鶴を折る指

鶴を折る指

 鶴を折る指が好きだ、といつも思う。
 この古書店の奥座敷で、冴子はいつも鶴を折っている。幾色の鶴に埋もれるようにして彼女はそこから動かない。一羽折っては横に置き、また一枚の色紙を取る。そうして時間を数えるように、一羽一羽、彼女は色とりどりの鶴を生み出していく。
 彼女を初めて見たのは二カ月ほど前、僕が高校に入学してまもない頃だった。その日僕は授業で使う参考図書を探しに、偶然その古書店を訪れたのだ。その古書店はちょうど学校と家との間にある、個人経営の小さな店だった。日除けの暖簾は元は朱色ででもあったのだろうか、今はすっかり日焼けして薄い肌色だか桃色だか分からない色になっている。
 暖簾をくぐるとすぐ右が会計になっていて、会計台の向こうに色の黒くて寡黙そうな五十代くらいの男が新聞を広げていた。僕は書棚を見回しながら奥に進み、目当ての本を探していた。僕が近代文学の棚の前に立ったとき、春特有の強い風が店の表からではなく奥の方から吹き込み、僕の足元に一羽の水色の鶴が舞い降りた。
 僕は鶴を拾い上げ、それがやって来た方へと目を向けた。本棚で半分隠れた入口の隙間から、まずは畳に散らばる色鮮やかな鶴の群れが見えた。そしてその真ん中に、風にあおられた黒髪を耳にかける、美しい冴子の横顔が目に入った。冴子は僕の視線に気づくとゆっくりとした動作でこちらを向いた。胸の上まで伸びた真っ直ぐな黒髪に細いフレームの銀縁眼鏡。レンズの奥の瞳は睫毛でくっきりと縁取られ、その下に小さな鼻と小さくふっくらとした唇がくっついている。
「それ」
 と冴子が言う。僕は放心していて、その言葉の意味するところに気づくのに数秒かかり、やっと今僕が手にしている折鶴のことだと理解した。
「あ、これ……」
 冴子のいる座敷は一段高くなっている。冴子が立ち上がる様子はない。彼女の目は僕に「上がれ」と言っているようだった。
 僕は入口の会計台を見遣った。店主の男は気付いているのかいないのか、未だ新聞から目を放す様子はない。僕は躊躇いながらもおそるおそる靴を脱いで座敷へと上がった。
「あの……どうぞ……」
 僕が拾った鶴を差し出すと、冴子は無言でそれを受け取り、目の前の座卓に無造作に置いた。そしてまた一枚紙を繰り、三角に折りはじめる。僕はどうして良いか分からず、子供のようにその場に立ち尽くしてしまった。視線は自ずと彼女の指先に集中する。色紙を端正に折り出していく冴子の白くて細い指先。それはここから離れるのが勿体ないと思わせるのに十分だった。
「何をしているんです」
 僕が問うと、
「鶴を折っているの」
 と、ごく簡潔な答えが返ってきた。想像していたよりも声は低い。僕はまた言葉を見失い、再度立ち尽くすはめになった。
 開け放たれた窓から春風がカーテンを二、三度揺らす間、僕はぐるりと部屋を見回した。といっても、その部屋にはほとんど何も置いていなかった。冴子の座る座卓と、背面の階段下に小さな箪笥。冴子の正面には押入れと、床の間のような狭いスペースに古そうな本が何段か積んである。特に僕の気を引くようなものもなく、冴子の指に視線を戻すと、彼女は小さく息を吐いて、「座ったら」と僕に言った。
 僕は言われるまま座卓をはさんで冴子と向かい合うように座った。冴子は薄らと化粧をしていた。年は二十歳を越えたくらいだろうか。僕は冴子の指先に見惚れていたが、彼女はそれを気にもかけず着実に鶴を折っていく。そうして二羽折り終わったところで、冴子は風のような声で
「君、名前は」
 と僕に訊いた。
「辺見です。辺見啓介」
 あなたは、と訊き返すと、冴子は手許に視線を落したまま、「冴子」とだけ答えた。
 それ以来、僕は週に一度この座敷に通っている。

 冴子はあまり喋らなかったけれど、僕のことはよく訊いた。学校のこと、家族のこと、好きな本や音楽のこと。だから冴子は僕のことをよく知っている。しかし六月も終わりに近い今となっても、僕が冴子のことで知っていることは少ない。それでも、冴子の話す断片的な内容から彼女のことを推測することはできた。
 年は今年で二十三になるということ――これは思ったよりも年上だった。古書店の店主は彼女の叔父で、高校を出てから近くの大学に通うため居候させてもらっていること。大学では英文学を専攻していたこと。今は家事と店のアルバイトというかたちで引き続きここに住んでいること。そして、恋人が重い病気で入院していること。その彼のために、こうして鶴を折り続けていること。
 僕は彼女に、その恋人の見舞いには行かないのかと訊いた。こんな部屋に閉じ篭って一日中鶴を折っているなんて遣る瀬ない話だ。しかし彼女は表情一つ変えず、「彼とは会えないの」と言っただけだった。
 僕には冴子が鳥籠の中の鳥のように思えた。窮屈な籠の中から一生出られない可哀相な美しい鳥。折鶴のように空を飛べない憐れな鳥。そして彼女を籠の中に閉じ込めている恋人を恨んだ。同時に、冴子を、冴子の心を一人占めしているそいつに嫉妬した。
 僕は彼女に恋をしていた。憧れと言ってもいい。
 焦がれたのだ。彼女が鶴を折る、その白い指先に。

 その日も僕は彼女のいる古書店へと向かっていた。雨が降り出しそうで降り出さない、灰色の、低く雲の垂れ込めた学校帰りだった。
 入口の引き戸を抜けて会計台の前を通り過ぎる。少し白髪の混じった不愛想な店主も僕のことは黙認している。
 彼女は今日も飽きずに鶴を折っていた。床には散らばった無数の折鶴。部屋の隅に置かれた段ボールの中には、今まで折ってきた鶴たちがひと纏めに詰められている。僕は鶴たちを踏まないように気を払いながら歩を進め、座卓をはさんだ彼女の向かい、すっかり指定席となった場所に腰をおろした。僕はその日、一つの決心を胸に秘めていた。
「あの」
 と、意を決して僕は言いかける。彼女の手は止まらない。だがそんなことは気にせず僕は言葉を続けた。
「鶴を折るのはやめにしましょう」
 彼女の手は止まらない。
「外へ出て、もっと楽しいことをしませんか」
 暫しの沈黙が流れて、冴子が一羽折り終えた。
「楽しいことって、どんなこと?」
 こちらも見ずに冴子が言う。
「散歩をしたり、買い物をしたり。電車に乗って少し遠くまで行くのも良い」
「どうしてそんなことをするの」
「どうしてって、あなたはこんな鳥籠のような部屋に縛られる必要はないから。会えもしない人のために鶴を折り続けるのなんて不毛ですよ」
 僕の語調はだんだん強まり熱をもってくる。
「――だからもう、終わりにしましょう」
 冴子はふっと息を吐いて、また一枚、色紙をめくった。それが答えだった。
「どうして……」
 僕は地団太でも踏みたい気持ちで新たに生まれゆく鶴を見ていた。見たこともない彼女の恋人の影が脳裏をちらつき、羽虫に纏わりつかれたときのように苛々とした。部屋を埋め尽くす鶴たちは決して彼の元へは飛んで行けないのに、揃いも揃ってみんな彼の夢を見ているというのか。その空想がまた儚げな彼女に似合っていて、僕は奥歯を噛み締めた。
「僕が病気で入院したら、あなたは僕のために鶴を折ってくれますか」
 僕が縋るような思いでそう問うと、冴子はやっと顔を上げて、ほんの少し、微笑んだ。
「辺見君、君は少し私に夢を見すぎている」
 彼女は私にも一枚黄色の色紙を寄越し、「君も折って」と言った。
「夢を見すぎているなんて、そんなこと……」
 僕は仕方なく紙を受け取る。
「病気の恋人がいるなんて言ったけど、あれ、嘘よ」
 無邪気に話す彼女の言葉に思わず折りかけた手が止まる。
「え?」
「ほら、手を止めない」
 彼女は僕の動揺を見透かして楽しそうに自分の鶴を折っていく。何だか彼女が急に自分の知らない人間になった気がした。
「ごめんなさい。悪気はなかったの。でも、あんまり君が純粋だから、つい私の方もあなたの思うような儚げな(ひと)を演じたくなってしまって」
 冴子が僕を真正面から見つめる。銀縁の中のくっきりと縁取られた目。でも、僕の知っている冴子ではない。
「でも、そろそろ潮時ね」
 冴子は淡々と言葉を紡ぐ。いつもより饒舌な彼女に僕は戸惑いを隠せない。
「私、叔父さんと寝てるのよ」
 小さく可愛らしい口が、確かにそう動いた。
 僕は微動だにできなかった。
「初めてしたのはそう、私が君くらいの歳のとき。あの頃私はまだ実家にいて、叔父さんが居候だったの。初めてで痛かったし、怖かった。無理やりだったのか合意の上だったのか、今ではよく分からない。だけど、あんまり嫌じゃなかった。でもそれが親にばれて、叔父さんは家にいられなくなった。噂って不思議で、どこから洩れたのか知らないけれど、そのことは親戚みんなが知るようになって、私たちは家族の恥になった」
 冴子は事も無げに色紙を折っていく。
「両親はね、私のこと汚物を見るような目で見るの。私が誘ったと思ってるのよ。私、あまり良い子じゃなかったから。それから家の中が息苦しくなって、家に帰ることが少なくなった。色んな人のところに泊めてもらった。もちろん、それなりの対価を支払って……。親にそんな視線を向けられてるとね、本当に自分が汚いもののように思えてくるの。だから、そのときの私はどうせ汚いのだから何してもいいやって、投げやりな気持ちになってた。その結果、本当に汚れてしまった。優しい人もいたけど、酷いことをする人もいた。挙句は暴力ばかり振るう人に捕まって、命の危険すら感じたの。そこからやっと逃げ出して、でも家には帰りたくなくて、結局行き着いたのが叔父さんのところ。大学に行かせてくれたのも叔父さんよ。だから私、ちゃんとした生活をして真人間になろうって思ったの。でも駄目ね。大学に入ってみればみんな何も知らないような呑気で平和な子供ばかり。嫌でも自分の汚さを思い出させる。両親の汚物を見るような目を思い出してしまう。だからもう、」
 疲れちゃった、と冴子は独り言のように言った。「何も知らないような呑気で平和な子供」には自分も含まれているのだと僕は悟った。
「君はここを鳥籠のようと言ったけれど、私は自分でこの籠の中に入ったのよ」
 冴子は鶴を完成させると、手のひらに乗せてふうっと吹いた。折鶴は勿論羽ばたくことなく、あっけなくぽとりと落ちた。私みたい、と冴子が小さく呟いた。
「狭い籠の中だって、どうせ飛べない鳥になら案外居心地の良いものよ」
 今君がいるこの部屋で、と冴子は鶴の散乱する座敷を見回す。
「私たちが毎晩、何をしていると思う?」
 冴子が妖艶に微笑み、僕はかっと顔が熱くなるのを感じた。
 冴子の細く白い指が店主の浅黒い肌に食い込む様子が、生々しく脳裏に映し出されたためだ。
「僕、帰ります」
 慌てて立ち上がり、逃げるように部屋を出た。くしゃりと足下で鶴が潰れた。
 靴の踵を踏んだまま店を出るとき、店主の顔を見ないよう下を向いて走り抜けた。
 冴子の白い指先だけが瞼の裏に焼きついていた。
 それから後、鳥籠の古書店には行っていない。

鶴を折る指

初投稿作品です。

鶴を折る指

僕は古本屋の奥座敷で鶴を折り続ける彼女に恋をした。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted