ペンギンだったら簡単に描ける。
靴と中年女。
靴がない。いや、ないわけではないのだけど、服装に合わせる靴がない。このままでは恥ずかしくて、映画に行けない。いや、私のような中年女性に、世間は目もくれないだろう。誰も私なんて見ない。わかっている。でも恥ずかしい。靴が欲しい。
とりあえず、映画は行こう。映画に行くことは、昨日から決めていた。検索して、口コミを読んで、「アバウト タイム」という映画を観ると心に決めていた。昨日の自分を裏切れない。映画に行く。靴はないけど、映画には行く。・・・靴は、途中で買えば済むことだ。
で、だがしかし、いざ街へ出てみると、靴がない。いや、たくさんあるよ。たくさん売っているのだけれど、欲しい靴がない。買える靴がない。
駅ビルに行き探す。価格が安くて若い子向け、うん微妙。簡単に買えるんだけどね。でも微妙。百貨店に行って靴を探す。値段が倍になった。でも質もちょっと上がる。恥ずかしくない靴たち。でも、欲しくない。だって購入しても、値段のわりに履く機会はほとんどない。とんがって、オシャレなふりして、女の匂いを振りまく靴売り場のヒールやブーツたち。それらを履く気合いも、私にはない。機会も気合もない。欲しい靴がない。
やはり、私は女の旬が過ぎた中年女性だなと、靴を探しながら残念な気持ちになった。女として武装して、つまりオシャレして戦う気力もなければ、戦える見た目でもない。服装も、体型隠して、かろうじて季節に合った恥ずかしくないものを着るだけ。この、恥ずかしくない、がポイント。オシャレができなくなった女の選択肢は、「恥ずかしくない」しかない。さらに、自分なりに恥ずかしくない服装をしたつもりでも、それに合わせる恥ずかしくない靴が見つからないこの始末。
うろうろ靴を探し求めたあげく、結局駅ビルにある若い子向けショップで、適当なものを購入した。ここで言う適当とは、適度な、ではなく、わりとどうでもいい感じで、という意味である。服装に合わせて、黒の、形はブーティみたいな感じで、ヒールが太く履き心地が安定した靴選んだ。若い頃のような、買い物後の高揚感はない。致し方なく、別にこの靴じゃなくてもいいんだけれど、他に探すのがもう面倒で、とりあえずこれにしたという残念な感じ。
自分が若かった頃、まだ体重が40キロ台だった頃、世界はもっとキラキラしていた。着るものも、メイクも、毎日変えた。カワイイを連呼し、カワイイと言われた。でもあの頃、本当に欲しかったブランドの、靴やバッグは買えなかった。オシャレはバイト代との戦いで、いつもお財布に余裕はなかった。今は違う。あの頃欲しかったブランドの、靴やバッグに手が届く。でも、もう私には必要ない。欲しいとも思わない。
人生は、いつも何かが不足している。あの頃の私にあったものが今の私にはなく、今の私にあるものがあの頃の私にはない。秋深し、哲学的だ。この哲学は哀しみに満ちている。年を重ねる哀しみ。はい、そんな戯言はどうでもよく、そろそろ会社に出勤せねばならないのだけど・・・、今日は着る服すら、決まらない。恥ずかしくない服・・・
もう全身黒でいいや。
ポテンシャルと疲労。
塾講師をしていた友人男が、「ポテンシャル」という言葉を、よく使っていたことを思い出す。ポテンシャル、意味を検索しようと思ったが、なぜかiPadに圏外の表示が。今日は天候が悪い。外は嵐、強風と強い雨。あ、4Gの表示に戻った。でも、もう面倒だから検索しない。
私にはポテンシャルがない。私の能力は、絶賛頭打ち中。つねに限界。仕事はできないし、今後できるようになる可能性はない。
別に仕事ができなくても、困ることはない。(・・・首にさえならなければ。)どこの職場にも、仕事ができない奴は必ずいるし、仕事ができない奴のための仕事も存在する。「全員エリートですから」みたいなすごい奴集団の職場も、この世界には存在するのだろうけど、現実的に多くの職場は、仕事ができない奴も抱えながら、なんとなくやっていけている。(あくまでも、推測だけど。)
問題は、仕事ができない自分を、受け入れられるかどうかだ。自分自身が、他人の足を引っ張り、迷惑をかけている存在であるということを、受け入れることは難しい。一般的に多くの人は、自己有用感が自己の存在の支えになっているはず。自分は誰かにとって役立つ存在で、自分が関わる世界に対して貢献しているという存在意義が、自分自身を支えている。自分が役立たずな人間であるなんてこと、誰にとっても受け入れがたいことだ。私にとっても。
私は私が、能力頭打ち人間だなんて、仕事できない人間だなんて思いたくない。でも実際、仕事はできない。どれだけ会社に迷惑かけているか、は推して測るにさほどでもないけど、会社に対して特に利益をもたらす存在でもない。悲しいな。頼りにされる、仕事できる、かっこいい自分は存在しない。かわりに、要領悪く、取り掛かり遅く、締め切り守れず、愚痴ばかり多い自分が存在する。
しかし話は戻るが、別に仕事なんてできなくても困らないのだ。(クビにならない限りは。) 仕事がなければちょっと困っちゃうが、仕事ができないくらいで死にはしない。いや、世間には、仕事を苦にしてこの世を去る人もいるが。でもね、仕事だけが、当たり前だけど人生じゃないのよ。生きることは、働くことじゃないのよ。24時間働けますか、冗談じゃない働けるかっての。
でも私にとっても、仕事は大切で、本当は仕事できる人間になりたいのよ。
もしも私が独身でなければ、子どもがいたら、仕事なんて2の次、3の次だったでしょう。でも悲しいことに、私にとって仕事は大きなものである。だって24時間は無理だけど、少なくとも1日14時間は仕事をしてるもの。友だちと話すより、職場のおじさんと話す時間の方が多いもの。仕事以外に、やりたいこと、やらなきゃいけないことがないもの。
仕事は私に、成長をもたらしてくれるとずっと信じてきた。もっと仕事ができる人間になりたいと、役立つ人になりたいと思ってきた。本当は、出世だってしたい。しかし、私にはポテンシャルがない。アラフォーという領域に突入し、最近ひしひしと感じるには、自分の能力のなさだ。私の能力は、絶賛頭打ち中。やればできる、今からできるようになっていく、そんな希望が持てた20代と30代初頭は過ぎ去った。
年齢を重ねて思うことは、本当、疲れるね。ポテンシャルもない上に、年を取ると疲れが抜けず、できない上にさらにできなくなっていく。こうやって会社のお荷物ができあがるのね。悲しい。
ちなみに友人男の塾講師は、やたらポテンシャルという言葉を使っていたけど、本人にはそのポテンシャルはなかった。人は皆、変わっていくのに、彼は変わらなかった。数年ぶりに会う友人って、家庭環境が大きく変わってたり、話す内容や本人の感じ方、価値観や話す内容が変化しているものだ。でも彼は、数年ぶりに会った時も、まだポテンシャルという言葉を使い、まだ知ったかで世間の批判を繰り返していた。
私も、そうなのかな。
私自身ではわからない。友だちに、どう思われているのだろう。
パンジーとビオラ。
明日は休日出勤だ!…と意気込んでいたのは昨日まで。今朝になってみると、全くやる気が起きない。ベットの中で、Twitter閲覧。たくさんの見ず知らずの人が、それぞれに、たいしたことない今を生きている。昨日の夜からのタイムラインを、何の関心も持たずに追いかける。
と、そこで同居中の両親が、我が家の犬を連れて外出。父の車の、エンジンの音がした。今日は、犬の通院の日だ。犬も年を取ると、色々と具合が悪くなり通院生活を送る。人間のお年寄りと同じ。ただ保険がないのは、ちょっぴり痛手。
誰もいなくなった我が家で、私はふと、やらなきゃいけないことを思い出した。昨日、花の苗を買ったのだ。パンジーとビオラと、シクラメン。
我が家には、私専用の花壇がある。園芸の知識は全くないけど、なんとなく私はそこに花を植える。前回植えたのは、いつだったか。初夏だったか、夏の終わりだったか。私は何をしても無計画なので、花壇も枯れたら植えるの繰り返し。昨年の冬には、植える余裕がなくて、花壇は土のみだった。と言うより、冬は植物が枯れるものだと思っていたので、それでよかった。
冬に花は咲かない、思っていた。しかし、冬も花は咲くのだ。
暇つぶしに、仕事帰りに立ち寄った園芸センターで、パンジーとビオラは絶賛セール中だった。シクラメンコーナーも主役を張っていた。衝撃である。そうだ、冬にだって花は売っている。知らなかったわけではない。パンジーの存在も、ビオラの存在も、私は知っていた。ただ、彼らが活躍する季節が、冬だとは知らなかった。そして冬に花は咲かないと、私は確かに思い込んでいた。しかし同時に私は、冬に花が咲くのを知っていた。だって約40年も生きてきたのよ。見たことあるに違いないじゃない。ただ意識してなかっただけ、思い込みだけで日々を過ごし、興味のないものに目をやらなかっただけ。
と、園芸センターでの花々との衝撃の出会いはそれとして、私はそこでは苗を買わなかった。だって園芸センターの苗は高いもの。改めて昨日、ホームセンターで、パンジーとビオラとシクラメンの苗を買った。
両親と犬が出かけている間、私はせっせと自分の花壇に苗を植えた。しかし、やり始めると止まらない。どうせならもっと花でいっぱいにしたいと、両親と犬の帰宅後、追加の買い出しに行った。そこでまた飽きずに、パンジーとビオラとシクラメンをいくつか買った。そして植える。
私の花壇は、色とりどりの花でいっぱいになった。春夏は白い花をメインに植えていたが、秋冬の花壇である…パンジーとビオラの鮮やかなイエローと紫、シクラメンの赤と、はっきりとした深みのある配色が魅力的だ。
でもまだ植えたい。
結局その後仕事行き、帰りにまたホームセンターに立ち寄り、名前の知らない白い花や、とにかく寒さに強いらしいピンクの花や、クリスマスローズを購入し、倉庫に転がっていたプランターに植えた。
冬に花が咲くのか。
冬のグレーの空に、冷たい空気の中に、色鮮やかな花が咲き乱れるのも確かにいい。世間の園芸センターやホームセンターでは、パンジー・ビオラ祭り(シクラメンもあるよ。)だが、それら以外に耐寒性の強い育てやすい花はないのだろうか。まあ、やっぱり冬だし、そもそも植物は枯れる季節だし、選べるほど冬の花の苗ってないのかもね。
ちなみに私は、パンジーよりビオラが好きです。
犬と大学病院。
犬も夢を見るらしい。
寝ながら尻尾を振ったり、寝言を言う。どんな夢を見るのだろう。その夢に、私は登場するのだろうか。
書きながら、ちょっと涙が出てきた。私の、正確には私たち家族の犬は年老いている。彼専用のベッドに横たわる、そのまるまった背中を見ていると、いつか来る別れが本当に寂しくて、寂しくてたまらない。
固形のゴハンを、あまり食べなくなった。ふさふさの毛が白くなった。目が白っぽくなった。尻尾が下がっている。時々、足が痙攣を起こす。でも、まだまだ元気な、おじいちゃんわんこだ。私は彼を親友だと思っているし、心から愛している。
でも、人間なんて身勝手なものだ。あ、私が勝手なだけか。私は、彼が求める愛情を、与えることができているのだろうか。
話ができれば、言葉で伝えることができれば「愛している。」と言うことができる。それができないのだから、触るしかない、抱きしめるしかない。もっと抱きしめなければ、後悔する。
今日は病院で、彼は注射を打ってもらった。帰宅してから、彼は落ち着かなかった。痛かったのだろうか、気持ち悪かったのだろうか。病院の先生に「足の痙攣が続くようならば、大学病院に紹介状を書きますが。」と言われたらしいが、犬が大学病院なんてねえ…と母が笑った。
彼が少しでも元気に、少しでも長生きして、苦しんだり辛い思いをせずに私たちのそばで眠ってくれたらいい。深夜にこんな文章を書くと、ものすごくナーバスなお涙頂戴になるけど、彼はもしかすると意外なほど長生きするかもしれないし、先のことなんていつだってわからない。
しかし、犬が大学病院か…。なんかものすごく、お金かかりそうね。彼のためにできること、愛することと、そして貯金。先のことなんて、わからないからね。
とりあえず、愛してるよ。
ペンギンだったら簡単に描ける。