琥珀色の想い
日常からの現実逃避
たった一本の万年筆を手にしたことから
人生が変わる そんなことがあるかもしれない。
①
いつものようにドアを開ける。
芳しいほどの香りが身体を包み込む。
思えば何年になるのだろう。
最初は大人への扉を開けて見たかっただけだった。
トーンダウンしたその部屋へ入ることで
日常から逃避したかったのかもしれない
カウンターの中にいるマスターに目配せする。
この瞬間がたまらなく好きだ。
慣れた足取りで奥の方へ進んでゆく。
②
珍しく奥の席に人がいる。
カウンターに目をやると、
マスターが済まなそうに顔の前で手を合わせる。
よく見ると予約席のプレートが置かれたままだった。
わたしはいつものように人間観察を始める。
年の頃は三十代前半。
書類バックを持っているから サラリーマンだな。
仕事が忙しくてスーツを手入れする暇もないのかな。
ワイシャツもヨレヨレだし
独身で都内に住んで、そう月日は流れていないか...。
③
私の視線に気づいたのか、その男性は顔を上げた。
『ここは君の指定席かな?』
『席は決まってないけど、その席に人がいたことないから..』
『そうか、悪かったね 他の席へ行くよ。』
『あっ、大丈夫。私はテーブルのあるところなら
どこでも構わないから。』
男性は目尻を下げて会釈した。
④
マスターが珈琲を運んで来た。
「少し前から毎日来ているんだよな。
お昼前くらいまであの状態だよ。」
「そうなんだ。なんかくたびれてるよね。」
「でも何処かのエリートみたいだよ。」
「『エリートの裏の顔』今度のテーマにしようかな。」
「また、新作楽しみにしているよ。」
そう言ってマスターは自分の場所へと戻って行った。
⑤
琥珀色の液体を口に含む。
酸味が先に来て、後から芳醇な甘みが広がる。
少し重い風味はキリマンジャロだろうか。
カウンターのホワイトボードに目をやると、
その瞬間、マスターがいたずらそうにホワイトボードを傾ける。
ライトの反射でボードは白く光って文字を消してしまう。
「一作書くまでは答えをもらえそうにないや。」
そうつぶやいて、いつものように万年筆を取り出す。
そして、ゆっくりとそのふたを開けてゆく。
⑥~僕の場合~
その日は朝から体が重かった。
経理から営業へ異動して一ヶ月
靴を一足ダメにしてしまった。
元々文化系のクラブだったから
長時間外にいることなどなかった。
一日中歩いて、足は棒のようになり
倒れそうになった時に
一つの灯りを見つけた。
会社へまだ戻らなくてはいけばかったけれど
吸い寄せられるように 灯りへと向かった。
「ショットバーかな?」
扉を開けると、芳醇な香りで満ちていた。
「あ、喫茶店か。」
閉店間際なのだろう、誰もお客はいなかった。
⑦〜僕の場合〜
マスターらしき男性が「少し休んで行くかい?」
と、奥へ招いてくれた。
お酒はあいにく置いてないけど。
「少しだけ休んだら帰ります。
腰を下ろしたくて、朝から歩き続けたから。」
もう十分も歩けば そこはサラリーマンの聖地だったが、
そんな 余力は残していなかった。
「珈琲でいいかな? お腹は空いているかい?
サンドウィッチでよければ、すぐにできるけど。」
「濃いめでお願いします。」
それだけ伝えると、倒れこむようにソファーに倒れこんだ。
⑧〜僕の場合〜
「できましたよ。」
肩を叩かれて目が覚めた。
どうやら眠ってしまったらしい。
「ハムと玉子だけどうちの自慢なんだ。
ゆっくり召し上がれ。」
そう言って自宅であろう二階へと上がって行った。
閉店時間はとっくに過ぎていただろう。
それでも僕は目の前に置かれた
黄色とピンクのそれに手を伸ばしていた。
琥珀色の想い⑨
一口たべた瞬間
子供の頃の自分がフィードバックしてきた。
決して裕福とは言えない家庭
それでも料理上手の母のおかげで
お腹を満たすには充分なほどの皿が食卓に並んだ。
小さい頃から鍵っ子だった私は
図書館で借りてきた本を読むことが
大好きだった。
ある時はヒーロー、ある時は冒険者
その主人公になることで
知らない国へだって行くことができた。
人が死ぬということが遺されたひとに
どれほどの悲しみを与えるかわかったのも
読んだ本から覚えた。
琥珀色の想い