琥珀色の想い

琥珀色の想い

日常からの現実逃避

たった一本の万年筆を手にしたことから

人生が変わる そんなことがあるかもしれない。


 いつものようにドアを開ける。

芳しいほどの香りが身体を包み込む。

思えば何年になるのだろう。


最初は大人への扉を開けて見たかっただけだった。


トーンダウンしたその部屋へ入ることで

日常から逃避したかったのかもしれない

 カウンターの中にいるマスターに目配せする。

この瞬間がたまらなく好きだ。

慣れた足取りで奥の方へ進んでゆく。

 


珍しく奥の席に人がいる。

カウンターに目をやると、
マスターが済まなそうに顔の前で手を合わせる。

よく見ると予約席のプレートが置かれたままだった。 

わたしはいつものように人間観察を始める。

年の頃は三十代前半。
書類バックを持っているから サラリーマンだな。

仕事が忙しくてスーツを手入れする暇もないのかな。
ワイシャツもヨレヨレだし
独身で都内に住んで、そう月日は流れていないか...。


私の視線に気づいたのか、その男性は顔を上げた。

『ここは君の指定席かな?』

『席は決まってないけど、その席に人がいたことないから..』

『そうか、悪かったね 他の席へ行くよ。』

『あっ、大丈夫。私はテーブルのあるところなら 
どこでも構わないから。』

男性は目尻を下げて会釈した。



マスターが珈琲を運んで来た。

「少し前から毎日来ているんだよな。

お昼前くらいまであの状態だよ。」


「そうなんだ。なんかくたびれてるよね。」

「でも何処かのエリートみたいだよ。」


「『エリートの裏の顔』今度のテーマにしようかな。」

「また、新作楽しみにしているよ。」

そう言ってマスターは自分の場所へと戻って行った。



琥珀色の液体を口に含む。

酸味が先に来て、後から芳醇な甘みが広がる。

少し重い風味はキリマンジャロだろうか。


カウンターのホワイトボードに目をやると、

その瞬間、マスターがいたずらそうにホワイトボードを傾ける。

ライトの反射でボードは白く光って文字を消してしまう。


「一作書くまでは答えをもらえそうにないや。」

そうつぶやいて、いつものように万年筆を取り出す。

そして、ゆっくりとそのふたを開けてゆく。

⑥~僕の場合~

その日は朝から体が重かった。
経理から営業へ異動して一ヶ月
靴を一足ダメにしてしまった。

元々文化系のクラブだったから
長時間外にいることなどなかった。

一日中歩いて、足は棒のようになり
倒れそうになった時に
一つの灯りを見つけた。

会社へまだ戻らなくてはいけばかったけれど
吸い寄せられるように 灯りへと向かった。

「ショットバーかな?」

扉を開けると、芳醇な香りで満ちていた。
「あ、喫茶店か。」

閉店間際なのだろう、誰もお客はいなかった。

⑦〜僕の場合〜

マスターらしき男性が「少し休んで行くかい?」
と、奥へ招いてくれた。

お酒はあいにく置いてないけど。

「少しだけ休んだら帰ります。
腰を下ろしたくて、朝から歩き続けたから。」

もう十分も歩けば そこはサラリーマンの聖地だったが、
そんな 余力は残していなかった。

「珈琲でいいかな? お腹は空いているかい?
サンドウィッチでよければ、すぐにできるけど。」

「濃いめでお願いします。」

それだけ伝えると、倒れこむようにソファーに倒れこんだ。

⑧〜僕の場合〜


「できましたよ。」

肩を叩かれて目が覚めた。
どうやら眠ってしまったらしい。

「ハムと玉子だけどうちの自慢なんだ。
ゆっくり召し上がれ。」

そう言って自宅であろう二階へと上がって行った。

閉店時間はとっくに過ぎていただろう。

それでも僕は目の前に置かれた
黄色とピンクのそれに手を伸ばしていた。

琥珀色の想い⑨


一口たべた瞬間
子供の頃の自分がフィードバックしてきた。

決して裕福とは言えない家庭
それでも料理上手の母のおかげで
お腹を満たすには充分なほどの皿が食卓に並んだ。

小さい頃から鍵っ子だった私は
図書館で借りてきた本を読むことが
大好きだった。

ある時はヒーロー、ある時は冒険者
その主人公になることで
知らない国へだって行くことができた。

人が死ぬということが遺されたひとに
どれほどの悲しみを与えるかわかったのも
読んだ本から覚えた。

琥珀色の想い

琥珀色の想い

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-26

Copyrighted
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Copyrighted
  1. ⑥~僕の場合~
  2. ⑦〜僕の場合〜
  3. ⑧〜僕の場合〜
  4. 琥珀色の想い⑨