも本当に好きになった人、だからなのだろ
うか。
「どうしてだろう、好きな人だから出来るのかなぁ」と
言うのが精いっぱいだった。後で、あの時
「お帽子って何?」と聞くのを忘れた。
外が明るくなってきた頃は戸田さんは僕の上で「どう?よくなる?ねぇ」などと聞く
僕は疲れ切っているのに眠くは無かった。
こんな事を考え想い出していると、あの頃の、まだまだ体も男を喜ばせる事も知らなかった若々しかった静を思い出す。
そして、童貞を失くした僕はその日から数日、股間が常に盛り上がって困った
翌朝、目が合わせられないような、気まずいというか、昨晩はあんなに話がかみ合い楽しい雰囲気だったのに、恥ずかしい変な感覚
で、用意してくれた朝食を口にしながら、小声で
「今日、また来てもいい?」
正直、連休二日目も一緒に居たかったのだ。いや、もう一度男であることを証明するためには、何がなんでも来たかったのだ。
「今日はダメなんだなぁ、祭日だけど当直勤務だしぃ・・・・だけど明後日は当直明けだから、朝からOKだよ」と
親指と人差し指で丸を作って、片目をつぶって見せた。その顔をみて僕は、妹のような可愛さを感じた。すごく年上に見えたり年下に見え
たり、不思議な可愛い人だ。今朝まで、一睡もしていないで、今晩が当直、で、明後日は朝からOK?と、そう言ってくれるこの人に、僕は
「本当の恋」をしたらしい。もちろん、その日は朝からお邪魔したのは言うまでも無いことだった。
そうだ、朝食はパンとお肉の味噌付けだった。僕は本来お肉が嫌いな贅沢な育ちをしていたのだが、このお肉がおいしくて「美人は料理
が下手」と言う自分の思いが間違っていたと気がついた。後で聞いた時に
「わたしぃ、親戚のお料理屋さんで基本は習ったのよ」と言っていた。
明後日は連休明けで、僕は学校へ行かなくてはいけないが、卒業式を待つだけだから、休んでもいいかと、そんな事をぼんやり考えなが
ら、勤務のため部屋を出て、階段を下りてくる姉ではなくなっていた戸田さんを見上げながら「電話するね」と僕は言った。最後の一段を、
両足で飛び跳ねるようにピョンと降りて
「ピンク電話にお願いね」と。
ピンク電話は病院の廊下に有って、勤務中の職員は気兼ねなしに外線に出る事が出来るのだと聞いていた。
「風邪引くなよ、健」と、男言葉で布団に入ってから変えた僕への呼び方で言った。
僕は
「最初に会った時から違っていたよ」
「何が?」
「他の人とさ、静江さんは・・・」と
僕も戸田さんとは言わずに、親密感の増す呼び方で、歳の差を自ら無くす言い方で、応えた。
僕は帰り道の途中に病院があって同じ方向なのに、何故か静が手を振ったので、やむなく最初の角で手を振って、多少急ぎ足の
つま先を、自宅の方向へ案内した。
朝日が、いつもの晴天の時よりも、より一層眩しく感じたのは、昨日の夕焼けが見事だっただけでは無いなぁと、暖かな日差しを感
じながら、大きく吸った息を一気に吐いた。
「青年 健」苦悩 (連載 4)
僕から電話をしてから、会うのが普通だった。
「今日はデートだから、行かないよ」
「今日は、彼が来ないからゆっくり出来るのよ、待っているわよ」
「これからデート、彼女と約束しているの、だから行けないよ」
静はまだ二十八歳なのに僕が同年代の女性と自分の歳を比べて言った。
「そう、やっぱり若い子がいいよね、こんなおばあちゃんより」と
「そんな言い方するなよ。そんなこと無いって、でも・・・・僕だってさ・・・・」
「分かった、分かった、じゃぁデート楽しんでいらっしゃい。で、お小遣いはあるの?」
「知っているくせに」
「じゃぁ、待っているからね、いらっしゃい」
「顔、見るだけだからね」
「イヤなぁ子ねぇ」
イヤなぁ子ねぇ、が始まったと思いながらデートはキャンセルだ。どうして僕は静との事を優先してしまうのだろうか。
女が27、8歳にもなれば彼氏のひとりやふたりいても当然だし、僕は彼氏の話をする事があっても、別に何も抵抗無
く受け入れていた。それは今思うと、静が好きなのではなく、静のからだが、いや、静のおんなの子の部分に興味が
あって、その部分が好きだったからかも知れない。そうでなかったら当然「ぼくの前では彼氏の話はしないで」とはっ
きり言ったはずだ。自分の都合の悪い時は言わないくせに、彼氏が来ないとなると、急にやさしい言葉でお小遣いの
話だ。でも、こんなこと言われると、結局、お小遣いの魅力と、この「妹」のおんなの魅力には勝てなくなっていたのだ
ろう。僕も血気盛んな頃で、静と会うと男を満足させてはくれるが、虚しさも感じていた。この虚しさは、やっぱり僕の
意思で会いたい時に会えない事や、友人との付き合いをいつもおろそかにしている事に因ると思う。
静は静で置かれている境遇に、僕と同じような虚しさも感じていたのだろう。僕は会うのは、嬉しい、楽しい、でも、所
詮婚期を迎えた女の暇つぶし相手と、思い始めると虚しい。でも、男の満足とは?が、わかって来ていた。
自分だけ満足するのではなく、僕の努力で女の満足した声を耳元で聞いて、その表情を見て
男は自分が満足するのだ。そして同時に、愛している人が満足した事を確認する事にも喜びが有り、男の満足はも
っと深くなる事だと。
デートをして一緒に食事をするのが楽しくも有ったが、知り合ったころと同じとはだんだんいかなくなってきた。就職し
た会社は義兄の会社とはいえ、それなりの付き合いは有る訳で、しなくてはならない。
電話を掛けないで、デートの間隔があくと「若い子の方が・・・・ネ」や「こんなおばあちゃんじゃイヤでしょ」が始まる。
僕は「ただでさえ虚しく感じているのに」と、口には出さないが突き放したくもなる時も有って、ちょっとした口喧嘩をす
る事もしばしば起こるようになる。慣れは感覚を鈍らせるのか、ちょっとした事で話が同じ方向へは行かなくなる。
知り合ってすぐの頃、僕がまだまだ子供で、静には何でも話す事が出来たおチンチンの話も、恥ずかしくも無く話せ
ていたのに、なぜこうなってしまうのだろう。僕が大人になったからなのか、静が変わったのか。ほとんど喧嘩などし
たことの無い二人だったが、お互いが見えてくるとおかしな関係になってきた。
そうだ、今、この歳になって感じるのは夫婦だ。夫婦は長年一緒に居ると感覚が鈍るのだ。感覚とはおんなとおとこ
の感覚だ。一緒に居る事の当り前さ、おんなとおとこなのにその意識が無くなり当り前の毎日。なんの話をしても返
って来る返事は聞かなくても、いや返事など返ってこなくてもわかってしまう。それだと思う。
夫婦は空気にように、なんて年長者に言われた事が有ったが、時代が違うのだ。「僕が、どの位の気を使って君のペ
ースに合わしているか、解っているの?」とか「僕にだって、言いたい事は沢山あるのだぞ」などと言い始める。
でも「男妾みたいでイヤ」とか「身勝手だ」とかは絶対に言わなかった。それは、この「姉」とか「妹」とかのおんなの魅
力には勝てなかったからだ。
そして、二人の置かれている立場が仕方なくそうさせているのだと、僕も静も自分自身に納得させていたのだろう。
二年くらい経った頃、全く連絡がつかない時が、一週間くらい続いた事が有った。最初のうちは気にはならなかった
が、病院へ電話をしても「居ない」「休んでいる」こうゆう理由は初めてだったので、何か変化が起きているのではな
いかと、気になり始めていた。勤務先は病院だから、体が悪くても心配は無いが、後で聞いた話では、その頃結婚
出来ると思っていた外科医の彼氏が他の人と結婚したと打ち明けられて、一週間泣き続けたそうだ。僕は静の為に
は何も役立たない奴だと情けなく思ったが、何も出来ない。正直悔しかった。
久し振りにいつも一緒に行く寿司屋の個室で会った。百%吹っ切れてはいない様子だったが、平静を装っているの
が読み取れた。
「健!今日は好きなもの、高いものでも何でも御馳走するからね」と
言うと後は黙ってしまって、優しい言葉を掛ければ、怒られそうな感じがしていた。会話の少ない食事だった。
こんな事は初めてだった。慰めてあげたくても言葉を掛ける事しか出来ない事が、こんなに辛い事とは初めて知った。
暗い雰囲気で、ぼそぼそ食べた寿司には味が無かった。たった一つの会話は
「健、マグロ、はい、あげる」と
目を合わせる事などなく、マグロの握りを僕の器に入れ貝類を要求した。手掴みで食べさせてくれた静はどこへ行
ってしまったのだ。
静が食事代を支払っている姿を後ろから見ていて、疲れているような感じがした。後ろから抱きしめたくなるような、
いつもの素敵な後姿はそこには無かった。どうゆうわけか寿司屋なのにバックには倍賞千恵子の「ラストダンスは私
と」が流れていたのを昨日のように思い出す。
「静、この曲いい曲だね」と
さみしそうな静の後姿に話しかけた。しかし、静は振り返らなかった。
たぶん静の目には、大粒の涙があふれて来ていて、振りかえられなかったのだと、僕は確信した。
静の後姿と音楽が妙にマッチしていた。
この曲聞くと、必ず静の事考えてしまう。静似の倍賞千恵子が唄っている。歳を重ねた今でも、この曲を聞くと、この
時の静の淋しそうな後姿を思い出す。おとことして付き合っていた僕は、何をしてあげるべきだったのか?未だにわ
からないでいる。情けないおとこだ。これでは今までの男の子のままではないか。
その事が有ってからは時間が有れば会ってくれた。僕は毎日でも会いたかったから嬉しくて毎日がウキウキ気分だ
った。遅くなろうが、仕事が忙しくなろうが、疲れなど感じた時は無かった。毎日寝不足で会社へ出ても、また今日も
静に逢えると想っただけで疲れを知らなかった。この頃から静はあんなに嫌がっていたのに、僕の上でする事が平
気になった。満足した後でも、僕の上から降りようとはしなくなった。僕の頬に顔を押し付けて離れようとはしなかっ
た。僕は終わった後で、左ほほをさすらなければならなかったくらいだった夜も有った。こうゆう時僕は、静に姉と妹
の両方を感じすごく満足した。この「姉」や「妹」が、かわいそうで仕方がなかった。いつしかお互いに相手を喜ばす
方法を考え、感想を聞きながら求めあった。
静の決して大きくはない胸を、僕は赤ん坊がねだるように扱うと「そうされると虚しくなるの」と言って嫌がったが、僕
は末っ子の甘えん坊に育ったからか、嫌がれば嫌がるほどじゃれた。僕は僕で静のしてくれる事は何でも嬉しかっ
た「いい?」とか、口に含んでいる時も「ねぇ?健、良くなる?どう?」と確認をいつも求めたが僕は返事をした覚えは
記憶に無い。
言わなくても静は僕が満足している事を感じていると、手に取るようにわかった。初めて後ろからしようと体を動かし
た時に
「健、それはした事ないの、彼がしようとした時に『それはイヤ!そんなのイヤ』って言ったの『奥さんがさせてくれな
いから、わたしぃにするんでしょ』絶対に嫌なのって言ったのよ。健!健が初めてよ。本当よ、健!本当よ!健だけ
とするのよ、健とだけよ!」と
静は叫んだ。普段の僕だったら静の嫌がる事や、嫌がる時には無理強いはしないのだが、僕は彼氏が相手にして
くれなくても僕がいるという存在感を、静に実感させる必要が有ったのだ。そして静は喜びの声を発した。
口数のあまり多くないこの「妹」が喋り出すと、止まらなくなるくらいお喋りになる。それを感じると目を見て涙が出そ
うになり、遅くまで一緒に居る事になる。どうすれば良いのか、歳が若いのは攻撃武器にもなるが、こうゆう時は盾
にもならないのだ。ぺらぺら喋る話の中で、忘れられないのは、実家が土地の一部を駐在所に貸していて、そこの
警察官といちばん上のお姉さんが出来てしまって、子供心に男と女の関係を知っちゃった話。
寂しいとそんな話もするのか?との思いで僕は聞いていて、そんな話などしても、ただの無駄話でそれ以上の興味も
何もない。最後は「かわいそう」と「妹」を感じさせて、歳の差を僕が乗り越えたりした。
また「10年後の健が、どうゆう男になっているか会ってみたい」と、言って年上の女になって、歳の差を僕に感じさせ
たりした。
そんな事があって、落着きを完全に取り戻した頃、取って付けた様な返事を、電話の向こうで話すようになった。
「歳が違うしぃ、わたしぃ、今年30だしぃ、このままでは健と結婚は出来ないしぃ」などと言い出した。
それはそうかも知れないと、僕も感じてはいた。でも、それはもっともっと先の話だと僕は勝手に思っていた。
しかし、女の30歳は考えるのだろう。一度僕から結婚しようと言った事が有った。困った、どう答えれば気を悪くしな
いか、そんな言葉を感じさせるような表情で、『えぇ、・・・・と、突然で、すぐに返事が出来ない』と、言いたいのよ、とい
う作り表情をした。
やっぱり、あの外科医の彼を忘れられないでいるのだ。吹っ切れたような顔をしていても辛そうだ。
僕には分かる、昨日や今日知り合った仲ではないのだ。
一度電話をしないで、新たに借り変えた大塚駅近くのアパートに行った事がある。新婚さんが借りるような、シャレた
淡い若草色の外壁だったな、確か。その頃の静は、彼氏との仲は次のステップに進んでいたらしい。二階への階段
を上り木製を模したドアーを叩くと
「どちら様ぁ?」
「ケンだよ」このあとのセリフが凄い
「あ!今、間に合っていますので、明日お願いしまぁす」だと後で聞いた話だが、たまに「御用聞き」が来るのでと言
っていた。だけど夜の8時頃に「御用聞き」が来るか?部屋には彼氏が来ていたのだ。やっぱり別れることは出来
ないでいるのだ。僕は、とてもさみしい気持ちでこのアパートの階段を一段一段ゆっくりと下りた。もうこの階段は登
らない方がいいのかも知れない等と考えながら。
前のアパートでは逆の事も有った。
僕が部屋でくつろいでいると、ノックが有って「ぼく」と声がした。電話もなしに来たらしい。僕は焦った。服を持ちおろ
おろしている。
こうゆう時、女は落ち着いている。僕の靴を掴み窓の外へ投げた。そして眼で僕に窓から外へと指示をしながら
「どなたぁ?聞こえない!どちら様? あっ、あなたぁ、ちょっと待って、今ね、手が離せないの」と、
落ち着いた優しい声そのものだ。そんな事と今回の御用聞き事件で、お互いが覚めてしまっていた。僕はあのアパ
ートでまだ別れられない彼氏がいて、とてもさみしい気持ちだった。
家へ帰るのを止め、朝まで落ち込んだ気持ちで夜の道をさまよい歩いた。その時の気持ちを、辛い時に思い出し
て、いつも忘れられなかった。それが引き金になったのかも知れない。
僕は本当に静を愛していたから会いたかったのだろうか?おんなの魅力で僕のおとこを満足させてくれている都合
のいい女だったから付き合っていたのだろうか?静も同じような事も、考えているのだろうか?そんな事を思案して
いると落ち込んでくる。だんだん会う機会が少なくなってくる。僕も仕事での独立もあり、尚更逢わなくなる。
会社を経営するのならば「嫁さんを貰えその方が会社の信用にもなる等」と周りは言うし。結婚することになる女と
も、会う機会が多くなる。そんな状況でお互い会っても会話が途切れる。昔のように続かなくなる。
それはそうだ、忘れられない彼がいる年上の女と、近いうちに婚約するかも知れない年下の男だ。婚約はまだ先と
して、僕の結婚に対する考えはまだ煮詰まっていない。そんな事を知る由も無い静は
「もうやめよう」と、言いだした
「そう、やっぱり静は彼を忘れられないんだねぇ」僕はこう言いながら、顔は見られなかった。
僕は言葉を続けて
「もう逢ってはくれないの?」と、弟の雰囲気だ。すると、こう言いだした
「私、健の事大好きだけど、やっぱり、若い子と付き合った方がいいよ」と、
看護婦寮で同室だった、僕よりひとつ下で、入院していた時は、笑顔がまだあどけなかった准看護婦の『間宮文
子』を紹介、じゃないなぁ、付き合うように仕向けた。
「もう、やめよう」と言ったのは
母からの電話も原因のひとつだったらしい。
「健のお母様が『戸田さん、いろいろな所へご一緒させていただいてありがとうございます』と、わざわざ電話してき
たのよ」
僕は母に文句を言うように、相手が静なのに強く言い放った。
「だから何?それが何だって云うの?」
そんな会話をした。静は心の中では年下の僕と付き合うのに少しの抵抗を感じていたらしい。
いや、確かに抵抗が有ったのだ。僕はそれでもまだ静に未練が有ったのか。この間宮文子「チビちゃん」と会って、
静の近況を聞き出す様な、イヤな男になっていた。
チビちゃんとは会って会話も咬み合ってはきたが、あまりにもこのチビちゃんが子供で、僕は大人の女でないと満足
しない男になっていたのだ。でも、チビちゃんとは、何度かデートもしたし、楽しい事も沢山あったと記憶している。
将来「正看護婦」になりたいと、夜間の高校に通学していた。
このチビちゃんは、僕に対してはひた向きで、結婚するならこの子かなと、考えた事もあった。
今考えると、僕はこの子と結婚した方が、収まりが良かったと思える。真面目な家庭的な子で、確かにいい子だっ
た。会うのはお互いが休みの日曜日くらいでしかなかった。その日曜日もチビちゃんが勤務で会えないことが有っ
たから、会うと共通の話、病院の人の話が中心だった。
しかし、だんだん会わなくなった。理由は分からない。いや思い出せない。いや、その内に思い出すだろう。
やっぱりまだ年下には興味が湧かなかったようだ。そして、その事件が起こるまで、自然と病院関係は忘れてた。
そんな事が有ってからどのくらいの時間が経っていたのだろうか?母がメモで
「病院の戸田さんに電話をして下さい」と、知った時は、懐かしさも手伝って電話をする気になった。
久し振りに電話をして会う事になり、電話の向こうの静はすごく歳の離れた女性を思わせるように落ち着いた声で
「お会いできるのが楽しみね」と言った。
いつもだったら「会うのが楽しみ」と言っただろうに、それは全く他人との会話のように感じた。
僕は母に「電話いつ有ったの?」と聞いた。母は「今日」とひと言だけ言った。
「今日は、解った、何時頃?」
「さぁ、何時だったかしら?ネェ」
母は僕の行動を全て知っていたようで、僕の知らないところで静と電話で何度も連絡をしていたようだ。
僕の母は、今思い起こすと、とても頭の良い人だったよう思えた。
結婚してからも実家に帰ると、姉や、親せきの詳しい話をして聞かせてくれた。そんな時、母の考え方や、母が
執った行動を聞くと、母はとても行動力が有って頭の下がる思いを何度かした事が有る。考えると僕の母は、僕
の独身時代の異性関係は全て知っていたのだなぁ、と思う。
母の教えは「人前で自分の親を自慢してはいけない、親が子を思う気持ちは皆同じなのだから」だから、
ここにこうして母の事を書く事は、親不孝なのです。
わざと「当直の日」を選んでもらい、会いに行ってみた。今までのように外で会えば元に戻ってしまうようで、怖かっ
たのだ。
病院は建て替えて新しくなっていて、鉄筋コンクリート作りの近代的な、ビルのような建物に変身していた。
玄関ドアーは大きなガラス製で、前のような『下町風情』は無くなっていた。
御見舞の時間を過ぎているから当然だが、無人の受付の電話で案内係に連絡をして『戸田さん』の名前を出した。
三階病棟の婦長さんになっていると聞いてびっくりしながら、三階のナースステーションへのエレベーターに乗った。
そのステーションにいた若い看護婦さんに『戸田さん』を呼んでもらった。奥から現れた静は昔の看護婦姿のあの綺
麗な『戸田さん』に戻っていた。帽子には黒い細いラインが二本入っていた。あの少年だった僕が、初めて見た白衣
を着た優しい綺麗な『戸田さん』がそこに居た。自然、僕は周りにも気を使い「戸田さん!」と呼んだ。
落ち着いていて「大人」を感じて、あの「妹」を感じさせる静は何処へ行ってしまったのだと、思わず「静江さん?」と
聞いたくらいだ。
「何かしこまっているの?『静江さん』だなんて、イヤぁな子ねぇ、健ちゃん!」と弟扱いが戻ってきた。
都合よく時間外の待合室には人がいなかった。それでも隅の椅子を選び二人で並んで座った。
静の胸のネームプレートには、はっきりと「婦長」と書かれていて名前は無かった。
「久しぶりねぇ、元気にしていた?ちょっと痩せた?わたしぃと逢わなくなってどうだった?」
矢継ぎ早の質問は、静も周りに気を配ってか、いつもの会話より小声のように感じた。イヤ、小声で話したのではな
く、優しい言葉だったのだ。
「別に・・・静は僕の会いたい時には会えない人だったから、平気だった」と、
本当は会いたくて仕方が無かったのに、平静を装った
「それなら、よかった」と僕の顔を覗き込んだ
「僕の事、心配でもしていてくれたの?」
「健の事だから、淋しくしていないかなぁと、想っていたのよ。そうじゃないようで良かったわ」
やっぱりこの人は仕事である『看護婦』に誇りを持っているのだろう。人に対する博愛精神が備わっている。
僕は白衣姿で、優しい言葉で話す静は、本当に心の優しい人で、僕の事を心の芯から心配していてくれたのだと、
嬉しかった。そして話すうちに、今日勇気を出して会いに来て良かったと思い、僕の心が優しくなっていくような、心
と心の触れ合いを感じた。この看護婦姿の静は職場である病院では若々しく物事をはっきり言う。
「わたしぃねぇ、健に淋しいぃ想いをさせてしまったかと、少し気になっていたのよ」
ああやっぱりそうだったんだ。僕の事は分かっていたのだと、この言葉で理解した。
僕は正直に言った。
「ホント言うとねぇ、逢わないと、逢えないは違うと、知ったよ」と
「逢わないと?逢えない?うん?なぁに?そうか、わかったよ、そうだったのねぇ、そうだと想っていたのよ、
わたしぃ・・・・・・も」
「でも、我慢も覚えなければいけないと思った。大好きでも逢わない方が良い事も有るもの」」
「ううん、健は少しずつ大人になって行くのね。安心したよ」
「逢うと僕の男を満足させてくれるからと思うと、自分が嫌な男に思えたりしてねぇ」
そうゆう僕の言葉と重なるようにやさしい、やさしい声で
「そうだ、チビちゃんとはどうなの?健はおチビちゃんに満足していなかったの?」
「前にも言ったけれど何かが違うの」
「何かが違うって?何が?最近は逢っていなかったの?だから・・・・」
「全然会ってやしないよ」
「じゃあ知らないのねぇ?」
僕は左隣の静を見た。優しい、いつもの横顔だったが、すごく歳の離れた姉を感じた。
「何か有ったの?」
「やっぱり、チビちゃんが自殺したの、知らなかったの?」
突然で、びっくりだ
「えっ、あのチビちゃんが?全然知らなかった。ウソー?本当?」
僕はその場で頭が真っ白になり、頭痛を感じるような衝撃を覚えた。
僕はそれからどうゆう言葉を交わしたのか、どうゆう思考回路で何を考えていたのか、全く思い出せないでいる。
「青年 健」 別れ&再会 (連載 5)
突然のように静の声が耳に入り、今いる場所と左隣りには静がいる事が自覚出来た。
「お腹に赤ちゃんがいたの、相手は健じゃないよネ!」
今、健ちゃんと呼んだばかりなのに、「健!」と強く呼んだ。
自殺と聞いただけで動揺している僕に『赤ちゃんがお腹に』それも相手は僕?
強い言葉だった。あんなに怖い顔の静を今までに一度も見たことが無かった。
僕は目を落し床の模様を、見続けていて顔を上げられなかった。
僕はぼそぼそと話し始めたが、自分でも何を言っているのか、理解出来ないくらい動揺していたと思う。
「『子供が出来るのは、男に責任が有る』と教えたのは誰だっけ?僕だって一時期はこの子を愛そう、好きになろうと、思った事
も有った。本当は大好きだったのかも知れない。結婚するのならチビかも知れないと思っていた時もあった。静の事を忘れたくて
ネ、チビと会っていたのかも知れない。でも、会えばどうしても、病院の話になり、静の事を思い出しちゃうから、逢わなくなった・・
・・・」
そうだ、そうだった。今、気がついた。チビと会わなくなったのは、静の事を思い出してしまうからだったのだ。静の事聞いた時、
チビの気持ちはどうだったのだろうか?チビは多分僕が静と大人の関係でいた事を知っていたのだろう。かわいそうな事をして
しまった。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。なんと情けない悪いヤツだったのか、僕は。そんな事も分からないで、待
っていてくれるチビに連絡をしなくなった自分が情けない。
イヤ、今、気がついても遅いのだ。静が僕と大人の付き合いを始めた頃に教えた
『子供が出来るのは男に責任』を僕が守らなかったと、思っていたのだ。
「そう、疑ってごめんネ、それなら良かった」
急に優しいお姉さんに戻った
「子供が出来ていたら、僕、チビちゃんと結婚したよ。たぶん間違いなくネ」
「あの子ねぇ、わたしぃが健と大人の関係だったと、知っていたみたいでね、健の話をしていた時にね、変になった時が有ったの」
僕は白衣の静が大好きなのに、僕の隣にその白衣姿の大好きな静が居るのに、見る事も出来ない。
僕は肩を落とし、床に目を落としたまま
「悪いことしちゃったと思っている。僕は会うと静のこといつも聞いていたの」
「そうだったの」
「あの子はとてもいい子だよ」
「分かっていたんだぁ・・・健は・・・・」
「会うと僕は、静のことを何気なく聞くの。あの子は一度もいやな顔はしなかった。戸田さんは元気?戸田さんは優しくしてくれる?
戸田さんは・・・戸田さんは・・・ああああ、そんな会話ばかりだった」
僕は髪の毛を両手でかきむしりながら、初めて女性の前で、涙が出そうになり我慢していたが
「そう、健はわたしぃの事を・・・・そんなにぃ・・・」
「まだまだ静の事、忘れられないでいた頃だったから、本当に辛かった。あの頃・・・・・・・」
ここまで言って言葉が繋がらなくなってきた
「そうだったの?ごめんね、健。わたしぃも悪い事しちゃったかなぁって・・・・・わたしぃも・・逢いたいと想った時・・・・何度も有った
のよ」
「そうか、やっぱりそうだったんだ・・・・・・・考えてもあの頃、静とは前のように逢って、抱きしめても、どうにもならなかったような気
がする。あの別れは間違ってはいなかった。そう思う」
「良かった、健が大人になったのが見えた」
僕は顔を上げ静の目を見ながら、目一杯ふざけて
「いや、静の前では子供さ、おチンチンの話したくなる時がまだ有るもの」
「イヤぁな子ねぇ、やだぁ・・・・・・・・・でも、あの頃楽しかったねぇ」
「静は僕が、どのくらい好きだったか、分からなかったでしょ」
「そんなことないわよ・・・・二人でいる時は・・・・いつもわたしぃの事を・・・・最優先に考えてくれたのは知っていたよ。健の事は
・・・・私も大好きだったって。優しくしてくれて・・・・わたしぃが優しくすると・・・・もっともっと優しくしてくれて・・・・嬉しかったのよ。
忘れないよ・・・・今日こうして逢えて・・・・・・良かった」
「あの頃、逢うと必ず静を抱いたでしょ。やらしてくれるから好きだって、思われているかと感じた時が有った」
「いつ頃?」
「静が大塚のアパートに電話をひいて気兼ねなしに話が出来るようになった時、『今日は来て』と言うから行ったのに、僕が目
で合図をしたら静は嫌がった時だ」
「健だって分かるでしょ?女の子には出来ない日が有るでしょ?」
「違う、静はおんなの子の日でも、それまではちゃんと満足させてくれたでしょ」
「それ以外にも出来ない時があるのよ、おんなのこには」
「違う!あの時まで嫌がる事なんて一回もなかった。そうゆう時に工夫して満足させてくれる静が大好きだった。愛されている
と一番感じる時だもの」
僕は静が「今日はダメなのおんなの子の日だから」と言いながら、我慢できない僕の気持ちを分かってくれて、満足させてくれ
るのが普通だった。
「それは・・・・いつか・・・・言える・・時は、来ないかもしれない・・・・けれど・・・・今は言えないの・・・・ごめんね」
こんなしおらしい静は初めてだった。なにかよっぽどの理由があったのだろう。
白衣に誇りを持ち、病院では物事をはっきり言う静はどこへ行ってしまったのかと、感じる程
静は、今までと違う表情でいた。
大人になりきっていない僕には、その時の理由は必要を求めていなかった。
でもその時、拒否された時だ、悲しい、淋しい、やるせない気持ちで帰ったのだ。
僕は何か子供の頃経験した事が有るような、初めてではない空しい気持ちになったのを覚えている。
それは、まだ学校に入学する前の頃だと思う。僕は母親がいつも言っていたように一人では遊べない子供だった。
ある時、近所のお兄ちゃんが、カメラを誇らしげに持ち、年下の子供たちを撮っていて、僕もみんなでかたまりになって、カメラ
に顔を向けていると「健ちゃんはどいて」と、僕だけつまみだされた。
どうゆう意味か全く分からなかった。そのお兄ちゃんは僕が一人でつまらなそうにしているところを撮って、後でその写真をく
れたのだが、その時の僕は仲間外れにされた、すごく淋しく悲しい思いをした。たぶんそのお兄ちゃんは僕一人だけで、写し
てやろうと、親切心だったのだろう。が、子供の僕は後でその写真を貰っても、その時の淋しい、空しい一人ぼっちの僕を思い
出して嬉しくもなんともなかった。
忘れられないその写真は人差し指と親指で輪を作り、左右の輪と輪を鎖のように絡めている。
僕はその時のような、鎖に縛られて自分ではどうしようもない気持ちになった。
この経験は何歳になっても、一人仲間外れにされたような気分の時に思い出す。
これを『トラウマ』と言うのだろう。無意識に左右の指の輪をからめている事が、今までにも何度か有った。最近も姉達から、事
が済んだ後で内容を聞かされたりした時にそうだった。
また、いつも一緒に音楽を聴きに出かける友人が同じように僕にだけ連絡が無い状況を作り、この『鎖』に悩まされた。
静のアパートから一人とぼとぼと帰る時、子供の頃の悪夢が思い起こされて、その時の気持ちそのものだった。
全く話題を変えて、僕も結婚すると言おうとして
「近いうちに結婚しそうだ」と、報告するように言った。
「・・・・・・しそうだ、なんて、気に入らない結婚みたいな言い方ね」
その気は無いのにと、聞こえたようだ、詳しくは話す気など無かった。
あなたを忘れるためでもあるのだと、言いたかった。
静は
「健!おめでとうと、言いたいけれど、結婚は納得がいかなければしては駄目よ」と、
僕の事をまだ心配してくれている。
「それより、静は幸せにやっているの?」
いろいろ話したが、この質問には全くの反応無しで続かなかった。
僕も大人になったつもりでいたから強くは聞かなかった。静も落ち着きが見えたし、結婚をしたものと解釈した。
でも、もしかして『納得しての結婚ではないのかなぁ』と感じた。
だから『納得が・・・・』と言ったのだろうか?いや、いつもそうだったように、僕の事を想っての事だったのか
まだ戸田さんなの、もしかして名前変った?昔の僕だったら平気で聞いただろう事は、冗談でも言えるような雰囲気ではなかっ
た。
そんなこと聞いたところで何にもならない。
もう昔とは違うのだ。もう終わった事だ。
席を立ち帰りがけに姉に甘えるような弟の気分で
「ねぇ、静、僕の結婚式に来てくれる?」
反応を見たかったのかも知れない
「えぇ・・・・私が?・・・・私の事、皆さんに何て紹介するの?ダメでしょう」と
僕が立ちあがっているのに座っている静の目は、真っすぐ前をみたまま言った。
この時の私は、あの「わたしぃ」ではなかったように聞こえた。
これで、永久に会わなくなる。寂しさも何も感じなかった。
出会って別れる、普通の事だ。
今度こそ静を忘れて、淋しくなっても、辛くても、鎖を断ち切って一人で我慢しようと思った。
もうおチンチンの話が出来る人は現れないだろう。などと、一人笑いをしながら建て替えて、綺麗になった病院には振り返りも
しなかった。
別れ際に挨拶はしたのだろうか、思い出さない。
このころから女性に対して別れ際はきれいになった。
この病院へは、また交通事故でも起こさない限り、もう来る事は無いだろう。
静は『わたしぃ』とは言わなかったと、『私』とはっきり言ったと、自分に言い聞かせた。静も、いつまでも知り合った頃のままで
はなくて、変わって往くのだ、同じように僕も。
結婚して家庭が上手く行かない。
女房の奇行や言動に、おかしさが目立ち始める。
義母が頻繁に来るようになり、一人娘と一緒に居たくて仕方がないらしい。
息子の嫁の愚痴も聞いて欲しいらしい。
僕はこの義母に親孝行をする事も含めて、我孫子の地に引っ越しをしたのだから、それはそれでいいのだが、毎日のように
続けられると、僕は疲れて帰って、義母に気を使わなければいけないとの気持ちから、発狂しそうになった事も有った。
でも、反比例するように仕事は順調で、落ち着いてくる。
休日はひどかった。女房の家庭に後から加わった婿養子よりもひどかった。
この違和感は何なのだ。僕だけが他人。
僕の休める場所は何処にあるのだ。
こんな思いをしているから、自然と家への帰り道が遠くなる。
心の安定を外に求めるようになる。
そんな心の変化がそうさせたのか、よく分からないが、なにかと楽しかった頃が、無性に懐かしくなる。
家庭内でも楽しい事はたくさん有ったのだが、それはそれで、それ以外の楽しかった事なのだ。
そうだ。静が言った「十年後の健を見てみたい」と言った言葉が気になり、頭から離れなくなった。
静は何故僕にそんな事を言ったのだろう。
もう二度と会う気がなければ、その言葉は出てこない筈だ。何年か後に会う事を期待していたのだろうか。考え始めると、
静の優しい言葉が思い出されて、会いたくて仕方が無くなって来た。僕の心のよりどころは静なのか。今でも心のどこかで愛し
ているのだろうか、愛する事がどうゆう事なのか、迷い始めてきた。
一緒に生活をしていても、繋がっていない空しさを感じ、ひとりの人を一生愛し続ける。そんな事は僕には無理だ。
どこまで我慢すれば良いのだ。
一緒のお墓に入るとはどうゆう事なのか。不安定な一生を一緒に暮らせなくても、人を愛し続ける事も有るのではないか。
そんな事を仕事の合間や本を読んでいても、考えがそっちへいってしまう。お酒が飲めれば、お酒で気を晴らす事も可能
だろうが、呑めない僕はそうはいかない。
そうだ、間宮文子チビちゃん事件をわざわざ連絡してきたのは、他に理由が有ったのだ。だけど、僕が結婚する話をした
から、話が途切れてしまったのだ。静はそうゆう人だった。
自分の考えや意思は最後に表現する人だった。
出会いから十年経った頃、そんな想いも有って、病院へのダイヤルを回した。
電話に出たのは、ナンバーワンにランクした、美人看護婦の香山さんだった。
「香山さん?久し振りだねぇ、結婚したの?」の問いに
「私いくつになったと思っているの?子供が居るのよ」と、女の自信のような、はっきりした言葉が返って来た。
僕は
「元気そうで良かった」
「健ちゃんこそ、元気?私に何か?そんな事ないよねぇ」
「そうじゃなくて、ナンバーツーはまだ居るの?」
「やだ、まだそんな呼び方して、戸田さんは辞めて田舎へ帰ったよ」との事
「そうかぁ、やっぱりいないんだぁ、香山さん、一度デートしようよ。ナンバーツーが居ないからナンバーワンを誘うのもおかし
いけれどね、あははは」
「何を言っているの?他にたくさん好きな人がいるくせに」と簡単に断られてしまった。
香山さんと静とは、あまり仲が良くなかったから、いい話も悪い話もしてくれた。仲があまり良くないと聞いた時は、まだ十七歳
の少年だった僕は、美人同士は何かが反発しあって、上手くいかないのかと、子供心に関心を持ったものだ。
最後に
「戸田さんは、何年か前に子供連れで挨拶に来たよ」
「えっ、子供を連れて?」
「あら、健ちゃん知らなかったの?」
「知るわけないよ、逢わないもの」
「そうかぁ、だけど、大変みたいよ。結婚するとも言わずに、突然子供連れて来たの」と言った。
「えっ、子供連れて?大変みたいって何か有った?」
「電話番号教えてあげるから、電話してみたら」と、ナンバーを教えてくれた。
「香山さん、ありがとう」
「健ちゃん、戸田さんの事、まだ忘れられないの?ね」
僕はビックリしたけれど本心を吐いた
「うん、淋しくなると思い出しちゃうの」
「戸田さんは幸せな人ねぇ、羨ましいなぁ」
僕との関係を知っていたような、ニアンスだった。
子供連れで、かぁ、幸せにやっているようで嬉しかったが「大変みたいよ」その言葉が気になって、教えられた番号にダイヤル
した。
電話をして嫌がられたらどうしようとか、いろいろ考えてなかなか電話のダイヤルを回せないでいた。その内夢に静が出てく
るようになった。左へカーブしている道を運転していると、正面を照らしているライトがおもわぬ物を写した。スカイブルーのコ
ートを着た静が、男に後ろから羽交い絞めされて「助けてぇ~」と言っているように聞こえるのだが、僕は通り過ぎてしまって戻
ろうとはしないのだ。目が覚めてどうして見過ごしてしまったのか?静がどこかでひどい目にあっていなければいいのだが、だ
とか心配ごととなって記憶に残ってしまった。
まだ携帯電話の無い時代だ。あれは仕事で新宿へ行き、少し時間が有った時に新宿一丁目交差点近くの、公衆電話BOXか
ら掛けたのだ。用意していた言葉は緊張していたからか、呼び出し音が頭の中から消してしまった。
「もしぃ、もしぃ」しに特徴のある、いつも電話に出ることばだ。
僕はドキドキだった
「静??健だけど」
本当にびっくりした声で
「え?健って、健ちゃん?健なの?」
「そうだよ、健だよ。元気そうじゃないか」
「びっくり。どうしてなの?どうかした?」
「うん・・・・なんか・・・心配が優先してね」
ゆっくり話す、いつもの優しい声だ
「心配?何の?わたしぃの事?なにか知っているの?」
「いや、元気で奥様やっているのかなぁ、って、ね。懐かしくってねぇ、すごく会いたくなっちゃって」
ここまで話をした僕は喉を詰まらせるくらいに込み上げてくるものがあった
「健は結婚したのでしょ。変わった?」
僕はたぶん涙声だったのだろう
「あぁ、いつもの・・・・優しい声だねぇ、僕の・・・大好きな声」
「どうしたの?何かあったなぁ?健!泣いているの?」
「何でも無いよ。僕は変わっていないよ。静こそ変わった?」
「なんか有ったなぁ?そうでしょ?わたしぃには分かるのよ。言ってごらんなさい。何でも聞いてくれるわたしぃが好きだって言
っていたでしょ。泣いたっていいよ」
僕の事を一番に考えてくれる静の声だ
「うん、少し淋しくなってね。静の優しい声が聞きたくなったの」
「なんでも聞いてあげるよ」
「嬉しいなぁ、まだ僕だけの静はいる事がわかって」
「喧嘩して別れたわけではないしぃ。仲良しぃのままだよね」
「うれしい。こうして声をまた聞くとは思わなかった」
静は昔のお姉さんそのもので
「ボク!子供の健、弟の健、健ちゃん、よく電話してきてくれたねぇ」
「本当に?僕、静に・・・・逢いたくて・・・逢いたくて・・・・仕方がないの」
「そう、淋しがり屋さん。子供になっちゃったみたいで、心配させないのよ」
「心配させたくないから、電話するのが怖かったの、やっぱり僕は静が大好きさ」
「そう、ありがとう。健だけよ、大好きって言葉で言ってくれるのは」
「恥ずかしくもなく言えるのは静にだけだよ」
「変わっていないねぇ。少し心配になるなぁ」
「大丈夫さ。他人の前や家では大人、やっているから」
「本当かな?健ちゃん!」
「ねぇ、静は太った?」
「わたしぃ、体質的に太らないのよ」
「良かった。デブは嫌いだからね・・・・子供出来たって?」
「・・・・・・誰に聞いたの?」
「ナンバーワンからだよ」
「ああ・・・・香山さんネ・・・・子供を抱いて中野の病院へ行った事が有ったから・・・・うん・・・上は二年生」
「上はぁ?じゃあ下は?」
「・・・・年長さんだよ」
「二人?それは良かった。二人の子供のママかぁ」
二人と聞いて普通の結婚をしている。本当に良かったと思った。愛していた人が幸せになっている。純粋に嬉しかった。
「そうよ、一応主婦やっているよ」
「信じられないね、静がお母さんか?良かったね。幸せそうで。優しいお母さんなんだろうなぁ」
「子供には厳しい怖~いお母さんだよ、あははは」
ちょっと低音の声で
「いろんな事が有るけれどね・・・・」
「静・・・・・・何か有ったの?」
急に高い声で
「何でもないよ、健は?お父さんになった?」
僕はつまらなさそうな低い声で
「うん女の子二人」
「そう、ふたりのお父さんねぇ。健がお父さんかぁ、信じられないね」
「信じないでいいよ、普通のお父さんはやっていないから」
「どうゆう事なの?」
「自分の子供でないような子だから」
「よくわからないわねぇ」
「ねえ、この電話の場所は実家の千葉?」
「千葉のK町」
「エッ、そんなに近くなの?僕の家から一時間くらいだね」
「そんなに近くに住んでいるの?じゃあ近いうちに遊びに来ればぁ」と
静は昔の、若いころのハリのある声に戻って来た。
「遊びに行っていいの?」
「かまわないわよ」
「嬉しいなぁ、会いたいと言っても会ってはくれないと思って電話するのが怖かったの」
僕もウキウキ気分だ
「なに遠慮しているのよ、健なら全然かまわないって」
「そう言われるとすぐにでも会いたいネ」
「又、一緒に美味しいコーヒー飲もうよ」
「じゃあチーズケーキ持って行くよ」
「忘れていないネ、健は。昔の話が沢山出来そうネェ」
「早く会いたいなぁ、休みをとって明日にでも行こうかなぁ?」
「ばぁ~か、子供なんだから・・・」
そんな会話が有ってさっそく会う事になった
自宅に行くのはちょっと抵抗があり船橋駅で、という事になった
もうお互いに歳をとったりしたから、おチンチンの話は出来ないだろうなぁと、にやにやしながら、電話を切り再会を楽しみに
した。
「中年 健」1再会 (連載 6)
「昔みたいにお小遣いはあげられないしぃ」と
この姉は僕が働いてお給料をいただいているのにもかかわらず、まだまだ駄目な弟で一人前とは認めてはいないようだ。
いきなり自宅へ行くのにはなにか抵抗が有って、外で再会の約束をしたのだが、当日都合が悪くなって
「今日は行けなくなった」と電話を入れた。
土曜日で子供の具合が悪く、医者まで送り迎えをしてくれと言われて、普段家庭の事など振り向かないので、請けざるを
得なかったのだ。
不思議なもので会えるとなると焦らない
「そんなぁ、今日会えないのだったら!もう逢ってあげないから!」と
強い言葉が返ってきた。
「初めてだネ、静が僕にこんなに強く言ったのは?」
いつも優しい静の怒ったところを僕は知らなかった。
「だってぇ、今日を楽しみにしていたのよぉ、本当だから、電話を切ってからずーと朝から晩まで健のこと想っていたのよぉ」
「わかった、わかりましたよ。行きますよ」と、
静の機嫌を取るのに四苦八苦した。わがままな妹の静そのものだ。
「仕事で急用が出来た。たぶん戻らないから」と、
言い残し電車に乗った。電車の中で昔の事を考えていた。あんな事もこんな事も、静は昔のような、にこやかな笑顔を見
せてくれるのだろうか。もともと姉を感じるときの静は、落ち着いた大人を感じさせたが、ふたりのお母さんになった静は、
あの姉以上の落ち着いた女性になっているのだろうか。電話で
「今日逢えないのだったら、もう逢ってあげないから」と、
言った。
その言葉を反芻しながら、僕の事を今でも愛していてくれたからの言葉だったのだろうか?揺れる電車の中から動かな
い鉄塔の先端を見続けていた。
JR船橋駅で待ち合わせをしたのだが、雑踏の中を京成船橋駅のホームから歩み寄って来る静の姿は、僕にはすぐに分
かった。
今の船橋駅は総武線も京成線も高架となってしまって、昔の面影は全く無くなってしまったが、その頃は両線とも踏切で、
車や通行の人々が踏切の遮断機待ちで大変だった。
昔、待ち合わせをした時のように、いつも右手を高く上げ大きく振る僕に、静はうつむき加減に恥じらい、昔と同じように、
わかったからそんなに大きく手を振らないでと、でも言いたげに近寄って来た。
昔とは全く変わらないその時の静は、初めて会った時のような新鮮な若々しさが有った。あの中野の病院で、初めて僕の
病室に入って来た時の、あの綺麗なお姉さんが目の前に現れた。
今、美容院から出て来たと、そんな髪の毛は艶やかで、気持ちの良い香りがして、今日僕と会うために、髪を整えて来て
くれたのだと、僕は嬉しくなった。
いつものように顔はそのままで、僕を斜めに見上げるように、見入るにこやかな表情は、僕よりも年上には、とても思えな
かった。
今までもそうだったけれど、僕の年代の女性達と同じような・・・・いや、そうではなくて、今のファッションを、自分なりにアレ
ンジして、楽しんでいて、そうゆうセンスの良さも、僕を今まで満足させて来たのだ。紺のタイトスカートに白い上着。
その上着には、静の好きな薄紫色の花がいくつか刺繍されていて、靴は僕の大好きな白いハイヒールで、スタイルのい
い静には、とてもよく似合っていて、一目見て再会して良かったと思った。
そして僕は、なぜこんなにいつまでも綺麗なのだろうと不思議に感じた。僕は静の着物姿が見たくて、いつもお願いしてい
たのだが、今日のようにタイトスカートの静も大好きで、膝から下にすらっと伸びた長い脚を、惜しげもなく見せてくれる静
が大好きだった。
僕にぶつかりそうになって、顔を合わせるなりニコッと笑って、すぐに僕の左腕を取り、からだを僕に預けて来た。
二三日会わなかった恋人同士が再会したような、そんな雰囲気を僕は感じていた。静は僕の顔を見ないで一言
「健、逢えて良かった」と
駅近くの喫茶店の隅で、別れてからの空間を埋めるように、話し込んだ。話をしていて僕は、過去の話し以外は何を話し
ていいのか解らずにいた。いや静もそう感じていただろう。外が暗くなり僕はいつもそうだったように
「今日は?ゆっくり出来るの?」と、
自然に二人の合言葉を言った。静は僕の目を見ないで、あの初めてのアパートでの仕草、親指と人差し指で丸を作った。
夕食は何を食べたのか覚えてはいない。これから訪れる二人の時間を思いながら、たぶん忘れるくらい話に夢中になっ
ていたのだろう。
タクシーに乗るなり「夏見へ」と静は運転手に行き先を指示した。夏見?それがどこなのか?僕は今までそうだったよう
に、静にこれからの行動を任せた。
静はタクシーの中で、昔の看護婦仲間のその後を話していて、僕は「そんな人知らないよ」と言っても話し続けていた。
僕は静がこれから起こる事で、興奮をしている事を見抜いた。
タクシーを降りて僕は夏見とはどうゆう場所なのか思っていたのだが、予想通りの場所だと、すぐに理解した。
夏見は多分静が、過去に何度か利用した事のある、そんなホテル街だった。静に引っ張られるように、入ったこのホテ
ルは、高級感のあるホテルで、僕にとっては初めて経験する高級ホテルだった。
ホテルの部屋に入り、ドアーを閉めてすぐに僕は、薄紫色の花柄刺繍の有る白い上着を着たままの静を抱きしめた。
服の上からでも静の体の温もりや、匂い、この感触忘れてはいない。感覚の全てが元に戻ってきた。僕は静を抱きしめ
ながら
「逢いたかった、本当に逢いたかった」と、
僕は興奮した少し震える声で、言った。静も上ずった声で
「今日会う約束をしてから・・・・健の事考えると眠れなくて・・・・・濡れてきて我慢出来ないでいたのよ。本当よ。それなの
に『いけなくなった』なんて言ったのはだれ?こいつ!大好き!」と、
静は言いながら、僕の首に両腕をまわして強く抱きついていた手のひらで、僕の頭を叩いた。そんな言葉を聞いた僕は
「我慢できない時、女の子はどうするのだっけ?答を聞いてないぞ」
「バカ、もう、健ちゃんたら」僕はきつく抱いた
「逢いたかった、僕はやっぱり静が忘れられなかった。大好きなんだ」
「そんなに強く抱きしめないで、息が出来なくなる」
「もう離さない」と
言いながら僕の両手は、静の喜ぶ方向へ向かって行った。静は、お尻を突き出すように、腕を離していやいやをしながら
後づ去りをした。
「健、子供じゃないのだから、シャワーを浴びてからネ。恥をかかせないで」
静がシャワーを浴びに行き、ひとりになった僕は、ソファーに座っていろいろ今までの事がまた頭に浮かび、出会った頃を考え始めていると
「健!一緒に入ろう」と
静の声がして我に返った。いつもこうゆう場所に入ると、静と一緒にシャワーを浴びていたのだ。僕がシャワールームへ入
って行くと静は直ぐにシャワーヘッドを僕に向けてふざけた。いつもはやる気持ちを抑えられないで、シャワーを浴びなが
ら、静を抱くのが普通だった。シャワーを浴びせながら、静は昔と同じように、僕の体を丁寧に洗ってくれた。
この優しい感触はいつでも思い出せる。硬くなった僕をもてあそぶでもなく、僕の感じるコツを覚えていた。
「静、忘れてないネ」と僕は獣になりかけて
「静いい?」
「若い頃の健に戻ったの?うれしいぃ、でも、もう、大人でしょ。健、ベッドでね、ゆっくり、ね」
そういわれても僕は我慢が出来なかった。今は我儘の子供でいたかった。
静も満足の声を発しはじめていたが
「健、ベッドで、ね、ここではいやよ、お願い」と
懇願したので、僕は途中で止めた。ぼくはいやいやをする時の静を、無理やり攻めたことは初めのころ以外はあまりな
い。改めてシャワーで流して、バスタオルで優しく拭いてくれた。そして、今度は僕が静をお姫様抱っこでベッドへ
「新婚初夜みたい」と
にこやかな顔で言いながら、静は僕の首へ両腕を回して僕の目を恥ずかしそうに見ている。そして僕の口を口で塞ぎ、
今の自分を忘れるかのように、激しく吸った。僕は子供を寝かせるように、静を優しくベッドへ寝かし
「静はどうしてこんなにいつまでも、若くて綺麗なの?」
静は自分に今でも負けてしまいそう、と言いたい目を僕に向けて
「健に・・・逢う・・・ために・・・おめかし・・・して・・・来たのよ。若いとか・・・・綺麗だとか・・・言わないでよ・・・逢えただけでも・・・嬉しくて・・・」と、
途切れ途切れの言葉を繋げた。その言葉を全て聴く前に、僕はあのけっして大きくはない、静の胸を刺激していた。
「子供生んでおっぱい出た?」
「こんなに・・・・小さくても・・・・二人とも・・・・母乳で・・・育てたのよ」
「へぇ、おっぱいの大小は関係ないの?」
「そうよ、あふれ出て、いつもタオルを胸に巻いていたの」
少し恥じらいを表情に出しながらも全てを隠そうとはしなかった
「このおっぱいで二人育てたのかぁ」
「そう・・・今三人目を育てているでしょ?あははは」と微笑声で言った
「三人目って、僕?」と
問いかけると初めてと思えるような小声で
「そうよ、健、電気消して、お願い」
「どうして?いつも見せてくれていたのに」
「久し振りで・・・恥ずかしいもの」
やっぱりこの人は女としての嗜みは心得ているようだ。
僕はスイッチをベッド下のフットライトに切り替えた
「静」
「なぁに?」
「生む前と生んだ後、変わった?」
「凄く感じるようになったのよ」
「怖いな」
「何が?」
「もしかしたら、昔と違う静になっているのかと思うと」
「何言っているの?変わっていないって」
「そうかな?そうだと良いのだけど。当然だけど、僕の全く知らない時間が静を変えて・・・・」
「ばかねぇ、早く抱いて、そうすればわかるでしょ?」
それなのに僕は、ベッドではあまりの感激でなのか?或いは本当に怖くてなのか、静を抱けないような緊張を覚えた。
どうしたのだろう、いつまでたっても男になれないでいた。
「静、ダメみたい。初めてだな、こんな事」
僕は静という女性の裸を見ると、いつも我慢が出来なかった。それなのにどうしたのだろう。今まで静が欲しくてほしくて
たまらないでいたのに。
「静、ごめん」
「健・・・・」
「感激して嬉しくて、静の大好きなおチンチンが・・・・だからシャワーの時にしたかった」
「いいの、さっきシャワーの時に、してくれたでしょ。感じたのよ、大丈夫よ。ゆっくりで、ね、昔みたいに、朝して、今は抱
きしめて、それだけで、いいの。がんばってなんて言わないよ」
僕は言われるように抱きしめた。静はまた言葉が途切れ途切れになった。
「そんな・・に・・・強く・・・抱かなくても・・逃げないから」
静はいつも優しく抱くと
「健に抱かれると力が抜けてゆきそう」と、
僕に身を委ねてくる。
僕は男の子になって
「やだって!今でなきゃ。今、したいの。静が欲しくて、欲しくて我慢出来なかった。さっき、昔静が僕にしてくれた事、思い
出していたの。ねぇ静、僕がして欲しい事わかるでしょ?あれしてよ。必ず静を喜ばせてあげるから。お願い」
静は黙ってからだを僕の下半身へと移して「これ?」と返事を待たずに始めた。静は言葉でなく、僕のからだの反応を見
て確認しているようだった。
「とても上手くなったね」
「違うの、相手が健だからなのよ。本当よ。健にはたくさん感じて欲しいの。いつもそう思いながらしていたの」
夫婦以上に、お互いのからだの反応はわかっている二人だ。静はからだを上にずらして二人は一つになった。
「ねぇ、静、どう?僕は懐かしい場所に戻って来たみたい。動かなくても静を感じる事が出来る」
「うれしい、何年ぶりかしら、健のおチンチン」
「静は昔よりおんなになったね」
「昔と違う?変わった?」
「うん、違う。このまま動かないで終わっちゃいそう。僕が動かなくても、何かが動いてる」
「いいのよ、健が喜んでくれてうれしい」
僕はこの言葉で静を抱きしめて、そしていってしまった
「ごめんねぇ、静。中にしちゃったよ」
「いいのよ、健は久し振りのわたしぃに満足してくれたのねぇ。お帽子被せたのわからなかった?」
「どうして静は、僕にこんなに優しくしてくれるの」
「健の事が大好きだからよ。好きな人が喜ぶことは、何でもしてあげたくなるでしょ」
「嬉しいなぁ、昔のままの静がここに居る」
静は昔のように、僕をきれいにして。また僕をさわりながら会話を続けている
「健も変わっていなくて良かった。ほら、もうわたしぃが欲しいって大きくしている」
「静、大好きさ。今度は静が感じる番だからね」
僕は静に失望されたくないと、知り合った頃よりも「おとこ」いや「雄」になって静の聞き慣れた声を待った。そうだ、僕も静
にたくさん感じて欲しいと、思いながら静の喜ぶ声を聞き、僕は自分が満足する以上にまた満足していた。
翌朝、隣で気持ちよさそうに、寝息をたてている静を見ながら、僕の大好きな薄紫色のネグリジェの前ボタンをはずして、
子供の頃見たくて仕方なかった静のおっぱいを見ていた。そして優しく口をあてた。三人目を育てている、か、そのとおり
だと思った。
「静、朝だよ」と
声を掛けると
「あっ健、寝顔を見ていたの?あっ胸見ていたの?いやぁな子ねぇ」
「久し振りで静のおっぱい見たくなったの」
静は胸を隠そうともしないで、左右から両手で誇らしげに寄せ上げながら
「いやな子、どう?変わっていた?」
「僕の大好きなおっぱいは変わっていなかったよ」と、
僕は静の胸に顔を近づけると、僕の落ち着く大好きな静の香りがした。急に静は僕の首に両腕をまわしてきて
「健、抱いてお願い。健は朝元気になるでしょ?」
「当り前さ、若さのしるし、朝の静は本当に色気を感じるよ」
ただでさえ静の色気に負けてしまう僕なのに、寝起きの静は何とも言えない妖精のような幼さを漂わせている。
「早く、健、来て」と
僕を両手で挽きよせて離さない
「ねぇお帽子って何だったの?」
「えっ、今頃何を言い出すの?昨日も三回もかぶったでしょ。早く」
「あっ、朝から何もしていないのに濡れてる」
「だって・・・夢でも健としていたのよ」
朝の静はおんなそのもので、とにかく色っぽい。朝のシャワーもいつものように一緒でお互いに掛けながら僕はまた元気
になってきた。それを見た静は
「健、若いねぇ。まだしたいの?」
「静が良けれ・・・・いい?」と
「負けた、健にはかなわない。またぁ・・・・・いつもそうだったね、もうお帽子無いから中にしちゃぁダメよ」
泊りの時はいつも、チェックアウトぎりぎりだ。
駅前の喫茶店で、朝食をとりながら
「なつかしいねぇ。昔よくこうやって、喫茶店のモーニングサービス食べたね」
そうねぇ、と言いながら朝からよく食べる。このままだと、僕の分も食べてしまいそうなので、トーストを追加した。
「よく食べるねぇ、育ち盛りみたい」
静はバターをたっぷりパンに採りながら
「・・・・の次は食欲」
「睡眠欲をコントロール出来る看護婦さんでも、食欲には負けるか?」
「そうだよ、性欲もね」と、片目をつぶった。
そして、静は手帳の何も書いていないページを一枚切り取り、これからの勤務予定をカレンダーふうにメモしてくれた。
「丸印は勤務。何も書いていない日は電話をしないで来てもかまわないから、来て。勤務の時は産院に電話お願いね」
「K町の家へ?」
「外で会うとお金がかかるでしょ。無駄使いしないでね。それに昔みたいにお小遣いあげられないしぃ」
静は僕を、まだ育ち切っていない、ダメな弟と思っている。
「中年 健」 再会2(連載 7)
再会して、一週間後、静の家へ車で向かった。途中で電話を入れて、あと10分程度で到着すると告げた。
K町の家は、綺麗に区画整理された、団地の真ん中に位置する、一軒家だった。表通りまで迎えに出てい
てくれた静はエプロン姿で、近所の『奥さん』そのものだった。でも、僕には年上でも年下でもない、昔の静だった。
「エプロンしているから、判らなかったよ」
「これでもご近所の目が有るから、気を使っているのよ、わかる?」
さすがにこの姉は違う。
二人の子供は学校と幼稚園で居なかった。家庭人の静の顔は、自信に満ちた人が作る、表情をしていた。昔よく
言っていた。
「結婚したら家具は白で統一して、細かい料理道具は見えないようにしたいの」と
そのとおりの部屋と十畳以上の広いリビング。キッチンからはコーヒーのいい香りがしていた。僕の好きなコーヒ
ー豆を用意してくれていたようだ。
「静の入れたコーヒーは本当においしい」
過去のおさらいをするように、疑問を確認するような、会話が続いた。
前に書いたような事は、この時に確認して、分かったことだ。チビちゃんこと間宮文子事件が有った頃に、結婚を諦め
て『お妾さん』になることを了解したそうだ。やっぱりあの頃僕を思い出して、間宮文子事件を理由にして連絡したのだ
そうだ。僕が、結婚話をしたために自分の意思を通せば、また過去のような事になりそうな感じがして、僕の結婚を傍
観しようと決めたそうだ。
「あの時、健も結婚するのかぁ、あまり気乗りしないようだったけど、邪魔しちゃいけないと思ったの」
「今考えると、邪魔してくれれば良かったのに予想通りさ、上手くなんていってやしない」
静は空になったヨーロッパの貴族が使うような上品なコーヒーカップを白魚のような両手で包み込み取り、残った温も
りを感じるようにして静かな優しい声で、
「みんなそう言うのよ。自分の意思を曲げて生きているの、家庭生活なんて上手くいっている人の方が少ないって」と
自分に言い聞かせるように言った。
僕は知っているよと
「でも、静は自分の意思を通してさぁ、立派だね」
「他に方法が無かっただけよ。与えられた環境の中で自分のやりたい事をやる」
この信念で、私は今まで生きて来たのだ。私は自分の信念は曲げないで来たと、言いたいような強い言葉だった。
わたしぃとは言っていなかった。僕には、私と聞こえた。
「僕も、これからは好きなことやって、生きて行くさ」
「私は、兄弟にいろいろ言われているけれど、自分に忠実に生きているの、誰にも迷惑かけてはいないしぃ 、そう決め
たのよ」
自分だけには、妥協をしないで生きて来たのだと
「今おかれている立場を、兄弟は知っているの?」
僕は今までそうだっように、自分からの問いかけは止めよう。僕も個人的なことは言うまいと、接してきた。が、僕から初
めて今、静の置かれている立場を聞いた。それは静の事が心配で気にしていたからに他ならない。
「うちの人の偉いところはね、一緒にわたしぃの兄弟すべてに挨拶に行ったの」
そんな人が居るだろうか?
「へぇ、兄弟って十一人でしょ?僕には出来ないね」
「『悪くはしません、宜しくお願いします』ってね」
「さすがに、静が好きになった人は違うねぇ」
「わかっているね、健。健もわたしぃが好きになった人だよ」と僕を覗き込んだ
「静は僕にすごく影響を与えた人だけど、改めて凄い人だと思うよ、強い人だね」
「でもね、只一人の弟にはかなり言われたのよ『そんなぁ、かっこ悪い。それじゃお妾さんにします宜しくって、宜しくなんて
言われたって、身勝手な人だな』とね、健も曲がった事さえしなければ、したい事して生きていけばいい。それは誰も批判
は出来ない事だからね」
僕は何となくそう思い始めていた
「どおりで、静は若くなったみたいだね」
「わたしぃ?そんなこと言ってはいるけれど、結構大変な事も有るしぃ」
うちの人は僕と並行して前から付き合っていた外科医。今は九州の某大学医学部の教授で、月に一回程度、学会と称して
帰ってくるそうだ。中野の病院の前の勤務先だった千葉の外科専門の病院で知り合ったらしい。お互いが当直勤務の時に、
なかば無理やり関係を持ったとの事。初めて会った時に、素敵な人と思ったらしい。でも、無理やり関係を持つとは思わなかっ
たそうだ。
今の静は、船橋駅近くの産院で看護婦をしている。近いうちに『助産婦』の資格を取得するらしい。子供は上が男の子正君
で、下は女の子の安希子ちゃん知り合った頃、将来、子供が出来て女の子だったらと、名前を決めていた。ほんの冗談で話
した事だけど、静が、男の子には漢字で一文字、女の子には安らかに希望を持って生きて行く子『安希子』そう付けようと言
って、僕も静も実際に自分の子供にその名前を付けていた。
「静も忘れてはいなかったの?僕は女の子と聞いて直ぐにその名前を付ける事に決めたのさ」
「健もそうだったの?わたしぃも、健と女の子が出来たら・・・・なんて話したなぁと、そう思ったよ」
二人は目を合わせた。僕にとってこの人は何なのだろう
僕の方は女房が「変」なので家庭内別居である事、今から考えると「うつ病」だったのだ。当時そうは言わなかった。アダルト
チルドレンと言った。
女房の母親もそれに近かったようだ。友人の心療内科医の話によると、遺伝ではないけれど、その家族と言う環境が、受け継ぐ傾向
にあるらしい。だから僕の次女に、その症状が出てかなり大変な思いをした。
国立病院で心療内科の小児担当だったその友人に、相談に乗ってもらった。
病院は3カ月先まで予約が取れないとの話で、彼の事務所(この医師は技術系会社の社長でも有った)会社に親子で来るように
との指示だった。初めてのカウンセリングは、母親である女房は2時間、子供が1時間で、何回か通う事になった。
カウンセリングが終わると僕は、翌日会社から電話で本当の事を聞き、対処の方法をアドバイスして貰う。
「奥さんの影響が色濃くお子さんに出ています」と
「奥さんの愚痴を聞いてくれる方が、近くに居ませんか?」
「会話はカウンセリングと同じですから」
これは都合がいい
「近くに女房の母親が居ますから話してみます」
今考えると、これが悪い方向へ行ってしまったようだ。義母にわけを話し了解を得たのだが、義母の方が自分の愚痴を女
房に話し、聞いてもらっていて、これではカウンセリングにも、何にもなっていない。逆に症状を悪化させてしまったようだ。
僕はそれを自分なりに都合のいい解釈をして、静との時間を優先していた。
性同一性障害ではないかと、思わせるその行動や言葉使いは、僕を悩み続けさせていたが、僕には静がいたから、我慢
し続ける事は出来ると思っていた。
静とはその後、お互いの置かれている立場が、昔の関係に戻してしまった。男と女の関係だけではなく、すごく良い関係が
続いた。
もちろん、静のおんなの魅力は、過去とは比べ物にならないくらい僕を満足させた。考えたら「お妾さん」は「おんな」を武器
にしている立場の人だからか、僕は静の虜になりそうだ。静は男を喜ばせる事も、男を立てる事も知っているバカになれる
女性になっていた。
静はもともと頭のいい人なのだろう。僕は家庭の話をしても、女房の話はしなかったが、いろいろ相談をした事も有った。
静の家に泊まる時は楽しかった。子供と遊ぶのもそのひとつだったけれど、やはり静を抱けることが、最大の喜びだった。
その夜もいつものように静は僕の左隣りで硬くなった僕を握って
その僕の分身に向かって
「健ちゃん!浮気しなかったでしょうネ?」だとか
「健ちゃんは誰が一番好きなの?」と、話しかけたりした
僕は弟の気分で
「浮気なんてしないよ。一番好きなのは静お姉ちゃんだもん」
「どうだかなぁ?チェックするからね」と言いながら僕の下半身へ
「うん、しなかったかなぁ、おかしい?硬さがちがうなぁ」などと、独り言
「してないよ。信じてよ。お姉ちゃま」と僕
「看護婦は、身体をチェックするのがお仕事なのよ。うそを言うとわかるのよ。ねぇ健ちゃんは誰が相手でも大きくするの?
他の女の人に大きくしてはいけませんよ、いいわねぇ」と
「ぺんぺん」と平手で叩いた。
健、聞いてよ、と言いながら
「うちの人がねぇ、わたしぃの中にいるときに言うのよ『浮気はしなかっただろうな』って、嫌な奴でしょ。じゃあ今、あなた
がしているのは何だって、浮気でしょ?ってね。笑いたくなっちゃう」
「そうゆう時、静は何て答えるの?」
「教えてあげようか?・・・・ヤキモチ・・焼かない?」
「教えてよ、ヤキモチなんて焼かないから」
「何も口に出さないでね、いったふりしちゃうの。そうするとすぐに満足して終っちゃうの、男って単純ね」
「えっ、それで静はいいの?」
「だってぇ、そんな事言われてまでしても、良くはならないもの」
「女ってそんなもんなの?」
「浮気しているかどうか聞いといて、耳元で愛してる、とか、いい?とか、言われて気持ちよくなるわけがないでしょ」
「そうだよねぇ」
僕もそうなのだ、その気持ちはよく理解できる
「健みたいに、好きな人想い浮かべて一人でした方が気持ちいいもの」
「やっぱり静も一人でしていたなぁ」
「昔そんな話をしたねぇ、ははははははは」
僕は女の人はどうやるのか詳しく聞いた。静は恥ずかしいとも思わないのか、相手が僕だからなのか教えてくれた。静は
うつ伏せですると言った。
「うつ伏せですると抱かれているようで、ね」
「そのぉ、想い浮かべるのは僕?それとも・・・・うちの人?誰?」
「健のほかに誰がいるの?」
「うそだぁ、たまには他の人でしょ?」
「健に決まっているでしょ」
「本当だったらうれしいなぁ」
僕が静の中に入ったので問いかけた
「静が僕としている今は、浮気?」
「わたしぃは独身だもの、浮気をしている犯人は健だよ」
「僕は家ではしないもん、絶対にねぇ」
「ウソ!しないわけないよ」
「してないって、静のあまり好きでないマグロだもん。うちのヤツは」
「えっ?私の嫌いなマグロって何?」
「静、知らないの?魚市場のマグロ、ただ寝ているだけ、反応なし」
「上手い事言うねぇ。へぇ不感症?なの?」
「どうも親元近くの我孫子に引っ越しをしてから我儘が進んでね。僕の事は二の次、いや、三の次になってね。だからする気
がしない。向こうもそんなそぶりはしないし、僕にはそれが都合いいの」
「本当?健はいつもわたしぃが触ると大きくなっているから、毎日のようにしていると思っていた」
「男はねぇ、若い時は俗に穴ならマンホールでもいい、なんて言うけれど、ある程度歳をとると本当に好きな人でないとダメな
の、少なくも僕はそうだから飽きてくると始めはその気でも、途中で駄目になっちゃうの」
「へぇ、健はいろんな事覚えたね」
「うちの人はどうなの?途中で駄目にならない?なったら静の事興味が無くなってきた証拠だぞ」
「そう言えば・・・・」
「ほら、ね、僕だけだよ。いつも静をこんなに欲しい、って、態度で示しているのは」
「初めはわたしぃ が教えたのに、今は健に教えてもらっている」
たぶん、静の経験はうちの人と、僕だけなのだろうなぁと、想像した。もう四十に手が届くというのに、静の幼い部分を知って、改めて新鮮な感覚に導かれたよう
な気がした。
いつものようにお手拭きで僕を拭きながらいやに甘ったるい声で
「ねえ、教えて?」
「何?」
「男の人は終ったあとのおとこの子は、凄く敏感になっているでしょ」
「終わった後?それはそうだよ。くすぐったいくらいさ」
「それなのにねぇ・・・・」
「何?」
「すぐに口でしてって、言うのよ、嫌な人でしょ」
「してあげればいいのに」
「だってぇ・・・・健のおチンチンだったらできるけれど」
「どうして?」
「健みたいに若くないから・・・・」
「若くないから、どうなの?」
「終わると直ぐに・・・・おじいちゃんみたいに・・・・だらしなくなって・・・・」
「だらしなく?」
「健は終わってもまだ硬いでしょ」
「じゃあ、今日は終わったら、僕にしてよ」
僕は、他人夫婦の性生活を垣間見たようで。妙に興奮した
終わった後に静は口に含んだ、そして
「どう?ねぇ、いいの?こう、これは?」
質問しながら答えない僕をお掃除するように、いろいろ角度や場所を変えて最後に言った
「健・・・・美味しい」
だからいつもと違う抱き方をすると
「そんな事、健たらぁ、もう」とか
「そんな事わたしぃ教えた事無いよ。どこで覚えたの?奥さんとそんなことしているの?」
「待って、そんなの初めて」とか
「健、そんな格好して痛くないの?」とか、
僕が静の中に入っている時に僕の感じ方は知っているのに
「ねぇ、わたしぃと奥さんと、どっちがいい?」と
静は言葉で聞いてきた
「静、そんな事言うとやる気が失せちゃうよ」
「だってぇ」
「その言葉は、浮気しに来る男が言う言葉と同じだぞ」
ここまで言うと僕は平手で静の頭を軽く叩く、少しでも言葉で確認が欲しかったようで、静も普通に
「おんな」なのだなぁ、と感じさせる時でもあった。
「中年 健」 再会3(連載 8)
静には僕のどこが?と聞いた事が有った。それは、出会ってから初めての質問だった。
どうせ歳上のお姉さんが、暇な時間を持て余して・・・・・・と、思いたくはなかったから、今までこ質問は封印していたのだ。
それは再会してから二度目に自宅へ行った日だった。その日は寒い日で静は僕に男物の白いセーターを出してくれて
「寒いからこれ着なさい」
「これ、男物じゃないか」
「そうよ、着れば」
「これ僕の為に用意していてくれたの?」
「そうよ、そうだって」
「違う、いやだ、着ない」
「やぁな子ねぇ、風邪ひいたらどうするの、わたしぃが困るのよ」
後でわかったのだが、本当に僕の為に買って置いてくれていたらしい。でもその時の僕は、少しうちの人に遠慮というか、
後ろめたさでも有ったのだろう。着ないでいた。
寒いと和室で炬燵に入りながら、布団の中ではお互いを異性である事を確認するように、じゃれあって、僕は素敵なすらっ
とした静の足を触り、下着を付けていない部分も。そしてたまには胸を触る。静はいつも僕を触り始めて「もう?」とびっくりし
ながら、僕の目を見る。
「ねぇ、健」
「何?」
「お願い・・・触って・・・・・」
皆そうなのだろうか?昼間からでも静はそれを求めた。僕は嫌では無かった。
「うれしいなぁ、いつも僕を待っていてくれて」
僕は過去に本で読んだ事が有った。
お妾さんは旦那が来ると傍にいて触り出す。年寄りの旦那はなかなかその気にならない、でその気になって来ると手を離す。
で、時間をおいてまた同じことを繰り返す。それが引きとめるテクニックで有ると。
「健と約束するでしょ、それだけで濡れてきてね。健の顔見るとだめなの、もう我慢出来ないのよ」
「うれしいけど、そんなにおねだりする静は・・・・」
「なに?嫌い?そんな事無いでしょ?嫌いになんてならないでしょ?」
僕はいつもダブルベッドに一人で寝ているのは淋しのだろうと感じた。
静には僕のどこが?静がそんなおんなの子の時に僕は聞いたのだ。
その時は僕の質問にその手の動きを止めて離し
「初めてね、そんな事聞くの。わたしぃ、年下男には全く興味は無い女だったのよ」と
言いながら、リビングの棚からかなり厚めのアルバムを取り出してきて、見せてくれた。
二人で腹這いに並んで覗き込んだ。子供との写真がほとんどで、つい最近の写真のように思える中に『角隠し』は付けていな
いが、花嫁衣装を着た静の写真を見つけた。しかし一人で写っている
「なぜ二人で撮らなかったの?」
「二人で撮れるわけないでしょ。子供が大きくなって『お母さんのお嫁さんの時の写真は?』って聞かれた時に有った方がいい
かなと思って、自分で勝手に撮ったの」
「静は頭が良いねぇ。僕はそういうことは気がつかない方だから、この間もエプロン姿で表通りで待っていてくれたのには、感心
したもの」
そのアルバムには、家族の写真と一緒に、僕の写真も張ってあってびっくり。そうだ、この写真は僕から強引に取り上げた写真
だ。
成人式の写真は渡すつもりだったが高校生の時好きだった女の子、と一緒の写真で
「この子が健の今の恋人?」と
冷やかしながら取り上げて返してくれなかった写真だ
「僕から取り上げて、静は僕に写真をくれなかった」
「わたしぃ 写真写りが悪いから」と
その写真を家族が見るであろうアルバムに貼ってある、不思議な人だ。
そして黙って、一枚の集合写真を指差した。僕に見せた写真には僕が写っている。いや、僕ではない。
「僕の記憶には無い人達と写っている。この僕は・・・・・記憶が無い、僕じゃないね?」
「びっくりした?気分悪くしたらごめんね、そこに写っているのは、あの人」
「あの人?うちの人?」
僕は何が何だか、分からなくなっていた。僕はあの人の顔を見るのが初めてだった。どんな人なのか全く興味が無かった。でも
静が、会話の中で、うちの人と言うと、勝手に中野の病院で僕を診察した黒淵眼鏡で小太りな外科医を思い描いたので、驚いた。
あまりの違いと言うか僕に似ていて。
「そう、ごめんね、気を悪くした?」
「僕が僕だと思うほど似ている、へえ」
「不思議でしょ」
「イヤ、それよりも、似ていたから?だから?僕に優しくしてくれたの?」
「はっきりしておくね、始めて健を見た時は本当にびっくりしたの、あの人の若い時と瓜二つだと思ったくらいよ」
「じゃぁ、やっぱり初めて会った時から、僕が、静は普通の人と違うと感じたように、静も本当普通の人と違うと思ったの?」
僕は炬燵に足だけ入れて、横に居る静の横顔を見た。静は初めて僕の病室へ入った時を思い出すかのように
「そう、初めて病室に入った時に健は、わたしぃの手を握ったでしょ?だから似ていてビックリしているのに、手を握るんだもの。
だから興味が有ったの。用事も無いのに付き添いのおばさん相手に話込んだり」
「へえぇ、そうだったのぉ、人の良いおばさんに、相談に来ていると思っていた」
「病室へ健の顔を見に行ったのよ。何度もね。あの時は心がときめいてね。十代の頃に戻って
いたの」と
言いながら、僕の上に半身を預けるようにして軽く口付けをした
「ふうん、話は聞いてみないとわからないね。僕は、大人の話をしていると思って聞こうとも思わないで、静の表情だけ見ていた」
「うん、分かっていたよ。今、この人はわたしぃを見ているって」
「静の顔を見ながらネ・・・・言っちゃうね、こうゆう綺麗で優しい人とたくさん話が出来たら楽しいだろうなって」
「言ってくれればいいのに」
「言えないよ、意識しちゃうとダメなの。あの頃僕はまだ童貞だったし、女学生とは慣れていたけれど、綺麗な大人の女性と面と
向かって話をした事がなかったから」
静は「童貞」という言葉で僕を見た。そしてもう一度唇を求め強く吸った。僕は静を強く抱きしめていた。
「私が健の初めてのおんなだよ」とでも言いたいような。
そう、おチンチンの話をした頃を思い出しているようだったと。僕は静の表情をみて勝手に思った。すると静は僕を見ながら
「その後二人だけで会うたびにね・・・・健はわたしぃに合っているって、感じがしてきたの」
「合っているって、僕のおチンチンと静のおんなの子・・・・が?」
「また、やだなぁ、はっきり言うのは止めてよ」
「じゃあ、病室で言っていたように、僕のナニと静ナニ?」
「ちゃかさないの、もちろんそれもそうだよ。健がわたしぃの中にいるといつもそう思うのよ。からだも気持ちも、全部満たされて
いるような感じがしてね。ただ一緒にいても話をしても・・・・話も話し方も雰囲気も健の匂いも、健の声の響きも、ね」
「へえぇ、分かった、だから僕が入院したての頃言葉の最後は、『です』とか、『そうですか』なんて丁寧な言葉使っていたの」
「そうだった?うん、そうかもしれないねぇ。どうしても医者と看護婦の関係になっていたみたいで、丁寧な言葉使いになっていた
のかなぁ」
「親しくなってからもそうだったよ」
「自分じゃわからないねぇ」
「僕がそんな他人に話すような言葉使いはやめて、と言ったの、覚えていないの?」
「そんな事言われたねぇ、確か」
「じゃ、僕を高校の教師と思っていたからじゃ・・・・」
「それは、若い看護婦がそう感じたのよ。間宮さんはそうゆう健が好きだったみたいよ」
と、言いながらコーヒーのお代わりを入れようと、炬燵を出て行った。
僕は
「チビちゃんかぁ、生きていたら会いたいねぇ」
僕は懐かしさでいっぱいで、下着を付けていないスタイルのいいスカート姿の静の後を追うように話しかけたが、聞こえないのか、
静の背中とかたちのいいお尻は、僕の言葉を途切れさせた。僕は突然、静に抱きしめて欲しい衝動に駆られた。
そしてコーヒーを入れて戻って来た静が、炬燵に足を入れ始めた時に抱きしめた。
「どうしたの?急に」
「お願い!黙っていて、なんかやるせない気持ちになってしまって」と
僕は静を抱きしめながら仰向けになり、静の体をかき抱くように抱きしめた。
「何を思ったの?いいわよ、健、おいで」
この優しさなのだ。僕の感情の動きをすぐに読み取って、僕中心に考えてくれる。僕は静に抱きしめられながら、悲しい気持ちにな
っていた。
「健、いいのよ、早くいらっしゃい」と
言ってスカートをたくしあげてくれたけれど
「静、お願いきつく抱きしめて」と僕は少し涙声で言った。
「珍しいねぇ、健が抱きしめて、なんて。どうしたの?聞いてあげるよ。何が有ったの?何でも聞くよ。何でも話せるわたしぃが好きだ
って言っていたでしょ」
僕はどうしたのだろう
「今はこれでいいの」と
僕は静にしがみついた。
静は僕の頭を優しく撫ぜながら、いつもよりもっと優しい言葉で
「健、泣いてもいいよ。笑ったりしないから気が済むまで泣きなさい」
と優しく言ってくれた。そう、僕は静の胸で涙を流していたのだ。それも声を出して僕は泣いていた。ちょっとの時間、静は何も言わ
ず僕がなすがままに応じてくれた。僕の髪の毛を優しく撫でながら静に抱きしめられて、母の胸に抱かれて心が静まった子供の頃
の感覚に浸っていた。
そして落ち着いてきた僕は、静に目で合図をした。静は自分が満足するよりも、僕が満足する事を優先して、持っている優しさの全
てと、僕が喜びを感じる全てを、満足させる努力をしてくれた。その時、僕はこんなに満たされた時間が有る事に、気が付かされた。
その後、その時の事は何も聞かなかったし、僕も話さなかった。
夫婦では無いから、恋人同士ではないから、変な偏った愛人関係でもないから、何も考えずに思うがまま求め合ったり、急に抱いて
もらって、涙を流したり出来るのだと、僕は二人の不思議な関係を思った。夫婦ではこうはいかないだろう。僕が子供になったり、弟
になったり、時には年上の男を演じたり。静がお姉さんだったり妹だったり、経験豊かな人生経験者だったり、こんなに上手くかみ合
う男女はほかにはいないのではないのかと、ふと思った。男女関係はこうで有るべきだ、とも想った。
ITバブルの頃、お金持ちが「金で買えないものは無い」と言っていたが、そんな事を言う人は本当に愛された事の無いかわいそうな
人なのだ。
静が
「毎日うちの人が帰って来るような家庭だったら・・・・・わたしぃは・・・・・・駄目だわ」
「なぜ?」
「今は毎月一度帰って来るだけで、淋しい時も有るけれど、毎日顔を見ているのはうんざり、健もそのうち解るよ。夫婦って何だ?っ
てね」
僕は静がいつも積極的に僕を求めて来るので、いつも淋しい思いをしているのだと感じていた。僕の上で満足した後で僕の胸に額
をつけたままで、じっとしている静の顔に目を這わせてみた時の表情は、淋しいのだろうと感じていたから。でも、静という女性はそ
ればかりではない事が解り始めていた。
僕の胸に額を当てたままで動かなくなった静に
「何か有った?」
静は額を上げて僕を見上げて
「どうして?」
「今、僕の胸に額を当てて動かなかったでしょ?いつもひとりでさみしいのかなぁって。僕が相手で満足してくれたのかなぁって」
静は急にはっきりした声で
「そうゆう健が大好きなのよ」と唇を求めて来た。そして閉じている目からは涙が僕の頬を濡ら
した。
長い人生、共にいてばかばかしくなって妻の胸で泣けるか!
そうよ、女に抱きしめられて涙なんか流す男なんて最低!
どこからか聞こえてきそうだが、僕は、いや静もそう思っていたに違いない。
おとことおんな、愛し合うとはお互いの立場を認め合い、たまぁに会うのがいい。
それが長続きの秘訣だと、僕の性格に照らし合わせてそう思った。
いいセックスとは僕と静のような関係でないと解らないと、僕は自信を持った。
静との会話や態度を見て、静もそう言っていたのが解った。静と出会って再会して良かったそ
う思った。
酒の飲めない僕だけれど、結婚当初から月に何回かは、夜中に帰るようにしていた。特にその週に祭日が有った時はチャンスだっ
た。実働日数は変わらないから、その週の土曜日は出勤だ。と告げていたので、家庭内ではそれが当たり前になっていた。外泊す
る事はほとんどしなかった。後ろめたさも有ったのかもしれない。それでも、年に何回かは帰らない日が有った。
いや、わざとそうしていた。女房は「近いうちに出張は無いの?」などと聞く。それは自分の母親との時間を作りたくて、僕が居ない
方が、女房には都合のいい事から出た言葉だ。僕としてはその頃のそうゆう妻は、僕にとってとても都合のいい妻だった。遅くの帰
宅や、外泊の理由など必要が無いくらいだった。K町の家に行くようになってからでも、当然それは続けた。その時は、それが当たり
前に上手くやって行く最高の方法だと、僕は僕にとっても都合がいい事だと納得していた。
泊まりに行った時は、子供たちと遊ぶことはいつもだった。自分の子供たちとは、あまり遊んだ記憶がない。僕は普通のお父さんを
していないと、感じていたのは、このような部分かも知れない。その僕が、静の子供たちと遊んだのは、自分の子供より可愛いと感
じたからだ。お風呂も子供達と一緒に入った。静と子供たちが一緒に入っていると、僕は入らないでいる。すると下の子が
「お兄ちゃんも一緒に入ろう」と言いに来たりして、四人で狭いお風呂に入って
楽しかった。二人の子供を僕が洗い終わったら
「お兄ちゃん、お母様も洗ってあげて」と言われた時は意味も無く慌てた。
僕は静の体を洗いながら、大きくなったらと、気になった。いつ、いつものように静が僕自身に、手を添えてくるのかと考えると変な気
持になった。
「お兄ちゃんありがとう」と
静は僕の表情を見てニヤニヤしていた。
静も分かっていたのだ。ホテルならば自然と二人のかたちになっているのが、自宅では、ましてや子供達と一緒では困った。
僕は無理をしてこう言った
「前も洗おうか?」
今度は静が慌てた様子で
「背中だけで」と
二人だけの時はシャワーだが、自宅のお風呂場では立て膝になり桶で肩越しに湯を掛ける静は、絵にしたいくらいおんなで有った。
そのくらい静の裸を見ると、僕は我慢が出来なかった。その晩もいつもと同じように愛し合った後で二人湯をを浴びていて、僕は静
の立て膝スタイルを見てすぐに回復していたので、静は
「子供の前では気を付けてネ、ケン~ちゃん!」と
僕の下半身に話しかけて手を添えてきた。こうなると僕は我慢が出来ない。
「僕は静と何回したら満足するのかねぇ?」
「若い子だったらついていけないねぇ」
「嫌いな人だったらこうはいかないぞ」
「中年 健」 別れ(連載 9)
夜も子供達の真ん中に寝た事は何度も有った。それが普通だった。下の子は僕の体の上に乗って来て
「わたし、お兄ちゃんのお嫁さんになる」と
言って指切りを求めた。僕がその事を静に言ったら
「バカねぇ、本気にしたの?」
「本気しないけれど嬉しくて、静に言ったの」
「健は本当に、自分の子供のように可愛がってくれるから、わたしぃもうれしぃい」
夜中に、隣にいるはずの僕が居ないのに気付き、起き出してきて
「お兄ちゃんが居ない。帰っちゃったよぉ」と泣き出した時も有った。
静の中にいた僕は慌てたが、静は落ち着いていて、僕の好きな薄紫色のガウンを羽織いながら
「ハイハイ、お兄ちゃんの夢見たのね。お母様とお話していたのよ。帰らないからね、明日また遊んでもらおうねぇ」と
子供部屋に連れて行った。
僕は子供にこうゆう優しい言葉で話をする静は、僕を子供扱いする時と同じで、たまらなく好きだった。
ベッドに戻って来るなり
「ごめんね、冷めちゃった?」と聞いた。
僕はやっぱり甘えん坊なのだろう
「静?」
「なあぁに?」
「僕も、たまには子供扱いしてよ」
「夜はいつもそうしているでしょ、けぇ~んちゃん?」
この頃は、静の優しいタッチで、この静の男を喜ばせるテクニックで、僕はすぐに回復して静を満足させる事が出来た。
満足した静の顔を見て僕は、静と知り合って良かったと思った。
二人の子供は僕をいつも取り合いだった。今になって振り返ると、本当のお父さんと接する時間の少なかった二人の子
供は、僕をお兄ちゃんと呼びながらも父親代わりとでも感じていたのだろうか?そうだったら本当に嬉しい事だ。
本を読み、学校や幼稚園での出来事も聞いてあげた。下の子は、我が娘にも似ていて『可愛い子』で、雨の日は綾取り
や、歌う事が最大の苦手の僕が、幼稚園で覚えたての歌を一緒に歌った事も何度か有った。
上の子とは昼間は隣の公園でキャッチボールやサッカーをして遊んだ。暗くなると部屋の中ではしゃぎ過ぎて静に怒られ
て三人で正座をして
「お母様御面なさい」と謝った事もしばしばだった。
はじめの頃は僕が真面目に正座をして両手をついて頭を下げるのを、不思議そうに見つめていた子供たちも、僕の仕草
を真似て正座し頭を下げるようになった。こんなに良い子供たちだから
「自分の子供の様に可愛い」と口に出して言った事も有った。
「アコには健が少し入っているかもねぇ」と、目と目が合った。
「医療に携わっている人が?何を言うか!」と、
二人で大笑いした。こうゆう会話は本当に楽しかった。
家へ帰るといつも不機嫌な女が居る。僕は大事にされていない事を肌で感じていた。女房にとって一番大事な
ものは子供、二番目が母親、三番目が僕では無くて犬の「ケン太」なのだ。僕は四番目。遅くに帰った時に炊飯
器に有ったご飯を、当然の如く食べていると起きてきて
「あっ、ケン太のご飯食べちゃった」
それは無いだろう。炊飯器に有るメシには名前など書いて無い。またこんな事もあった。
僕に胆石が有ることがわかって手術をすることになった。それは一カ月も前にはわかっていた事だ。入院前日
「私、明日仕事休めないから」
「あのなぁ、仕事と夫の入院と、どっちが大事なのだ?」
「ゥゥゥ」
「いいよ、一人で行くから」
入院して病室に案内された僕に、看護婦さんが
「初めてですよ。一人での入院は何か有ったときに困るんですよねぇ」
そして、これが決定的な言葉だったかも知れない。義母が亡くなって二カ月くらい経った頃。
食事が終わって新聞を読みながらお茶を飲んでいる僕に
「ねぇ、私が死んだら私の御骨(おこつ)、両親の骨壷の間に置いてね」
「・・・・・・・」
「ねぇ、聞いているの?」
「聞こえている」
「お願いよ」
「・・・・・・」僕はばかばかしくて返事が出来ないでいた。
「子供たちにも言っておくから、お願よ」
「あのなぁ、結婚って何だ?よく考えて物事を言ってくれよ。子供たちにも、な」
「私、変?」
「変に決まっている。解らないのか?結婚の意味が」
こんな事がわからなくなっている妻だ。心因性の病はここまで来ているのか?
そのような、ささいな事が重なり、急に静に会いたくなって無理を言い、強引に会いたいと連絡した事も有った。
「今日は絶対に帰さないから」と、僕は会うなり宣言をした
「急に会いたいと言い出して、会ったら帰さないとはどうしたの?健?何が有ったの?そうでしょ?何か有ったな。
わたしぃにはそんなに強引になる事はないもの」
部屋に入るなり
「さっきの話、いいでしょ?帰さないよ、理由は聞かないでよ」
僕がそう言いながら静を抱きしめて
「今日はシャワーじゃなくて、湯船に一緒に入ろう」
静は何か忘れ物をしているような口ぶりで
「わかった。でも、わたしぃにも都合が有るのよ、甘えん坊さん。しょうがない子」と
僕から離れて電話のダイヤルを回した。その相手は多分「うちの人」だったのだろう。僕はホテルから掛けている事
に、不安を感じながらも無関心を装っていた。
当時は公衆電話以外からからかけると相手に「○○(都市の名前)からです」と交換手が告げる事があった。
その聞こえてくる静の声は涙声だった。僕は受話器を持って背中を向けている静を見ていて気が気でなかった。
そして僕の耳に飛び込んで来た言葉は
「そんなに私を、束縛したいの?そんな事言ったらお花見にも行けない。お友達とお花見にも行くなって言うの?
・・・・子供は母に来てもらっているから心配しないで・・・わかったわ、わざわざ電話をした私が悪いのね・・・・電話し
て怒られて・・・・私は何なの・・・・・私って何なのよぉ・・・・」
泣いている。静が泣いている。わたしぃではなく私と言っている。泣いている静を目の当たりにした僕は、抱きし
めたい衝動にかられた。泣き声はだんだん大きくなっているように、僕には聞こえた。僕も泣きたくなって来た。
そして電話が切れたらしい。僕は座って背中を向けている静を後ろから抱きしめた。
「ごめん、僕が無理を・・・・言ったから・・・・悲しい思いを・・・」
ここまでしてまでも、僕の我儘を聞いてくれる静がとてもいとおしく、好きで、好きで、たまらない。静に申し訳ない
と思っていると、振り返った静は涙など無く笑っている。この人はどこまで頭が良いのだろう。女の武器は泣きと
涙なのだ。そして静という人は自分の意思をはっきり主張する時は決して「わたしぃ」とは言わないのだ、「私」と
はっきり言っていた。そうだその事が起きたのは春、花見の季節だったのだ。そうだった、季節は春だった。
その夜、静はベッドに横になっているだけで、僕は静が満足するための努力を惜しまなかった。
それにしても我が家に居る奥様の泣き顔や、涙を僕は見た事が無い。かわいらしさも最近は感じた事が無い。
意見が合わないと、目を三角にして男言葉ではっきり言い切る。夫婦とは何とつまらない関係なのか。
静の子供を連れてドライブにも行った。ドライブインをたまに見かける時代だった。それでも途中で車を止めて、
子供が喜ぶアイスクリームやお菓子を買い与え、喜びながら口に運ぶ子供達を見ながら僕達も口にした。
僕と静は目を合わせて、何がおかしいわけでもなく、微笑み合った。子供が喜ぶ顔を見ているだけで、僕と静
は嬉しかった。幸せってこうゆう時に感じる事だと。
買ったばかりの新車で静の実家まで行って母親に会った事もある。外からでも大きな農家だと分かるその静の
実家は、僕が憧れていたようなたたずまいだった。
出会った頃、静が実家を「お百姓」と表現していた事を思い出していた。
母親に会うなり僕を「うちの人の弟」だと紹介した。うちの人かぁ、うちの人の弟、確かにそのと
おりだ。
「近くまで来ましたのでお寄りしました。義姉がいつも・・・・」と僕は後に続く言葉を失っていた。
このお母さんは、如何にも農家のお母さんという雰囲気のする人で、モンペを穿いて頭には日本手ぬぐいを
姉さんかぶりにしていた。話す言葉は僕には全く理解不能だったが、ゆっくりしていくように言ってくれたようだ。
目は静のように優しい目をしていて、僕はその優しい目を見て、静が年を取るとこんな感じの優しいお婆さんに
なるのかなぁと、目を静に移して比べていた。縁側でお茶をいただきながら、静を通訳にこのお母さんと話をし
たが、僕はもっと言葉がわかれば静の生まれた時の事や、子供の頃の話が聞きたかった。秋の日差しを感じな
がらその少し理解出来る言葉の端端で、この家で、こうゆう環境の中で、静は生まれ育ったのかと、静の子供のころを思った。
むしろの上に何か天日干している広い庭では、二人の子供が声を上げながら追いかけっこをしている風景を
見ながら、女房の実家に行った時よりも、落ち着いている自分は何なのだと、不思議に思った。
この母親が、看護婦学校を受験するその日、静に大きなおにぎりを作った人なのだと思った。帰り道二人
の子供は疲れて後ろの座席でうとうとしていた。
「健がわたしぃの実家に行って母に会ってくれて、良かった」
「不思議だね、僕と静との関係はなんなのだろうね」
「母、どうだった?」
「静がお婆さんになると、こうゆう人になるのかなぁと、そればっかりだった」
「母はこの田舎から、ほとんど外へは出た事の無い人でね、都会の人と話をした事が無いのよ」
「僕、嬉しかった、話が出来て」
「母が・・・あんなに・・・話し込む・・のは・・・今まで・・・見た・事が・・・無かった・・・から・・・健の事・・・気に入った
ようで・・・良かった。うちの人と・・・・・・来ても・・・・・ひと言も・・・しゃべらない・・・のに」
静の言葉は興奮した時の話し方のような、未舗装の道路を走っている車の振動に揺られているからと感じ
る途切れ途切れの言葉だった。でもすぐに、それは道路が舗装されてないからだけでは無いように思った。
「僕も、優しそうな眼を見て、初めて会ったとは思えない感じがした」
「言葉が、解らなくて、ねぇ」
「でも・・・・そう、静に初めて会った時のような、他人の気がしなかった」
静は助手席から僕の左腕に寄りかかってきて
「そおぉ?嬉しいなぁ・・・・・・健!」
「なに?」
「本当に良かった、ありがとう」
「僕は・・・・・」と言葉に詰まった
「どうしたの?」
僕は次の言葉をやっと口にした
「この次に会うときは、あのお母さんに『お嬢さんをいただきたい』と言うような気がして」
「えっ、そんな事・・・・・」
「でもここまで来ると、次は当然そうなる・・・・よねぇ。僕はそうしたいけれど、ダメだよね。わかっている、困ら
すような事言ってしまった。ごめん、静」
静は黙ったまま、暗くなりかけている未舗装道路の先の方へ視線を向けて僕の左腕を強くかきむしるように
抱きかかえていた。その後の会話が続かなくなり、僕は車のヘッドライト点けた。
うちの人の弟か?弟・・・弟だから、ダメなのだと、あかの他人だったら、僕が独身だったら、僕にもう少し勇気
が有ったら、今の生活を今の家庭を壊してでも、子供四人を養えるくらいの経済力が有ったらと、無駄な思考
力を使っていた。そうだ、その本当の義弟は全日空のパイロットだったから、パイロットの基礎知識を勉強し
た事も有った。
その時アコが
「お母さん気持ちが悪いの」と言ったので
静は後ろの席に居るアコを膝に乗せて僕に
「何か頭に・・・・」
「タオル?」
「そう、有る?」
「使っていない新しいのがそこのダッシュボードに」
静はダッシュボードを開けタオルを膝に掛けアコの頭を乗せた
この時の二人の連携プレーは他人に見せたいくらいにタイミングが良く息が合っていた。
そんな事が何の違和感もなく、生活のリズムになっていた。それでも、静の子供達は、僕達二人をおいてきぼりにして、大きく成ってゆく。
「子供の前では、会う事が出来なくなるね」と言い始めていた頃。
子供が食卓で、母親の前で友達にそしてうちの人の前でも、僕の話をすることがたびたび続いていたようだ。
僕と遊んでいた上の子が、飛んでいる飛行機を見つけて、
「朝、お父さんが帰ったの、あの飛行機に乗っているかも知れないよね」
と言った事が有った。
僕にお父さんの事を話すくらいだから、僕の事を口にしても仕方がない。その夜、子供が寝付いた頃いつものように
、僕の左隣で横になって、左手で僕の体を触り始めた静に、僕は機嫌悪そうに
「今日の朝、帰ったの?」
びっくりした静は
「子供が言った?言えば気分を悪くして、来てくれないと思ったの」
「うん、確かに変な気分だね。聞いたら来る気は起らなかったね。今日だけは、静を抱く気にはならないよ」
手の動きが止まった
「どうして?いつもの健ちゃんになっているのに我慢できるの?」
「ちょっと真剣な話だ」
「健が来るのが分かっていたから、昨日はしてないよ」
「そうゆう問題じゃなくて」
静は待ちきれないようで
「健、本当にしてないのよ。早く、お願い、いつもみたいに抱いて」
いつに無く積極的だ。僕の心は無反応で黙っていた。
僕の耳元に顔を寄せて
「ねぇ、どうして?折角逢えたのに、健だって大きくしているのに」と
静は僕をいつもの触り方で確認していた。約一か月ぶりだった
「あのねぇ、いろいろ考えなくちゃね、翌日だからとかではなくてね。もうこの家に来る事は・・・・・・・・」
「そう、イヤ?」
ここまで会話が進むと、僕は顔を左に向ける事が出来ない。あの妹の顔になっている筈だ。
「僕はいいけれど君が困っているようだから、それにね、子供たちにいい影響はないな」
僕は静に対して初めて「君」と呼んだ。その呼び方はうちの人が静を呼ぶ時の呼び方だった。
「うん・・・・悪いね、確かにねぇ」
「子供が本当の事を言っているのに、親が『そうじゃないでしょう、イヤなぁ子ね』って言っているのは見苦しいもの。
僕は子供にやさしくしている静も大好きなの、子供が間違った事していないのに叱るの止めてよ。お願い。さっきも
アコが『お兄ちゃんはお母さまが好きでしょ?』って聞いて来た。子供でもそのくらいはわかるのだろう。僕は『大好
きだよ、でもアコちゃんや正君を叱っているお母さまは、大嫌いだ』と答えたけれど、お父さんの前で、僕の事を話し
ている事は想像出来るもの」
静は涙声で
「じゃ、どうするの?もう終わりにするの?」
この妹の涙声には勝てないのだ。女のずるさ、武器だ。
「泣くなよ、終りにする?そんなこと言ってやしない。僕が静と離れられないのは知っているでしょ。生半可な気持ち
で静を抱きに来てはいないよ。あくまでも子供の事を考えての事。子供が可愛いから悩む。どうするかはこれから考
える」
「じゃ、すぐに大きくは変わらないのね、ね」
ちょっと笑い声になって、僕の胸の上に置いていた静の手が動きだした。仲直りした後、静は必ず激しく求め、僕の
上になってくる
「今まで、大きく変わったのはいつも静の都合だった。僕の方から先に、変わった事はない」
初めて将来を真剣に考えた時だった。それなのに静はもう僕の上で動きだしていた。僕は、本当に好きにならないと
出来ないのに、相手が静だと違うらしい、と気が付いた。
「中年 健」 別れ2(連載 10)
将来の事と言えば、こんな話もした。
いつものように、僕の左隣の定位置で静は左手を動かし僕を喜ばせながら
「わたしぃ達、将来どうなるの、かしらねぇ?」
「なぜ?僕はかみさんと、普通の夫婦を演じきれる自信はないね」
「うちの人が、定年になったら一緒に住もうと言っているの、奥さんと別れて、向こうの子供はもう心配ないし、もう手がかから
ないって。最後はわたしと一緒に居たいなんて、今頃になって調子のいいこと言っているの」
僕はちょっとふくれて
「それが本当なら良いじゃないか」
手の動きが止まった
「いつもそうゆう言い方するのね」
「何が?」
「『僕と一緒に』って、どうして言ってくれないの?」
今でもこの言葉が返ってきたのは、不思議だったと思っている。
「静、本当に言って欲しいの?言ったら一歩でも近づくの?二人の生活にいつも不安に思っているのは僕の方だよ」
「だって・・・・」
「だってってなにさ。静だって不安が有るようだから、触れないでいようといつも思っていた。最初に歳が違うとか、結婚出来ない
とか、言い出したのは君だよ」
僕はうちの人が静の事を呼ぶ時のことばを口にして言った
「それは・・・・健のお母様が・・・・」
「おふくろの事は別。親の勝手ってやつさ。僕が一度結婚と言った時の君の戸惑いは覚えている」僕は君と二度目の呼び方をした
「だってぇ、あの時健は就職したてで『嘘だ』と思ったから・・・・」
「それなら嘘でも『待つ』と言ってくれればいいのに。僕は今まで君に嘘を言った事はないじゃないか、もうこの話は止めだ」
最後の、もうこの話は止めだは、優しい言葉を選んだ。
「お互いに融通の利かない性格だからね」
僕はちょっと強い言葉が戻って
「忘れては困るよ。融通を効かせる事が出来ないくらいに真剣なのだ。静との事は」
こうゆう話は不得手だ。意見の食い違いはどうしようもないのだ。
何度話をしても、気持ちが向こうを向いていると思っていた。
そうでなければ二人目の子供は作らない筈だ。
「一人なら分かるが二人も、どうして?」と聞いたことが有った
黙っていて僕の目を見ない
「やっぱり愛している、でしょう、そうだよね」
下を向いたまま
「健とこうして、又会うとは思わなかったしぃ」あの、しぃ、に戻っていた。
要は四十代も半ばに差しかかった女である、自分の生活を考えての事なのだ。
僕がどうこう言える問題でもなかった。
会えた時はあまり真剣な話はしない、させない、出来ない時が続いた。
それが、二人には一番上手く行く方法だった
「今度は○○日までダメね」
「出張でね、海外だから○日にならないと、時間が取れない」
いろいろな理由で若い頃と比べて会える機会は、自然空くようになる。
会える時で、時間の無い時は近場で、ゆっくり出来る時はドライブや旅行に行った。
でも、会って求め合ってすぐに帰るようなことは、一度もしなかった。これは、僕が心に決めた静との約束だった。
体を求め合うよりは会って顔をみて、一緒に居るだけで落ち着く。そんな関係でも有った。
会って食事をして、会えなかった時間を話したりして
「今日は帰ろう」でお互いが満足感を感じる事も出来るようになっていた。
そうゆう時の別れ言葉は手を強く握り返しながら
「健、愛している、忘れないよネ」
かわいい妹は何か不安が有ると別れ際にそう言う
「それは僕のセリフだ、分かっているって」
僕の前では裏切らない可愛い妹それは嘘だったかもしれない、でも、本当にあった事だ。
頭のいい静の事だから、頭の中は違っていたかもしれない。
静の勤務先の産院へ迎えに行った事もあった。確か船橋駅近くの産院だと思うが今となっては、はっきり思い出せない。
あれは泊まりのデートに行く約束で、迎えに行ったのだ。
泊まりで出掛ける時が、静を僕だけの「おんな」に出来た満足感で、いっぱいだった。
静も僕のものになり切ってくれた。僕は一番大事にしなければいけない二人の時間だと思った。
静の看護婦さん姿を見たくなり、ちょっと早目に勤務先の産院へ行った。こじんまりしていて、そう、建て替える前の中野の病院
を思い出させるような、造作(作り)だった。大きめのガラスがはめ込まれた両開きのドアーの右側を開けると、廊下が広く有り
左側に待合室なのだろう長椅子が並べてあった。廊下は真っ直ぐ奥へ繋がっていて、たぶん、診察室や分娩室が有るのだろ
う事が手に取るようにわかった。土曜日だったからなのか、待合室の人は数えるほどだった。僕は妊婦の夫のような雰囲気で、
その長椅子に読みもしない本を片手に座って、静を探し静の声を待った。遠くで静らしい声が、かすかに聞こえた。声はだんだ
んと大きくなり、退院する若いお母さんに付き添い、適切と思われる指示をして、最後に「おめでとうございます」と言って送り出
していた。母親になりたての若い母親と、おばあちゃんになった喜びいっぱいの母親が、これ以上無い最高のお礼を、静に言っ
ていた。
僕の僕だけの白衣の天使は健在だった。初めて中野の病院で見かけて、とても綺麗で優しそうな人だなぁと感じた。あの僕の
大好きな静がそこに居た。白衣をまとい頭には帽子をかぶり、優しい声の話声。産院があの中野の病院と、同じような昔風情
がそうさせたのか、僕は僕自身がとても落ち着いて行く気がした。僕は話しかけずに、黙って静が奥へ遠ざかって行く、後ろ姿
を見えなくなるまで追っていた。後ろ姿はそうだった、あの頃と同じだ。姿勢を真っ直ぐして、体型からして少し大きめのお尻を
振るような、つま先で歩くあの歩き方は、昔の静と全く変わってはいなかった。
僕は外へ出て吸った外気のさわやかさが、静が退院してゆく若いお母さんに話しかけていたあの優しい言葉と重なって、これか
ら二人で久し振りに出かける嬉しさを、演出してくれているように感じた。
近くの駐車場でかなりの時間を待ったような気がする。小走りしながらにこやかな顔をして現れた静はやっぱり『働いている生き
生きとしている女性』の表情をしていた。
ドアーに手を掛け、大きく広がった濃い紫色のスカートの裾を手のひらでやさしくなぞるようにして、車の助手席に座り込みなが
ら手早くドアーを閉めると同時に話始めた
「ごめんねぇ、待たせちゃった?産院勤めは時間の約束はあてにならなくてねぇ。忙しい時は考えられないくらい忙しいの。する
事が無くて眠くなる時も有るのに、こうゆう大事な時に忙しいのよ。やってられないよ。初産のお母さんは陣痛が始まるともう大変、
ぎゃあぎゃあ騒いでね、あははは。ねぇ、健、何か食べてから行こう。お腹が空いちゃった。健と一緒に美味しく食べようと、おや
つも我慢したのよ、偉いでしょ。久しぶりねぇ、二人で出かけるのがうれしくて。昨日から落ち着かなくてね。眠いのに寝付かないの。
ほら、船橋で再会する時と一緒、あの前に日と同じ、もう濡れちゃって我慢出来なかったの」と、
僕に片目をつぶりながら、まぁよくしゃべる。笑いながら、しゃべりながら、衣服を整え、髪を気にし、荷物を後ろの座席に置く。
一連の動きだが、一日頑張って働いた人の動きだ。
普段子供達との会話は、こうはいかないようだ。こうゆう顔をしている静は、始めて会った時のその顔で、僕が一番好きな顔だ。
静の趣味は読書と旅行。旅行前は行く先の観光案内書を買い求めて、詳しく調べて旅行先に着くと、感心するくらいに知識が豊富
で「前に誰かと来たでしょ」と僕が言いたくなるほど、関心をしたものだ。本はかなり読んでいる。芥川賞作家の本はほとんど読んで
いると言っていた。
僕が芥川賞作家の本を読みだしたのも、静との再開がきっかけだった。それまで僕の愛読書は推理小説から始まって歴史小説、
司馬遼太郎あたりを読んでいたのだが、静の影響で読み始めていた。そんな事を考えながら、車を走りださせた僕に
「この間ねぇ、帰ろうとして産院の外へ出たらねぇ、出入りの業者の人がね『駅まで送ってあげる』とバイクの後ろに乗って、って、
言うのよ。でねぇ、断れなくなって駅まで送ってもらったの、そうしたら排気ガスがスカートに当たって、真っ黒になって大損害」
何気ない話でも僕はこのような話には気になる
「静はすぐに了解しちゃうから、心配しちゃうよ」
何故?という表情で
「だって無下には断れないでしょう。産院の出入り業者で、これからも顔を合わせるし、仕方ないでしょ」
僕は叱るように強い言葉で
「寄るところが有るからとか言って、断われよ。静の色気は感じる人には感じるのだ!」
「ごめん」
静は短い言葉を返して肩をすぼめて「ああ怖い」とでも言いたそうな表情をして、そのあと黙ってしまった。僕はうちの人の話には機
嫌を悪くした事はなかったが、この手の話には強い嫉妬を感じるのだ
「謝らなくても良いのに。ただね、心配はする。どんなに細かい話でも話してくれるから安心しているけれど、僕は静が大好きだから
信じているけれどね。男はそれをきっかけにするんだ。次に顔が合えば、静がお礼を言うでしょ。男はいつもアレ考えているんだ。
僕は男だからわかる」
静は小さな声で僕の顔を覗き込むように見ながら
「珍しいねぇ、健がわたしぃに、ヤキモチ焼いた?の?」
「いつも言っているでしょ、静が大好きだって。十七歳の時から静の魅力に取りつかれ放しだ」
「そうか、わたしぃの魅力?」下を向いている
「さっき産院の待合室で長椅子に座っていたの、知っていた?」
「そうだったの、気がつかなかったなぁ、どうして声を掛けなかったの?」
「僕だけの白衣(びゃくえ)の天使は健在しているかと思ってね。僕のいない時の静を見たかったのさ」
今、下を向いてシュンとしていたが、うれしいぃという表情を作り
「『びゃくえ』の天使か?最近『びゃくえ』、なんて読んでもくれないよ」
「静は僕の永遠の天使だもの。たまには『びゃくえ』を着た静を抱きたくなるの、これって中年のいやらしさかねぇ?」
「外で言っちゃ駄目よ『趣味悪い』って言われるのが落ちだから」
「でも、いつか『びゃくえ』でお願い。看護婦さんの帽子だけでも、ねぇ、おねえちゃま!」
「趣味が悪いぞ、健!そうか、健も中年かぁ」
車は京葉道路を東へ向い、速度を上げた
久しぶりにK町の家に行った時だ
「正もアコちゃんも、ちょっと良い子でお留守番していてね。お兄ちゃんにお願いして自動車でお買い物してくるから。わかった?」
静は突然言い出した。もう夜の10時を回っている。
「お兄ちゃん、忘れ物したの、明日の朝食足らないのよ。お願いしていいかしら?」
「僕は構わないけれど、子供達はおとなしくしているかしら」
「ほら、お兄ちゃんも心配している。いいわね!」
怖~ぃお母さんだ
子供達は僕が行くと大騒ぎして大歓迎してくれるから遅くまで寝ないでいる。僕が添い寝をしなければいつまででも起きているのだ。
玄関のドアに鍵を掛けて、車に乗り込む
「ああぁ疲れる」
「何を買い忘れしたの?リクエストはどこまで?」
「買い物はどうでもいいの」
「変な人、どうしたの、僕が原因か?」
「違うのよ、健が来ると正もアコもはしゃいで、嬉しいのはわかるけれど、わたしぃが疲れる」
「それが子供だよ。親の想いどおりにならないのが子供さ」
「とりあえず真っ直ぐ行って、静かなところで停めて。・・・・・・健も大人になったねぇ」
静はどうしたんだろう
大きな公園の駐車場で車を停めた
「わたしぃも相手をして欲しいのよ、ただそれだけ」
「へぇ、小さなお子ちゃまにみえるぞ」と静の顔を覗き込む
「やっぱり外で逢えば良かった。久しぶりなのに、逢えない時よりも淋しい」
僕の左腕を抱え込む
「そうか、最近は仕事も真面目にしなければいけない立場だし、逢える時間は大切にしよう」
やっぱり、静も普通のおんななのだ。
「僕も、逢える前の日はいろいろ考えが進む。でも、いざ逢うと想いどおりにはいかないなぁ」
「健、今抱いてぇ、健と約束出来ただけでもう・・・・わたしぃ・・・・ダメなの」
静の眼は潤んでる、今にも泣きそうだ
「何を言い出すの。静が子供に見えるぞ。僕が添い寝をして子供を寝かしつけるから、さあ帰ろう」
僕は車を走り出させた
「・・・・・・・・・・・・」静は黙っている
「今晩は頑張るから、ね、わかった?静ちゃん!」
「お願いよ、頑張ってよ、あはははは、夏見で再会した時のように、ね」
やっとにこやかな顔に戻った
「ちょっとその薬局の前で停めて」と
降りて行った
だいぶ待たされた僕に
「今日はご主人が帰って来たんですねぇ、なんて冷やかされたの」
「何の話?意味がわからないよ」
「お帽子買ったのよ。最近頻繁に行くからね」片目をつぶった
そうか、今日は危ない日で有る事が理解出来た。
そのために遅くまで薬局は開いているのかぁ。世の中上手く出来ている。だからお帽子の自動販売機が出来たのは結構早かっ
たのだ。
「中年 健」 別れ3(連載 11)
銚子から南に向かうと飯岡という町が有る。もうすぐ九十九里に入る手前の町だ。
温泉も有り、そこへ行く途中だったと記憶している。ドライブの時、静は、助手席で前を見るより、運転している僕を見る
時間の方が長い。
「前に来た事が有るの」
もう初夏だったのか静は袖なしのワンピースを着ていた。車の窓を少し開けたので静の香りが僕の鼻を刺激した。
静の眼を見ながら
「誰と?まさか・・・・」
目を見合わせて
「そのまさかだぞ」と男言葉だ
「いつ頃?」
「まだ今の生活に慣れていない頃」
「今の生活って?結婚を諦めて・・・・」
前を向いていた顔を助手席に戻した
「じゃぁ、普通だったら新婚旅行だったのじゃないの?」
僕と逢う時はいつも明るい静が視線を下に向けている
「でも・・・・思い出しちゃったから話すね。後ろの座席にね、子供の靴が脱ぎ捨てて有ったの、それを見てね、とても
いやあぁな気持になったの。悲しくてせつなくて、思い出したくなかった」
「そうだったの、気が利かないナぁ」
僕は静の置かれている立場は想像は出来てはいたが、具体的な話を聞くと複雑な心境がよりわかるような気がし
た。辛かっただろうなぁ
「うん、健はそうゆうところは感心するくらい気を使ってくれているの、分っている」
「そうゆうのって悲しいね」
「子供の靴を見た時の気持ち、私みたいな立場の人以外は解らないと思う」
わたし、の、し、はあの、しぃ、では無く私だった。
「だから気が利かないと言っているの」
「健もそうだと思うけれど、一緒に居ればどこでもいいよネ」
「うん」
「だから出かけるのは近場の房総になるの」
「なんだ、あの人も?」
あの人の話も自然に出来るようになっていた。あの人の話をしても、少しも嫉妬は感じなかった。その辺の僕の心理
は未だに理解出来ないでいる。静を養っていてくれるのは、あの人に間違いがないし、嫉妬など出来る立場になんか
に立てやしない。
「どう言われて、今の生活を了解したの?」
「三十二歳の頃ね」
「じゃチビの事件の頃?」
「そう、それで、少し不安が有って、健に会いたくなってね。今会っておかないと健との思い出が沁みついて、取れなく
なるような気がして」
「そうだったんだ。沁みつくかぁ、僕はだいぶ時間が過ぎてから気がついた。何かが有って病院へ来るように、電話が
来たのだとね」
「チビの事件を聞いてすぐに、相手は健だと思ったのよ」
「どうして?」
「健は、さみしがり屋で、誰か傍にいないと駄目な人だから」
「そうかも知れない。いつも隣にチビが居た。チビを抱いて気持ちを紛らわしていたね」
「そうよ、健は甘ったれだから・・・・・そこまでチビのこというと嫉妬しちゃうなぁ」
「それで僕の話はいいから続けて」
「やっぱりあの人は医者だよ、『頭の中に、腫瘍が出来ているようだ』と言ってね。自分で調べたらしいの。でね、近い
うちに手術するって、で、間もなく友人の医者から『○日に○○病院へ二十時過ぎに来てくれ、私の名前を言えば分か
るようにしておく』と電話が有ったの」
「それで」
「裏口から病室へ行くとね『こうなって、いちばん愛しているのは、君だと知った。一生悪くはしないから』と言われたの、
でね『籍も何とかする、子供も産んで欲しい』って」
「生んで欲しいってお腹に赤ちゃんがいたの?それも良いけれど、籍も何とかするなんて言っても正式に結婚するとで
も?」
「そうじゃなくてね。うちの人のお父様の子供として養子縁組すると言ったの」
「じゃあ何、うちの人と兄弟になっているわけ?」
静は自嘲ぎみに微笑みが戻った
「そうよ、戸籍上兄弟で夫婦みたいな事しているの、おかしいでしょ、近親相姦よ、あははは。でも、本当に嬉しかった
の。うちの人から愛されていると感じたのは初めての事だったから」
「また泣き通したの?」
「ううん、その時は、不思議と涙は出なかった。その頃妊娠していたでしょ」
「正君がお腹に?頭の手術が上手くいかなかったら、って、考えた?」
「もちろん、子供は産んでいいと言ってくれたの。一人で育てる覚悟もしたの。それまでに二回も出来た赤ちゃんを・・・・
堕して・・・・いたから・・・・嬉しかったの」
ごめん、というように僕は視線を感じた
信じられない言葉だ『子供が出来るのは男に責任がある』と言った静はこんな経験をしていたのだ。視線は焦点が合っ
ていない。僕の目から遠ざけてもいるようだ。
「え、二回も?・・・・・本当に愛していたのかぁ、僕の負けだ」
僕が発した言葉を聞いて安心したかのよう、にやにや僕を見ながら
「二回目は健の子だったのよ、びっくりした?」
僕はドッキリして
「えっ?どうゆう事?説明してよ」
「大塚のアパートでわたしぃが『今日はいや』って言って健が『どうして?来てほしいと言ったのは静だよ。僕が我慢で
きないのは知っているのに、どうしてだめなの?』って機嫌を悪くして帰った時『理由は話せるときが来たら話す』と言
ったでしょ」
確かに言った。あの時の辛さはトラウマになったほどだ。
「覚えているぞ、いつも静は僕の若さに負けて応じてくれたのに、あの時だけは嫌がって拒否したんだ」
「あの日はねぇ、赤ちゃんを堕した日だったの。不安でね、健に来てと、お願いしたの」
「それなら本当のこといってくれればいいのに」
「だってぇ『子供が出来るのは男の責任だ』って教えてきたのに『今日は赤ちゃんを堕してきたから、駄目』なんて言
えないでしょ?」
そうだ、それを僕は口には出さないでいたのだ、静が自分から言い出すとは
「言ってくれればそれなりに理解したのに、セックスが目的だと思われて嫌われたと、あの日はさみしかった。僕は好
きになった人でなければ出来ないのに、何度もその話はしたのに、好きな人としか出来ない、は、嘘だと思われてい
たのだと思うと、悲しくてやり切れなかった」
無意識に左右の指で作った輪をからめて、鎖で縛られ鍵を掛けられたような、自分自身で身動きが出来ない、虚しさ
を感じた時だ
「ごめんねぇ、あの時の不安な気持ち、健が怒って帰っちゃってから、余計に不安になっちゃったの。もう健には電話
も出来ない。絶対嫌われたと」
「だからおんなの子の日や駄目な時に、いつも手とか口とかでしてくれたように、その時もそうしてくれれば良かったの
に」
「駄目よ、ああゆう時はね、心が落ち着かないでいて、堕した赤ちゃんにも申し訳無くてね。だって赤ちゃんに悪いでし
ょ?『わたしを葬り去っておいて、また、健としている』なんて、どう考えたってあの日は出来ないよ。だから不安で健に
来てもらったのよ」
ここまで聞いて、そのかわいそうな子は僕の子供だったのだろう、そう確信した。
そうでなければ、僕を呼ばないで、うちの人を呼ぶはずだ。僕と話しても心が落ち着くはずがない。
「そうだよ、そうだった、あの頃はちょっとした事ですれ違っていたのだ」
「そうねぇ、中年夫婦みたいだったねぇ」
「それで本当に僕の子供?」念を押した
「たぶんねぇ、ハハハハハ」と、
にこやかにほほ笑む静は、無理にほほ笑んでいるのよ、とでも言いたげな表情をしたのを、僕は見逃さなかった。
見逃さなかった僕は、続けた
「そうゆう言い方は冗談でも止めてよ。びっくりしちゃうから、僕だったら喜んで『生んでくれ』って言ったね、静との子
供だったら絶対」
「やっぱり、嬉しい。そうならなくても、言ってくれるだけでね。あの人は三回目でやっと言ってくれたから」
「だから、愛していたのだろうって、言ったでしょ」
「うん、あの人は確かに優しかったもん・・・・あの頃はね、健より大人の優しさが有ったもん」
僕は静の幸せそうな表情に安心はしたけれど、僕は考えた。そもそも医者は人の命を救うのが使命のはずだ。そうゆう
立場の人でも人を好きになると、非人間的なことでも出来るようになってしまうらしい。医者も人間だからなのか?自分の
立場を忘れて、二回も堕させたのだ。
「そりゃそうだよ。二十二歳と三十五歳じゃ逆立ちしたって、勝ち目は無いもの」
僕は精いっぱいの確信的な負けを自分に宣言した。静はどこまで理解してくれたのだろう。僕は、僕でもこんなに君のこと
を想い考えているのだぞ!年齢や優しさの経験は太刀打ち出来ないけれど君を愛しているのは、僕が世界で一番だぞ!
と心の中で叫んだ。
今晩、静は積極的になって、最後は僕の上で満足して眠るだろう、と予感した。
子供の歳を数えてみた、僕が四十五、六の時だろうか。このへんの記憶はもうほとんど忘れかけている。若いころの記憶
はなんとか戻るのに、二十年くらい前の事となると思い出せない事の方が多い、何故だ。
静の下の子が国家試験である看護師試験に受かったのを新聞で確認して、自分の娘が受かったようで嬉しかった。お祝
いの電話をしようとダイヤルを回した。上の男の子が出たのだが
「あっお兄ちゃん・・・」でいきなり切られた。
もう大学生だったから、僕の事をどう考えていたのか。たぶん変に感じていたのだと思う。
連絡は僕からの一方通行だから限りが有った。翌日早い時間に電話をしてみたが、いくら呼んでも出なかった。何か変化
が有ったと直感したが、僕には時間の余裕が無く、行くに行けない。産院に電話をしても休んでいるようだった。
今の携帯電話が有る時代だったら、僕の人生の歯車は違う回転をしていたのかも知れない。
そんな事で接点を失ってから数か月が経った頃、連絡が取れたのだが会う気はないように感じた。
「何が起きたか分からないが、このままでは僕は納得がいかない、一度会おう」
男は別れる前に必ず「一度会おう」と言うらしい。中途半端な年齢だkつた僕は、その意味すら解らずに言ったのだが。
「分かってぇ・・・・お願い、健、ごめんねぇ、健が悪いのではないから」
僕はすぐに言葉を継いで
「それなら尚更会わなきゃ、別れるのがイヤだと言ってはいない」
「ごめん・・・・今は上手く説明出来ない」
「いつまで待てばいいの?」
はっきりした言葉使いで
「私にとっては悪い話ではないの」
いつもよりも強い言葉で
「じゃ、僕には・・・・船橋駅で再会した時『今日会ってくれなかったら、もう会ってあげないから』って言ったじゃないか」
「そんなに怒らないでよ、お願い、わかって」
「怒ってなんかいない。いつも静の気持ちを分かろうと思って、言う通りにして来た。それなのに・・・・そう、前に話して
くれたような事だね。幸せになるんだ、そうでしょ?僕がしてあげられない幸せになるんだね。そうでしょ?」
「ゥゥゥ」微かな泣き声
「そう、とか、違うとか、僕に言えないの?このままじゃ、静との思い出が僕に染みついちゃうよ」
次の言葉で、電話は切れた
「また、会えるよ、きっと、次は、私から、連絡する、番だから」
静が興奮するととぎれとぎれの言葉で、私の私は、今までとはっきり違っていた。
もう僕を心から優しい気持ちにさせてくれる「わたしぃ」と言う言葉は、永遠に聴く機会を失ったと、淋しかった。
その後、今までの電話番号は通じなくなった。K町の家に行く気はしなかった。
その家に行く行為は,行為そのものは、自分自身許せないような気がした。それを許してくれるような、そうだったら連絡
方法を自ら断つ事はしないと、静の性格や生活環境を考えて納得出来ていた。
もし再会出来たら、その時に、恥ずかしく感じさせるような生活態度でいる事だけは、避けようと思った。
これで楽しかった、苦しくもあった、静との思い出は、作る事が不可能になり、思い出だけを書く事だけが、可能になった。
そして今、書き綴っている。
「初老 健」 初老 健1(連載 12)
静と連絡が取れなくなって、何年経つのだろうか。
僕はこうなると分かっていた離婚を経験し、落ち込んだ事もしばしばだったが千葉の海岸へ、サーフィンをやりに行った
帰り、少し遠回りをすると、静の生まれた実家の前を通るので、その道を選択することが何回かは有った。
が、二人の間に有った記憶は全く忘れかけていた。今思うと、何か静の近くにいるような心の落ち着く、そんな気や雰囲
気が、懐かしかったのかも知れない。ふっと淋しい気持ちになり、楽しくて仕方がなかった時に、あの頃の気分を思い出
してそうしたのかも知れない。そんなには深くは考えず、思い出す事も無い単調な生活が続いている頃、パソコンに初め
てと思われるメールが入ってきた。僕は基本的には、登録していない人からのメールは、開かないようにしている。
そのメールは、僕のホームページからの書き込みメールだった。
僕は趣味が高じてといいますか、所属していた陶芸クラブへの意地も有って「陶芸」を生業(なりわい)とし始めていた。
ホームページから入信するメールは面識のない方々が、ホームページの批評ですとか、あの作品が欲しい、との内容
がほとんどだ。そうゆうメールは文章だけは読むことにしている。で、そのメールの内容は
「ホームページの表紙の作品はまだ有りますか?まだ有るようでしたらわけて欲しいので、後日連絡の上お尋ねしたい」と
の事だった。
了解を返信してアドレスを確認すると、たぶん名前をアドレスにしていることが分かって、この名前はもしかすると、あの
静のお嬢さんではないか?と、そう思った。わが娘と同じ名前ですから忘れる訳がない。そういえば、我が娘の一つ上だ
から結婚もし、もう子供、静の孫は何人かいるだろうし、本当に来るのかしら。そんな事が有ってから気持が落ち着かず、
何日か過ごしていた。今度は電話で連絡が入り、今度の金曜日の午後お伺いしたい、との事だった。名前を確認すると、
静が入籍した「佐藤」では無かった。その時は「私は・・・」と言ったので気が付かなかった。
違うなあ、名は珍しくもなく、ローマ字表記ならば尚のことだ。でも、声の質は似ているような気もしたのだが。
そして、先日電話をした遠藤ですと,言いながら訪ねて来た。背は静よりも高くスレンダーなところは静に似ている。
撫肩で若々しく和服の似合いそうなところも似ている。
かなりの美人だ。顔を見て僕はすぐにわかった
「もしかして、アコちゃん?」
「わたしぃ、佐藤安希子です、子供の頃遊んでいただいた、我孫子のお兄ちゃんでしょ」
思い出した、子供の名前の話で同じ名前を付けようと
女なの子だったら
《安らかに希望を持って
生きてゆける子》
それで【安希子】
静がそれまでの自分の人生を振り返って、そんな名前を付けたいと言っていた。
そうだ、そんな話を聞いて、僕は同意したのだ。
「あっ、やっぱりそうだったの、あのアコちゃん?」
「やっぱり、お兄ちゃん?」
これには僕もびっくりだ
「そう、綺麗になって」
「ホームページのお写真見て、もしかしたら、と思っていたけれど、まさかねぇ」
「そう僕は昔の面影有った?白髪で白髭でも分かった?」
「子供の頃だから、でも我孫子というのはどこかに残っていて、父にも似ているから、まさかとは思ってはいました」
「お父様に似ている?うんそれはお母様にもよく言われた」
「家に有った写真は、父にそっくりだったから・・・」
そうだった。成人式の記念写真も渡した。その写真を家族のアルバムに貼ってあったのを見
せられた事があった
「そう、お兄様やご両親はお元気?」
一番聞きたい事だ
「父は昨年亡くなりました」
「そうだったの、原因はやっぱり?」
「癌が転移しまして」
「それは残念でしたね、お母様は?」
「今、兄と住んでいます」
「そう元気でいらっしゃるの」
「ええ、つい最近まで助産婦さんしていました。今は辞めていますけれど」
「アコちゃんは看護婦さんに、なったのだったね?」
「ええ、でも学校に入り直して今は眼科の医者に」
「ほう、アコちゃんは子供のころから頭が良かった、遊んでいて分かったもの。やっぱりお父様の後を継いで、偉いね。
お母様も喜んでいらっしゃるでしょうね」
「看護婦になった時も喜んでいましたが、医学部に受かってから卒業まで、随分と苦労をかけましたので、尚更の事喜
んでいました」
そんな四方山話をして
僕に良く似た父親と、静の間に生まれたこの子は、やっぱり静に似たから美人なのだと、感じた。
「作品、出来上がりましたらお送りしますから」
と、さらっと住所を聞いた。未練があるようには取られたくはなかったし、この安希子が静との関係をどう理解しているか
が、分からなかったからだ。
「お兄ちゃん、陶芸教えて下さいね」
「お兄ちゃんは止めようよ。照れる。我孫子のおじさんで行こうよ。陶芸はいつでも良いからいらっしゃい。アコちゃんは
僕の子供みたいな人だからね」
「うれしい、きっとね」と帰って行った。
帰ってからの方がいろいろな事を思い出し、寝付きの悪い何日かを過ごした。その後、何の変化もなく過ごすうちに
「お支払いを持って行きたいので、都合のいい日を?」と電話で
「アコちゃんからはお金は取れないから」
「それは困ります」
「それより、陶芸を教えて差し上げるから、顔を見せに来てよ。それで充分」
安希子は住まいが、我が家から三十分くらいのところに住んでいるので、
「じゃ来週にでも」と電話は切れた。
そして一週間後にさっそく訪ねて来た。この安希子も
「わたしぃ」の、しは、静と同じ特徴のある言葉使いで
「わたしぃね、ホームページで偶然見た時に、絶対にお兄ちゃん、いや、おじさんだと思った」
「お母様と同じだねぇ、話し方・・・・」と
大笑いしてしまった。
この子は僕と静との関係をどの位知っているのか、話をしている時はそれが気になって仕方がない。
だから、あえて僕から静の話はしなかった。突然
「母にね、先日の作っていただいた焼きものを見せて、お兄ちゃん、じゃなかったおじさんの事話したの」
「何か言っていた?下手な陶芸家、とか」
「そうじゃなくて、最初はびっくりしていてね。『あのお兄ちゃんは学生の頃から、物の見方が普通の人と違っていたから、
サラリーマンでは終わらないと思っていた』と」
「へぇびっくり、お母様もそうだけれど、僕も自分を曲げないで生きてきたの、ただそれだけさ」
「ねぇ、母に会ってくれる?」
僕はこのアコちゃんからそんな言葉が返って来るとは信じられないでびっくりしながら
「えぇ?えぇ?アコちゃん、それは・・・・・・・出来ない相談だ」
反対にアコちゃんの方がびっくりしたようで
「なぜ?」
「・・・・・」
「逢いたくないの?」
「そんなこと無いよ、とっても会いたいね」
逢いたくて仕方が無かった。逢って昔の話がしたかった。それは静がどう変わったかとではなく、僕が昔話をしたくなる歳
になっていたからかも知れない。
「それならさ、私がお食事に招待するから、偶然に会った事にすれば良いでしょ」
「アコちゃん、お母様がいいとおっしゃったら僕もOKしよう。いいね、それだけは約束だよ」
僕は静と会う事にほんの少しだが、抵抗が有った。それは、あの時最後は一方的な電話で切れたのだ。逢いたくて仕方
がないがここは譲れない。こうゆう時にこうゆう判断をするのが僕の僕たる所以(ゆえん)だ。僕は物作りには勿論の事、
物事の判断も自分自身に妥協はしないのだ。
ましてや年老いたとはいえ未亡人と離婚経験者だ。逢う事は慎重にならざるを得ない。
この安希子ちゃんからの連絡で静と食事をすることになった。僕に会う事を静は了解したそうだ。
秋のさわやかな風の吹く土曜日。久し振りの銀座は若いカップルや家族連れで華やいでいた。
銀座の歩行者天国は何年ぶりだろう。僕は長女が生まれて乳母車を押して銀座へ来てマクドナルドのハンバーガーをかじ
った事を思い出していた。街にはリン・アンダーソンのローズガーデーデンが流れていた。
長女が生まれたのは昭和四十八年十二月だから・・・・・何年経つのだろう。月に何度かは音楽を聴きに銀座には来ている
のに、明るい時間の銀座は、夜とは違う風景を見せてくれる。
いや、風景もそうだけれど、過去の記憶をたどり、他の考えを与えてもくれた。昼にホテルのロビーで待ち合わせだが、一流
と言われるこのホテルは僕には場違いと、思うようなところに加えて、ただでさえ前日から落ち着かないでいるのに、この雰
囲気は全く僕には釣り合わない。
甥だとか姪だとかの結婚式以外ではこうゆう場には立ち入ったことがない。
僕は、今日の約束を少しだけ悔やんだ。どうゆう会話で始まるのか、何をどこまで話すのか。
静は今年の9月で71歳だ、どう変わっているのか、変わっていないのか。
遠くの回転式のドアーを開けて薄紫の和服で僕の方へ安希子ちゃんと一緒に並んで歩いてくる。アコの隣で少し背の低い
女性が並んで歩いてくる。静なのか?僕はこの上ない緊張感に襲われた。この異様な興奮は何なのだろう。
こんな経験は60年以上生きてきて、初めて経験する高揚感だ。軽い会釈をしながら僕の目の前に現れた静は、歩き方や
仕草は変わってはいないように感じた。
僕が今まで何回も経験したちょっと斜めに見上げるような、すこし恥じらいを感じさせる。
静は目が合った瞬間
「健君ね、本当に長い御無沙汰でしたねぇ。健君はずいぶん変わって、少年の頃の面影はないわねぇ、ハハハハハ」と、
にこにこ顔の挨拶で、今までの空白を埋めるような接し方だ。
僕は
「お久しぶりです。大変御無沙汰をしました。お元気そうでなによりです」と、
月並みな挨拶言葉を掛けた。
僕の静に対する印象は、薄化粧なのに随分と品の良い綺麗なお婆さんになったなぁ。
「でもホント随分と変わってしまって」と、
静は僕の顔を覗き込む
「僕、今年で62歳だよ。変わらなければお化けだ。だけど戸田さんは変わらないね、お化けだな、あはは」
アコの前だから、戸田さんと呼んだ。とりあえず、僕にとっては、最高級のソファーに並んで座った。
静は当然と決まっているように、僕の左隣に座った。
アコは座らずに
「おじ様、わたしぃはこれで、懐かしいお話、たくさん有るのでしょ?」と
アコは気を利かせてか、微笑みながら、用事があると言って席を外した。アコちゃんの後姿を見送りながら、歩き方
や、体のかたちは、出会った頃の静とそっくりで、その後ろ姿は忘れていた事を、たくさん思い出させてくれた。思い
出させてくれたのに二人だけになって、困った。
なんとなく話が途切れる。昔そのままとはいかないと気が付いた。それでも近況をお互いに話した。
「本当は会いたくて、会いたくて、K町の家に行こうかと思っていた」
僕は開き直って本心を言い始めた。気取っていたって仕方が無い。いつもの僕で行こうと決めた。静は本当に申し訳
なさそうに
「健の気持ちは分かっていたの、ごめんなさいね」
「僕は好きな人が望む事を、邪魔してはいけないと、我慢したのだ」
「ごめん、ごめんなさい、許してよ」
「許すも許さないもないよ。今更許さない、と言ったところで始まらないもの」
「良かった。何と言い訳しようかと、今日が来るまで考えていたの」
「そう、僕の事少しは大人になったとは思わなかったの?」
「そうか、そうねぇ、そう考えればいいのね」
「今までは、まだ僕を何年も前の男の子だと思っていたの?」
「そうとしか考えられないもの、あまり大人を感じさせる健を知らないからね」
「静の前ではまだまだ子供かぁ」
「子供でいた方が楽だよ、健」
この『健』と呼びかける声を聞くのは何年ぶりだろう。気持ちを少年にさせる響きだ。
「さっき『健君』だなんて呼んで、初めてだよ、そんな呼び方!」
入院していた頃は苗字で呼ばれた事は有ったが
「『健』とか『健ちゃん』は呼べないよ、時間がたち過ぎているもの。健だって久し振りに、戸田さん、だなんて呼んで。
若いころ思い出したの?」
「実はアコちゃんの前で静と呼ばないか、凄く気を使っていたんだ」
「わたしぃも、同じ。健なんて呼んだらアコがどう思うか、と」
「僕は『静江さん』と呼ぼうかと思っていたんだ」
僕は静江さんって呼んだ事が一度だけ有った。それは静の実家に行って静のお母さんの前でそう呼んだのだ。
「ねぇ、お昼は勿論江戸前寿司にしようよ、ね」
「わたしぃ、胸がいっぱいで食べられるかしら」
そんな会話を交わしながら、このホテルのお店に二人で並んで歩いて向かった。
こうして着物姿の静と腕を組んで歩くのが夢だった。
「こうして歩くのが夢だったんだ」
静は僕の左腕を取り、上目使いで僕を見ながら
「いつもこうして歩いたでしょ?」
「着物姿の静とだよ」
案内された個室で静は僕の左隣に座り、僕は静に話し始めた
「でも、時間がだいぶ経っているのに不思議だねぇ」
静はいつもの僕の方を少し見上げるような顔を向けて
「何が?」
「気持ちが何十年も前に戻っている、本当に不思議だ」
「ねぇ、健は、今は一人なの?一人でしょ?」
「えっ、どうして?」
静は笑みを浮かべながら
「嘘よ、ふざけて言ってみたのに、だけど本当のようね」
と言って左手に持ったハンカチを口にあてた
「びっくりした、どうしてわかるの?」
「何年付き合っていたと思っているの。わたしぃは今でも健の事なら顔を見ただけで何でも分かるのよ」と、
また笑いを浮かべながら言った。そう言えば、僕が中野のアパートに最初に泊った時、静は、僕が静の事が好きで、我
慢できない僕が、静を思いながら自慰しているのを見抜いたのだ。
「あのねぇ、静と再会して、また会えなくなってスグにね、今の結婚生活は僕らしくないと気がついたの」
「うん、分かるような気がするねぇ、健はそうゆう子かも知れないねぇ」
「一生を添い遂げる人を失うわけだけれど、夫婦の話し合いなど無く別れたけれど、自分らしい生き方を取り戻そうと思っ
てね。昔、静が僕に言った事が有ったでしょ」
静は不思議そうな顔をして
「何かわたしぃ言った?」
「人に迷惑をかけなければ、どんな生き方をしても構わない」と
「そうねぇ、言ったかも知れない。わたしぃ自身がそう生きて行くと決めた頃だったから」
僕は静があえて不安定な生活を選ぶと決めたのは、自分らしい生活をも求めていたのを理解していたから
「僕は女房子供に迷惑をかけてしまって、大人になる前の子供に大人の判断を仕向けてしまったけれど。僕の結婚生活
は僕にとっては、僕自身を失う生活だった。こう言うと、女房が全て悪いように聞こえるかも知れないけれど、結婚して同じ
お墓に入るとはどうゆう事なのか?愛していれば一緒に生活が出来なくても、結婚出来なくても良いじゃあないか、とね」
「へぇ、健は随分と難しい事言うようになったのねぇ」
「いやね、静の置かれている立場を考えていたのだ。だから僕は一人でお墓に入っても誰もお参りに来ない筈だから、海
にでも散骨してもらおうかと、既に遺言状に書いて有るのさ」
離婚して子供も家を出て行った時に割りきった。
父と同じ墓に入る事は毛頭考えていないから、当然といえば当然なのだが、散骨することに決めた。と、言ってもまだまだ
人間が本当の大人になり切っていない為か、悔しい事もたくさん起こるし、そうゆう時は腹も立つ、割り切っていても悟った
わけではない。そんな事は確かな意識の中で感じている。
「えっ?健はそこまで割り切っているわけ?」
「難しい事は分からないけれど、静みたいに自分の意思を貫いて、生きている人もいる。そんな静みたいな人の気持ちが
わかった、というところかな。愛している人がいて同じお墓には入れなくても、自分の生き方をわきまえている。女房が自分
の母親を失った時に、これから僕に頼りにしてくる。そう思ったのに結果は逆だった『私が死んだら父と母のお骨の間に私
のお骨を置いて』と言われた時に僕の気持ちは一変したの。それまでは多少変な事を言っても、僕の意見とは違っても、僕
は何も反論せずに同調してきたの。僕が『そうじゃあないでしょ』と少し違った意見を言えば機嫌が悪くなるし、翌日からの生
活に支障を来し、すぐに離婚を口にする事間違い無しの生活だったから」
「健は変な夫婦生活を送っていたみたいねぇ」
今振り返って考えれば変な結婚生活だったと思う。
「子供の為に家庭を壊してはいけないとね。今思えば、すぐにその場でおかしい点を指摘すれば良かったような気がしない
でもないけれど、僕はあえて言わなかった。それはその時の家庭を守るためには一番いい方法だと思っていたから」
静はテーブルの一点を見つめながら、静が看護婦姿で自信を持って仕事をしている時のような、はっきりした言葉で言った。
わたしぃは、ではなく、私は、と言い始めていた。
「私は与えられた環境の中で自分を失わないように、自分に妥協しないで生きて来ただけよ」
「それだよ、昔、静はそう言っていた」
僕をちらっと見て
「奥さんは身勝手のようで健がかわいそうに思うけれど、何故、ご両親のお墓に入りたいと言ったのかしらね。それじゃあ
結婚生活を、一時の腰掛としか考えていないようね」
我孫子と言う土地には縁もゆかりも全く無い。たまたま義母が東京の家を処分してこの我孫子と言う土地に住み始めてい
て、僕の長女がぜんそく気味で我孫子は空気のいい所だからと、引っ越して来たのだ。義母は一人娘を近くに置きたかった
だけで、孫の事を考えての事では無い事は直ぐにわかった。
それは、人間の当り前の生活態度で変な我がままでもなんでも無いことだけれど、今振り返ると「巧く騙されてやった」くらい
に考えてはいる
「僕は一緒に生活していてわかるような気がするけれど、精神が少し乱れていた事は確かだと思う。だからね、そう言われ
ていたから女房が子供を連れて出て行った時に淋しいとか、悲しいとか後ろ向きの考えは湧いて来なかった。これから自分
の為にどうやって生きて行こうかとだけ考えたね」
静から見ればまだまだ大人になり切っていない、だらしない僕でもここまで考えて結論を出したのだと、言いたかった。
「そうだったの」
「僕は結婚してから少しの間、杉並の父の建てた家に居たの、新婚の頃は普通の夫婦だったけれど、我孫子の義母の
近くに引っ越してからは、随分乱暴に扱われてきたと思っていたね。それでも家庭が有って子供が居て、外からは普通の
一般家庭に見えるでしょ?どこの夫婦でも多少のもめ事も有るでしょ」
兎に角、義母の近くに住んだ女房は、いや義母もだが、かなり我儘むき出しで僕は、それはそれは世間で言うところの、
家に帰たくないお父さんをやっていた。
「昔、健が悩みを打ち明けると、上手くいっている家庭なんて少ないって言った事が有ったね。思い出したよ」
「覚えているよ。静の教育的な言葉は決して忘れていないよ」
「さすがに私の三番目の子供は違うね」
その言葉でお互いに目を合わせて微笑んだ。そうだった、僕は静が育ててくれた三番目の子供だった。
「どう?三番目はまだ大人になっていない?」
僕は真顔に戻って
「昔『うちの奴は静の嫌いな、魚河岸のマグロだもん』って言った事が有ったでしょう、忘れちゃった?」
「そうだった?」
「うちの奴はマグロだから夫婦でも抱かないと」
「うんうん、ただ寝ているだけ!だったかなぁ。あれは健がわたしぃに気を使ったのではなかったの?」
「違うよ。本当の事。だけどちゃんと普通の夫のように、僕の意思を曲げて、無理強いしてでも抱いていれば多少違う結果
になったかも知れないがねぇ」
「健は夫婦になっても、好きでいないと抱けないの?」
「そうさ、僕は本当に愛していないと出来ないの。『夫婦喧嘩しても、一晩経てば仲直り』そんなのは僕には無いの。静が僕
に感じてくれて、満足した表情をしてくれると僕は、それ以上に感じていたの、知っていたでしょ?」
僕の言葉に静は僕を見ないで、目とからだでうなずいていた。そして笑った。女房と変な結婚生活を送っている頃、その頃
からだった。昔を振り返って考えるようになったのは、そして楽しかった静と過ごした時間を思い出す事が多くなっていた。
「最近だよ、生活が安定して自分の好きな事だけやって、イヤな事はやらない。そうなると、人間の気持ちって不思議だね。
過去を思い出す余裕も出てきて、反省したり、後悔をしたり、急に淋しくなったり、今日静に会えて良かった。久し振りに精神
が安定して、これからは平和な日々が送れそうだ。それに僕の離婚理由など静からは聞かないし、ね」
世間の人々は離婚をしたと知ると理由を聞きたがる。興味本位それだけなのに、それ以外に理由など無いのに。
それを隠して知りたがる。本当の事など当の夫婦以外には分からないのに。
いや、夫婦だってお互い違う理由付けをして、
お互いを理解出来ないでいるのに。僕は離婚理由など聞かれても本当の事など言わないし、それを聞いてきた人の人間性
を疑ってしまう。
静が優しい声で
「健」と言った、僕はうつむき加減の顔を上げて静を見ながら
「何?」
「顔を良く見せて」
「どうかした?何か顔に付いている?」
「そうじゃなくてね。今まで健の顔まともに見た事が無かったから・・・」
「僕も同じだよ。出会った頃も、大好きだった時も静の顔を覗き込むと、いつも目をそらしていたもの。どうして僕の顔を、い
や目を見てくれないのか考えた事が有ったもの」
「だから良く見せて」
静は僕の目をじっと見ながら何を見ていたのだろう。何を考え感じ、何を見ているのだろう。静の目は若々しい眼では無かっ
たけれど、落ち着き払った優しい目をしていた。そうだ、静の実家に行った時に会った、静のお母さんと同じ優しい目をして
いると、僕はそう感じた。
そうか、静の眼はこうゆう眼をしていたのか、と知り合って四十年も経ってから初めて知った。
僕の大好きな優しい目。この眼差しを感じた時、綺麗な人だなぁ、こんなに優しい目をした人とたくさん話がしてみたいと、
あの40年前少年だった僕を思った。
「初老 健」 初老 健2(連載 13)
僕はじっと静の眼を見ていた、静もあの恥ずかしそうな目ではなく、僕を確認するようにじっと見続けていた。
お互いに「ん?」と、いうような表情をしながら顔を近づけると、僕はたまらない我慢できないような感情が湧いてきて
「やさしい静の香りがする」
静はびっくりした声で
「えぇ?何って言ったの?」
「昔の静の香りがする。僕を夢中にする香り。この香りは僕が落ち着く香りなのだ」
香りは過去を思い出させてくれる。
「健ちゃん?何?なんだかよくわからない。何か変わった?」
この雰囲気で健ちゃん!と呼ばれたから、尚更僕の感覚は少年時代の僕に戻っていた。
「あのね、初めて中野のアパートに泊った時からデートしている時も、この香りがしていたの。お化粧の香りじゃぁないよ。
静独特の僕が落ち着く香り。嫌なことや、短気を起こしそうになった時に、この香りがすると、不思議と心が落ち着いたの」
僕が子供の頃悲しい時や、駄々をこねて泣きじゃくり、最後は母に抱かれて泣き疲れていると母の香りがして落ち着いた。
あの感覚なのか。
「その話、初めてね」
「この香りに酔うと『今日はゆっくり出来るの?』と僕は静にお願いするのだ。いや、もっとはっきり『ねぇ、我慢出来ない』と
言った事も有ったよねぇ」
静が親指と人差し指で丸を作って僕を見上げた
「そう、若かったね。こうして丸を作ってね・・・・あはは」と。
僕が嫌な感情に襲われた時、両方の指で鎖のようにして自分を雁字搦めにしていたのに、静が指で作る環はこんなに感情
を緩やかにしてくれる。
「こうして丸を作ってくれると、嬉しくて僕はすぐに興奮して我慢出来ない状態だった」
静は僕をチラッと見ながら
「そうゆう話が、なんの抵抗も無く話せるところは、全く変っていないねぇ、健は」
「何にも気を使わないで、何でも話せるのが、僕の静だよ」
「変って無い、健は」
料理が運ばれてきて、中野の寿司屋を思い出した。そう言えば何年ぶりだろう、若い時は静が何か有るとよく寿司屋に連れ
て行ってくれた。それは僕の誕生日だったり、静の誕生日だったりお給料日だったり
「お腹一杯食べなさい」と
若く食欲旺盛な僕に言ってくれた。握り鮨を頬張りながら静と話をするのが大好きで、楽しかった。何でも話せた。懐かしい。
この歳になってこの気分は何だろう。
「さっき静の眼を見ていてそう思った」
「何?」
「昔、静の実家に行った事が有ったでしょ?」
静は連れて行くわけがないと言いたいように
「えっ!連れて行ったの?」
「忘れた?」
「全く覚えていないねぇ」
「僕はその時、ものすごく嬉しかったの」
僕は大好きな静が、夫婦でも何でもないのに実家に、しかも子供と一緒に連れて行ってくれて、お母さんに会わせてくれた事
が嬉しかったのだ
「何をしに行ったのかしら?」
「知らないよ、僕をうちの人の弟、と紹介した」
静は信じられないと
「思い出せないなぁ」
「でね、僕はお母さんの眼を見ながら静が歳を取ると、こうゆう眼になるんだなぁ、と思ったの。その眼になっていたって事さ、
今の静は、あのお母さんの優しい目をしている」
「わたしぃの眼?」
「そう、まなこ、さっき見つめていた時に感じたの」
「健と実家に行った?本当?」
「やだなぁ、二人の子供と僕の茶色の車で、忘れた?」
「なぜそうしたのかが、わからないねぇ」
「行く途中で僕に、『あの山奥でニッセキが訓練していたのよ』って、僕はニッセキって何?と聞いたら日本赤軍だって言って
いた」
「うん、そんな事話したんだ・・・・・」
「実家近くになったら正君と安希子ちゃんに『御爺ちゃんの御墓はあそこに有るのよ』って指差して教えていたよ」
「そんな事も言っていたの?」
「帰りにはアコちゃんが途中で気持ちが悪くなって、静に抱かれてゆっくり帰って来たの、正君も後ろの座席で眠くなって」
「そうだった?」
「僕は、アコちゃんを抱いているお母さんの静を見て、幸せそうで羨ましかった」
「健に無理を言って、実家まで運転させたのかしらねぇ」
「家に帰り着いて、眠って重くなっている正君を僕が抱っこして降ろして」
「そう、そんな事も有った?」
「静は気持ちが悪かったアコちゃんが落ち着いてきたので、寝かしつけるなりコーヒーを入れてくれた」
「健はよく覚えているねぇ」
「あの日の夜は、アコちゃんが気になって、静も落ち着かないでいたな」
「そう?」
「僕は静にお母さんをする事を優先させたのに・・・・・」
「健におねだりしたの?」
「僕は嬉しかったけど、アコちゃんに悪いような気がして、満足出来なかった。あの時は『アコちゃんみたいにしてよ、甘えたい
気分だ』って静に甘えたの」
「健はそんなことまで覚えているの?不思議な人。で、膝枕で?」
「そうだよ、膝枕で静は僕の髪の毛を優しく触って」
「健は甘えるとそうだったね」
「いつものように静のおっぱいを欲しがってね、あははははは」
「三人目の子供は、まだ大人になれなかったナァフフフフ」
「純愛だな、僕の静に対する気持ちは、だから見た事や起きた現象は忘れないでいる」
「純愛かぁ、健とは純愛。そうだねぇ」
「そうだよ、二人とも制限の有る時間を大切にして逢っていたんだ。僕は後ろめたい気持ちは全く無かった」
「わたしぃもそう思っていたのよ。後ろめたい気持ちなんて起きるわけないもの」
「そうなんだぁ」
「だってわたしぃはあの頃独身だったもの・・・・ね」
「そうかぁ、僕はカッコよく言えば家庭内別居、悪く言えば・・・・家庭ごみだったなぁ」
「昔、たまには和服を着て来てよと言ったのに、着物を着て来てくれることが一度も無かった。今日は和服の静に会う事が
出来きてうれしいね。あの頃は、和服の静と腕を組んで歩く事が、夢だった」
「そうか、そうだったの。さっきも言っていたね」
「長年の夢が叶って、本当に今日はうれしい」
静は女性が和服を着るとよくする、袖をつまんで『やっこさん』のようにして袖を僕に見せながら
「この着物、覚えていないの?」
「え、この着物がなにか・・・・・・?」
「健が買ってくれた着物、忘れた?」
「へえ、ちょっと待ってよ、僕がプレゼントしたの?」
僕は全く忘れていた
「わたしぃの誕生日にね」
「昭和13年9月18日だね、忘れていないでしょ」
「わたしぃの誕生日、よく忘れないでいたねぇ」
「静の誕生日は絶対に忘れないさ。初めて会った日も。初めてデートした日も。静が泣き声で電話に出た日も、忘れていな
いよ。童貞を奪われた日もな、自分で笑っちゃうよ、僕って奴はさ、変な奴さ」
静は昭和13年9月18日生まれ、僕はパソコンのパスワード130918として使っている
「健ったら、ホントにおかしな人ねぇ」
「それより着物のプレゼントだなんて、子供のくせに、シャレたことしたね」
「お金が無いのにねぇ」
「ホントだね。静からお小遣い貰っていたのに、よくそんなこと出来たね」
「この着物着てデートしようってね」
「どうもおかしいなぁ、本当に僕がプレゼントしたの?30年以上も前に買ったのに、今の静が着ても似合っている」
「買って貰った時に少し地味かなぁ、って、思っていたからね。だから、今丁度いいのよ。もしかして健に逢えるかも知れな
いから、って、最近仕立てたのよ。着なかったら、アコにあげようと思って」
「まあ、静は本当の歳よりもだいぶ若く、見えるからなぁ。うん、なんとなく思い出してきたぞ」
「ねぇ、いつものようにマグロはあげるからその貝、頂戴」
「いつものように・・・・か?そうだった。そうだったねぇ」嬉しい言葉だった。
僕と過ごした時間を覚えていてくれた。
僕の就職祝いに万年筆を買ってくれた事があった。
この万年筆は書けなくなっても捨てないでいた。
しかし、静の事を忘れようと捨てたのだ。
捨てた時の想いと、その行為は、今でもしっかり思い出せる。そして本当に忘れていた。
忘れる事が出来たのだ。今の今までは。
買ってくれた万年筆に、静が書いてくれた筆跡で僕の名前を、彫ってもらったのだ。
働くようになってから、その万年筆を買った渋谷の東横へ行って、わざわざ静の好きな紫色の反物を二人で選んだのだ。
着物を買った帰りに東横ホールへ行って、落語を聴いた。主任(とり)は古今亭志ん朝だった。演目は確か「真田小僧」。
あの時の志ん朝はまだ二つ目の朝太だった。ちょっと色っぽい話の部分は、横にいる静の目と目が合って、にこやかに
笑っている静が、妙に大人の女を感じさせて、僕は内心どきどきしていた事を懐かしく思い浮かべていた。
帰りにはやっぱりお寿司食べて。
あの時、帰る静は地下鉄で中野坂上まで行くために一番後ろの車両に乗り、僕は新宿駅で降りて電車の中の静に、丸の内
線の電車が見えなくなるまで手を振って別れたのだ。静は座席に座っていて顔だけ後ろ向きでホームにいる僕の方に向けて
手を振っていた。
「あの時、静はスカイブルーのオーバー着ていたね」
「そうだったぁ?よっく覚えているねぇ、そう、落語聴いたね。スカイブルーのオーバーを覚えているなんて変な人ね」
僕はあの頃静に夢中だったのだ。
「ヘアースタイルは、逆毛を立てて凄く髪の毛が高くなっていて、今の流行りのスタイルなのだと感心していた。あの頃楽しか
ったなぁ。他の事何も考えないで、静が大好きだった」
頭の中はほとんどが静のことだった。いや、静の事以外考えた事はなかったかも知れない
「そうね、会える時はいつも会っていたね」
僕は少し言葉を強めて
「嘘だぁ!そんな事なかった。会える時と言うのは静が会える時で、僕が会いたい時では無かった。僕は、会いたい時に会
えないいらだちが、いつも心に有ったもの。それですごく辛く悲しい思いを何度したかわからない。会える時に会えたと思って
いるのは、静の方だけだぞ」
静はにこやかな笑顔を向けて
「そうか、ごめん、ごめん、そうねぇ。そうだったかも知れないね、少し思い出した。健が無理を言ってアパートで待っていた時
があったね」
そうだった。僕は病院に行く訳にはいかなかったから、静のアパートの前で待っていた事が有った。
「アパートの前で待っていて、静と部屋に入ろうとしていたら、同じアパートの住民に顔が会って、静は会釈をしながら何て
言ったか覚えている?」
「えっ?何て言った?」
「にこやかな顔して『弟です。たまに来ますのでよろしく』って」
「そうだった?」
「僕も『弟の健です。いつも姉がお世話になっています』って本当の弟と思っていた節が有ったね。部屋に入ってから笑ったね」
二人で声を落として笑った。
お茶を一口飲んだ静が
「でも、懐かしいお話ね。出会って四十年以上も経ってこうゆう話が出来るのは、老夫婦以上ねぇ」
「夫婦は、老夫婦になってもこうゆう話はしないと思うよ。ばかばかしくって出来ないって」
「そう?そうだねぇ」
「僕は、夫婦のそうゆうところが嫌なんだ。僕には静みたいな存在の人が、必要だった」
「うん?」
「静だってそうだったでしょ?僕みたいな奴、必要じゃなかった?昔言っていたでしょ」
「なんて・・・・?」
「『毎日、夫が帰って来るような生活は出来ない』って」
「わたしぃ・・・言った?うん、そう思っていた。健にそんな話したんだ?」
「僕は淋しくないのかなぁって、聞いたんだ。そしたら『わたしぃは、そうゆう生活は出来ないって』言ったのさ」
「そうゆう事って?」
「だから、毎日夫が帰ってくるような生活」
「そうよ。よく覚えている、健は。今までもそう思って来たのよ。今まで」
そう、そうゆう考え方も有るんだと、家に帰りたくないお父さんやっていた時に、思った事が有った。
話に夢中でお寿司を食べるのを忘れている
ここまでくると僕の記憶は超猛スピードでよみがえる
「ねぇ、成田山へ初詣に行った時の事覚えている?」
「成田山へ行った?」
「静がお正月に実家に帰る時に、一緒に初詣に連れて行ってくれて、静はそのまま『京成S駅』で降りて実家へ、
僕は一人で帰って来たのだ」
「本当によく覚えているねぇ」
「あの時に成田山の裏手は整備工事をしていて奥へは行けなかった。僕は、成田山の本堂で手を合わせて何をお
願いしたか、言おうか?」
「えっ、何をお願いしたの?」
「『静が幸せでいいお嫁さんになりますように』ってね」
「どうして?そんな事お願いしたの?」
「大好きな人の幸せを祈ったのさ!そうだ、たぶん僕のお嫁さんにはなってはくれないだろうと思っていたからさ」
「どうして?どうして、わたしぃが健のお嫁さんにならないと思った?」
「まだ子供だったからね。今なら歳の差を感じないけれど、何にも分からずにさ。こんなにいい人は、絶対に幸せにならなけ
ればいけないとね」
「へぇ、そうだった?そう言えば、健は子供だったり、すごく大人だったり、不思議な子だったねぇ」
「そう?僕も静は九歳も上なのに妹に感じたり、仲の良いお姉さんに感じたり不思議に感じる事は何回も有ったなぁ。今日の
静はお姉さんと云うよりも、歳の近い優しいおかあさん、ってところかなぁ、少し褒めすぎたかぁ?」
静は笑顔で
「良かった!おばあちゃんでなくて!」と言ってクスッと笑った。
表情を見ると、若いころの看護婦姿を思い出させるような、優しい顔だ。
「ねぇ、アコちゃんから聞いた時は、どんな感じがしたの?」
「最後の電話で言ったでしょ、今度はわたしが連絡する番だって」
「えっ!じゃなに?全て最初から僕だと分かっていて、アコは連絡してきたの?」
「そうよ」
「これはびっくりだ。怪しいなぁ?本当?」
「実はアコが調べて教えてくれた時に、会いたいと思ったの」
「そうでしょ、僕はもう絶対に会えないと思っていたからなぁ、もうあんなに好きになった人は現れないと諦めていた」
静は箸を止めて
「本当に会えるのなら逢いたいと健の事想ったのよ」
「そうだったの、嬉しいなぁ」、
「健、突然連絡しなくなって、その後どうした?女遊びしたでしょ?しないわけないよねぇ、若い時からわたしぃがいたしぃ、
ねぇ?違いないでしょ?健!」
最後の、健は、かなり強い言葉で、僕は焦った、なぜそこまで言うのか、そのとおりなのだ。
「静の前では降参だよ。そのとおり、間違い有りません。いろいろな女の子と遊んだよ。それは静の事を忘れたかったから
だぞ」
「ハハハ、わたしが原因だから、笑ったら怒られるねぇ」
「そんな目で覗くなよ」
にやにやしながら、にらみ返してやった
「で?、どうだったの?」
「どうだった?て、何が?」
「他の女の子と遊んでさ、面白かった?楽しかった?どうなの?していて気持ちが良かった?」
全部お見通しだ、静には負けた
「楽しくなんて無かった。面白くも無かった。あれは静の方がずうっと良かったし、気持ちが良かった!こう言えばいいの?
静江さん?」
「静江さんだなんて、そうでしょ。そうでなければ、わたしぃの立場が無いもの・・・・」
やっと静の箸が動き出した
「あのね、女の好みって最初のおんなに左右されるナ」
静の箸がすぐに止まった
「どうゆう事」
特に僕みたいに、最初にすばらしい女性に出会ったおとこは、間違いは無いと思う。
「静よりも素敵な人は、現れなかったって事さ、前にも言った事が有ったと思うけど、男は好きで無くても女なら誰でもいいと
思っているやつ、沢山いるんだ。僕は、好きになって愛していないと抱けないの。愛していないとセックスしても本当に気持ち
良くはならないの。静の裸を思い浮かべながら自分でしていた方がよっぽどいい」
「よくわからないけれど・・・・抱けない、って・・・そう昔そんな話しねぇ。健はおんななら誰でも良いわけでは無いって言うことねぇ。
健はそうゆう子だったって、知っていたわよ。わたしぃ、だからわたしぃが衝き放しても、女遊びしても、曲がった子にはならない
と、大丈夫だと思っていたのよ」
「変な理屈だなぁ。結構応えたぞ、辛かったなぁ。静の裸が頭の中ではっきり思い出せるから困った。裸だけではなくて、話し方
や話し声、後姿や歩き方全て思い出させてくれちゃうから」
「そうだと想っていたのよ。それでも健は曲がった子にはならないと思ったって事」
「その『子』って言うの、止めてよ。健ちゃんに戻っちゃうよ。また『静のおっぱいが見たい』なんて言い出しそうになっちゃうから」
「ばかねぇ、すぐそれなんだから、もう健は!」
「あの時少年の僕に『好きな人の裸が見たいと思うのは変じゃない』って言ったよ」
「今でも、そうやっていろんなお話が出来るのは楽しいねぇ。それは健が曲がった子にならなかったからね。健はいい歳とった
よねぇ、表情見れば分かる、暗い子じゃあ無いもの」
「静に『いい歳をとった』といわれるのが一番嬉しいネ。静以外の人はね、一緒にいても、香りも、雰囲気も全く違っていてね。
違うというのは、いつも静が基準なの。それでも忘れようと、してはいたの。いつまでも、亡霊のように頭に浮かぶ静に、振り回
されてはかなわないもの」
「そんなに振り回していたの?」
「そうさ、愛していたんだよ、静が僕を愛してくれていた事も、今でもはっきり覚えているよ」
「亡霊か?その言葉に間違いは無いネ。亡霊に感じる程って事ねぇ」
「そうだね、結局忘れられないってことか?」
「そうよ、わたしぃも」
「初老 健」 初老 健3(連載 14)
「静、今は幸せでいるの?」
こんな質問をしてしまったと思った。でも、僕が一番知りたい事でも有ったのだ。
信頼できる「うちの人」だけれど、やっぱり僕は心配で気になっている事なのだ。幸せでなかったら、自分の人生を悔や
んでいたらどうしようと思っていると
「アコが気を使ったのよ」
「気を使った?そんな事聞いていないよ」
「少し聞いて下さい。主人が亡くなってからね、主人の妹と世間並以上のごたごたが有って、いい加減疲れていたの」
「K町に居る頃言っていたね『あなた、お兄様から毎月いくらいただいているの?』って聞いたあの妹でしょ」
僕の方が会話の隅々まで覚えている
「よく覚えているねぇ、イヤぁな子ねぇ」
「出たぁ、何十年ぶりだ?イヤぁな子」
「わたしぃそんな事も健に話をしてたの?」
「そうさ、話してくれた事は忘れわしないよ」
「主人のおとうさまの遺産分与で揉めて、今度は主人の分与で・・・・ほら、不思議な戸籍だからわたしぃ」
静はうちの人と戸籍上は兄弟になっていて、養子として入籍していると、昔聞いていた
「静、『主人』と言う言葉使い、自然だね。昔は『うちの人』と言っていた」
「冷やかさないのよ、もう・・・・」
静はほほ笑み続けている。その笑みは自信に満ちた時の静が見せるあの病院で仕事をしている、あの笑みだ。
「それで、わたしぃが気を使い過ぎて、疲れているから気休めに、何かしたら、と」
「それで、アコちゃんが何か?」
「アコは・・・・・いろいろ考えていたらしいの」
「それで僕に会わせる、というのはちょっと乱暴だが」
「まだ先へ行かないでよ。アコと二人で旅行へ行ったり、買い物に行ったり、母娘でいろいろな話をしたの。そしたら健の
話になってね、あの子はわたしの気持ちを読んだのね『お母様、わたしぃ我孫子のお兄ちゃんに会いたい』と言い出して
びっくり」
「へぇ、そう、アコが言い出したの」僕は嬉しかった。アコが言い出したとは、本当に嬉しかった
「あの子どこまで知っているの?」
「アコもそろそろ四十になるしぃ。何も聞かないけれど分かっているみたい。子供の頃の思い出の中で、健が遊んでくれた
事が、一番の思い出らしいの」
僕もアコが自分の本当の父親の気分で接していた事を思い出していた。
「で、気を利かしたの?」
「もうお互いに老人だしね」
「ちょっと待って、僕は老人の意識はなんか無いよ。これから良い伴侶を見つけて幸せな家庭生活を・・・・」
「健、何言っているの?健には無理だって甘ったれな弟が・・・・・女を幸せになんて出来ないよ」
「失礼な姉さんだなぁ、チビちゃんみたいな従順な人見つけるさ」
チビの話になったら静の表情が一瞬で変わった
箸の動きを完全に止めてお茶を一口すすって
「チビって間宮さんでしょ、あのねぇ、そう言えばねぇ」
僕は身をちょっと乗り出した
「チビが何か?チビの事だったら教えてよ」
「チビちゃんの事、気になる?」
痛いところを突かれた
「気になるさぁ、あの子に対しては反省しきりだ。いつかお墓参りに行かなくては、と思いつつここまで来てしまった。生きて
いれば謝らなければ気がすまない」
「そおぉ、それ本当に?」
「本当さ、僕は何事も静には嘘は言った時は無かったはずだよ。チビにはどの位悩まされた事か。確か、群馬県の水上の
生まれだったと記憶しているけれど」
「本当にそう思っている?」
「本当だって、チビとは静の事を忘れようと会っていたし、静の事を忘れようとして会わなかった」
「えっ、どうゆう事よ。さっぱりわからない」
僕はチビの話になったので、箸を置いて話す事に専念した
「僕はチビに静の代わりを求めていたの。チビは応えてくれていたのに、僕はそれを足蹴にしたのだ」
「わたしぃの代わり?何の代わり?」
「いろいろさ。静みたいなお姉さんの部分だとか、妹、母親、恋人そんな事をさ。デートしていてこうしてって、何かお願いし
ても静と違うやり方をすると、僕はすぐに機嫌が悪くなって黙って、嫌みを言っちゃうの、嫌な奴だった。その時の僕は」
「そうだったの、じゃ、本当の事教えてあげようか?」
「何か有ったの?早く、何?」
「あの子ねぇ、助かったのよ」
「なにぃ、なんだ?それは、自殺したのではないの?」
不思議と僕の言葉はゆっくりに話している
「助かったの、元気なのよ」
「あのねぇ、いい加減な事、言わないでよ!人の命の話だぞ」
「本当よ、だって、健はチビが自殺したって言った時、そのあとを聞かなかったでしょ」
「じゃぁ、なに『お腹に子供がいたの、相手は健じゃないよね』の後が有ったの?」
「そうよ、『僕の子供だったら結婚していた』で終わったでしょ」
「う・・・ん、自殺した、だけれども、死んではいない。未遂だった・・・か?
「そうよ」
ここから僕のしゃべりは急に早くなる
「で、後遺症は無いの?今どこに居るの?」
「私だって、今は、知らないのよ。何年前の事だと思っているの?」
「だって、助かったのでしょ?どこにいるの?ねぇ、教えて!ねぇ、静、教えてよ!もっと早く静に会うんだった」
僕は焦っていた。僕は強い言葉で言い始めていた。生きているなら、会わないわけにはいかないのだ。会って謝らなけ
ればいけないのだ。僕は目を天井に向けた。特別に何も見えなかったが、その空間からチビが僕を見ているような気が
したので、自然と何処か探し始めた。
そうだ、静のK町の家でチビの話に触れた時に、僕は今の気持ちになっていた。何ともやるせない気持ちで、コーヒーの
お代わりを持ってきた静を、抱きしめながら、静に『黙って抱きしめて』とお願いした、あの時の気持ちだ。あんな思いをし
たのはあの時だけだ。
あの時、静は僕をそれまで以上に満足させてくれたのだ。
「何年前だったか、香山さんから電話が有った時に聞いたの」
「ナンバーワンの香山さん?」
「そう、健だけだよ、ナンバーワンと呼んでいたのは」
僕の目は天井から静の目へと移って
「ナンバーツーは静だよ、知っていた?そんな事どうでもいいけれど」
「わたしぃ、二番だったの?へえ、驚いた」と、静は自分の人差し指を自分の鼻先に向けた。
戸田さんは誰に似ていると言われる?と聞いた時に、「倍賞千恵子、わたしぃ似ている?」と答えた時と同じ仕草をした。
「で、さあ、どうすればいい?探す近道を教えてよ」
「そうねぇ、原宿に看護師協会が有るから、そこで聞いてみると、分かるかも知れないわね」
「原宿ね」
「そう、看護師はそこに登録しているから」
「すぐにでも探すよ。いや、お願いだ、静、探してよ」
「わたしぃが?」
「今はプライバシーがとやかく言われるご時世だからそうだ、ナンバーワンに聞いてみてよ。頼む、僕、チビに謝らなけれ
ばいけないのだ」
「えぇ、謝るの?」
「ねぇ、昔、炬燵で静に抱きしめて、って、お願した事有ったでしょ?覚えているでしょ?」
「うぅん・・・・・・・・K町の時の事?コーヒーのお代わりを持って炬燵に入ったら、急に健が抱きしめてって、言ったのでびっく
りした時ねぇ、思い出した」
「あの時、チビの事が頭を過ぎったの、チビがかわいそうで、僕は空しくなって、誰かに抱きしめてもらわないと、どうしよう
もなかった」
「あの時の健は、知り合った頃のように子供だったねぇ。そうだったの?そうだったんだぁ。なにかあったなぁと、思ったのよ」
「あの時の静はそれまでよりもずっと大人に感じて、大好きだった。なんでこんなに僕の事を一番に受け入れてくれて、僕
のして欲しい事が解るのだろうと」
「そんな事、有ったねぇ」
「だからねぇ、チビが生きているなら会って頭を下げて謝って、許しを得なければいけないの、わかるでしょ?」
静は自分に言い聞かせ納得した、と。多分僕はそういう性格だったとでも思ったのだろう
「わかった。おチビちゃんが自殺した原因は、健自身にも有ると思っているのね。健のお願いは聞かなきゃねぇ。いつもわ
たしの我儘を聞いてもらっていたから」
二人は無くなりつつあるお寿司を、食べる事に決めたように口にした。
そして食べ終えて
「ねぇ、僕がチビとデートしてチビが遅くに帰ると、怒ったでしょ?」
「チビちゃんが遅く帰って来るとねぇ、嫉妬してヒス、起こしていた」
「ヒスって古いなぁ、それ静の時代の言葉だナ。静でもヤキモチ焼く時が有った?」
「遅く帰るとねぇ、いつもは、優しく呼んでいるのに『間宮さん!』って強く呼んでみたりして『もう少し早く帰りなさい!』なんて
、お説教をしてね」
「それじゃ僕と同じ、チビが可哀相だ。両方から標的にされて、そのヒスはチビに対してなの?それとも・・・・・僕なの?」
「健にね、だって健は愛していないと出来ないって、うすうす知っていたから」
「嬉しいなぁ、静が僕にヤキモチか?そう、チビを抱いたのも好きで愛したから抱いたの」
「あの子ねぇ、健と付き合ってから変ったのよ」
「大人になった?」
「すごく女らしくなったね」
「僕がそうしたのかもしれないなぁ。静が僕を男にしてくれたように、僕がおんなにしたのだ」
「そうでしょう。わたしぃ知っていたわよ」
「あの頃僕はねぇ、チビにベッドでも静を求めていたなぁ」
「あの子どうした?」
「僕の言う事はなんでも聞いてくれた。どんな事でもしてくれたよ。静が知っている僕が好きな
事。静がヒス起こすような事も」
「イヤ、健、そんな話は止めてよ・・・・・・あの子は嘘をつけない子なのに、隠そうとするのが見えちゃうの」
「チビはチビなりに、大人になっていたんだ」
「おしゃれになったしぃ、下着もね、健の好みかと思った」
「へぇ、そうだったの、僕は下着の好みまでは要求しなかったぞ。いくら静の代わりを求めても下着までは・・・・そうだぁ、静
が下着を着けているのは見た事がないもの」
「やだなぁ。もう、そんなことまで思い出さないのよ、イヤぁな子ねぇ」
「そうだったよねぇ、静江さん?」と、僕はやんわりと同意を求めた
初めの頃、静はなぜ下着をつけていないのか、不思議に感じていた。それは直ぐに理解出来たが、その時の僕の心は嬉
しさでいっぱいだった。
「もう、やめてよ。チビちゃんの話でしょ。あの子ねぇ、おとなしかったのに、物事をはっきり言うようになったの。デートして
帰って来るとわかるの」
「何がわかるの?」
「もう、イャ!って、言っているのに健ったら!」
寮の同部屋で、二人は何を考えながら、過ごしていたのだろうか?
男の僕には解らない、二人の感情のぶつかり合いはどうだったのか?
「夜ごはんも一緒に食べようよ」
「いいよ、何にする?」
「静のもう一つの好きなものにしよう」
「知っていたの?テンダーロイン」
「知らないと思っていた?」
「お互いに歳を取ったからお肉は無いと思ったの」
「少しでいいから柔らかくて、おいしいところにしようね」
お肉を食べながら何時間話したのだろうか。
そんな長話で気がつけば帰らなければいけない時間だ
僕は少し冗談混じりに、いつもの言葉を言った
「今日はゆっくり出来るの?」
「それ健がいつも言っていた意味の?ゆっくり?かまわないけれど」
「まさかねぇ、僕は望むところだ。本当に抱いていいの?昔の僕のように我慢できそうに無い」
「健、若いねぇ、おばあちゃんを前にして、よく言うよ」
「おばあちゃんじゃないね。だって出会った頃から自分のこと『おばあちゃん』って言っていたじゃないかぁ。『こんなおばあちゃんより、
若い人の方がいいよねぇ』って、本当はね、今ここで抱きしめたいの、僕のこの手が、覚えていて忘れていない、静の感触を味わい
たい」
「今は本当のおばあちゃんになってしまったねぇ」と静は自分の手の甲を見、そして擦った。
「でも、静にはそれなりのハッピーエンドがやってきそうだねぇ、僕には来るのかしら」
やっぱり「うちの人」は「主人」になったのだ。静は僕に無理を押しつけて幸せを勝ちとったのだ。僕はそう理解した。
「健、今日はよく逢ってくれたねぇ」
静はあんな勝手な電話で、強引に別れたので、今日は来ないと思っていたらしい。
「静こそ、来てくれてありがとう。あの船橋駅での再会の時より本当に嬉しいね」
「本当はね。本当のことを話そうと思ってアコに調べさせたの」
「本当のこと?」
「そうよ」
「今までに嘘が有ったってこと?」
「そうじゃなくて、本当に人を愛することを教えてくれたのは、健だったってこと。気が付いた時に、あぁ悪い事、しちゃったって」
「えっ!僕もだよ。人を好きになって愛するってこういうことを、静が教えてくれた」
「そうだったの・・・・健、他人が聞いたら『何、歯の浮つくような事、言ってんだ』って笑われてしまうけど、二人だけには解るって、
いいねぇ」
僕の目を見ている。
「なんでも話せる静が大好きだって言っていたけれど、僕も本当のこと言うね。僕は僕なりに聞くことだけ言おう、言うことだ
けでそれ以外は聞かない、そう接してきた」
「えっ、なに?」
「あのね、全てが分かってしまうと、僕の僕だけの静が普通の女になってしまうような、そんな感じがしてね。楽屋裏は見たくないの」
「そうだったの?健はわたしぃが考えていたよりも、ずっとずっと大人のおとこだったのねぇ」
「違うよ、静が普通の女になってしまうのが怖かったのさ、ただそれだけ」
「そうだったんだぁ」
「本当に僕の気持わかった?」
「わかったって、わかっていたのよ、始めから」
「若い頃僕が、こんなにいい関係はないから、娘が大人になったら『静との素敵な関係を話して聞かせる』と言ったら、静は
何て言ったか覚えてる?」
「えっ、なんて言ったの?」
「焦った顔して『それは・・・・まずいでしょ』って、言ったんだ」
「そうでしょ、賛成するわけが無いもの」
「でも、今考え直してどう?」
「それはやっぱり・・・・・」
「僕は変わっていないよ。話して聞かせる。ただの浮気では無いからね」
「そうか、アコは知っているようだしね」
「二人の愛は永遠さ、あははは。キザな奴だね。僕がただの浮気男だったらアコちゃんだって調べやしないよ」
多分だがアコはそう思っているはずだ。いや、そう思っていて欲しかった。
うなずく静は僕の目をじっとみながら
「そうかも知れない、逢えて、うんうんん、逢って良かったねぇ」
「初老 健」 初老 健4(連載 15)
「ねえ」
「うん、なあに」
「ねぇ、あのさぁ・・・・・・・・」
「どうしたの?なぁに?・・・・・・・・・あっ、思いだした」
「僕からお願いがあったのに、何を思いだしたの?」
「健が『ねえ、ねぇ』って言ったの覚えてる?」真剣な顔の静
「何だかわからないよ」
「あの中野のアパートで健が『ねぇ、男の子が一番見たいところ見せてよ』って言った事思い出したの」
「そんな事が有った?」
「いやぁな子ねぇ、わたしぃが黙っていたら、健はお布団を外して、わたしぃのおんなのこ見たでしょ」
「ああ思い出した。嬉しかったなぁ、あの時。未知の世界だもの。静は『わたしぃのおんなのこ綺麗?ねぇ?綺麗?』って何度も
何度も聞いたんだ」
「思い出したなぁ、こいつ!あははは」
「あの時は感激したな、綺麗も何も僕は初めてなのに綺麗だって言っていたね。本当は少しビックリしてグロテスクだなぁって」
静は笑いがこらえられないと本気でゲラゲラ笑った
「こんな話本当に健とだけね、言えるのは、あぁはははは、あぁははは」
「そうじゃ無くて・・・・・・もお」
「健に教えて欲しいの、男の心理」
「何さ、さっきまで経験豊かなお婆さんだとか、なんとか言っていたくせに、なに?」
「健になら、聞けるから、聞きたいの、教えて。あのね、主人が入院していてね、毎日辛そうな顔をしているのにねぇ」
「なに?早く」
小声の静は
「私が御見舞に行くとね、わたしぃの・・・・おんなのこ触らせてって呼ぶのよ。男の人は七十歳過ぎても性欲有るの?
主人だけかしら、と思って」
「おかしいかぁ?下々は女は骨になるまでなんて言うけど、男も頭の中はあればっかり、入れたい、入れた
いといつも想っているのさ」
「やっぱりぃ、でも75歳だったのよ」
「歳は関係ないって」
「そうなの?」
「個室だったんだろうけれど、病室で見せたり触らせたの?」
僕の耳に口づけするように耳元で
「触るとね、苦しそうな顔が笑顔になるの、不思議でしょ?」
「不思議でもなんでもないよ、普通だよ。たぶん愛されていると感じたんだよ」
「良かった、変な人になっちゃったと・・・・」
僕も静の耳元に小声で
「見せてあげたの?僕が見たおんなのこ、うちの人のおちんちん触ってあげたの」」
「見せたわよ、触ってさすってあげたわよ、本当に喜ぶの、あの笑顔してくれたら見せるわよ」
「静、静も嬉しい顔した?」
「したわよ、わたしぃが感じるところをねぇ、ゆっくり触るの」
「それは良い事をしたねぇ、初めてうちの人にやきもち焼いちゃうなぁ、羨ましい。で、静のことだから、お手拭きで綺麗にしたんでしょ?濡れたうちの人の手」
「あははは、やだぁもう、健が良い事言うなぁと思うと、最後はそこへ落ちるか、あははははは」
「静のおちんちんの触り方思い出しちゃったよ。静の触り方は独特だもの」
「えっ?わたしぃ他の人と違うの?触り方」
「口で説明は出来ないよ」
「なんでも知っている健ちゃん、教えてよ」
「二人だけになったら実施指導します、フフフフフ」
「あははは、で、健もさぁ?今でも、おんなのこ、まだ触りたいの?」
「それは触りたいさ、静のおんなのこなら、とくにね、喜んでくれるしねぇ」
「そうなんだぁ、あははははあははは」
「さすがに僕が愛した人は違うねぇ・・・・うちの人、いや、ご主人は幸せな一生を過ごしたなぁ、最後に真っ赤に燃えるような沈む
夕日を見たんだよ、はははは。僕も最後は静のおんなのこ見て死にたいな」
「良いわよ、一緒に住む?」
「ほんとう?そうゆう生活は出来なって言っていたじゃあないか、おばあちゃんになったら大丈夫になった?」
「健との同居生活は楽しそうだから・・・・言っちゃった。いいわよ、健ならね」
「そうしようか?でも、僕は止めておくよ、好きな人は時間を惜しんで、たまに逢うのが最高だもの」
「そうか、健の、いや、わたしぃ達の主義だもの、ね」
「そうだよ、自然とそれが当たり前になった」
「そうだねぇ、不思議な関係ねぇ」
「僕の質問にも応えてよ」
「なに?なあぁに?」
「先を越されたみたいだけれど、静は今でも性欲有る」
「なんだぁ、同じ事聞いている、おっかしいわねぇ、あはははあははは」
「やっぱり有るんでしょ?」
「無くは無いけれど・・・・・健を想いだしながらたまにねぇ、するのよ、自分でね、おかしい?」
「おかしくなんて思わないよ。えっ、今でも僕の事を想うの?昔、僕が電話で『静が逢ってくれないから静のおんなのこ想い浮かべて
自分でしちゃった』って言ったら『ああぁ、もったいない、どうして逢うまで我慢出来なかったの?』って言ってたこと有ったなぁ」
「逢える時間が無くて、悪い事しちゃったと思うよりも、もったいないその分わたしぃにして欲しいと、想ったのねぇ」
「そんな事言うと、普通は変なばあさんだと思われるけど、静も僕だと何でも話せるんだねぇ」
「あの頃は、健とたくさんしたかったの、本当にしたかったの・・・・・・今考えると、いやな女だ事、あはははは」
「僕はあの頃、いや、最近まで静としている事ばかり考えていたなぁ、静が僕の男の子を触ってくれているのを想いだしながら、
静の触り方して、やっぱり自分では出来ない、あれは静独特だもの」
「わたしぃ、普通のおんなだよ。好きな人に喜んで欲しい、ただそれだけよ」
「男も女も同じだと思っていたから、やっぱりって感じかな、静もおんなだな」
「そうよ、わたしぃはおんなよ。女に生まれた良かったと、今でもね、男で無くて良かった。そう思っているのよ」
今度は本気で言ってみた
「ねぇ静、今日は本当にゆっくり出来るの?おんなのこ触りたくなった、いいでしょ?」
「えっ、同じ事二回も聞くの?指で丸を作れと、言うの?」
僕は本当にこの静という人が好きなようだ。今は若くは無いし、皺もかなり多くなっている。だけ
ど、この優しい目、この話し声、湯呑茶碗を持つ手、箸を使う指先。全ての振舞い方が僕を夢中にさせる。何なのだろう。
「良かったら、だよ。僕は静の香りに酔った。久しぶりで静のおんなのこ見て触りたくなった」
「健、本当に若いね。わたしぃもう七十歳を過ぎたのよ」
「だからどうしたの、七十歳を超えたら、僕の隣には寝てくれないの?・・・・・・でも・・ねぇ」
「でも?何?」
「本当にこの歳で静を抱けたらと思うとねぇ・・・・・大丈夫、静が相手なら男になれる」
「何よ?だから」
「変わっていないかと心配なのだ」
「変わっていないかって?」
「船橋で再会した時も言ったでしょ、静のおんなのこがさ」
「困った弟だこと、本気にしちゃうから」
「嬉しいなぁ、それが僕の静だよ」
「デートの時に着物を着て行かなかった本当の理由、教えてあげようか?」
「分かるような気がするけれど・・・・えっ、だから今日は着物を着て来たの?と言う事は」
「違うのよ、病院へお見舞いに行くのは着物で行ったのよ」
「えっ?ああぁわかった、そうか」
「違うわよ、一度脱ぐと着るのに時間がかかるのよ、着物って」
「うん、わかっていた。でも・・・孔雀、って、知っている?」
「羽根の綺麗な?」
「うん、そうゆうやり方も有るってことさ」
「よくわからないけれど、何?・・・・私の知らない事、たくさん知っているみたいねぇ。こんどまたいろいろ教えてねぇ、大
人の健ちゃん」
別れ際に、手を強く握り返して
「今でも愛しているよ」と僕は本当にそう思ったから言ったのだ。
「健、本当なの?バーバになったわたしぃよ、何もしないで帰る時はいつもわたしぃが『愛している』って言っていたねぇ」
「今でも静が大好きさ、じゃ、連絡待っているから」僕は握っている手を引きよせてくちづけをしようとした。
静は
「ここでは嫌よ」
僕は
「わかった無理強いをしないのが僕の主義(やり方)だからね」と言った店を出て手を振っている僕に
「今、待っているからって?わたしぃ?じゃなくておチビちゃんの事でしょ?」
「静もだよ。次のデートは着物でなくて・・・・ネ」
僕はもう一度大きく手を振った。デートの待ち合わせでいつも嬉しくて振ったように。
右手を高く上げて大きく左右に振った。あの船橋での再会の時と同じように。
それから何日か過ぎた日に電話が入った
「健?わたしぃ」
電話に出るなり静の声だとすぐにわかった。
「うん、僕だよ。静の電話の声は全く変わっていないね」
「そうね、よく電話で話したね」
「それから、静から電話を掛けてくるのは初めてだね」
「ほんと、初めてね。初めてだねぇ」
「電話で話をしていると、あの若かった頃いろいろ有った事想い出して、懐かしいなぁ、静は来てほしい時は何て言ったっけ?」
「バカねぇ、そんな事忘れなさい。それで、おチビちゃんの事だけどね、あの子生まれた群馬の水上で、看護婦しているらしぃいの、
でねぇ、自宅の電話番号聞いたから、してみたら?」
「うん、ありがとう。ナンバーワンにもお礼しなければいけないね」
「健は昔からそういう気使いをする子だったねぇ。電話してみて、そんなこと、どうでもいいから」
「OK!すぐしてみる、とりあえずまた電話してよ、お願いだよ。この間別れ際に言った僕の言葉、忘れていないよネ」
「本当なら嬉しい。あんなに強く愛していてくれたのに、あんな別れ方して、ごめんね」
「静との事は毎日のように逢って、結婚なんてしていたらすぐに終わっていたと思う。辛い事やお互いの事情で途中に何度かの
別れと再会が有って、逢える時は時間を惜しんで逢っていたから、こうして素直な気持ちで今も接することが出来る」
「健には辛い思いを何度かさせて、悪かったね」
「だから、いいってまた逢えたし、本当に愛する人が死ぬ前に分かっただけでも良かった。昔、静が女優の京塚昌子の
話しをしたのを今でも覚えているよ」
「えっ、何を言った?」
「『あの肝っ玉母さんと、言われた女優さんは偉い人だよ。自分の全財産を使ってでも惚れた男に尽くすんだって』とね。
その頃の僕は、全く意味が分からなかったけれど
「歳をとって昔お世話になった人に、顔向け出来ないような男には、なりたくない。くらいに思っていた」
その言葉を言った時、静は『わたしも惚れた男には尽くすのよ、結婚出来なくてもいいのよ』と言いたかったのだろう。
それを僕に言いながら自分自身に言い聞かせていたのだろう。
その数ヵ月後だ、うちの人が結婚をした事を知ったのは、静が。そして、静がお妾さんになる事を了解したのだ。月々の
お手当も僕の給料よりも少ない金額だ。僕には何でも話して聞かせたくれたから良く覚えている。
「なんで?なんで?普通の結婚をしないの?同じ女なのに奥さんとお妾さんなの?そんなのおかしいよ」と、
僕がそれを知った時そう静を責めた事を昨日のように覚えている。
その時、覚悟を決め込んでいたのか静はひと言『私、それでも幸せなのよ』と言った。その頃の僕は不思議そうな眼を静
に向けていたのだろう。
『健の事は大好きよ、だけど人は自分の立場は自分で決めるのよ、わかった?与えられた環境の中で、出来る事とやる
事を自分で決めるの、それが大人なの、大人の行動なの』
そう言ったのだ。
「健は大人になった、ネ、本当に良かった。本当はね、知り合った頃から、こんなに素直で、この子はこの先一人で生き
て行けるのかしらって、心配で心配でね。そうゆう頼りない男の子だったのよ」
静にはその頃の僕はそのように映っていたのか。そうだったかもしれない、いやそうだったのだ、頼りない男の子だった。
「無意味な結婚生活より、寄り道して無駄飯食べて、還暦を過ぎて、七十を過ぎたバーバになった静を愛していると分か
ったのだ。若かったころは静のおんなのこだけが好きだったのかも知れない。それを愛している、と勘違いをしていたのだ。
でも、今は違うよ」
「健、いい大人に育ったねぇ」
「静だって、つまらない世間の普通の人と比べれば、遠回りしたように思われるだろうけれど、今は幸せになっているしね。
うちの人が主人になったし、僕は静と出会わなかったら今の僕は無かったね」
「そう?」
うちの人が主人になったのは後妻に入ったのだ。還暦を過ぎて、ご主人になった人の老後の介護のために夫婦になった
のだ。それでも、私は自分の意思を曲げないで生きてきて、最後に掴む物を掴んだのだと。僕は間違いないと、そう思った。
「静・・・・・今度は本当にゆっくり会ってね。その時は指で丸作ってよ、お願いだよ。あっ、思い出した」
「何を?」
「夏見のホテルで言った事『今、三人目育てている』って。そう、その小さなおっぱいで、育って大人になったの」
「バカねぇ」
「初老 健」 チビとの再会1(連載 16)
僕は恐る恐る電話をかけた。「ハァ~イ、間宮です」
ハキハキした中年の声だ
「チビちゃん?中野の病院でお世話になりました、健ですが」
「健さんって、あの・・・・あの健ちゃんでしょ?チビって呼ぶのは健ちゃんだけだから」
「そう、ご無沙汰だね。元気?いや元気な声で安心したよ、チビちゃん」
「懐かしい声、チビちゃんだなんて。今、戸田さんから電話が有って、近いうちに健ちゃんから電話が行くけれどい
いかしらと、言ってきたのでよろしくと伝えていたの」
「あ、そう、前もって、シズ・・、戸田さんが電話を・・・・・へえぇ、そうだったの・・・それで、いろいろ
謝らなくてはいけない事が、沢山有って・・・・」
「何かしら?謝っていただくような事は記憶にないけれど、健ちゃん」
「いや僕の気が済まないから」
「健ちゃん、今お住まいは?」
「千葉の我孫子」
「そう、私、たまに上野まで出かけますので、その時にでもお会いしましょうか?」
「うん、なるべく早いうちに逢いたいねぇ」
「じゃ連絡しますから」
「ありがとう、楽しみに待っています。ところでさぁ、今も看護婦さんしているの?」
「歳も歳だからアルバイト程度に、近くの個人病院へ行っていますのよ」
「そう、お子さんは?」
「独身ですもの・・・・」
「えっ、独身って?じゃ、結婚しなかったの?」
「ゥゥ」
「ごめんなさい。立ち入った事お聞きしてしまったようで」
「お会いした時にでも、お話しましょうね」
「うん、じゃ連絡お願い。僕は暇だからいつでも結構ですから」
電話を切ってから、また寝不足の日々が続く事が想像できた。自殺と聞いた時から、死んだチビに申し訳無くて、苦しい時や
悲しい事が有ると僕は自分に言い聞かせていたのだ『お前は生きて生きる苦しみを味わうのだ。
まだチビの苦しみが分からないのか?』と、自分に問いかけていた。チビが自殺をしたと聞いたあの頃、大好きだった、
フォーダイムスの「夕陽が沈む」を聴くとなぜか涙があふれて来た。チビとは音楽の話はあまりした覚えが無いのだが、何故か
チビを思い出してしまう。そのチビが死んではいなかった。生きている?今、電話で話をしたのに不思議だ。僕は電話を切った後
でも信じられないでいた。生きていたんだチビが。
もう涼しさを感じる季節になっていた。
上野駅でチビと待ち合わせをした。若いころの顔は思い出すが、もう何十年も前だから多分わからない。
目を凝らして見ていると、携帯がなった。衣服の特徴を茶色の和服だと聞いて、僕の風体を説明しながら見まわしていると、
手を振りながら、僕の方へ向って来た。秋を思わせるような薄茶の着物姿は初めて会う時の新鮮さを感じた
「やあ、久しぶり」
「健ちゃん?まったく分からなかった」
「チビちゃんは、昔の面影があるねえ、ソバカスはそのままだ」
チビの特徴を言った。
「五十もだいぶ過ぎたのに、チビちゃんか、おかしい」とチビは肩をすぼめた。その仕草は若い
ころを思い出させた。
四十年近くも逢わなかったのに、会うなり『健ちゃん』『チビちゃん』と呼び合えるとは。
久しぶりに会った感じは全くしなかった。
「健ちゃんじゃないみたいだよ」
「そうさ、僕だって苦労したんだぞ」
「一人だけ苦労しているように言っている。おかしいよ、みんなかたちは違っていても、この歳になればそれなりの苦労はしている
はずだもの」
ゆっくり上野の山を歩きながら、何から話し始めようかと思っていると
「ねぇ、上野、思い出すわねぇ?」と言い出した
「チビは上野、思い出が有るの?」
「いやだ、忘れちゃった?」と僕を見る
「何か有った?」
「何?って、昔、戸田さんと三人で、成田山へ初詣に行った帰りに、二人で帰って来たの」
僕が分からなくなった
「戸田さんと行ったのは覚えているけれど、あの時チビも一緒に行ったの?」
チビは不満そうな顔を僕にぶつけた
「やだなぁ、三人で行って、帰りは途中駅で戸田さんが、実家に帰るために電車を降りて」
「ちょっと待ってよ。戸田さんがチビも一緒に、って、誘ったの?」
「そうよ、健ちゃんが『成田山へ連れてって行ってと言っているの。間宮さんも行く?』って、聞いたのよ」
「へぇ、そうだったの?」
「本当に忘れていたのね。ひどいなぁ、私、健ちゃんに会えるって嬉しくて、私には絶対に忘れる事の出来ない出来事なのに。
帰りは二人で中野坂上まで一緒に帰って来たのよ。これも忘れたぁ?」
「ごめん全く忘れていた。でも、どうしてそれが上野と結び付くの?」
「いやだぁ、あの時初めて健ちゃんは、私の手を握ったのよ、本当に覚えていないのぉ?」
僕は全く記憶に無い事を聞いて不安になった
「手を握った?」
とチビの顔を覗き見た
「手を繋いで、上野駅の連絡通路を歩いて・・・・」
「そうだった?手を握った?・・・・」
一緒に行った事すら忘れていた僕は驚いていたのに、手を握ったと言われて、ますます記憶の曖昧さを感じた。
「手を繋いで嬉しかったの、で、連絡通路には身寄りを無くした子供や、住むところの無くなった人達がまだまだたくさんいて、
それを見た健ちゃんは『あの子共達は、今一番愛情を求めているんだなぁ』って言ったの」
僕は記憶を思い出すことに懸命でいた
「僕そんな事チビに言ったの?」
「私、そう言われて、この人はなんて心の優しい人なのだろうって」
僕は思い出し始めた。
連絡通路を通る時に家を無くして、帰る家の無い子供たちを目の当たりにして僕が怖かったんだ。
その頃の上野にはまだ戦後が残っていたのだ。だからチビが怖くないのか、怖かったら僕が手を繋いで離れ
ないようにしよう。そう思って手を繋いだのだ。好きだからでは無かった。
それをチビは女の子として、そう思ったらしい
「手を握られた時に、えっ、手を握って来た。どうしようって慌てたのを覚えているのよ」
「チビはそんな事思っていたの?」
「だって、生まれて初めてだったのよ、男の人に握られたのは」
「チビ、謝るよ」
チビはポカ~ンとした顔をしている
「あの頃はまだチビの事好きとか思っていないから、好きで手を握ったのではないよ」
「えっ?好きでも無いのに握ったの?だって強く握ったのよ」
「違うよ。あの通路には人もたくさん居たし、チビが怖く無いかなぁ、離れてわからなくなったらかわいそうだなぁ
って、離れないように手を繋いだの」
「そうだったの?でも嫌いで、何とも想っていなかったらそんな事はしないでしょ?」
「そうだけれど・・・・僕も少し怖かったし、だからチビが怖く感じていたらと・・・・」
「そうでしょ?文子の事を想って、そうしたんでしょ?」
「う、うん、そうだよ」
僕はその時、手を繋いで守ってあげようと思ったのだ。人間として、好きとかで無くて好意を持っていたら自然に出
来るのだ。チビは色白の頬を赤らめて恥ずかしそうに僕を見た。
僕は
「じゃ、手を繋ごう、久しぶりに、ね」と、
僕は左手でチビの右手を握った。少し強めに握って
「こう?握ったの?」
繋いでいる手を見ている目を、チビの顔へ移しながら、チビの目を覗き込んだ。
チビは恥ずかしそうに手を握り返してきた。そして
「健ちゃんの手は、いつも温かくて、冷たく感じた事が無かった。その通りの暖かさ」
僕は寒い時は手を温める事を最優先していた。手が冷たいのは耐えられないのだ。
「チビの手はいつも冷たく感じた。『手の冷たいひとは心が温かい』って何かで読んで、チビは心の温かい人なんだと、
想った事有ったな」
いや、チビに手は僕よりも少しだけ冷たかっただけなのだ。だから僕の手が暖かいと感じたのだろう
「今考えるとそれはおかしいよね。そしたら健ちゃんは冷たい心の持ち主って事になる」
「手の冷たいひとじゃ無くて、女と書いて人と読むんだ」
「そう?でも違うよ・・・ね」
「ううん、そうかも知れないな。僕が冷たい人って事は合っているよ。これは間違いない」
「そんな事無いって知っているよ。私」
「チビは僕の事全部は解らない、でしよ」
「私、老夫婦が手を繋いで、お散歩したり、お買い物をしたりしているのを見ると、いいなあって。長年連れ添った夫婦で無いと
出来ないから、私には無理だと思っていたの。憧れだったの」
「今だけでも長年連れ添った夫婦になろうよ。婆さんって呼ぼうか?あはは」
「そうか、お婆さん、お爺さんって呼び合うのかしら?」
「僕ら夫婦?はさ、チビ、健で行こう、な」
「健爺さんは良いけれど、太りぎみの私、チビお婆さんはおかしい、あははは」
「そうか、お婆さんは似合わないな。いくつになろうがチビで行こう、二人には子供はいないから、チビが八十すぎて、僕が車いす
押しながら『チビ』って話かけるの、いいねぇ」
「逆だよ、多分、私が車いす押しながら『健ちゃん』って呼ぶの。入れ歯が外れて口が聞けなくなっても『健ちゃん』って。おかしいね、
あははは」
「言ったなぁ」
「私は看護婦さんしていて、いろいろ年寄りの扱いは慣れているのよ」
「そうか、チビは僕を介護してくれるわけだ。チビが介護か・・・・甘えちゃおう」
「健ちゃん看護婦の、お尻触るようなお爺さんにはならないでよ。私が恥ずかしいから」
「僕はその可能性大だな。女の人だったら誰でもさわるなぁ~」
「一番嫌われるタイプだよ、そうゆうお爺さん」
「それで、連絡通路で手を握られて慌てながらどう思ったの?」
「私、病室で初めて健ちゃんを見た時から・・・・・」とはにかんだ。
「えっ?そうだったの?言ってくれればいいのに」
「そんな事言えないよ。健ちゃんは患者さんだったのよ」
「そうか、僕は患者だったねぇ。で、さぁ、中野坂上まで一緒だったの?」
「そうよ。今みたいに手を握っていて嬉しかったのに、上野で切符買う時に手を離してそのまま。次に手を繋いだのはデートした時」
「そうだった?」
「そうよ。だってその後電話くれるまで会っていないもの。帰りに何処かに連れて行って欲しかったの」
チビとはいつも手を握っていたけれど、静とは初めて会った病室で強引に握っただけで、いつも腕を組んでいた。なん
の違いがそうさせたのだろうか。
「そう、でもその頃の僕はどこも知らなかった。新宿で乗り換える時に喫茶店にでも入っても良かったね。新宿はチビの方
が詳しかったんじゃないの?」
「入っても何もしゃべれなかったよ。あの頃の私は。でね、新宿で私は丸ノ内線、健ちゃんは総武線に乗るから手を振って」
「じゃ、新宿の改札口で」
「そしたら健ちゃん、手も振らないで文子のこと見ているだけ」
「えっ、僕は何していたの?」
「どこかに連れて行ってくれるのかと思って近寄って『帰らないの?』って言ったら『坂上まで行こうか?』って」
「それで?」
「『まだ明るいし、いいよ、ここで、一人で帰れるから』って、言ったらね、ぼそっと『僕、坂上から家まで歩くから、行こう』って」
そうだ。チビが凄く子供に見えて、デートの帰りみたいに家まで送らなければと、思ったんだ。
だから、このまま一人で帰して良いものか、考えていたんだ。
「それでねぇ、坂上の横断歩道で、手を振ったら『寮まで送るよ』って」
「僕、寮まで行ったの?」
「私『病院の人に見られると、嫌だから、ごめんね』って。だって患者さんだった人と、一緒のところを見られたら、なにか
悪い事しているように、思われちゃうでしょ?」
「そうそう、そう言われて『じゃ』って手を振ったんだ。チビは寮の方へ歩き出して僕はそれを見て横断歩道を渡って振り返ったら、
チビも僕の方を見つめていて、僕は途中で止まってしまった」
「そう、私、寮に帰っても一人で、まだ健ちゃんと一緒にいたいと思って、振りかえったの」
「その時の僕は、チビを女の子とは想っていなかったから。なぜ振り返って見ているのか、考えもしなかった」
「やっぱりそうだったんだ」
「そう、って?」
「文子の事は、なんとも想っていないのかなって」
「ごめん、チビは子供だと思っていて女の子とは・・・・・」
「でも・・・・恋をしたい年頃なのに?」
「そこまでは気が付かなかった。僕も思い出して来たけれど、チビはいろんな事覚えているねぇ」
「私がまだ一緒にいてとか、何処かへ連れて行っていって、言ったら帰らなかった?」
「帰らないさ、冷たい家族の居る所へはね」
「健ちゃんは、恵まれた家庭に生まれて、いいなぁって想っていたのに」
「チビは物心付いた時には一人だったな?」
「そうよ、覚えていてくれたの?」
「今、思いだしたんだけれど。考えてみると僕は両親が揃っていたから、恵まれてはいたな」
「私は伯母に育てられたから、中学を出たら働かなければ、いけなかったのよ」
「そうだったね。親が居る僕は親に文句は言えないね。居ない人もいるんだから」
「健ちゃんは恵まれている事、忘れていたでしょ?」
「ああ、そうだった。反省します」
「成田山から駅までの帰り道で、戸田さんが『米屋の羊羹』を買ってくれたの、忘れている?」
「羊羹?」
「健ちゃんに渡しながら『お母様に』って、言って渡して、私には『休憩時間にみんなでね』って」
「忘れているなぁ。僕は戸田さんに、お礼を言ったのだろうか?」
「ちゃんと『戸田さん、いつもありがとう』って言っていたよ」
「そう、それなら良いのだが」
「私その時、この人は、ちゃんとお礼の言える人なんだと、思ったの。そして『いつも』って、どういう事だ、と考えていたのよ」
「そんな事も覚えていて、不思議な子だね、チビは。その、京成成田の駅まで参道を歩いたんだよね、三人で?」
「でも、健ちゃんは戸田さんと並んで、私はその後ろへついて」
「えっ二人で何を話していたんだろう?」
「戸田さんの実家の話や、成田山の歴史とか」
「それをチビは後ろで聞いていたの?」
チビは子供のように拗ねた声で
「そうするほか無いもの」
「初老 健」 チビとの再会2(連載 17)
繋いでいるチビの右手は汗をかいている。ハンドバックを腕に掛けている左手は、ガーゼの
ハンカチを額へ当てたり口元へ運んだり、盛んに手を忙しく動かしている。
「喫茶店でも入ろうか?暑いの?」
「健ちゃん、私、今日会うのが楽しみで、緊張気味なのよ。昨日もよく寝ていないの」
「僕も眠れなかった。チビがどんな女性になっているか、考えていた」
お店の隅を見つけて座った。チビは入ってもハンカチを口元や額に持って行き押しつけたりハンカチを振って顔に風を送っ
たりする仕草はやめなかった。僕が感じるそのハンカチが作るさわやかな風は、昔懐かしいチビの香りを運んでくる。
僕は急に、まだ外は明るいのに、チビを抱きたくなった。チビは大人の色気を感じさせるが、可憐さを残していた。
チビの眼をみながら
「チビちゃん、何にする?クリームソーダ?」
チビは笑いながら
「覚えていたの?」
「忘れないよ、チビの好きな物は。僕は・・・」
「ホットコーヒーでしょ。暑くても寒くても、ね」
見合わせてお互い笑った
「ねぇ、チビは着物着る人なの?」
気が付いてくれた、と思わせるように自分の身にまとっている着物を見ながら
「いつもは着ないよ。健ちゃんは、着物が好きだから、着て来たのよ」
「えっ、なんでそんなこと知っているの?」
「昔、着物姿の人を見ると『日本人は着物だね』と言っていたでしょ」
「そうだっけ、そんなこと覚えていて・・・・。しかも、その着物姿で来てくれるとはね」
「電話いただいてから、いろいろ思い出してしまってね。着物で逢おうと、決めたの。私ねぇ、ちょっと嫌な事が有ったりすると、
着物買っちゃうの。着物が好きになったのは、健ちゃんが着物好きだったからよ」
「チビは、そうゆう人だと気が付いたのは最近だもの、記憶をたどり、あの時チビはこう言った、あの時はこうだったなどと思
い出してね、僕は自分がいやになるよ・・・・・・・・・・それで・・・・・・・さっきの話の続きだけれどね」
「えっ?」
「手を繋いだ時の話さ」
「うん。私は恥ずかしくて、少し後ろをね・・・・」
「えっ、なに?」
「引っ張られるように小走りで・・・・」
「僕は足早に歩いたんだね」
「歩くのが早くて、もう、ついていけないって」
「いやあ、僕は怖かったんだ。いや、あそこにいた子供たちがかわいそうで、見ていられなかったんだ。だから早くチビを安全
な場所まで連れていかなくちゃって」
「そうだったんだ」
「他に理由など無いよ」
「やっぱり・・・・・文子の事、想ってくれたんでしょ?違うの?」
「そうゆう事になるね」
「うれしい」
「それで、途中電車の中で何を話したか思い出したんだ」
「剣道の真庭念流の話でしょ」
「そうそう、僕はあの頃、本当は歴史の先生になりたかったの。幕末から明治にかけて辺りの本、結構読んでいて『チビちゃん
の生まれは何処?とか名前は?』とか聞いたんだよ」
「私が『生まれは群馬県の水上、名前は、まみやふみこ』って言っているのに『えっ、あの剣道の真庭念流の真庭さん?』って」
「あの時はビックリしたよ。群馬県生まれで真庭って聞こえたから」
「違います『まみやです、文子は、ぶんこって、書くの』って」
「そうだったよ、いやぁ、思い出させてくれてありがとう。チビに会わなければ絶対に思い出さないもの」
チビは不満そうな顔をして
「覚えていないの?私は絶対に忘れないよ」
「ごめんねぇ、その後デートするようになってからチビの事が大好きになったんだ」
「健ちゃん言い訳している」
「許して、記憶って不思議だと思わない?いつ頃の話だったかと、どっちが先だか、後だったか」
「またぁ、言い訳?」
「ごめん歳もとったもんだからさ、チビだって解る年代でしょ?あははは」
「誤魔化した。歳のせいにしている、はははは。そうねぇ、この歳になると、そうゆう事たくさん有る」
「さっきみたいに何処かに行った事は思い出しても、誰と行ったかが思い出せないんだ」
「健ちゃんは、どの女の人と行ったか?でしょ?」
「おい、おい、チビ、僕はそんなにもてやしないぞ。チビは僕の事そうゆう風に見ていたの?」
「あの頃ねぇ、健ちゃんは冗談ばっかり言っていて、女の人と話をするのが、慣れているように感じていたの、だから・・・・」
「だから?なにさぁ?」
「だから、聞きたい事が有っても、聞けないでいた事が有るのよ」
「何を?さ?」
「本当にあの頃、文子の事・・・・好きだった?」
「好きだったよ。いつも口には出さなかったけれどね。仕事している時も、チビに逢えなくて男の友達と会って気を紛らわせて
いた時も、チビの事、頭の隅で想っていた」
「良かった。何だか、不安を感じる時が有って、今度会ったら聞こうって、いつも思っていたの『健ちゃん、私の事好き?』って、
いつも言えないでいたの」
「チビはお嫁さんにするタイプで遊び相手ではないもの。真剣に将来を考えていた」
「えっ、将来って?」
「結婚するのだったらチビだなぁと・・・・チビ、もう、あんまり言わせるなよ、恥ずかしいなぁ。歳もとったから、恥ずかしくもなく話して
いるけれど、内心は恥ずかしいかぎりだよ」
「チビはその後どうだったの?そうだ、ぶしつけだけれど、結婚は?しなかったの?」
「赤ちゃんが出来て・・・・」
チビは下を向いたまま
「・・・・・・・・・・・」
「どうしたの?聞いてはいけない事だった?急に?チビ?その赤ちゃん僕の?」
チビは微動だにしない。
そして、その時チビの口から出た言葉は少し涙声に聞こえた
「あのねぇ・・・・」
僕は、その後の言葉の意味を理解した。
「チビ、その話は辛いだろうからやめよう。僕にも責任が有るから。その事をチビから聞く事はずるいけれど出来
ないよ、ごめん。僕はまだずるい男なんだ」
チビは下を向いて、目がしらにハンカチを当て、鼻をすすりながら涙目を僕に向け、言葉を発した。あまりはっき
り言う子ではなかったのに
「違うの、健ちゃんには、全部知って欲しいの、私の今までを聞いて欲しいの。全て聞いてもらったら私、すごく楽
になると、いつも思っていたの。だから今日、健ちゃんに、なんと言われようが聞いてもらう、話そうって」
いつもは恥ずかしそうに眼など見ながら話した事の無いチビに、僕はびっくりしていた。
「そう、チビにも辛い時が有って、今のチビなんだなぁ。本当に申し訳なく・・・・」
「それで思い余ってね、ああゆう事件を起こしてしまったの。やっぱり、あの頃を今思い出すと、
考えが狭くて自暴自棄になっていたのね」
「辛かっただろうなぁ、ごめんね、チビ」
「そのあとも好きな人が出来てもね、いつも違うなぁって、思っちゃうの。何と違うかはわからなかったけれどねぇ、最
初に好きになった、健ちゃんと比べていたのかも知れないの、そうだよ、健ちゃんと比べていたのよ」
僕が女の基準を静に置いているように、チビは男の基準を僕に置いていたのか
「で、その後は結婚を考える人は現れなかったの?」
「健ちゃんみたいな人は、現れなかった」
僕は照れ笑いをしながらも真剣になって
「いや、そう言われると僕は嬉しいけれど、余計に責任を感じちゃうなぁ」
「看護婦はダメね。資格に頼って最後は一人で生きていくこと、考えちゃうの。結婚しようと、思った人もいたけれど、い
ろいろ・・・・・有って、最後は・・・・」
結婚をしなかったためか、だからかチビは歳よりもかなり若く見える。そうだ、女優の小畠絹子をちょっとふっくらさせた
ような顔に似ている
「自殺したって聞いた時は、その場に崩れ落ちたね。僕が殺しちゃったってね。どうしよう、どうしたら許してもらえるかいつ
も考えていて」
「そうだったの、ごめんね」
チビは僕の目を見て意を決したように、そしてまた、涙を落としそうな顔で
「健ちゃん」
「どうしたの?僕が悪かった」
「あのねぇ、私、駄目なの」
ここまで言ってチビはうつむいた
「何が?何がさ?」
「ほかの人とは出来ないの。駄目なの」
「どういう事?」、
チビは小声で話しながら涙をぼろぼろ落とし出した
「チビちゃん?何?駄目って?」
「あれ、出来ないの、できなくなっちゃったの」
「あれって?あの事?」
「そう駄目なの、出来ないの」
僕はやっと解りかけてきた
「僕以外の男の人に抱かれた事が無いの?」
チビの言葉はとぎれとぎれになってきた。そして少し首を横に振りながら
「違うよ・・・・途中までは・・出来るの、でも・・・最後は、不安を感じて・・・駄目なの、不安になって冷めちゃうの」
「不安を感じるって?僕にはもっとしてって、言っていたのに・・・・最後は良くならないって事だね」
チビは下をむいたまま首を縦に振った
僕も涙声になって、でもはっきり聞こえるように
「解った。本当にごめん、チビ、許してくれ。ごめんなさい」
「チビ、僕は本当にもう一度会いたかった」
「私も、あの時もう一度健ちゃんに会いたいと、思ったのよ」
「どうして連絡しなかったの?死ぬ気になれば何でも出来る、は、違うの?」
「そう思っても、その中に居ると、何の抵抗も無く・・・・・」
「それ、僕に責任有ったのでは無いのかと、いつも考えてしまっていつの日か全く連絡しなくなって、おかしいと思わなかった?」
「好きだったから、会いたかったの。でも連絡は無いし、私もお誘いを受けても、応えられなくて、いつも悪いなぁと、何度も
思っていたから。私が悪かったのだと、自分に何度も言い聞かせてね・・・・」
チビは見つめる先をまただんだん下へ落としていた
「僕は、真面目に正看護婦になるために、夜間の高校へ通っていたチビちゃんを・・・・好きなのに会ってくれないし、他に好
きな人などいないのに『いいよ、僕だって他にもガールフレンドはいる』なんて態度取ってさ」
「そんな事無いって」
「そう言ってくれると、重い気持ちがかなり軽くなるね」
「もう、忘れましょうよ、記憶から消しましょう、ね」
「ひと言、いろいろ申し訳なかった。遅いけれど謝る、ごめんなさい」
僕はチビの眼を見ながら頭を下げた
「健ちゃんは、そうゆう人だと私、知っているから、もういいから」
「いやねぇ、チビから連絡する方法だって、有ったじゃないかぁ」
「そんな事、あのころの私には出来なかった。出来るような私だったら自殺なんて考えないよ」
「そうか、そうだねぇ」
「戸田さんに、健ちゃんの電話番号を聞いたことが有ったの、会いたくてね。それも悩んで、悩んで、聞いたのよ」
「そうだったんだ。それで戸田さんは教えてくれなかったの?」
「『今度会ったときに聞けばいいのに』って、デートするようになって、帰ると上手く行っていると、思っていたみたいで」
「自分で調べなかったの?」
「だから、その頃の私はそんなこと出来ないって。わかってもダイヤルは回せないよ」
「うん、確かに、チビは積極的な子では無かったネ」
チビはひとつため息をついて、雰囲気を変えるように
「もう、過ぎた事よね。楽しいお話、しましょうよ。健ちゃん」
「楽しい話?か?・・・・新宿でデートしたときに、平日だったからかコマ劇場の前で中年のおばさん二人に呼び止め
られて、補導されかかった事覚えている?」
「うん、覚えているよ。健ちゃんは慌てて運転免許証を出して説明していた」
「あの時はさすがに焦ったね。免許証を持っていて助かったね」
チビとはたくさん想い出がある事を今になって気がついた。
結構頻繁に会っていたのだろうか
「初老 健」 チビとの再会3(連載 18)
「そう、お子さんは?」
「突然子供の話かぁ?女の子が二人いるけれど、離婚したら向こうについて行って、それっきり帰ってこない。こんな
話は楽しくはないよ」
「ごめんねぇ、傷付くような事、聞いちゃったみたいねぇ」
「傷は付かないよ。慣れたし、そんな事も織り込み済みさ、僕の離婚はね」
「でも、いつかは『お父さん!』って顔を見せるでしょ?」
「それは有り得ないね」
「どうして?本当のお父さんなのに?」
「僕の本当の子供だから帰っては来ないよ」
「えっ?なぜ?」
「だって僕が本当の父親だから、子供の事は全て知っているから」
「だったら尚更・・・・」
「知っているから、だから帰っては来ないって事」
僕はそれ以上答えない。
親の離婚は子供にとっては迷惑な話だ。有って欲しくはないだろう。だから子供にはどちらかを選ぶ権利が有る。
僕は選ばれなかっただけの結果なのだ。選ばれない理由が僕の資質に有り、選ばない理由が子供達には有る。
もう大人の年齢になっていた子供達に、言い聞かせる話は有り得ない。
僕は十年会わなければ他人だと自分に言い聞かせていたから、子供の話は聞かれても話すつもりは無かった。
「来年で十年さ、帰らなくなって。もう他人だよ。子供もそう思っているよ」
「差しさわりがなかったら、お嬢さんの話し聞かせて。私、子供を持った事無いから、子供って親にとってどうゆう存在な
のか知りたいの」
「ひとりかあ」
「私も慣れたから・・・・・寂しくもないよ」
「本当に寂しくないの?子供が出来ない体にしたのは僕が原因?」
「またその話?仕方のないことです」
「僕はそうではないかと考えてしまって、眠れない日が続いていたの。だから連絡がついた時になるべく早く会いたいと
言ったの。辛い事や悲しい時は、チビの方がもっと悲しい辛い事を経験していたと。僕は生きて、生きる苦しみを味わさ
れているのだと」
「そんなに自分を責めていたの?文子の事そんなに想っていてくれたの? 私、嬉しい。だからその話はやめましょうね
。今日、会ってくださって、ありがとう。健さん?もう・・・・お・わ・り」と、
この時はさん付けで、口に人差し指を当てた
「親にとっての存在か・・・・・難しいねぇ、そんな意識持って接した事ないもの」
「難しく考えないでいいのよ。どうゆう子?」
「僕の自慢の子供。良い子に育ってくれた。世間に御迷惑かけるような、いい加減な子供で無い事は確かな、感謝して
いるよ。女房だった母親にも感謝している。人前で自慢したいくらいに良い子」
「健ちゃんに似たんでしょ、だから」
「どうかな?外見は・・・上は僕似、下は母親似、製作に携わったのは二人だからははは・・・あっ、ごめん」
「何を謝っているの?上の子はお幾つ?」
「40かな、僕が26の時の子供だから。そんなにはならないか?」
「じゃ私に会わなくなって、すぐの子?」
「そうなるね」
「そうか・・・・」
「おいおい、聞き出したのはチビだぞ」
「いいの、もっと聞かせて。怒った?」
「そっちの方向に行くと話し辛いよ」
「どんな子?」
「・・・・・上の子はお父さんっ子だった。5歳離れているから、下に手のかかる頃はいつも僕と一緒だった。休日は朝ご
飯が出来る前に公園へ連れて行って、砂遊びしている脇のベンチで僕は新聞読んで。夏はプールへ行ったりもしたなぁ。
東京タワーへも二人で行った。『パパ?ここから安依ちゃんのいるお家見えないの?』なんて可愛い事言っていたな。
あっ、下の子、安依って」
「へぇ、下の子、あいちゃんって、云うの?可愛かったんだろうね」
「それは可愛かった。他人の子供とすれ違うと『勝った!』なんて呟いたりして」
「勝った!?って、何?」
「僕の子供の方が可愛いって」
「親って、そうなんだ」
「どんなに可愛い子見ても、勝ったって、思った」
僕は子供の話など、人に話しをした事無かったけれど、チビには話す気になって来た。そんな事もチビに今日会わなけ
れば思い出さなかった。
「上のお子さんは?どんな子?健ちゃんに似ている」
「ああ、安希って。僕の作品の中で最高の出来だ。僕に似ている事を、凄く嫌がっていたな。父親としては凄く悲しかった
けど、仕方が無いと思った。感情の問題だから。この子は自分の考え方をちゃんと持っていたな。学校出てからの事も、
よく考えて自分の方向が解っている子だった。結婚式も家族だけで。それは結婚する二人で決めたのだろうけれど。全て
二人で話し合って決めていたな」
僕自身が親の言う事が一番だと、育てられていたから、子供の頃から自分の考えをまとめる事が出来ないでいた。
「それは、お父さんに似たからでしょ。頭の良い子のようね」
「頭は良いかどうか、親目線だからいい加減だよ。親ばかだね。どんな親でも子供は天使に見える筈だもの」
「天使?エンジェル?天使か・・・・そうそう下の、あいちゃんは?どんな子?」
「この子は手のかかる子だった。手のかかる子ほど可愛いって言うでしょう。ホント、そうだった。小さい頃から弱かった
のか小児科へ何回連れて行った事か。心の病気が見つかって、僕も悩んだな。僕に原因が有るのか?とか、僕の接し
方が悪いのか?とか」
「でも今は、治って?」
「心療科医は思春期になれば、目が外へ向くから心配ないと言っていたから」
「良かったね」
「その分母親がそうなった。母親が子供に出ていると言われたから。だからって、僕には責任が無いなんて、言わない
よ」
「私、解るような気がするな。私も悩んで、悩んで、そんな時期があったから」
「僕も、今でもね・・・・・・」
僕は少し涙声になっていた
「どうしたの?」
「今でも不安になる事が有るんだ・・・・・情けない話」
「うん?何?」
「子供たちが家を出て行って独りになって、その時は辛くも何ともなかった。仕事が忙しかったし、全て覚悟していた事と
割り切っていたんだ。でも、でもね・・・・・」
「健ちゃん?何が有ったの?」
僕はチビの前では涙を見せたことは無かったが、どうしたのだろう
「出て行って何年かした頃、噂というか風の便りっていうのか。上の娘に子供がいる、とゆうような事を知った時、信じな
かった。そうゆう話は僕に連絡してくれると思っていたから、信じたくは無かったんだ。おめでたい話は連絡が来るとね、
してくれると」
「お孫さんでしょ?会いたいね」
「そして最近だけれど、どうやら本当だと知ったんだ。女の子、もう三歳になるらしい。ショックで、悲しくて辛くて、今まで
で一番辛い事だったね」
「そんな・・・・悲しい事・・・・経験したの?やっぱり愛しているのね、子供だものねぇ」
「僕が悪いのだろうけれど。悲しかった。何日も眠れなくてね。僕はそんなに悪い父親だったのかって。悲しかった。何を
しても腰が落ち着かない。僕は娘の住所も知っているし、近くまで行った時は住んでいるマンションの前を必ず通って帰っ
て来るんだ。ストーカーにはなる気は全くないから前を通るだけ。辛いぞ、月に数回は前を通るんだ。今はもう近くへは行
く事自体を止めたけど。だけど、ね」
「何?」
「僕の離婚は、こうゆう事だってわかったのさ」
「こうゆう事?」
「そう、孫の顔も見る事が出来なくなるような、離婚だったとね。知ったんだ。最近になって。情けない話」
「そんなに辛い事も、経験したのね。かわいそうに、私も少しだけは、わかるような気がするけど」
「えっ?わかる?」
「健ちゃん、違うでしょ」
「何が?」
「私、知っているよ」
「何を?」
「健ちゃんは解っていたでしょ」
「何が?」
「そうゆう奥さんが嫌だったんでしょ?だから離婚に同意したんでしょ」
「どうゆう事?」
「健ちゃんは我慢に我慢していたのよ。別れるだいぶ前から知っていた。そうでしょ?そうゆう事をする・・・・冷たさを感じ
ていたでしょ、だから別れた」
「うぅ・・・・・」
そうだったんだ。僕はそうゆう冷たい部分が嫌だったんだ。チビに言われて気が付いた。僕の親兄弟の事は平気で悪く言う。
義母である姑が兄嫁の悪口を言うのは、まあしようの無いと思ってはいたが、僕の前で僕の親兄弟の悪口を親子で言う、これは
耐えがたい事だった。 僕が手術入院の日に
「私、会社を休めないから行けないわ」
という女房の言葉を聞いた時に『会社と主人の入院とどちらが大事なんだ!』と思った事。
「私が死んだら両親のお骨の間に置いてね」
こう言った時も
『この人は何を考えているのだろう。結婚って何だと思っているのだろう』そう思い、人生の最後は多分一緒では無いだ
ろうと、感じていたのだ。でもその時は、精神が少し変だぁ、程度に考えていた。
「私に言われて気が付いた?そうじゃなくて、わかっていたでしょ。女はねぇ、自分の立場を守ろうとするのよ。間違いだと
気が付いても、自分の正当性を引っ込めないの。健ちゃんみたいにすぐには間違いを認めないのよ」
「そうかなぁ」
「そうだって。私だってこう見えても、たくさん恋はしたのよ。女の私がそう思うもの、本当だって。男の人の気持ちは・・・・・
健ちゃんは幸せ者よ」
「えっ?しあわせ?」
「未だに憎まれている。まだ未練も有る、でも悔しい、だから未だに憎まれている。連絡しないって事はそうゆう事よ」
「何だって?」
「何とも想っていなかったら別れた人と逢うことは出来るわ。未だに冷たくしているのは、まだ未練が有る証拠。健ちゃ
んは、ためらいも無く逢えるでしょ?奥さんは、まだ心のどこかで愛しているのよ、だから冷たくしているの。子供達はそ
うゆうお母さんを見て同情しているだけ」
「そうか?そうゆう事かぁ・・・・」
そうだった。冷たさを感じていたのだ。
娘がそうゆう冷たさを持った女性になって欲しくないなぁ、と頭をよぎった事を思い出す。こうゆう冷たさを感じさせるよう
な女性にならないように、突き放したり、冷たくした事はたくさん有った。
「そうゆう事よ」
「女のずるさか?」
「そうよ、女はずるいのよ、もっとずるいと悪女になるのよ、怖いでしょおんなって。私も悪女になっていればもう少し・・・・
なんってね」と
チビは笑った。
そうだ、静は頭がいいと言えばいいのだろうが、悪女と言えば悪女だな。
「チビからそんな言葉を聞くとは思わなかったなぁ」
「私だって、時と場合によっては怖~い悪女になるよ、女だもの」と
言ったチビから微笑は消えていた。
「チビがそんな大人だとは・・・・・」
「で、健ちゃんからお嬢さんに連絡はしたの?」
「それが・・・・それこそ連絡していいものか・・・・どうか?」
「えっ、どうして、ためらっているの?」
「だってさ。子供から連絡が無いんだよ。連絡して良い返事が返って来るとは思えないだろう」
「そうかぁ、でもねぇ、孫が出来たって聞いて、喜ばない親はいないでしょ?」
「じゃぁ、僕から連絡して、返事が返ってこなかったりしたら、僕はもっとおかしくなっちゃうよ」
「そうねぇ、健ちゃん次第ねぇ。私、連絡する事は健ちゃんが子供にしなければいけない義務だと思う。それ以上は言えな
い」
「父親としての義務?」
「そうよ、それは父親として決断して、義務を果たせば、それで良いだけの事よ。連絡が無くても良いじゃあないの。健ちゃ
んの愛情は伝わるよ」
「そうかなぁ、愛情として感じるだろうか・・・」
「結果は考えないで連絡してみたら?」
「ありがとう、勇気を出してやってみるよ。まあ、娘への連絡する事はひとりで考えていて、また精神がおかしくなったみたい
でいたんだ。診療内科の先生を追いかけて、町田まで通院の日々を送るようになってしまってね。みんな子供だろうが大人
だろうが、精神的に追い詰められる事が有るんだよな。何が悪かったんだろう」
「そうだったの?そうだったんだ。会いたいねぇ、お孫さんだもの」
「僕は言い訳はしないと決めていたんだ。言い訳するくらいなら別れてなんていないし」
「そうだよ、健ちゃんは何事にも言い訳はしなかった。ここで今言わないと、誤解しちゃうような時でもね。黙っちゃうのよ」
「そうか?チビは口に出せと言うの?言い訳も口に出した方が良い時も有るわけ?か?」
「言い訳じゃなくて、説明という事は必要よ。私は言い訳するような男の人は、大嫌い」
「僕は説明不足だった?」
チビはゆっくりとした言葉を続けた
「そうだと思うけど、知らない事や知ってほしい事は、説明しなかったら、相手には伝わらないのよ。さっきも『だって、僕が本
当の父親だから』って言ったきりでしょ?私は健ちゃんを信じていたから、その後になって理由を聞いて、ああそうだったんだ
って、楽しく聞いたけど、他の人は、はっきり理由を聞かなければ、納得は出来ないのよ。文子だけだって、健ちゃんを信じて
いたのは・・・・・あら、なんで私、こんなにはっきり言い切る言い方しているのかしら・・・・不思議はははは」
「チビ、随分はっきり言うねぇ、そうか、説明・・・・ねぇ」
チビは子供に聞かせるように、もっとゆっくり話始めた
「そう、説明よ。それは、言い訳とは違うもの。私は、健ちゃんの、そうゆうところは、嫌いにはならなかった。逆にそうゆう健
ちゃんが、好きだったのよ。言い訳も、説明もしないけど、後になって、信じていて、良かったと、いつも思ったものよ。本当に
変わっていないのね。子供頃のまんまね、健ちゃんは」
「子供の頃のまま?そうさ、どうせ僕は子供だよ。子供でいたいと、いつも思っているのさ。大人にはなりたくない。人前で大
人をやる事は大嫌いだもの。人間そうそう変わらないって・・・・・・。そうかぁ・・・説明ねぇ、説明・・・・・」
「会って良かった。昔の健ちゃんでいてくれたのね。変に変わっていたら、会っても話は通じなかったかも知れないわね」
「通じない・・・・説明かぁ・・・・」
「そうよ、説明不足。説明が上手いのに、どうして説明しないの?」
「なぜだろう、チビはそうして、いつも分かってくれていたから、慣れちゃって、他の人にも『そのくらいわかるだろう』と思ってい
たんだろうなぁ」
「そう、そうよ。あなたはいつもそうだった」
チビは僕の事をあなたと初めて呼んだ。
「あなたはねぇ、人が良すぎるのよ。誤解されて、悪く思われて、かわいそうな人」
「そうか、チビは知っていたの?」
「知っていたわよ。そしてね、健ちゃん、もうひとつ教えてあげるから、よく聞きなさい」
「何さ、随分と年上のお姉さんみたいに」
「私みたいな人もいるのよ」
「えっ、どうゆう事?」
「子供の顔を見る事が出来ない人もいるって事、もちろん孫の顔も」
僕はチビに謝るために会っているのに、どきっとして
「あっ、ごめんね、チビ。自分だけ不幸なような事を言い続けて」
ゆっくり話をしていたチビは、はっきりした声で
「私は、いいのよ。自分の子供の顔は想像も出来ないし、もちろん孫など、どうゆう顔をしているかなんて、考えられないもの。
でも、でもね、子供のいる人の気持ち、私は分からないし、理解出来やしないけれど、健ちゃんは、お子さんの顔忘れること
なんて、出来ないでしょ?親ってそうなんでしょ?そうなんでしょ?健ちゃん?」
「もちろん、頭の隅にいつも子供がいて、考えている」
「そうでしょ。子供を産んだことの無い私には、想像しか出来ないけど。いちにちでも忘れた事なんて、無いでしょ?」
「そう、忘れるなんて出来やしない。元気にしているか、とか、どんな女性になっているか、とかね」
「子供の顔を思い出して、孫がいると知ったら、どんな顔をしているか、会いたい気持ち、私はわかるよ」
「僕はチビになんて言ったらいいか・・・・・言葉が無いよ」
「私・・・・・」
「うん、なに?」
「本当に、今日、健ちゃんに会って良かった。そう思っている。健ちゃんのお子さんの話を聞いて、自分の子供の成長を聞い
たみたいで、嬉しい、本当よ」
「チビは本当に優しい人なんだね。今日、話を聞いてもらって、少しは気が軽くなった。僕も逢って良かった」
「淋しがり屋の健ちゃんの、気持ち、わかるよ。よく我慢しているね。私、わかるから、会わなくても、会えなくても、私みたいに
我慢しなさい、なぁんて言わないよ。早く、一日でも早く、会えるといいね、健ちゃん」
「・・・・・・」
「会えたら、私にもお孫さんの話、話して聞かせてね。私の孫のような子供の成長を、ね。孫を持てない私に聞かせてね」
「たまらないよ。そんなに優しい言葉を言うなよ。チビ。涙が出て来ちゃう」
「健ちゃん」
「何?チビの目を見る事が出来ないって、話しかけないでよ」
「なんでも聞いてあげるよ、私で良かったら」
「なんだかチビがお母さんみたいに思えて・・・・・だけれど・・・・」
「えっ?」
「最近は知らない方がいいとも・・・・・思っている」
「意味がわからないよ」
「子供でも孫でも・・・・出来た?・・・・いつ?生まれた?男?女?そんな心配して愛情が湧いてくる。だから、なまじっか会った
り、男だとか女の子だとかわかったり、写真見たりしない方が変に心配事が増えないで・・・・」
「何を言い出すの?自分の血の繋がったお孫さんでしょ?そんな割り切り方が出来るの?」
「だって仕方が無い事だよ。首根っこ掴んで、会わせろだの写真送れだの言うわけにいかないでしょ?これが現実、これが僕
の人生さ」
「そんな辛い事・・・・・・」
「チビそうじゃあないんだ、今の僕にはその辛さが一番楽な我慢なんだ」
「健ちゃん・・・・・目を見無いでよ・・・健ちゃんの涙目は見たく無い・・・・私の方が・・・悲しい・・・・一番軽い我慢?・・・・・」
「わかってくれると信じて、チビにだけ話したんだよ。血の繋がった親子はチビの言うように、何処かで繋がっていて・・・・そう思
っていた。だけどねぇ、僕のところは僕に原因が有って、僕が悪いのだと気が付いたし、もう元へは戻れないんだ。もう遅いんだ。
今からでは取り返しのつかない事が理由なんだ」
「取り返しのつかないその理由は、私には話してはくれないの?」
「チビ、恥ずかしい事なんだ、とっても恥ずかしい事なんだ。60を過ぎてわかったんだ」
「えぇ?恥ずかしい事?って・・・・?」
「僕の性格、気質とでも言い直しても良いよ」
「私、健ちゃんの性格は物事を知っていて・・・・優しくて・・・・私が優しくすると、もっとそれ以上優しくしてくれる人・・・・ちょっと短
気だけど私が辛くなるような言葉は聞いた事が無い、そんな人だと思っているけれど・・・違うの?」
「違くは無いが優しいチビの前では出さないで済んだだけかな」
「相手に因って変わる?」
「それも少し違うなぁ。相手によって出ていなかった物が表に出てきてしまうってことかな、トラウマのような、その状況に置かれ
ると、と言うか、環境と言うか、条件と言うか」」
「説明の上手い健ちゃんが上手く説明出来ていないよ」
「だから僕が原因って事さ、これ以上言うと言い訳になってしまうよ」
「そう、余程辛い理由が有りそうね。もう聞かないから、他のお話ししまょ」
「初老 健」 チビとの再会④(連載 19)
「どお、人生を振りかえって。夢はいくつ叶った?」
「うぅ・・・唸っちゃうね。夢は叶わなかった、ひとつも」
「あら?そお?」
「人生の歩き方は、想い通り歩いてきたかなぁ」
「またぁ、わからない事、言い出した。歩き方?思い通り?」
「自分の想い通りに。妥協はしないで来た。それが僕の生き方になった。だから人との折り合いが悪いし、付き合いも、
人にも合わせる事が出来なかった」
「そうなの?でも、私の知っている健ちゃんは、ちゃんと将来の夢、言っていたよ」
「夢はたくさん有ったな。大きな夢が歳を重ねると、どんどん小さくなって行くんだ。若いころは両手で抱えきれないほど
たくさん有った。それが歳を重ねてくると、どんどん小さくなる。片手で握りこぶし作って、こんなに小さな夢も実現できな
いのかって、情けないね。拳を開いて見ると手のひらだけで、何にも握っていない。だから夢なのだろうけれどねぇ。
でも、いつか一つでもいいから、実現したいとは想い続けていた」
「夢の話、楽しかったわ」
「自然が好きだったなぁ、なにか自然に近い事がしたかった」
「山に行っても海に行っても、一人で遠くを見つめていたね。私覚えているよ『あの山奥で自然相手に住んでみたい』
なんて。海を見ていて『チビ、あの海の向こうへ行ってみたくならない?』なんて言って、私も一緒になって夢を見させ
てもらっていた」
「そうだった?今でも自然が好きだよ。冬でも海へ行って、砂浜で海風にさらされて、寒くても遠くの海を見つめてね、
大好きな時間だ。沖を大型船が通るのが見えるとたまらなかった。海辺に車を止めて、潮騒を聴きながら音楽聴いた
り、本を読んだりね。気が付いたら夕陽が沈む時間になっていて、急に淋しい気持ちになって。たまらなくなって。
虚しくなってね。あぁ、やるせないなぁ、って」
「そうゆう時あるねぇ」
「今ねぇ、人と接するのが上手くいかないからか、焼き物も、美術館へ行っても、絵を見ても、自然に近い物がいい、
心が落ち着く。自然は見たままだから、自然は裏切らないもの」
「健ちゃんの原点ね」
「食べるものも、あまり手を加えない素朴な物が好きだな」
「ふうん」
「京都へ行ってお寺や仏像見ているのも、すきだなぁ」
「そう、私は、そんな夢を見るような、時間は無かった。ただ、好きな人と結婚して子供がたくさん欲しいなぁ、なんてね。
普通の女の子だった」
「チビだって正看護婦さんになる夢、叶えたんだろう?少なくも一つの夢は叶ったじゃないか『看護婦さんになって、患者さ
んにお礼言われると、それだけでうれしいのって』よく言っていた」
「そうかぁ、そうだったねぇ、忘れてた。でも小さな夢でしょ。実現出来ないような、大きな夢無かったもの・・・・・うん、健ちゃ
んの事を想っていて、そうゆう人かな?って、想った事有った」
「解ってくれる?チビは小さな事を積み重ねて目的を達成して偉いよ」
「健ちゃんこそその歩き方、人生の歩き方は、間違ってはいないと思う。意思が強いから出来るのよ」
「子供が呆れて出て行って、帰って来ないの、解るでしょ?」
「それは少し違うと思う。健ちゃんは好きな事には、真っ直ぐなのよ。そうだ、『猪(イノシシ)』でしょ?だから『猪突猛進』な
のよ」
「チビも普通のおばさんみたいに、干支だとか血液型なんかで、人の性格を予想したりするのかぁ」
「あら、おばさん?そう、おばさんだよ、私も、普通のおばさん」
「そうか、僕はそんなところが有るな。チビは?『子(ネズミ)』か?」
「そうよ、子(ネズミ)」
「その通りだな、子(ネズミ)年生まれ」
「私に何だったか・・・・オンコ・・・チシン?だった?教えてくれたでしょ?」
「ああ、温故知新だな『故(ふる)きを温(たず)ねて、新しきを知る』孔子の言葉だ」
「古いことわざ、良く言っていた」
「僕みたいに自主性に欠けるヤツは歴史を勉強して、自分の方向を知ろうとしたの」
「健ちゃん、また私に解らない事、言い出した」
「突然こうゆう話をする、だから僕は人に嫌われるんだ」
「私は、そうゆう昔の話を聞くのが、嬉しかったの。だけど、順序だてて話してよ」
「だからね、歴史は繰り返すって事さ。昔の歴史を知ると、これからの事が解る。だから歴史が好きなの」
「ほら、説明は上手いのに言い訳と思っているのね」
チビは僕の目を覗きながら
「そう、それじゃ今、本当におひとりですか?」
「そうさ、離婚と聞くとねぇ、他人は興味本位に理由を聞くんだ。離婚理由を聞く人がいると、いつも、この人は聞いてどうし
ようと思っているのか、逆に聞きたくなる時が有るね。興味本位に決まっているのに興味本位じゃないから、なんて決めつ
けてね。嬉しい事にチビは聞こうとしない」
「それなら、最近は、どうなの?」
「どうなのって?何が?」
「好きな人はいないの?淋しがり屋の健ちゃんの事だから、いないわけないよね」
「いないよ。僕は身勝手だから着いてきてくれる人はいないよ。温故知新、なんて変な事口にするし」
「それじゃ、作らないって事?」
「友達が心配していろいろ紹介だとか、個展の会場に女性を連れて来てくれるのだが、ほとんどの人が、僕自身に興味を
みせないの。興味が有るのは『陶芸をやっている変なヤツ』くらいにしか思っていない。それと、この歳になると前提が結婚
だから、息苦しくなる。僕に聞く事といったら、陶芸の話しばっかりだから、話をしていても面白くない。チビとこうやって昔話
している方がよほど楽しいよ」
「私は、陶芸の事全く知らないから、質問が出来ないだけよ」
「それが僕にはいちばん都合がいい。僕は女性とは同居や結婚は無理だから」
「どうして?」
「さっきも言ったでしょ。僕は、我儘で、人と妥協する事も出来ない性格でしょ」
「そうなの?健ちゃんは、そうゆう人と違うと思うけど」
「チビは僕の事全部は知らないでしょ?僕は他人とは妥協しても、自分には絶対に妥協はしないと考えて生きて来たの。
だけど、最近は人にも妥協する事が出来ないと分かったのさ。だから陶芸をやっている、変なヤツとなる」
「また、説明の必要な事、言い出した」
「僕は、物作りに妥協をしてしまうと、良いものや満足する作品が出来ない、と思うの。だから作品作りには、絶対妥協し
ないわけさ。その妥協しないという信念を、他人や親兄弟にも求めてしまうってこと」
「少しわかったような気もするけれど・・・・・」
「チビはこれから好きな人が出来たら、一緒に生活出来る?」
「この歳でそれは無理でしょうけど、好きな人となら、いつも一緒にいたいしね。傍に好きな人が居るだけで安心して、心
が落ち着くもの」
「そうか、僕は自信が無くなっているからなぁ。僕の結婚生活は親の仇と生活していると勘違いするような、嫌な思いば
かりしていたから、二度と結婚はしないし、同居など出来ないよ」
チビは如何にも自信有り気に
「私は毎日平穏無事な生活よりも、意見が違って喧嘩をしたり・・・・意見が合わなかったりしても、それが共同生活では
当り前だと思うから・・・・」
「僕よりもチビの方が余程大人だな。それがネズミの性格。チビと結婚しなかったのが悔やまれるなぁ」
「ゥゥゥ」
「・・・・・・」
長い沈黙が続いた。
「何か言った?」
「うん、チビと結婚しなかった事が悔やまれるって、言ったの。聞こえた?」
チビは僕を見ようともせずに空になったクリームソーダの入っていたグラスの淵を見ていた。
チビが突然
「あのネェ」
「なに?」
「もうひとつ話したい事、あるの、聞いて・・・・ね。・・・・・・・・・・電話いただいた時にね。あっ、来た!って、思ったの」
「何?それ、どうゆう意味?今度は僕が説明を求める!ハハハハ」
「あははは、説明するぞ!あの助かった時に・・・ね」
「一番辛かった時?」
「うん、あの時、助けていただいた人達が元気付けてくれてね」
「どうしたの?何?」
「『理由はたくさんあるでしょう。でもね、生きていないとだめよ。もしもね、もしも、本当に好きな人と会いたいと思っていた
ら。その人と結婚したいと思っていたら、絶対に会えるから。生きていないと会えないよ、って。生きていたら結婚出来るか
も知れない、って。死んでしまったら会う事も、結婚する事も、絶対に出来なくなっちゃう』って言われたの。戸田さんから、
近いうちに健ちゃんから電話が行くからって聞いた時に、本当に生きていて良かった、と思ったのよ」
「チビ・・・そうだったの?そうだったんだぁ」
「言っちゃった!すっきりした。私これが言いたくて、今まで生きて来たようなものだから。私は健ちゃんの一番良いところ
自分でわかっているから。今日逢って変わっていないと、改めて確認出来て良かった」
「そう・・・・僕もチビが気になっていたんだよ。それなのに・・・・」
「だから今日は夢のようで・・・・・嬉しい」
「チビ、チビは四十年もそんなふうに思い込んでいたの?本当?・・・・・・ねぇチビ?」
「うん、なぁに」
僕は照れ隠しに
「クリームソーダもう一杯いかが?」
「ねぇ、健ちゃん、もっと楽しかった頃の、お話してよ」
「その前にさ、チビは僕に聞きたい事、たくさん有るんじゃないの?過去の楽しかった話の前にさ。一緒にいるとチビから
話し始めないで、いつも僕に聞く事から始まるのに、今日は聞かないの?」
「えっ、何?」
「例えば、僕と戸田さんとの事とか」
「それは・・・・聞いていいの?」
「何でも答えるよ。今日はチビに許しを得るために来たんだから」
「それはねぇ、聞き辛いなぁ」
「なぜ?じゃあ僕から言おうか?」
「ねぇ、健ちゃん、これからも逢ってくれるでしょ?」
「もちろん」
「そのうちに自然と分かるから、今聞かなくても。私だいたいわかっているし、はっきりわかるのが、怖い気もするから・・・・」
「じゃ、なぜ急に連絡しなくなったか、は?」
「それも、追々聞くよ。今日は久し振りに逢えたし、楽しいお話しようよ」
「うん、そうしよう。悲しくなる話は止めようね。チビの言うとおりだよね」
チビはこうゆう人だった。こうゆう子だった。僕はチビが見る事が出来なくなった。チビがこの歳まで良い歳を重ねて来た
のだと嬉しくなった。良かった。本当に良かった。今日逢ったのも間違いではなかった。そう素直に思った。
「楽しいこと沢山有ったね。入院していた時、僕を高校の先生だと思ったの?本当?」
「若い看護婦同士でそんな噂話していて、私、信じちゃったの」
「そうか、僕は大人びて見られていて。学生服の同級生や、セーラー服の女学生、けっこう見舞いに来てくれていたしね」
「私と同い年くらいの女学生が、楽しそうに、話をしているのを見ていたから」
「そうだ、同い年ねぇ、チビも仲間に入れば良かったね」
「病室へ行きたくてね、でも、恥ずかしくて入れなかったのよ。若い看護婦同士で結構健ちゃんは人気が有ってね。本当だ
よ。だから初めて健ちゃんがデートに誘ってくれた時は嬉しくてね」
「僕ねぇ、若い看護婦さんが病室に入って来るとわかるの」
「えっ、何がわかるの?」
「結構意識している事が、僕にはわかった。白衣着て頭に看護婦帽かぶっていると、僕より大
人を感じさせる人でも、この子も女の子なんだなぁ、って」
「それ、そのとおりだよ。私がね、『二〇二(にいまるに)号室の健ちゃん』って、言い始めてしまった事が有って、周りの看
護婦から『なんで、ちゃん、付けなの?』って、一時期、口を聞いてくれなくなってしまった、辛い日が有ったの。そんな事も
あって病室に入り辛かった」
「へぇ、そんな事が有ったの?わかるような気がする」
「でもさ、自然と健ちゃん、って、言っていたよねぇ」
「そうかぁ?最初の健ちゃんは、かなり思い切って言ったんじゃないの?僕はチビちゃんって、自然に呼んでいたよねぇ」
「そうだったかなぁ、あははは忘れた。あの木造の病棟が懐かしいわねぇ」
「そうだ、思い出したぞ」
「何を?」
「僕の病室にチビが入ってきて・・・・・僕がデートしよう、って言ったら」
チビは色白のほほを赤らめて
「あっ、お願い言わないで!恥ずかしい!」
と言いながら僕の口を塞ごうと手のひらを持ってきた
僕はその手を払いのけて
「何の事だと思っているの?」
「あの事でしょ?お仕事しないで帰ろうとした事」
「その通り、検温しないで・・・・」
「だって、男の人から可愛い、なんて言われたのは初めてだったのよ」
「あの時のチビは本当に可愛かったなぁ、勉強が出来そうで少し気が強そうに見えたけれどね。ちゃんづけで呼びたくな
るように可愛かった」
「そんな風に見えていたの?」
「可愛く見えたけれど、女の魅力はあまり感じなかった」
「16歳で色気が有ったら変でしょ?今の子とは違うのよ」
「そうか、16歳だったのか」
「そうだよ、子供だったの。でもねぇ、健ちゃんが私をおんなにするきっかけに、なったのよ、解る?」
「おんなねぇ」
「そうよ、大人のおんな」
「チビがそんな話をするとはね」
「健ちゃんと付き合っている頃楽しかった。毎日ウキウキしていて、忙しくても、寝不足でも楽しくて、楽しくて、嬉しかった。
疲れたなんて感じた事無かった」
「チビ、そうゆう話は、はっきり伝えないと相手には解らないよ。説明!説明!」
「僕の病室にはたくさんの看護婦さんが、入れ替わり立ち替わり入って来ていたよ。皆、付き添いのおばさんに悩みを打
ち明けて、相談しにきていたよ。戸田さんなんて朝晩当直明けでも来ていたよ」
「そうだったの?私も行けば良かったなぁ」
「そうだよ、そうすれば『間宮さんお友達になって下さい』って、僕がお願いしたのに」
「うそだぁ、あの頃の健ちゃんは、冗談ばっかりだったから、本気にはしなかったよ、たぶん」
「そうか、そう言えばちょっとお調子者だったかなぁ、あの頃の僕は」
「そう、あの時、退院したら、映画に連れてってくれる約束したのに、忘れた?」
「えっ、まだ覚えているの?ごめん。いいでしょ約束を50年後に果たすなんて素敵だ」
「言い訳しないのよ、ずるいなぁ。絶対に連れてってよ、忘れたら健ちゃんの嫌がる事言うからねぇ」
「何?なんか僕の弱み知っているの?」
「映画に連れてってくれたら、言わないから」
「何だろう?思いだせない事たくさんあるからなぁ。本当はさあ、映画見に行ってチビの手を握っちゃおうかと、
よこしまな気でいたんだ」
「えっ、男の人ってそんな事想いながら『映画見に行こう』なんて言うの?」
「僕だけじゃあないと思うけど・・・だってチビはちょっと強そうに見えて、明るいところで手を握ったりすると怒られそうで・・・
少し怖かったんだ」
「やっぱり、恥ずかしくてもはっきり伝えないと駄目ね、本心を、ね、説明!ね」
「初老 健」 夕陽が沈む① (連載 20)
「ねえ、夕方学校まで送ってくれる途中に、新宿御苑へ行ったの、覚えている?」
「覚えているよ。新宿御苑の近くだったね、学校。あの時もチビが当直明けで午後なら会えると言ったので午後から会っ
たらさ、夜は学校だって言ったので、がっかりしながら送って行った。大人のデートは夜が肝心なのにって思いながら」
「あの時のこと、いつも想い出すのよ。もう暗くなりかけていて、御苑を出なければいけない時間なのに・・・・」
「なのに?何か有った?」
「忘れたの?やだぁ、健ちゃんは繋いでいる手を急に引き寄せて、抱きしめたのよ」
「えっ、僕が外でそんな事、したの?」
「忘れちゃったの?したのよ。だって初めてのデートで唇奪われたの、忘れるなんて出来ないわ」
「抱いてチューまでしたの?記憶に無いね。ほんとう?あの時が初デートだったかぁ。そうだ初デートなのに学校まで送って
行ったのかぁ、思い出した」
どうも、都合の悪い事は、忘れているらしい。
そうだ、その頃、静との「初拒否事件」が有って寂しくて、好きになったチビをずうっと抱きしめたいと思っていたのだ
「持っていた教科書を落としても、両腕で強く抱きしめて離さなかったの。私、初めてなのに、健ちゃんは舌入れて来たので
びっくり。その頃くちづけって、唇を重ねるだけだと思っていたの。その時に、この人は慣れている、と思ったの」
「慣れているって何が?」
「女性に、決まっているでしょ」
「そんなこと考えていたの」
「私、男の人とお付き合いをしたのは、初めてだったから、その日の授業は、さっぱりだったのよ。でもね、ちゃんと教科書を
拾って、ほこりを払ってくれたの。やっぱりこの人は上野で手を握った時に言った言葉通り優しい人だと想ったのよ」
そうだ、静のことは忘れようとしていたのだ
「それも、謝らなくてはいけないね、チビはチューしてもただされるだけで、無反応だったから初めてなのかなと、悪い事
しちゃったかなぁ、と」
「初めてだったの、幼かった。それで健ちゃんの事、もっと好きになっちゃったの」
「えぇ、チューしただけで好きなったの?」
「そうじゃなくて、患者さんでいた時からって言ったでしょ。歳も近いし、話も結構かみ合って、いつも楽しい話をしてくれて、
笑って話したでしょ。遠くから見ていてもいいなぁと思っていたし、なんて楽しい人なのかしらって」
「僕は、チビと会える時間がもっとたくさん有ったらと、想っていたな。でも、デートの時間が合わなくてね。それと、いろい
ろな事が重なって、好きな人には毎日でも会っていたい時期だったから、一人になると寂しくて耐えられなかったから」
静と別れたばかりで、寂しさを初めて感じた頃だった。逢えなかったり、僕の時間に合わせてくれなかったりすると、チビ
ちゃんと呼んでいたのが、「チビ!チビ!」って言葉に出して不満をぶつけていたのだ。辛い想いを沢山させたのに
「いろいろ楽しかった。もっとたくさん逢っていたかったわ」
「そのとおりだよ、だけどそんな事言ったって、チビは逢いたい時に会えない人だった」
静と同じだったのだ、寂しくなって会いたいなぁと、思っても逢えなかった
「あの頃の若い看護婦は、勤務交代を頼まれる事が多くてね。断れなかったのよ。逆に交代をお願いすると断られて
しまって、いつも健ちゃんに悪いなあって思っていたのよ」
「会えるといつも手をつないで歩いたね、握っている手を強く握り返したりして目で合図して」
チビは急ににこやかな顔をして
「うん、手つなぐだけで嬉しかったね」
「チビはたまに悲しそうな顔するから、どうしていいか分からなかった」
「そう?私、どんな顔していた?」
「僕の方を見ないで、何処かを見詰めているような」
「そうか、うん。逢えると嬉しくてね。ちょっと会話が途切れるとね。私今この人と恋している、恋ってこれだって」
「変なの、女ってそんなに冷静なの?」
「それまでは、病院と学校以外行かないし、男の人と遊びに行くなんて無かったから」
「そうかぁ、僕はつまらいのかなぁ、なんて。どうしたら喜んで、ほほ笑んでくれるのかなぁって」
「本当?その時言葉で言ってくれたら、私泣いちゃったかもしれないよ」
「でもねぇ、いつも別れる時にいつまでも手を振ってくれたでしょ」
「うん、楽しかったって、言葉で無くて手をいつまでも振ったの、見えなくなるまで。見えなくなっちゃうと『あぁ、帰っちゃった』っ
て」
「僕はそれを振り返って見る事が出来なかった。帰るのが嫌になって戻りたくなっちゃうから」
「私振り返ってくれないから、何か機嫌の悪くなるような失礼が有ったかなって、悲しくなった時も有ったよ」
「また、帰りたくない家に帰るのかぁと、思っていて、それこそ振り返ったら帰れなくなっちゃうから、振りかえらなかったの」
「私、帰り道歩きながら、またデート出来るから我慢して明日から働こうって。嫌な事が有っても我慢して働こうって、我慢して
いたらまた健ちゃんから電話が有るからって」
「思い出した。病院の寮を建て替える時に、寮として借りていたアパートへ行ったよね。どうして行ったのかなぁ」
「健ちゃんが『チビがどんな部屋で生活しているのか見てみたい』って言ったのよ」
「そうかぁ、チビの事考えていると病院で働いているチビが浮かんでしまうから、だからだな」
あの時チビの内側を見たような気がした。
臨時の寮だから雑然とはしていたが、小物はきちんと整理してあった。
「あの時健ちゃんたらぁ、ソファーに座って私が何か飲み物でも、と思って立ち上がったらさぁ、あの時が、初めてだったのよ。
急に・・・・黙って抱きしめて」
僕は言葉を止めるように
「あっ、ごめん、また変な事になってきた、そんな話ばっかりだネ。あははは、あの頃はチビもチューは、だいぶ上手くなっていたな」
僕は直ぐにその時の記憶が戻り、笑って自分のした事を照れた
「やだぁ、もう、健ちゃんたら、そんな事言うから、また汗かいてきちゃった」と
盛んにガーゼのハンカチで薄化粧の顔に軽く押し当てていた。僕はあの時、チビの事が好きだと感じたのだ。
だから急にチビが欲しくなって抱いたのだ。そうだ思い出した。チビの胸は静より大きいと、初めて知った時だ。
その胸を、僕は母の胸のように思ったのだ。多分大きさや感触が、母の乳房に似ていたのかも知れない。
「でもね、とっても嬉しかった。ほんとよ。健ちゃん、ああゆう時はうそでも『好きだよ』とか『愛している』って言って欲しかったの」
僕はドキドキしてきた。その時の僕は、チビに思いっきり男をぶつけたのだ。チビはその時僕に初めて『好き、健ちゃん!大
好き!』と言ったのだ
「あの時、健ちゃん子供みたいに私に甘えて・・・・・ね、初めて健ちゃんをかわいいと思ったの」
淋しかったのだ。甘えられる人が欲しかったのだ。それをチビに求めたのだ。
「歳をたくさん重ねてからそんな話聞くと気まずいね、てれるなぁ。あの時初めて触ったチビのおっぱいはとても気持ち良かった」
チビはまわりを気にして少し小声になって
「健ちゃん、やめて、人に聞こえてしまうから。それにそんな話をすると、私、健ちゃんの顔を見られなくなっちゃうから、お願い」
「本当だもん、あれからだな」
「何?」
「チビのおっぱいが忘れられなくなっちゃったのは」
さかんにまわりに目を配って
「だからそうゆう話しは止めるか、もう少し小さな声で言ってよ」
「でも、今言わないと忘れちゃうから。本当にチビが大好きだったの。僕は本当に好きにならないと出来ない人だから」
「私だって好きでない人だったら絶対にしない。好きでも無いのに出来る子もいるけれど私はいやよ」
「好きになると大事な人だから嫌われたく無いと思うでしょ。でも、したくて我慢できなくなってし
まうの。それって、不思議だね。他の人に奪われたくないと思うのだろうな」
「不思議ね、こんな話してもいやらしく感じないし、健ちゃんとだけね出来るのは、若かった頃本当に懐かしいね」
静と同じ言葉が返って来て僕はびっくり
「確かに、若かったね」
あの時チビは嫌な顔をしなかったのが、救いだったのだ。逆に優しいお姉さんを演じてくれていたのだ。
「その時ねぇ、健ちゃん、私になんて言ったか覚えている?」
僕は前後がわからなくなって
「その時って?」
チビは小さな声で
「だから初めての時」
「なんか言った?」
「終わった後よ」
さすがに僕は小声になって
「チビは初めてだったみたいだから・・・・・痛くなかった?とか・・・・」
「やだ、もうぉ、違うよ」
「なに?なんて?言った?」
「『チビ、いくら親しくなっても下着を着ける時やストッキングを穿く時は後ろ向いてしてね』って」
僕は思い出した
「言ったな。それはねぇ、チビが年下で初めてだとわかったからさ」
チビは初めて聞くように小首を傾げて
「それって何だったの?」
「僕はねぇ、なんでも楽屋裏は見たくないのさ、どんなに親しくなっても、女性が着替えたり、ストッキングを穿いたりするとこ
ろは見たくないの。親しくなると喜んでくれるからと思ってか、平気で目の前でパンツ穿いたり、スカートを先に穿いてからス
カートをまくりあげてパンツを穿いたりするでしょ。僕はそうゆう事は見たくもない」
チビは納得したような目をして
「初めての時に健ちゃんからそう言われたから、いつもそうしていたの」
「他の男は違ったでしょ?そんな事言うのは、僕くらいだったでしょ?」
「うん、健ちゃんに悪いけど、他の人に言われたの『どうして後ろ向くの』って」
「大概の男はそうゆうところが見たいものなのさ、パンツ穿くところを見せてくれたって満足する男がいるの、僕が変わっているの」
「健ちゃんはその・・・・・女のひとにはいつもそう言うの?」
「言わないよ、チビが年上で、初めてじゃなかったらそんな事言わなかったな、わかる?」
「なんとなく・・・・・・」
「チビ」
何を言うのかという顔で僕を見たチビは
「えっ、なに?」
「あのねぇ、全部は知りたくない。いくら好きな人でもね。だから少なくも僕の前だけでも慎みを持った女性でい
て欲しかったんだ」
「それって、考えてみればそうだよね」
「チビ、口には出さなかったけれど大好きだったのだぞ。本当だよ」
「そうだったんだぁ。やっぱり。私ねぇ、健ちゃんから間違いなく愛されていると思って、生きてきたの」
「ずいぶん自信もって言っているけれど、どうして?」
チビはにこにこした顔で
「あの上野で手を握って言った言葉は、私、今まで忘れた事無いもの」
「『あの子達は愛情が・・・・』って言った言葉?」
「そうよ」
「自然に出た言葉だけれど、ただそれだけの言葉なのに?そんなに強烈だったの?」
「自然に出た言葉だから、だから尚更よ。だから尚更・・・・・」
「そうか、そうだね」
僕が頷くと同時にチビは
「それとさぁ、名前、本当は健(ケン)じゃないよね?」
「うん?なんで?」
「私、知っているよ」
「初老 健」 夕陽が沈む② (連載 21)
「もしかして?」
「ほんとうは、『たける』だよね」
「チビ、なんで・・・・知っているの?」
「みんなが、ケンちゃん!て呼んでいるけれど、違うよねぇ。私だけには本当の名前を教えてく
れたの。言葉では言ってはくれないけれど、私のこと想ってくれているって」
「なんで知った?」
「知りたい?」
「じらすなよ」
「どうしようかな・・・・」
「チビはそうゆう子じゃない筈だぞ」
「ずるいなぁ、これ以上焦らすと健ちゃんは機嫌が悪くなりそう。いつもそうだったもん」
「よく覚えてるねぇ、チビは」
「あのねぇ」と
にこにこしているチビはゆっくり話始めた
「どこか、富士五湖だったか、ドライブに行ったって、お土産くれたの」
「へぇ、そんなことあった?」
「木で出来ている状差し、富士山の前に湖の絵が書いてあって」
「それがどうしたの?」
「くれた時に『僕がプレゼントしたのだと忘れないように』って裏にサインしたの。筆記体でP.Takeruってね」
「思い出した、そうだった」
僕はチビが好きだったから、チビが感じていたように本当に好きだった。本当はたけると言うんだ。好きとは口に出して言え
ないから、チビだけは違うよ、本当に好きなのはチビだと言いたかったのだ。安物だったけれど、チビが喜んでくれるだろうか
と、思いながら買い求めて、渡したのだ。
「私、今でも持っているよ」
「えっ、本当?」
「一回ね『タケルのバカ!』って、消しゴムぶつけた事が有った」
「茶碗でもナイフでもぶつければ良かったのに」
「どこか傷を付けては、いけないとでも、思ってそうしたのねぇ、アハハハ」
「チビはそうゆう子だったねぇ、わかっていたのに」
僕は下を向いて言葉が出てこなかった。話を変えるように少し大きな声でチビが言い出した
「ドライブにも連れて行ってくれたわね」
「うん、行ったね」
僕は、当時好きだったのに行動を起こせなかったことを悔やんでいて、何処へ連れて行ったか全く思い出せない。
だから具体的に場所を言えない。他の人と行った場所かも知れないから、僕からどこどこへ行ったね、と話しか
けるわけにもいかず黙っているほか無かったが
「車の中でいろんな話をしたわね」
と言われてホッとした。会話が続き始めた
「ドライブに行って『チビちゃん!今日はいいでしょ』って言うと下を見て返事しないから『ダメ、ねぇ、チビちゃん!』って」
「そうよ、あなたはいつもはっきり言うの『はい、お願いします』なんて言えないもの」
「アハハハ、僕は強引だった?」
「健ちゃんが好きだったから、イヤとは言えなかったの」
僕は相模湖へドライブに行った時の事を思い出した
「相模湖にドライブに行った時の事、覚えている?」
「何かあった?」
「チビだって忘れている事有るじゃないか」
「うん、あるねぇ、それで?」
「ホテルのレストランで食事して、泊る?って、聞いたらチビは恥ずかしそうに眼で合図をしたんだ。僕は嬉しくて部屋を予約し
てさ、ボーイが『お食事代もお帰りに』と言われたからエレベーターで部屋に行ってさ」
「そんな事あった?」
「部屋に入ってからチビはすぐにシャワーを浴びようって呼ぶから、一緒に浴びてさ。チビは初
めて自分から積極的になって、いつもは僕がこうしてと言わないと、してくれた事がないのに、
僕の好きな事してくれて、僕は凄く嬉しかったの」
「本当によく覚えているねぇ」
「そしたらチビは、翌日の勤務が『早出なの』なんて急に言いだすから、朝、早い時間にホテルを出ようとしたら従業員が誰
も居なくてさ、慌ててしまって、そのまま全く支払いをしないで、帰って来ちゃったの」
「思い出した。朝、かなり時間に追われて、バタバタして帰る支度したのね」
「だって、チビは早出なのに朝おねだりするから、僕は嬉しくてその気になっちゃって、早出だったのを急に思い出して慌て
て出て来た。あの相模湖事件の時でしょ?そうでしょ?」
チビは思い出せないと言うように目を丸くして
「何?何の事?」
「チビが本当におんなの喜びを感じたのは、あの時でしょ?あの晩は何度も何度もチビは求めてきて、朝、目が覚めてか
らも・・・・」
「えっ・・・・そう?」
「僕はちゃんと知っていたよ。そうでしょ?チビが初めて僕に感じてくれた日、忘れないよ。それまでより積極的になってくれ
たもの。あの時初めて『健ちゃん!もっと!』って言ってくれたの」
チビは怒り顔で
「あなたは怖い人。ばか、知らない、もうばか」
僕はわざと生真面目な顔で
「チビ、楽しかったね、あの頃」
チビは下を向いたまま耳まで赤くして
「ばか、ばか、ばか」
「ごめん」
チビは僕の目を見ない
「・・・・・・あのころに戻りたいわね」
「ねぇ、チビは一人で我慢出来ない時はどうするの?」
何を言っているのか解らないと、不思議そうな声で、上目使いに僕を見ながら
「えぇ?何?」
「だからさ、変な気持になって我慢できない時」
「やだぁ、健ちゃんやだぁ、また変な事言う」
「どうして?さっき全部知って欲しいって言っていたぞ」
「そうゆう・・事もぉ・・・・聞かれると・・・は、思っていないもの・・・・意地悪ぅ」
「いじめてごめん」
「あぁあ、良かった。疲れちゃうなぁ、もう、健ちゃんは」
「僕は、チビのおっぱいとか、お尻とか思いながら、自分でした事たくさんあるよ。本当に」
「えっ、びっくりする事ばっかりで、もういやだって、健ちゃん!」
「だからさぁ、チビは僕の事想いながら、自分でした事有るでしょ?あるって言ってほしいの。好きなチビにはっきり言って欲し
いの、あるでしょ?ねぇ、チビちゃん!」
チビは僕を見つめた、とゆうより睨みながら
「健ちゃん!私、あなたが好きだって言ったでしょ」
「ごめん、チビが僕に初めてはっきり言ったねぇ、もう聞かないから、許して、今みたいな強いチビも大好きだよ」
「なんか思いだしたけれど、チビをおんぶした事が・・・・有ったよね」
「あの時の事も、うる覚えなの?やだぁ。もしかして、他の人をおんぶしたと思ったでしょ?忘れたの?」
「ごめん、チビをおんぶしたのは間違いない。あれは・・・なんでおんぶしたんだったか・・・・」
「もう、やだなぁ。絶対他の女の人だと思っていた、そうでしょ?」
「そんなこと無いって」
「雨上がりで私がおニューの靴穿いて。赤い靴、思い出さない?」
「ごめん」
「道が泥んこで水たまりが出来ていて私が遠回りして行こうって、言ったのに健ちゃんが『僕、この靴だから』って、おんぶす
るからって、ほら茶色のバックスキンのかかとが高い靴穿いていて、背中向けたから、私、恥ずかしかったけれど・・・・」
思い出は、自分に都合よく覚えている事が多い。そして自分に都合よく忘れている。それを思い出すと、嫌な事も思い出す。
嫌な事は忘れようとして忘れる事も有る。チビとの楽しかった事は、忘れようとしていた部分が多い。
チビの看護婦さんの姿を思い出すと、静を思い出してしまう。だからチビとの事は忘れようとしていた。チビと話をして
いると思い出が溶け出して来る。
「そうだ、思い出した。チビが背中に乗った時に感じたんだよ」
「何を?」
「チビのおっぱいは軟らかいって」
「やだぁ、またぁ、そんな事まで思い出さなくても良いのよ」
「そうだけど、風船にさ、お水入れたような軟らかさに感じてさ」
「そんなぁ」
「チビはどうだった?」
「私おんぶしてもらって、嬉しかったの、でも重かった?」
「もう、忘れた。どうして?自分は重たいと、いつも思っているんでしょ?」
「違うって、健ちゃん立ち上がる時に、ちょっとふらついたのよ」
「あはは、そう?だらしない男だな、あはは」
「そしたら健ちゃんが『チビしっかりつかまって』って、言ったから両方の腕で首をギュって抱きしめたの」
「思い出したぞ『チビそんなに強くしなくても落とさないから、もう少し弱く』って、あはははは」
「私、嬉しかったのに、恥ずかしくなって、でも、抱きしめられたようで嬉しかった」
「僕はあの時から、チビのおっぱいを触ってみたくなっていたなぁ」
「いやだ、すぐそんな話。あの頃は、今みたいに、かたちを整えるような、ブラが無かったのよ」
「この軟らかさは何だ?って。初めてだったこんなに軟らかいおっぱいは」
「初めてだって?やだぁ、誰と比べているの?」
「えっ・・・・?比べてなんていないよ」
「初めてだって・・・・言ったでしょ!」
「だから初めてだったの。そうだって」
「怪しいなぁ、私は健ちゃんの言うとおりにしていたから、いつも」
「だって、チビは積極的でないから、僕が積極的でないとその先へ行かないでしょ?」
「そう言う言い方も有るのね、あははは。それでね」
「まだ続きが有るの?」
「そう、もういいからって言っているのに、健ちゃんは、後ろに回した腕を離さないから・・・降りたくても、降られないし」
「チビが『みんな見ているから、もう降ろして』って言ったんだ」
「そうよ、恥ずかしくて、もう・・・」
「それもチビのお尻が軟らかくてズーと触っていたかったから下ろさなかったの。ちゃんと覚えているでしょ?チビの事は」
「そうやっていつも理路整然と話をするのよ。説明が上手い、健ちゃんに私はいつも言いなり」
「初老 健」 夕陽が沈む (連載22)最終回
チビとのデートは、約束した時から楽しみだった
「いつも待ち合わせした喫茶店、覚えている?」
「坂上のブラック・アンド・ホワイトでしょ」
「そうだった。ビーダブ」
「いつものところ、になっていたわね」
「車でない時、僕は坂上まで歩いて行っていたな」
「えっ、それは初めて聞いたよ」
「だって、総武線で新宿まで行って、地下鉄丸ノ内線に乗り換えるより、歩いた方が時間的に早
かったんんだ」
「そうだったのぉ?歩いて来たの?」
「だって電車に黙って乗っているのって辛いでしょ?」
「辛い?どうして?」
「歩きながらチビの事考えていた方が・・・・心はウキウキしていたから」
「へぇ、本当なの?」
「そうさ、本当だよ、チビと会うのに、他の人の事を想ってなんていないよ」
「そうゆう意味で聞いたんじゃないのよ。健ちゃん?本当に文子の事、想っていてくれたの?」
「想っていたさ、40年ぶりに会って嘘を言うわけ無いでしょ、昔を知っているチビに。今からよくて、お嫁さんにでもしようとしている
のなら、多少の嘘を言ってでも、チビに好かれるようにするけれどね」
「お嫁さんかあぁ」
「チビの事を想いながらね、僕は独占欲が強くてね、取られたく無いって想いが有ったんだぁ」
「誰に取られるの?」
「それはチビ次第だよ」
「私が他に好きな人が居たとでも?」
「はっきりそうは思わないけど・・・・・取られたらいやだと、感じてたなぁ」
「私、デートの時はお化粧を少し変えて、気が付いてくれるかな?とか。新しい服着て行って、なんて言ってくれるかなぁ?
とか考えていて、眠れなくなった事有るよ」
「僕はそうゆうの、気が付かない方だからなぁ~」
「でも、成田山に行った時に『チビちゃんは変わるねぇ』って」
「えっ?なんて?」
「白衣着ている時とは変わるって」
「普通の服と看護婦さんスタイルとは変わるって、言ったわけだね」
「そうよ、だから褒めてくれなくても、ちゃんと文子の事見ていてくれるって」
「うん、チビは白衣の時は可愛いと感じたけれど、普通の服だと少しだけ僕の男心を、揺すっ
たんだ。チビに色気を感じたのかも知れないな、大人の」
「色気?それはずっと後の事でしょ?私はいつも嫌われないように、ただそれだけで同じ時間を過ごしたの」
「そうか、要は、チビがもう少し積極的な女の子だったら・・・・」
「えっ?」
「僕がもう少し振り返って、チビをよく見ていれば・・・・って事だよ」
デートの帰りはいつも病院の寮の近くまで送って行った。
「いつも送って行って、なかなか車から降ろさなかったの、覚えている?寮の入り口近くでもう暗くなっていて青梅街道に車を
止めてね。あのころ僕は、チビとさようならをして一人になるのが怖くてね」
「怖い?だからだったの?車の中でも手をつないで、いろんな話して」
「仕事の悩みも話したり聞いたり、好きな音楽の話もたくさんしたね」
「音楽は好きな人だなあって・・・いつも感じたよ」
「チビの好きなのは『夕陽が沈む』だったね」
そうだった、チビの好きなのはフォーダイムスが唄った『夕陽が沈む』だった。だからだ、チビが自殺したと聞いた時から
『夕陽が沈む』を聴くと悲しくなって聴けなくなった。聴く気も無くなってしまった。
今はたくさんのレコードがCDになって、昔懐かしい音楽を聴いているが、この『夕陽が沈む』だけはどういうわけか聴かなかった。
この曲になると音を消すか、次の曲にスキップしていた。チビが原因だったのだ。それほどチビの自殺はショックだったのだ。
僕はどうしていたのだろう、その時にどうしてチビのことが想い出せないでいたのだろう。あんなに好きで想っていたのに。
「健ちゃんはいつも英語の歌、フォークソング」
「だって、『夕陽が沈む』は日本語の歌だし、夕陽って何か淋しいもの、僕は朝日が昇る方がき。英語の歌唄ってアイビールックで
格好がが良いもの、キングストン・トリオ、ブラフォー、PPM、日本だとMFQ、フォー・ダイムス憧れだった」
「そう言っていたよ。健ちゃんも、ボタンダウンのシャツとコットンのズボン穿いていた」
「深夜放送聴いていたなぁ」
「私も、当直が無い時は聴いて、こんど健ちゃんに会う時、話題について行こうって。聴いていた」
あの頃は『夕陽が沈む』を聴いてチビの事を想い浮かべていた。あんなに好きだった曲なのに聴かなくなったのは、チビが原因
だったのだ。好きな曲を聴かなかったわけでは無い。聴く事が出来なかったのだ。
「最後は、星の話、忘れないよね『チビ、星がきれいだよ、見て、一度目をつぶってから見るともっときれいだから』って目を
つぶった時にチュウしちゃう」
「『チビ星がきれい・・』そこまで言うと笑っちゃってね。雨が降っていても・・ね」」
「そうそう、雨が降っていれば星なんか絶対に出ていないのにね。そうだったね、そんなこと言っても、いつも最後は長いチュウしてね。チビはチュウが好きだったでしょ?その都度に上手くなって他の誰かとしているのではないかと、嫉妬したのを覚えている」
「えっ、そんな話初めて聞いた。健ちゃんが文子に嫉妬?」
「こんなに好きなのに、チビは僕の時間に合わせてくれない、でも仕方が無いか、好きな人には僕が合わさなければと・・・・」
「いつもごめんと思っていたのよ。うん、そう、だから健ちゃんと一緒の時は、何でも言う事を聞いたのよ。あの頃の看護婦は、
確かに時間が不規則だったからねぇ、私も仕事に夢中だったしね。早く覚えて早く・・・・大人になって・・・・なんて・・・いつも考
えて・・・・・いたのよ・・・・変でしょ?」
「変な事ないよ。もっと会える時間がたくさん有ったら、違っていたネ。もっとたくさん逢っていたら・・・・
チビは僕のお嫁さんになっていた・・・・・・そう思う。僕は、チビとは純愛だったと思っている」
僕は女性とのお付き合いは、段階を踏んだ付き合いをしていなかったから。つまり、知り合う、手を握る、キスをする何回か
デートして、そうして・・・、そんな段階がなくて、いきなり静の部屋に泊ってしまったのだ。キスの仕方も、女性の抱き方も、
あの晩、静から教えてもらったのだ。だから純愛めいた事に憧れが有って、それをチビに求めていたのかも知れない。
「え?そう、私は大人の女になって、大人の恋をしていると思っていたのよ・・・・・そうかぁ、お嫁さんに・・・・
ねぇ・・・私もそう思う、今、そう気が付いた」
「男と女の違いだな。年下のチビだと思っていたけれど、意外と大人だったのかぁ」
「そうだ、寮に遅く帰ると、戸田さんが怒るのよ」
「聞いた事あったねぇ。戸田さんと同室だったね」
同室の場合は年長者が責任を持って管理する事になっていると聞いていた
「怒られると、『健ちゃんと逢っていたの』と、言うとね、『健の奴って!』言いながら許してくれたの」
「そうだよ、チビを紹介したのは戸田さんだもの。ほかの人と会って遅くなっても、健ちゃんと、なんて言い訳したりして」
「そんなこと私は、しないって」
「チビは真面目な子だったからなぁ。あははは、僕だったらそうゆう手、使ったな」
チビは、懐かしそうに、何か言いたいのか、僕の眼を見つめていた
「その目だよ、不安そうな目。僕はどうしていいか分からなくする目」
「そうですかぁ?楽しいこと沢山想い出して、懐かしくて、今日あなたと会えて、良かった。久し振りに心が落ち着いて爽快な気分よ」
「本当?僕は謝る事が出来て良かった。許してくれるの?」
「何を言っているの、もう忘れて下さい。毎日が楽しくて疲れなんて全く感じなかったあの若い頃を思い出させてくれたのよ。
今日逢えた事、感謝しているのよ」
チビは僕との事はなんでも覚えていて忘れてはいなかった。僕が静の事を今思い返す事がで
きるように、僕との事は、僕に聞いておきながらすぐに思い出す事が出来ていた。今度は僕が
チビの目をじっと見ながら顔を近づけて
「チビちゃん、あの頃、若かったけれど僕が『結婚しよう』って言ったら、してくれた?」
チビはほほ笑みを浮かべながら
「多分喜んで、そんな事は無いと思いながら、心の隅で期待していたかも知れないわ」
化粧の香りを消してチビの香りがした。この香りに気がつかなかった。今まで女性と付き合っても香りが気になっていた。
何かが違う。この違いは静の香りが基準だった。チビの香りは確かに昔のチビの香りだ。この香りは嫌いでは無いのに
、どうして基準の香りと比べていたのだろうか
「そうか、僕の失敗はこの辺から始まっていたなあ・・・・今じゃもう遅いか」
「失敗?遅い?何の事?」
「チビの香りが・・・いや、あの頃本当にチビが好きだった」
「やだぁ、健ちゃん、このおばあさんになっちゃった私の香り?」
「おばあちゃんは止めようよ。人生、いろいろ反省してね、僕が結婚するのはチビだったと、やっとわかったのさ。僕という男は
なんて勝手なヤツなのだ。その自分勝手な我儘が治らないで、今まで生きて来た自分が、情け無くて・・・・チビごめんね、本当
に今まで気が付かなかったんだ」
「ごめんだなんて、私がお礼を言っているのに、健ちゃんこれからは逢える時に会ってね」
「もちろん逢おうね。これからは僕の時間に合わせてくれるわけだね?もっと昔の楽しかった頃
の話しようね」
「うれしい」
「バカだった。今頃チビの事こんなに好きだったってわかった。今ならはっきり言えるよ」
「何を?」
「初めてチビを抱いた時、チビが僕に言ったことば覚えている?」
「何って言ったの?私」
「『健ちゃん大好き』って言ったんだよ。僕の首に両手を回して強く抱きしめながら『大好き』って言ったんだ。今度は僕が初めて
チビに言うよ、チビのこと大好きだってね」
「健ちゃんから『好き』って言ってくれたのは初めてね、嬉しい」
「チビ、何か食べよう」と
僕は席を立ち言い始めた
「何にする?チビの大好きな日本蕎麦?」
「あのねぇ、私本当はお肉や結構高カロリーの物が好きなのよ。知らなかったでしょ?」
「本当?」
「戸田さんに言われたのよ」
「何て?」
「『健ちゃんは痩せていて、ポニーテールをしている子が好きなんだ』って」
「で?」
「だから、髪の毛は伸ばして、無理してポニーテールにして、デートした時には太らない物を好きって言っていたのよ」
「そうだ、チビのイメージは無理してポニーテールにしているって髪の毛まとめてた。そして食べ物は日本蕎麦だもの」
「だって、デブは嫌いだとか、ポニーテールが好きだとか聞いたから。それを聞いた時からあまり好きではなかったお蕎麦って
答えていたのよ」
「それは『さっぱりした食べ物が好きなのに太っているの』って太っている事を体質の責任にしているって事でしょ」
「そうか。私、食べ物で言い訳していたの?ねぇ?あははは」
「僕は解らないけれど、そう言っているように聞こえた」
「全部解ってしまうのねぇ、一緒にいると」
「チビは太って無いって、普通だよ」
「あの頃はでしょ?今は?」
「それなりに、ねぇ」
「ほら、言われると思っていたのよ」
「じゃあ今日は、本当に食べたいものにしよう、ね」
「もう遅いよ、もっと若いころだったらビフテキだとか言ったけれど、この歳になったらそれこそ
サッパリ系だよ」
「ビフテキって古いなぁ。その言葉、昔だよ。ビフテキって言っていたのは、あはははは」
結局お蕎麦をすすりながらの話が続く
「チビ!」
「何?」
「次のデートはさ、着物でなく普通の服で来てよ」
「なぜ?もう決めているのよ。次はあの着物って。絶対に健ちゃんは喜んでくれると思うけれど」
「じゃぁ、そのおぉ・・・・・次の次は普通の・・・・」
「変な人、私、着物は似合わない?」と不安そうに答えた
僕は焦り気味になって
「いや、とってもよく似合うよ。でも、暑そうだし、たまにはチビの洋服姿も見たいし、カモシカのような素敵な足も見たいなんて
、思ったものだからね」
「たまには?って、今日が初めてみたいなものよ・・・・いつもはっきり言うのに、今日はどうしたの?何か深い意味が有るのでしょ。
いつもそうだったから・・・・・・」
「お願い、チビちゃん!」
「うん、わかった。本当にお願いする時は『チビちゃん!』なんだからぁ」
「そう?気がつかなかった」
「子供が駄々をこねているようで、昔の健ちゃんに戻っているよ。嬉しいけれど変だよ」
「あっ、今日初めてチビに年上を感じたな」
「だって変よ、何か有ったの?私失礼な事言った?」
「いやね、おかしいなぁ、何でもチビに言えたのにね」
「どうしたの?健ちゃん!」
「あのね、チビがとってもきれいな人に見えて『こんなにきれいな人だったのだ』と感じたら、急に美人の前でおどおどしている少年に
戻っちゃって、言葉が出てこない。言いたい事が言えなくなって・・・・」
「きれいな人だなんて、健ちゃん、どうかしちゃった?」
「チビちゃん、あのねぇ、今日は遅くなっても良いの?ねぇいいでしょ?」
「それ、あの意味?」
「うん、チビに久し振り会ったら若さが戻って来たみたいで・・・年上のお姉さんに抱いて欲しくなったの」
「健ちゃんたら、やだぁ。私、もう、おばあちゃんよ。昔みたいに若くないし・・・・私、年上じゃぁないし」
「でも、チビは僕の事嫌いじゃないでしょ?ねぇ、いいでしょ?チビちゃん!」
「そうだけど、今日そんな事言われるなんて思ってもいなかったから、びっくりしちゃった」
「チビの香りを感じながら隣で眠りたい。それだけで心が落ち着く」
「私も、健ちゃんに抱き締められるとそれだけで・・・・」
「ねぇチビ」
「えっ?」
「チビは帰るところ、有るの?」
「帰るところ?・・・・水上(みなかみ)の・・・・」
「違うよ」
「どこ?って?」
「今日チビが、僕の心に休暇をくれたって事」
「なに?健ちゃん、説明してよ、また意味が解らないよ」
「あのねぇ、チビちゃん!一緒に住もうか?チビとなら暮らせるような・・・・我儘な僕が」
「えっ、本当?ねぇ、本当なの?・・・・・・嬉しい」
大きな声だったのに、後の言葉は下を向いて急に小さな声に変っていた
「これからは二人の将来を話そう。昔の楽しい話はたまあぁに思い出して」
「そうねぇ」
「二人で、綺麗な夕陽が沈むのを、見る事が出来そうだね」
「夕陽?見る?」
「そうだよ、僕は朝日が昇る方が好きだけれど、チビの好だった真っ赤に燃えるような綺麗な
『夕陽が沈む』を一緒に見ようって言っているの。解った?説明は必要ないでしょ?」
「二人で『夕陽が沈む』を聴くのでなくて、見るのね?」
「そうだよ。真っ赤な燃えるような人生の『夕陽が沈む』のを見ながら、最後まで沈むのを見届
けるのさ、二人で並んで、手を握りあって『ねぇチビ、昔こうゆう事があったよねぇ』って」
「うん、『あの時、あなたはこうだったのよ』って、ねぇ。私が想い出して教えてあげるの」
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メール 千里街 健
夕陽が沈む