仕返しは皆の前で

         
 同人雑誌『火炎』の主宰田代健一はセックスが異常なくらいに好きだった。それだけならまだしも権力者的でセコい性格をしており、しかも人の上辺だけを見てものを言う。入会して日の浅い山川雄太は、彼の皮相的な見方が気にいらなかった。最初の合評会の二次会で沖縄料理のスナックに連れていかれた。そこは池袋の西口にあり、魅力的なママがいた。年齢相応に肉が付き、胸がほどほどに盛り上がり、同人達のマドンナでもあった。カウンターで飲んでいると、主宰がママにこう紹介した。
「山川さんは我々の会で、一番温厚な方です」
「はあ……」
 ママは返事に困り、曖昧な笑みを浮かべた。何が温厚だ、無能の同義語ではないか。こんな言葉で(くく)られてたまるか。
「俺はそんな性格じゃない。中身はまるで違うよ」
「山川さんはまだ何も書いていないから、よく分からないよ」
「実際は、もっと凶暴だから」
「じゃあ、早く書いてよ」
「ああ、凄いのをね」
 そうは言うものの、すぐにものにならず二回もスルーした。これでは舐められるのも無理はない。それにしても田代はうるさい奴だ。仲間にカラオケをセットしろだの、皆の注文をまとめろだのと、上司のように指示する。しかも新しく女が入ってくるとオス犬が尻尾を振るように近づいて親愛の情を示す。
「嫌ねえ」
 女性の同人が顔をしかめる。が、そういう当人もお手付きだったりする。また別の女が、
「あんな男に身を許すなんて、最低よ」
 非難しながら自分のことを暴露している。田代は山川と同じ四十歳前で、色の浅黒い二枚目風。ただし、にやけているのでせっかくの男振りも半減だ。もっとも女と言えば山川は主宰に負けずに関心があって道徳や善悪を考えたことがない。二十代のように欲求が強く、さもしい一面すらあった。これは恥ずかしいことなのかどうか友人に話したら、武者小路実篤の『お目出たき人』を勧められた。主人公は儒教道徳にがんじがらめに縛りつけられて、性の発散もままならない。読み終わってから友人に電話をした。
「こんなにストレートに書く作家も珍しいね」
「二十代は誰だって、欲望に衝き動かされているよ」
「俺は妻子にある中年だけどな」
「年齢に関係ない。皆は秘めているだけだ」
 (なだ)められた。この作品は数頁に渡って所々に恋や性への飢餓の言葉が挿入されている。異様であり、また笑いを誘う。
《誠に自分は女に餓えている》
《残念ながら美しい女、若い女に餓えている(略)女と話したことすらない自分は女に餓えている》
《自分は女に飢えているのだ》
《女に餓えている自分はここに対象を得た》
《自分はこの餓えを鶴が十二分に癒してくれるのを信じて疑わない》
《しかし自分は女に餓えている》
《女に餓えて女の力を知り》
 セックスに遠慮のない現代でもこれほど露骨ではない。それが却って新鮮だった。山川の入会の目的は創作だけではなく、異性と交流することだった。望みがかなえられたらどんなに楽しいだろうと胸を(ふく)らませている。
「あなたの作品を早く読ませてください」
 という美人もいる。
「待っててください。近いうちに載せますから」
 そう答えるのだが、お預けになったままである。今の状況は注目されないばかりか、男共からも軽く扱われている。
「あんたは文学は分かるが、小説を書かないから楽な相手だ」
 などという(やから)がいる。まわりの捉え方に歯がゆい思いをするばかりだった。そういう会の空気を読んでいるのか、田代は特に山川に尊大になっているのかもしれない。
 入会して何度目かの会報が届いた。十二月十日に今年最後の例会が開かれる。プリントの余白に手書きの一行があった。
《よい批評をお願いします》という文言だ。
「なんだい、これは」
 褒めてくれと言っているようなものである。いや、そのものずばりだ。図々しいにもほどがある。主宰の田代は山川の雰囲気を見込んでのことだろう。彼は合評会ではあえて穏やかな発言を心がけている。博学や鋭さや頭のよさを誇示しがちになるのを極力避け、それは抵抗でもあった。田代は表面だけを見て誤解しているのだ。次回は田代の詩三編が俎上に載せられる。どうみても出来のいい作品ではなく、本人も自信がないにちがいない。だからといって、こんなことをわざわざ書いてくるのはどうかしている。人を支配したがる主宰に屈伏するつもりはなかった。
 半月後、例会に出かけた。いつもの年金会館とちがって、喫茶店が会合の場所である。師走というのに風が生暖かくて寒くないのが物足りないくらいだった。家を出るとき、妻がプランターにヒマワリが咲いたと教えてくれた。他所からきたシマリスが種を埋めていったらしい。細くてヒョロヒョロしているものの、夏の花が咲くのは珍しい。
 出席者は七、八人、時間通りに始まり、主宰が気合いの入らない挨拶をした。田代の作品から始まり、指名された一人が否定的な意見を述べた。
「参考になりました」田代が余裕ありげに礼を述べる。「次に山川さん、どうですか」
「その前にお聞きしたい。お報せによい批評をお願いしますとあったけど、それ、どういう意味なの」
「別に他意はないですよ」
「でも意味深だね」
「盛り上げてほしいと言いたかっただけで」
「褒めてくれということじゃないのかい」
「アハハハ……」と誰かが笑った。
「いちいち書いてくるのが問題だな」
「そう向きにならないでよ。どなたか意見はないですか」
 彼は山川の批評など聞こうともしなかった。言うほどのことはないので異議は挟まなかった。最初の発言だけで十分に効果があった。一人が任意に感想を述べたが取るに足りないものだった。
「他には?」
「特にないね」
 あとは白けたようになった。
「沈黙は最大の侮辱的な酷評である……とフランスの批評家が言っているけど、それに近いね」
「いい言葉を知っているね」
「さすがに主宰。己を心得ている」
「田代さんは謙虚なのよ」
「そう、奥ゆかしいんだわ」
 何人かが冷やかした。それから小説、エッセー、紀行文などを無難にこなした。可もなし不可もない作品に対して、それにふさわしい凡庸な反応しかなかった。
「今回は小説も詩も低調だったね。もっと本をたくさん読んで吸収したほうがいいね。といって、プロの若手作家も一部のニーズにしか答えていないけどね」
 ベテランの井戸木が速射胞のような早口でまくしたてた。
「いつまでも純文学的な視点じゃ駄目なんだ」
「ましな本も見当たらないね」
「山川さんは、最近いい本を読みましたか」
「この間、サドを読んだけど、面白かった。今は文明も文化も袋小路に入り込んでいて、行き詰まっているから、逆に非文学と見られがちなサドが今日的な意味を感じさせるな。いってみれば愚行文学の大家として評価できます」
山川は力説した。
「ほう、ほう、愚行文学ねえ。そういう命名の仕方はあまり聞かないね」
「しかし何だね。山川さんは変わったのにシンパシーを感じるんだね」
 読んだこともない同人二人が首を傾げる。
「俺はサドに関心を持っているよ」
 他ならぬ田代が賛意を示した。ショルダーバッグから文庫本を取り出して、ホラと示した。それは澁澤龍彦の『サドの生涯』だった。
「我がグループにも案外ファンがいるもんだ」
「山川さんに聞くけど、どういうところがいいのかね」
「一口に言えないから、例をあげるよ。六十歳の老人を性的に蘇らせるために何人かの美女が至れり尽くせりの奉仕をするんだけど、それがユニークでね、爺ィの顔に平手打ちを食らわせ、唾を吐きかけ、鼻先に放屁し、挙句は口の中に脱糞するんだ。現代人はこういう黒いユーモアを欲しているんじゃないかね」
「そう、その通り。今の人はふやけているからな」
「スカトロジーって、面白いのね」女性同人が感心の面持ち。
「だけど、全体的に小説的なリアリティーがないね。空虚な話が多いもん」と私小説を書いている年配者。
「それは間違っていない。だけど、全否定はできないよ。現代でも通用する部分はある。多くを求めても始まらない。こんな窒息しそうな時代だから読者は一時的にもアナーキーな解放感を味わいたいんだ。異質なものをドカーンと注入しないと衰弱していくばかりだからな」と山川はやや性急な口調で述べた。
「だけど、いま一つ読む気がしないな」
「萎縮しているときに読むといいね。大きな気持ちになれる」
「あ、そっか」
「山川さんは、ああ言うものを書こうとしているのかね」
「書くものは違うさ。ただ愚行という点で共通している」
「山川さん、これを読みなよ」
 田代が文庫本を投げて寄越した。それはさっきのサド伝である。
「今は読みたくないよ」
「いいから、持っていきな」
「自分の意志を押しつけないでよ。他の本を読んでいるんだから」
「これはお奨めだ。俺が言うんだから、間違いない」
「いいと言っているんだ」
「遠慮しなさんな」
「強引だなあ」
 借りるだけ借りておいて、適当なときに返せばいい。彼はこういう押し付けがましいやり方が嫌いだった。たとえ好意的でも許せなかった。
 サドの本はバッグの底に沈めたまま一度も手に取らなかった。強制されて読書欲が湧くものではない。

 山川の勤め先は丸の内にある大手の法律事務所である。職員は百三十人ほど。彼は田端の自宅から毎日通っていた。最近、いいことは何一つない。いつだったか、帰りのプラットホームでよくいく飲み屋の女に声をかけられた。
「今夜、飲みに来たら、私を介抱してくれない」
 珍しく誘われた。にもかかわらず煮えきらない返事をして、うやむやになった。それを後で悔やんだ。男らしく対応して受け入れるべきはなかったか。
 その日は土曜日で仕事というほどの量はない。ワンフロアのオフィスに職員が三、四人しかいなかった。彼は資料室で一人仕事だから同僚はいない。三十分ほどで書類を分類して、自分の作品に手を入れた。彼は二十代の頃、キャバクラのバーテンダーをしていた。そこで小説家志望のホステスと出会い、それを題材に書いている。当時は本を読むくらいで一行も書けなかった。しかし実績がないくせに将来は作家になれると確信していた。たとえ虚妄だろうと信じなければ生きていけなかった。彼女とて同じだった。
「私はベストセラーを当てて、うんとお金を儲けたいわ」
「ぼくは金じゃない、社会的に認められたいんだ」
「狙いは違うけど、成功したいわね」
「ああ、もちろんだ」
 お互いに誓い合った。だが生活に翻弄されて、ワープロのキーを叩く余裕はなく、いたずらに十二年が過ぎた。三十半ばを過ぎてやっと同人雑誌に所属したばかりである。
 締切りは半月後に迫っている。目下、追い込みをかけており、推敲に推敲を重ねている。何とか完成させなければと自分に言い聞かせている。原稿を見ていたらスマホに電話がかかった。田代だった。
「お貸しした本が必要になってね、今日中に返してほしいんだ」
「今日中だって。急に何だよ」
「他の雑誌にサドを書くことになったんで、参考にしたいんだ。俺、大阪に主張中だから、悪いけど、自宅のメールボックスに放り込んでおいてくれないかね」
「俺だって、忙しいんだ」
「そこを頼むよ。焦っているんだ」
「俺が貸してくれと頼んだわけじゃない、自分で取りに来な」
「あす早朝に帰宅して、すぐに使うからさ。無理を承知している。埋合せをするからお願いだ」
 珍しく哀れそうな声を立てた。
「いい加減にしてくれよ」
 そう言いながら山川は妥協した。会社は午前中までで家に帰るだけだ。本はバッグに入れてある。田代の住まいは椎名町にあり、いつか会合の帰りに立ち寄ったことがある。あいつの支配者的な態度は許せないが、切羽詰まっていたから大目に見てもいいと、山川は自分を納得させた。
 わりと駅に近いところにある十一階建てのマンションである。オートロックの操作をして家族に用件を伝えた。
「はい。聞いております」と顔を知っている細君の声。
「郵便受けに入れておきます」
「どうぞ、上がってきてください。お茶を差し上げますから」
 躊躇したが、家族に渡しておいたほうが安心である。亭主の留守中にお茶をご馳走になるくらいは許されるだろう。
「さあ、どうぞ」
 ダイニング・キッチンに通された。三十代後半の田代夫人は、いくらか所帯じみているが、それが馴染みやすくて魅力的だと思ったことがある。彼女は恐縮しながらドリップ・バッグを取り出した。その間、緊張気味だったが、やがてお茶をご馳走になっているうちに気分はほぐれてきた。半分開いている襖越しに書斎が見えた。
「山川くんはなかなかの読者家ですね。映画も好きなようだし」
「ええ、DVDをよく観ています」
「彼はどんな映画が好きですか」
「洋画が多いですよ。ご覧になってください」
 見せてもらいますと隣室に移動した。本の背文字を見てから、一角を占めている映画のケースの前に立った 
「アメリカ映画が多いなあ」
 呟いていたら奥さんが化粧を直して近くに来た。
「私も以前はよく主人と一緒に観ました」
 話していると彼女の息が顔にかかり、わずかに酒の臭いがした。軽くコップ酒でも飲んでいたのかもしれない。山川夫妻がセックスレス状態になっていることを人づてに聞いた。それから彼の書いている映画のエッセーを思い出した。刑務所に入り立ての主人公が所長室のデスクに座っている女秘書に、
「きみは立ってセックスをしたことがあるのか」
 まじめな顔で尋ねる。それだけならどうということはないが、通り過ぎてから女がニヤッと笑う。それがとてもエロチックだった。この卑猥な場面がいいと彼は書いている。山川も同感だった。
「刑務所のエピソードが面白かったです」
 山川は何気なく言う。
「私も読みました」
「ああいうのをピックアップするのは彼らしいですね」
「でも、下品ねえ」
「あれくらいは何でもないです」
「主人は変なのが好きなの」
 話をさらに引っ張ろうとしたら着信音が鳴った。親しい友達のようである。
「あら、近くにいるの」
「……」
「大丈夫、大丈夫。夫もいないし」
 彼は立ち上がり、目礼して帰ることにした。建物を出て、外を歩きながら田代は罪な男だ、寝るだけのために手当り次第に女を(あさ)っている。微燻を帯びた細君は空閨を囲っているかも――これは女がもっともいやがる男の妄想だ。歩きながら彼はすぐに打ち消した。だがその一方で奥さんを誘惑して、身勝手な浮気男を懲らしめてやってもいいとも考えた。
 一月の締切りにどうにか間に合い、作品をメールで送信することができた。待望の処女小説である。同人達はどう評価するのか楽しみだった。もっとも自信があるわけではない。寛いだ気分になってコーヒーを飲んだ。九階の窓から外を眺めると、よく晴れて陽が差している。
「やれやれ……」
 見ているうちに窓の下の一軒の家が目に止まった。これ以上小さな家はない。平屋建てで二間くらいしかなく、庭に物干し竿が三段ほどあって、満艦飾の干し物が風に(なび)いている。ここだけが活気があって、生き生きしている。住民の一人から亭主は競輪の選手をしていたが、志半ばで引退したと聞いている。酒浸りになり、よくリヤカーで運ばれてきた。男は先年亡くなった。主婦は遠めに見た限りでは若く見えるが、実際はいくつくらいか分からない。山川は洗濯物だけが人間臭くて好感を持った。彼だって書くほうで芽が出ず、そのうちアルコール漬けになるかもしれない。挫折した人間の行く末ほど恐ろしいものはない。
 三月には『火炎』の24号に掲載された。読み返すと不満だらけで納得できない。同人からメールが二、三届いた。
「始めてにしてはいい仕上がりです。でも真のテーマは何ですか。また作品の生命である時代をもっと出してください」
「主人公の幼児性に作品の未来を感じました」
「皮肉が効いています」
 しばらくして女名の手紙が届いた。封筒の送り主を見て、ビクリとした。平野美佐子を知らないはずはない。姓は異なるが十年以上前に付き合った女である。
 
 インターネットで検索していたら、《火炎》が目に止まり、ホームページに開示されているあなたの作品『今夜だけ愛して』を読みました。また最新号も送っていただきました。私のことをあんな風に滑稽化するなんて、大した才能ね。自分が素材にされるとは考えてもみませんでした。
 子供も大きくなり、余裕が出てきたので、これからは創作に挑戦するつもりです。もちろん山川さんのことは遠慮なく書きます。ただし会で顔を合わせたら、二人が旧知の間柄であることは内緒にしてください。

 手紙を読みながら戦慄した。同時に会で美佐子がどんな言動をとるか気になった。スキャンダルにならなければいい。夫がいるといっても多情な女である。それに何よりも彼女をモチーフにした作品に気分を害しているだろう。大方事実に基づいて書いた。主人公の写真家志望は当時親しかった友人から借りた。進行上、『今夜だけ愛して』を公開しなければならない。(一部カットしている)

 夜遅く、玄関のドアホンが鳴った。時計を見ると午後十一時を回っていた。扉を開けると、美奈子がバツの悪そうな顔をして立っている。こういう場面を予測できないこともないのでさほど驚かなかった。
「なんだ、美奈子か、入りな」
 家に上げた。彼女は座布団に座ると、部屋の中を懐かしげに見回した。以前と同じように本棚や机や、カメラの器材があり、壁には最近写した写真が張りつけてある。
「どうしたんだい、突然」
「私、後藤さんと別れたの」
 パジャマ姿の幸治は彼女の前に座った。どうせそんなことだろう。けれども、恋人を振っておいていきなり訪ねてくるなんて、美奈子らしい。
「あなたのくれた何通もの手紙を読んでいたら、会いたくなったの。その一通がバッグにあるわ」
「へえ、でも恥ずかしいな」
「ステキな文章なの」
 どれ、どれと急かしたら美奈子は取り出して見せてくれた。

 美奈子さんほど蠱惑的な女性はいません。あなたの眼差しで見つめられると、射竦められてしまいます。先日はお母さんにお目にかかり、心に響くものがありました。美奈子さんは大事に大事に育てられて、きっと甘えん坊で我儘なお子さんだったのでしょう。今もそんな一面があって、それがとても魅力的です。その一方、しっかりしたころがあって、特に金銭感覚には感心しました。ぼくはこれといった取り柄はありません。でも写真のスキルには自信を持っています。近い将来は大きく羽ばたくつもりです。いつか、ポートレートを撮らせてください。気位が高くて、感受性の豊かな女性はまたとない素材です。どうかぼくの気持ちをお汲み取り下さい。
            女神に魂を奪われた男より

「俺、よっぽどきみに惚れていたんだな」
「でも、あんな別れ方をして怒っているでしょう」
「忘れな。今夜は泊まっていけばいい」
「ああ、よかった。幸治さんは人がいいのね」
「それは、どうかな」
「私は今もあなたが好きよ」
 美奈子は目に涙をにじませた。寝る前に彼女の持参したケーキを食べ、ノンシュガーの紅茶を飲んだ。幸治は美奈子の視線を追いながら、
「あの写真はカメラ雑誌に入選したんだ」
 指さした。内緒だが、モデルは付き合っている片山朋美である。副都心のビルの側面に女を写した大きなパネルが掲げられ、似たような格好の朋美を見下ろしている。その対比にユーモアがある。学生の彼女は夏休みで帰省しており、東京駅に見送りにいった際、浮気はご法度よと腕をつねった。むろんそんなつもりはない。
「個性的な奇麗な方ね」
「知り合いなんだ」
「私も撮ってくれはずだったわね」
「美奈子の心変わりがいけないんだ」
 時間も過ぎたので、二人とも歯を磨いて、別々の布団に横たわった。
「美奈子は小説を書いているの」
「本格的じゃないわ」
「将来は何を書きたいの」
「一番関心があるのは不倫ね」
「なんだ、平凡だな」
「でも私の物語なの。不倫を通して、社会の破綻を表現するのが狙いなの」
「どうにか悪の範疇だね」
「私、日常性が退屈で仕方がないの。いつも非日常を期待しているわ。東京が大洪水になったらワクワクしちゃう。恋愛をからませて展開したいな」
「ぼくは集団や組織を写したい」
「どんな風に」
「どんな個人でも世間や組織と無関係じゃないってこと」
 幸治は眠気を覚えてきたので、サークラインを消した。朋美はどうしているのだろうか。小柄な美奈子よりは背が高く、ボリュームもあるから抱き心地がいい。早く帰ってこないか、すぐにでも情欲のままに乱れたかった。
「ねえ、眠れるまで私の手を握っていて」
「そんなことをしたら、俺が眠れなくなる」
「ずいぶん紳士的なのね。前は野生動物のように襲ってきたくせに。好きなようにしていいのよ」
「けじめと抑制が大事だ」
「しゃらくせえ」
「我慢しなよ」
「失礼な言い方ね」
 美奈子は暗闇の中でため息や吐息をついて、落ち着かなかった。暑苦しいのか、毛布から足をはみ出させている。だが誘惑に負けることはなかった。そして岩手に帰っている朋美を思い浮かべた。(ぼくはきみを裏切るようなことはないから、安心して。でも体に火のついた女と寝ているのは楽しいよ。彼女はぼくを捨てた女だからね)
 美奈子とは三ヵ月間続いた。そのあいだは熱病のように愛し合った。しかし段々と一つ下の幸治が物足りなくなったようだ。昼は写真専門学校に通う彼は親の庇護下にあり、身に付いたものは何一つない。実用的な価値観などまるでなかった。
 ある日、店に後藤という客が現れた。美奈子の体に激震が走った。こういう場合、彼女には理性的な抑制が働くようなことはなかった。後藤は大手の会社に勤めるサラリーマンで、甘いマスクをしている。それでいて大人の雰囲気があるというのだ。四歳年上だから年齢的にも釣り合いがとれている。いいことづくめだ。
「ケッ、キザな奴め!」
 幸治は舌打ちをした。後藤は最初の日こそ友達と来たが、二度目から一人で来るようになった。カウンターが好きで、いつも日本酒を飲んだ。
「お母さんはお勤めしているんだってね」
「そうなの。母は……」美奈子は遠慮気味に話す。「学校の職員なの」
「ほう、立派ですね」
「後藤さんに紹介したいの。会ってくださる」
「そりゃ喜んで」
「嬉しいわ」
 父がいないので母は小学校の用務主事をしながら子育てをした。二人姉妹の母子家庭で母は苦労したようである。彼女にとって母は自慢の人で、親しい人にはよく話した。幸治も聞かされた。後藤に対してはひときわ熱がこもっていた。こうなったら幸治はいないも同然である。嫉妬というよりも蔑ろにされたことが悔しかった。やっと喫茶店に誘われて説得された。
「幸治さんのことは気になるわ。でも私の気持ち、分かって。今の状況から抜け出すには、この機会を見逃したくないのよ」
「千載一遇のチャンスってわけか」
「運命の人なの」
「でも、あの男はただの遊び人に過ぎない」
「勝手なことを言わないで」
「きみは一時的に幻惑されているだけで、いつか捨てられるよ」
「捨てられたのは誰よ」
 美奈子は後藤のことしか思っていなくて、聞く耳をもたなかった。完全燃焼しないうちに別れるのは不本意だった。悶々として沈み込んでいるとき、友達にコンパに誘われ、そこで片山朋美と知り合った。ふさぎの気持ちは一遍に吹き飛んだ。彼女は二歳年下で、私大の美術科で学んでいる。母を尊敬している点では美奈子とは共通している。幸治は近々写真雑誌を発行している出版社に応募するつもりだと話した。
「幸治さんにぴったりね。採用されるといいわね」
「自分もふさわしいと思っている」
 そんなやりとりをしたばかりだった。今は美奈子のことは頭の片隅にもなかった。
 何事もなく一夜が明けた。十時を過ぎていて長々と眠ったものである。美奈子はまだ惰眠をむさぼっている。起き上がって外を見ると、空は重苦しく曇っていて、一雨きそうだ。それからパソコンを開いてチェックした。
「あッ、朋美から来ている」
 嬉しそうに口にしてから目を通した。

 親愛なる幸治様
 あなたがお付き合いなさったお店の女性のこと、とても興味深く拝見しました。メールによると、その方は情緒不安定の傾向があり、いつも性に飢えていて、いい男に出会うと、理性を失って、衝動的に突っ走ってしまうとかで、怖いです。とかく実態よりも虚飾の部分が多いというのは、私も女の端くれとして、思わず我が身を振り返りました。お金をもっていない男なんて、男じゃないというのは言い過ぎです。世の中は経済ばかりに重きをおいているから、せめてそのような流れに抗いたいものです。でも母親に溺愛されて、お嬢さま育ちと錯覚しているのは、それはそれでいいじゃないですか。決してお馬鹿などと決めつけるべきではないです。それにじっと見つめる官能的な眼差しは、よく見ると近眼の小さな目でしかないというのは感心しません。女の容姿のことを悪く言うのは好きじゃないの。でもどういう女性であれ、会社員の方と結婚なさって、幸せになられることを祈っています。

 その他、いくつかのことが書かれてある。読み終わると美奈子に背中を向けたまま、パソコンを閉じた。二、三分してから、
「ねえ、タバコないの」
 美奈子が目を覚ました。
「禁煙したんじゃないのかい。ここにはないよ」
「私、久しぶりに吸いたいの。お願い、買ってきて」
「俺、美奈子の小間使いじゃないぞ」
「女が外に出るには、お化粧しなきゃいけないのよ。いいじゃないの」
「いやだね」
「そう言わずに頼まれて」
「困った人だなあ」
 朋美からメールがきて、気分は最高にいい。美奈子もタバコを吸えば落ち着くだろう。ま、いいかと階下に降りて近くの自販機へ買いにいった。十分して戻ってくるとメビウスを一箱渡してやった。美奈子はさっそく一本抜き取って火をつけた。たちまち煙がたちこめた。幸治は吸わなくてなって数ヵ月が経っている。彼女はからかうように幸治の顔に吹きかけた。
「やめてくれよ」
「あんた、凄く楽しそうね。ニタニタして何かあったの」
「俺、そんな表情をしているかい」
「とろけそうよ、恋人ができたのね」
「そんなの、いないよ」
「悪いけど、私、メールを見ちゃった」
「えッ、それはルール違反だぞ」
「いい気なものね」
「卑怯じゃないか」
「私のことをボロクソに書いたわね」
 やり合っているうちに盗み読みしたことより、書いてある中身のほうが悪事ということになった。
「私はあんたの手紙にひかれて、ここにきたのよ。それなのにあのメールは何なのよ」
 美奈子は怒りながら化粧をした。ファンデーションを塗ると、つるつるした顔になり、性悪女に見えた。
「こんな子がいるんだったら、昨夜は何故追い返さなかったの。私はあんたが言うように飢えた女じゃないわ。会社員と結婚して幸せになれだと。女子大生だか何だか知らないけど、この子、汗水垂らして、働いたことあるの」 
 美奈子はことさら笑顔を浮かべた。笑わないと惨めになってしまうからだ。それでも表情が歪みそうになった。
「それに何さ。あれでも小説家志望です、才能があるとは思えないだって。私の執念が分からないのか」
 彼女の怒りはエスカレートするばかりだった。天候も悪く、今にも雨が落ちてきそうな気配だ。化粧をすませ、ハンドバッグを手にすると、
「ここに二度と来る必要がないと、分かっただけでもよかったわ」
「俺もまたおいでと、言えないのが残念だ」
「いいの、いいの、こんな所には間違っても来ないから」
「もっと、ゆっくりしていけばいいのに」
「うるさい、今更、何を言うんだい」
 美奈子は振り向いて睨みつけると部屋を出ていった。降りだした雨は次第に強くなっていった。この調子だと大雨になりそうだ。せっかくの化粧も台無しだろう。

 あれから長い年月が経った。山川雄太は結婚して一児を儲けた。田端に中古のマンションも買った。会合で美佐子に顔を合わせたとき、誰もいない所で、
「オッサンになったわね」とおかしそうな顔つきをした。
「そういうきみも中年太りになった」
「年を重ねれば誰だって同じよ」
「俺より一つ上だから三十八か」
「年のことは言いっこなしよ」
「でも、前よりもチャーミングになったな」
 太っているといってもそれほどではないし、むしろ成熟した大人を感じさせた。山川は彼女のモチモチした肌を想像し、性的なものを感じた。
「我々は再燃させてもいいぞ」
「それは駄目。私には夫がいるし、それに書くことに集中したいの」
「うまくやれば見つかりはしないさ」
「他の女と付き合ったら」
「きみもそうするのか」
「何をしようと私の自由よ」
「モラルで縛るつもりはない」
 話しながら田代健一のことを意識した。美佐子はとっくに田代の射程距離に入っていることだろう。あの飢えた狼が何も思わないはずはない。そう考えると今にも発展しそうな気がして、嫉妬心が湧いてきた。切れた間柄にもかかわらず放っておけなかった。口先とは裏腹に真逆な気持ちになっている。
「忠告しておくけど、主催は女たらしだから、要注意だ」
「田代さんって、そんな人なの」
「女となら誰でもだ」
「安易に引っかりはしないわ」
「旦那さんは何をしている人なの」
「普通のサラリーマン」
 夫は体育大学を出ていて、柔道の有段者だとかで、そこそこの会社に勤め、収入もミドルクラスらしい。美佐子の着ているものはデザイナーブランドということが分かる。だが夫に満足しているようには思えない。

 会合は毎月開いていて、同人達は出席を楽しみにしていた。作品評だけでなくテーマを決めて論じた。主催の田代は予想した通り、美佐子に馴れ馴れしく近づき、しきりに文学の話をもちかけた。その日の二次会はいつものスナックに立ち寄った。田代と美佐子は同じテーブル席に座り、山川は端にいた。二人は泡盛サワーで乾杯して見初め合った男女のように初々しげだった。
「小説は書いていますか」と田代が美佐子に微笑む。
「試行錯誤しながらヨチヨチ歩きなの」
「最初は誰でもそうです」
 井戸木と話していた山川は二人を気にせずにいられなかった。美佐子がわざと見せつけているようにも思えた。山川の話相手は一方的に自分の論をまくし立て、口を挟ませることはないので、ただ頷くだけだった。よく喋る動物みたいだった。同人雑誌にはこういう手合いは珍しくない。いつだって上の空で聞いている。
「田代さんって、破綻とか破滅する詩をお書きになるのね」
「そういうのにひかれます。ぼくが一番好きなのはムンクの『吸血鬼』のヒントになった詩です。ポーランドの詩人プシビシェフスキという人の書いたものですが」と田代はノートを取り出して朗読した。――弱々しくつっぷした男/首筋にくわえる吸血鬼の顔/深い奈落に小石のように、男はなすすべもなく落ちて行く/ところが、それをむしろ喜んでいるのだ/吸血鬼からも痛みからも逃れられない/女はいつまで立ち去らない/舌なめずりし毒牙をたて、永遠にやめない――
「男を破滅に導く女なんです。こういうのを書きたいなあ」
「まあ、凄いわね」
「インパクトがあるでしょう」
「いつも何を読んでいらっしゃるの」
「目下は中原中也に夢中です。そうだ、あなたにも読んでほしい」
 田代は中原中也特集の雑誌を得意そうに差し出した。彼はいつもバッグにもっていて時々電車の中で開いている。女に本を貸すというのは古典的な手口で、下心が露骨に出ていて、山川はイヤな気がした。もっとも彼は人に本を貸すのが好きなようだ。
「無理して読まなくてもいいですよ。ただ、こういう世界もあるということを知ってほしいだけで」
「私は中也は初めてなの」
「ぼくは惚れ込んじゃいました」
「田代さんの詩は、訴えてくるものがあるわ」
 あんな詩のどこがいいのか、癖のある書き方をするので読むだけで厄介である。難解というのではなく気取りであり、文学的な粉飾に過ぎない。
「平野さんまだ初心者だね」
 ベテランの井戸木が悪戯っぽく笑った。田代の詩を誉めたからである。
「主宰はもっと言葉を普遍化したほうがいいわ」
「自己流を越えるべきだね」
「賛成」
 何人かが口々に言う。
「いや、ぼくは越えている。あんたらが分からないだけだ」
「私は本当の自分を書きたいわ」と美佐子がりきんだ口調。
「その本当のことは現実にはないことだ」と山川。
「たとえば?」美佐子が尋ねる。
「作家が書くものは、現実にあったことではない。あり得ないことを書くんだ。何を考えてもいい、殺人でも暴力でも。それは自由だ。でも実行は許されない。だから表現がある」
「個人的な可能性が時代とつながっていればいいのよ」
「それが難しいんだ。簡単にはいかない」
「私は反道徳的な恋愛を書きたいな」
 美佐子は従来の考え方を口にした。
「ああ、一杯書いてよ」と井戸木は鷹揚に見守る。
「楽しみにしている」と主宰がニコリ。「山川さんはこの間、初めての作品を読ませてくれたけど、好評だったね」
「そうなの」と美佐子は知らない振りをした。
「別れた男のアパートを訪ねてセックスをしたがる女の話だけど、ブラックな感じが出ていてよかった」
「私、そんなの関心ないわ」と美佐子は渋面になった。「志が低くない?もっとテーマを社会化すべきよ」
「小説は読んで字の如く、小さな説だから、とりあえずあれでいいんだ。大きなテーマで書くのはこれからだ」
 山川は反論した。美佐子はどうでもいいと言わぬばかりに田代に顔を向けた。
「平野さんはいつごろ発表するの」と田代が聞いた
「できれば次号に載せたいわね。未熟だけど」
「ぼくは主宰という立場上、小説を沢山読んでいる。研究もしています。分からないことがあったら、聞いてよ」
「じゃあ、お電話をしてもいいかしら」
「ああ、どうぞ、どうぞ」
 二人はおおぴっらにスマホの番号を交換し合っている。山川は皆の前でよくやるなあと苛々した。そして美佐子が得がたい女に見えてきた。あの頃は何かにつけて青臭くて板についていなかった。今は堂に入り、果汁のしたたるような女になった。それが主宰の餌食になりかけている。山川の中で理不尽な怒りが沸き起こり、やめろと声を発したくなった。妻がいる男と夫のいる女ではないか。もともと嫌いな奴だが顔つきも話し方もいっそう鼻についてきた。山川にはストーカーめいた気持ちがないではないから、後をつけたくなった。だが実行はしないだろう。
 彼らの関係は同人達の知らないところで進展しているようだった。
 七月に入って、子供たちの夏休みに入った頃、山川夫人から電話がかかってきた。丁度マンションの夏祭りの最中で、家族は出払っていた。スピーカーから東京音頭や押せ押せ音頭が立て続けに聞こえていた。
「山川さんは平野という女をご存じですか」
「よく知っています。同人の一人です」
「夫の様子がおかしいから、こっそりとスマホを見たの。彼女のメールがびっしり入っていたわ」
「ほう。何か書いてありましたか」
「その女、凄い情熱的なの。しかもセックスのことばかりなんだから」
「やっぱり、愛し合っているわけですね」
 十分にあり得る話とはいえ、山川はまた嫉妬心を覚えた。田代は妻を放っておいて新たな女を(ほしいまま)にしているのだ。
「奥さんの悔しい気持ちは分かります」
「あんな夫ですが、自分の元に取り戻したいんです。何とかして奪い返しますよ」
「奥さん、彼は病気みたいなものです」
「そんなこと言っていられないわ」
「絶対に取り戻したほうがいいですよ」
 山川は自分のためにも煽った。三十分ほど話した。何の解決にもならないけれど、気が紛れたようだ。外では盆踊りが終わり、マイクで花火が始まるのを告げていた。人々が別の広場に移動すると、やがて仕掛け花火に群衆はどよめき、歓声を上げた。田代と美佐子との関係はいくところまでいって、陶酔の最中にあるにちがいない。

 一ヵ月後、年金会館の近くの公園を通りかかったら、猫がスズメをつかまえる瞬間を目撃した。滅多に見られない光景である。作品に使えるかもしれないなとメモしておいた。会館の玄関フロアで美佐子と行き合った。彼女は落ち着かない様子をしていた。
「田代さん、遅いわね。どうしたのかな」
「彼はよく遅れてくるよ」
「困ったわ。母が具合悪くて、帰らなきゃいけないの。この本を彼に返してほしいの」
 山川は不機嫌そうにオーケーした。
「とにかく、お願い」
 美佐子は急ぎ足で会館を出ていった。三階の会場に行く前に本をめくると田代宛の封書がはさんであった。彼はトイレに入って便座に座り、開封した。
 アイシテイマス。あなたに抱かれているときは世界が開けていくような気がします。でも、とても心配なことがあります。先日もお話をした通り、夫に発覚して家では大トラブルが起きました。夫はあなたを絞め殺してやると怒っています。ただの脅しですが、一言伝えておきます。

 山川は読み終わると、こまかく破って水に流した。それから三階にいくと、十畳の部屋に十二人ほどの人たちが座っていた。時間が来ても主宰が姿を見せないので田代批判になった。
「会の代表だからモラルを守るべきだろう、堅いことを言うようだけど、目に余るものがあるからさ」
「暴君的だから許せないね。女のことだけなら目をつぶってもいいけど」
「私達から見たら、田代さんは存在そのものがセクハラなのよ」
 マチマチな意見が出た。そこへ見知らぬ四十年配の男が入ってきた。がっちりしていて、酒を飲んでいるのか顔が赤い。
「どちら様ですか」と井戸木が聞いた。
「田代という人はいますか」
 男は皆を怖い目で見回した。
「じきに来ます。連絡がありましたから」
 同人の一人が答えた。全員が不気味な雰囲気にたじろいだ。一分もしないうちに田代が現れた。
「ご面会だよ」と井戸木。
「あんたかい。私は平野だ。ご存じだね」
「ええ、まあ。何か」
「何かじゃない。この野郎」
 急に凶悪な様相を呈してきた。田代は慌てたように男を見返し、防御の姿勢を取った。平野は美佐子の夫である。
「よくも人の妻をたぶらかしたな」
「な、何を言うんです」
「しらばッくれるな」
 同人達はとびきりスリリングな場面に直面して動揺している。美佐子の夫は酔っているが、それでいて内側から滲み出るような闘志が感じられた。
「あんたは私が怖くないのか」
 平野は素早く田代の袖と襟をつかんで、柔道家らしい仕種をした。山川はやるなあという表情を浮かべた。
「冷静になりなさい。話せば分かることだから」
「お前は話だけですませるつもりか」
 田代はたちまち畳の上に押し倒され、組み敷かれた。山川は体育大学出の柔道の有段者の動きに感動を覚えた。
「この色キチガイめ」
「い、痛い。乱暴はやめてくれ」
「私をひどい目に遭わせて何を言うか」
「お詫びするから、許してほしい」
「謝罪はいい。こうしてやる!」
 平野は田代の両腕を制し、もう一方の手でズボンを脱がしにかかった。次にパンツを強引に()いだ。ものすごい早業だった。そして股間に手をやると、握りしめるような、引きちぎるようなことをした。
「ギャア!」
 山川は悲鳴を上げた。女達はさっきから視線を他に移していた。山川や他の男達は立ち上がって止めに入った。ズボンも履かせた。
「平野さん、お気持ちは分かります。これ以上は勘弁してやってください」と井戸木が声をかけた。
「私はあなたに共感します」と山川はこっそり口にした。
「有り難うございます」
 彼は怒りを制御しつつ静かに受け応えした。それから、
「二度と妻を誘ったら、殺してやるからな」
 間男を睨つけて立ち去った。田代は顔が青ざめ、ぐったりしている。これほどの屈辱はないだろう。主宰の権威も完全に失墜し、男の面目も丸潰れだった。女達は早々と引き上げ、会は打ち切りになった。田代は仲間の車で夜間の診療所に運ばれた。
 その出来事以来、田代も美佐子も退会した。次期主宰は有力な同人の井戸木が引き継ぐことになった。その後、田代夫妻はどうなったのか聞いていない。美佐子のことも知らない。山川は妻以外の女と寝ることばかり夢見ていた。

仕返しは皆の前で

仕返しは皆の前で

同人雑誌の主宰との対立関係を軸に「過去の女」が登場し、不倫や性の飢えをモチーフにして展開しました。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-25

Copyrighted
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