恋路鉄道

フリーラーターの男は仕事の関係で福岡を訪れた。
どこもかしこも住む東京に比べれば活気がないと思っていた時、地下鉄で一人の女性に手を差し伸べる。
満員電車に慣れていないという彼女との出会いが、男の恋路に線路を作り出していった。
真夏の福岡は今日も暑い。その街下で、誰かが恋に落ちていく。

暑い街の下で、恋が走りだす。

 福岡は想像よりも活気づいていない町だと思った。
 地下鉄は三路線しか伸びておらず、路線が幾度にも重なり複雑に伸びた東京と比べて、四方向に別れた分かりやすい路線図が地下券売機の上には展開されていた。
 夜にもなれば鉄道に乗る人もまばらだ。とくに平日ともなればほとんどの客が博多駅で降りてしまうから、空港から中洲川端、天神に連れてどんどん乗客が減っていくのである。
 来福(らいふく)した初日は地下鉄を降りてもホテルまで十数分と歩かされた。真夏日の下で汗がワイシャツに滲み、脇には汗染みが浮き出てしまっていた。
 ホテルにて朝シャンをしたのに既に肌はベタ付いていた。今日もグレーのワイシャツには汗が染みている。嫌悪感は否めず、(ゆえ)に俺の福岡の旅はしょうもない文句から始まってしまったのだった。
 プライベートで来ているわけではなく、仕事の一環である。フリーライターは収入こそ不安定ではあるがやり甲斐のある仕事だ。
 今回の目的は取材である。雑誌会社からの依頼で、福岡の恋愛事情について記事をまとめてほしいとのことだった。
 滞在期間は二泊三日と決めている。事情によって延長することも考えていたが、昨日一日の取材でその必要はないと判断していた。
 早く取材を終わらせて福岡を観光でもしよう。二日目である今日は早々にホテルで朝食を済ませ、見た目が固くなり過ぎないようマリン柄の入った白地のネクタイを締めて、さっそく仕事へと出かけることにした。
 移動手段は全てが地下鉄である。主に博多駅、中洲、天神を中心に取材を試みる予定だから、それ以外の交通手段を使う必要がないのだ。昨日は博多駅を終わらせたから、今日は中洲からである。
 朝ともあってサラリーマンや学生の姿が目立っていた。さすがにこの時間の地下鉄は混んでいる。クーラーの風よりも人の体温や吐く息で熱気が湧き、生ぬるい車内は最悪な程に湿度で満たされていた。
 中洲川端駅に到着すると、人を押し合うように電車から出た。体内の空気を入れ替えるように大きく深呼吸しつつ、何とも言えぬ解放感にふと力を抜く。
 ほとんどの人が博多駅を目指しているらしく、俺以外に降りる客はあまり見受けられない。むしろ乗車客が次々に長い箱に押し入り、密度は自分がいたときよりも更に酷い状況に見えた。
 車内を眺めるのもそこそこに踵を返そうとしたとき、一人の女性と不意に目が合った。肩や腰で周りの人を押し返そうとするも、苦しい表情を浮かべるばかりで身動きがとれていない。
 入り口に立つ腹の出た巨体のサラリーマンたちに阻まれ、電車から降りられない状況だということが一目で分かった。
 ドアが閉まるアナウンスが流れだす。
 咄嗟に体が動いた。ドア(ふち)に手を当て手探りで彼女の腕を掴む。そのまま思いっきり自分の方に引くと、女性の小柄な体が人の大群から飛び出てきた。俺の胸で受け取ると、直後にドアが閉まって電車は発車する。
 生ぬるい風を浴びながら、彼女を見下げた。
「大丈夫ですか?」
 早々に胸から彼女を離す。
 ふんわりとした茶色いセミショートヘアに、耳には小さなピアスが垂れている。鼻は小さく筋が通り、比べて大きく丸い瞳で驚いたように俺を見詰めていた。
「え、あっ、あのっ、どうもありがとうございました!」
 女性は俺から数歩下がりながらも深々と頭を垂れた。
「いや、気にしないでください。この駅で、降りるつもりだったんですよね」
 ()くと、彼女は一つ頷き照れた表情を浮かべて見せる。
「驚きました。電車って、こんなに込むものなんですね」
 その言葉に俺は首を傾げてしまった。つい苦笑が漏れ、こんなことを言ってしまう。
「込まない電車があるのですか?」
「だって、私の町の電車は、空席が目立つくらいガラガラなんですよ」
「それは」
 すごく田舎町ですね、と言おうとしたが(すん)でのところで止める。
「この町は大変でしょう」
 代わりに言葉を変える。彼女は苦笑すると、人混みで乱れた青いアサ生地のカーディガンを整え始めた。
「こちらに姉が住んでいるもので、たまには遊びに行こうと思い立ったのですが、ちょっと気が早かったかもしれません」
 エスニック柄のロングスカートのシワを伸ばして彼女は言う。田舎と都会のギャップに驚いていることが手に取るように分かった。
 必死に片手に握っていたキャリーバッグを持ち直す。これがあるから出られなかったのだろう、と俺が独りでに詮索(せんさく)していると、彼女の目がこちらを向いていることに気付いて顔を上げる。
「本当にありがとうございました」
 その言葉を最後に、俺達は互いに頭を下げ合い、別れた。
 ホームからエスカレーターに乗る小さな背中を見詰めながら、俺は手の平に残った彼女の感覚と温かみを感じていた。胸に押し当てられた額の感触と、ふわりとした甘い髪の匂い。姿のなくなったエスカレーターの階段を見たまま、ホームに立ち尽して余韻(よいん)に浸る自分がいた。
 その後の仕事は順調に進んでいった。中洲川端駅の階段を上がって直ぐ目の前にある川端商店街を中心に取材を試み、近くのカフェで情報をノートパソコンにまとめていく。物足りない個所を見つけては、場所を変えて取材をする。
 その作業を繰り返し、素材が十分に収集できたときはまだ昼の一時を回っていなかった。
 そのままの流れで、明日に回すはずだった天神での取材も試みた。若者向けの店が多く並び、背の高いビルが目立った街では人の数も一気に増えていた。ここでの収穫も順調といったところだろう。
 遅めの昼食をとりつつ記事をまとめ、仕事が終わったのが夕方の四時である。思惑どおりに事が進み、時間が十分に余ったこともあって、夜は一人で福岡グルメでも堪能しようと考えた。
 ひとまずホテルに荷物を置き、財布と汗拭き用のハンカチだけを手に持って大名へと繰り出す。
 夜も近づくと、居酒屋の看板が蛍光灯に照らされ目立ち始めた。
 気になった店に入っては、料理を中心に腹に入れて、酒を一杯飲んだ。数十分ほどで店を後にし、また違うところに入っては同じように食事をする。
 福岡の料理は絶品だとよく聞いていたが、実際に食べてみてそれが本当だと噛み締めて実感した。酒とよく合う飯ばかりで、差ほど強くもないのに一人酒に浸ってしまう。夜の九時を回る頃には、足がふらつくほどに酔ってしまっていた。
 そろそろホテルに戻ろう。酒を飲んでも呑まれるな、だ。手すりに体重をかけて天神の地下鉄へと降りる。どうも酔いが回りすぎていて立つこともままならなかった。ベンチに座り一つ呼吸を落ち着けていると、ホテルのある赤坂行きの電車が到着した。
 ふらつく足取りでドアへと向かう。しかし、電車から降りる客が思ったよりも多かった。いつもなら何ともない人の波も、酔っていることもあって思うように車内に入れない。
 アナウンスが鳴る。ここまできて乗り過ごしたくはない。覚束ない足をどうにか前に出そうとしたそのとき、何かが俺の手首を握った。
 まるで重力が前にかかっているように、そのまま体が車内に吸い込まれて行く。ドアの閉まる音が聞こえ、突発的な揺れと共に電車が発車した。
 (うつ)ろな視界の中で甘い香りがする。くすぐったい感触が頬に当たり、それが髪の毛だと認識したときには、俺は反射的に体をのけ反らせていた。
「大丈夫ですか?」
 聞き覚えのある言葉と声が耳を通り抜ける。朝に会った小柄な女性が、目の前に立っていた。
「あ、ど、どうも!」
 声が上擦る。酒で赤くなった自分の頬を撫でまわし、ハンカチで額の汗を拭う。思わぬ出会いに混乱してしまう。
「お酒、飲んだんですか?」
「はい、ちょっとのつもりだったのですが、調子にのってしまい」
 言葉の途中で、思いだして俺は咄嗟に頭を下げた。
「あ、というかすみません! なんだか迷惑をかけたみたいで」
彼女はフフッ、と上品に笑って見せる。
「朝とは立場が逆ですね」
 その言葉に、俺は照れずにはいられなかった。再会がこんな見苦しい姿だなんて、頭も上げられないほど恥ずかしい気持ちになる。
 ふと見ると、彼女の側にキャリーバッグは無くなっていた。薄いピンクのバッグを一つ両手に下げている。
「お姉さんのところ、無事に行けたんですね」
「えぇ、電車を間違えたりしてしまいましたけど」
 苦笑する彼女に、俺は頭を掻いたり頬を撫でたりと忙しなく手を動かし、目を泳がせる。緊張を隠すことができないでいた。
 突然電車が揺れた。
 満員電車と違い隙間が空いているせいでバランスを崩し、転ぶ寸でのところでなんとか手すりに両腕をくくり付ける。溜め息が漏れ出た。
「電車には、慣れているんじゃありませんでしたっけ?」
 首を傾げて言う彼女のその言葉は、無邪気さの中に皮肉が混じり合っていた。好意があるからこその言葉なのだと感じることができる。何故だか分からないが、それが不意に、俺の背中を押していた。
 照れて頭を掻きつつ、不器用に口を開く。
「今からどちらに?」
「いえ、もう帰るところなんです」
「あぁ、そうなんですか……」
 人の都合も考えず、残念だと思ってしまう。しかし彼女の顔を見詰めると、諦めきれず、いてもたってもいられなくなる。
 彼女もこちらを見詰めては、首をかしげて小さく微笑んでいる。頬にほんのりと赤みがさしているのは、気のせいだろうか。
「あの――」
 緊張の糸が張ったような声が、電車の振動と共に流れていった。
 心臓がうるさい。人の少ない地下鉄の中、活気がないと思えた福岡の町の小さな一角で、二人の鼓動が騒がしく鳴っていく。
 福岡の夜は、想像よりも暑かった。

恋路鉄道

初めに、『恋路鉄道』を読んでくださり、ありがとうございます。
短編というよりは掌篇です。原稿用紙で言うと10枚そこらで仕上げました。
まさに電車で揺られる数分間で読める作品なのではないでしょうか。3分クッキングにも負けないこと請け合いでしょう。

さて今作品。場所を「福岡」に限定して描き上げております。
私が福岡在住ということもあり、また最近受けた感覚や衝撃をそのまま文にまとめたような物語です。
いえ、ヒロインはフィクションです。私の人生は平凡そのものなのです。
ちなみに元は熊本出身ですので、福岡に来た当初はこの男みたいに捻くれた感想などではなく。「うわーすげー、ビルが高ーい」と口をあけて驚いたものです。
それから数年後、東京に行ったときにこのような男の感想へと変わり果ててしまったのですが……
ちなみに飯は美味しいです。絶品です。グルメなら、是非福岡へ。

読まれた方はお気づきでしょうが、この物語に出てくる主人公の「男」とヒロインの「女」。
名前をあえて書いておりません。
決して書き忘れではなく、読者の皆様が身近な人物、もしくは憧れの人、または頭の中だけの恋人に名前を当てて妄想していただければと思い、このような形に仕上げました。
小説とは自由なもの。考え想像することこそが真骨頂でしょう。
この数枚に綴られた物語を、是非あなた方の手で広げていただければと思います。

それでは、またお会いしましょう。

恋路鉄道

フリーライターの男は仕事で福岡を訪れる。 満員電車の地下鉄から降りると、降車に手間取る女性を助けてあげることに。 礼を言う小柄で美しい彼女に、男は心惹かれていく。 仕事を片付け、福岡の街を散策し終えて乗車した地下鉄で、男は運命の再開を果たすのだった――

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-26

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND